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201空

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(画像はwikipediaより転載)

 

柴垣博飛長の略歴

 

 1924年12月9日新潟県に生まれる。1942年5月海兵団に入団。8月丙飛12期生として岩国空に入り、飛練28期を経て1943年7月卒業、同年秋201空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月204空に異動、1月22日に戦死する。

 

十分な訓練を受けられずに戦線に投入される搭乗員

 

 柴垣博飛長は、丙飛12期で同期には川戸正治郎上飛曹、市岡又男上飛曹等がいる。太平洋戦争開戦後に採用されたクラスで本当の「戦中派搭乗員」といえる。搭乗員育成はすでに大量育成となっており、戦前のように一人の教員が少数の訓練生を教える方式ではなくなっている。このため十分な訓練を受けられずに戦地に送られることとなり、多くの戦死者を出すこととなる。

 丙飛12期が訓練を修了した1943年秋の航空戦の主戦場はラバウルであったが、すでに日本軍は迎撃戦が主体となっており、勝敗ははっきりしていた。海軍の搭乗員から「搭乗員の墓場」といわれたソロモン・ラバウル航空戦の中でも特に激しい空戦が行われたのがこの時期のラバウル航空戦であった。柴垣飛長を含む丙飛12期の新人搭乗員はこの後期のラバウル航空戦に十分な訓練を受けることなく投入されたのであった。

 このような状況の中でも丙飛12期の若年搭乗員達は奮闘、市岡又男上飛曹や川戸正治郎上飛曹等は二桁に及ぶ撃墜戦果を報告するものもあった。むろん撃墜戦果はほとんどが誤認であり、実際の数は不明であるが、周りを納得させるだけの技量は身に付けていたのであろう。柴垣飛長も11月7日の空戦で初戦果を報告、1944年1月22日の空戦で戦死してしまうが、それまでに13機の撃墜を報告している。

 

柴垣博飛長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

まとめ

 

 後期のラバウル航空戦は特に凄惨であった。休暇は十分に与えられず搭乗員が一人また一人と戦死していく地獄の戦場であった。丙飛12期の隊員達はこのような中でも技量を磨いていった。しかし戦死した者も多く、海軍航空隊の主要部隊がラバウルを後退するまでの数ヶ月間に20名以上の隊員が戦死している。さらに丙飛12期の隊員達の試練は続き、むしろ主戦場がラバウルから中部太平洋に移ったのちに丙飛12期の隊員のほとんどは戦死していく。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

谷口正夫少尉の略歴

 

 1919年1月7日福岡県に生まれ、1936年海軍に入団。1940年7月51期操練を卒業、1941年4月赤城乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。ハワイ、ダーウィン、コロンボ攻撃、ミッドウェー海戦後、翔鶴乗組に転じ、第2次ソロモン、南太平洋両海戦に参加した。11月大村空に異動、1943年7月新編の331空に異動、12月5日のカルカッタ攻撃に参加。12月201空に配属されてラバウルに進出。1944年1月末、トラック島に後退する。2月17日米艦載機のトラック空襲撃激戦、3月戦闘305飛行隊に異動、3月30日のペリリュー迎撃戦に参加、比島に転進、10月23日マニラ上空の空戦で重傷を負って本土へ送還されて終戦を迎えた。

 

1航艦を渡り歩いた男

 

 谷口正夫少尉は、操練51期出身で、同期の戦闘機専修者はわずか6名、翌期の52期に至っては戦闘機専修者ゼロと戦闘機無用論の影響なのかそれとも教育を50期と同時に開始したことが関係しているのか、戦闘機専修者が極端に少なくなっている。操練51期は訓練開始早々に1名を事故死で失い5名が卒業している。内2名が終戦まで生き残った。

 谷口少尉は実用機課程修了し、1941年4月には空母赤城乗組となった。この母艦搭乗員とは優秀者を中心に選抜されるものなので谷口少尉の操縦は一定以上に評価されていたのだろう。1941年12月空母赤城戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた谷口少尉は、真珠湾攻撃、ポートダーウィン攻撃、コロンボ攻撃に参加、1942年4月9日のトリンコマリ攻撃では初撃墜を報告している。1942年6月のミッドウェー海戦では機動部隊の上空直掩に従事したが母艦赤城が撃沈されたため駆逐艦に救助されて本土に帰還している。

 1942年7月には空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳により新しく編成された第1航空戦隊に翔鶴戦闘機隊員として配属、8月の第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。11月には大村空教員として内地に帰還、しばらく教員配置に就くが、1943年7月には新たに編成された331空に配属された。この331空は艦戦と艦攻の混成部隊で戦闘機隊の隊長は台南空で有名を馳せた新郷英城少佐で、隊員には操練17期のベテラン赤松貞明中尉、岡野博飛曹長、中谷芳市飛曹長等が在籍している。

 この331空隊員として谷口少尉は8月にはスマトラ島北部のサバン島に進出、12月には海軍中攻隊、陸軍航空隊と共同でインドのカルカッタを空襲した。その後、谷口少尉はラバウルに展開する201空に異動、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに進出する。この時のラバウル航空戦はすでに末期の様相を呈しており、劣勢であった中、谷口少尉は連日の航空戦に健闘した。

 1944年1月、1ヶ月あまりの空戦の後、201空はサイパン島に後退、機材は全てラバウルに残してきたため内地で零戦23機を受領して2月11日には零戦がサイパンに到着した。谷口飛曹長は内8機を指揮、ラバウルへ先発するためにトラック島に進出したが、2月17日のトラック島空襲に遭遇、谷口飛曹長も果敢に迎撃戦を戦ったものの零戦全機を失った。

 3月4日の改編により201空戦闘305飛行隊に編成替えとなった谷口飛曹長を含む戦闘305飛行隊は、その後、グアム島を経てペリリュー島に移動したものの3月30日に米機動部隊の攻撃を受ける。谷口飛曹長も激撃したものの衆寡敵せず未帰還機9機、大破9機不時着2機と201空20機の全機が使用不能となってしまった。このため201空は再建のためダバオに後退した。

 5月中旬、内地から新たに春田虎二郎大尉率いる戦闘306飛行隊を迎え2個飛行隊編成となった201空はセブ島を拠点に迎撃戦を展開するが、谷口飛曹長は10月23日マニラ上空の空戦で被弾不時着し、重傷を負ったため本土へ送還されたのち療養中に終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれているが実数は不明である。

 

まとめ

 

 谷口少尉は延長教育修了後、数ヶ月で第1航空戦隊所属の赤城の母艦搭乗員として選抜されている。当時の1航戦は各航戦の中でもトップクラスに熟練者の多い部隊であった。ここに選抜されていることからも谷口少尉の技量の評価が高かったことが窺える。母艦搭乗員を歴任、インド、南方と戦い抜いた谷口少尉は、負傷をしつつも終戦まで戦い抜いた。同期で終戦まで生き残った隊員は他に河野茂少尉のみで2005年に他界している。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

田中民穂飛曹長の経歴

 

 1923年10月3日長崎県に生まれる。1939年6月乙種予科練11期に入隊。1941年9月予科練卒業後11月より23期飛練課程に入る。1942年9月同課程を卒業。1943年6月261空に配属された。1944年2月末サイパン進出、メレヨン島、ハルマヘラ島、ヤップ島、グアム島と転戦する。サイパン島陥落後、メレヨン島、パラオ経由でセブ島に移動、201空に異動、1945年1月内地に帰還、252空、203空と異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加後終戦を迎えた。戦後は全日空の操縦士として活躍した。

 

田中飛曹長と虎部隊

 

 田中民穂飛曹長は、乙飛11期出身。乙飛とは乙種予科練の略である。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略称で14歳以上の10代の少年を搭乗員として育成する目的で1929年に発足した制度で、1937年には新たに甲種予科練が設置されたため、それまでの予科練は乙種予科練と呼ばれるようになった。田中飛曹長はこの乙種の11期で同期の戦闘機専修者は67名。内、55名が戦死している。生存率17%であった。

 乙11期の飛練は21期と23期の二期に分けられており、21期は甲飛6期、丙飛4期と共に1942年7月、23期は丙飛6期と共に9月に飛練を修了している。多くの隊員は、訓練終了後すぐに戦地に送られており、10月には乙11期の2名が南方で戦死している。田中飛曹長はすぐに戦地に送られることなく、1943年6月には新設の261空に配属されている。

 261空は別名「虎」部隊とも称された部隊で第1航空艦隊に所属していた。この第1航空艦隊とは、海上機動戦力である第1機動部隊と基地航空隊の第1航空艦隊という二つの強力な航空部隊を創設、中部太平洋に進出してきた米機動部隊を挟撃するという源田大佐の発案の下に編成された決戦部隊で261空は第1航空艦隊の中核をなす戦闘機部隊であった。

 鹿児島基地に着任した田中飛曹長はそこから猛訓練に突入、1944年2月には東山市郎少尉の分隊の一員としてサイパン島に進出した。3月30日、米機動部隊がパラオに来襲、これを攻撃するため彗星艦爆を装備する523空が出撃、261空も援護として攻撃に参加したが、米機動部隊を発見することはできずペリリュー島に着陸したが、翌日の朝ペリリュー島は米機動部隊艦載機の総攻撃を受ける。

 この総攻撃に対して261空は迎撃戦を展開するが、出撃28機中20機を失うという大損害を受けてしまった。田中飛曹長もこの迎撃戦に参加、これが田中飛曹長の初出撃となった。4月になるとメレヨン島への大型爆撃機の来襲が頻繁となったため261空は交代でメレヨン島防空の任に就いた。このメレヨン島での防空戦で田中飛曹長は撃墜2機を報告している。

 6月6日には指宿大尉指揮の下、ダバオ南方にあるハルマヘラ島に進出、ついでヤップ島、グアム島と転戦する。7月15日までグアム島からサイパン島への艦船攻撃を繰り返した田中飛曹長であったが、グアム島への米軍上陸当日に上陸地点を爆撃後、メレヨン島へ脱出したのちパラオを経てセブ島に到着した。到着後、201空に異動となり(261空は7月10日で解隊している)特攻隊の直掩等に活躍した。

 1945年1月には1年に及ぶ激しい戦地勤務を終え内地に帰還、252空、203空と異動しつつ本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。戦後も旅客機パイロットとして活躍しており、総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 田中飛曹長の出身期である乙11期の多くは訓練後、南東方面に送られ多くが戦死している。1943年までに同期67名中30名が戦死、内20名以上がラバウル方面での戦死である。1944年2月には海軍航空隊はラバウルから後退が、以降、中部太平洋、フィリピンと乙11期の隊員達は戦い続けた。1945年に入ることには生き残った37名中15名が戦死しており、終戦までにさらに10名が戦死した。終戦時まで生き残ったのは田中飛曹長を含めわずか12名で生存率は17%という激しいものであった。

 

 

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志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

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中谷芳市飛曹長の経歴

 

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫、岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤清飛曹長、宮崎勇少尉等がいる。

 

 

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 乙飛5期といえば太平洋戦争で中核となった予科練のクラスだ。中瀬正幸(18機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、角田和男(13機撃墜)等、多くのエースを輩出したクラスだ。その分、消耗も激しかった。乙飛5期戦闘機専修17名中、太平洋戦争を生き抜いたのはわずか4名に過ぎなかった。その内エースとして知られているのが2名、一人は2013年2月14日に亡くなった心優しきエース、角田和男、そしてもう一人が杉尾茂雄だ。

 

杉尾茂雄の経歴

 

 宮崎県に生まれ。1934年6月5期予科練に入隊。1937年8月3日予科練を繰り上げ卒業。杉尾以下43名が霞ヶ浦空に入隊、九三式中練で訓練を受ける。1938年3月飛練課程を終了。その後佐伯空で延長教育を受ける。同年9月16日大村空に転勤する。1939年9月12空に配属。その後、本土に帰還、角田和男『修羅の翼』によると1939年暮れには、教員として百里空に配属されている。1940年2月には12空に配属されていたようである(角田和男『修羅の翼』P84)。

 1941年4月、再度12空配属。10月3空配属で太平洋戦争を迎える。海戦後は3空隊員として航空撃滅戦に参加。さらに1942年4〜8月まで、チモール島より数次のダーウィン攻撃に参加した。9月から11月までラバウルに分遣される。1943年4月内地帰還。同年、海口空に転属。5月神ノ池空配属。9月201空。1945年5月には筑波空に転属して終戦を迎えた。

 年齢は不明であるが、予科練の応募資格は年齢14歳以上20歳未満であるから、最年少で入隊したとして大正9年生まれである。19歳で入隊ということはほとんどなかったようなので大正7年〜大正9年位の生まれであろう。さらに最年少もまた少ななったようである。乙飛7期の西沢広義、杉山輝夫が共に大正9年生まれであり、乙飛5期の撃墜王が全て大正7年生まれであるということから杉尾も大正7年生まれの可能性が高い。21歳で中国戦線に配属、23歳で太平洋戦争開戦といった感じであろうか。

 予科練の訓練は厳しく、杉尾の在籍した5期は200名の入隊者中、死亡者8名、免役者28名、他兵科に回った者17名、次期への編入者8名の合計62名の脱落者を出した。杉尾はこの過酷な訓練を無事に修了。霞ヶ浦空で飛練課程、佐伯空を経て実戦部隊である大村空に配属された。その後、12空付きで日中戦争に参加するが、日中戦争では空戦は未経験であったようだ。太平洋戦争では3空に所属した。3空とは横山保が飛行隊長を務めた部隊で海軍航空隊で唯一の「無敗部隊」と言われている。

 開戦時は台湾にあり、初戦期の航空撃滅戦は3空と坂井三郎等が所属する台南空で行われた。比島・蘭印航空撃滅戦終了後、台南空がラバウルに移動したのに対し、3空はチモール島クーパン基地に展開、一部部隊をもってアラフラ海防衛、オーストラリアポートダーウィン空襲を行った。杉尾はこのポートダーウィン空襲で活躍しつつも、1942年9月〜11月には一時的にラバウル方面に派遣され、ラバウル航空戦に参加した。

 1942年9月といえば米軍がガダルカナル上陸を行った翌月であり、米軍を撃退するために南東方面に兵力を集中させたのだろう。この時期の台南空には笹井中尉は8月に戦死、坂井一飛曹は負傷により内地療養であったが、西沢広義、太田敏夫といった『大空のサムライ』に登場する搭乗員達がまだ活躍していた(太田は10月に戦死する)。派遣終了後、杉尾は再びポートダーウィン攻撃に復帰した。

 その後、1943年4月に本土に帰還したとあるが、教員配置であろう。その後、海口空を経て1944年9月には201空に配属される。この201空はこの時期、特攻隊をかなり出した部隊であり、その時の状況は当時、201空に配属されていた同期の角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。

 その後、1945年5月には教員配置となったようで筑波空教官として終戦を迎えた。撃墜数は20機以上となっている。秦郁彦著『日本海軍戦闘機隊』にも地味とあるように、あまり他の搭乗員の手記にも登場しない。経歴をみると撃墜の多くはポートダーウィン攻撃、ラバウル派遣時に挙げたものであろう。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。

 

 

奥村武雄 (画像はwikipediaより転載)

 

 奥村武雄は、日中戦争から太平洋戦争中盤にかけて戦った戦闘機搭乗員で、総撃墜数は公式記録からみると30機前後であるが、一般には54機撃墜といわれている。

 

奥村武雄の経歴

 

 奥村武雄の経歴を簡単にみてみよう。奥村は、大正9年2月27日、福井県に生まれる。昭和10年6月呉海兵団に入団。昭和13年2月第42期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。9月卒業。大分空で戦闘機専修教育を受け、大村空に配属される。昭和14年9月14空に配属され日中戦争に参加、実戦を経験する。その後、大分空で教員配置ののち、昭和17年空母龍驤戦闘機隊に配属される。

 第二次ソロモン海戦で母艦龍驤が撃沈されたため、ラバウルに展開している台南空に転属する。昭和17年12月本土に帰還。大分空で教員配置につく。昭和18年5月201空に配属、7月にはブーゲンビル島ブイン基地に進出する。9月14日には1日で10機撃墜という日本海軍の最高記録を樹立するが、8日後の9月22日、空戦中に未帰還となった。

 大正9年生まれ、つまりは1920年生まれ、海兵団に入団したのがなんと15歳、操縦練習生を卒業したのは18歳というかなりの若手。太平洋戦争開戦時21歳といえば通常なら飛練を出たての新米だが、この奥村武雄、もう一年以上の実戦経験を持つベテラン搭乗員であった。1920年生まれといえば、有名な撃墜王西沢広義、杉山輝夫、渡辺秀夫、前田英夫、小町定等がいる。甲種予科練出身者以外はほとんど実戦経験がない。

 特に操練出身者は日中戦争当時はまだ訓練生であった。経歴をみれば分ると思うが、奥村は、内地での教員配置が多い。戦地にいたのは日中戦争の1年数か月、龍驤乗組からの半年、201空時代の3ヶ月。操練卒業から5年間の部隊経験があるが、実戦部隊に配属されていたのは、トータルで2年強。残りは教員配置だった。

 その上、戦争中盤で戦死してしまっているので注目されることが少ないが、一日10機を撃墜するという前代未聞の記録を打建てた搭乗員である。空戦技術に絶対的な自信を持ち、先輩の搭乗員である樫村寛一や羽切松雄などと空戦をしても負けなかった三上一禧が唯一、後方に付かれ振り払うことが出来なかったのがこの奥村武雄だったそうだ

 空戦に天性の勘を持つという三上のバックを取った奥村は三上の3歳年下で、操練では5期下であった。奥村の空戦の腕がどれだけのものだったのか分かるだろう。但し、撃墜数の54機は誇張が含まれていると言われている。研究者によっては30機前後としているが、そもそも第二次世界大戦の撃墜数自体が誤認と希望的観測を多分に含んだ誇張された数であるのでカウントすることにあまり意味はないだろう。梅原氏の研究のような形で判明すればそれはそれで興味はあるが。

 

 

奥村武雄関連書籍

 

神立尚紀『証言零戦生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

神立尚紀『ゼロファイター列伝』の文庫化。零戦初出撃に参加した搭乗員、三上一禧氏、日高盛康氏等の貴重なインタビューが載っている。その他にも吉田勝義氏など、自身の経験を書籍化していない元搭乗員達のインタビューがあるのは貴重。

 

 三上一禧氏のインタビューでパイロットには天性の勘があるという話は面白い。天性の勘があると自任する三上氏は、圧倒的に飛行時間が多い片翼帰還で有名な樫村寛一少尉、羽切松雄氏にすら負けなかったという。しかし後輩である後の撃墜王奥村武雄上飛曹は空中戦訓練の際、どうしても振り切ることが出来なかったという話は面白い。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。本書では台南空での奥村武雄上飛曹の空戦の様子が分かる。天才と言われた奥村上飛曹でもやはり誤認戦果は多かったようだ。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

杉田庄一
(画像はwikipediaより転載)

 

 杉田庄一は、総撃墜数は単独撃墜70機、共同撃墜40機と言われている日本海軍屈指の戦闘機搭乗員である。この撃墜数は、単独と共同が逆じゃないかという指摘もあるが、それは置いても杉田が戦死した時、全軍に発せられた布告分に記載されている数字なので公認といえば公認なのかもしれない。しかし太平洋戦争当時の混乱した戦闘の中では必ずしも撃墜の確認ができたとは言えない。撃墜数は一つの目安と考えた方がいいだろう。

 

杉田庄一の経歴

 

 大正13年新潟県に生まれる。昭和15年で海軍に志願。昭和17年3月丙3期修了。6空に配属される。ミッドウェー海戦を経験する。昭和17年6空隊員としてラバウルに進出。12月には体当たりでB17を撃墜している。昭和18年4月18日の山本五十六戦死の時は護衛戦闘機隊として空戦に参加。昭和19年3月263空に配属。7月201空に異動。昭和20年1月343空戦闘301飛行隊に配属。4月15日離陸中を奇襲され戦死する。

 この杉田は戦前に海軍に志願し、その後丙飛3期として予科練で教育を受ける。同期には、杉野計雄、谷水竹雄がおり、彼らとは同じ教員に教育を受けている。飛練終了後、実戦部隊配属、最初にミッドウェー海戦を経験するという日本が優勢だった前半ではなく、劣勢に向かっていく中盤以降を担当した搭乗員である。

 それゆえ、予科練、その後の飛練でも太平洋戦争開戦以前の搭乗員のように十分な訓練を受けて、尚且つ、日中戦争という比較的激しくない空戦場で十分な経験を積むという恵まれた環境にはなかった。本来ならミッドウェー島航空隊となるはずだった第6航空隊はラバウルに進出を命ぜられる。当然、第6航空隊に所属する杉田もラバウルに進出する。

 杉田の性格をよく表しているのが杉田の初撃墜である。当時、18歳で最年少搭乗員だった杉田は体当たりでB17を撃墜。その後、204空と改称された第6航空隊での最多撃墜記録保持者となる。1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察する際の護衛戦闘機6機の内の一人として護衛任務に就く。杉田は2機を撃墜するが、山本長官機は撃墜されてしまう。その後、負傷して内地の教員勤務を経た後、1944年3月、263空に転属、さらに同7月201空に編入される。

 1945年1月、343空戦闘301飛行隊に転属になる。この343空とは、ほぼ全機が最新鋭機紫電改で編成された決戦部隊である。この部隊でも戦果を挙げるが4月15日、離陸中を攻撃され戦死する。わずか21歳であった。杉田は坂井三郎と共に多撃墜者として表彰されるが、戦果に関しては個人撃墜(70機)と共同撃墜(40機)が逆だったのではないかとも言われるが詳細は不明である。

 

杉田庄一関連書籍

 

笠井智一『最後の紫電改パイロット』

笠井智一 著
潮書房光人新社 (2016/9/1)

 予科練甲飛10期という戦争後半を担当した零戦搭乗員。中部太平洋から比島、本土防空戦と戦い抜く。若年パイロットながら、その間の撃墜数は10機とすごい。猪突猛進の菅野直隊長、同じく杉田庄一と名だたる撃墜王のウイングマンとして戦い続け、無事終戦を迎えることができた。

 本書が上梓された時はすでにかなりの高齢だったためか全体的に漠然とした印象のある戦記となっているが、職人気質で自分の技術を部下に教えたがらない海軍パイロットの中で、杉田庄一上飛曹は包み隠さず全ての技術を部下に教えた。さらに部下に暴力は振るわず指導は優しさに溢れていた等、知られていないエピソードが満載の本。

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死する。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。戦争中盤以降、さらに激しさを増すラバウル航空戦の壮絶な状況が克明に描かれている。体当たり撃墜で初撃墜をした杉田庄一兵曹が、「怒られるのではないか」と不安がっている姿などほほえましいエピソードもある。

 

高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣 改訂増補版』

高木晃治・ヘンリー境田 著
双葉社 (2014/7/18)

 米国の戦史研究家ヘンリーサカイダ氏が日米の記録を徹底的に調べた名著。伝説の紫電改戦闘機隊である「343空」の全戦闘を詳しく書いている。有名な紫電改戦闘機隊は、初空戦で敵機撃墜57機の大戦果を挙げるが、米軍の損害は13機のみであったことや日米のパイロットの素性にまで調査が及んでいる。343空に関してはこれ以上ない名著。

 以上、杉田庄一上飛曹についての概要と杉田庄一氏を知るための書籍を紹介した。杉田庄一上飛曹は、猪突猛進の猛将でありながら部下への愛情に溢れた類稀な大人物であった。

 

菅野直
(画像はwikipediaより転載)

 

 数少ない士官の撃墜王。総撃墜数は25機とも48機とも、または65機ともいわれている。初出撃が1944年と戦争後半を戦った撃墜王である。凄まじい闘志を持っていた暴れん坊だったようで訓練で随分飛行機を破壊したようである。後に有名なエース部隊、「剣」部隊こと343空の隊長として太平洋戦争最末期を暴れまわった。

 

菅野直の経歴

 

 大正10年宮城県に生まれ。昭和16年12月第70期生として海軍兵学校を卒業。昭和18年9月第38期飛行学生教程を修了した。昭和19年4月、初代343空分隊長。7月201空の戦闘306飛行隊分隊長、さらに飛行隊長。フィリピン戦では、最初の神風特攻隊の隊長に内定していたともいわれている。昭和19年12月2代目343空戦闘301飛行隊長となる。昭和20年8月1日、屋久島上空で行方不明。戦死と認定された。

 実際、1944年4月が初陣というのはかなり遅い。この時期といえばラバウル航空戦は実質的には日本の敗北に終わり、最後まで戦っていた岩本徹三、小町定、小高登貫等の撃墜王を輩出した253空もトラック島に後退した時期である。戦闘は完全に守勢にまわっており、同年6月にはマリアナ沖海戦で日本軍の機動部隊は実質的に壊滅する。この時期に菅野は初空戦を経験する。

 初空戦でいきなり隊長というのはかなり無茶な気がするが当時の人事が硬直化した日本海軍では仕方のないことであった。隊長も部下も困ったことだろう。しかし菅野直は元々統率力のある人間だったのだろう。その後も343空においてラバウルの撃墜王杉田庄一の尊敬を一身に受けることとなる。

 菅野は戦闘中に体当たり攻撃をしかけており、ラバウルで体当たり攻撃でB17を撃墜した杉田とは性格的にも合っていたのだろう。どちらも豪放磊落な人物だったようである。この菅野、エース列伝にもあるように何度も特攻に志願したが入れられず343空の隊長として日本海軍最後の決戦部隊の指揮をとることとなる。

 1945年4月、鹿屋基地において杉田が撃墜され戦死すると目に見えて落胆していたという。その菅野も太平洋戦争終結直前の8月1日、行方不明となり戦死と認定される。玉音放送のわずか2週間ちょっと前である。撃墜数については65機、または48機、はたまた25機撃墜と言われているが戦果報告と実際の戦果とは相当な開きがあることはよく知られている。ガンカメラを搭載していた米軍の場合でも戦果は実際の6〜7倍になり、日本軍に至っては10倍以上に膨らんだ例もある。

 菅野は明らかに戦闘機乗り向きの人間である。それは撃墜王杉田庄一が心酔したことからも分かる。他の多撃墜搭乗員も同様であるが、特に菅野が実戦を経験した時期は日本軍が劣勢になっている時期であった。故に菅野が何十機も撃墜した可能性は低いといえる。しかし菅野は、撃墜数に関わらず優秀な戦闘機乗りであり、統率力のある隊長であったことは間違いなさそうだ。

 

 

 また本のレビュー。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。

 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。

 

 

 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。

 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。

 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。

 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。

 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2020年)ご健在であれば97歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

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