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零戦

01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

最強の零戦54型丙

 

 1940年に11型が制式採用されて以来、21型、32型、22型、52型、53型、62型、63型とアホみたいにバリエーション展開をしてきた零戦。すでに二番煎じというレベルではなく、柳の下のどじょうも3〜4匹は居たもののさすがに53型、62型くらいになるとかつての駿馬零戦もポンコツ感が増してきた。この最大の理由はエンジンで、零戦開発当時は小型で高出力であった栄エンジンも戦争後期の重武装、重装甲型にシフトしつつある戦闘機を引っ張るには力不足であった。特にこの問題が顕著だったのが62型で、急降下爆撃機型に各部が強化された零戦を飛ばすには非力に過ぎ、最高速度が52型に比べて20km/h以上低下するという事態になってしまった。こうなるともう栄エンジンの性能が限界であることは誰の目にも明らかであった。

 

そもそも金星が好きなの!

02_栄二一型
(栄21型 画像はwikipediaより転載)

 

 1944年11月、海軍は零戦の次期改良型に栄以外を使用することを許可した。これは、上記の理由も少しはあったのかもしれないが、最大の理由は、エンジンの生産関係の問題であったようだ。この時期、栄エンジン生産工場を中島飛行機から石川島へ変更したことにより栄の生産低下が予想されたからのようだ。しかし、これによって、とうとう零戦も新型エンジンを搭載することができるようになったのだった。

 実は零戦のエンジンは当初から栄エンジン一択であった訳ではない。零戦の試作時点で候補に挙がっていたエンジンは、三菱製の瑞星13型と金星46型の二つで、栄エンジンは計画段階では完成していなかった。そして、この二つのエンジンはそれぞれ特徴があり、瑞星は小型であるが非力、金星は大馬力であるが大型であった。設計主務者の堀越技師としては将来性を考えて出力の大きい金星46型を選びたかったが、戦闘機といえば小型の九六式艦戦サイズが当然と思っている搭乗員と海軍。九六戦に比べるとバカでかい零戦に、さらにデカいエンジンを積んでしまっては海軍に採用されないかもしれない。そう考えた末に堀越技師は妥協することにしたようだ。結局、金星は諦めて小型で非力な780馬力瑞星13型を採用、さらに量産機では新しく完成した栄12型エンジンに変更されたという経緯があった(堀越P99)。つまり設計主務者の堀越技師は当初から金星エンジンを搭載したかったのだ。

 

 

最強の零戦完成じゃー!

03_零戦52型丙
(零戦52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

 この金星エンジン採用の要望はマリアナ沖海戦の直後1944年7月に52型丙の開発命令が出た時にも行われた。この時期になるともうすでに栄21型エンジンは性能の限界に達しており、さらに重武装、重装甲を要求された零戦52型丙を栄21型は余裕を持って飛ばすだけの力はなくなっていた。そこで三菱側は零戦のエンジンを栄から金星へと変更を要望した。しかし海軍は、エンジンの換装ともなると大幅に時間がかかるためという理由で却下したのだ。

 その却下から僅か4ヶ月後の1944年11月。海軍によりエンジンの換装も可能にした零戦の改造試作の指示が出された。この結果、三菱設計陣はエンジンを三菱製ハイパワーな金星62型に換装。さらに軽量化のため胴体内13mm機銃の廃止、胴体内燃料タンク以外は防弾版を廃止して自動消火装置に変更する等重量軽減が図られた。エンジンの変更に合わせてカウリングを再設計、プロペラも3翅3.15mのハミルトン定速プロペラに変更された。燃料タンクは胴体内140L1個、翼内215L、外翼内40Lが左右2個で合計650Lに150L増槽を左右翼下に設置可能であった。この燃料搭載量は21型520L、32型480L、22型580L、52型570L、52型、62型の500Lと比べて圧倒的に多く、全零戦中最高である。

 武装は、九九式2号20mm機銃4型2挺(携行弾数各125発)、三式13mm機銃2挺(携行弾数各240発)、性格の違う2種類の機銃を装備するという非合理さは改善されなかったものの、少なくとも52型丙よりは1挺減らして軽量化。爆弾は60kgまでは左右翼下に各1発、500kg、250kg爆弾は胴体下に搭載できるようになっている。これらの変更に伴い重量は軽量化を意識したにもかかわらず零戦中最高重量である3,155kgとなったが、1,560馬力を発揮する金星62型エンジンのおかげで最高速度は海軍資料では572km/h、三菱資料では563km/h、6,000mまでの上昇速度は、海軍資料では6分50秒、三菱資料では6分58秒、上昇限度は海軍資料で11,200m、三菱資料で10,780m、航続距離は全速30分プラス巡航2.5時間となっている。

 

最初から堀越技師の言う通りにしていれば。。。(ボソッ)

04_零戦52型甲
(零戦52型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 最高速度では海軍資料でいえば零戦中最高速、三菱側の資料を基にしてもそれまで最速であった52型と同等であり、上昇力に関しては間違いなく全零戦中最高である。制式採用後には64型と呼ばれる予定であったこの最強の零戦54型丙は、1945年4月下旬に試作1号機が完成、その後2号機も完成したが、この試作機2機のみで量産されることはなかった。量産される前に終戦となってしまったからである。前述のように栄から金星への換装は十二試艦戦当時から要望されていたもので、実は、堀越技師が最も作りたかった零戦の改良型であったという(堀越P356)。

 海軍は航空機に対して過大な要求を行う傾向にあった。零戦のように成功した機体もあったが、万能を要求するあまりに「どっちつかず」の二式陸偵(後の月光)のような機体も生み出してしまった。「仮に」という話をしても仕方がないが、仮に海軍が堀越技師に全てを任せ最初から通して十二試艦戦のエンジンを金星46型にして、以降、金星のバージョンアップ毎に機体を改良していけば、実はこの零戦54型丙、もっと早くに量産、実戦投入が可能であったのだ。少なくとも技術的には可能であった。ホント残念。トホホ。。。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史 5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 堀越二郎「零戦主任設計者の回想(二)」『零戦よもやま物語』 光人社 1995年

 

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 

 


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01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 

 


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01_零戦
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 零式艦上戦闘機、通称零戦は、堀越二郎技師の設計による三菱製の艦上戦闘機で1939年4月に初飛行、1940年9月13日に初空戦を行った。特徴は圧倒的な運動性能と20mm機銃という強力な火力で日中戦争から太平洋戦争初期には威力を発揮した。太平洋戦争開戦以降も幾度か改良が行われつつ終戦まで使用され続けた。生産は中島飛行機でも行われ、総生産数は10000機以上にも上る。これは日本の航空機生産史上最高である。

 

零式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(五二型)

全幅 11.0m
全長 9.121m
全高 3.57m
全備重量 2.733kg
上昇力 6000mまで7分01秒
航続距離 全力30分+2560km(増槽装備時)
出力 1130馬力
最大速度 565km/h
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 1937年10月5日、三菱と中島飛行機に海軍の次期艦上戦闘機計画要求書が交付された。この要求書では次期艦上戦闘機は格闘戦性能は九六戦と同等にして速度、上昇力、航続距離を大幅に向上させるという不可能に近い要求であった。このため中島飛行機は試作を断念。三菱のみが十二年試作艦上戦闘機製作を行うこととなった。

 

開発

 当時、設計するにあたって使用できるエンジンは三菱製の780馬力瑞星と1000馬力の金星の2基しか存在しなかった。瑞星はコンパクトではあったが馬力が弱く、逆に金星は大型であったが高馬力であった。これらを選考した結果、非力ではあるが、コンパクトな瑞星が選定された。

 エンジンの馬力が弱いことから設計には特に重量軽減と空気抵抗を極力少なくすることに注意が払われた。このため軽量で強度の高い超々ジュラルミン、沈頭鋲の採用、海軍戦闘機初の引込脚や世界初の水滴型増槽も採用された。

 これらの斬新な技術を取り入れた十二試艦戦は1939年3月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行が行われた。1939年9月海軍に領収され、2号機も翌月に領収されている。これら2機の試作機のエンジンは瑞星であったが、1939年中頃に中島飛行機において瑞星よりも軽量小型である栄エンジンが完成したことからエンジンを栄エンジンに換装することとなった。

 栄への換装は増加試作機1号機である通算3号機から行われた。換装の結果、最高速度が533km/hに達する等高性能を発揮したが、1940年3月11日、奥山益美工手(操練21期)が操縦する試作2号機が空中分解事故を起こしてしまう。これは急降下時におけるフラッター異常であり、早速改修工事が行われた。この事故の約3ヶ月後の7月21日、前線からの要望により制式採用前の十二試艦戦15機が前線に送られた。同月24日、零式一号艦上戦闘機一型として制式採用された。

 

零戦11型

02_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

 1939年3月16日、零戦試作1号機が完成した。同年4月1日、初飛行。これが世界初の零戦で量産型と異なりエンジンが瑞星という780馬力という非力なエンジンであった。量産型に比べて胴体が30センチほど短い。この2機の内、2号機は事故で失われている。エンジンを940馬力栄12型に換装した11型は1939年12月28日に初飛行、1940年7月24日正式採用された。この11型は総数64機(wikipediaでは60機)生産されており、太平洋戦争初期まで使用されていたようだ。着艦フックは付いているものと付いていないものがあった。

 

零戦21型

03_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 この11型を改良したものが零戦21型で1940年12月4日正式採用された。この型は11型の翼端を折り畳めるようにしたもので三菱で740機、中島飛行機で2628機生産された。21型は1944年春まで中島飛行機によって生産が続けられ、太平洋戦争初期から終戦まで使用し続けられた。エースパイロットの坂井三郎氏曰く、21型こそが最高の零戦であるという。

 

零戦32型

04_零戦三二型
(画像は零戦32型 wikipediaより転載)

 

 この21型のエンジンを二速過給機付栄21型エンジンに換装し翼端の折畳部分を切断し角型に整形したのが32型でエンジンの換装により馬力が1130馬力に最高速度が541kmに増加したが発動機の燃料消費量の増大と燃料搭載量の減少で航続距離が減少した。さらに20mm機銃が99式1号2型に変更されて装弾数が60発から100発に増加した。1941年7月14日に初飛行、1942年春に実戦配備された。生産は三菱のみで行われ試作3機とは別に343機が生産された。これは前期型と後期型に分かれ後期型は燃料タンクが大型化されている。前期型が188機、後期型が152機生産されている。

 

零戦22型

05_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

 32型の航続距離の短さが問題となり改良されたのが22型で1942年に1号機完成、1943年1月29日に正式採用された。エンジンは栄21型を使用しているが燃料タンクは増設された。翼端も21型と同様の12mに戻される。この22型には甲という武装が変更されたモデルが存在する。甲型は99式1号の銃身を長くした99式2号3型に変更されている。22型はソロモン方面で活躍した。これも三菱製のみで560機が生産されている。

 

零戦52型

06_零戦五二型丙
(画像は零戦52型 wikipediaより転載)

 

 52型は昭和18年8月23日正式採用された。翼幅は32型と同様に11mに縮小したが、翼端は32型と異なり円形に整形された。発動機は栄21型であるが、排気管をロケット式排気管に変更したため馬力が1300馬力に増加。武装は22型甲と同様に99式2号3型で三菱でエンジンに消火装置の無い前期型と消火装置装備の後期型に分かれる。三菱で747機製造された。前期型が370機、後期型は377機である。同時に中島飛行機でも生産された生産数は3573機と言われている。52型の武装を変更したのが甲型で99式2号3型からベルト給弾式の4型に変更した。これによって携行弾数が125発になった。三菱で391機生産されている。中島製は不明。さらに甲型の右胴体銃を3式13mm固定機銃に変更した乙型が存在する。装弾数230発。三菱で470機生産された。中島製は不明。さらに両翼に13mm機銃増設、防弾強化をした重武装型の丙型がある。三菱184機(推定)、wikipeidaでは341機となっている。最高速度541km。

 

零戦53型、62/63型

 

 この52型丙のエンジンを栄31型に換装したのが53型丙で試作機のみ製作された。さらに戦闘爆撃機型の62型/63型も生産されている。62型も63型も同型である。最高速度543km。機体強度を強化、爆弾投下装置新設。栄31型エンジンを装備している機体と栄21型を装備している機体がある。  紆余曲折があったため呼び方が混乱している。三菱両社で約490機が生産されたと推定される。

 

零戦54/64型

 

 最後に製作されたのが54/64型丙で試作機が2機のみ製作された。エンジンを1500馬力金星エンジンに換装。最高速度は海軍側資料では572km。三菱側資料では563km。胴体銃は廃止され、翼内の20mm機銃、13mm機銃各2門となった。最後であり最強の零戦。

 

零式練戦11型

 

 その他、零式練戦11型が日立航空機272、21空廠で243機生産された。零式練戦は練習用の零戦で昭和18年に試作一号機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。複座式、翼端折畳廃止、固定武双は7.7mm機銃のみで20mm機銃はない。零式練戦22型も試作されたが、試作2機のみ。

 

配属部隊

 1940年7月、当時まだ制式採用前であった十二試艦戦15機が第12航空隊に配属されたのが最初である。その後11型として制式採用、9月13日には重慶上空で初空戦を行っている。同月14空にも零戦9機が配属、北部仏印進駐としてハノイに進出した。両航空隊は1941年9月に解隊するが、その間に対空砲火によって3機の零戦が撃墜されている。

 太平洋戦争開戦時に零戦を装備していた部隊は実験部隊でもある横空を除くと、空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴の戦闘機隊が126機、開戦と同時に比島攻撃を予定していた台南空と3空が各45機、さらには22航戦司令部戦闘機隊が27機であった。1942年2月になるとラバウルに進出した4空が9機(10機とも)の零戦を受領、同月より運用を開始した。

 さらに6空(のちの204空)と空母隼鷹、龍驤の戦闘機隊にも零戦が配備された。この空母に搭載された零戦は隼鷹戦闘機隊隊長の志賀淑雄少佐が半ば強引に配備させたものと言われている。1942年8月には二号零戦(のちの32型)がラバウルに進出した2空に配備されており、以降、零戦は各部隊に順次配備されていった。

 

まとめ

 

 同時期に同じく栄エンジン(陸軍名「ハ-25」)を使用した戦闘機一式戦闘機は愛称「隼」として当時から国民に親しまれていたが、実は零戦は戦中ほとんど国民には存在は知られていなかった。この零戦が一躍「ゼロ戦」として有名になるのは、戦後、零戦は著名なエースパイロット坂井三郎『大空のサムライ』のヒットによる。一躍有名になった「ゼロ戦」は現在でも知らない人はほとんどいない名機中の名機である。

 

 

 


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堀越二郎 著
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/12/25)

 

 映画『風立ちぬ』で有名な零戦設計者堀越二郎の著書『零戦〜その誕生と栄光の記録〜』を読んだ。堀越二郎といえば零戦、九六式艦戦、雷電、烈風の設計者として有名であるが、実は著書を読んだことはなかった。ということで今回購入して読んでみたのだ。

 

堀越 二郎 堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年6月22日 - 1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零戦の設計者として有名。

(wikipediaより転載)

 

 本書はタイトル通り、零戦に関することのみの内容となっている。本書はまず零戦の「無理な」性能要求が海軍側から出たことから始まる。それに対して堀越氏が苦心の末、海軍の性能要求を上回る高性能機を開発したというのが大まかな内容だ。零戦は伝説的な名機であることは論を待たない。当時の日本の国力から考えればこれ以上の機体を作ることは不可能であっただろう。堀越氏の才能もかなりのものだったと思う。

 

 

 私が面白かったのは零戦でよく指摘される、軽量化に重点が置かれ過ぎ生産性が悪かったというものがあるが、本書を読むと堀越氏はそれを承知の上で設計したようだ。何故なら当時の日本というのは資源がなく、技術力も欧米に比べて劣っていた。

 その中で人的資源だけはあるという状況だったのだ。なので人手はかかったとしても資源を節約することにしたのだ。結果、生産性は犠牲になった。さらに防弾性に関しては当時は戦闘機の防弾というのは概念自体が存在していなかった。当然、零戦にも装備されなかったということだ。

 因みに『零戦神話の虚像と真実 零戦は本当に無敵だったのか』の共著者で元航空自衛隊のパイロットでもある渡辺氏も指摘するように戦闘機の防弾版というのはパイロットにとってあまり必要ではないようだ。本書は当然戦後に書かれたものなので当時本当にそう考えていたのかは何とも言えないが、零戦で指摘されている欠点は堀越氏も承知の上だったという。

 他の航空機に関してもそうなのだが、海軍の性能要求というのは無茶なものが多かったというのは航空機ファンの間では結構知られている。零戦も速度、格闘戦性能共にトップクラスという無茶な要求であった。本書の構成をざっくり書くと、まず海軍が無茶な性能要求をしたというところから始まり、結局達成したという大きな物語となっている。無茶な性能要求を達成したという堀越氏の自負心が伝わってくる。

 無茶な要求によって結局成功してしまったことにより、海軍は無茶な要求をし続けることになってしまうのだが、これは堀越氏の責任ではない。何とも複雑な気分だ。月光とかは要求てんこ盛り過ぎて結局、何だか分からない戦闘機になってしまったしね。因みに月光については堀越氏も海軍の性能要求に関して批判的であった。

 堀越氏も本書で言及しているが、アメリカという巨大な工業力を持っている国でさえ、戦時には航空機の生産を少数機種に絞って生産していた。これに対し、日本の航空機の生産は多機種を少数作るという、かなり非効率なことをしていた。

 少ない国力な上にソフト面での失策が重なったという日本人としては結構悲しい話だ。でもこれって、現在も同じじゃね?と思ってしまった。戦車に関しても74式、90式、10式という三種類の戦車が存在する自衛隊に対して70年代に設計されたM1戦車をバージョンアップして使い続けている米軍。

 

 なんかあまり変わってねーなーというのが結論。文章がまとまってなくて

 

申し訳ない!

 

・・・でも書き直さない!(;´・ω・)

 

 

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01_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 戦闘303飛行隊とは、太平洋戦争後期に編成された特設飛行隊で、開隊から終戦まで隊長は実力人望共に豊かなベテラン指揮官岡嶋清熊少佐である。1944年に厚木で開隊した戦闘303飛行隊は、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦等に活躍、最初の特攻隊である敷島隊の援護も行った。本土防空戦では最前線の九州に展開、特攻隊が数多く出撃する中、制空部隊として終戦まで活躍した。海軍のエースとして著名な岩本徹三少尉、西澤廣義飛曹長、谷水竹雄上飛曹等も所属していた。

 

海軍の「エース部隊」

 

02_零戦21型
(画像はwikipediaより転載)

 

 旧日本海軍の最強戦闘機隊といえば何だろうか?著名な零戦搭乗員である坂井三郎氏が所属した台南空、知名度は低いものの実は部隊練度では台南空を上回っていた3空、最前線のラバウルで米軍の攻撃を防ぎ続けた204空等がある。但し、戦争初期から中期にかけては海軍の戦闘機隊は高い練度を誇っていた。つまりはどの部隊も「エース部隊」であったのだ。陸軍も含めた日本空軍の練度の高さは尋常ではない。それは日本空軍の教育が、厳しい試験を勝ち抜いた少数の優秀な搭乗員に対して「職人技」とも言われる高度な技量を教え込む少数精鋭教育であったことが理由である。

 しかし、太平洋戦争は物量と物量のぶつかり合いであった。航空機搭乗員は次々と戦死していく。米軍の場合はパイロットの保護が非常に重視されていたためパイロットの生還率は非常に高いが、日本軍、特に日本海軍は決戦主義であったため搭乗員の人命を第一に考えるという発想はなかった。つまりは搭乗員は全員戦死してしまっても次の決戦までに育成すればよいからだ。

 その発想で突入した太平洋戦争は前述の通り物量のぶつかり合いであったため搭乗員は非常な勢いで失われていく。そして戦争後期になるとそれまで「消耗品」として扱われていた搭乗員は「宝石よりも貴重」とまで言われるようになった。このため離島に孤立した熟練搭乗員をわざわざ潜水艦で救出するというような戦争初期では考えられなかったようなことも行われるようになった。

 

戦争後期になると状況は一変

 

03_芙蓉部隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 このような状況になった戦争後期、構成する搭乗員によって部隊の練度は大きく異なるようになった。つまりは部隊間の実力差が大きくなってきたのだ。この戦争後期で優秀な搭乗員を多く集めたことで有名なのは、局地戦闘機紫電改で編成された「剣」部隊343空であると一般には言われている。これは司令官の源田実大佐の政治力の賜物で、海軍では唯一といっていい最新の米軍機に対抗できる戦闘機紫電改を自分の部隊に集中運用させ、優秀な搭乗員を優先してヘッドハンティングしたと言われている。

 しかし実際はそうともいえない。343空に優秀な搭乗員が多く配属されたのは事実ではあるが、それはあくまで基幹搭乗員であって、優秀な搭乗員を引き抜くという評判が立った理由は、操縦が難しく「殺人機」とまで言われた局地戦闘機雷電の操縦が出来た若年搭乗員達を大量に343空に引き抜いたためだと言われている。実際には熟練搭乗員の比率は他の部隊とそれほど変わらなかったようだ。

 343空に比べて知名度は低いが、実は戦争末期の海軍でナンバー2の練度を誇った部隊がある。それは芙蓉部隊である。これは美濃部正少佐率いる夜間攻撃専門部隊である。当時比較的熟練者の多かった水上機からの転科者が多く、さらに工夫した訓練法で練度を増した。特攻には断固反対で結果、部隊の練度を上げるのに成功したのだ。

 しかし、その芙蓉部隊も海軍最強ではない。当時、海軍には部隊の練度を評価する基準があった。搭乗員の練度を測定するものだった。搭乗員はAランクから順に区分されていた。その基準で当時、最もAランクの搭乗員を擁していたのが今日紹介する戦闘303飛行隊なのだ。

 この戦闘303飛行隊というのは、私の感覚では戦史ファンや戦闘機ファンにはあまり知られていない部隊ではないかと思う。使用機は普通の零戦で戦争末期には九州地区での制空任務に活躍した部隊で、日本海軍のトップエースといわれる岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄等、歴戦の搭乗員が在籍していた部隊だ。

 

戦闘303飛行隊の戦い

 

04_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 私がチャラく調べたところによると戦闘303飛行隊は、1944年3月1日、特設飛行隊制度発足によって203空隷下部隊として厚木に誕生した。当時の飛行隊長は海兵63期の岡嶋清熊少佐。搭乗員には当初から日本のトップエースの一人である西沢広義、操練35期のベテラン長田延義、同54期の倉田信高、丙飛4期の本多慎吾、丙飛3期の加藤好一郎等の熟練搭乗員が名を連ねていた。

 1944年3月30日(4月末とも)、千歳基地に展開する(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』)。それはそうと、4月末にさらに幌筵島武蔵基地に移動する(安倍氏前著では5月中旬)。これは武蔵基地に展開していた281空が転出したためだ。その後、1944年8月11日に美幌基地へ移動。9月2日に一時的に百里原基地に展開するが9月14日にはまた美幌基地に戻る。9月18日にT部隊編入が下令され茂原に移動、さらに鹿児島の鴨池基地へ移動待機する。その後、台湾沖航空戦に参加したのち、10月24日フィリピンに到着する。

 10月27日、レイテ沖海戦の一環として特攻作戦が開始された。この特攻機を援護するために海軍でも指折りの実戦経験を持つ西澤廣義飛曹長が任命され、特攻掩護に就く。関行男大尉率いる特攻隊、敷島隊は体当たりに成功、米護衛空母部隊に大損害を与えた。西澤飛曹長は戦果確認後、零戦を現地部隊に引き渡し輸送機によって帰還するが、その帰還途中に米軍機に襲撃され撃墜されてしまう。

 開隊以来の熟練搭乗員西澤廣義飛曹長を失った戦闘303飛行隊は、翌11月15日に本隊は鹿児島へ撤収したようだ。所属航空隊も201空やら221空やらに変わったようであるが、正直、ここら辺はよく分からない。諸説あるものの、本隊がここら辺で内地に帰還したのは間違いないようだ。

 台湾沖航空戦、フィリピンの戦闘でかなりの消耗をした戦闘303飛行隊であったが、1945年から隊員を増強し始める。まず、3月15日に零戦虎徹こと岩本徹三少尉がヘッドハンティングされる。この時点での部隊規模は機材が32機、搭乗員57名であった。3月26日にラバウル帰りのベテラン谷水上飛曹、操練27期の大ベテラン近藤政市少尉が着任している。

 これだけ見ると何か数人のベテラン搭乗員だけしかいないような印象があるが、この戦闘303飛行隊の練度は全海軍中トップクラスであった。因みに谷水上飛曹が有名な撃墜マークを描いたのも戦闘303飛行隊にいた時だ。戦闘303飛行隊は九州に展開する宇垣纒中将指揮下の第五航空艦隊第203空の一隊として以後、終戦まで唯一の制空部隊として本土防衛にまい進する。

 

まとめ

 

 今日は何かダラダラと戦闘303飛行隊について調べたことを書いてしまったのであまり面白くなかったかもしれない。特に戦史に興味の無い人にはなんじゃこりゃーな話なのだが、私は昔から妙に興味があるのでついつい書いてしまった。

 

 

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隼況
(画像はwikipediaより転載)

 

 最近、私は陸軍戦闘機隊の記録を読むのが楽しみだ。記録といっても梅本弘氏の著作なのだけど、この梅本氏の著作は、日本と連合国の記録を照合して空戦をリアルに再現しているのが特徴だ。私は外国語は「からっきし」なので、どうしても日本の記録に偏ってしまう。ここで私が昔から気になっていた問題がある。

 

撃墜王ってホントは何機落としているの?

 

 「撃墜王」やら「エース」と言われている人の記録、特に岩本徹三氏等の著作を読むと、日本軍は来襲する敵機をバッタバッタと端から撃墜しているような印象を受ける。しかし、『日本海軍戦闘機隊』巻末の彼我の戦果報告と損害報告を見ると実はかなりの誤認戦果があったことが分る。当然といえば当然だが、ほとんどの場合、実数よりも戦果は大きくなる。これは空戦という極限状態での戦果確認となるので仕方が無いことだ。ラバウル航空戦を例にとれば部隊に報告された戦果と実数の差は大きい時で10倍にまで膨れ上がったりする。

 「撃墜王オタク」だった私としては、憧れの撃墜王が「本当は何機撃墜しているのだろうか」というのがとても気になるところ。そこを出来る限り資料を突き合わせて調べたのが梅本氏の著書だ。梅本氏の著作は値段は割高に感じてしまうが調べる手間を考えるとむしろ割安といってもいいと思う。興味のある人は是非購入してほしい。それはともかく、梅本氏の著作を読んでいて気になったことがあったのでちょっと書いてみたい。

 

ブラックドラゴン飛行隊と零戦ナゴヤタイプ

 

 みなさんは「ブラックドラゴン飛行隊」というのをご存じだろうか。これは日本軍がビルマ方面の航空戦に投入したエース部隊だ。隊長機は黒塗りのメッサーシュミットBf-109で、6機の零戦を従えている。この部隊はガダルカナルの戦場からビルマに展開した部隊でとんでもなく練度の高い部隊だ。このように書くと、よくある架空戦記物かと思われがちだが、実際に米軍の公式記録に記載されているもののようだ。

 さらにその「ブラックドラゴン飛行隊」が活躍したガダルカナルでは、昭和17年にしばしば新型の零戦「ナゴヤタイプ」が目撃されている。この「ナゴヤタイプ」は零戦の徹底的な軽量化を行い、他の零戦に比べて信じられないような機動性を発揮する。さらに速度はグラマン(F4Fか?)に比して111kmは速いという。要するにナゴヤタイプは650kmくらいは出せるということだ。しかし、軽量化のために防弾性能や自動消火装置を排除してしまったので機体としての性能はグラマンの方がいいというのが対戦したパイロットの報告であった。

 

結局は、航空戦も人間同士の戦い。

 

 もちろん、これらの情報は全て誤認だ。Bf-109がビルマ戦線で活躍したという事実はないし、確かその当時、零戦隊はビルマ方面には展開していなかったはずだ。そもそも隊長機だけが機種が違うというのはアニメの世界だけの話だ。実際は補給やらメンテナンスの関係で飛行隊は基本的には同一機種となる。「ナゴヤタイプ」に関しては周知のようにそのような機体は存在しない。そもそもただでさえ強度の弱い零戦をさらに軽量化してしまったらあっという間に空中分解してしまう。

 面白いのはこれらの情報が出た時は日米の戦力が日本優勢、若しくは拮抗していたということだ。「ブラックドラゴン飛行隊」も零戦「ナゴヤタイプ」も人の恐怖心が見せた幻想だったようだ。逆に日本空軍の搭乗員からこのような怪情報が出たというのをあまり聞かない。日本の搭乗員の間でもこのような伝説はあったのだろうか。誰か知っている人がいれば教えて欲しい。ともかくも、近代戦というと機械と機械のぶつかり合いという印象が強くなってしまうが、このような事例を知るにつけ、戦争とは人間同士が戦っているということを実感する。

 

関係書籍

 

 「ブラックドラゴン飛行隊」について書いてあるのはこれ。
  ↓↓↓

第二次大戦の隼のエース

 航空史家梅本弘氏の著作。第二次世界大戦時の陸軍戦闘機隊の活躍を描く。特に本書では隼に登場した「エースパイロット」について詳しく描いている。彼我の戦果報告書を丹念に読み解くという精緻な研究で知られている梅本氏であるが、本書では連合軍パイロットや陸軍戦闘機隊員の人柄までもがわかる。戦闘といってもどちらも同じ人と人なのだ。

 

 「ナゴヤタイプ」について書いているのはこれ。
  ↓↓↓

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。

 『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 興味があれば読んでみると面白いですよ。撃墜数云々という話はともかく、彼我の記録を辿ることでどちらの搭乗員も苦しんだり悩んだりする普通の人であることが分る。梅本氏の著作はこういう面も分かることがよい。

 

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 タイトルが中々カッコいい。しかしこのタイトル、著者の一人、本田氏曰く編集者が勝手に付けただけで自身は「撃墜王」と自称してはいないそうだ。それはそうと、本書、基本的には零戦パイロットの手記を集めたものだ。元々単行本であったが、文庫化された。

 本書に手記を寄せているのは著名な撃墜王本田稔氏、梅村武士氏、安部正治氏等であるが、戦死した大野竹好氏、中沢政一の日記も載せられていることだろう。当初私は何も知らずに読んでいき、途中で「この後、〇〇上空で戦死」等の注で戦争の悲惨さを感じた。それはともかく、本田氏の手記は主にラバウルでの戦闘について、梅村氏は終戦まで書いている。

 梅村氏はユーモラスな方のようで南方の激戦で確か3回以上撃墜されているが、本書に寄稿した手記にはその悲惨さをあまり出さず、戦地の様子をユーモラスに描いている。私が特に印象に残ったのは最後の

 

「私は若い人達をみるのは楽しい。〜中略〜私達の仲間が尊い命をすてて守ろうとしたものも、そのような若さであったのではなかったろうか・・・」

 

 このくだりに私はちょっと眼頭が熱くなってしまった。安部正治氏はあの有名なエース揃いの部隊、戦闘303飛行隊におり、岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄氏等と同じ部隊で彼らについて書いている部分も貴重である。本書は零戦搭乗員の手記を集めたものの中でもかなり良くまとまっている良書である。

 

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 今日はマニアックな本の書評。神立尚紀『零戦の20世紀』。本書は1997年、私が零戦のパイロットおたく最盛期に出版された本だ。零戦のパイロットにインタビューをしてくれたことと私以外にも零戦のパイロット好きがいたということに感激したという思い出がある。

 本書が上梓されたのは今から20年近く前で、現在では鬼籍に入ってしまっている方々のインタビューも収録した非常に貴重なものである。本書でインタビューに答えている方は、青木與氏、生田乃木次氏、鈴木實氏、進藤三郎氏、羽切松雄氏、原田要氏、角田和男氏、岩井勉氏、小町定氏、大原亮治氏である。さらにあとがきに代えてを志賀淑雄氏が執筆している。

 これらの内、現在(2015年)でも御健在なのは原田要氏、大原亮治氏のみとなってしまった。羽切氏は本書が上梓される前に他界されており、恐らく最後のインタビューだろう。本書でインタビューを受けている方々について簡単に触れておこう。まず、青木與氏は操練9期、中島飛行機でテストパイロットをやっていたベテラン中のベテラン、生田氏は日本で初めて敵機を撃墜したパイロット、鈴木、進藤、志賀氏は言わずと知れた戦闘機隊の名指揮官、その他は名だたるエース達である。

 内容は神立氏の人柄なのだろうか、青木氏が裏口入隊であったことやテストパイロット時代に工場長に「お前は働いているのか遊んでいるのかどっちだ」と言われ、「どっちかわからんほど楽しくやってりゃいいじゃないか」と答え、半田工場に飛ばされたことや、生田氏が当時アイドルだった森光子からラブレターをもらった等、かなり面白いエピソードを語っている。

 もうすでに絶版になって久しいが内容は面白く貴重なものだ。本ブログでも参考にしているエース列伝とは異なった撃墜数を本人が語っている(たぶん)こと等、興味がある方は絶対に購入することをお勧めする。

 

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柳田邦男ほか 著
潮書房光人新社 (2003/11/13)

 

 今日は書評。今日紹介するのは柳田邦男ほか『零戦よもやま物語』だ。この本には零戦搭乗員だけでなく、零戦にかかわった人々、例えば整備員、陸軍軍人として地上から零戦を見ていた等々が零戦の思い出を書いたものである。総勢125人が書いたというが私は数を数えていないので分らないが一人当たりの文章はかなり短い。

 この本の中で注目なのが零戦の設計者、堀越二郎や著名な撃墜王坂井三郎等、現在では故人となられた方々の寄稿であろう。因みにこういう歴史関係の本を読む時に大切なのはこの本が出版された年代なのだ。この本の初出は1982年。ということは1982年現在の話なのだろうかと思うとそうではない。

 あとがきにもあるが、この本は雑誌『丸』で1970年2月号から連載された「零戦とわたし」という小学生の作文のタイトルのような連載を中心に編集された本なのだ。つまりはこの本の中にある「去年、○○氏が他界された」等の記載も1981年ではないということだ。1970年位〜1982年までのいつかの去年ということになる。

 時代背景から考えると1970年〜1982年というと戦争が終わって25年〜37年となる。戦争中の高級指揮官が終戦時50歳としても75歳〜87歳とかなりの高齢になる。この人達の記録を残しておきたかったというのが本書が1982年に出版された理由なのかもしれない。

 それはともかく本書の特色を書こう。本書で私が注目したのは前述の堀越二郎の寄稿以外に数多くの撃墜王が寄稿していることだ。零戦のパイロットおたくとしてはこの本は重要だ。特に18機撃墜のエース増山正男氏は本書以外に寄稿等をされているのをみたことがない。

 私が知る限り唯一の寄稿文である。さらに撃墜マークで有名な谷水竹雄氏もあまり雑誌等に寄稿しないが本書には寄稿されている。逆に著作のある坂井三郎氏や島川正明氏などは著作を直接読んだ方がいいかもしれない。ただ、この本に寄稿しているほとんどの方は現在(2020年)は他界されている。もう二度と作ることが出来ない本である。当時、零戦と共に生きた人々の生の記録であり貴重である。

 

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 加藤清氏は、丙飛予科練の撃墜17機のエース・・・ではなく。同姓同名の加藤清氏である。加藤清氏は、海軍兵学校73期出身。ついに実戦には出ることがなかったようである。この本は、発売当時に目を付けていたが、実戦経験がないということで、当時買わなかった。しかし最近になって、思い出しどうしても読みたくなって、アマゾンで検索したところ、古本が一冊あったので、購入した。今となってはかなりのレア本だと思う。だいたいこの手の本は、意外にファンが少ないので、新刊でも少しするとすぐ絶版ということがよくある。

 この本も新刊当時に一回書店にならんでるのを見ただけで、それ以後、一度もみることはなかった。興味がある人は、とりあえずあるうちに買っておいた方がいい。まあ、この本の内容は、海兵出身者のお約束(失礼!)、海軍兵学校時代の思い出から始まって、飛練時代の思い出など等。この手の戦記にはよくある内容であるが、やはり面白いと思ったのが、当時の海軍内での人間関係だろう。どうしても兵は兵。士官は士官、予備学生は予備学生で固まっていたようだ。

 この本に登場する私が知っている搭乗員は、横山保(5機撃墜のエース)、藤田怡与蔵(撃墜11機のエース)位。士官搭乗員の名前は、よく出てくるが、下士官搭乗員の名前はあまり出てこない。著者の印象には残らなかったようだ。この本で特に私が面白いと思うのは、著者が訓練中の事故で「臨死体験」をしていること。やはり、野原に花が咲いていて、小鳥がさえずっている中で、両親に呼ばれて意識を取り戻したという。

 前に見たテレビだとインド人の臨死体験は、ヒンズー教の神様が出てきたらしい。結局、臨死体験とは単に夢を見ているようなものなのかもしれない。あともう一つ印象に残ったのが、終戦後に紫電の武装解除をするために空輸する際、事故で亡くなられた戦友がいたという。戦争が終わって、生き残ったのに無念だったと思う。

 空戦記を期待して買った人は、失望すると思うが、戦争に参加した人間の心情をよく著していると思う。今ならまだ入手することが出来ると思うので、欲しい方はお早めに。

 

【追記 2019年9月30日】

 

先頃、わたしが所属する町の老人学級で、各人の「一番忘れられないこと」というテーマで、体験発表会を催した。

 

  本書の冒頭は上記の文章から始まる。この冒頭の「老人学級」という言葉にひどく驚いたのを覚えている。当時から戦記物を読みまくっていた私の中では、海軍兵学校73期というのは「若者」という印象しかなかった。しかし、当たり前のことであるが、若者も50年も経てば、たとえ海軍士官であろうが、戦闘機パイロットであろうが歳を取る。決して、フィクションの中の人ではないのだということを実感したのが実は本書で一番強烈な印象であった。

 

 

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角田和男 著
潮書房光人新社 (2008/9/1)

 

 異色の空戦記といっていいだろう。何が異色かというとうまく言えない。ただ、本書は輝かしい空戦の様子を記した本ではない。私のように零戦搭乗員の手記を読みまくった人間は本書の冒頭から意表を突かれる。搭乗員が搭乗員を目指した理由というのは、ほとんどの人が「空に憧れていたから」なのだ。

 これは空戦記が好きな人間でなくても大体想像できると思う。しかし本書の著者、角田和男氏は違う。著者は飛行機には全く興味が無かったという。家が貧しく食い扶持を減らすためだったという。少年開拓団と少年飛行兵で悩んだ結果、少年飛行兵を選んだ。

 角田氏は予科練乙種5期の出身だが、実は乙4期も受験していた。しかし、数学は満点だったものの、国語の成績が5点足りなかった。残念ながら不合格となり翌年5期生として採用された。その後、角田氏は航空兵としての訓練を受けて実戦に参加することとなる。

 多くのベテラン搭乗員がそうであるように著者も激戦地ラバウルに送られる。中でも興味深いのは連合軍が赤十字の施設に武器弾薬を保管していたことや著者が体験した慰安婦の実態だろう。慰安婦問題に関心がある人は読むべきだろう。実態の一つがよく分かる。

 それはそうと、著者が本書で一番書きたかったことはタイトルにもあるように「特攻」についてだ。本書後半部分の特攻に関するリアルな描写はかなり衝撃的であり、そして悲しい。ある時、著者は下士官の搭乗員宿舎に向かう。しかし隊舎に向かう途中、先任兵曹にこう言われる。

 

「ここは士官の来る場所ではありません」

 

 しかし、著者が下士官出身の特務士官であることに気が付き、搭乗員隊舎に入ることを許されるが、そこで著者が目にした光景は昼間、元気よくしていた特攻隊員達が黙って座っている姿だった。怖くて眠れないという。そしてそれを囲むように特攻隊に指名されていない搭乗員達も起きている。

 申しわけなくて眠れないという。そして翌朝、特攻隊員達は元気いっぱいに飛び立っていくという。特攻隊員の気持ちというのは指名された人間にしか分からないだろう。当然、私も分からない。しかしこういった書籍を読むことで少なくとも頭の中で理解することだけはできる。それが本の意義だ。

 本書は著者の人柄がにじみ出ている。著名な撃墜王、西沢広義が著者に部下を厳しく育てなければダメだと注意する。しかし著者にはそれが出来ない。そして列機を失っていく。しかしまた新しい部下が自分を著者の列機にしてくれとくる。そしてその部下も失ってしまう。それでも著者は部下に厳しくできない。

 著者を慕っている部下が次から次へと列機にとくるという。優しすぎる零戦乗りだった。また別のエピソードもある。著者の部下が佐官に殴られたという。著者はその佐官に殴りかかる。しかしその佐官は強かった。著者が苦戦していると今度は部下達が著者を守るために突入してきたという。

 本当に部下に愛された人だったのだと思う。そして戦後も部下達のことを毎日思い出すという。本書は私が読んだ搭乗員の手記の中でも私が特に好きなものだ。因みに本書で面白いのはフィリピンに著者がいたとき、著者の部屋にベテランパイロットたちが集まって空戦談義をするという件だ。

 そのベテラン搭乗員というのは、零戦虎徹、岩本徹三、そして西沢広義、斎藤三朗等錚々たるメンバーだった。真正面から空中戦を挑む西沢に対して、ドッグファイトには参加せず、被弾した敵機や逃げる敵機ばかりを狙って撃墜する岩本と、それぞれの戦法の違いと議論というのは面白い。本書は大著ではあるが、内容は充実しており、かなり貴重なものだ。是非読んでもらいたい。

 

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ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

福本繁夫の経歴

 

 撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。

生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。

 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年11月、乙飛7期出身者は飛曹長に昇進しているので恐らく福本もこの時期に飛曹長に昇進したと思われる。

 昭和18年12月に253空には転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留している。

 この253空後退後のラバウル253空についてであるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』253空の項には「ラバウルには福本繁夫飛曹長の指揮する零戦9機のみが残留した。」とあり、福本飛曹長と共に零戦9機も残留したことになっているが、碇義朗『最後のゼロファイター』にはラバウルには958空の零式三座水上偵察機8〜9機のみとある。どちらが正しいのかは不明であるが、その後の経緯から考えても零式三座水偵が残った可能性が高そうだ。

 ともかくも福本飛曹長は何らかの事情でラバウルに残留している。どうして福本ほどの熟練者が本隊から離れたのかは不明だが、同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)、福本飛曹長も重症又は負傷していた可能性が高い。

 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。現地制作の零戦は、253空撤収後、まず2機修復され、さらに昭和19年2月末までにさらに5機完成した。昭和19年3月3日、福本飛曹長を指揮官とする現地製作された零戦隊7機はアメリカ海兵隊第223戦闘中隊と空戦に入る。米軍側記録によると米軍機に損害無し、零戦を1機撃墜、1機不確実とあるが、日本側記録では米軍機5機を撃墜したとある。

 3日後の3月6日にも空戦が行われているがこの戦闘に福本が参加していたのかは不明。3月13日には列機3機を率いて、グリーン島の攻撃に参加しているが列機は集合できず、福本のみが攻撃し帰投している。3月23〜24日の深夜に第17軍突撃掩護のため零戦3機が出撃したが、滑走中の事故で3機とも損傷。掩護を行うことが出来なかった。福本は自身が出撃しなかったことを理由に苛立った司令から暴行を受けた。

 そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。

 昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。

 

福本繁夫関連書籍

 

ヘンリーサカイダ・碇義朗『最後のゼロファイター』

ヘンリーサカイダ・碇義朗 著
光人社 (1995/7/1)

 幾多の撃墜王を生んだラバウル航空隊は昭和19年2月にトラック島に後退する。ここで太平洋戦争の中心は中部太平洋から比島、本土へと移っていくのだが、忘れ去れたラバウル航空隊では、廃棄された零戦や隼、九七式艦攻などの部品を組み合わせて「ラバウル製航空機」を生産し始めた。海軍は105基地航空隊として偵察、輸送、攻撃の任務に就いた。ほとんど知られることが無かった「その後のラバウル」の出来事を克明に記している。パイロットの多くは他の戦場に移動するが、ラバウルに残留したパイロットに乙7期予科練出身というベテラン搭乗員福本繁夫飛曹長がいた。

 

川戸正治郎『体当たり空戦記』

 丙種予科練12期という戦中派中の戦中派、川戸正治郎上飛曹の戦い。満足な訓練も受けられず、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに派遣される。ラバウル航空戦では5回も撃墜されながらも19機を撃墜する。航空隊が撤退した後もラバウルに残留して空戦を行った。福本飛曹長についての記載もある。因みに本書は大手出版社による本ではないので購入できるうちに買っておいた方がいい。この手の本が再販される可能性は低い。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

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