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隼鷹

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 仲道渉飛曹長とは丙飛4期という戦中に不十分訓練しか受けられなかった世代の搭乗員で未熟な状態で激烈な航空戦が展開されているラバウルに送りこまれた。そして無事生還しただけでなく、20機もの撃墜を報告した稀有な搭乗員である。

 

仲道渉飛曹長の経歴

 

概要

 大正11年大阪に生まれる。昭和15年呉海兵団に入団。昭和16年5月土浦空に入隊して、同年7月丙4期予科練を卒業後、霞ヶ浦空、大分空で操縦教育を受けた。昭和17年7月21期飛練課程を修了、12月隼鷹乗組を命じられた。昭和18年夏に204空へ異動、ブイン基地に進出、激烈なラバウル航空戦に参加する。昭和19年3月内地に帰還。11月より721空(神雷部隊)戦闘機隊に属し、神雷特攻隊の直援に当った。

 近年、彼我の文献から客観的な戦果を割り出そうという研究が梅本弘氏等によって行われているが、梅本氏によると仲道飛曹長が撃墜を報告している日に間違いなく米軍が該当の機種を失っているケースが12件あったそうだ。むろん他の搭乗員も撃墜を報告しているが仲道飛曹長は客観的に見極めて戦果を報告しているという(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。

 

丙飛4期

 仲道渉飛曹長は丙飛4期出身の戦中派パイロットである。丙飛とは丙種予科練習生の略で他に甲種、乙種があった。甲乙は外部からの受験で採用されるが丙種は下士官兵から内部選抜により採用されるコースだ。以前は操縦練習生と呼ばれていたが予科練に一本化された結果丙種と呼ばれることとなった。

 丙飛4期は太平洋戦争開戦後に実戦に投入され、主に太平洋戦争中期から活躍したクラスだ。同期には中盤のラバウル航空戦で活躍した大原亮治飛曹長、中沢政一一飛曹等がいた。すでに操練(操縦練習生)後半からは以前のような十分な訓練を受けたとは言えない状態で連合国軍の反抗が始まった戦場に送り込まれたために多くの犠牲者を出した。

 

母艦戦闘機隊

 基本的に搭乗員の中で母艦搭乗員に選抜されるのは優秀な搭乗員であったと言われている。仲道も練習生修了時点でやはり才能のようなものがあったのだろう空母隼鷹乗組を命ぜられたが、昭和18年夏にラバウルに展開する204空に配属される。  昭和18年9月14日にB-24協同撃墜したのを皮切りに翌年1月23日にまでに20機(不確実、協同含む)を撃墜した。

 

正確な撃墜判定

 日米双方には多撃墜エースと呼ばれているパイロットが多数いるが意図的ではないにしろ戦果が過大に報告されているケースが多い。5倍から多い時は10倍以上に実数と戦果が異なる場合がある。当然、エースの撃墜数も実際の数でない可能性が高いのだ。これは世界のエースに対して同様のことがいえる。  しかし、梅本氏によると仲道一飛曹は、協同撃墜の場合、搭乗員の多くが自分の単独撃墜を主張するのに対して仲道氏は、自身の成果は共同撃墜であったと報告しており、戦闘状況をよく見極めて判断しているという。

仲道一飛曹の報告している撃墜数は20機である。この謙虚な性格の仲道一飛曹の性格からすると12機以外にも実際に撃墜している可能性は高い。少なくとも実際に成果が確認された上での「ダブルエース」である。ラバウルから生還した後には、有名な人間爆弾桜花を擁する721空戦闘機隊に配属され終戦を迎える。

 

仲道渉飛曹長関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。
梅本弘 著
大日本絵画 (2013/12/10)

 日本・連合国軍の資料を突き合わせて実際の空戦の模様を描き出そうとしている力作。仲道渉飛曹長はP98から登場する。熾烈なラバウル航空戦の様子を高い精度で知ることが出来る貴重な本。

 

まとめ

 

 母艦戦闘機隊に配属された仲道一飛曹は、元々搭乗員としてのセンスは良かったのだろう。しかし、戦前の搭乗員のように十分な訓練を受けられず、戦場に送り込まれた。しかもその戦場は戦争中期の最も激烈であったラバウルである。この条件の中で無事生還しただけでなく、多撃墜を記録したというのは驚異的である。

 

 

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零戦01
(画像はwikipediaより転載)

 

オール先任搭乗員

 

 オール先任搭乗員。何のことだか分からないかもしれない。これは日本海軍の戦闘機搭乗員であった菊池哲生上飛曹に付けられたあだ名だ。先任とは軍隊では同じ階級で最も序列が上の人間を指す言葉だ。では「オール先任」とはどういうことだろうか。日本海軍では特務士官といって下士官兵から士官への昇進のルートが存在した。特に搭乗員は昇進が早く、ある程度の経験、実績を積むと特務士官となることができる。

 著名な海軍の搭乗員である岩本徹三や坂井三郎等も兵として海軍に入り特務士官となり少尉として終戦を迎えている(岩本、坂井は菊池と同年兵)。しかし菊池哲生は士官への昇進を拒み続け下士官として生涯を終えた。「オール先任搭乗員」というあだ名はこれに由来している。もちろん能力が低くて昇進できなかった訳ではない。彼は技量人格共に優れ、撃墜数も恐らく20機は超えていると言われる程の熟練搭乗員であった。菊池はあくまでも「自ら」士官になることを拒み続けたのだ。

 

海兵団入団。戦闘機搭乗員へ。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池哲生は大正5年(1916年)に岩手県に生まれる。父親、兄共に医師であった(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法昭和9年(1934年)に海軍に入隊、当初整備兵であったが航空機搭乗員を目指し、昭和12年(1937年)5月操縦練習生39期に採用された。操縦練習生略して操練は兵から選抜される搭乗員養成課程である。前の38期には著名な撃墜王坂井三郎がおり首席で卒業している。余談だが、操練は兵からの選抜のため年齢に開きがあるが搭乗員という体力が必要な職種である以上、ある程度年齢層は固まっている。

 例えばこの操練39期前後のクラスは主に大正5年前後の年齢の練習生が主だった。大正5年生まれ前後の搭乗員は20代前半で中国戦線で実戦経験を積み、25歳前後の知力体力共に充実した時期に太平洋戦争に突入したため、戦争初期から中核となって戦ったクラスであったが同時に犠牲も多かった。 例えば、菊池の卒業した操練39期生30名の内、戦闘機専修は7名いるが、その内6名が戦死している。このことからもどれだけ過酷だったのかが分かるだろう。

 訓練を終えた菊池の初の戦地は昭和14年(1939年)に配属された南支戦線である。しかし、ここでは空戦の機会には恵まれず内地に帰還、霞ヶ浦航空隊、谷田部航空隊で教員配置となる。海軍の搭乗員の教育は「職人の養成」と言われるくらいの少数精鋭主義であった。この時期は日米開戦を間近に控えた時期であったため搭乗員の大量育成が始まりつつあったが戦争中期や末期に比べればはるかに充実していた。それだけに教育も厳しかったが特に「日本の張飛」と言われた菊池哲生の教育の厳しさは有名だったようであり、入隊早々の挨拶が「パンチ」であり、以後も折に触れ体罰が加えられたという(『本田稔空戦記』)。

 この時期に菊池に教育を受け、後に南方やラバウル航空隊や343空で活躍した著名なエース本田稔氏は菊池教員についてこのように語っている。

 

菊池哲生―― その名は、霞が浦にまで知れ渡っており、本田氏はもし自分が谷田部空に行っても、この菊地兵曹の指導だけは避けたいと祈る思いでいた。だが、残念ながら本田氏の祈りは天に届かなかったのである。とにかく菊池教官の指導は厳しかった。「93式中間練習機」通称”赤とんぼ”の後部座席から、ことあるごとにゴツンと頭を殴られる毎日が続いた。本田氏は菊地教官の指導についてこう語っている。「菊池教官の教育は、要するに自分の操縦は自分で編み出せということでした。昔の侍の剣の道と一緒だというわけです。つまり、基本は教えてやるけれども、本田流の操縦は自分で編み出せと。結局それが良かったと思いますね」
(井上和彦『最後のゼロファイター』より引用)

 

 体罰については当時の搭乗員の間にも賛否があるようで乙種予科練5期の角田和男は反対、日本海軍のトップエースと言われる西澤廣義は肯定などまちまちだった。因みに、この昭和16年(1941年)中盤から後半に育成された搭乗員は丙飛(旧操練)2〜4期、乙飛(旧予科練)10期、甲飛5期、海兵68期は戦争初期から中期にかけて各地の戦線に投入された。活躍すると同時に多くの犠牲を出すこととなる。甲飛5期にいたっては戦闘機専修者42名中36名が太平洋戦争で命を落とした。

 

母艦搭乗員。そして開戦。。。

 

03_セイロン島沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池は教員配置の後、昭和16年(1941年)9月空母赤城乗組みを命ぜられる。そして昭和16年(1941年)12月8日、赤城以下6隻の空母艦載機が真珠湾を攻撃する。所謂真珠湾攻撃である。菊池は制空隊ではなく艦隊上空哨戒を命ぜられる。恐らく当時はまだ熟練搭乗員が多く経験の比較的少ない菊池クラスの搭乗員が上空哨戒にまわされたのであろう。この時に艦隊上空哨戒を行った搭乗員にはのちに活躍する岩本徹三、原田要、小町定等がいた。

 昭和17年(1942年)4月にはインド洋作戦に参加。5日のコロンボ空戦では単機で撃墜3機、不確実撃墜2機を記録する。これが確認できる菊池の初戦果のようだ。このコロンボ空襲はインド洋の要衝に位置するセイロン島にある英軍基地を空襲したものであった。日本側発表の戦果は英軍機を51機撃墜。対して日本側の戦闘機1機、艦爆6機が撃墜されたとしている。この数字はやや過大であり、戦後の航空史家の調査によると英軍の実際の損害は28機と日本軍の報告した戦果の約半数であるという(梅本弘『ビルマ航空戦〈上〉』上)。それにしても圧倒的勝利であったことは間違いない。勝利の要因は日本側の兵力が圧倒していたためだろう。

 そして昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に参加。第一次制空隊としてミッドウェー島攻撃に参加、2機撃墜、2機不確実撃墜の戦果を挙げる。その後艦隊上空哨戒で来襲してきた米軍機と交戦協同で3機を撃墜するも母艦赤城が撃墜されたため飛龍に着艦する(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』)。この時、飛龍が被弾艦内に閉じ込められてしまう。一緒にいた高須上飛(操練51期)と出口を探すが全て閉鎖されており一時は自決を決意したようだ。しかし士官室の窓から外に出られることに高須上飛が気が付き脱出するが菊池は20数貫(80kg以上)を超す巨体。一時は脱出を断念すも最終的には何とか脱出することができた(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法

 その後、菊池はミッドウェー海戦生き残りの他の搭乗員と共に鹿屋基地に軟禁される。外出は禁止され仲間以外とは口がきけない状態だったという。菊池は鹿屋基地に軟禁されたがミッドウェー海戦に参加した他の搭乗員も各基地に軟禁された。例えば後にラバウルで有名を馳せる第6航空隊(のち204空)の搭乗員は木更津(204空編『ラバウル空戦記』)、蒼龍乗組の岡元高志(操練43期)は大湊航空隊に。同じく蒼龍乗組の原田要は笠之原基地に軟禁された(森史朗『零戦 7人のサムライ』、原田要『零戦(ゼロファイター)老兵の回想』)。

 この軟禁はミッドウェーの敗戦を隠すための口封じというのが大方の搭乗員の見方であった。味方の搭乗員を軟禁とは大げさと思われるかもしれないが、木更津基地に軟禁された6空搭乗員は海岸寄りの隊舎に入れられた上、縄張りが張られ憲兵によって監視されており(杉野計雄『撃墜王の素顔』)、まさしく軟禁である。このミッドウェー海戦の敗北の隠ぺいでそれまで正確に報道していた大本営発表が虚偽の発表を行うようになった。これは国民だけでなく陸軍に対してさえも隠ぺいされたという(辻田真佐憲『大本営発表』)。

 

ソロモン戦線へ

 

04_瑞鶴航空隊員
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、正確な日時は不明だが1ヶ月ほどで軟禁は解かれたようだ。菊池は今は機動部隊の主力となった空母翔鶴に着任する。他のミッドウェー生き残りの搭乗員は7月にそれぞれ新しい部隊に着任しているので菊池も7月頃に翔鶴に着任したのだろう。菊池は翔鶴戦闘機隊として第二次ソロモン海戦に参加する。第二次ソロモン海戦とは昭和17年8月24日に始まった日米空母海戦である。主な参加兵力は日本側が空母翔鶴、瑞鶴、龍驤、米側はエンタープライズ、サラトガ、ワスプである。

 海戦の結果は日本側は空母龍驤、駆逐艦睦月が撃沈され、多数の航空機を失ったのに対して米側はエンタープライズ中破と20機の航空機を失ったに過ぎなかった。日本側の完全な敗北である。これによってガダルカナル島の制空権は完全に米側の手に落ちた。その後菊池は新郷英城大尉の指揮の下、ブーゲンビル島ブカ基地に進出。連日の航空戦に参加する。9月4日に翔鶴戦闘機隊は帰還するが、進出した15機中帰還したのは菊池を含め10機のみであった。未帰還の5機の中にはミッドウェー海戦で共に飛龍から脱出した高須上飛も含まれていた。

 さらに10月26日、空母翔鶴は南太平洋海戦に参加する。これは陸軍のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場総攻撃を支援するために出撃した日本海軍機動部隊とそれを阻止するために派遣された米海軍機動部隊との間に行った海戦である。結果的に米機動部隊の撃退には成功したものの主目的である日本軍の総攻撃は失敗したが、日本側の損害が空母翔鶴大破というのに対して米側は空母ホーネットが沈没、エンタープライズ中破と一応戦術的勝利を収めた形になる。

 しかし人員の損害をみると艦船乗員の死者は同数であるものの航空機搭乗員の米側26名に対して日本側148名と極端に多い(「南太平洋海戦」wikipedia)。この南太平洋海戦で菊池の操練39期の同期星谷嘉助も瑞鶴戦闘機隊員として戦死している。この海戦に菊池は参加していない。これは菊池がブカ基地に進出した際マラリアとデング熱に感染してしまったことが原因らしい。菊池はマラリアとデング熱のために体が熱くなり、それを冷ますための氷嚢に入っている氷をかじっていたことにより病状をこじらせてしまった。このため南太平洋海戦の間は翔鶴の艦内で寝ていたようだ(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法0みにこの南太平洋海戦で操練39期の同期星谷嘉助が瑞鶴戦闘機隊で参加戦死している。

 

俺は准太郎になるほどの馬鹿じゃない

 

 菊池はそのまま内地の病院に入院してしまう。同時に昭和17年(1942年)11月、菊池は上飛曹に進級する。これは菊池にとって生前の最高位である。以降菊池は戦死するまで「俺は士官の仲間入りはしない」(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法崕畋析此塀攣隆院疊曹長)になるほどの馬鹿じゃない」(白浜芳次郎『最後の零戦』)と飛曹長(士官)への任官を拒み続ける。菊池が士官への任官を拒否する理由はこうだ。菊池によると日本海軍の強さは下士官にある。そして兵を強い下士官に育てるのは下士官だ。しかし戦争が始まって経験の浅い兵ばかりになってしまった。そのために自分が下士官として残り続け優秀な下士官を育て続ける。というのだ(白浜芳次郎『最後の零戦』P174)。

 菊池の性格は豪放磊落で気骨のある「日本の張飛」とあだ名されるほどの人物だったが菊池が広い視野で海軍全体を客観的に見ていることが分かる。ただの豪傑ではないのだ。菊池の聡明さを示すエピソードにこんなものがある。のちの話になるが、昭和19年(1944年)5月に連合軍がビアク島に上陸した際、母艦搭乗員の間で敵機動部隊の主目標について憶測が交わされた。多くの搭乗員はビアクを主目標と考えたが菊池は一人異を唱える。

 

ビアク島こそ牽制作戦だ。大体アメリカさんは、ソロモン・ニューギニア方面を陸軍が受け持っとるタラワ、クェゼリンは玉砕したが、あの方面ー太平洋の真ん中は、海軍の受け持ちだ。だから、敵の機動部隊はサイパンにくる。サイパンだ
東富士喜「龍鳳戦爆隊」『艦隊航空隊』

 

 当時米軍は陸軍と海軍がそれぞれの方面から日本に侵攻していた。海軍はマーシャル諸島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄と太平洋を進撃する作戦を行い、陸軍はニューギニアからフィリピンを目指していた。根拠から分析、結論まで全く正確であったことはのちに判明することとなる。連合艦隊がビアク島に上陸した米軍に対して渾作戦を行い兵力を分散させてしまったことを考えると菊池は連合艦隊の参謀以上に正確に状況を把握していたといえる。

 

再びソロモン戦線へ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年(1942年)11月、内地帰還後築城空の教員をしていた菊池だが昭和18年(1943年)9月再び母艦勤務に復帰する。龍鳳、飛鷹、隼鷹と第二航空戦隊を転々とした後、南方に進出する。この間、昭和18年12月末から一週間カビエン基地へ派遣された。さらに昭和19年(1944年)になると隼鷹、飛鷹、龍鳳の第二航空戦隊はラバウルに派遣され菊池上飛曹も1月25から2月19日までラバウルで連日の迎撃戦に参加する。ラバウルに派遣された第二航空戦隊は戦闘機だけで69機を数え、少数で迎撃戦を展開していたラバウル航空隊にとって強力な増援であった。

 同時に、この第二航空戦隊の進出によって長い間戦線を支えていた204空はトラック島に後退する。この大部隊の登場に、当時253空に所属していた岩本徹三飛曹長は、歓迎すると同時に「艦隊戦闘機隊という誇りはあっても敵の性能、戦法も知らない状態であれば危険である」と不安を感じていた(岩本徹三『零戦撃墜王』)。実際、第二航空戦隊戦闘機隊は初空戦で4機を喪失するという損害を出してしまう。菊池や小泉藤一という熟練搭乗員もいたが多くが実戦経験の少ない若手搭乗員だったことが理由だろう。岩本の不安は的中した。

 しかし連合軍側には第二航空戦隊の戦線参加は脅威だったようだ。当時の連合軍側航空隊指揮官は下記のように警鐘を鳴らしている。

 

ラバウルの防空戦には明らかに新しい部隊が加わっていた。新着の零戦隊は自軍の対空砲火に当たる危険を顧みずSBD艦爆の急降下に食らいついて来た。従来の零戦隊に比べ、この部隊はよく訓練され指揮統率もより攻撃的であった。これからもこの部隊と戦わなければならないとすると、大きな損害を覚悟しなければならないかも知れない。
(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)

 

 菊池達、第二航空戦隊の登場は連合軍側を恐怖せしめたようだ。しかしこの第二航空戦隊も連日の戦闘で徐々に消耗していきラバウルを後退する時には69機あった戦闘機も37機に減少していた。約半数になってしまったのだ。

 

そして、マリアナ沖海戦へ

 

06_マリアナ沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年(1944年)2月に第二航空戦隊はラバウルを後にする。そして菊池はそのまま652空に転じた。652空は第二航空戦隊の後進部隊であり基幹搭乗員も多くが残されたようだ(因みに第二航空戦隊は艦隊であり652空は航空隊である。複雑なので説明は割愛する)。ただ第二航空戦隊はラバウルでの戦闘で大きく消耗しており内地で再建が急がれた。下士官の「ぬし」である菊池上飛曹も部下の教育に腐心したであろう。

 そして昭和19年(1944年)6月、あ号作戦に出撃する。菊池上飛曹は攻撃隊直掩として出撃するも敵機動部隊を発見出来ずに燃料がなくなったためグアム島に着陸する。菊池上飛曹は上空哨戒にあたっていたがその時40〜50機の米軍機が来襲、菊池上飛曹等直掩戦闘機隊は迎撃する。しかし長距離飛行をしてきた直掩戦闘機隊には燃料がなく、撃墜されるまでもなく次々に落ちていったという。菊池上飛曹も敢闘し敵機2機を撃墜するも燃料切れのため落ちていった。豪放磊落でありながら広い視野を持ち、幾度もの士官昇進の内示も拒否し続けた名物男、「オール先任搭乗員」菊池上飛曹は昭和19年(1944年)6月19日マリアナ沖に消えた。

 菊池上飛曹の戦果は判明しているもので撃墜5機、協同及び不確実7であるが、日本海軍は公式資料には個人戦果を記載しない場合が多く、この菊池上飛曹の戦果も赤城時代のものしか残ってない。一説には20機以上撃墜していたともいわれるが実際のところは不明である。

 

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。

 

 

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20180915フジミ模型隼鷹01

 

 じゃじゃーん。とうとう買ってしまいました。空母隼鷹。空母というと大体赤城、加賀を筆頭に初戦期の南雲機動部隊を構成した空母に人気が集まるのですが、私は一番好きなのはこの空母隼鷹なのです。隼鷹の何がいいのかというと戦歴ですね。隼鷹は太平洋戦争初期に就役して以来、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦という大きな海戦を戦い撃沈されることなく終戦を迎えました。

 あまり注目されませんが正規空母という艦種でありながら終戦まで生き残った隼鷹は相当な幸運艦ですよね。太平洋戦争初期までに就役して生き残った空母は鳳翔を除けば隼鷹以外にはいなかったと思います。

 

20180915フジミ模型隼鷹02

 

 それはそうと早速作っていきます。相変わらずプラモデルの箱を開ける時のワクワク感はたまりませんね。箱を開けたらまず部品が全部そろっているかを確認した方がいいです。隼鷹は部品が足りませんでした。フジミ模型に連絡して部品を送ってもらったために本当は航空戦艦伊勢より先に購入したのに製作するのが今になってしまいました。あと、部品に欠けがないかを確認するまではレシートや領収書は捨てない方がいいです。万が一部品が足りなかった時に必要になります。

20180926隼鷹01

 

 スプレーで全体を塗装します。これは組み立ててからの方がいいらしいです。模型に詳しい方に教えてもらいました。次からはそうしましょう。

 

20180926隼鷹02

 

 甲板は筆塗りにするのでサーフェイサーを吹きましたがあまり必要なかったですねw。重ね塗りをしていくとサーフェイサーが塗料で溶け落ちてしまいました。

 

20180929隼鷹01

 

 丹念に内火艇を塗装します。こういう細かい塗装結構好きです。

 

20180929隼鷹02

 

 まあ、塗装はこんな感じですかね。甲板は筆塗りにしたらムラが出てしまいました。私はヘタクソなので。。。でも逆に木の質感が出て良かったかもです。

 

20181006隼鷹01

 

 早速組み立てですね。空母はあまり複雑な構造をしていないので作るのは戦艦よりは楽です。

 

20181006隼鷹02

 

 細かいパーツもチョイチョイっと付けてーっと。

 

20181007隼鷹01

 

 こんな感じですか。艦の周りに機銃座取り付け完了。ここまではそれほど手間はかかりませんでしたね。甲板と艦体が今ひとつ噛み合わないのでちょっと苦労しましたが。

 

20181007隼鷹03

 

 信じられない程大変だったのはこの艦橋部分ですね。特に1mm位の双眼鏡を何十個も取り付けるのは気が遠くなる作業でした。。。

 

20181007隼鷹04

 

 艦橋装着。それで大体のパーツの取付は終了。まだ甲板の合わせ目がちょっと目立ちますね。

 

20181008隼鷹01

 

 マスト等を取り付けて完成。甲板の合わせ目も何とか目立たないようにしました(汗)。ただ、戦艦や駆逐艦等と違って完成しても今ひとつテンションが上がらないですね。何でだろう。。。

 

20181008隼鷹02

 

 デカールを貼ってみました。デカールを貼ると一気に迫力が増しますね。デカールでテンションMAXです。

 

20181008隼鷹04

 

 正面から見た姿。いい感じですね。

 

20181008隼鷹05

 

 逆側から見た姿。いいですね。

 

20181008隼鷹06

 

 かっこえー。大戦中の空母って感じですね。雰囲気出てます。

 

20181008隼鷹09

 

 せっかく空母なので航空機を甲板に並べてみました。この時代の隼鷹には乗っているとおかしい航空機ばかりですが。因みに前から零戦五二型、雷電、紫電、紫電改、震電、彩雲、烈風、天山、流星改ですね。この隼鷹は1942年仕様のはずなので一つとして設定に合っている航空機はないです。

 

 

 この1/700の飛行機は上記の飛行機セットを作ったものですね。1/700飛行機キットは完成させるにはそれなりに根気が必要でした。

 

20181008隼鷹11

 

 1/700艦船模型も数が増えてきたので艦隊が編成出来るようになりました。手前から駆逐艦島風、一等輸送艦、空母隼鷹、SB艇、航空戦艦伊勢、工作艦明石、防空駆逐艦冬月です。

 

 

 航空機には一応防御は出来ていますが対潜能力は若干問題ありの艦隊ですね。マリアナ沖海戦では日本の空母は全て潜水艦に撃沈されていますから今後は対潜能力の高い駆逐艦でも作りましょう。

 

20181008隼鷹13

 

 私の部屋の展示スペースに収まりました。この状態で埃をかぶっていきますw。しかし艦船が並ぶのは壮観ですね。

 

 

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