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1919年生まれ

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(画像はwikipediaより転載)

 

 

 1919年10月5日香川県に生まれる。1936年佐世保海兵団入団。磐手、千歳、長良乗組の後、1939年10月航海学校に入校。1940年5月砲艦熱海乗組。ののち1940年11月予科練丙2期に採用、土浦空での訓練課程を経て百里原空で飛練12期訓練を受ける。1941年11月、修了と同時に横空配属。1942年10月252空に配属。11月9日ラバウルに進出した。1943年2月252空の移動と共に内南洋方面に移動。11月末から1944年1月末までマロエラップ島で迎撃戦に従事した。2月には内地へ帰還。4月には空地分離で戦闘302飛行隊所属となる。6月には八幡空襲部隊第2陣として硫黄島進出。10月には比島に進出した。11月飛曹長進級。1945年1月343空戦闘301飛行隊に配属、本土防空戦に活躍しつつ終戦を迎えた。

 

宮崎勇少尉の激闘

 

 宮崎勇少尉は広島県呉出身で父親は呉海軍工廠に勤めていた。のちに片翼帰還で有名になる樫村寛一少尉と同じ、広島県丸山中学を中退、1936年6月1日佐世保海兵団に入団した。11月に基礎教程が終わり練習艦磐手に配属、乗員として遠洋航海にも参加している。その後も水上機母艦千歳、軽巡長良と艦隊勤務を経て1939年10月海軍航海学校に入校したのち、1940年砲艦熱海乗組となる。

 1940年、砲艦熱海艦内で丙種予科練2期生の採用試験を受験した。この時、試験中に問題が分からないで悩んでいると部屋に先任将校と通信長が入ってきて、「解答」を雑談し始めたという。結果、満点で合格。宮崎一水が上官から可愛がられていたのが分かる。1940年11月、宮崎三曹は適性検査にも合格、予科練丙飛2期に採用された。

 その後、飛練12期生として百里原空で訓練を受け、さらに艦爆専修として宇佐空で訓練を受けた後、戦闘機に転じ横空へ異動した。そこでは同じ中学の先輩、「片翼帰還の樫村」から1年にも及ぶ猛烈な指導を受けることとなる。この樫村飛曹長の列機として訓練を受けていた1942年4月18日、ドーリットル隊の本土爆撃を迎撃に参加している。

 この時、米空母の接近の報を受けて離陸したものの米機がまさか双発爆撃機だとは思わず、陸軍の双発戦闘機が飛行しているとの情報もあり、B-25爆撃機を取り逃がしている。このことは後年になっても悔しがっていたというが、これは樫村飛曹長や宮崎三飛曹の失態というよりも日本の防空体制の脆弱性の問題であろう。

 

252空に異動、最前線のラバウルへ

 1942年10月、宮崎二飛曹に木更津で編成中の252空へ異動、11月9日ラバウルに進出した。到着3日後の11月12日に初出撃、以降連日の航空戦に参加、12月14日、1943年1月17日には被弾不時着、鱶や鰐のいる海を泳ぎ生還している。1943年2月には252空は中部太平洋に移動、宮崎上飛曹もウェーク島に進出した(のちマロエラップ)。10月6日にはウェーク島に米機動部隊が来襲、増援としてマロエラップを出撃、初めてF6Fと空戦を行った。

 この空戦で宮崎上飛曹以下3名は自機の位置を喪失、太平洋上空に孤立してしまった。その後、敵機動部隊を発見、機動部隊上空を「味方機のように」旋回、敵攻撃隊が帰っていた方向に飛行してウェーク島に着陸するという奇跡的な生還を果たしている。11月24日、25日にはマキンに上陸した米軍を爆撃するために一部を爆装化した零戦隊で出撃、大損害を受けた。

 これら一連の戦闘で252空は壊滅、残存搭乗員は1944年2月5日、マロエラップを脱出、トラック島からサイパンへ行き、そこから二式大艇で内地に帰還した。内地に帰還した宮崎上飛曹始め252空残存隊員達は部隊の再建を開始する。4月には空地分離のため252空残存搭乗員は戦闘302飛行隊に所属することとなる。米軍のマリアナ進攻によりあ号作戦が発動されると252空も横空を中心に編成された八幡空襲部隊に参加、第二陣として6月25日に硫黄島に進出した。この米機動部隊相手の空戦で252空はまたもや壊滅、再度内地で再編を行うこととなった。この空戦の後、宮崎上飛曹は海面に浮かぶ無数の墜落跡を見て恐怖を覚えたという。

 

比島進出から343空、そして終戦

 1944年10月、252空は比島に進出、252空にもいよいよ特攻隊への「志願」が行われた。特攻への覚悟を決めていた宮崎上飛曹であったが、突如、岩本徹三少尉、斎藤三郎少尉とともに内地への飛行機受領命令が出た。恐らくこれは貴重な熟練搭乗員を救出するための命令であったのであろう。内地に戻った宮崎上飛曹は11月に飛曹長に昇進、1945年1月、新たに編成中の343空戦闘301飛行隊に配属された。

 この343空は最新鋭機紫電改を装備、松山上空で大戦果を挙げるが、この頃から宮崎飛曹長は航空神経症に悩まされる。その後は大きな空戦に参加することもなく長崎県大村で終戦を迎えた。終戦後は郵便自動車の運転手、雇われ社長を経て酒店の経営を行っていたが、戦後も航空神経症の後遺症と原爆からの被爆の影響で大病に悩まされることとなった。総撃墜機数は13機といわれている。

 

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。全体的には、宮崎勇少尉の記録としては『帰って来た紫電改』よりも本書の方が詳しい。

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。

 

まとめ

 

 丙飛2期の戦闘機専修者は37名、その他艦爆、艦攻からの転科者を含めると65名の戦闘機搭乗員がいた。内、終戦を迎えることができたのはわずか12名である。その半数近くはソロモン・ラバウルの航空戦に散っていった。この中で生き残った宮崎少尉であったが、航空神経症の後遺症や戦中に受けた原爆の放射能の被爆により白血球異常、1966年には失明、回復したものの1976年には航空神経症の後遺症と思われる硬膜下血腫に倒れた。一命はとりとめたものの、晩年まで戦争の恐怖に苛まれていた。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

谷口正夫少尉の略歴

 

 1919年1月7日福岡県に生まれ、1936年海軍に入団。1940年7月51期操練を卒業、1941年4月赤城乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。ハワイ、ダーウィン、コロンボ攻撃、ミッドウェー海戦後、翔鶴乗組に転じ、第2次ソロモン、南太平洋両海戦に参加した。11月大村空に異動、1943年7月新編の331空に異動、12月5日のカルカッタ攻撃に参加。12月201空に配属されてラバウルに進出。1944年1月末、トラック島に後退する。2月17日米艦載機のトラック空襲撃激戦、3月戦闘305飛行隊に異動、3月30日のペリリュー迎撃戦に参加、比島に転進、10月23日マニラ上空の空戦で重傷を負って本土へ送還されて終戦を迎えた。

 

1航艦を渡り歩いた男

 

 谷口正夫少尉は、操練51期出身で、同期の戦闘機専修者はわずか6名、翌期の52期に至っては戦闘機専修者ゼロと戦闘機無用論の影響なのかそれとも教育を50期と同時に開始したことが関係しているのか、戦闘機専修者が極端に少なくなっている。操練51期は訓練開始早々に1名を事故死で失い5名が卒業している。内2名が終戦まで生き残った。

 谷口少尉は実用機課程修了し、1941年4月には空母赤城乗組となった。この母艦搭乗員とは優秀者を中心に選抜されるものなので谷口少尉の操縦は一定以上に評価されていたのだろう。1941年12月空母赤城戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた谷口少尉は、真珠湾攻撃、ポートダーウィン攻撃、コロンボ攻撃に参加、1942年4月9日のトリンコマリ攻撃では初撃墜を報告している。1942年6月のミッドウェー海戦では機動部隊の上空直掩に従事したが母艦赤城が撃沈されたため駆逐艦に救助されて本土に帰還している。

 1942年7月には空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳により新しく編成された第1航空戦隊に翔鶴戦闘機隊員として配属、8月の第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。11月には大村空教員として内地に帰還、しばらく教員配置に就くが、1943年7月には新たに編成された331空に配属された。この331空は艦戦と艦攻の混成部隊で戦闘機隊の隊長は台南空で有名を馳せた新郷英城少佐で、隊員には操練17期のベテラン赤松貞明中尉、岡野博飛曹長、中谷芳市飛曹長等が在籍している。

 この331空隊員として谷口少尉は8月にはスマトラ島北部のサバン島に進出、12月には海軍中攻隊、陸軍航空隊と共同でインドのカルカッタを空襲した。その後、谷口少尉はラバウルに展開する201空に異動、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに進出する。この時のラバウル航空戦はすでに末期の様相を呈しており、劣勢であった中、谷口少尉は連日の航空戦に健闘した。

 1944年1月、1ヶ月あまりの空戦の後、201空はサイパン島に後退、機材は全てラバウルに残してきたため内地で零戦23機を受領して2月11日には零戦がサイパンに到着した。谷口飛曹長は内8機を指揮、ラバウルへ先発するためにトラック島に進出したが、2月17日のトラック島空襲に遭遇、谷口飛曹長も果敢に迎撃戦を戦ったものの零戦全機を失った。

 3月4日の改編により201空戦闘305飛行隊に編成替えとなった谷口飛曹長を含む戦闘305飛行隊は、その後、グアム島を経てペリリュー島に移動したものの3月30日に米機動部隊の攻撃を受ける。谷口飛曹長も激撃したものの衆寡敵せず未帰還機9機、大破9機不時着2機と201空20機の全機が使用不能となってしまった。このため201空は再建のためダバオに後退した。

 5月中旬、内地から新たに春田虎二郎大尉率いる戦闘306飛行隊を迎え2個飛行隊編成となった201空はセブ島を拠点に迎撃戦を展開するが、谷口飛曹長は10月23日マニラ上空の空戦で被弾不時着し、重傷を負ったため本土へ送還されたのち療養中に終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれているが実数は不明である。

 

まとめ

 

 谷口少尉は延長教育修了後、数ヶ月で第1航空戦隊所属の赤城の母艦搭乗員として選抜されている。当時の1航戦は各航戦の中でもトップクラスに熟練者の多い部隊であった。ここに選抜されていることからも谷口少尉の技量の評価が高かったことが窺える。母艦搭乗員を歴任、インド、南方と戦い抜いた谷口少尉は、負傷をしつつも終戦まで戦い抜いた。同期で終戦まで生き残った隊員は他に河野茂少尉のみで2005年に他界している。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

日高義巳上飛曹の経歴

 

 1919年鹿児島県屋久島に生まれる。1936年佐世保海兵団に志願。1937年には重巡足柄乗組となりジョージ6世戴冠記念観艦式の招待艦乗組員としてイギリスに派遣される。1939年6月操縦練習生48期に採用され戦闘機搭乗員となる。1940年1月操縦練習生修了。1941年10月1日台南空に配属される。その後204空に異動、1943年4月18日、山本五十六大将乗機が撃墜された際には護衛を務めた。同年6月7日、「ソ」作戦に参加。戦闘中未帰還となる。

 

死亡率77%の操練48期

 

 日高上飛曹は操練48期、同期の戦闘機専修は13名で、中にはラバウル航空戦で2週間で18機を撃墜した記録を持つ荻谷信男上飛曹もいる。操練の40、50期クラスは太平洋戦争中に中堅搭乗員として酷使されたクラスで13名中、3名が開戦前に戦死、開戦一年後にはさらに3名が戦死、1943年には日高上飛曹を含む2名が戦死、1944年には萩谷信男上飛曹を含む2名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか2名(または3名)、死亡率77%というクラスであった。戦死後、当時の204空司令杉山丑衛大佐が肉親へと宛てた手紙によると撃墜20機とある。

 

日高義巳上飛曹関係書籍

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死するという壮絶な記録。

 本書は日高上飛曹の親族に取材して書いたもののようで日高上飛曹が親へ宛てた手紙、杉山司令から親への手紙等の内容が詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 日高上飛曹は山本五十六大将戦死時の護衛戦闘機6機の内の1機として有名である。日本の搭乗員全般に言えることであるが、日高上飛曹の出身期である操練のこの前後のクラスは特に酷使されており非常に生存者が少ないクラスである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。

 

岩井勉中尉の経歴

 

略歴

 大正8年京都府生まれ。昭和13年8月乙6期予科練の飛練課程修了。佐伯空、大分空に異動する。昭和14年2月大村空配属。5月鈴鹿空配属。昭和15年1月12空配属。9月13日の零戦初空戦に参加した。11月本土へ帰還。筑波空、佐伯空配属。昭和17年2月大村空で教員配置。9月結婚する。11月空母瑞鳳乗組。昭和18年1月ラバウル進出。4月には「い」号作戦に参加した。作戦終了後内地帰還。訓練に明け暮れる。7月瑞鳳戦闘機隊として再度南方進出。昭和19年1月二代目台南空に配属。8月再建中の601空配属。レイテ沖海戦に参加する。11月内地に帰還、昭和20年4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。戦後は1年間兵器処理委員会に所属。経理を学び以後は経理の道を歩む。2004年4月17日死去。享年84歳。

 

瑞鳳戦闘機隊に配属

 岩井勉中尉は戦後まで生き残った数名の零戦初空戦の搭乗員の一人である。他には進藤三郎少佐、三上一禧氏がいるのみである。日中戦争で実戦経験を踏んだ上で太平洋戦争に臨んだ熟練搭乗員である。開戦時は内地で教員配置についていたが、昭和17年11月。空母瑞鳳乗組を命ぜられる。以降、岩井中尉は終始母艦戦闘機隊員として活躍することとなる。この時、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けた。岩井氏は、この言葉によって今日まで生き残って来られたという。

 岩井中尉が配属された空母瑞鳳は改造空母であり、正規空母に比べて飛行甲板が小さかった。故に岩井中尉のような熟練搭乗員が選抜されたのだろう。空母瑞鳳は空母翔鶴、瑞鶴と共に第一航空戦隊を編成、昭和18年1月にラバウルに進出する。「い」号作戦参加の後、4月には内地に帰還。7月、再度南方に進出し激戦を戦った。

 

台南空・601空に配属

 昭和19年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。この時に、亀井勉中尉のあまりの技量の高さから訓練生達から「ゼロファイターゴッド(零戦の神様)」と呼ばれたという。因みにこの部隊の先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹である。

 その後、母艦戦闘機隊である601空配属。レイテ沖海戦に参加、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。

 

岩井勉中尉関係書籍

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 岩井氏の自著。日中戦争から太平洋戦争終戦までが描かれている。空戦の話以外にも翼に神様が乗っている等の興味深い話もある。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏による零戦搭乗員のインタビュー集。岩井勉中尉へのインタビューもある。戦後の話等、自著とはまた違った話もあり面白い。

 

まとめ

 

 岩井中尉は日中戦争以来の熟練者で太平洋戦争では母艦戦闘機隊員として活躍した。総撃墜数は22機と言われるが、特筆すべきはその間に1発も被弾しなかったことだろう。恐らく陸海軍航空隊の中でもこれだけの戦果を挙げた搭乗員で被弾ゼロは皆無であろう。熟練者中の熟練者であった。

 

岩井 勉 著
藝春秋 (2001/12/7)

 

 海軍母艦戦闘機隊のエース、岩井勉氏の著書である。岩井氏は大正8年京都府生まれ、乙6期予科練生として横須賀航空隊に入隊。昭和15年には日中戦争に参加、何と零戦初空戦にも参加しているというすごい人だ。10年程前まで御健在であったが2004年4月17日他界された。

 岩井氏のすごさは当時でいう「支那事変以来のベテラン」であるだけでなく、当時、腕のいい搭乗員が選抜されるという母艦戦闘機隊隊員としてラバウル航空戦に参加、数々の戦果を挙げただけでなく、その間に被弾ゼロだったという奇跡ともいえる記録を持っていることだろう。この記録を持っていれば当然であるが無事終戦を迎えた。

 この被弾ゼロに関しては本書に面白い記載がある。戦時中一時帰郷した際、鞍馬寺で導師に憑依した大力権現が郷里の人には伏せていた戦闘で怪我をしたことを見抜き、さらには「お前の飛行機の左翼の上には、いつでもこの大力権現が乗ってやっている。思う存分戦うがよい」と言われたという。神様のお墨付きであったようだ。

 教員時代に「ゼロファイターゴッド」と訓練生にあだ名を付けられた岩井氏は操縦は飛行時間の大小によって決まり空戦の優劣は実戦経験の多寡によって決まるという。そして海軍に対しては古い操縦練習生出身者、ならびに予科練出身者に対し進級を早くし、高度の指揮権与えてほしかったという。

 その後岩井氏は特攻隊に編入されるが結局、自分だけが生き残ったという自責の念を持ったようだ。ここらへんの気持ちは当時の同じ境遇にいた人にしか分らないことなのだろう。本書は戦後70年過ぎ、多くの零戦搭乗員が鬼籍に入られた現在においては貴重な歴史の記録であるといえる。

 

 

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太田敏夫
(画像はwikipediaより転載)

 

 坂井三郎『大空のサムライ』に登場し一躍有名になった零戦搭乗員である。太平洋戦争開戦後に初空戦を経験し、戦死する1年弱の間に34機を撃墜したといわれている。最後の空戦では連合軍の7機撃墜のエースを撃墜したのち、連合軍の6機撃墜のエースフランク・ドル―リー中尉に撃墜され戦死した。

 

太田敏夫の経歴

 

 大正8年長崎県に生まれる。高小卒後、昭和10年佐世保海兵団に入団。昭和14年9月、46期操練を卒業後、大村空、ついで谷田部空に配属される。昭和16年6月第12空に配属。日中戦争に参加する。10月台南空に異動して開戦を迎える。初期の航空撃滅戦を戦い、昭和17年4月、台南空の一員としてラバウルに進出する。初期のガダルカナル航空戦を戦ったが、10月21日空戦中に戦死した。

 中国戦線に行ったのち、太平洋戦争では台南航空隊隊員として航空撃滅戦に参加、ラバウルに進出する。そこで撃墜を重ねるが、1942年10月に戦死してしまう。この一年足らずの間に34機を撃墜したというから相当なものだったのだろう。西沢広義ですらこの間の撃墜は30機だったと記憶している。坂井が28機、笹井が27機だったと思うので太田の34機というのは相当な数であったといえる。

太田が卒業のは操練46期であるが、この期は珍しく撃墜王は太田以外には出ていない。そしてこの46期には太平洋戦争を生き残った者は一人も居なかった。太田も1942年10月21日行方不明、戦死と認定された。すでに太田が戦死する以前に46期は9名中5人がすでに戦死していた。近年、調査によって太田敏夫の最後が明らかになった。太平洋戦争の熾烈な空中戦の中で最後が判明するというのは珍しいことだ。太田が戦死した10月21日、太田はガダルカナルへの爆撃機の援護作戦に参加し、米軍機との空中戦となった。

太田はすぐに一機を撃墜したが後方に付かれたため上昇しようとした時米軍機の弾が命中し太田は不帰の人となった。因みに太田が撃墜したのはハミルトンという7機撃墜のエースで、太田を撃墜したのはフランク・C・ドルーリー中尉という6機撃墜のエースであった。太田の戦死後の翌11月、台南航空隊は戦力の再編成のため内地に帰還した。

 

01_谷水竹雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 模型愛好家だったら、米軍の星マークに矢が刺さっている撃墜マークの横に立っている搭乗員の写真を見たことがあるかもしれない。零戦の写真集には必ずと言っていいほど掲載されている有名な写真だ。この写真の男は谷水竹雄飛曹長。初陣から終戦までに撃墜した敵機の数は18機とも30機以上ともいわれる、太平洋戦争中期から終戦まで戦い続けた熟練搭乗員だ。

 

海軍へ。。。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は、大正8年三重県生まれた。母は真珠を採る海女だったという。昭和16年2月に丙種予科練習生3期に採用された。丙飛卒業生の飛練は17期、18期の2期あり、谷水は16年4月に始まる17期飛練に分けられた

 飛練の教員は操練40期の中島隆三空曹で同じ教員に割り当てられたペアには杉野計雄、杉田庄一、のちにソロモン航空戦で戦死する加藤正男がいた。撃墜数は不確定要素が強いので参考にしかならないが、杉野は32機撃墜、杉田は70機撃墜と言われる著名な撃墜王となっていく。この中島隆教員はよほど教えるのが上手かったのだろうか谷水も18機の撃墜記録を持っていたと言われている

 そのまま大分空へ転勤、戦闘機搭乗員として訓練を受ける。この時期には海兵67期、甲飛5期、乙飛10期が訓練を受けている。のちに翔鶴戦闘機隊で分隊長となる小林保平も同時期に訓練を受けていた。これらの期は太平洋戦争中盤から中核として戦ったクラスであり、その分、犠牲も多かった。

 

6空配属。ミッドウェー海戦

 

03_ミッドウェー海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年3月飛練を修了。4月1日に新たに木更津で編成された6空に配属される。6空は司令森田千里大佐、飛行長玉井浅一中佐、飛行隊長新郷英城大尉を主要幹部に迎えた特設航空隊である。その後、204空と改称され、のちのラバウル航空戦の主力として戦線を支え続けた部隊だ。

 4月18日のドーリットル隊の空襲では6空も陸攻隊を援護して敵機動部隊攻撃に向かうが発見できずに帰投している。空襲は日本側の防御網の貧弱さや油断から成功し、日本側の死傷者は500名以上に上った。この空襲の大本営からの発表では日本側の損害は「軽微」、米軍機を9機撃墜したことになっている。実際には、日本側は陸海軍共に航空機が飛行していたが誤認や油断のために1機も撃墜することはできなかった。

 この空襲がきっかけでミッドウェー作戦が決定されるのだが、6空もミッドウェー島占領後の基地航空隊としてミッドウェー作戦に参加する。6空は南雲機動部隊と陽動のため実施されるアリューシャン作戦に参加する空母隼鷹に分乗するのだが、谷水は隼鷹に乗っていたため難を逃れた。

 

空母大鷹へ

 

03_大鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

 ミッドウェー作戦失敗後、隼鷹は大湊に寄港、谷水他6空搭乗員は陸路木更津に移動する。6空はその後ラバウルに進出するが、谷水や同期の杉野は7月7日、母艦搭乗員として大分空で編成中の「大鷹」戦闘機隊に着任する

 空母大鷹は日本郵船の貨客船春日丸を海軍が徴収したもので排水量17830トン、最高速力22ノットの航空母艦である。谷水が配属された時点ではまだ特設空母春日丸であったが、昭和17年8月に大鷹として正式に航空母艦となる。空母としては小型で速力も22ノットしか出せないため戦闘機は未だ九六式艦戦であり、搭乗員には熟練者が選抜された。

 谷水は数ヶ月前に実戦部隊に配属されたばかりであるが、飛練も同期の中では早い17期に編入されていることや母艦搭乗員に選抜されていることからも当初から搭乗員としてのセンスに恵まれていたのだろう。この時の大鷹戦闘機隊の構成は、丙3期の谷水、杉野、米田以外は飛行隊長は海兵66期の塚本祐造、分隊士は操練26期の松場秋夫、その他の搭乗員も操練26期の青木恭作、同27期大久保良逸、甲飛1期の前田英夫等の熟練者が揃っていた。

 

母艦搭乗員としての猛訓練

 

 昭和17年7月7日着任後、大分基地で母艦搭乗員としての猛訓練を受ける。この猛訓練のお陰で谷水は終戦まで生き抜くことができたという。8月17日、春日丸は戦艦大和の護衛としてトラック諸島に進出、谷水も戦闘機隊員として乗艦する。以降、航空機の輸送任務に従事するが、10月にはデング熱にかかってしまう。その後谷水は空母大鷹と共に呉着、大村空で教員配置に就く。短期間ではあるが飛練24期の教員となる。

 飛練練習生卒業後は、練習生の一部と共に12月1日付で佐世保軍港防衛戦闘機隊に転勤する。戦闘機隊といっても新人の錬成も主な任務だったようだ。この時期に谷水はじめ搭乗員達が憲兵と喧嘩になった。その後問題となり谷水が暴行の犯人として名乗り出たという。どうも実際にはやっていないようだ。

 昭和18年1月、谷水は同期の杉野と共に冨高基地に移動する。冨高基地は艦隊航空隊の訓練基地で1月15日には訓練部隊である第50航空戦隊が開隊している。ここで艦隊航空隊の訓練を行うための移動だ。この時点で艦隊戦闘機隊への編入が決まっていたようだ。

 この異動は同期の杉野と一緒であるが、驚いたことに谷水と杉野は飛練の練習生時代に同じ教員のペアになって以来、9回の異動でもいつも同じ部隊であった。海軍ではかなり珍しいことだ。この冨高への移動の途中、谷水と杉野は「私たちはピーナッツですね「本当だ、二人は二枚貝のようだな。いっしょにいるから強く生きているのかね」と話し合ったという

 同期とはいっても同年ではなかったが、二歳年上の谷水に対して8ヶ月海軍への入隊が早い杉野と、年齢では谷水が先輩だけど、海軍では杉野が先輩ということで対等な付き合いだったようだ。冨高基地では艦隊航空隊の訓練が行われていたが、この時、のちに「トッカン兵曹」と呼ばれる小高登貫もこの冨高基地の訓練に参加していたようだ。小高は翔鶴戦闘機隊に配属予定であったが急遽202空に変更されてしまった

 それぞれの搭乗員の記録を読むと当初から所属する母艦が決まっていたというのではなく、「艦隊航空隊搭乗員」として冨高基地に集められ、のちにそれぞれの母艦に振り分けが行われていたようだ。当時、翔鶴戦闘機隊に所属していた操練43期の熟練搭乗員小平好直の手記によると、築城航空隊附となったが築城飛行場が完成していないため築城空冨高派遣隊となっていた。築城空は昭和17年10月に新設された艦上機搭乗員練習航空隊である。

 

空母翔鶴に転属

 

04_翔鶴
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水や杉野、小高はいったん築城空に配属されたのちそれぞれの航空隊に配属されたのだろう。昭和18年2月に転勤命令が出て、谷水はまたもや杉野と共に翔鶴戦闘機隊に配属されるが、この時期には空母翔鶴は南太平洋海戦での損傷を修理中であったようだ。4月には谷水達翔鶴戦闘機隊は訓練のため笠之原基地に移動した。

 笠之原基地で谷水は戦闘機爆撃の研究員となる。戦闘機爆撃とはその名の通り戦闘機による爆撃をすることである。これは空母の飛行甲板を一時的に破壊することを目的している。ミッドウェー海戦や南太平洋海戦での経験からの着想だろう。当然、戦闘機は爆撃用ではないので急降下爆撃機のようにエアブレーキがない。急降下すると自然に浮き上がってしまったりと爆撃機のように目標に命中させるのは難しいようだ。

 この戦闘機爆撃という戦法は一見合理的に見えるが、実はかなり危険な戦法のようだ。昭和18年11月24日、マキンに上陸した敵を爆撃するために252空の周防大尉以下19機の爆装零戦が出撃したが、内10機がたどり着く前に敵戦闘機に撃墜されてしまっている。零戦は爆装すると全く自由が効かず敵が襲ってきても手も足も出ないという

 同様に昭和18年12月15日、マーカス岬の米軍上陸地点に爆撃をかけたラバウルの爆装零戦隊15機も、15機中14機が被弾、3機が不時着するという大損害を受けた。米軍には損害はほとんどなかった。この戦闘機爆撃の危険性は翔鶴戦闘機隊でも訓練前から把握していたようで、南太平洋海戦にも参加した分隊長の小林大尉は谷水の同期の杉野に対して戦闘機爆撃隊は決死隊であると語っている

 

トラック島へ進出

 

 昭和18年7月10日、笠之原基地での数ヶ月に及ぶ訓練を終え、翔鶴戦闘機隊は空母翔鶴に収容され呉を後にした。15日には南方の連合艦隊の拠点トラック諸島に到着する。全くの余談だが、呉トラック間の距離は3573km、5日間で到着したので一定の速度で航行していたと仮定すると、速度は時速29.7km、ノットにすると16ノットでの航海となる。戦時中の機動部隊の航行速度が分かって面白い。

 トラック諸島に着いた谷水たちを待っていたのは引き続きの猛訓練であった。珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と相次ぐ海戦に搭乗員が消耗してしまったため、若手搭乗員の技量を早急に上げる必要にせまられてのことだった。

 戦闘機爆撃の訓練も引き続き行われた。その結果、戦闘機爆撃の命中率は50%以上に達したという。2回に1回は命中するというのは相当な練度といえる。しかしこの訓練中、脇本二飛曹が標的艦矢風のマストに接触、空中分解するという事故も起こった。脇本二飛曹は死亡。遺体は手足の無い胴体のみが回収されたという

 そんな中、第一航空戦隊の三空母合同の大演芸会が企画された。娯楽の少ない戦地では演芸会というのは本当に楽しいようだ。翔鶴戦闘機隊は谷水が座長になり漫才や寸劇等が行われた。谷水は寸劇を担当した。特に女形の声色が素晴らしかったようだ

 

搭乗員の墓場ラバウルへ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和18年11月1日、谷水達翔鶴戦闘機隊員は「ろ」号作戦に参加するためラバウルの西、ブナカナウ飛行場に進出した。「ろ」号作戦とは、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の艦隊航空隊をソロモン方面の戦闘に投入し、一挙に体制を立て直そうとした作戦であった。

 この時の進出機数は資料によって若干の違いがあるが、翔鶴戦闘機隊32機、瑞鶴戦闘機隊32機、瑞鳳戦闘機隊18機の計82機の戦闘機隊が進出した。翌11月2日、米軍機のラバウル来襲に対して、ラバウルに展開する204空、201空等と第一航空戦隊の零戦隊は迎撃戦を展開する。

 翔鶴戦闘機隊は2機を失うも撃墜40機という大戦果を挙げた。この日の迎撃戦では全部隊での撃墜戦果は撃墜97機、不確実22機、総合戦果は、当時の新聞報道によると対空砲火の戦果まで含めると201機の撃墜であったという。しかし実際の米軍側の損害はP38、9機、B25、8機の計17機であった。これに対して零戦隊は18機が撃墜されている。損害だけで見るとほぼ互角の戦いといっていい。

 この空戦で谷水はP38、2機を撃墜し初陣を飾る。飛練を卒業してから1年半での初陣であった。他の丙3期出身の同期の中には1年以上前に戦地に送られている者もあり、十分な訓練期間を与えられた谷水は幸運であったといえる。「ろ」号作戦は11月13日を以って終了する。ラバウルに進出した第一航空戦隊零戦隊82機の内、43機を失った。艦攻、艦爆に至っては8割以上が失われた挙句、特筆すべき戦果は何もなかった。この後、翔鶴戦闘機隊はマーシャル諸島に進出する。谷水が参加したかどうかは不明であるが恐らく参加しただろう。帰還後、谷水は次期作戦のため、しばらく休養を命ぜられた。

 

トラック島に後退

 

06_トラック島
(画像はwikipediaより転載)

 

 この数週間の戦闘で消耗しつくした第一航空戦隊は再建のため本土に帰還する。昭和18年12月13日、中川大尉を隊長として母艦戦闘機隊より選抜された谷水、杉野を含む21名は、派遣隊としてラバウル、トベラ基地に展開している253空の指揮下に入った。昭和19年2月1日付で台南空への転勤命令がでるまでの2ヶ月間、谷水は「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで連日の航空戦に参加した。谷水は、このラバウルでの戦闘においてヘルキャットが最も強敵であったという。

 

「機動性に富み、素早く横転ができるヘルキャットがいちばん手ごわい相手でした。P-38やF4Uコルセアは小回りが効かず、一撃して離脱していくだけでしたから。米軍機は総じて空中で火を吐かせるのは至難の業でした。弾丸を命中させても、いくらか煙をひくだけなのです。煙が出るようすをみれば、それがアメリカ機か零戦かすぐわかりました」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 さらにF4Uコルセアについてはこう語っている。

 

 「F4Uコルセアを確実に落とそうと思うなら、気づかれてはいけません。そして、後方のある特定の角度からでないと、銃弾がはね返されてしまいます。また、私はコルセアが低高度から機種を上げきれずにそのままジャングルや海中に突っ込んでいくのを目にしています。機体が重すぎるのでしょう。我々はときにはコルセアを追いかけて海に突っ込ませたものです。零戦は軽かったのでそんな心配はありませんでした」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 憲兵隊との事件で犯人として名乗り出たことからも分かるように谷水は優しい性格だったのだろう。昭和19年1月4日、パラシュートで海面に降下する敵パイロットに対して救命用浮き輪を投げたこともあった。残念ながらその米軍パイロットは生還できなかった

 数々の空戦を生き抜いた谷水達第一航空戦隊派遣隊は1月25日、ラバウルを後にする。進出した時、21名いた隊員はわずか7名になっていた。第一航空戦隊派遣隊以外にも長期間にわたってラバウル戦線を支えた204空、501空がトラック島に後退したが、代わりに第二航空戦隊がラバウルに進出した。この中には「オール先任搭乗員」菊池哲生上飛曹もいる。

 トラック島に帰還した谷水は春島基地で錬成中の202空に仮入隊する。次の転勤先は谷水が台南空教員、杉野が大分空教員と土浦以来いつも一緒だった二人がとうとう別々の勤務先に配属されることとなった。2月4日、トラック島にB24が飛来、谷水と杉野は迎撃に出撃するがこれが谷水と杉野が一緒に戦う最後の空戦であったようだ。

 

内地帰還。親友との別れ

 

 2月10日、本土とトラック島の輸送任務に従事していた空母瑞鳳に乗艦しトラック島を出発、2月下旬、横須賀に入港した。ここからの移動手段は不明だが、恐らく電車であろう。途中で谷水は実家の志摩によるため、大分に直行する杉野と別れることになる。別れる時はただ一言「元気でな」だけであった。谷水と別れた杉野は何か気の抜けたような感じであったという。生死を共にした仲間の別れとしてはあっけないが、本当の親友に言葉はいらないのだろう。

 昭和19年2月下旬、横須賀に着いた谷水は飛練以来の戦友、杉野と別れ実家のある志摩に向かった。志摩で母親にあったのち、台湾方面行きの航空便を待つため鹿屋に向かった。そこで台南空より大村航空廠に練戦の領収に来ていることを知り一路大村基地に向かった。台南空とは台南航空隊の略で台湾の台南を拠点とする航空隊である。台南空といえば、坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一等が活躍した部隊として有名であるが、この台南空はその部隊とは異なり、昭和18年4月に台南に開隊した練習航空隊である。

 

台湾へ異動

 

 その台南空では機材受領等のために大村の第二一航空廠との間で機材輸送を行っていた。谷水達が便乗したのはこの内の練戦受領の便だった。練戦には九六式艦戦をベースにした二式練戦と零戦ベースの零式練戦があったが、恐らく練戦とは第二一航空廠で試作、生産が行われた零式練戦のことだであろう

 零式練戦とは零戦21型を複座式にした練習機で昭和18年に試作機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。谷水が台南空に着隊した時期は恐らく3月上旬だと思われるので完成したばかりの正式採用前後の機体であったのだろう。谷水は、空輸隊指揮官松田二郎飛曹長に理由を話して領収飛行に参加、沖縄経由で台南空に着任した。谷水が担当したのは特乙1期、2期であった。特乙とは乙飛合格者の中から年長者を選び短期間で教育する制度だ。特乙は1期〜10期まで採用されたがこのうち戦闘機専修があったのは4期までである

 谷水の手記には、その特乙1期も昭和19年5月には卒業したとあるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』には特乙1期の卒業は7月とありどちらが正しいのかは不明である。ただ、特乙2期は飛練も2期に分けれられているのでより人数の多かった特乙1期も2期に分けられていた可能性もある。その後、特乙2期も終了、前後して13期予備学生が入隊する。これら訓練生の教育と共に教官や教員には哨戒任務も課せられていた。特に、これら教官、教員の中でも、この時期の台南空では夜間戦闘ができるのは谷水と零戦初空戦に参加した熟練搭乗員岩井勉(撃墜22機)のみであったという。

 

B24を撃墜

 

07_B24
(画像はwikipediaより転載)

 

 夜間空襲の場合、一つの目標に対して二機が立ち向かうことはお互いに衝突する恐れがあるので、邀撃は零戦1機のみで行うこととなり谷水と亀井が交互に待機任務に就くことになった。昭和19年8月31日、B-24、11機の接近に対して、待機中の谷水に出撃命令が下った。谷水は最初に1機を銃撃、手ごたえを感じたというが損害を確認できず、さらに対空砲火が止んだのを見計らって別の1機のエンジンに一撃し1機撃墜戦果を報告している。これは425thBSのノーマン・Bグレンドネン中尉操縦のB-24で墜落して1名が捕虜になっている。

 谷水が最初に銃撃をかけた1機もその後中国大陸で山に衝突しているので、谷水はこの空戦で2機を撃墜していることになる。9月3日にも夜間に大型機の邀撃をするが、この時は陸軍の一式戦から攻撃を受け撃墜に失敗している。この時の一式戦は風防を開けたままであったということに谷水は驚いているが、加藤隼戦闘隊こと、第64飛行戦隊のエース安田義人によると、陸軍の戦闘機乗りは死角を減らすために風防を開けたまま戦うのが普通だったようだ

 台南空での勤務時、谷水は特攻隊の話を聞かされ志願している。特攻隊の編成は志願による場合と、志願という建前で強制される場合があったが、台南空の場合は前者の方だったようだ。谷水は当初、母一人子一人であったため特攻の話から外されていたが、特攻であることを知り改めて志願している。昭和19年10月になると、台湾も米軍機動部隊の攻撃を受けるようになってきた。谷水もしばしば邀撃戦に参加している。さらに台南空教員でありながら、「飛び入り」で台湾沖航空戦にも参加している。しかし11月3日、ちょっとした油断から撃墜されてしまう。

 撃墜したのは74FSのボリアード中尉でP51を駆り、谷水と列機の伊藤上飛曹機を撃墜、最終的には5機を撃墜するエースとなる。伊藤は戦死、谷水は一命を取り留めるものの大やけどをしてしまう。病気療養中、台南空は練習航空隊としての機能を失った結果、教官、教員で特攻隊を編成することになった。当然谷水も特攻隊員に任命されたのだが、台南空司令の判断により内地の戦闘308飛行隊への転勤を命ぜられる。因みに教官とは士官、教員は下士官の指導員のことを指す。

 

戦闘303飛行隊へ

 

08_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年12月6日、谷水は鹿屋に到着、笠之原基地で戦闘308飛行隊へ入隊した。その戦闘308飛行隊も前線に進出してしまったが、谷水は被撃墜時の傷のため内地に残留となり、そのまま戦闘312飛行隊に編入された。傷の癒えた谷水はこの戦闘312飛行隊で数度の空戦に参加する。

 昭和20年3月26日戦闘303飛行隊に編入された。戦闘303飛行隊は昭和19年3月1日に発足した飛行隊で太平洋戦争末期、海軍戦闘機隊の中で最も練度の高い部隊であった。隊長は海兵63期のベテラン指揮官岡嶋清熊で、隊員には戦地帰りの熟練者が多く、太平洋戦争のトップエースと言われる西澤廣義、零戦虎徹を自称するエース岩本徹三、操練27期のエース近藤政市、ラバウル帰りの西兼淳夫等、太平洋戦争末期においてもA級搭乗員の比率は30%に及んだ

 戦闘303飛行隊は編成後、フィリピンに進出し壊滅的な打撃を受ける。谷水が戦闘303飛行隊に編入されたのは、この消耗した戦闘303飛行隊が再編成された時であった。谷水の編入に前後して岩本徹三や近藤政市も戦闘303飛行隊に着任したようだ。いくら精鋭部隊といえども1945年にもなるとさすがに彼我の戦力差から士気が低下してきたようだ。谷水は隊員の士気を高めるため隊歌を作詞したりもしたようだ。その隊歌が以下のものだ。

 

<岡嶋戦闘機隊の歌>
一 乱雲南にまた北に 乱れ飛ぶ世に生を得て
  意気と度胸のますらおが 建てし誉れの進軍賦
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

二 衆を頼みつ驕りつつ 神州汚す醜敵を
  死を期し破邪の剣もて 国の勝利を我が胸に
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

三 身は何冥の雲を染む 功は永遠に若鷲の
  生気放光錦江湾 七生報国意気高し
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

(土方敏夫『海軍予備学生空戦記』より引用)

 

 当初は二番目の「国の勝利」は「遂の勝利」であったが、共同通信の記者の意見によって変えたという。この歌詞にさらに士官の土方敏夫が曲をつけ隊歌が完成した。さらに士気高揚のために撃墜マークを機体に描いたのもこのころであった。安部氏の手記の時系列が正しければ、撃墜マークを描いたのは昭和20年6月〜7月中旬あたりだろう。

 戦闘303飛行隊は九州に展開していた第五航空艦隊随一の制空戦闘機隊として八面六臂の活躍をしていたが衆寡敵せず昭和20年8月15日終戦となった。当時、戦闘303飛行隊が所属していた五航艦は作戦継続を指令していたようだが、結局、停船命令が出た。最後は五航艦司令宇垣纏中将の特攻によって五航艦の戦闘は幕を閉じたようだ。

 

終戦

 

09_空母天城
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は宇佐基地で終戦を迎えた。玉音放送後、厚木の陸上爆撃機銀河が徹底抗戦を主張するガリ版刷りの檄文を撒いていった。ただ、15日を以って完全に戦闘が終了した訳ではなく、16日も迎撃戦が行われ未帰還機も出したようだ。最精鋭の飛行隊だけに武装解除時にも零戦搭乗員が拳銃を持ち零戦に乗りプロペラ外しと燃料を抜きに来た整備員を近づけなかったという。谷水も終戦を認めず終戦後も5日間にわたって敵機を追い求め徹底抗戦を主張するビラを撒いたりしたようだ

 その後、谷水の手記によると、8月19日夜、総員集合命令があり、集合すると総員無期休暇が発表された。さらに20日零時までに本州に入ること、またそれが出来なかった場合は山に入ること。さらに敵がポツダム宣言を履行しなかった場合は24時間以内に原隊に復帰することが言い渡されたという。土方敏夫の著書によると若干異なる。土方によると24日に搭乗員集合の命令がかかり24時間以内に退隊すること、搭乗員の証拠になるようなものは一切身に着けるな。さらに隊から正式に帰隊命令があるので地下に潜伏し、隊長とは連絡が取れるようにすることが言い渡されたという

 どちらが正しいのか(またはどちらも正しい)は不明だが、速やかに基地から離れること、帰隊の指示を待てというのは共通している。どちらも血の気の多い搭乗員を復員させるための方便であったのかもしれない。谷水は重要書類を焼却したのち、送別会を行い、全員で泣きながら同期の桜を歌ったという。谷水の総飛行時間は1425時間、その間に撃墜した敵機は18機とも32機とも言われている

 

 

01_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

 甲木清実飛曹長は零式水上観測機(零観)乗りとして太平洋戦争開戦を迎えた搭乗員であった。本来、敵機撃墜を主目的としない零観で開戦1ヶ月目にして飛行艇撃墜、さらには零戦でも撃墜困難といわれたB17を零観で単独撃墜した猛者である。

 

甲木清実飛曹長の経歴

 

略歴

 大正8年4月10日福岡県生まれ。昭和13年6月佐世保海兵団入団。昭和16年5月第54期操縦練習生を修了。鹿島、館山、博多航空隊勤務の後、水上機母艦千歳乗組で開戦を迎える。昭和17年1月に飛行艇を撃墜して初戦果を記録。9月R方面部隊に編入されショートランド島進出。内地帰還後水上戦闘機に機種転換。昭和18年7月、占守島に展開する452空配属される。昭和18年10月、横須賀空で水上戦闘機強風への機種転換教育を受け、934空に配属。昭和19年には零戦への機種転換教育を受けた後、381空に配属。バリクパパン油田防空戦に活躍する。昭和20年2月、内地に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属、終戦まで防空任務についた。

 

零式水上観測機でB17を単独撃墜

 甲木清実は数少ない水上機搭乗員でのエースである。水偵搭乗員として水上機母艦千歳乗組の時、オランダ軍第17観測飛行隊の飛行艇を撃墜して初戦果を記録する(この撃墜は米国戦史研究家によって確認されている)。飛行艇とはいえ水上機での撃墜は至難の業であっただろう。この時点での甲木兵曹の乗機は零式水上観測機である。

 昭和17年9月にはR方面部隊に編入されショートランド島に進出する。R方面部隊とは水上機母艦千歳、神川丸、山陽丸で編成される第11戦隊の艦載機で編成された部隊で同地の航空機不足を補った部隊だ。R方面部隊に編入された甲木兵曹は10月4日、来襲した第17爆撃隊所属B17E爆撃機の主翼を自身の零観の主翼で切断した後、尾翼を切断して撃墜した(この撃墜も戦後確認されている)。この戦果により水上機母艦千歳艦長より感状を受けている。

 

水戦強風での初撃墜から陸上機に機種変換

 内地帰還後、横須賀航空隊にて水上戦闘機転換訓練を受けた後、水上戦闘機隊の452空付となり北千島占守島に進出、防空任務にあたる。基地凍結により潜水艦で脱出、横須賀航空隊で水上戦闘機強風の錬成訓練の後、934空に着任する。昭和19年1月、B24を撃墜して強風での初戦果を挙げる。その後、零戦への転換教育を受け、381空に転じた。バリクパパン油田防空戦を始め迎撃戦を戦った。昭和20年2月、本土に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属し防空任務に活躍しつつ終戦を迎えた。総撃墜数は16機といわれ、その内7機が水上機によるものである。

 

甲木清実飛曹長関係書籍

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。甲木清実飛曹長の経歴が詳しく書いてある。連合国軍の資料から撃墜の確認を行っているなど興味深い。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、甲木清実飛曹長始め同じく水上機のエース河村一郎飛曹長やその他戦闘機以外の搭乗員の経歴についても独自に調査している。コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。

 

まとめ

 

 甲木飛曹長は数少ない水上戦闘機の撃墜王である。度々機種変換訓練を受け、搭乗した航空機は零式観測機、二式水戦、強風、零戦、雷電と多彩だ。水上機乗りは陸上機に転換できるが逆は出来ないといわれるが、正に甲木飛曹長の経歴そのものだといえる。甲木飛曹長の戦果で特徴的なのは大型機が多いということだろう。観測機で空の要塞を単独撃墜するという偉業も成し遂げている闘志あふれる搭乗員であった。

 

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