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1920年生まれ

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(画像はwikipediaより転載)

 

遠藤桝秋一飛曹の略歴

 

 1920年12月20日福島県に生まれる。1938年6月乙種予科練9期として採用、1940年11月に予科練修了、同月艦爆搭乗員として飛練10期に入隊する。1941年11月飛練10期を卒業と同時に1942年2月まで佐世保空出水派遣隊で戦闘機転換教育を受けた後、2月に台南空に配属された。4月にはラバウル、そしてラエに進出して連日の航空戦に活躍。11月には台南空は再編成のため内地に帰還、1943年5月に251空と改称した台南空隊員として再度ラバウルに進出したが、6月7日の空戦で敵機に体当たりして戦死した。

 

台南空のベテラン遠藤一飛曹

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙種予科練9期の出身で同期の戦闘機専修者は23名、さらに艦爆専修者10名と陸攻専修者9名が戦闘機に転科したため戦闘機専修者は最終的には42名であった。太平洋戦争の初期から活躍したクラスで羽藤一志二飛曹、大石芳男中尉、上原定夫飛曹長等著名な搭乗員が多いものの戦死も多かった。開戦一年目の1942年末までには同期の内ほぼ半数にあたる19名が戦死している。1943年には7名、1944年にも7名が戦死、1945年には3名が戦死している。無事に終戦を迎えたのは6名のみであった。

 1941年10月、遠藤一飛曹は艦爆専修者として宇佐空で飛練10期を修了後、翌月より佐世保空出水派遣隊にて戦闘機への機種転換訓練を受ける。1942年2月、訓練終了と同時に当時にバリ島に進出した台南空に合流した。4月1日、台南空は25航空戦隊に編入されラバウル進出を命じられた。4月16日、遠藤一飛曹も台南空隊員としてラバウルに進出、連日の航空戦に活躍した。

 1942年11月になると笹井醇一少佐、坂井三郎一飛曹等、名だたる搭乗員を失った台南空は戦力を再編成するために内地に帰還することとなり、生き残っていた遠藤一飛曹も台南空の貴重な実戦経験者として愛知県豊橋で部隊の再編制にあたった。

 1943年5月、再編成が完了した251空(1942年11月1日に改称)は、5月7日にラバウルに到着、10日には遠藤一飛曹を含む飛行隊も零戦で島伝いに飛行してラバウルに到着した。再びラバウル航空戦に活躍した遠藤一飛曹だったが、1943年6月7日の空戦で第44戦闘飛行隊のヘンリー・マトスン中尉の操縦するP-40と反航で撃ち合った後、衝突して戦死した。

 総撃墜数は14機といわれている。連合軍の損害から算出した遠藤一飛曹のニューギニア航空戦期の戦果が3.1機であり、最後に衝突した1機を含めると4.1機の撃墜ということになる。但し、この3.1機は編隊空戦の結果挙げた戦果を空戦参加者全員で分けた数値の合計なのでより多く撃墜している可能性も全く撃墜していない可能性もある。撃墜数などはただの数字であることを理解しておいてほしい。

 

遠藤桝秋一飛曹の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

まとめ

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙飛9期の出身で戦闘機専修者42名中終戦を迎えたのはわずか6名であった。他機種に行った同期を含めても全191名中167名が戦死、生き残った同期中戦傷を受けなかった者はわずか3〜4名であったという。遠藤桝秋一飛曹は開戦直後から台南空に所属、251空に再編成されてラバウルに再進出した時に生き残っていた貴重な台南空時代の隊員であったが、僅か1ヶ月後にはラバウルの空に散ってしまった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 




山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




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(画像はwikipediaより転載)

 

中仮谷国盛少尉の略歴

 

 1920年鹿児島県に生まれる。1937年6月乙8期予科練生として入隊、1940年3月飛練課程を卒業し、大分、大村、鹿屋空を経て、1941年4月12空に配属、日中戦争に参加した。9月3空に異動して太平洋戦争開戦を迎えた。1943年5月大村空の教員として内地へ帰還、1944年5月飛曹長進級と同時に653空に転属、6月にマリアナ沖海戦、さらに10月には捷号作戦の発動によりフィリピンに進出した。11月中旬内地に帰還後、601空戦闘310飛行隊に編入、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 

3空、母艦戦闘機隊と渡り歩く

 

 中仮谷少尉は、1920年生まれで太平洋戦争開戦時は21歳と若かったものの、日中戦争では空戦を経験しており、中堅搭乗員として十分な実戦経験を積んでいた。中仮谷少尉が採用されたのは予科練の乙飛8期で1937年6月から訓練を開始、1940年3月に修了している。同期の戦闘機専修は11名であった。

 このクラスの戦闘機専修者は太平洋戦争で多くが戦死し、終戦時には15名(3名が戦闘機へ転科)中3名のみとなっていた。中仮谷少尉は他の戦闘機専修者と同様に大分空、大村空と延長教育を受けたのち1941年4月には漢口に展開している12空に配属、初空戦を経験している。同年9月には新しく編成された3空に異動、太平洋戦争開戦を迎える。開戦後は比島・蘭印航空撃滅戦に参加、チモール島クーパン基地に進出した後には、ポートダーウィン攻撃に活躍している。1943年5月、2年半に及んだ戦地での生活を終え、大村空の教員として内地に帰還した。

 この頃の大村空には磯崎千利少尉、坂井三郎飛曹長、南義美飛曹長、小町定一飛曹等、歴戦の搭乗員が教育を担当していたものの膨大な数の練習生を相手にしていたため決して楽ではなかったであろう。約1年間の教員配置の後、中仮屋上飛曹は空母千歳、千代田、瑞鳳戦闘機隊で編成された653空に異動、翌月にはマリアナ沖海戦に参加する。

 マリアナ沖で大打撃を受けたものの653空は他の航空隊に比べ損害が少なかったため653空を中心に艦隊航空隊が再編されることとなったが、戦局はそれを許さず台湾沖航空戦、比島航空戦でその戦力を消耗させることとなった。中仮谷飛曹長も同航空隊隊員としてエンガノ岬沖海戦に直掩隊として参加、第2小隊長として共同で11機のF6F撃墜を報告している。フィリピンに進出した10月28日にはドラッグ飛行場攻撃でF6F撃墜1、協同撃墜1機を報告、11月3日のタクロバン飛行場制圧でもP38 1機撃墜を報告している等、数多くの戦闘に参加したが、11月中旬には戦力を消耗し尽くしたため内地へ帰還している。

 中仮谷飛曹長は内地帰還後、601空戦闘310飛行隊に異動する。601空は母艦航空隊であったが、エンガノ沖海戦で壊滅、新たに再建された部隊であった。再建された601空は香取穎男隊長の下、岩国基地で訓練に励んでいたが、1945年2月には艦艇を全廃することが決定、601空も母艦航空隊から基地航空隊へと転換した。同月16日、米艦載機の関東地区来襲のため関東に移動中空戦となり、翌日も迎撃戦を展開している。

 3月になると鹿児島県国分基地に進出、中仮谷少尉も同地に進出、本土防空戦、沖縄航空戦に活躍するが、5月には百里原基地に引き揚げた。その後はしばしば迎撃戦に活躍したものの戦力を温存したまま終戦を迎えた。総撃墜数は16機といわれているが例によって実数は不明である。

 

中仮谷国盛少尉の関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三朗 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三朗少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。執筆者の内、白浜芳次郎飛曹長、同じ乙8期の東富士喜少尉は中仮谷少尉と同じ部隊でマリアナ沖海戦に参加している。

 

艦隊航空隊〈3 決戦編〉

杉山 利一他 著
今日の話題社 (1986/11/1)

 艦隊航空隊末期の記録。601空司令杉山利一大佐他、艦隊航空隊に所属した隊員達による手記。中仮谷少尉と同じ部隊に在籍した隊員達が多く執筆している。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。本書でインタビューを受けている鈴木實中佐は12空、3空での中仮谷少尉の上官でポートダーウィン攻撃についても詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 中仮谷少尉が修了した乙飛8期は太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け日中戦争で実戦経験を積んだ乙種予科練最後のクラスであったといえるが、それでも生存者は15名中3名と凄まじい状態であった。中仮谷少尉の経歴で特徴的なのは日中戦争以来の長い航空隊生活の中で南東方面(ラバウル・ソロモン)に一度も行っていないことであろう。しかし、だからといって中仮谷少尉は決して「楽」だった訳ではなく、米軍から「七面鳥撃ち」とまで言われ、一方的敗北を喫したマリアナ沖海戦、特攻隊まで出さざるを得ななった戦争後期の比島航空戦にも参加している多くの戦場を経験したベテラン搭乗員である。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

上平啓州中尉の経歴

 

  1920年横浜市に生まれる。1937年9月甲飛1期として予科練入隊、1939年6月卒業した。その後大分空、大村空、横空を経て、1940年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。1941年10月には新編の台南空に転じ、比島、蘭印航空戦に参加したのち1942年4月新設の6空に異動、7月に大分空に移った。1943年4月飛曹長に進級、10月381空に転属、戦争後半まで戦い続けるが、負傷して本土へ帰還、特攻隊の教官で終戦を迎えた。1960年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。

 

上平啓州中尉と甲種予科練

 

 上平啓州中尉が採用された甲種予科練とは、1937年5月18日に創設された予科練の新しい課程で、受験資格は中学校4年生第1学期終了程度の15歳から17歳未満(つまりは15、16歳のみ)の男子から選抜された。これによってそれまでの予科練は乙種予科練と称されるようになった。後から創設された制度が「甲」となり当初からあった制度が「乙」となったのは受験資格にある。

 当初の予科練の受験資格は「高等小学校卒業程度」であったが、新たに創設された甲種は「上述のように「中学校卒業程度」であった。このため相対的に高学歴者を採用した新設制度が「甲種」と呼ばれたのである。しかし実際、乙種出身者のほとんどは中学校卒業していたため後々軋轢を生むこととなる。

 それはともかく上平中尉はその甲種予科練の第一期生であった。採用人数は250名で、戦闘機専修の同期にはトラック島空襲で戦死する前田英夫飛曹長、竹中義彦中尉、松田二郎中尉がいる他、戦闘機以外でも「B-29撃墜王」として有名な遠藤幸男大尉もいる。

 予科練を修了した上平中尉は、大分空、大村空で訓練を受けたのち、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊に配属された。1940年には12空に配属、初めての戦地に向かった。太平洋戦争開戦直前の1941年10月には新編の台南空に異動、開戦初期の比島・蘭印航空戦に活躍する。

 1942年4月、台南空が25航戦に編入された際、上平中尉は内地帰還組となった。内地帰還後は6空に異動、ミッドウェー海戦にはミッドウェー島占領後の「ミッドウェー航空隊」の要員として空母隼鷹に乗艦していたが、ミッドウェー海戦で日本側が敗北したことにより内地に帰還する。1943年10月には新編の381空に配属、セレベス島ケンダリー基地に進出した。以降、負傷して内地に帰還するまでバリクパパン油田防空戦等に活躍する。本土帰還後は教員としえ終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 予科練習生は15、16歳の若年者から採用したため操練等に比べて比較的年齢が若い。甲飛1期ですら太平洋戦争開戦時には年齢は21歳前後であり、終戦時でも25歳前後であった。しかし戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を経ているため太平洋戦争開戦時には中堅下士官として力を発揮した。他のクラスの例に漏れず戦死者も多く、戦闘機専修者では約70%が戦死している。

 

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01_零式観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

河村一郎飛曹長の経歴

 

 河村一郎飛曹長は1920年8月27日、山口県で生まれる。1938年6月海兵団に入団。戦艦伊勢乗組を経て1939年3月第41期操縦練習生として鹿島航空隊に入隊する。1940年10月水上機母艦瑞穂乗組みとなり、南支那方面航空作戦に参加した。1941年12月、開戦と共にフィリピン、蘭印攻略作戦に参加、翌1942年1月には英空軍の爆撃機を撃墜する。その2か月後、さらに爆撃機を撃墜。5月館山航空隊教員として本土に帰還するが、7月水上機母艦国川丸乗組みとなりラバウル、ショートランド基地に進出する。1943年1月27日、船団上空哨戒中に戦爆連合38機編隊を発見、僚機と共に突入する。

 6月船団上空哨戒中に戦爆連合に遭遇、単独でB17、艦爆各1機を撃墜するが自身も負傷してしまう。1943年9月百里原航空隊へ転属する。そこで陸上機転換訓練を受けて戦闘機搭乗員となる。5機撃墜のエースが戦闘機搭乗訓練を受けた訳である。1944年2月三亜航空隊付、6月には高雄航空隊で教員配置に就く。10月に台湾沖航空戦に参加した後、12月戦闘901飛行隊配置、のちに戦闘901飛行隊は131航空隊に編入されている。1945年4月から沖縄航空戦に参加し、数次の夜間攻撃を行う。8月岩川基地で終戦を迎える。

 

水上機から戦闘機へ転科

 

 河村飛曹長は1920年生まれで、開戦時は若干21歳であったが、開戦前に十分な訓練を受けて日中戦争を経験した後に太平洋戦争に参加している。河村飛曹長が搭乗したのは戦闘機ではなく、偵察が主任務の複座水上機であったが、持ち前の闘志で開戦当初に複葉観測機でありながら1機を撃墜した。

 一時期内地で教員配置をしたのち、「搭乗員の墓場」ソロモン方面に進出する。ここで船団護衛中に敵戦爆連合約38機を確認、船団を護るために単機で突入、被弾、負傷する。その後も「搭乗員の墓場」で戦い続け、B17を1機、艦爆1機を撃墜する戦果を挙げるが自らも負傷、1943年7月、病院船氷川丸で内地に帰還する。

 生死を賭けた戦場での河村飛曹長は非常に厳しかったようで、のちに5機を撃墜することになる中芳光飛曹長(当時一飛兵)は、敵機の攻撃で回避して命中弾を受けた時、河村飛曹長に「当たったタマ数を数えてこい」と言われ、数えて来るとその数だけ殴られたという。これは河村飛曹長の空戦哲学で撃ってきた敵に向かっていかなければならないという方針に背いたせいであった。

 実際、中一飛兵は敵弾を回避しようとした時に被弾したとのちに語っている。これは戦後に戦史研究家である梅本弘氏に対しても同じことを語っている。これに対して著名な戦闘機搭乗員である坂井三郎は全く逆のことを言っており、梅本氏を混乱させている。

 太平洋戦争中盤以降になると陸上機の搭乗員不足が深刻になると同時に水上機の活躍の場が少なくなってきたため、陸上機に転科させられることが多くあった。河村飛曹長は同年陸上機転換訓練を受け戦闘機に転科する。因みに同じく零式観測機搭乗員であった甲木清実飛曹長も戦闘機に転科している。零観は偵察機でありながら空中戦を行うことも想定して設計された機体であったためか零観出身者でその後、戦闘機に転科した搭乗員が複数いるというのは面白い。

 戦闘機搭乗員となった河村飛曹長は三亜空を経て高雄空で台湾沖航空戦に参加したが、その後、901空131飛行隊に配属される。この部隊は美濃部少佐率いる有名な「芙蓉部隊」である。この芙蓉部隊隊員として沖縄戦に参加、数度の夜間攻撃を行う等「南方帰りのベテラン」の技量の高さを示した。

 

河村一郎飛曹長関係書籍

 

大空のエピソード (新戦史シリーズ)

渡辺洋二 著
朝日ソノラマ (1990/9/1)

 航空史家渡辺洋二氏の短編集。渡辺氏は実証的な研究をすることで知られている航空史家の第一人者。魅力的な航空史のエピソードを紹介している。第1章「南太平洋の零観たち」に上述の河村飛曹長のエピソードが登場する。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 冒頭部分に著者が中飛曹長から聞いた河村飛曹長の上述の話が載っている。本書はあまり知られていない水上機隊の活躍が克明に描かれており貴重。

 

まとめ

 

 河村一郎飛曹長は、複葉偵察機である零式観測機で零戦でも撃墜困難と言われている空の要塞B17を撃墜するという偉業を成し遂げている。水上機搭乗員は戦争後期に水上機の活躍の場が無くなってきたのと同時に陸上機の搭乗員不足から機種転換訓練を経て多くの水上機搭乗員が陸上機に異動している。河村飛曹長は1943年に機種転換訓練を受けるが、偵察機搭乗員でありながら戦闘機を選択するというのはやはり惹かれるものがあったのだろうか。水上機から陸上機への転科は出来ても逆は出来ないと言われるほど水上機の難易度は高い。その技量を買われたのだろう。教員配置の後は夜間攻撃に活躍している。河村飛曹長は大戦を生き抜き無事終戦を迎える。技術と強運を共に備えた人物であった。総撃墜数は5機といわれている。

 

 

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 渡辺秀夫飛曹長は太平洋戦争開戦直前に訓練が終了。太平洋戦争で実戦に参加した戦中派パイロットである。弱冠23歳の下士官でありながら部隊を指揮したこともある実力派であった。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。

 

渡辺秀夫飛曹長の経歴

 

略歴

 大正9年福島県出身。昭和12年海兵団入団。昭和15年11月予科練丙飛2期に採用される。その後第12期飛練に進み、開戦直前の昭和16年11月飛練を修了。延長教育の後、昭和17年3月マーシャル諸島に展開する千歳空に配属された。昭和18年3月204空に異動、ラバウル、ブインに進出する。8月26日空戦中に重傷を負った後本土に送還される。昭和20年6月輸送部隊である1081空配属で終戦を迎える。戦後は村役場、市役所で定年まで勤めた。2002年6月3日死去。

 

ラバウルでの活躍

 渡辺飛曹長は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇飛曹長、伊藤清飛曹長等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。

 この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。

 

海軍時代をどう捉えるのか

 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

 

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」

(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 

 と語っている。この「ああいう人間」とは誰を指しているのか大体推測できる。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し「ああいう人間」に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。

 渡辺氏のような見方をする人が素晴らしいのと同時に「ああいう人間」のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも素晴らしいことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

渡辺秀夫飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 渡辺秀夫氏へのインタビューが掲載されている。上記武功でもらった「武功抜群」の刀を携えての写真もある。読んでいると渡辺氏の前向きな性格が良く分かる。

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 渡辺氏はラバウル時代のことを書いた「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」という手記を寄稿している。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 中盤に渡辺氏の証言が出て来る。ラバウル時代について語ったもの。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。渡辺氏も同飛行隊に所属していたため本書中に頻出する。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎、甲木清美など独自に調査している。渡辺氏についても項目を立てて詳述している。

 

まとめ

 

 渡辺秀夫飛曹長の経歴は千歳空と204空、負傷後に配属された輸送部隊1081空と少ないが、数ヶ月に及ぶラバウル航空戦を生き抜いた勇者だった。負傷によって片目の視力を失うがそれにも負けない前向きさを持った人物であった。

 

奥村武雄 (画像はwikipediaより転載)

 

 奥村武雄は、日中戦争から太平洋戦争中盤にかけて戦った戦闘機搭乗員で、総撃墜数は公式記録からみると30機前後であるが、一般には54機撃墜といわれている。

 

奥村武雄の経歴

 

 奥村武雄の経歴を簡単にみてみよう。奥村は、大正9年2月27日、福井県に生まれる。昭和10年6月呉海兵団に入団。昭和13年2月第42期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。9月卒業。大分空で戦闘機専修教育を受け、大村空に配属される。昭和14年9月14空に配属され日中戦争に参加、実戦を経験する。その後、大分空で教員配置ののち、昭和17年空母龍驤戦闘機隊に配属される。

 第二次ソロモン海戦で母艦龍驤が撃沈されたため、ラバウルに展開している台南空に転属する。昭和17年12月本土に帰還。大分空で教員配置につく。昭和18年5月201空に配属、7月にはブーゲンビル島ブイン基地に進出する。9月14日には1日で10機撃墜という日本海軍の最高記録を樹立するが、8日後の9月22日、空戦中に未帰還となった。

 大正9年生まれ、つまりは1920年生まれ、海兵団に入団したのがなんと15歳、操縦練習生を卒業したのは18歳というかなりの若手。太平洋戦争開戦時21歳といえば通常なら飛練を出たての新米だが、この奥村武雄、もう一年以上の実戦経験を持つベテラン搭乗員であった。1920年生まれといえば、有名な撃墜王西沢広義、杉山輝夫、渡辺秀夫、前田英夫、小町定等がいる。甲種予科練出身者以外はほとんど実戦経験がない。

 特に操練出身者は日中戦争当時はまだ訓練生であった。経歴をみれば分ると思うが、奥村は、内地での教員配置が多い。戦地にいたのは日中戦争の1年数か月、龍驤乗組からの半年、201空時代の3ヶ月。操練卒業から5年間の部隊経験があるが、実戦部隊に配属されていたのは、トータルで2年強。残りは教員配置だった。

 その上、戦争中盤で戦死してしまっているので注目されることが少ないが、一日10機を撃墜するという前代未聞の記録を打建てた搭乗員である。空戦技術に絶対的な自信を持ち、先輩の搭乗員である樫村寛一や羽切松雄などと空戦をしても負けなかった三上一禧が唯一、後方に付かれ振り払うことが出来なかったのがこの奥村武雄だったそうだ

 空戦に天性の勘を持つという三上のバックを取った奥村は三上の3歳年下で、操練では5期下であった。奥村の空戦の腕がどれだけのものだったのか分かるだろう。但し、撃墜数の54機は誇張が含まれていると言われている。研究者によっては30機前後としているが、そもそも第二次世界大戦の撃墜数自体が誤認と希望的観測を多分に含んだ誇張された数であるのでカウントすることにあまり意味はないだろう。梅原氏の研究のような形で判明すればそれはそれで興味はあるが。

 

 

奥村武雄関連書籍

 

神立尚紀『証言零戦生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

神立尚紀『ゼロファイター列伝』の文庫化。零戦初出撃に参加した搭乗員、三上一禧氏、日高盛康氏等の貴重なインタビューが載っている。その他にも吉田勝義氏など、自身の経験を書籍化していない元搭乗員達のインタビューがあるのは貴重。

 

 三上一禧氏のインタビューでパイロットには天性の勘があるという話は面白い。天性の勘があると自任する三上氏は、圧倒的に飛行時間が多い片翼帰還で有名な樫村寛一少尉、羽切松雄氏にすら負けなかったという。しかし後輩である後の撃墜王奥村武雄上飛曹は空中戦訓練の際、どうしても振り切ることが出来なかったという話は面白い。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。本書では台南空での奥村武雄上飛曹の空戦の様子が分かる。天才と言われた奥村上飛曹でもやはり誤認戦果は多かったようだ。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

小町定
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日、紹介するのは日本海軍航空隊撃墜王小町定である。小町氏は1920年生まれ、操縦練習生49期を修了後、空母翔鶴に配属される。日中戦争には参加しておらず、初陣は真珠湾攻撃であった。基本的に母艦搭乗員は特に優秀な隊員が配属されるという。初の実戦配置が航空母艦であったというのは練習生時代の評価が高かったのだろう。

 

小町定の経歴

 

 小町定は、大正9年石川県に生まれる。昭和13年呉海兵団に入団。半年間訓練を受けたのち戦艦扶桑に配属された。操練49期に採用され霞ヶ浦空、百里ヶ原、昭和15年1月大分空、昭和15年6月大村空配属、昭和15年10月、空母赤城、昭和16年5月空母翔鶴乗組。インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。

 昭和17年11月大村航空隊教員。昭和18年11月204空に転属、ラバウル航空戦に参加する。昭和18年12月253空に異動する。昭和19年2月253空と共にトラック島に後退。昭和19年6月、253空隊員として「あ」号作戦参加。トラック島から病院船氷川丸で内地に帰還する。昭和19年峰山空教員、昭和20年6月横空。

 

真珠湾攻撃・その後

 小町定は操縦練習生終了後、大村空を経て、当時の新鋭空母翔鶴乗組となる。その後翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃では機動部隊の上空直掩に参加した。真珠湾攻撃時の上空直掩任務には撃墜216機と言われる岩本徹三、50機撃墜の岡部健二、15〜16機撃墜の原田要、12機撃墜の佐々木原正夫等、何故か後の撃墜王が多数配置されている。

 熟練者を優先的に上空直掩に充てたという話もあるが、小町、佐々木原はこの当時、実戦未経験でありこの説は当たっていないと思う。その後、小町は珊瑚海海戦、南太平洋海戦に参加、小町は俗に損害担当艦といわれた翔鶴乗組だっただけに特に戦闘は辛酸を極めた。小町は翔鶴損傷のため空母瑞鶴に着艦したが乗機が被弾していたため海中に投棄された。

 1942年11月に翔鶴戦闘機隊を離れ、大村航空隊での教員となる。ここには坂井三郎(64機撃墜)、磯崎千利(12機撃墜)、南義美(15機撃墜)、中仮屋国盛(16機)、島川正明(8機)、本田敏秋(5機)等、多数の撃墜王達が教員として配属されていた。

 1943年11月、ラバウルに展開する204空付を命ぜられ、翌12月253空付となる。ここで激烈な航空戦を経験した後、1944年2月、小町を含む253空はトラック島に後退した。1944年6月、「あ」号作戦の一環としてサイパン島攻撃に出撃、グアム島に着陸寸前に米艦載機の奇襲を受け撃墜される。

 数日後、一式陸攻でグアムを脱出、トラック島から病院船氷川丸で日本本土に帰還する。1945年7~8月(恐らく8月)、3月に新設された峯山航空隊教員付となる。そこで美保、三重航空隊で基礎教育を修了した甲飛13期学生の中練教程を行う。1945年6月横須賀航空隊付となり終戦を迎える。戦後は戦犯として逮捕されるという噂から東京に行き、材木商となり、建設業に事業を拡大、都内の貸しビルのオーナーとなった。2012年7月15日老衰により逝去。総撃墜数は同僚によると40機以上と言われるが本人は20機程度だと語る。

 余談であるが、エース列伝には激しい性格の荒武者パイロットとなっているが、小町は教員時代、体罰を一切行わず教え子達からの信頼は絶大なだったようで、当時、小町が所属していた航空隊に教え子達が配属された時も小町の隊に入りたいと教え子同士で喧嘩になったことすらあるという。

 

小町定関係書籍

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 18機撃墜と言われている小町定氏へのインタビュー本であるが、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。著者の川崎氏は、小町氏の経験を上手に引き出すことに成功している。生前の小町氏にインタビューを元にした川崎氏の著書。当時の搭乗員の気持ちや作戦に参加した際の貴重な記録が満載。この手の本はあまり人気がないのである時に買っておいた方がいい。もちろん私は発売された直後に購入した。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 海軍搭乗員の取材に定評のある神立尚紀氏インタビューによる本。小町定へのインタビューもある。内容は主に戦争中の話だ。『日本海軍戦闘機隊』『日本海軍航空隊のエース』にはない人間小町定がここにいる。

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 神立尚紀氏による海軍戦闘機搭乗員へのインタビュー集。小町定へのインタビューは主に戦後について語っている。元軍人は民間で通用する職歴も技術もなく苦労する。騙されたりしながら真心を大切にしてビルオーナーにまでなる。戦後、海軍戦闘機搭乗員の集まりである「零戦搭乗員会」が結成されるが事務所は小町定所有のビルに設置された。

 

まとめ

 

 小町定は太平洋戦争初期から終戦まで戦い抜いた熟練搭乗員だ。小町の出身である操練40期台は太平洋戦争初戦から「新米」として実戦に投入され他のクラス以上の死亡率を記録した。小町は当時の海軍航空隊のエリートである母艦搭乗員から始まり激戦のラバウル、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊で終戦を迎える。

 強面の見掛けと異なり、心が優しく部下に対して暴力を振るうこともなかった。故に部下には慕われ列機の位置の取り合いも起こった。戦後、神立氏のインタビューに対しても「ツンデレ」の部分を見せている。このインタビューを読むと小町定がどうして人望を集めたのかが分かる。

 

 

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西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

 

西澤廣義の経歴

 

 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。

 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還。昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動。

 同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。

 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。

 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。

 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。

 当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。

 さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。

 

西澤廣義関連書籍

武田信行『最強撃墜王』

 本書は西沢氏のかなり綿密な取材のを基に執筆されている。西澤氏の親族への聞き取りや西沢氏自身が書いたノートなどを参考に書いているため信ぴょう性は高いと感じる。西澤廣義の記録としてはこれ以上はない秀作。

 

吉田一『サムライ零戦記者』

 戦場カメラマンとしてラバウルに進出した吉田一氏の著作。太平洋戦争初期の比較的日本軍が優勢だった時期のラバウルだが当初から激しい戦闘が繰り広げられていたのが分かる。吉田氏自身、かなり腹の座った男だったようで、陸攻に同乗したりもしている。興味深いのは、のちに撃墜王を綺羅星の如く排出するようになる台南空の記録だ。

 のちにエース列伝を賑わせることになる、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等の台南空のエースパイロット達の素顔がみえる。吉田氏は人懐っこい性格だったようで、彼らも本心をさらけ出している。「俺は何機落としたら表彰されるのかな」と不満げな顔の西澤廣義などの描写が面白い。西澤廣義やその他のパイロットについても描写があるので零戦パイロット好きには外せない。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 私が好きな海軍戦闘機パイロットの一人角田和男氏。エースリストでは撃墜数9機となっていたはずだ。実際に何機だったのかは分からないが、映画やアニメと違って実際には、ほとんどのパイロットは1機も撃墜しない。その中で敵機を1機でも撃墜したというのはすごいことだ。著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。本書の比島の部分に西澤廣義と岩本徹三という二大エースが議論になる部分がある。巴戦(ドッグファイト)に参加しない岩本徹三に対して西澤は、

 

「岩本さん、それはずるいよ」

「でも俺が落とさなきゃ奴ら基地まで帰っちゃうだろ」

 

 それぞれの戦い方が分かるやりとりが面白い。

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。それ以外にも唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。

 

野村了介ほか『空戦に青春を賭けた男たち』

本書は月刊『丸』に掲載された戦闘機パイロットたちの手記を集めたもの。野村了介や柴田武雄という高級士官の手記もある。特にパイロットということで戦闘303飛行隊長であった岡本晴年少佐、母艦戦闘機隊のエース斎藤三朗少尉、その他あまり記録を残していない柴山積善氏等も執筆している。安倍正治氏の手記に西澤廣義とのやりとりについて詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 以上、最強撃墜王西澤廣義についての概略と参考書籍について書いてみた。ネットで調べてもそれなりの情報は出て来るが、さらに詳しく知りたい方は本を読むことをおすすめする。

 

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