
(画像はwikipediaより転載)
周防元成少佐の経歴
1912年12月14日鳥取県に生まれる。1934年海兵62期を卒業。艦隊勤務を経て1937年9月第28期飛行学生教程を終了。佐伯空、横空での延長教育を受けたのち、1938年2月12空に配属。15空に転じた直後、霞空、大分空教官を経て、1939年10月14空分隊長として再び支那戦線に出動。11月元山空に異動、1940年4月空技廠のテストパイロットとなった。1942年12月252空飛行隊長となりソロモン航空戦に活躍した。1943年2月内南洋に転進。1944年3月本土に帰還後は元山空、築城空の飛行長として終戦を迎えた。
物静かで沈着な周防少佐
周防元成少佐は、海兵62期で同期には志賀淑雄少佐、納富健次郎大尉、飯田房太大尉等がいる。航空機搭乗員となった同期は37名で内、8名が戦闘機搭乗員となった。一般に士官は安全なところで指揮を執り、下士官兵は消耗品として使われるというようなイメージがあるが、実際にはこの海兵62期の8名の内、終戦まで生き残ったのはわずか2名、それも太平洋戦争開戦までに日中戦争で4名、真珠湾攻撃で1名が戦死している。1941年12月9日の時点で海兵62期戦闘機専修者は3名となっている。
海軍兵学校を卒業した周防中尉は艦隊勤務ののち、1936年12月より28期飛行学生として採用、搭乗員としての訓練を受けた。1937年9月に訓練を修了後、佐伯空、横空で延長教育を受けたのち、1938年2月には早速12空の士官搭乗員として日中戦争に参加している。一時期内地で教官となったが1939年10月には再び14空分隊長として中国戦線に出動した。
1940年10月には仏印ハノイに進出、11月には元山空に異動する。ここまでに周防大尉は撃墜11機を報告しており、これは士官搭乗員中の最高撃墜数であった。1941年4月には空技廠に配属、零戦や雷電等の新鋭機の実用実験に携わる。1942年12月には252空飛行隊長としてに発令されたため、「搭乗員の墓場」ソロモン航空戦に参加する。後任の空技廠飛行実験部員には同期の志賀大尉であった。この時、周防大尉の2番機を務めた宮崎勇上飛曹は、周防大尉の印象を「物静かで沈着、それでいて、あたたかい雰囲気を感じる人だった」と語っている。
2ヶ月余りソロモン航空戦の激戦を戦った後、1943年2月、252空は内南洋に転進に伴って内南洋に移動、周防大尉はタロア、のちにウェーク島に移動した。11月24日には、周防大尉は爆装零戦19機を以って、敵占領直後のマキン島銃爆撃に出撃したが、途中の洋上でF6Fヘルキャットの大群に奇襲を受け混戦となった結果、未帰還機10機の犠牲を出し、周防大尉自身も被弾している。さらに25日にも24機の爆装零戦を以って同様の攻撃を実施したが、同様にF6Fとの混戦となり、攻撃は失敗、7機の未帰還機を出してしまった。この空戦で日本側は撃墜11機を報告したが、実際には1機が撃墜されたのみである。
零戦は戦闘機であるため爆装してしまうと本来の性能を発揮することができない。この2回の作戦は零戦の本来の使用法ではない方法で使用したため戦果は無く、損害のみが増大していた。にもかかわらず内南洋方面部隊司令部からは「26日も実施せよ」という命令が届いた。このため温和な周防大尉も堪忍袋の緒が切れ、俺たちを何と考えとるんだ!机の上だけで計画をたてておる奴には、何も分かっちゃおらん。今から殴り込みに行ってくる!」と単身司令部に乗り込んでいったという。多くの部下を失った周防大尉の怒りが爆発したのだった。
内南洋の航空戦で252空はほぼ壊滅、生存搭乗員達は1944年春に本土に帰還した。周防大尉も本土に帰還後、5月には少佐に昇進、元山空飛行長、築城空飛行長として終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、航空幕僚監部運用課長を経て、1960年8月実験航空隊司令、1964年1月空将補、3月第二航空団司令兼千歳基地司令、1965年3月航空自衛隊第五術科学校校長、1966年2月には保安管制気象団司令を歴任、1967年11月空将で退官した。1981年他界。総撃墜数は日中戦争で11機、太平洋戦争で4機の合計15機といわれている。
周防元成少佐の関係書籍
宮崎勇『還って来た紫電改』
総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。宮崎飛曹長は、菅波政治大尉戦死後、周防大尉の部下として長く一緒に戦っている。
まとめ
海軍戦闘機搭乗員は、下士官兵に比べて士官は昇進して地上勤務や内地勤務に移動することが多く、消耗品として使い捨てられることは少なかった。しかしこれはあくまでも「下士官兵と比較して」の話であり、士官搭乗員が決して安全だった訳ではない。事実、海兵62期の戦闘機専修の士官8名の内、6名が終戦までに命を落としている。当たり前であるが、士官も兵士も命がけだったのである。
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