トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

1914年生まれ

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

高塚寅一少尉の略歴

 

 高塚寅一 少尉 撃墜数16機  1914年静岡県生まれ。1933年11月22期操練を卒業。12空所属。1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。1941年10月飛曹長に進級して除隊後、直ちに招集され、台南空に配属される。1942年6月ラバウルに進出。9月13日ガダルカナル島上空の空戦にて未帰還となる。

 

 

空戦での撃墜の困難さ

 

 高塚飛曹長は操練22期出身で1928年6月から11月まで半年間操縦の訓練を受けた。同期には8機撃墜といわれる江島友一少尉がいる。戦闘機専修者は7名で太平洋戦争では3名が戦死しており、3名が終戦を迎えることができた。高塚一空曹は12空隊員として日中戦争に参戦、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。

 この空戦で高塚一空曹は白根中尉率いる第2中隊第2小隊長として参加したが、空戦前に増槽落下後、燃料コックの切り換えを忘れ燃料を噴きながら空戦に突入、2番機の三上一禧三空曹に合図されて気付くというトラブルもあった。

 空戦では1機に命中弾を与え空中分解するのを確認した後、機体を引き起こしたが、その際に引込脚のロックがはずれ主脚が飛び出してしまった。このため着陸の際に機体が転覆大破してしまったが、高塚一飛曹は無事であった。この空戦では日本側は27機を撃墜、高塚一空曹も3機を撃墜したことになっているが、実際の中国軍の損害は13機で個人戦果も新聞社が適当に割り振ったものである。

 様々なトラブルがありながらも12空で活躍した高塚一空曹であったが、1941年に飛曹長に昇進すると同時に除隊してしまったが、すぐに招集された。台南空に配属された高塚飛曹長は1942年6月初旬にラバウル・ラエに展開する台南空に着任、6月13日に久しぶりの実戦に参加、19日にはB-17との空戦を行った。7月26日にはB-25 2機を共同で撃墜、29日にはA-24 4機を共同で撃墜した。8月2日にはP-39と交戦、1機撃墜を報告したが、この空戦で実際に撃墜されたP-39は1機のみで撃墜を主張している隊員は6名いるため実際には誰が撃墜したのかは不明である。

 8月4日にはラビ飛行場の強行偵察では地上銃撃の後にP-40と空戦となり1機撃墜を報告しているが、この空戦で連合軍側に空戦による被撃墜はなかった。米軍がガダルカナル島に上陸した8月7日の空戦では空中火災を起こしたものの無事に帰還することができた。8月21日には高塚飛曹長含む台南空零戦隊6機がF4F4機と交戦、高塚飛曹長は1機撃墜、1機不確実撃墜を報告しているがこれも連合軍側には空戦での被撃墜はなかった。

 9月13日には陸軍の河口支隊のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還を目的とした作戦に連動して成功した場合に強行着陸するため陸軍の参謀を載せた陸偵の援護として出撃するが、高塚飛曹長を含む台南空零戦隊9機はガ島上空で26機のF4Fと空戦となり、高塚飛曹長及び高塚小隊全員が未帰還となった。

 

高塚寅一少尉関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。高塚一空曹の9月13日の空戦での活躍についても描かれている。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 高塚飛曹長が予備役から招集され台南空に着任した直後からの活躍が詳しく書かれている。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。高塚飛曹長に関してはソロモン航空戦の時の活躍が描かれている。

 

まとめ

 

 高塚飛曹長の撃墜数は16機ということになっているが、実際の数となると、分かっているのは零戦初空戦時の1機の他は、7月26日、29日の協同撃墜、8月2日のP-40の撃墜である。これらの撃墜数を協同撃墜として欧米式にカウントすると1.15機で高塚飛曹長の総撃墜数は2.15機ということになる。他にも日中戦争での撃墜やその他把握できなかった空戦もあるかもしれないので断定はできないが、「口だけの男ではない」と言われた老練な搭乗員高塚飛曹長をもってしても撃墜とはこれほど困難なものなのである。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

紫電改01
(画像はwikipediaより転載)

 

 岩本、坂井等、著名な撃墜王の先輩にあたるエースである。操練26期を修了した。1936年11月、空母加賀乗組。この当時の加賀はすでに単層甲板に改装された後だった。その後、日中戦争が勃発。太平洋戦争では各飛行隊を転戦したのち、343空に配属される。そこで終戦を迎える。

 

松場秋夫の経歴

 

 1914年三重県生まれ。、1935年3月26期操練を卒業。1936年加賀乗組時に日中戦争で初撃墜を記録する。同年末霞ヶ浦空に帰り、龍驤、岩国空、元山空、大分空と異動する。1943年11月301空戦闘601飛行隊に転属、1944年6月硫黄島に進出する。7月戦闘701飛行隊に異動、T部隊の一員として台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加する。本土帰還後は、343空所属で終戦を迎える。

 太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は手記等の発表はほとんどしていないことからあまり知られていない搭乗員であるが、日中戦争で初陣を飾ったのち、太平洋戦争では龍驤乗組となる。龍驤は小型空母のため発着艦には相当の技量が求められる。熟練搭乗員である松場が選ばれたのは当然といえるかもしれない。

 その後、岩国空、元山空、大分空と異動する。正確には分からないが、恐らく岩国空と大分空は教員配置であろう。1943年11月に301空に転属するが、この301空は飛行隊長が藤田怡与蔵大尉で、新鋭機の雷電を運用する予定の部隊であった。

 1944年3月、301空は戦闘316飛行隊、戦闘601飛行隊に分けられる。松場は戦闘601飛行隊に配属される。隊長は以前同様藤田怡与蔵大尉である。「あ」号作戦の発令により、戦闘316飛行隊は先行して硫黄島に進出。戦闘601飛行隊も硫黄島に進出を命ぜられるが、雷電には性能に不安があるため、機種を零戦に切り替え6月には硫黄島に進出する。

 7月3〜4日には、米機動部隊艦上機の来襲に対して迎撃戦闘を行う。松場はここでF6F、6機を撃墜したという。この数次の空戦と艦砲射撃で航空機を全て失った301空残存搭乗員は輸送機により本土に帰還。7月に301空は解隊、戦闘316飛行隊は252空に編入されたが、戦闘601飛行隊は解隊した。1944年7月、松場は解隊した戦闘601飛行隊より戦闘701飛行隊に異動になる。ここで台湾沖航空戦、比島航空戦に参加することになる。本土帰還後は、343空に所属、鴛渕孝大尉の下、戦闘701飛行隊隊員として紫電改を駆って本土防空戦に活躍する。

 その後、343空隊員として終戦を迎えるが、前述のように、戦後は雑誌への寄稿等はほとんど行わなかった。『海軍戦闘機隊史』に寄稿したのが恐らく唯一の寄稿である。

 因みに、松場が修了した操練26期には、福井義男(9機撃墜)、佐藤仁志(8機撃墜)等がいる。中瀬正幸(18機撃墜)、羽切松雄(13機撃墜)、東山一郎(9機撃墜)と共に敵飛行場に強行着陸した大石英男も操練26期であった。

 

松場秋夫関連書籍

 

零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』

零戦搭乗員会 編
原書房 1987年

 松場秋夫自身による唯一の寄稿。本書に記載があるが、松場氏は自身の記録を出版したり手記を書いたりするのを嫌っていたようだ。零戦搭乗員会の会員が頼み込んでやっと書いてもらったのが本書の寄稿文だという。松場氏も他界した現在、唯一無二の貴重な記録だ。

 

 

↑このページのトップヘ