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1921年生まれ

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(画像はwikipediaより転載)

 

中谷芳市飛曹長の経歴

 

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫、岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤清飛曹長、宮崎勇少尉等がいる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

増山正男飛曹長の経歴

 

  1921年長崎県に生まれる。1940年6月に49期操練を修了後、佐世保空を経て14空に配属される。海南島、ハノイ、中国大陸を転戦したのち1941年秋に3空配属となり開戦を迎える。比島蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島に前進。1942年9月から11月までの間ラバウルへ派遣され、台南空指揮下で連日の戦闘に参加、3空復帰後はポートダーウィン攻撃に参加する。1943年4月内地帰還後は、空技廠実験部のテストパイロットとして各種の実験に活躍している。

 

増山飛曹長と操練49期

 

 増山正男飛曹長は操練49期、このクラスの前後は最も戦死者を出したクラスである。同期には坂井三郎中尉の列機として有名な本田敏秋三飛曹、同じく台南空の国分武一二飛曹、翔鶴戦闘機隊で活躍した小町定飛曹長がいる。操練49期は戦闘機専修10名の内、開戦から一年以内に6名が戦死している。その後1名が戦死したが、他3名は終戦まで生き残っている。

 増山飛曹長は操練修了後、14空隊員として中国戦線に加わる。日本軍の北部仏印進駐の一部としてハノイに進出した後、一旦内地帰還後、すぐに台湾に展開する3空に配属される。この3空は海軍でも指折りの練度の高い隊員で編成された部隊で新人でも飛行時間1,000時間以上であったという。この3空の隊員として開戦を迎えた増山飛曹長は比島航空戦から蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島クーパン基地に進出、ここを拠点として3空はポートダーウィン空襲で戦果を重ねることとなる。

 1942年9月には3空飛行長榊原少佐以下21名の隊員がラバウルに進出するが、増山飛曹長もその一員としてラバウルに進出、台南空の指揮下に入った。この台南空には操練49期で同期の国分武一二飛曹が活躍していたが、増山飛曹長の到着に前後して戦死している。そして台南空の指揮下に入った増山飛曹長は、連日のガ島進攻や船団直衛、要地防空に活躍することとなる。

 幾度となく死地をくぐり抜けてきた増山飛曹長は1942年11月、再びチモール島クーパン基地に帰還するが、その間に21名中8名の隊員が戦死している。クーパン基地に戻った増山飛曹長はその後もポートダーウィン攻撃に活躍するが、1943年4月には約1年半振りに内地に帰還、空技廠実験部の所属となり以降はテストパイロットとして各種実験に活躍して終戦を迎えた。総飛行時間1,540時間、総撃墜数は17機ともいわれているが、撃墜数はあまりにも誤認が多いので参考程度である。

 

増山正男飛曹長関係書籍

 

零戦よもやま物語 零戦アラカルト

柳田邦男 豊田穣他 著
潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月

 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。

 増山正男氏は「生への執着」という短編を寄稿している。増山氏の手記はあまり見かけないので貴重である。

 

 

まとめ

 

 増山飛曹長の出身期である操練49期のクラスとその前後のクラスは太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けたクラスであり、戦中の不十分な訓練でそのまま戦場に駆り出されたクラスに比べれば恵まれているといえるが、十分な実戦経験の無いまま過酷な太平洋戦争に突入したため犠牲も多かった。増山飛曹長はその中でも日中戦争で実戦を経験しており比較的恵まれていたといえないこともない。しかし増山飛曹長自身の手記内で戦争中盤で内地勤務になったことが現在生きていられる理由であると語っていることからも太平洋戦争の航空戦がどれほど過酷だったのかが分かる。操練49期の生存者は10名中増山飛曹長を含め3名のみである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した

 

石原進の経歴

 

概要

 1921年愛知県生まれ。1938年10月甲飛3期生として予科練に入隊。1940年4月飛練1期入学。1941年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。1941年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。1942年4月帰国。徳島空教員となる。1943年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。同年12月202空に異動。1944年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。同年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。

 

1921年生まれの撃墜王

 石原は1921年生まれである。この1921年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。

 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。1921年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は1921年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。

 

ラバウル航空戦に参加

 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。1943年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。

 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。

 

332空配属、そして戦後

 その後、1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できるようだ。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。

 

伊藤 清飛曹長の経歴

 

概要

 大正10年新潟県生まれ。昭和14年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。昭和15年11月丙飛二期に採用され霞ヶ浦航空隊入隊。大分空で戦闘機専修教育を受け、昭和16年11月12期飛練を修了し3空に配属される。比島航空撃滅戦に参加したのち、ポートダーウィン攻撃に参加する。昭和17年9〜11月までラバウル派遣。その後再びポートダーウィン攻撃に参加する。昭和18年11月、2年にも及ぶ戦地生活を終え本土に帰還し、大分空、筑波空で教員配置に就き終戦を迎える。2012年7月4日死去。

 

丙飛二期の同期達

 伊藤清飛曹長は丙飛二期、同期には宮崎勇、渡辺秀夫、中谷芳市等、太平洋戦争で活躍した搭乗員が多い。戦中派とまでは言えないが太平洋戦争が初陣であったクラスだ。そのため日中戦争で実戦経験を経たクラスと異なり多くの戦死者を出した。

 伊藤飛曹長は自ら本や手記を出すことはなかったが、神立尚紀『零戦最後の証言』によって活躍が世間に知られることとなった。伊藤氏は丙飛二期を修了すると第3航空隊に配属された。これは台湾の高雄にある航空隊で太平洋戦争開戦後、台南航空隊と並んで航空撃滅戦で活躍する部隊である。

 

3空配属とポートダーウィン攻撃

 特に3空は搭乗員の練度が高く、202空と改称されたのち解隊するまで無敗であった稀有な航空隊であった。このため中々搭乗員割に入ることが出来なかったという。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』によると初撃墜は昭和17年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。

 その後、6度のポートダーウィン攻撃に参加し、昭和17年9月〜11月まで米軍のガダルカナル上陸に対応するため3空派遣隊としてラバウルに進出する。その後、再び南西方面に戻り、数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。

 

「ま、弱かったですね。」

 

内地帰還から終戦

 昭和18年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』には撃墜17機とあるが、それは誤りである。

 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。

 

伊藤 清飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 加藤(伊藤)清氏のインタビューあり。撃墜数が17機ではなく23機であることの証拠となる賞状の写真もある。インタビューの内容は圧巻。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。伊藤飛曹長に関しても略歴が紹介されている。

 

まとめ

 

 伊藤飛曹長の経歴の多くは3空であり、他のパイロットと異なり転勤が少なかった。しかし3空派遣隊として激烈なラバウル航空戦に参加、その後もポートダーウィン攻撃で多くの戦果を挙げたのち本土に帰還。2年近く教員配置を送るという少し変わった経歴の持ち主だった。

 

杉野計雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 杉野計雄飛曹長は山口県生まれで、丙飛3期を卒業、基本的に母艦戦闘機隊員として活躍した戦闘機搭乗員である。495回の戦闘で32機を撃墜したといわれる。

 

杉野計雄飛曹長の経歴

 

 杉野飛曹長は大正10年山口県に生まれる。昭和14年海軍に入隊。昭和15年駆逐艦黒潮艤装員、完成後乗組、昭和16年丙種予科練3期生となる。昭和17年3月、6空に配属される。ミッドウェー海戦に参加したのち7月空母大鷹乗組。10月大村空教員配置。11月佐伯空。昭和18年4月空母翔鶴乗組。8月トラック進出。10月ラバウル進出。12月253空編入。昭和19年2月大分空教員。4月筑波空。8月634空所属にて台湾沖航空戦、比島航空戦に参加する。その後は本土にて教員配置兼特攻隊員として終戦を迎える。

 杉野飛曹長は1997年に自伝『撃墜王の素顔』を上梓する。その時の私はちょうど撃墜王の記録を読み漁っていたころでどストライクだった。この本を店頭で見かけた時の感激は今でも忘れない。何が感激だったかというと杉野飛曹長がまだご健在であったということだ。当時はまだインターネットも今ほどの情報量もなく、撃墜王の名前などはほとんど出て来なかった。岩本徹三ですら2~3件ヒットという時代であった。

 そんな時代だったので戦争を生き抜いた撃墜王の生死については書物からの情報しかなかった。当時の私はまだエース列伝が付されている『日本海軍戦闘機隊』を入手していなかったが、『日本海軍戦闘機隊』を元にした他の本の撃墜王ランキングによって32機撃墜の杉野飛曹長の存在は知っていた。そこに自伝が登場したのである。この感激、恐らく誰も分らないと思う。

 因みに『日本海軍戦闘機隊』は、後に神保町の文華堂で入手した。1984年当時2500円の本がプレミアが付き、何と2800円となっていた。物価を考えると値段は下がっている。感激も何も要するに世間で撃墜王で盛り上がっているのは私だけだった。

 今回、記事を書くということで『撃墜王の素顔』を読み直してみたが、私の印象ではラバウルの撃墜王であったが、杉野飛曹長は意外にも母艦経験が多かった。

 ろ号作戦でラバウルに進出したのち昭和18年12月に253空に転属になる。岩本徹三、小町定、福本繁夫等、この時期には様々な部隊から253空に搭乗員が配属されていたようである。昭和19年2月に杉野飛曹長は岩本、小町等253空の主力と共にラバウルを後にしトラック防空に活躍する。因みに72機撃墜と言われるエース福本繁夫はラバウルに残留した。その後、寄せ集め零戦を指揮し戦ったようである。

 この時に初めて同期の谷水竹雄飛曹長と別々の部隊に異動になる。実は、杉野飛曹長は予科練で初めて飛行機に登場した時、谷水飛曹長と同じ教員のペアになって以来、この時までずっと同じ部隊に配属され続けたのだ。

 海軍航空隊とは非常に転属が多いところだった。この中で予科練から同じ部隊に居続けたというのは滅多にないことであった。お互いに気も合ったようで、著書の中でも「私達はピーナッツのようだ」(二人で一つという意か)と語り合ったという。

 その親友であり戦友であり同じ部隊に異動し続けた谷水飛曹長とも内地到着後は別々の任地に行くことになった。谷水飛曹長は台南空での教員であった。杉野飛曹長は、大分で教員配置に就くが、その後、またもや艦隊戦闘機隊隊員として実戦に参加、本土で教員配置で終戦を迎える。総飛行時間1994時間。

 

杉野計雄関連書籍

 

杉野計雄『撃墜王の素顔』

 総撃墜数32機といわれている杉野計雄氏の著書。当初はミッドウェー島航空隊になる予定だった6空隊員としてミッドウェー海戦に参加。乗艦が撃沈され内地帰還後は、母艦戦闘機隊隊員として活躍する。この時期のパイロットとしては幸運にも十分な訓練期間を与えられたようだ。ラバウル航空戦、比島、本土防空戦に参加する。

 予科練で初めて飛行機に乗った時以来のペアである谷水竹雄飛曹長と奇跡的にほとんどの部隊を一緒に異動する珍しい経験を持つ。谷水氏とは気も合ったようで二人のやりとりにちょっとほっこりする。二人とも戦争を生き抜けて良かったと思える。

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。

 本書執筆者の谷水竹雄氏は模型ファンならご存知の方もいるかもしれないが、米軍の識別マークに矢が刺さった撃墜マークを描いた零戦の横に立っている写真で有名なパイロットだ。杉野計雄氏と多くの期間同じ部隊で過ごした稀有な体験をしている。谷水氏は自著はないので、本手記が一番詳しく自身の戦争体験を書いているはずである。同じ事象をそれぞれどう捉えていたのか、また、杉野氏と谷水氏がそれぞれ相手をどう見ていたかなど見ると面白い。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。杉野氏は「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」という手記を寄稿している。これはのちに零戦隊の対艦爆撃の先蹤となる母艦搭乗員時代の零戦での爆撃訓練について書いたもの。零戦の対艦爆撃は決死の爆撃であったことが書かれている。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

まとめ

 

 海軍航空隊のエリートと言われる空母戦闘機隊出身の杉野氏。母艦戦闘機隊、ラバウル航空戦、比島と激戦をくぐり抜けてきた。戦後も海上自衛隊で定年まで勤務する。海自時代の教え子が1985年の時の機長で、その墜落した付近の上野村の村長で救助活動に尽力したのが海軍時代の上官の黒澤丈夫氏であったという奇縁もあったそうだ。1999年8月鬼籍に入る。

 

菅野直
(画像はwikipediaより転載)

 

 数少ない士官の撃墜王。総撃墜数は25機とも48機とも、または65機ともいわれている。初出撃が1944年と戦争後半を戦った撃墜王である。凄まじい闘志を持っていた暴れん坊だったようで訓練で随分飛行機を破壊したようである。後に有名なエース部隊、「剣」部隊こと343空の隊長として太平洋戦争最末期を暴れまわった。

 

菅野直の経歴

 

 大正10年宮城県に生まれ。昭和16年12月第70期生として海軍兵学校を卒業。昭和18年9月第38期飛行学生教程を修了した。昭和19年4月、初代343空分隊長。7月201空の戦闘306飛行隊分隊長、さらに飛行隊長。フィリピン戦では、最初の神風特攻隊の隊長に内定していたともいわれている。昭和19年12月2代目343空戦闘301飛行隊長となる。昭和20年8月1日、屋久島上空で行方不明。戦死と認定された。

 実際、1944年4月が初陣というのはかなり遅い。この時期といえばラバウル航空戦は実質的には日本の敗北に終わり、最後まで戦っていた岩本徹三、小町定、小高登貫等の撃墜王を輩出した253空もトラック島に後退した時期である。戦闘は完全に守勢にまわっており、同年6月にはマリアナ沖海戦で日本軍の機動部隊は実質的に壊滅する。この時期に菅野は初空戦を経験する。

 初空戦でいきなり隊長というのはかなり無茶な気がするが当時の人事が硬直化した日本海軍では仕方のないことであった。隊長も部下も困ったことだろう。しかし菅野直は元々統率力のある人間だったのだろう。その後も343空においてラバウルの撃墜王杉田庄一の尊敬を一身に受けることとなる。

 菅野は戦闘中に体当たり攻撃をしかけており、ラバウルで体当たり攻撃でB17を撃墜した杉田とは性格的にも合っていたのだろう。どちらも豪放磊落な人物だったようである。この菅野、エース列伝にもあるように何度も特攻に志願したが入れられず343空の隊長として日本海軍最後の決戦部隊の指揮をとることとなる。

 1945年4月、鹿屋基地において杉田が撃墜され戦死すると目に見えて落胆していたという。その菅野も太平洋戦争終結直前の8月1日、行方不明となり戦死と認定される。玉音放送のわずか2週間ちょっと前である。撃墜数については65機、または48機、はたまた25機撃墜と言われているが戦果報告と実際の戦果とは相当な開きがあることはよく知られている。ガンカメラを搭載していた米軍の場合でも戦果は実際の6〜7倍になり、日本軍に至っては10倍以上に膨らんだ例もある。

 菅野は明らかに戦闘機乗り向きの人間である。それは撃墜王杉田庄一が心酔したことからも分かる。他の多撃墜搭乗員も同様であるが、特に菅野が実戦を経験した時期は日本軍が劣勢になっている時期であった。故に菅野が何十機も撃墜した可能性は低いといえる。しかし菅野は、撃墜数に関わらず優秀な戦闘機乗りであり、統率力のある隊長であったことは間違いなさそうだ。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 この大原亮治は丙飛4期出身。丙飛4期とは太平洋戦争開戦後に卒業したクラスだ。つまり卒業後、いきなり練度の高い米軍航空隊と戦わなければならないという非常に厳しい状況に置かれていた。ただ、この丙飛4期はまだ初戦期であったせいか後半に比べればまともな訓練を受けていたようだ。この丙飛4期には他にも70機を撃墜したといわれる杉田庄一がいる。

 

大原亮治の経歴

 

概要

 大正10年2月25日宮城県生まれ。昭和15年6月一般航空兵として横須賀海兵団に入団。昭和16年2月丙種予科練を受験し合格する。昭和16年5月、丙飛4期として土浦空に入隊。昭和17年7月21期飛練卒業。大分空で戦闘機専修延長教育。卒業と同時に6空へ配属される。10月7日204空本隊としてラバウル進出。10月12日初出撃をする。10月13日ブイン飛行場に進出。10月19日初空戦を体験する。昭和18年10月内地に帰還。11月横空に勤務し終戦を迎える。終戦時海軍兵曹長。戦後は米軍キャンプで働くが、昭和28年海上警備隊入隊。第一回操縦講習員となり修了後教官となる。昭和46年三等海佐で退官する。退官後は航空振興財団に勤務する。2018年11月2日死去。

 

予科練修了、そのままラバウルへ

 大原は、大正10年宮城県生まれ、昭和15年6月海軍に入隊。昭和16年2月丙種予科練4期生として土浦航空隊に入隊した。昭和17年7月21期飛練課程を修了し、さらに戦闘機操縦者として大分航空隊に配属。その後いきなり第六航空隊に配属された。第六航空隊とは後の204空のことでのちにラバウル航空戦の中核となる部隊である。

 昭和17年10月に激戦地のラバウル、それも悪いことに最前線のブーゲンビル島ブイン基地に六空は進出する。10月19日、大原は初空戦を体験する。大原は空戦に入る前に増槽を落とすのを忘れてしまう。その後、数々の戦闘をくぐり抜けて大原氏は204空の中核として成長しながら激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。昭和18年10月内地に移動になった頃には当初の六空搭乗員は大原、大正谷宗市、坂野隆雄の3名しかいなかったという。

 

ラバウルから生還。横須賀航空隊勤務

 昭和18年11月、204空生存者3名は、ともに海軍航空隊の殿堂、横須賀航空隊に配属される。1年に亘り激戦地のラバウルで生き抜いてきた彼らには当然海軍の殿堂に所属する権利はあるということだ。その後終戦まで横須賀航空隊所属となる。

 これが大原の経歴であるが、大原の経歴で面白いのは転属が一回しかなかったことだ。海軍は転属が多い。例えば岩本徹三は12空、瑞鶴戦闘機隊、281空、201空、204空、253空、252空、203空と転属し、その間に教員配置もこなしている。これをみれば大原氏の転属一回というのが特異なのが分るというものであろう。

 

大原亮治関係書籍

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏に戦中派エースとして取材された記事が載っている。戦中戦後まで幅広くインタビューに答えている。大原の前向きな性格が良く分かる。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 上掲『零戦の20世紀』とほぼ同じ内容。大原以外には生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男、岩井勉、小町定、渡辺秀夫、岩下邦雄、笠井智一等へのインタビューがある。ほとんどの方は他界されているのでこのインタビューは貴重。

 

零戦、かく戦えり! 搭乗員たちの証言集

零戦搭乗員会 編
文藝春秋 (2016/12/1)

 大原はソロモン航空戦についてと先輩搭乗員羽切松雄氏についての思い出を寄稿している。

 

まとめ

 

 大原亮治は太平洋戦争開戦後に実戦に参加した戦中派パイロットである。開戦時には実戦経験を持っていた岩本徹三や坂井三郎と異なり、教育課程も短縮された上に、最初の戦闘は練度の高い連合国軍との戦闘であった。その劣悪な条件下で生き残りラバウルを去った時、進出した時の隊員はわずか3名になっていたという。その後も終戦まで戦い抜き、戦後も長命を保ったが2018年11月2日惜しくも他界した。

 

 

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