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1923年生まれ

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

田中民穂飛曹長の経歴

 

 1923年10月3日長崎県に生まれる。1939年6月乙種予科練11期に入隊。1941年9月予科練卒業後11月より23期飛練課程に入る。1942年9月同課程を卒業。1943年6月261空に配属された。1944年2月末サイパン進出、メレヨン島、ハルマヘラ島、ヤップ島、グアム島と転戦する。サイパン島陥落後、メレヨン島、パラオ経由でセブ島に移動、201空に異動、1945年1月内地に帰還、252空、203空と異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加後終戦を迎えた。戦後は全日空の操縦士として活躍した。

 

田中飛曹長と虎部隊

 

 田中民穂飛曹長は、乙飛11期出身。乙飛とは乙種予科練の略である。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略称で14歳以上の10代の少年を搭乗員として育成する目的で1929年に発足した制度で、1937年には新たに甲種予科練が設置されたため、それまでの予科練は乙種予科練と呼ばれるようになった。田中飛曹長はこの乙種の11期で同期の戦闘機専修者は67名。内、55名が戦死している。生存率17%であった。

 乙11期の飛練は21期と23期の二期に分けられており、21期は甲飛6期、丙飛4期と共に1942年7月、23期は丙飛6期と共に9月に飛練を修了している。多くの隊員は、訓練終了後すぐに戦地に送られており、10月には乙11期の2名が南方で戦死している。田中飛曹長はすぐに戦地に送られることなく、1943年6月には新設の261空に配属されている。

 261空は別名「虎」部隊とも称された部隊で第1航空艦隊に所属していた。この第1航空艦隊とは、海上機動戦力である第1機動部隊と基地航空隊の第1航空艦隊という二つの強力な航空部隊を創設、中部太平洋に進出してきた米機動部隊を挟撃するという源田大佐の発案の下に編成された決戦部隊で261空は第1航空艦隊の中核をなす戦闘機部隊であった。

 鹿児島基地に着任した田中飛曹長はそこから猛訓練に突入、1944年2月には東山市郎少尉の分隊の一員としてサイパン島に進出した。3月30日、米機動部隊がパラオに来襲、これを攻撃するため彗星艦爆を装備する523空が出撃、261空も援護として攻撃に参加したが、米機動部隊を発見することはできずペリリュー島に着陸したが、翌日の朝ペリリュー島は米機動部隊艦載機の総攻撃を受ける。

 この総攻撃に対して261空は迎撃戦を展開するが、出撃28機中20機を失うという大損害を受けてしまった。田中飛曹長もこの迎撃戦に参加、これが田中飛曹長の初出撃となった。4月になるとメレヨン島への大型爆撃機の来襲が頻繁となったため261空は交代でメレヨン島防空の任に就いた。このメレヨン島での防空戦で田中飛曹長は撃墜2機を報告している。

 6月6日には指宿大尉指揮の下、ダバオ南方にあるハルマヘラ島に進出、ついでヤップ島、グアム島と転戦する。7月15日までグアム島からサイパン島への艦船攻撃を繰り返した田中飛曹長であったが、グアム島への米軍上陸当日に上陸地点を爆撃後、メレヨン島へ脱出したのちパラオを経てセブ島に到着した。到着後、201空に異動となり(261空は7月10日で解隊している)特攻隊の直掩等に活躍した。

 1945年1月には1年に及ぶ激しい戦地勤務を終え内地に帰還、252空、203空と異動しつつ本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。戦後も旅客機パイロットとして活躍しており、総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 田中飛曹長の出身期である乙11期の多くは訓練後、南東方面に送られ多くが戦死している。1943年までに同期67名中30名が戦死、内20名以上がラバウル方面での戦死である。1944年2月には海軍航空隊はラバウルから後退が、以降、中部太平洋、フィリピンと乙11期の隊員達は戦い続けた。1945年に入ることには生き残った37名中15名が戦死しており、終戦までにさらに10名が戦死した。終戦時まで生き残ったのは田中飛曹長を含めわずか12名で生存率は17%という激しいものであった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

渋川茂飛曹長の略歴

 

 1923年8月12日大阪府生まれ。1940年海軍に入団。丙飛6期に採用され航空兵となる。1942年9月23期飛練を卒業。同年12月253空に配属。1943年はじめカビエンに進出。1943年5月サイパンに後退。9月上旬再度ラバウルに進出した。11月1日トロキナ岬艦船攻撃にて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。回復後、筑波空に配属され終戦を迎えた。

 

死亡率91%。壮絶な丙飛6期

 

 渋川飛曹長は丙飛6期出身、丙飛6期は1941年8月から訓練を開始、太平洋戦争開戦後の1942年9月に飛練を終えたクラスであった。大量育成であり、十分な訓練を受けたとは言い難いクラスではあったが、多くが「搭乗員の墓場」といわれた南東方面(ソロモン・ラバウル等)に送られた。丙飛6期の戦闘機専修者は66名で内、多くの隊員が1943年初頭頃から前線に出ていったが、1943年の1年間だけで38名が戦死しており、その内、判明しているだけで23名が南東方面である。

 1943年を生き抜いた28名も1944年の内に15名が戦死、1945年8月までに残った13名の内7名が戦死している。結局、終戦を無事に迎えることができたのは66名中わずか6名であった。戦死率91%、生存率はわずか9%という壮絶なクラスであった。

 渋川飛曹長も飛練修了数ヶ月後には南東方面に展開する253空に配属、1943年初頭にはニューアイルランド島北端のカビエンに進出、ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加した。1943年5月には一時サイパンに後退、休養したのち、9月上旬には再度ラバウルに進出した。進出後も連日のように航空戦に参加したが、11月1日の第二次トロキナ岬艦船攻撃に艦爆7機の直掩として高沢謙吉中尉式の零戦42機(253空は13機)の一員として出動、後方から射たれて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。内地帰還後は筑波空で教員配置ののち終戦を迎えた。総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 丙飛6期の死亡率の高さは驚愕であるが、この時期の前後のクラスも同様の高い死亡率である。日本機、特に海軍機は防弾性能を軽視しており、さらには救助体制も連合軍程積極的ではないため、空戦で撃墜されると戦死してしまうことが多かった。さらに人材の不足から一度前線に出ると出ずっぱりとなることが多く、空戦経験が豊富になると今度は重宝されてしまい、結局「死ななきゃ内地には帰れない」状態となってしまった。このため育成に10年はかかると言われている貴重な搭乗員を多く失っていった。この中を渋川飛曹長は生き残り終戦を迎えることとなる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 小八重幸太郎上飛曹は、太平洋戦争開戦後に訓練を修了した正に戦中派パイロット。エリートである母艦戦闘機隊に選抜され、激戦のラバウル航空戦に投入される。内地帰還後は新鋭紫電を駆り比島航空戦に活躍。内地帰還後は海軍の精鋭部隊343空で終戦を迎える。零戦、紫電、紫電改と乗り継いだパイロットであった。

 

小八重幸太郎上飛曹の経歴

 

略歴

 大正12年3月15日、宮崎県生まれ。昭和16年10月丙種予科練7期生に採用される。昭和17年11月第24期飛練課程を卒業、大村航空隊で延長教育を受け戦闘機操縦者となる。空母瑞鳳乗組となり昭和18年3月トラック島進出。「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加する。その後253空配属。昭和19年2月末内地帰還。大村空で教員配置に就く。9月戦闘701飛行隊に編入(7月説あり )。新鋭機紫電を以って、10月末ルソン島マルコット基地に進出する。12月休養のため内地に帰還。昭和20年初頭2代目戦闘701飛行隊に編入。343空に配属され終戦を迎える。

 

母艦戦闘機隊へ

 小八重上飛曹は予科練丙種7期修了。戦中派パイロットである。大村空での延長教育修了後、エリートである母艦戦闘機隊に配属される。母艦搭乗員訓練のため冨高空で鳳翔での着艦訓練を受けた後、瑞鳳戦闘機隊に配属される。

 この時期、冨高空では杉野計雄、谷水竹雄兵曹、小高登貫兵曹等が同じく訓練を行っている。瑞鳳戦闘機隊は鹿児島県鴨池基地で訓練を続け、昭和18年3月にトラック島に進出、「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加している。当時、瑞鳳戦闘機隊は飛行甲板の狭さが理由なのか分からないが、岩井勉、山本旭等のベテラン搭乗員が多数おり小八重上飛曹は中々搭乗員割に入れてもらえなかったようだ。11月2日のラバウル迎撃戦にてF4F2機を撃墜して初戦果をあげた。その後中川健二大尉と共に253空に編入され、激烈なラバウル航空戦を戦った。

 激しい空戦のさ中、米軍戦闘機と単機空戦となりお互いに秘術を尽くして戦ったが勝敗が決せず、どちらからともなく寄り添い顔を見合わせて飛び去って行ったという一コマもあったようだ(小八重幸太郎「零戦に生き紫電改に死す」『零戦搭乗員空戦記』)。

 

紫電・紫電改装備の新鋭部隊に配属

 その後、本土に帰還するが、その時、第一航空戦隊戦闘機隊の生存者は66名中わずか9名であった。昭和19年7月、新鋭戦闘機紫電を装備する戦闘701飛行隊に配属され、台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加した後、極度の過労により入院する。その後2代目戦闘701飛行隊に転属した。

 2代目戦闘701飛行隊は言わずと知れた343空所属の飛行隊であり、ほぼ全機が紫電改で編成された鴛淵孝大尉が隊長を務める部隊である。小八重上飛曹は終戦まで343空で西日本防空戦を戦い抜いた(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。 https://water-wildcat.com/archives/52180397.html  総撃墜数は15機といわれる。丙飛7期という開戦直前に採用され、日本が徐々に劣勢に陥っていくさ中に母艦戦闘機隊として実戦に参加した。その中で生き抜いただけでなく15機もの撃墜を果たしたというのは驚異だ。

 

小八重幸太郎上飛曹関係書籍

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。小八重幸太郎氏は「零戦に生き紫電改に死す」という一篇を寄稿している。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。小八重上飛曹の略歴と戦功が書かれている。

 

まとめ

 

 小八重幸太郎上飛曹は母艦戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加、その後、戦闘701飛行隊として比島航空戦に参加、紫電改で編成された343空で本土防空戦に参加した。太平洋戦争を戦い抜き終戦を迎える。戦後は故郷の宮崎県日南市で消防官として勤務していたようである。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 今日紹介するのは加藤邦逵。大正12年生まれというから太平洋戦争開戦時には18歳と相当若いのだ。この加藤邦逵の面白いのは撃墜スコア16機という多撃墜者でありながらラバウル航空戦を経験していないことだろう。同期で撃墜王となったのは撃墜12機、または共同撃墜105機と言われる小高登貫、石井勇、服部一夫等がいるが多くはラバウル航空戦で撃墜数を伸ばした。

 

加藤邦逵の経歴

 

 加藤邦逵は、大正12年愛知県に生まれる。昭和18年1月に予科練丙飛10期を修了。大村空で延長教育を受ける。のちに多撃墜パイロットとなる加藤はこの大村空での射撃退会で30発中28発を標的に命中させるという離れ業をやってのける。同年5月に海南島の254空に配属され、数ヶ月後にはP-38を撃墜し初戦果を挙げる。

 この254空とはベトナムの東側、中国大陸の南に位置する海南島に展開し、海南島、香港の防衛及びシーレーン防御を目的として設置された部隊であった。最前線には違いはないが、ラバウル等に比べれば比較的余裕のある地域であっただろう。機体も加藤が異動した時点では使用機種は未だに零戦二一型であったようで重要度は比較的低かったのだろう。この254空でも昭和19年4〜5月頃には、五二型が順次配備されていった。

 加藤は、その後も迎撃戦において戦果を挙げ、昭和19年4月8日にはB25を1機撃墜、9日にはP38、B25各1機を撃墜する。昭和19年10月に210空に異動になるまでに合計9機を撃墜した。210空においても昭和20年2月16日には浜松上空において艦爆3機を撃墜、その後数次の沖縄特攻作戦掩護に参加した。総飛行時間882時間、撃墜数16機と言われている。

 加藤邦逵が多くのB25を撃墜戦法といわれているものが伝わっているが、それはB25に対し、正面から高度差1500mで接近、急降下しながら照準器を見ずに自機の翼を相手機の翼に合わせ射撃、高度差500mで引き起こすというものだ。

 

加藤邦逵関係の書籍

 

秦郁彦『ゼロ戦20番勝負』

ゼロ戦20番勝負
秦郁彦 著
PHP研究所 (1999/08)

 第12話「海南島上空の怪童」において加藤邦逵の254空での活躍について詳述されている。執筆者は著名な航空史家の伊沢保穂氏。まだ20歳そこそこの若者であったが天才的なセンスがあったようだ。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。もちろん加藤邦逵についての項目もある。

 

久山忍『蒼空の航跡』

 元零戦搭乗員今泉利光氏へのインタビューを基に上梓された本。今泉氏は丙飛16期。昭和18年に訓練が始まり、昭和19年3月に修了したという戦争後半担当パイロット。254空で加藤邦逵と同時期に在籍していたパイロット。加藤邦逵についての記述はないが、この時期の254空の状態が良く分かる。

 

まとめ

 

 加藤邦逵は戦争中盤に訓練が修了した戦中派パイロットだった。同期の丙飛10期の搭乗員の多くは南方に送られ激戦の中で戦死していく。加藤邦逵は最前線ではあるが、比較的強度の低い地域に配属された。天性の勘の良さで多くの戦果を挙げ終戦まで戦い抜いた。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

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