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鳳翔

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

山本旭中尉の略歴

 

 1913年6月13日静岡県に生まれる。1933年横須賀海兵団に入団、1934年7月操練24期を卒業。館山、大湊空を経て1935年11月空母鳳翔乗組。日中戦争の勃発により中国大陸に進出した。1937年12月、内地に帰還、霞空に配属された。1939年10月12空付。再び中国戦線に出動した。1940年7月、内地に帰還、大分空で教員配置となった後、空母加賀乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。真珠湾攻撃を始め、加賀戦闘機隊員として多くの作戦に参加、ミッドウェー海戦では母艦上空直掩で活躍した。1942年7月瑞鳳乗組。南太平洋海戦に参加した。1943年3月に瑞鶴戦闘機隊員としてラバウルに進出。5月、内地に帰還。横空に配属された。1944年6月八幡空襲部隊の一員として硫黄島に進出。11月24日のB-29迎撃戦の際、千葉県八街で被弾脱出したが、落下傘が開かず墜落戦死した。

 

海軍航空の花道を歩いた男

 

 山本旭中尉は操練24期で同期には片翼帰還で有名な樫村寛一飛曹長がいる。同期は9名で卒業までに2名が事故死している。さらに空母加賀に配属された1名が事故死と1/3が事故で亡くなっているクラスである。戦争では1名が日中戦争で戦死、2名が太平洋戦争で戦死しており、太平洋戦争終戦を迎えることが出来たのは3名である。

 操練を卒業した山本中尉は館山、大湊空を経て1935年11月、世界初の空母鳳翔乗組となった。日中戦争が勃発すると鳳翔は僚艦龍驤と共に第三艦隊に編入、上海沖に展開して陸戦部隊の支援を行った。8月19日には山本三空曹は上海上空において敵戦闘機の初撃墜を報告。その後も戦果を重ねた。この山本三空曹の殊勲に対して鳳翔艦長草鹿龍之介大佐より「鷲鳥之疾至於殷折」の褒状が授与された。同年12月には内地に帰還、霞空で教員配置に就いたが、1939年10月、12空付となり再び中国大陸に進出、1940年7月、内地に帰還して大分空の教員配置に就いた。

 1941年10月空母加賀乗組となり太平洋戦争の開戦を迎えた。開戦劈頭の真珠湾攻撃では遊覧飛行を楽しむ民間機を軍用機と誤り撃墜、これが真珠湾攻撃の撃墜第一号となってしまった。撃墜第一号を記録した山本一飛曹は帰ってから上官に怒られ、「大東亜戦争の撃墜第一号を記録したのに、帰ったらおこられたよ」とぼやいていたという。その後もダーウィン攻撃、ミッドウェー海戦等で活躍した。ミッドウェー海戦では上空直掩を担当したが、母艦が被弾していたため空母飛龍に着艦、友永雷撃隊の直掩を務めた。

 1942年7月に空母瑞鳳に異動、南太平洋海戦に参加した。11月には飛曹長に昇進、1943年3月から4月までラバウルに派遣され、激烈なソロモン航空戦に活躍した。5月には内地に異動、横空に配属された。1944年6月には横須賀から移動することのなかった横空が八幡空襲部隊としてついに硫黄島に進出、米機動部隊攻撃をかけたが山本少尉は硫黄島での艦砲射撃で負傷してしまった。この海軍の殿堂と呼ばれた横空の練度の高い隊員で結成された八幡空襲部隊には山本飛曹長を始め、坂井三郎飛曹長、武藤金義飛曹長、志賀正美上飛曹、宮崎勇上飛曹等、そうそうたるベテラン搭乗員が参加していた。

 内地にて負傷が回復した山本少尉は11月24日、B-29迎撃に出撃、千葉県八街上空で被弾脱出したが解傘せずに墜落戦死した。総撃墜数は15機といわれている。

 

山本旭中尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 山本中尉は操練24期、日中戦争勃発以前に搭乗員として十分な訓練を受け、日中戦争で実戦経験を積んだクラスであった。同期の多くが事故死しているのは当時の航空機の信頼性の問題なのかもしれない。太平洋戦争開戦後は母艦戦闘機隊員として特に練度が高いことで有名であった1航戦に配属され、陸上基地勤務では海軍航空の殿堂と言われた横空に在籍していた。海軍航空の表街道を歩いた山本中尉であったが、戦争末期に落下傘が解傘せずに墜落ししてしまう。搭乗員という職業は危険と背中合わせであった。

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52010224.html

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

大森茂高少尉の略歴

 

 1916年1月15日山梨県に生まれる。1933年5月海軍に入団。1936年9月操練33期卒業。1938年2月13空に配属。日中戦争に参加する。3月12空に異動。12月赤城乗組ののち、筑波空、大湊空を経て、鳳翔乗組で太平洋戦争開戦を迎える。1942年5月赤城乗組。6月ミッドウェー海戦に参加。その後翔鶴乗組。南太平洋海戦には母艦上空直掩の任務に就いたが、米艦爆が翔鶴へ投弾するのを防ぐために体当たりして戦死した。戦死後全軍布告、二階級特進で特務少尉となった。

 

母艦戦闘機隊一筋に生きた男

 

 大森茂高少尉は操練33期出身で戦闘機専修の同期はわずか6名である。この時期は少数精鋭教育の時代ではあったが、6名の内、2名が転科しているので、当時流行していた戦闘機不要論の影響があったのかもしれない。この戦闘機不要論とは海軍の場合、九六陸攻が当時の主力戦闘機九〇式艦戦を上回る高速を発揮したため、陸攻だけで十分であり戦闘機は不要であると短絡的に考えた海軍の一部高級士官が唱えた論である。

 無論、九〇式艦戦と九六陸攻は世代が全く違うため新鋭機の性能が圧倒しているのは当たり前であった。当時の航空機は3年で旧式となるほどの発達期であり、6年の差は大きかった。その後、九六陸攻の速度を上回る九六艦戦の完成や実戦で戦闘機の援護の無い攻撃機に大損害が出たためこの論は消え去ったが、一時的にしろ戦闘機搭乗員を削減したことは後々大きく影響することとなる。

 操練33期は1936年2月から訓練を開始、同年9月に終了している。この前後のクラスは日中戦争開始前に十分な訓練を受け、その後日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したクラスで著名な搭乗員である武藤金義少尉(32期)、岩本徹三中尉(34期)、原田要中尉(35期)坂井三郎中尉(38期)等、太平洋戦争全般において中核となったクラスであった。それだけに戦闘機不要論の影響は大きかったといえる。

 訓練課程を修了した大森少尉は1938年2月に中国大陸に展開する13空に配属、同月には初めての実戦を経験する。翌月には12空に異動、引き続き中国大陸で活躍した。12月には空母赤城乗組を経て筑波空、大湊空と陸上基地勤務を経て空母鳳翔戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた。この鳳翔は太平洋戦争開戦時には二線級の空母であったが、旧式であるために飛行甲板が狭く、離着艦に高い技量が必要とさえる。それ故、大森少尉のような熟練者が任命されたのかもしれない。

 1942年5月、空母赤城に異動となる。翌月にはミッドウェー海戦に参加、大森少尉はミッドウェー島攻撃隊の直掩として出撃、帰還後は直掩機として防空任務に就いた。防空任務では6機撃墜を報告したものの母艦は被弾し炎上、唯一健在であった空母飛龍に着艦して引き続き防空任務に努めたが飛龍も撃沈されたため海上に不時着、救助された。

 内地に帰還後、翔鶴戦闘機隊に配属される。1938年末以来、一時期の陸上基地勤務を除けば母艦一筋である。8月、瑞鶴、瑞鳳と共に第一航空戦隊を編成した翔鶴はソロモン海に向け出撃、同月24日には第二次ソロモン海戦に参加する。さらに10月26日には南太平洋海戦に参加、大森少尉(当時一飛曹)も参加、母艦上空直掩任務に就いた。母艦上空での空戦では5機の撃墜を報告したが、米艦爆の内1機が投弾体勢に入っていたが、大森少尉は攻撃が不可能と判断すると米艦爆に体当たりして戦死した。

 この海戦において翔鶴は大破したものの撃沈は免れた。この大森少尉の行為に対して海軍は全軍に布告、二階級特進として特務少尉に任じた(戦死時は一飛曹)。この二階級特進であるが、戦死してしまって階級が上がることに意味がないのではないかと思われるかもしれないが、これは多少異なる。

 もちろん本人は戦死してしまっているので全く意味がないのであるが、大森少尉の遺族は「少尉」の軍人恩給をもらうことが出来る。全軍布告は単なる名誉であるが、二階級特進は遺族に対する恩給の金額が上がるため戦死者の遺族にとっては生活の助けになるという側面もある。総撃墜数は13機といわれている。

 

大森茂高少尉の関係書籍

 

まとめ

 

 操練33期は6名であったが、2名が他機種に転科、のちに1名が戦闘機に転科しているため5名であった。この内、太平洋戦争終戦を迎えられたのは1名のみで、1名は日中戦争で、3名が太平洋戦争で戦死している。この内1名は1945年8月9日で終戦のわずか6日前であった。

 

 

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