01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

半田亘理中尉の略歴

 

 1911年8月22日福岡県に生まれる。1928年海軍に入団。5年間の軍艦勤務後の1933年3月操練19期を卒業した。その後、空母龍驤、大村空、横空を経て、1937年8月支那事変勃発とともに空母加賀に乗り組み、中国戦線で活躍した。1938年6月15空に異動、11月本土に帰還した。1940年11月空曹長に進級して除隊したが即日召集。1942年2月台南空に配属、ニューギニア、ラバウルで活躍したが、肺結核の悪化により同年末本土へ送還された。6年に及ぶ闘病生活の甲斐もなく1948年戦病死した。

 

戦闘機の職人、半田中尉

 

 半田亘理中尉は、操練19期で同期には343空で活躍した磯崎千利大尉がいる。同期は7名で1名が日中戦争で戦死、1名は開戦劈頭の真珠湾攻撃で戦死、1名がソロモンで戦死している。半田中尉は海軍に入隊以後、5年間にわたり艦隊勤務に就いたのち、1932年10月に操練19期に採用、半年間の訓練を受けた後戦闘機搭乗員となった。

 空母龍驤乗組み、大村空、横空を経て1937年8月に空母加賀乗組みとなり日中戦争に参戦する。1938年6月には新たに編成された15空に異動する。15空とは1938年6月25日に編成された部隊で空母蒼龍の艦載機が主体となって編成された艦戦、艦爆、艦攻の混成部隊であった。戦闘機隊飛行隊長は有名な南郷茂章大尉で同年12月1日には解隊した短命な飛行隊であった。

 半田中尉は同隊に11月まで所属、その後は内地に異動した。それまでの日中戦争での総撃墜数は6機といわれている。1940年11月には空曹長に進級、除隊したが、即日召集。土浦空で教員を務めた。太平洋戦争開戦後の1942年2月、蘭印方面に展開する台南空に異動、4月には台南空の一員としてバラウルに進出した。5月4日にはP39エアコブラを単独撃墜してベテランの腕の冴えを見せている(この撃墜は連合国の戦闘行動調書によって確認されている)。

 しかし9日後の13日には、著名な搭乗員である坂井三郎一飛曹の列機である本田敏秋三飛曹を一時的に自分の列機として借り受け出撃したが、本田三飛曹は空戦で戦死してしまった。これは後年に至っても悔やんでいたようで死の床でも本田三飛曹を失ってしまったことについて語っていたという。その半田飛曹長はその後肺結核が悪化、1942年末には内地に送還され、闘病生活の後、1948年に戦病死した。総撃墜数は13機といわれている。

 

半田亘理中尉の関係書籍

 

大空のサムライ (光人社NF文庫)

坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 最も著名な海軍戦闘機搭乗員であるといっても過言ではない。操練38期卒業のベテラン搭乗員の坂井三郎氏。日中戦争から太平洋戦争で活躍した。何かと批判も多い著者であるが、操練を優秀者として卒業、初期の台南空の快進撃で活躍したことは事実である。ゴーストライターが執筆しているため若干夢想的な文体であるが、読み物としては秀逸。世界中で翻訳され多くの人に影響を与えた。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 生粋の海軍戦闘機搭乗員であった半田飛曹長は海軍戦闘機隊秘伝の秘技「ひねり込み」も会得していた。内地での勤務に就いていた際、当時、若手搭乗員であった田中國義一空兵が「ひねり込み」の方法を半田一飛曹に訊いたところ、「まだ教えても分かるまい」と教えなかった。そして後年台南空で再会した田中一飛曹が半田飛曹長に再度「ひねり込み」について訊いたところ「教えることは何もないよ」と結局教えてくれなかったという。海軍戦闘機隊では、他の搭乗員も「自分の技は教えない」という職人気質な部分があったようでこのようなエピソードは非常に興味深い。

 

 

 


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