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龍驤

赤松貞明
(画像はwikipediaより転載)

 

 赤松貞明中尉は、太平洋戦争全期間で活躍した主要な搭乗員達が10代後半から20代前半で開戦を迎えていたのに対して、戦闘機搭乗員としては薹(とう)が立った31歳であり、彼らの教官クラスの教官クラスと言っていいほどの搭乗員である。それだけに腕は確かであり、豪放磊落で多彩なエピソードを持っている海軍航空隊の中でも有名な男だった。総撃墜数は27機前後と推定され、内11機が日中戦争での戦果である(秦P183)。総飛行時間6000時間。武道の達人でもあった。

 

赤松貞明の経歴

 

そこそこ詳しい経歴

 1910年7月高知県生まれ。1928年6月佐世保海兵団入団。1931年3月第17期操縦練習生(操練)を卒業した後、赤城、龍驤、加賀乗組を経て横須賀、大村各航空隊に配属される。1937年12月には、13空に配属され、中支戦線に出動。1938年9月に蒼竜乗組。太平洋戦争開戦時は、台湾の第3航空隊に所属していた。開戦後は、3空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、1942年5月本土に帰還する。内地で教員勤務の後、1943年7月331空に異動した。カルカッタ攻撃等で活躍したのち本土に帰還。1944年3月に開隊した302空に異動、終戦まで302空隊員として本土防空戦に活躍した(秦P183、サカイダP86)。

 ものの本には、赤松貞明中尉は「戦闘機隊の古豪」とあるが、まさに古豪という言葉ばぴったりの人物だ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争で名を馳せた著名なパイロットでは、岩本徹三中尉が操練34期、坂井三郎中尉が38期、原田要中尉が35期と出身期が桁違いに若い。これらの搭乗員の年齢と比べても6歳も年長である。

 赤松中尉が卒業した操練とは基本的に水兵から選抜された隊員が航空機搭乗員として訓練を受けるコースで、赤松貞明が操練を修了したのは1931年、岩本徹三などが操練を終了したのは1936年から1937年なので5年以上の経験の差がある。5年というと大したことが無いように感じるかもしれないが、異常に体力と精神力を使うパイロットの4年というのは通常の人とは異なる。

 

 

日本ニュース254号 5:01熱弁をふるっているおじさんが赤松中尉

 

撃墜350機の超超超エース!

 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機であるが、赤松自身は自身の手記では日中戦争時の撃墜数を242〜243機と主張している。これは記録に残っていると書いてあるが無論記録には残っていない。そして太平洋戦争まで含めると赤松自身の主張する撃墜数は何と350機である。これもまたタイトルには「撃墜350機の世界記録」と書いてあるが(赤松P105)、後半になると撃墜340機に変わってしまっている(赤松P131)。

 まぁ、人間細かい事に拘ってはいけない。海軍航空隊にその人ありと言われた赤松中尉である。撃墜数が10機程度違うことなどはどうでもよいのだ。この350機撃墜も恐らく、世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだろう。事実かどうかなどもこの際小さな問題だ。しかし残念ながら、赤松中尉は、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数はわずか百数十機程度であったという(赤松P106)。

 

大言壮語実行型

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(画像はwikipediaより転載)

 

 この話だけをみると赤松貞明中尉とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。そもそも坂井三郎中尉によると、撃墜王になるタイプの多くは、有言実行型であり、時として大言壮語実行型ですらあるという(∈箘P162)。実際、トップエースの一人で、撃墜216機を主張する搭乗員、岩本徹三中尉も「腕も立ったが口も達者だった」と小町定飛曹長に言われるほど大言壮語だった(川崎P272)。撃墜王の全てが大言壮語型だった訳ではないが、彼らは多くの戦場に立ったベテラン搭乗員であることには違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。そもそも、洋の東西問わず、豪傑なんて嘘と過剰な自己アピールだらけだ。

 赤松中尉もその例に漏れず、大袈裟に自己アピールするのだが、その空戦の腕となると尋常ではない。太平洋戦争開戦時にすでに31歳となっており、激しく体力を使う搭乗員としてはすでに旬が過ぎているはずなのだが、開戦当初から第一線で活躍、1945年5月29日には、あの万能戦闘機P51マスタングの75機編隊にこれまた格闘戦に不向きと言われる迎撃機雷電を駆りたった一人で突入、第45戦闘飛行隊のルーファス・ムーア少尉機を撃墜(サカイダP88)、さらに同年7月には同じく雷電を駆ってF6Fヘルキャットを撃墜している等(〆箘P252)、数々の武勲を挙げている実力の人なのだ。この尋常ならざる飛行機の操縦技術に関しては、戦後、赤松中尉が操縦する飛行機に同乗した横山正男上飛曹はその操縦技術の高さに舌を巻いている(横山P211)。

 

 

ベテランの空中戦

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(画像はwikipediaより転載)

 

 ベテランの空戦とはドッグファイトをやって敵機を撃墜するのではなく、それらを高空から見守り、傷付いたり、不調を来した敵機を攻撃すると言われているが(久山P124)、赤松中尉の空戦がまさにそれで後輩の零戦搭乗員坂井中尉に「空中戦で生き残り、勝ち抜くためには敵編隊の端の一番弱い奴から叩いていくのが理想と語っている(〆箘P252)。同様のことを横山上飛曹にも語っているので(横山P210)、これが赤松中尉の戦い方であると考えて良い。

 因みに上記の空戦法はトップエースの一人と言われる岩本徹三中尉も行っており、岩本中尉もこの戦法でトップエースと呼ばれるようになったようだ。しかし、この空戦法、みんなが上空に待機していたらダメな訳で、誰かドッグファイトを行う「損な役」が必要となってくるような気がする。と思っていたら、同じくトップエースの一人である西澤廣義飛曹長はまともにドッグファイトをやるタイプのようで、やはり岩本中尉の戦法が気に入らなかったらしく、岩本徹三中尉に食ってかかったこともあったようだ(神立P199、角田P358)。

 

 

雷電大好き!

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(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、赤松中尉は変人であっただけに航空機の好みもまた変わっていたようだ。赤松中尉がこよなく愛した航空機は、零戦でも紫電改でもなく、「殺人機」とまで呼ばれた局地戦闘機雷電であった。この雷電は、1944年1月頃から実戦に配備された航空機で、大型機の迎撃を主任務とするインターセプター(迎撃機)であった(伊藤P244)。二式大艇や一式陸攻等の大型機が使用する大型の火星エンジンを機首に搭載しているため高速で馬力はあるものの旋回性能は悪く、「雷電国を滅ぼす」とまで毛嫌いされており(‐福田P218)、上記の岩本中尉も雷電に対しては厳しい評価を下している(岩本P251)。

 ベテラン搭乗員に嫌われた理由は、上記の特性以外に大型のエンジンを搭載したために視界が悪く、特に着陸時に非常な注意が必要であったこともある。しかし赤松中尉はこの雷電がお気に入りだったようで、赤松中尉は、世の中にこんな傑作機はないとほれ込んでいたようだ(⊂福田P194)、さらに坂井中尉に対しても「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と語っており(〆箘P252)、雷電に相当ほれ込んでいたようだ。この雷電でP51の75機編隊に突入してP51を撃墜したり、格闘戦能力が優れたF6Fヘルキャットとドッグファイトをやり撃墜したというのだから驚きである。坂井中尉に言わせれば、雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは赤松中尉の他にいないだろうとのことだ(〆箘P252)。

 

 

こんなエピソードも。。。

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(画像はwikipediaより転載)

 

 但し、操縦、空戦以外では部下の結婚式に泥酔して全裸で乱入、踊り狂ったりとかなりの傑物だったようだ(亀井P85)。武道等にも卓越しており、柔道、相撲、水泳、剣道等合わせて11段の猛者であった(亀井P86。坂井中尉の記憶では15段。〆箘P251)。いわゆる豪傑型の人物で、後年、坂井三郎中尉がヘンリーサカイダ氏の取材に対して「とんでもない気分屋で、変人で、すぐに暴力を振るった」と語っていたようだが(サカイダP86)、その後、歳を重ねるごとに人格を増し、部下からも尊敬畏敬される存在となったという(∈箘P124)。

 そしてこれは全くの余談であるが、赤松中尉はけっこうな「おデブさん」であったようだ(肥田P42)。「太っている」というのは明確な基準がある訳ではないので何とも言えないが、部下であった亀井中尉も赤松中尉は太っていたと書いているので当時の感覚としては「おデブさん」であったのだろう(亀井P85)。「おデブさん」戦闘機搭乗員は他にも10機以上を撃墜した艦隊戦闘機隊のエース菊池哲生上飛曹等がいるので空戦に体形はあまり関係ないのだろう。

 

 

終戦時は徹底抗戦

 赤松中尉が所属した302空は、首都防空をに担う部隊として活躍したが、この部隊は、終戦後に戦争継続を主張、降伏を拒否したことでも有名である。302空司令の小園安名大佐は熱血漢で有名であり、開戦時は台南空副長、251空司令等を歴任している実戦派である。指揮官として以外にも斜め銃と呼ばれる機体の上方に30度程度の角度で付きだした機銃を考案したりと大きな業績のある人物であるが、熱血が災いして終戦時はちょっとした騒ぎとなった。

 結局、終戦後の抗戦は未遂に終わったが、赤松中尉も同様に徹底抗戦を主張していたようだ。302空は終戦後各地に戦争継続のビラを撒いたりしていたが、赤松中尉もまた愛機雷電に乗り、横須賀航空隊に戦争継続を訴えに来たという(坂井P35)。8月22日にはトラックに武器弾薬、食糧を満載して木曽山中に立てこもるというようなことも計画していたらしい(横山P245)。冷静に考えればトラック数台分の武器弾薬で抗戦したところで無駄なのであるが、こういった行動に出る心理というのは当時の人でなければ分からないのだろう。

 

 

プロフェッショナルの戦後

 これらの計画は実行されなかったようであるが、軍隊やパイロットが性に合っていた赤松中尉の戦後は不遇だったようだ。飛行機を奪われた赤松中尉は、アルコール依存症となり、戦友たちが資金を出し合って贈った軽飛行機も酒代捻出のため手放した。戦友たちにも見放され、高知県の小さな喫茶店の店主となったのち、1980年肺炎で死去した(秦P183)。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。

 

参考文献

  1. 秦郁彦『日本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社1975年
  2. ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー1巻今日の話題社1967年
  4. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓拗崔娘1996年
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭找軸講談社2002年
  6. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 横山正男『あこがれの予科練』旺史社2002年
  9. 伊藤進「雷電”空中殺法”厚木空の不屈の闘魂」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  10. ‐福田晧文「私の運命をかえた「愛児」雷電と共に」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  11. ⊂福田晧文『指揮官空戦記』光人社1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  14. 角田和男『零戦特攻』1994年
  15. 亀井勉『空母零戦隊』今日の話題社1979年
  16. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』光人社1999年

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

半田亘理中尉の略歴

 

 1911年8月22日福岡県に生まれる。1928年海軍に入団。5年間の軍艦勤務後の1933年3月操練19期を卒業した。その後、空母龍驤、大村空、横空を経て、1937年8月支那事変勃発とともに空母加賀に乗り組み、中国戦線で活躍した。1938年6月15空に異動、11月本土に帰還した。1940年11月空曹長に進級して除隊したが即日召集。1942年2月台南空に配属、ニューギニア、ラバウルで活躍したが、肺結核の悪化により同年末本土へ送還された。6年に及ぶ闘病生活の甲斐もなく1948年戦病死した。

 

戦闘機の職人、半田中尉

 

 半田亘理中尉は、操練19期で同期には343空で活躍した磯崎千利大尉がいる。同期は7名で1名が日中戦争で戦死、1名は開戦劈頭の真珠湾攻撃で戦死、1名がソロモンで戦死している。半田中尉は海軍に入隊以後、5年間にわたり艦隊勤務に就いたのち、1932年10月に操練19期に採用、半年間の訓練を受けた後戦闘機搭乗員となった。

 空母龍驤乗組み、大村空、横空を経て1937年8月に空母加賀乗組みとなり日中戦争に参戦する。1938年6月には新たに編成された15空に異動する。15空とは1938年6月25日に編成された部隊で空母蒼龍の艦載機が主体となって編成された艦戦、艦爆、艦攻の混成部隊であった。戦闘機隊飛行隊長は有名な南郷茂章大尉で同年12月1日には解隊した短命な飛行隊であった。

 半田中尉は同隊に11月まで所属、その後は内地に異動した。それまでの日中戦争での総撃墜数は6機といわれている。1940年11月には空曹長に進級、除隊したが、即日召集。土浦空で教員を務めた。太平洋戦争開戦後の1942年2月、蘭印方面に展開する台南空に異動、4月には台南空の一員としてバラウルに進出した。5月4日にはP39エアコブラを単独撃墜してベテランの腕の冴えを見せている(この撃墜は連合国の戦闘行動調書によって確認されている)。

 しかし9日後の13日には、著名な搭乗員である坂井三郎一飛曹の列機である本田敏秋三飛曹を一時的に自分の列機として借り受け出撃したが、本田三飛曹は空戦で戦死してしまった。これは後年に至っても悔やんでいたようで死の床でも本田三飛曹を失ってしまったことについて語っていたという。その半田飛曹長はその後肺結核が悪化、1942年末には内地に送還され、闘病生活の後、1948年に戦病死した。総撃墜数は13機といわれている。

 

半田亘理中尉の関係書籍

 

大空のサムライ (光人社NF文庫)

坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 最も著名な海軍戦闘機搭乗員であるといっても過言ではない。操練38期卒業のベテラン搭乗員の坂井三郎氏。日中戦争から太平洋戦争で活躍した。何かと批判も多い著者であるが、操練を優秀者として卒業、初期の台南空の快進撃で活躍したことは事実である。ゴーストライターが執筆しているため若干夢想的な文体であるが、読み物としては秀逸。世界中で翻訳され多くの人に影響を与えた。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 生粋の海軍戦闘機搭乗員であった半田飛曹長は海軍戦闘機隊秘伝の秘技「ひねり込み」も会得していた。内地での勤務に就いていた際、当時、若手搭乗員であった田中國義一空兵が「ひねり込み」の方法を半田一飛曹に訊いたところ、「まだ教えても分かるまい」と教えなかった。そして後年台南空で再会した田中一飛曹が半田飛曹長に再度「ひねり込み」について訊いたところ「教えることは何もないよ」と結局教えてくれなかったという。海軍戦闘機隊では、他の搭乗員も「自分の技は教えない」という職人気質な部分があったようでこのようなエピソードは非常に興味深い。

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

田中国義少尉の経歴

 

 1917年佐賀県に生まれる。1934年佐世保海兵団入団。1936年3月31期操練を修了後、大村空にて戦闘機専修教育を受ける。1937年10月13空に配属、上海に進出した。1938年7月大村空に異動後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経た後、1941年10月台南空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加したの1942年4月大分空教員として内地に帰還する。その後は病気のため筑波空、霞ヶ浦空で教官として活躍、終戦を迎えた。

 

田中少尉と「特三」

 

 田中国義少尉は1916年、佐賀県に生まれる。飛行機に憧れた少年は、予科練を目指すが身体検査で不合格となってしまった。しかし海軍内部から搭乗員になる道があることを知ると1934年6月、四等機関兵として佐世保海兵団に入団する。訓練終了後は整備員として配属されたが、操縦練習生の募集があることを知り応募、採用された。しかしこの時、整備分隊の上官の心証を悪くしてしまったため三等兵から二等兵への昇進が半年遅れた。このためその後もすべて同期よりも半年昇進が遅れるという不利益を受けてしまう。これを海軍では「特三」と称した。

 戦闘機搭乗員としての訓練を終えた田中国義一空兵は、上海に進出した13空に配属されたが、そこには黒岩利雄、赤松貞明、虎熊正等の戦闘機の神様のような先輩達が大勢いた。そこに新人として田中一空兵を始め、武藤金義、岩本徹三等の「ひよっこ」が着任したのだ。13空に着任した田中一空兵は空戦の機会に恵まれ、日中戦争において13機を撃墜する。これは日本海軍の日中戦争での最多撃墜者である岩本徹三兵曹の14機に次ぐ記録であった。

 1941年10月、内地での教員生活を終えた田中一飛曹は新たに編成された台南空に配属、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。田中一飛曹の白眉は1942年1月24日の「B-17爆撃機2機同時撃墜」であろう。この日、田中一飛曹はB-17の編隊を発見、早速攻撃をかけたが内、1機が被弾、近くの僚機に衝突して堕ちていった。攻撃は列機を率いて2機で行ったたので協同撃墜ということになる。1942年4月、内地に帰還した田中一飛曹は教員配置に就くが、582空配属となり戦地に行く時、心臓弁膜症が発覚、そのまま教員配置として終戦を迎えた。

 終戦後は建設会社社員を経たのち、1948年より独立して自動車修理を始める。その後戦友の坂井三郎中尉の紹介で雇われ社長、さらに再び独立して自動車塗装専門店を開業、1987年に廃業した。2011年5月25日他界。総撃墜数は単独14機、協同6機の合計20機以上であるという。

 

田中国義少尉関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 NHKのドキュメンタリーを書籍化したもの。零戦とその搭乗員を中心に日中戦争の零戦初空戦から太平洋戦争終戦までを描く。本書には海軍航空機搭乗員の取材を多く手掛けている神立尚紀氏が共同執筆しているため、搭乗員の生の声を多く収録することが出来ている。田中国義飛曹長は開戦初期の比島航空戦の部分で登場する。

 

まとめ

 

 田中国義少尉は、秦郁彦著『日本海軍戦闘機隊』には「B-17攻撃に特技を示した」と書かれているが本人曰く、やっかいな敵であり、得意なはずがないとのことであった。田中少尉が活躍した主な戦場は日中戦争から太平洋戦争初期までであったが、第一線を離れた後も教員として多くの教え子にその高い技術を教え続けた。

 

 

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紫電改01
(画像はwikipediaより転載)

 

 岩本、坂井等、著名な撃墜王の先輩にあたるエースである。操練26期を修了した。1936年11月、空母加賀乗組。この当時の加賀はすでに単層甲板に改装された後だった。その後、日中戦争が勃発。太平洋戦争では各飛行隊を転戦したのち、343空に配属される。そこで終戦を迎える。

 

松場秋夫の経歴

 

 1914年三重県生まれ。、1935年3月26期操練を卒業。1936年加賀乗組時に日中戦争で初撃墜を記録する。同年末霞ヶ浦空に帰り、龍驤、岩国空、元山空、大分空と異動する。1943年11月301空戦闘601飛行隊に転属、1944年6月硫黄島に進出する。7月戦闘701飛行隊に異動、T部隊の一員として台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加する。本土帰還後は、343空所属で終戦を迎える。

 太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は手記等の発表はほとんどしていないことからあまり知られていない搭乗員であるが、日中戦争で初陣を飾ったのち、太平洋戦争では龍驤乗組となる。龍驤は小型空母のため発着艦には相当の技量が求められる。熟練搭乗員である松場が選ばれたのは当然といえるかもしれない。

 その後、岩国空、元山空、大分空と異動する。正確には分からないが、恐らく岩国空と大分空は教員配置であろう。1943年11月に301空に転属するが、この301空は飛行隊長が藤田怡与蔵大尉で、新鋭機の雷電を運用する予定の部隊であった。

 1944年3月、301空は戦闘316飛行隊、戦闘601飛行隊に分けられる。松場は戦闘601飛行隊に配属される。隊長は以前同様藤田怡与蔵大尉である。「あ」号作戦の発令により、戦闘316飛行隊は先行して硫黄島に進出。戦闘601飛行隊も硫黄島に進出を命ぜられるが、雷電には性能に不安があるため、機種を零戦に切り替え6月には硫黄島に進出する。

 7月3〜4日には、米機動部隊艦上機の来襲に対して迎撃戦闘を行う。松場はここでF6F、6機を撃墜したという。この数次の空戦と艦砲射撃で航空機を全て失った301空残存搭乗員は輸送機により本土に帰還。7月に301空は解隊、戦闘316飛行隊は252空に編入されたが、戦闘601飛行隊は解隊した。1944年7月、松場は解隊した戦闘601飛行隊より戦闘701飛行隊に異動になる。ここで台湾沖航空戦、比島航空戦に参加することになる。本土帰還後は、343空に所属、鴛渕孝大尉の下、戦闘701飛行隊隊員として紫電改を駆って本土防空戦に活躍する。

 その後、343空隊員として終戦を迎えるが、前述のように、戦後は雑誌への寄稿等はほとんど行わなかった。『海軍戦闘機隊史』に寄稿したのが恐らく唯一の寄稿である。

 因みに、松場が修了した操練26期には、福井義男(9機撃墜)、佐藤仁志(8機撃墜)等がいる。中瀬正幸(18機撃墜)、羽切松雄(13機撃墜)、東山一郎(9機撃墜)と共に敵飛行場に強行着陸した大石英男も操練26期であった。

 

松場秋夫関連書籍

 

零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』

零戦搭乗員会 編
原書房 1987年

 松場秋夫自身による唯一の寄稿。本書に記載があるが、松場氏は自身の記録を出版したり手記を書いたりするのを嫌っていたようだ。零戦搭乗員会の会員が頼み込んでやっと書いてもらったのが本書の寄稿文だという。松場氏も他界した現在、唯一無二の貴重な記録だ。

 

 

奥村武雄 (画像はwikipediaより転載)

 

 奥村武雄は、日中戦争から太平洋戦争中盤にかけて戦った戦闘機搭乗員で、総撃墜数は公式記録からみると30機前後であるが、一般には54機撃墜といわれている。

 

奥村武雄の経歴

 

 奥村武雄の経歴を簡単にみてみよう。奥村は、大正9年2月27日、福井県に生まれる。昭和10年6月呉海兵団に入団。昭和13年2月第42期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。9月卒業。大分空で戦闘機専修教育を受け、大村空に配属される。昭和14年9月14空に配属され日中戦争に参加、実戦を経験する。その後、大分空で教員配置ののち、昭和17年空母龍驤戦闘機隊に配属される。

 第二次ソロモン海戦で母艦龍驤が撃沈されたため、ラバウルに展開している台南空に転属する。昭和17年12月本土に帰還。大分空で教員配置につく。昭和18年5月201空に配属、7月にはブーゲンビル島ブイン基地に進出する。9月14日には1日で10機撃墜という日本海軍の最高記録を樹立するが、8日後の9月22日、空戦中に未帰還となった。

 大正9年生まれ、つまりは1920年生まれ、海兵団に入団したのがなんと15歳、操縦練習生を卒業したのは18歳というかなりの若手。太平洋戦争開戦時21歳といえば通常なら飛練を出たての新米だが、この奥村武雄、もう一年以上の実戦経験を持つベテラン搭乗員であった。1920年生まれといえば、有名な撃墜王西沢広義、杉山輝夫、渡辺秀夫、前田英夫、小町定等がいる。甲種予科練出身者以外はほとんど実戦経験がない。

 特に操練出身者は日中戦争当時はまだ訓練生であった。経歴をみれば分ると思うが、奥村は、内地での教員配置が多い。戦地にいたのは日中戦争の1年数か月、龍驤乗組からの半年、201空時代の3ヶ月。操練卒業から5年間の部隊経験があるが、実戦部隊に配属されていたのは、トータルで2年強。残りは教員配置だった。

 その上、戦争中盤で戦死してしまっているので注目されることが少ないが、一日10機を撃墜するという前代未聞の記録を打建てた搭乗員である。空戦技術に絶対的な自信を持ち、先輩の搭乗員である樫村寛一や羽切松雄などと空戦をしても負けなかった三上一禧が唯一、後方に付かれ振り払うことが出来なかったのがこの奥村武雄だったそうだ

 空戦に天性の勘を持つという三上のバックを取った奥村は三上の3歳年下で、操練では5期下であった。奥村の空戦の腕がどれだけのものだったのか分かるだろう。但し、撃墜数の54機は誇張が含まれていると言われている。研究者によっては30機前後としているが、そもそも第二次世界大戦の撃墜数自体が誤認と希望的観測を多分に含んだ誇張された数であるのでカウントすることにあまり意味はないだろう。梅原氏の研究のような形で判明すればそれはそれで興味はあるが。

 

 

奥村武雄関連書籍

 

神立尚紀『証言零戦生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

神立尚紀『ゼロファイター列伝』の文庫化。零戦初出撃に参加した搭乗員、三上一禧氏、日高盛康氏等の貴重なインタビューが載っている。その他にも吉田勝義氏など、自身の経験を書籍化していない元搭乗員達のインタビューがあるのは貴重。

 

 三上一禧氏のインタビューでパイロットには天性の勘があるという話は面白い。天性の勘があると自任する三上氏は、圧倒的に飛行時間が多い片翼帰還で有名な樫村寛一少尉、羽切松雄氏にすら負けなかったという。しかし後輩である後の撃墜王奥村武雄上飛曹は空中戦訓練の際、どうしても振り切ることが出来なかったという話は面白い。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。本書では台南空での奥村武雄上飛曹の空戦の様子が分かる。天才と言われた奥村上飛曹でもやはり誤認戦果は多かったようだ。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

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