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1916年生まれ

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(画像はwikipediaより転載)

 

大森茂高少尉の略歴

 

 1916年1月15日山梨県に生まれる。1933年5月海軍に入団。1936年9月操練33期卒業。1938年2月13空に配属。日中戦争に参加する。3月12空に異動。12月赤城乗組ののち、筑波空、大湊空を経て、鳳翔乗組で太平洋戦争開戦を迎える。1942年5月赤城乗組。6月ミッドウェー海戦に参加。その後翔鶴乗組。南太平洋海戦には母艦上空直掩の任務に就いたが、米艦爆が翔鶴へ投弾するのを防ぐために体当たりして戦死した。戦死後全軍布告、二階級特進で特務少尉となった。

 

母艦戦闘機隊一筋に生きた男

 

 大森茂高少尉は操練33期出身で戦闘機専修の同期はわずか6名である。この時期は少数精鋭教育の時代ではあったが、6名の内、2名が転科しているので、当時流行していた戦闘機不要論の影響があったのかもしれない。この戦闘機不要論とは海軍の場合、九六陸攻が当時の主力戦闘機九〇式艦戦を上回る高速を発揮したため、陸攻だけで十分であり戦闘機は不要であると短絡的に考えた海軍の一部高級士官が唱えた論である。

 無論、九〇式艦戦と九六陸攻は世代が全く違うため新鋭機の性能が圧倒しているのは当たり前であった。当時の航空機は3年で旧式となるほどの発達期であり、6年の差は大きかった。その後、九六陸攻の速度を上回る九六艦戦の完成や実戦で戦闘機の援護の無い攻撃機に大損害が出たためこの論は消え去ったが、一時的にしろ戦闘機搭乗員を削減したことは後々大きく影響することとなる。

 操練33期は1936年2月から訓練を開始、同年9月に終了している。この前後のクラスは日中戦争開始前に十分な訓練を受け、その後日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したクラスで著名な搭乗員である武藤金義少尉(32期)、岩本徹三中尉(34期)、原田要中尉(35期)坂井三郎中尉(38期)等、太平洋戦争全般において中核となったクラスであった。それだけに戦闘機不要論の影響は大きかったといえる。

 訓練課程を修了した大森少尉は1938年2月に中国大陸に展開する13空に配属、同月には初めての実戦を経験する。翌月には12空に異動、引き続き中国大陸で活躍した。12月には空母赤城乗組を経て筑波空、大湊空と陸上基地勤務を経て空母鳳翔戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた。この鳳翔は太平洋戦争開戦時には二線級の空母であったが、旧式であるために飛行甲板が狭く、離着艦に高い技量が必要とさえる。それ故、大森少尉のような熟練者が任命されたのかもしれない。

 1942年5月、空母赤城に異動となる。翌月にはミッドウェー海戦に参加、大森少尉はミッドウェー島攻撃隊の直掩として出撃、帰還後は直掩機として防空任務に就いた。防空任務では6機撃墜を報告したものの母艦は被弾し炎上、唯一健在であった空母飛龍に着艦して引き続き防空任務に努めたが飛龍も撃沈されたため海上に不時着、救助された。

 内地に帰還後、翔鶴戦闘機隊に配属される。1938年末以来、一時期の陸上基地勤務を除けば母艦一筋である。8月、瑞鶴、瑞鳳と共に第一航空戦隊を編成した翔鶴はソロモン海に向け出撃、同月24日には第二次ソロモン海戦に参加する。さらに10月26日には南太平洋海戦に参加、大森少尉(当時一飛曹)も参加、母艦上空直掩任務に就いた。母艦上空での空戦では5機の撃墜を報告したが、米艦爆の内1機が投弾体勢に入っていたが、大森少尉は攻撃が不可能と判断すると米艦爆に体当たりして戦死した。

 この海戦において翔鶴は大破したものの撃沈は免れた。この大森少尉の行為に対して海軍は全軍に布告、二階級特進として特務少尉に任じた(戦死時は一飛曹)。この二階級特進であるが、戦死してしまって階級が上がることに意味がないのではないかと思われるかもしれないが、これは多少異なる。

 もちろん本人は戦死してしまっているので全く意味がないのであるが、大森少尉の遺族は「少尉」の軍人恩給をもらうことが出来る。全軍布告は単なる名誉であるが、二階級特進は遺族に対する恩給の金額が上がるため戦死者の遺族にとっては生活の助けになるという側面もある。総撃墜数は13機といわれている。

 

大森茂高少尉の関係書籍

 

まとめ

 

 操練33期は6名であったが、2名が他機種に転科、のちに1名が戦闘機に転科しているため5名であった。この内、太平洋戦争終戦を迎えられたのは1名のみで、1名は日中戦争で、3名が太平洋戦争で戦死している。この内1名は1945年8月9日で終戦のわずか6日前であった。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

大木芳男飛曹長の経歴

 

 1916年茨城県に生まれる。1933年機関兵として海兵団に入団後、整備兵に転科。1937年7月操練37期修了後、戦闘機搭乗員となった。1940年7月横空から12空に異動。初陣で零戦初空戦に参加した。1942年7月台南空に転属後、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。11月に内地帰還、翌年5月、251空隊員としてラバウルに再進出したが、6月16日空戦中に戦死した。

 

大木飛曹長と台南空

 

 1916年生まれは戦前に十分な訓練を受け、日中戦争で実戦を経験後、25歳で太平洋戦争に参加したという経験に関してはもっとも恵まれた生まれといってよいだろう。同年兵には零戦虎徹岩本徹三中尉、坂井三郎中尉、原田要中尉、武藤金義少尉等、戦後有名になった搭乗員が多い。操練同期はわずか5名で当時流行していた「戦闘機無用論」の影響なのかは分からないが、少数精鋭主義であったことは確かである。この5名の内、終戦まで生き残ったのは零戦初空戦に大木飛曹長と共に参加した三上一禧氏わずか1名で生存率20%という凄惨な状態であった。

 操練課程を修了した大木飛曹長は海軍航空の殿堂といわれる横須賀航空隊を経て12空に配属される。この12空は戦闘機専門部隊として中国大陸に展開していたが、ここに大木飛曹長を含む零戦隊が参加することになった。大陸進出の2ヶ月後の1940年9月13日、大木飛曹長を含む零戦隊は陸攻隊の護衛として出撃する。この出撃は「13日の金曜日」に「13機」の零戦が出撃するという縁起の悪さもあり心配する隊員もいたが、結果として撃墜27機の大戦果を挙げることとなった。ここで大木飛曹長は4機を撃墜したことになっているが、この空戦での個人撃墜数はのちに創作されたものであるといわれている。

 太平洋戦争では米軍のガダルカナル島上陸の直前にラバウルに展開する台南空に配属、有名な搭乗員である坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西澤廣義一飛曹、太田敏夫二飛曹等と共に激烈なソロモン航空戦の洗礼を受けることとなった。この台南空は大きな戦果を挙げたものの損害も多く、8月には先任下士官である坂井三郎一飛曹が負傷して内地に送還、さらに笹井中尉が戦死した。9月には歴戦の羽藤一志三飛曹が戦死、10月には太田敏夫一飛曹も戦死するなど消耗が激しく、11月には戦力回復のため愛知県豊橋に後退した。

 1943年5月には戦力の再編成が完了したため再びラバウルに進出するが、この時点で実戦経験者は大木飛曹長、西澤廣義飛曹長、奥村武雄上飛曹等10名程度に過ぎなかった。この時に新たに部隊配属された青年士官大野竹好中尉は特に大木飛曹長と親しかったようで、大木飛曹長をして「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく」と絶賛している。

 この大木飛曹長も1942年6月16日、ルンガ沖船団攻撃において未帰還となった。総撃墜数は17機といわれているが、毎度のことながら撃墜数というのはほとんど誤認であるといってよく実際の撃墜数は不明であるが、上記大野中尉の評価のように大木飛曹長は腕の立つ熟練搭乗員であったのは間違いない。因みにこの空戦では同じく台南空の奥村武雄上飛曹も未帰還となっている。

 

大木芳男飛曹長 関係書籍

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。

 それ以外にも青年士官大野竹好中尉の絶筆となった日記も貴重である。唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。大木飛曹長は上記大野中尉の日記中に登場する。

 

まとめ

 

 大野中尉の絶筆の日記をみると大木飛曹長の人柄の良さが伝わってくる。実戦経験が皆無であった大野中尉にいろいろと操縦について教えていたのだろう。その大木飛曹長は操練を修了後、横須賀航空隊勤務、最初の零戦搭乗員として戦地に進出するなど経歴からみても操縦技術が高く評価されていたのが分かる。

 

 

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武藤金義
(画像はwikipediaより転載)

 

 武藤金義少尉は、撃墜王の坂井三郎をして「日本海軍で最も強靭な戦闘機乗りだった」と言わしめた男である。横須賀航空隊にいた当時、F6Fヘルキャット12機編隊に単機で突入し、みんなの観ている前で4機を撃墜したという逸話を持つ。この光景を地上で見ていた隊員達は、彼を「空の宮本武蔵」と呼び称賛した。武藤少尉の総撃墜数は28機に上るといわれている。

 

武藤金義の経歴

 

 大正5年愛知県に生まれる。昭和10年呉海兵団に機関兵として入団。短期間駆逐艦浦波に乗艦する。昭和11年1月32期操練生として訓練を受ける。昭和11年7月第32期操縦練習生修了後、大村空で延長教育を受ける。昭和12年7月13空に配属。日中戦争に参加する。昭和12年12月12空に配属される。昭和13年10月大分空配属、さらに鈴鹿空、元山空に配属される。昭和16年9月3空に配属。太平洋戦争開戦を迎える。

 昭和17年4月内地に帰還、同時に元山空戦闘機隊(252空)配属される。11月元山空隊員としてラバウルに進出、ラバウル航空戦に参加する。昭和18年11月横須賀航空隊配属。飛曹長に昇進する。昭和19年6〜7月硫黄島に進出、昭和20年5月少尉に昇進。6月末、343空に異動、7月24日豊後水道上空の空戦で戦死した。

 武藤は、運動神経抜群、明朗快活な人柄で誰からも好かれたという。出身期は操練32期で同期には14機撃墜の尾関行治、9機撃墜の末田利行がいる。因みにこの操練32期で戦闘機に進んだ9名は全員が戦死している。死亡率は100%である。32期の中で最後まで生き残っていたのは武藤であったが、武藤も昭和20年7月24日に戦死してしまった。

 武藤は大正5年愛知県に生まれた。大正5年生まれといえば、坂井三郎(64機撃墜)、岩本徹三(216機撃墜)、原田要(15機撃墜)、重松康弘(10機以上撃墜)、岡本重造(9機撃墜)、安井孝三郎(11機撃墜)、小泉藤一(13機撃墜)、大森茂高(11機撃墜)、大木芳男(17機撃墜)、菊池哲生(20機以上撃墜)、白根斐夫(9機撃墜)など撃墜王のオンパレードである。

年齢的にも開戦時に25歳と搭乗員としては脂の乗り切った時期である。29歳で終戦となるので20代を空の戦いに費やしたことになる。武藤は中国戦線で13空に配属され、日中戦争の初期から1空兵として航空戦に参加する。その後、12空へ転属し、太平洋戦争開戦時は台湾の3空に所属し、あの有名な航空撃滅戦に参加する。

昭和17年4月、内地に戻った武藤は、元山航空隊のちの252空に転属、252空は、11月にはラバウルに進出、武藤も激烈なラバウル航空戦に参加する。昭和18年11月、海軍航空の殿堂、横須賀航空隊に転属になり本土へ帰還。横空の隊員として活躍する。横須賀航空隊は実戦部隊であると同時に、新型機のテスト飛行を担当した航空技術廠実験部を引き継いだ横須賀航空隊審査部を持つなど、研究、訓練を行う特殊な航空隊であり、太平洋戦争が始まってからも根拠地以外に展開することはなかった。

しかし戦局はそれを許さずついに横空は八幡空襲部隊として硫黄島進出が命じられた。武藤は、ここで特攻を命ぜられたが途中で空中戦となり特攻することなく無事帰還した。その後、横須賀航空隊員として本土防空戦を戦った。特に2月17日の厚木上空での空戦は、飛行場で日中戦争以来の超ベテラン搭乗員赤松貞明中尉以下が見ている上空でF6F12機編隊に単機で突入、4機を撃墜した。これを見ていた隊員達は武藤を「空の宮本武蔵」と称賛した。

 昭和20年6月、病気療養明けの操練24期のベテラン野口穀次郎少尉と片目の視力を失った操練38期のベテラン坂井三郎との2対1の交換トレードにより343空へ転属する。そして翌7月に豊後水道上空で戦死する。人格に優れ、上下から慕われた人物だったようだ。特に愛妻家として有名であり、戦場からもこまめに手紙を出していた。この詳細は碇義朗『紫電改の六機』に詳しい。

 

NHKドラマ

 

 近年、NHKで『撃墜 3人のパイロット〜命を奪い合った若者たち〜』(2014年12月10、11日放送)というドラマが放送された。ドラマの最後に武藤のお孫さんが登場し、武藤の奥さん(お孫さんからしてみればおばあちゃん)が、再婚しなかったのは、「おばあちゃんはおじいちゃんのことが好きだったから帰ってくるのをずっと待っていたんじゃないか」と語っていた。両想いの夫婦だったようだ。


紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯 (光人社NF文庫)


 武藤少尉の記録については上記の本以外にも『エース列伝』『日本陸海軍航空英雄列伝』等に詳しく記載されている。最後に武藤少尉と同い年で親しかった撃墜王の坂井氏は武藤少尉が撃墜されたことに話が及ぶと「流れ弾だ!」と激怒したという。武藤少尉の人柄が偲ばれる。

 

 

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坂井三郎01 (画像はwikipediaより転載)

 

 日本でもっとも有名な撃墜王。大空のサムライこと坂井三郎である。坂井は海兵団から操縦練習生を経て最終階級は少尉、戦後に何だか分らない昇進で中尉となったという正真正銘の叩き上げ軍人で、昭和18年、大村航空隊教員時代に多撃墜搭乗員として杉田庄一と共に表彰されている熟練搭乗員である。

 

坂井三郎の経歴

 

 大正5年8月26日佐賀県に生まれる。昭和8年5月佐世保海兵団入団。9月戦艦霧島乗組となる。昭和10年海軍砲術学校入校。昭和11年5月戦艦榛名乗組。昭和12年3月、第38期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊する。同年11月30日第38期操縦練習生を首席で卒業。昭和13年4月大村空に配属される。同9月第12空配属される。昭和15年大村空で教員配置。昭和16年4月、再び第12空に配属され、同10月台南空に配属される。昭和17年4月ラバウル進出、連日の航空戦に参加。同8月、ガダルカナル上空の空戦で負傷。内地送還。横須賀海軍病院、佐世保病院での療養を経て、昭和18年4月大村空配属。昭和19年4月横空配属。7月横空戦闘701飛行隊配属。11月203空配属。12月343空配属。昭和20年再び横空配属で終戦を迎える。平成12年9月22日逝去。84歳。

 坂井三郎を有名にしたのは戦後に書かれた坂井三郎空戦記録、そしてそれを元にした『大空のサムライ』であろう。さらに90年代まで執筆を続けた。主な著書は『大空のサムライ』『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』等がある。  坂井は上記のように操縦練習生38期を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜されている。38期の同期には撃墜50機と言われる岡部健二がいる。坂井は日中戦争に参加するも実戦に参加することはほとんどなかったようであるが、1機を撃墜している。太平洋戦争が始まると台湾の台南航空隊に配属され、開戦と同時にフィリピンから始まる東南アジアの航空撃滅戦に参加している。

 航空撃滅戦を行ったのは台南航空隊と第3航空隊であるが、第3航空隊はチモール島クーパン基地へ、台南航空隊は17年4月、ニューブリテン島ラバウル基地へ展開した。当初はニューギニア東部のラエ基地に展開してポートモレスビー攻撃に参加した。1942年8月にガダルカナルに米軍が上陸すると台南空はすぐさま攻撃に向かうがここで坂井は負傷してしまう。記録によるとここまでで少なくとも33機は撃墜しているようである。因みに1942年8月7日のガダルカナル攻撃では坂井は4機撃墜を報告している。ヘンリーサカイダ氏の調査でも4機は誤認だとしても1機は確実に撃墜しているとのことだ。

 トップエースである西沢広義は6機を撃墜しており、日本軍の総撃墜数は48機、損害は12機となっている。しかし米軍の損害は実際には12機であり、ベテラン搭乗員で編成されたこの時期の零戦隊であっても4倍の誤認戦果を出してしまっている。因みに日本軍の損害は陸攻5機、艦爆5機、戦闘機2機である。撃墜した米軍機のほとんどが戦闘機であったとすれば日本軍は相当優勢であったといえるが、損害の数だけを比較するのであれば互角の戦いであり、搭乗員の死亡者で比較すれば惨敗である。

 坂井は目を負傷してしまったためその後はほとんど前線に出ることは無かったようである。内地帰還後は大村航空隊で教員勤務が続いた。1944年5月横須賀航空隊へ転勤し、6月には八幡空襲部隊として硫黄島に進出する。そこで迎撃戦に参加した。坂井氏はここで特攻出撃を命ぜられているが、特攻出撃後、空中戦を行い、同じく撃墜王である武藤少尉と共に帰還している。1944年12月、有名な343空、通称「剣」部隊に転出するがこれは極短期間であったようだ。1945年には再び横空付となり終戦を迎える。

 総撃墜数64機としているが、公文書で確認できるのは30機前後と言われている。しかし坂井の上官である笹井醇一が親に書いた手紙に坂井の撃墜数を50機としていることから一概に嘘であるとは言えない。戦後の坂井に関してはあまり良くない噂等もあるが、日中戦争以来のベテラン搭乗員であり、海軍航空隊の勇者であることは間違いない。

 

坂井三郎関連書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。

 

坂井三郎『大空に訊け!』

坂井三郎 著
光人社 (2000/11/1)

 週刊プレイボーイ紙上で連載していた坂井三郎氏の悩み相談集。読者から寄せられる様々な悩みに坂井氏が答えていく。坂井氏の答えは、死線をくぐり抜けてきた人間が持つ圧倒的な説得力と同時に非常に論理的かつ広い視野から答えている。世間一般とは違う考え方をしている部分が多いが、それも論理的であり、正論である。実は私は坂井氏の著作の中で本書が一番好きである。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿があった。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

零戦01
(画像はwikipediaより転載)

 

オール先任搭乗員

 

 オール先任搭乗員。何のことだか分からないかもしれない。これは日本海軍の戦闘機搭乗員であった菊池哲生上飛曹に付けられたあだ名だ。先任とは軍隊では同じ階級で最も序列が上の人間を指す言葉だ。では「オール先任」とはどういうことだろうか。日本海軍では特務士官といって下士官兵から士官への昇進のルートが存在した。特に搭乗員は昇進が早く、ある程度の経験、実績を積むと特務士官となることができる。

 著名な海軍の搭乗員である岩本徹三や坂井三郎等も兵として海軍に入り特務士官となり少尉として終戦を迎えている(岩本、坂井は菊池と同年兵)。しかし菊池哲生は士官への昇進を拒み続け下士官として生涯を終えた。「オール先任搭乗員」というあだ名はこれに由来している。もちろん能力が低くて昇進できなかった訳ではない。彼は技量人格共に優れ、撃墜数も恐らく20機は超えていると言われる程の熟練搭乗員であった。菊池はあくまでも「自ら」士官になることを拒み続けたのだ。

 

海兵団入団。戦闘機搭乗員へ。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池哲生は大正5年(1916年)に岩手県に生まれる。父親、兄共に医師であった(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法昭和9年(1934年)に海軍に入隊、当初整備兵であったが航空機搭乗員を目指し、昭和12年(1937年)5月操縦練習生39期に採用された。操縦練習生略して操練は兵から選抜される搭乗員養成課程である。前の38期には著名な撃墜王坂井三郎がおり首席で卒業している。余談だが、操練は兵からの選抜のため年齢に開きがあるが搭乗員という体力が必要な職種である以上、ある程度年齢層は固まっている。

 例えばこの操練39期前後のクラスは主に大正5年前後の年齢の練習生が主だった。大正5年生まれ前後の搭乗員は20代前半で中国戦線で実戦経験を積み、25歳前後の知力体力共に充実した時期に太平洋戦争に突入したため、戦争初期から中核となって戦ったクラスであったが同時に犠牲も多かった。 例えば、菊池の卒業した操練39期生30名の内、戦闘機専修は7名いるが、その内6名が戦死している。このことからもどれだけ過酷だったのかが分かるだろう。

 訓練を終えた菊池の初の戦地は昭和14年(1939年)に配属された南支戦線である。しかし、ここでは空戦の機会には恵まれず内地に帰還、霞ヶ浦航空隊、谷田部航空隊で教員配置となる。海軍の搭乗員の教育は「職人の養成」と言われるくらいの少数精鋭主義であった。この時期は日米開戦を間近に控えた時期であったため搭乗員の大量育成が始まりつつあったが戦争中期や末期に比べればはるかに充実していた。それだけに教育も厳しかったが特に「日本の張飛」と言われた菊池哲生の教育の厳しさは有名だったようであり、入隊早々の挨拶が「パンチ」であり、以後も折に触れ体罰が加えられたという(『本田稔空戦記』)。

 この時期に菊池に教育を受け、後に南方やラバウル航空隊や343空で活躍した著名なエース本田稔氏は菊池教員についてこのように語っている。

 

菊池哲生―― その名は、霞が浦にまで知れ渡っており、本田氏はもし自分が谷田部空に行っても、この菊地兵曹の指導だけは避けたいと祈る思いでいた。だが、残念ながら本田氏の祈りは天に届かなかったのである。とにかく菊池教官の指導は厳しかった。「93式中間練習機」通称”赤とんぼ”の後部座席から、ことあるごとにゴツンと頭を殴られる毎日が続いた。本田氏は菊地教官の指導についてこう語っている。「菊池教官の教育は、要するに自分の操縦は自分で編み出せということでした。昔の侍の剣の道と一緒だというわけです。つまり、基本は教えてやるけれども、本田流の操縦は自分で編み出せと。結局それが良かったと思いますね」
(井上和彦『最後のゼロファイター』より引用)

 

 体罰については当時の搭乗員の間にも賛否があるようで乙種予科練5期の角田和男は反対、日本海軍のトップエースと言われる西澤廣義は肯定などまちまちだった。因みに、この昭和16年(1941年)中盤から後半に育成された搭乗員は丙飛(旧操練)2〜4期、乙飛(旧予科練)10期、甲飛5期、海兵68期は戦争初期から中期にかけて各地の戦線に投入された。活躍すると同時に多くの犠牲を出すこととなる。甲飛5期にいたっては戦闘機専修者42名中36名が太平洋戦争で命を落とした。

 

母艦搭乗員。そして開戦。。。

 

03_セイロン島沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池は教員配置の後、昭和16年(1941年)9月空母赤城乗組みを命ぜられる。そして昭和16年(1941年)12月8日、赤城以下6隻の空母艦載機が真珠湾を攻撃する。所謂真珠湾攻撃である。菊池は制空隊ではなく艦隊上空哨戒を命ぜられる。恐らく当時はまだ熟練搭乗員が多く経験の比較的少ない菊池クラスの搭乗員が上空哨戒にまわされたのであろう。この時に艦隊上空哨戒を行った搭乗員にはのちに活躍する岩本徹三、原田要、小町定等がいた。

 昭和17年(1942年)4月にはインド洋作戦に参加。5日のコロンボ空戦では単機で撃墜3機、不確実撃墜2機を記録する。これが確認できる菊池の初戦果のようだ。このコロンボ空襲はインド洋の要衝に位置するセイロン島にある英軍基地を空襲したものであった。日本側発表の戦果は英軍機を51機撃墜。対して日本側の戦闘機1機、艦爆6機が撃墜されたとしている。この数字はやや過大であり、戦後の航空史家の調査によると英軍の実際の損害は28機と日本軍の報告した戦果の約半数であるという(梅本弘『ビルマ航空戦〈上〉』上)。それにしても圧倒的勝利であったことは間違いない。勝利の要因は日本側の兵力が圧倒していたためだろう。

 そして昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に参加。第一次制空隊としてミッドウェー島攻撃に参加、2機撃墜、2機不確実撃墜の戦果を挙げる。その後艦隊上空哨戒で来襲してきた米軍機と交戦協同で3機を撃墜するも母艦赤城が撃墜されたため飛龍に着艦する(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』)。この時、飛龍が被弾艦内に閉じ込められてしまう。一緒にいた高須上飛(操練51期)と出口を探すが全て閉鎖されており一時は自決を決意したようだ。しかし士官室の窓から外に出られることに高須上飛が気が付き脱出するが菊池は20数貫(80kg以上)を超す巨体。一時は脱出を断念すも最終的には何とか脱出することができた(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法

 その後、菊池はミッドウェー海戦生き残りの他の搭乗員と共に鹿屋基地に軟禁される。外出は禁止され仲間以外とは口がきけない状態だったという。菊池は鹿屋基地に軟禁されたがミッドウェー海戦に参加した他の搭乗員も各基地に軟禁された。例えば後にラバウルで有名を馳せる第6航空隊(のち204空)の搭乗員は木更津(204空編『ラバウル空戦記』)、蒼龍乗組の岡元高志(操練43期)は大湊航空隊に。同じく蒼龍乗組の原田要は笠之原基地に軟禁された(森史朗『零戦 7人のサムライ』、原田要『零戦(ゼロファイター)老兵の回想』)。

 この軟禁はミッドウェーの敗戦を隠すための口封じというのが大方の搭乗員の見方であった。味方の搭乗員を軟禁とは大げさと思われるかもしれないが、木更津基地に軟禁された6空搭乗員は海岸寄りの隊舎に入れられた上、縄張りが張られ憲兵によって監視されており(杉野計雄『撃墜王の素顔』)、まさしく軟禁である。このミッドウェー海戦の敗北の隠ぺいでそれまで正確に報道していた大本営発表が虚偽の発表を行うようになった。これは国民だけでなく陸軍に対してさえも隠ぺいされたという(辻田真佐憲『大本営発表』)。

 

ソロモン戦線へ

 

04_瑞鶴航空隊員
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、正確な日時は不明だが1ヶ月ほどで軟禁は解かれたようだ。菊池は今は機動部隊の主力となった空母翔鶴に着任する。他のミッドウェー生き残りの搭乗員は7月にそれぞれ新しい部隊に着任しているので菊池も7月頃に翔鶴に着任したのだろう。菊池は翔鶴戦闘機隊として第二次ソロモン海戦に参加する。第二次ソロモン海戦とは昭和17年8月24日に始まった日米空母海戦である。主な参加兵力は日本側が空母翔鶴、瑞鶴、龍驤、米側はエンタープライズ、サラトガ、ワスプである。

 海戦の結果は日本側は空母龍驤、駆逐艦睦月が撃沈され、多数の航空機を失ったのに対して米側はエンタープライズ中破と20機の航空機を失ったに過ぎなかった。日本側の完全な敗北である。これによってガダルカナル島の制空権は完全に米側の手に落ちた。その後菊池は新郷英城大尉の指揮の下、ブーゲンビル島ブカ基地に進出。連日の航空戦に参加する。9月4日に翔鶴戦闘機隊は帰還するが、進出した15機中帰還したのは菊池を含め10機のみであった。未帰還の5機の中にはミッドウェー海戦で共に飛龍から脱出した高須上飛も含まれていた。

 さらに10月26日、空母翔鶴は南太平洋海戦に参加する。これは陸軍のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場総攻撃を支援するために出撃した日本海軍機動部隊とそれを阻止するために派遣された米海軍機動部隊との間に行った海戦である。結果的に米機動部隊の撃退には成功したものの主目的である日本軍の総攻撃は失敗したが、日本側の損害が空母翔鶴大破というのに対して米側は空母ホーネットが沈没、エンタープライズ中破と一応戦術的勝利を収めた形になる。

 しかし人員の損害をみると艦船乗員の死者は同数であるものの航空機搭乗員の米側26名に対して日本側148名と極端に多い(「南太平洋海戦」wikipedia)。この南太平洋海戦で菊池の操練39期の同期星谷嘉助も瑞鶴戦闘機隊員として戦死している。この海戦に菊池は参加していない。これは菊池がブカ基地に進出した際マラリアとデング熱に感染してしまったことが原因らしい。菊池はマラリアとデング熱のために体が熱くなり、それを冷ますための氷嚢に入っている氷をかじっていたことにより病状をこじらせてしまった。このため南太平洋海戦の間は翔鶴の艦内で寝ていたようだ(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法0みにこの南太平洋海戦で操練39期の同期星谷嘉助が瑞鶴戦闘機隊で参加戦死している。

 

俺は准太郎になるほどの馬鹿じゃない

 

 菊池はそのまま内地の病院に入院してしまう。同時に昭和17年(1942年)11月、菊池は上飛曹に進級する。これは菊池にとって生前の最高位である。以降菊池は戦死するまで「俺は士官の仲間入りはしない」(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法崕畋析此塀攣隆院疊曹長)になるほどの馬鹿じゃない」(白浜芳次郎『最後の零戦』)と飛曹長(士官)への任官を拒み続ける。菊池が士官への任官を拒否する理由はこうだ。菊池によると日本海軍の強さは下士官にある。そして兵を強い下士官に育てるのは下士官だ。しかし戦争が始まって経験の浅い兵ばかりになってしまった。そのために自分が下士官として残り続け優秀な下士官を育て続ける。というのだ(白浜芳次郎『最後の零戦』P174)。

 菊池の性格は豪放磊落で気骨のある「日本の張飛」とあだ名されるほどの人物だったが菊池が広い視野で海軍全体を客観的に見ていることが分かる。ただの豪傑ではないのだ。菊池の聡明さを示すエピソードにこんなものがある。のちの話になるが、昭和19年(1944年)5月に連合軍がビアク島に上陸した際、母艦搭乗員の間で敵機動部隊の主目標について憶測が交わされた。多くの搭乗員はビアクを主目標と考えたが菊池は一人異を唱える。

 

ビアク島こそ牽制作戦だ。大体アメリカさんは、ソロモン・ニューギニア方面を陸軍が受け持っとるタラワ、クェゼリンは玉砕したが、あの方面ー太平洋の真ん中は、海軍の受け持ちだ。だから、敵の機動部隊はサイパンにくる。サイパンだ
東富士喜「龍鳳戦爆隊」『艦隊航空隊』

 

 当時米軍は陸軍と海軍がそれぞれの方面から日本に侵攻していた。海軍はマーシャル諸島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄と太平洋を進撃する作戦を行い、陸軍はニューギニアからフィリピンを目指していた。根拠から分析、結論まで全く正確であったことはのちに判明することとなる。連合艦隊がビアク島に上陸した米軍に対して渾作戦を行い兵力を分散させてしまったことを考えると菊池は連合艦隊の参謀以上に正確に状況を把握していたといえる。

 

再びソロモン戦線へ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年(1942年)11月、内地帰還後築城空の教員をしていた菊池だが昭和18年(1943年)9月再び母艦勤務に復帰する。龍鳳、飛鷹、隼鷹と第二航空戦隊を転々とした後、南方に進出する。この間、昭和18年12月末から一週間カビエン基地へ派遣された。さらに昭和19年(1944年)になると隼鷹、飛鷹、龍鳳の第二航空戦隊はラバウルに派遣され菊池上飛曹も1月25から2月19日までラバウルで連日の迎撃戦に参加する。ラバウルに派遣された第二航空戦隊は戦闘機だけで69機を数え、少数で迎撃戦を展開していたラバウル航空隊にとって強力な増援であった。

 同時に、この第二航空戦隊の進出によって長い間戦線を支えていた204空はトラック島に後退する。この大部隊の登場に、当時253空に所属していた岩本徹三飛曹長は、歓迎すると同時に「艦隊戦闘機隊という誇りはあっても敵の性能、戦法も知らない状態であれば危険である」と不安を感じていた(岩本徹三『零戦撃墜王』)。実際、第二航空戦隊戦闘機隊は初空戦で4機を喪失するという損害を出してしまう。菊池や小泉藤一という熟練搭乗員もいたが多くが実戦経験の少ない若手搭乗員だったことが理由だろう。岩本の不安は的中した。

 しかし連合軍側には第二航空戦隊の戦線参加は脅威だったようだ。当時の連合軍側航空隊指揮官は下記のように警鐘を鳴らしている。

 

ラバウルの防空戦には明らかに新しい部隊が加わっていた。新着の零戦隊は自軍の対空砲火に当たる危険を顧みずSBD艦爆の急降下に食らいついて来た。従来の零戦隊に比べ、この部隊はよく訓練され指揮統率もより攻撃的であった。これからもこの部隊と戦わなければならないとすると、大きな損害を覚悟しなければならないかも知れない。
(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)

 

 菊池達、第二航空戦隊の登場は連合軍側を恐怖せしめたようだ。しかしこの第二航空戦隊も連日の戦闘で徐々に消耗していきラバウルを後退する時には69機あった戦闘機も37機に減少していた。約半数になってしまったのだ。

 

そして、マリアナ沖海戦へ

 

06_マリアナ沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年(1944年)2月に第二航空戦隊はラバウルを後にする。そして菊池はそのまま652空に転じた。652空は第二航空戦隊の後進部隊であり基幹搭乗員も多くが残されたようだ(因みに第二航空戦隊は艦隊であり652空は航空隊である。複雑なので説明は割愛する)。ただ第二航空戦隊はラバウルでの戦闘で大きく消耗しており内地で再建が急がれた。下士官の「ぬし」である菊池上飛曹も部下の教育に腐心したであろう。

 そして昭和19年(1944年)6月、あ号作戦に出撃する。菊池上飛曹は攻撃隊直掩として出撃するも敵機動部隊を発見出来ずに燃料がなくなったためグアム島に着陸する。菊池上飛曹は上空哨戒にあたっていたがその時40〜50機の米軍機が来襲、菊池上飛曹等直掩戦闘機隊は迎撃する。しかし長距離飛行をしてきた直掩戦闘機隊には燃料がなく、撃墜されるまでもなく次々に落ちていったという。菊池上飛曹も敢闘し敵機2機を撃墜するも燃料切れのため落ちていった。豪放磊落でありながら広い視野を持ち、幾度もの士官昇進の内示も拒否し続けた名物男、「オール先任搭乗員」菊池上飛曹は昭和19年(1944年)6月19日マリアナ沖に消えた。

 菊池上飛曹の戦果は判明しているもので撃墜5機、協同及び不確実7であるが、日本海軍は公式資料には個人戦果を記載しない場合が多く、この菊池上飛曹の戦果も赤城時代のものしか残ってない。一説には20機以上撃墜していたともいわれるが実際のところは不明である。

 

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。

 

 

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