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1917年生まれ

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(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

田中国義少尉の経歴

 

 1917年佐賀県に生まれる。1934年佐世保海兵団入団。1936年3月31期操練を修了後、大村空にて戦闘機専修教育を受ける。1937年10月13空に配属、上海に進出した。1938年7月大村空に異動後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経た後、1941年10月台南空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加したの1942年4月大分空教員として内地に帰還する。その後は病気のため筑波空、霞ヶ浦空で教官として活躍、終戦を迎えた。

 

田中少尉と「特三」

 

 田中国義少尉は1916年、佐賀県に生まれる。飛行機に憧れた少年は、予科練を目指すが身体検査で不合格となってしまった。しかし海軍内部から搭乗員になる道があることを知ると1934年6月、四等機関兵として佐世保海兵団に入団する。訓練終了後は整備員として配属されたが、操縦練習生の募集があることを知り応募、採用された。しかしこの時、整備分隊の上官の心証を悪くしてしまったため三等兵から二等兵への昇進が半年遅れた。このためその後もすべて同期よりも半年昇進が遅れるという不利益を受けてしまう。これを海軍では「特三」と称した。

 戦闘機搭乗員としての訓練を終えた田中国義一空兵は、上海に進出した13空に配属されたが、そこには黒岩利雄、赤松貞明、虎熊正等の戦闘機の神様のような先輩達が大勢いた。そこに新人として田中一空兵を始め、武藤金義、岩本徹三等の「ひよっこ」が着任したのだ。13空に着任した田中一空兵は空戦の機会に恵まれ、日中戦争において13機を撃墜する。これは日本海軍の日中戦争での最多撃墜者である岩本徹三兵曹の14機に次ぐ記録であった。

 1941年10月、内地での教員生活を終えた田中一飛曹は新たに編成された台南空に配属、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。田中一飛曹の白眉は1942年1月24日の「B-17爆撃機2機同時撃墜」であろう。この日、田中一飛曹はB-17の編隊を発見、早速攻撃をかけたが内、1機が被弾、近くの僚機に衝突して堕ちていった。攻撃は列機を率いて2機で行ったたので協同撃墜ということになる。1942年4月、内地に帰還した田中一飛曹は教員配置に就くが、582空配属となり戦地に行く時、心臓弁膜症が発覚、そのまま教員配置として終戦を迎えた。

 終戦後は建設会社社員を経たのち、1948年より独立して自動車修理を始める。その後戦友の坂井三郎中尉の紹介で雇われ社長、さらに再び独立して自動車塗装専門店を開業、1987年に廃業した。2011年5月25日他界。総撃墜数は単独14機、協同6機の合計20機以上であるという。

 

田中国義少尉関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 NHKのドキュメンタリーを書籍化したもの。零戦とその搭乗員を中心に日中戦争の零戦初空戦から太平洋戦争終戦までを描く。本書には海軍航空機搭乗員の取材を多く手掛けている神立尚紀氏が共同執筆しているため、搭乗員の生の声を多く収録することが出来ている。田中国義飛曹長は開戦初期の比島航空戦の部分で登場する。

 

まとめ

 

 田中国義少尉は、秦郁彦著『日本海軍戦闘機隊』には「B-17攻撃に特技を示した」と書かれているが本人曰く、やっかいな敵であり、得意なはずがないとのことであった。田中少尉が活躍した主な戦場は日中戦争から太平洋戦争初期までであったが、第一線を離れた後も教員として多くの教え子にその高い技術を教え続けた。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

斎藤三郎少尉の経歴

 

 1917年、山形県に生まれる。1934年6月横須賀海兵団に入団。75期普通科砲術練習生となったのち1936年戦艦比叡乗組、1938年6月44期操縦練習生となる。大分空、大村空で延長教育を受けたのち、1939年10月12空に配属され漢口に進出した。1939年末から1940年始めの桂林攻撃で初空戦を経験。1940年1月赤城乗組。大分空、徳島空、築城空を経て、1942年11月瑞鶴乗組。同時に上飛曹進級。1943年1月末ラバウルに進出し、4月「い」号作戦に参加。その後一時本土へ帰投するも7月にはトラック島に進出、「ろ」号作戦に参加する。一時的にルオット島に進出したのち内地に帰還。徳島空に配属された後、1944年7月252空戦闘317飛行隊付。10月24日捷号作戦の総攻撃に出撃した際、空戦となり不時着負傷して本土へ帰還、そのままに終戦を迎えた。

 

斎藤少尉の戦い

 

 斎藤三郎少尉は、操練44期出身で同期には金丸健男少尉、山中忠男少尉等がいる。戦闘機専修は17名であるが、1943年を迎える前にすでに9名が戦死しており、終戦まで生き残ったのはわずか5名であった。生存率は29%である。斎藤少尉は海兵団入団後、一時期艦隊勤務に就いたのち航空兵となっている。

 練習生修了後、漢口に展開していた12空に配属、日中戦争で実戦を経験する。1940年1月に赤城、瑞鶴乗組と母艦戦闘機隊に所属する。この母艦戦闘機隊は空母の小さい甲板に離着艦するために特別の技量が必要であり、特に練度の高い隊員が選抜された。

 赤城戦闘機隊に所属となった斎藤少尉は開戦後は内地で教員配置に就いたのち、再び瑞鶴戦闘機隊として1943年1月末にラバウルに進出、4月には「い」号作戦に参加、激戦のラバウルで活躍した。当時の斎藤少尉の乗機は零戦52型であったが、この零戦52型は21型の翼端を左右30cm程切落して成形した型で、他にもエンジンがより強力な栄21型エンジンに変更、武装も強化されて7.7mm機銃の代わりに13mm機銃が設置されており、20mm機銃も銃身の長い2号銃に変更されている。

 斎藤少尉は、この52型に対してスピードもあり、エンジンの馬力も強く、機銃も強力になった上に弾道が安定して命中率が良くなったと高評価を下しているが同じく翼端を切り詰めた32型に関しては安定性が悪いとあまり評価していない。

 い号作戦に参加後、内地に帰投した斎藤少尉は再びラバウルに進出、ろ号作戦に参加したのち内地に帰還、教員配置に就くが、1944年7月には252空戦闘317飛行隊に異動、捷一号作戦に参加する。この空戦で斎藤少尉は被弾、諦めかけた斎藤少尉は自決を考えるも気を取り直し不時着した。この時、斎藤少尉は白い服を着た長い黒髪の女性が手招きしているのを確認、そちらに向かおうとするが体が動かず断念して目が覚めたという。いわゆる「臨死体験」であろう。

 その後、現地人に救助され日本軍警備隊され戦闘317飛行隊に戻ると部隊が自分と他1名を残して全滅したことを知る。再び再編された戦闘317飛行隊に所属した斎藤少尉はそのまま終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、その後日本航空舎監となる。総飛行時間2118時間、撃墜数は単独撃墜18機、協同撃墜6機といわれている。

 

 

斎藤三郎少尉 関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三郎 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三郎少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。

 斎藤三郎少尉は、ラバウル航空戦に参加した当時のことを書いた「瑞鶴戦闘機隊」と台湾沖航空戦、戦争後期の比島航空戦について書いた「台湾・比島沖」の2本の手記を寄稿している。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 斎藤三郎少尉は、自身のラバウル時代のことを記した「南溟の空に消えた瑞鶴零戦隊」という一文を寄稿している。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。

 本書中に斎藤少尉が台湾に向かう際に、他の特准仲間である岩本徹三、西澤廣義、尾関行治、長田延義等と共に角田少尉のもとを訪れている描写がある。

 

まとめ

 

 斎藤三郎少尉は日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したベテラン搭乗員であった。特に優秀者が選抜されるという母艦戦闘機隊に長く所属、「搭乗員の墓場」と言われたラバウルでも長期間にわたって激戦をくぐり抜け終戦を迎えた数少ない搭乗員であった。単著での自伝のようなものはないが、手記を数本寄稿している。因みに名前は「さぶろう」ではなく「みつお」である。

 

 

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藤田怡与蔵
(画像はwikipediaより転載)

 

 藤田怡与蔵少佐は、岩本徹三、西澤廣義、坂井三郎等に比べると知名度は今一つであろう。しかし撃墜42機ともいわれるエースである。藤田は撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官であり、それも海兵66期出身という、太平洋戦争開戦前に中国戦線を経験した最後のクラスであった。それ故にもっとも使い勝手が良く、終戦まで酷使されたクラスである。

 

藤田怡与蔵少佐の経歴

 

略歴

 大正6年中国山東省に生まれる。昭和13年9月海兵66期を卒業。昭和15年6月第33期飛行学生を終了。大分空で延長教育を受ける。昭和15年11月修了し、同航空隊の教官となる。昭和16年9月蒼龍乗組。12月8日の真珠湾攻撃が初陣であった。昭和17年6月ミッドウェー海戦では共同撃墜7機を含む10機を撃墜する。内地帰還後、分隊長として飛鷹乗組。10〜12月中旬までガダルカナル航空戦に参加する。昭和18年4月には、「い」号作戦参加のため再度ラバウルに進出。6月築城空に異動。11月飛行隊長として301空に配属される。昭和19年7月飛行隊長として戦闘402飛行隊に配属。台湾沖航空戦、比島航空戦に参加。昭和20年1月内地に帰還。福知山基地で終戦を迎えた。

 

士官だからといって安全な場所にいる訳ではない

 藤田は大正6年生まれ。海兵66期出身。飛行学生を修了したのち、昭和15年11月大分航空隊戦闘機実用機教程を修了、同航空隊の教官となった。因みに教員配置は、士官は教官、下士官は教員という。その後美幌航空隊に配属され中国戦線に進出したが実戦の機会はなかったようだ。

 半年ほど勤務したのち、1941年9月、空母蒼龍乗組となる。その後真珠湾攻撃に参加、ウェーク島攻略、コロンボ空襲と機動部隊の一員として活躍する。蒼龍乗組としてミッドウェー海戦に参加、その後、ラバウル航空戦に参加する。フィリピンには341空飛行隊長として戦闘に参加、本土に帰還後は一瞬だけ343空に配属されるもすぐに601空に転属させられた。

 前述のように海兵66期は酷使された。同期で戦闘機に配属されたもの11名中生存者は5名。死亡率は54%に達する。しかし66期はこれでも生存率が高いクラスであったといえる。前期の65期は死亡率87%、後輩に当る67期も死亡率87%であった。具体的に人数でいうと66期が5名生存しているのに対して67期は3名、65期に至っては戦争を生き抜いたのは1名のみだった。

 

指揮官パイロットの役割

 このようにこのクラスの士官は絶えず最前線に駆り出され消耗していったのだ。それはともかく藤田の話に戻ろう。藤田は真珠湾攻撃で初空戦を体験して以来、小隊長として撃墜を重ねたようだ。士官搭乗員の撃墜数は少ない。なぜなら士官とは戦闘全般の状況を見ながら指揮官として部下を誘導したり指示したりする監督の役割だからだ。自分が実際に戦闘をして撃墜するという状況はあまりない。

 現に海兵59期で日中戦争から太平洋戦争の前半に零戦隊隊長として活躍した横山保中佐ですら撃墜数は5機しかない。同様に不敗の零戦隊202空の名隊長であった鈴木實も横山と同期であり、日中戦争以来のベテランであったが撃墜数は5機、零戦初空戦時の指揮官であった進藤三郎中佐に至っては撃墜数でいえば欧米でいう「エース」にすらなっていない。

 これに対して「敵機撃墜」を主任務とする同世代の下士官は20機、30機撃墜のエースがキラ星の如く輩出した。このように士官と下士官には職務に違いがあり、士官が撃墜を重ねるというのは珍しいことであった。藤田の撃墜数についてはヘンリーサカイダの著書によると42機、秦郁彦『エース列伝』によると10機以上となっている。

 

藤田怡与蔵少佐関係書籍

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

海軍兵学校73期の阿部三郎氏の著作。阿部氏は戦争後半に実戦に参加したため戦闘経験は少ないが、末期の過酷な戦場を生き残っている。タイトルの通り藤田怡与蔵少佐について詳しく書いている。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 

まとめ

 

 この藤田氏、かなり人望のある人だったようだ。最後の福知山時代の部下が藤田を評してこのように言っている。
「ざっくばらんで、きさくな人柄だが、自分の功績を一言も言ったことのない人で、なんとなく人をひきつける何かがあって、この隊長となら安心して戦いが出来るという信頼感を部下に与える人だった」

 藤田は戦後、公職追放のため職業を転々とした後、日本航空のパイロットとして世界の空を飛びまわった。日本で最初のボーイング747の機長となり1977年退職した。そして2006年肺がんのため死去した。

 

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