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陸軍

01_九七式軽爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式軽爆撃機とは、連合軍のコードネーム「アン」。三菱重工製の軽爆撃機であった。日本陸軍では数少ない単発軽爆撃機で1938年に制式採用され、日中戦争、太平洋戦争の初期まで使用された。固定脚で信頼性も高かったが、旧式化に伴い前線から消えていった。

 

九七式軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.55m
全長 10.34m
全高 3.66m
自重 2,230kg
最大速度 423km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分36秒
上昇限度 8,600m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,700km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆弾搭載量 300kg(正規)
      400kg(最大)
設計・開発 河野文彦 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 日本陸軍は、戦闘機、偵察機に比べて爆撃機に注目するのが遅かったと言われる。その陸軍爆撃隊には軽爆撃機という区分があった。軽爆撃機というのは陸軍を支援する小型爆撃機のことでそれ以外の爆撃機を重爆撃機、超重爆撃機といった。

 1932年頃、日本陸軍では、軽爆撃機は双発、単発のいずれが良いかという論争が行われていた。単発派は軽量であることを重視、さらには双発機は単発機の1.5倍のコストがかかることから数が維持できないという理由であった。これに対して双発派は、爆弾搭載量、視界や防御力の点から双発が適当としていた。結局、この論争は双単併用という日本的な解決方法で解決した。この結果、日本では単発の軽爆撃機と双発の軽爆撃機という2種類が存在することとなった。

 

開発

 1935年、陸軍は中島飛行機、三菱重工に新重爆の開発を内示、1936年2月に試作を指示した。同時に石川島、三菱、中島、川崎航空機の4社に当時制式採用されていた九三式単軽爆の後継機の開発が内示された。1936年5月5日、三菱キ30、川崎キ32として新軽爆の試作が指示された。

 三菱にはキ30という名称で試作が指示されたが、これに対して三菱は河野文彦技師を設計主務者として開発を開始、1937年2月には試作1号機が完成した。初飛行は2月28日で5月から審査が開始された。そして16機の増加試作機の製作が決定、1938年6月に九七式単軽爆撃機として制式採用された。

 生産は制式採用に先立つ1938年3月から開始されており、1940年まで生産が続けられた。エンジンはハ5(850馬力)で、プロペラは3,175m3翅プロペラが装着された。脚は固定式で、主翼は低翼に近い中翼式、胴体内に爆弾倉が設けられた。性能は最大速度423km/h(高度4,000m)、上昇時間は高度5,000mまで10分36秒、実用上昇限度は8,570m、航続距離1,700km、武装は、翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺、爆弾搭載量は正規で300kg、最大400kgであった。

 本機は、やや鈍重ではあったが、急降下爆撃も可能であったものの胴体内爆弾倉の影響で操縦員と後席乗員の連絡が難しいという欠点があった。

 

生産数

 三菱重工で636機、陸軍航空工廠で180機以上、合計816機(686機とも)が生産された。

 

戦歴

 1938年1月には、飛行第9大隊(のちの飛行第90戦隊)が九七式軽爆への改変を開始、改変は4月頃で終わる予定であったが実際には8月頃までかかったと言われている。4月の徐州会戦に参加したのが初の実戦投入であったと思われる。続いて5月には飛行第5大隊(のちの飛行第31戦隊)が改変を開始している。1939年5月に勃発したノモンハン事件では九七式軽爆を装備した飛行第10戦隊が参加、その後、飛行第16戦隊、飛行第31戦隊も参加している他、中国戦線では飛行第34戦隊が九七式軽爆を装備していた。

 1941年12月の太平洋戦争開戦時には16戦隊、31戦隊、第21独立飛行隊の独立飛行第82中隊が九七式軽爆を装備している。開戦後は16戦隊が比島攻略に参加、31戦隊はマレー作戦に参加している他、独立82中隊が中国戦線で活躍したものの、1942年春頃には第一線を退いた。

 

まとめ

 

 九七式軽爆はM103ナゴヤという名称でタイ空軍に24機が供与された機体ではあったが、太平洋戦争初期には旧式化に伴い傑作機九九式双軽にその地位を譲ることとなる。特徴が無いことが特徴ともいわれる目新しさの無い機体ではあったが、扱いやすく搭乗員には評判の良い機体であった。川崎航空機の九八式軽爆と並んで日本陸軍が採用した数少ない単軽爆の一つである。

 

 

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01_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式重爆飛龍は三菱重工が開発した航続重爆で、最高速度537km/h、航続距離3,800kmであった。軽量コンパクトにまとめられた機体は、のちに雷撃機にも改造され1944年の実戦配備以来、終戦まで戦い続けた。日本が生んだ最高傑作機の一つである。

 

四式重爆撃機 飛龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 22.5m
全長 18.7m
全高 5.6m
自重 8,649kg
最大速度 537km/h(高度6,090m)
上昇力 6,000mまで14分30秒
上昇限度 9,470m
エンジン出力 2,000馬力(2基)
航続距離 3,800km
武装 20mm機関砲1門、12.7mm機関砲4門
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾3発または
   50kg爆弾15発
設計・開発 小沢久之丞 / 三菱重工

 

開発

02_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ49(九七式重爆)の後継機の開発を指向する陸軍は、1939年12月、三菱重工に対してキ67の開発を内示した。これに対して三菱は小沢久之丞技師を設計主務者として研究を開始、1940年9月に試作が内示、1941年2月に正式に試作が指示された。

 試作を命じられた三菱側は、完成した航空機が得てして当初の指示にはない使い方をされることを念頭に性能要求では500kgとなっている爆弾搭載量も最大で800kg搭載できるようにする等、余裕を持った設計が行われた。さらには目玉としては急降下爆撃、超低空飛行が可能なことなどがあった。

 

試作機完成

 1942年12月に試作1号機が完成する。初飛行は12月27日で翌年には試作2号機、3号機も完成、初飛行を行った。完成したキ67は海軍の一式陸攻に比べると小型コンパクトにまとめられていた。エンジンは信頼性の高いハ104(1,900馬力)でプロペラは直径3.6mの4翅プロペラを採用した。

 燃料タンクは、胴体内燃料タンクは装甲板や厚いゴム被膜で防弾しており、翼内タンクは下面がセミ・インレグラルタンク(燃料タンクがそのまま外板になっている構造。)となっており、被弾した際には燃料が自動的に下方に流れ出て火災を防ぐように設計されていた。機銃は5ヶ所で、前方、後上方、尾部、両側面が12.7mm機関砲(ホ103)が装備、死角が無くなるように視界が広く取られた。

 最高速度は537km/hで安定性不良、プロペラの不調、タイヤのパンク等が問題点として指摘されていたが、一つ一つ解消していった。ただ、プロペラの不調に関しては電気系統のトラブルが原因で、電気系統に弱い当時の日本では最後まで手を焼いた。1943年2月には17機の増加試作機が発注され、1944年2月までの間に完成した。この増加試作機で後上方機銃が20mm機関砲(ホ5)に変更され、以後、量産機の標準となった。制式採用は1944年8月であったが、生産は同年初頭には開始されており、3月には量産1号機が完成している。

 生産451号機以降は尾部銃座が連装銃架となり1型乙と呼ばれた。これに伴い20号機(試作機が20機存在するため生産1号機)から100号機までが1型、101〜450号機までが1型甲と呼ばれた。

 

雷撃機化

 1943年12月、陸軍は、三菱に対してキ67を雷撃機改修を内示、1944年1月5日に正式に改修が指示された。差し当たり17、18号機の2機が改修されたが、結果は極めて良好であり、陸軍は17号機以降全機に雷撃装備を施すことが決定した。さらに追加装備として電波警戒器タキ1供超低空用電波高度計タキ1靴鯀備していた。

 

2型、1型改

03_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月よりキ67のエンジンをハ214(2,350馬力)に換装するという研究が開始された。そして1943年9月に1型にハ214を搭載、試験を行った。1945年1月12日、キ67、2型の試作が指示されたが設計中に終戦となった。さらに1型に排気タービン付きハ104ルに換装した1型改も2機製作されたが、最大速度は545〜551km/hと大して向上しなかったため試作のみで終わった。

 

キ109特殊防空戦闘機

 キ109はキ67の防空戦闘機型で、1943年11月20日に試作が指示されている。これは75mm高射砲を装備した特殊防空戦闘機で、小沢久之丞技師を設計主務者として開発を開始、1944年8月末に試作1号機が完成している。テストの結果、操縦性、運動性は良好であり、75mm砲の命中率も高いため早速44機の緊急生産が命令された。

 しかし、1944年11月、実際に2機の試作機で来襲したB29を迎撃したところ、高空性能不足で有効射程に入れなかった。このため軽量化と空気抵抗の低減が行われたが、結局、期待した性能には達しなかった。試作機2機、量産機20機が生産されている。

 

その他試作機

 1944年2月には滑空機曳航装置を装備した型、5月には四式自動爆撃照準器と自動操縦装置を連携させる実験機が製作された。8月には機上サーチライトを装備した実験機が完成している。同月、イ号1型甲空対艦無線誘導ミサイル母機型と体当たり攻撃用ト号機の試作が指示されている。イ号母機は1944年10月に1号機が完成、12月までに全10機が納入されている。

 ト号機は銃座を全て廃し、800kg爆弾2発を搭載した型で15機が製作された。1945年2月にはキ167櫻弾装備特攻機の試作が指示されている。ト号同様、銃座は全て廃されている。試作2機の他、小数機が改修され実戦で使用されている。尚、キ167という計画番号は非公式。

 1945年7月には長距離襲撃機型、特殊航続延長機型が計画されている。特殊航続延長機型は両翼端を75cm延長し、燃料タンクを増設、さらに翼下に落下タンクを各1個装備、武装は尾部の機関砲のみとした機体で、長距離襲撃機型は20mm機関砲を胴体下面に4門、尾部に1門、機首に1門装備することを予定したものであったが、どちらも完成することなく終戦を迎えた。他にも、キ67を輸送機化したキ97輸送機は、1943年2月に試作指示が出たが、1944年9月に開発中止となった。全木製重爆キ112、重爆掩護機キ69が計画されたがいずれも計画のみで終わっている。他にも重爆指揮官機型も計画されていた。

 

生産数

 生産は、三菱名古屋製作所が564機(試作機含む)、熊本製作所が42機、川崎航空機が91機の合計697機が完成している(635機説あり)。

 

戦歴

 1944年5月、四式重爆は豊橋で訓練中の飛行第98戦隊に配備された。この戦隊は陸軍初の雷撃隊で、1944年2月より海軍761空の指揮下に入り、3ヶ月にわたって雷撃の訓練を行っていた部隊であり、四式重爆を配備された98戦隊は同機での訓練を開始、8月に海軍でT攻撃部隊が編成されると98戦隊も同部隊に加えられた。この時点で98戦隊の隊員は暗夜行動可能27組、月明時夜間行動可能5組とかなりの練度にまで達してた。

 四式重爆の初出撃は、1944年10月12日夜で、台湾より98戦隊の四式重爆20機が出撃したものの、1機は離陸に失敗、19機が索敵攻撃に出撃したものの敵機動部隊を発見することができずにバラバラに帰還、台湾にたどり着けたのは8機、中国大陸への不時着3機、行方不明8機という大損害を出してしまった。続く13日の攻撃では16機が出撃、1機以外は全て不時着・未帰還となり98戦隊の可動機はわずか2機となってしまった。同月、浜松では四式重爆を装備した飛行第110戦隊が編成、同月下旬には特攻機であるト号機装備の富嶽隊が編成(翌月全機が突入戦死)、11月には新たに特殊防空戦闘機型のキ109を装備する107戦隊が編成された他、60戦隊も四式重爆に改変されており、1945年1月には61戦隊、2月には62戦隊が四式重爆への改変を行っている。

 7戦隊も四式重爆を装備した部隊で98戦隊同様、雷撃訓練を受けた部隊であったが、この戦隊も98戦隊と同じくT攻撃部隊に編入されたものの台湾沖航空戦には参加せず、11月には比島に進出、数度の攻撃に参加した後内地へ帰還したのち、12月には新編の110戦隊と共にサイパン攻撃を行っている。1945年2月には米軍の硫黄島攻略作戦に際して60戦隊、110戦隊が米艦船攻撃を行っており、3月の沖縄侵攻では7戦隊、60戦隊、62戦隊、98戦隊、110戦隊が沖縄決戦に参加している他、1月に四式重爆に改変した61戦隊が蘭印方面で活躍している。

 

まとめ

 

 四式重爆は性能が高く、操縦性、運動性能も良かったため多くのバリエーションが考案された。しかし登場したのが太平洋戦争後半であり、生産数も少なかったため戦局を覆すほどの活躍は出来なかったが、1944年秋の実戦投入以来、多くの戦場で活躍した傑作機であった。

 

 

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01_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍は、戦闘機の援護を不要とすることを目的に設計された陸軍の重爆撃機である。このため設計者も一式戦闘機隼、二式単戦鐘馗を手掛けた小山悌技師を充て開発に乗り出した。結果、九七式重爆と大差ない重爆撃機となってしまったため歴史の中に埋もれてしまった。

 

百式重爆撃機 呑龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 20.42m
全長 16.81m
全高 4.25m
自重 6,540kg
最大速度 492km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで13分39秒
上昇限度 9,300m
エンジン出力 1,520馬力2基
航続距離 2,000km(正規)
武装 20mm機関砲1門、7.92mm機銃5挺
爆装 最大750kg
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は中島飛行機に対してキ49の名称で九七式重爆の後継爆撃機の開発を指示した。性能要求は最高速度が九七式重爆の400km/h以上であったのに対して、500km/h以上、航続距離も九七式重爆の1,500〜2,100km以上に対して3,000km以上、爆弾搭載量は九七式重爆の750kgに対して1,000kgと増加していた。これに対して中島飛行機は、これまで重爆を手掛けていた松村健一技師に代わり(海軍機部門に転属)隼や鐘馗を設計した小山悌技師を設計主務者として開発を開始した。

 この設計主務者に小山技師を据えた判断は陸軍の要求が最高速度500km以上を要求する高速重爆であったため、戦闘機の設計を主に行っていた小山技師に白羽の矢が立ったものであるのだろう。その結果完成した重爆は、太い胴体に平面形の主翼というまさに戦闘機の性格を持った重爆であったと言える。

 1939年8月中旬、試作1号機が完成、本来、エンジンはハ41(1,260馬力)が搭載される予定であったが、生産が間に合わずハ5改(1,080馬力)が搭載されたが、ハ41を搭載した2号機、3号機が完成すると1号機もハ41に換装された。

 上昇力は5,000mまで14分、上昇限度は9,000m、航続距離3,400kmでほぼ要求を満たしたものであったが、最高速度は490km/h、爆弾搭載量は750kgと要求を下回っていた。武装は後上方に20mm機関砲1門、その他前面、尾部、両側面に7.7mm機銃各1挺を装備、合計6挺もの機銃を装備していた。

 1939年9月から年末にかけて基本審査が行われ、1940年1月に実用実験開始、同年8月に制式採用となるはずであったが、この時期、同時進行で開発されていた九七式重爆2型と性能がほぼ拮抗してたため問題となったが、将来の拡張性を考慮した結果、1941年3月、キ49は百式重爆として制式採用された。愛称は中島飛行機太田工場のある太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍様」から呑龍と命名された。

 

2型

03_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍の制式採用の条件が性能向上型の開発であったこともあり、1941年3月、制式採用と同時に2型の研究が開始された。2型はエンジンをハ41の発展型ハ109(1,500馬力)に換装、最高速度は492km/h、上昇力が高度5,000mまで13分39秒、実用上昇限度が9,300m、航続距離が2,000〜3,000kmと1型に比べて僅かに性能が向上していた。1943年8月、基本審査完了、1943年6月には百式重爆2型として制式採用された。

 2型甲は、武装が後上方20mm機関砲(ホ1)、前部、側面両側の機銃を7.92mm機銃に変更、さらに尾部機銃を7.92mm連装機銃とした型であった。2型乙は甲の尾部銃座を12.7mm機関砲(ホ103)に変更した型であった。この乙の一部には推力式単排気管が装備されていた。丙型は電波警戒器タキ1(レーダー)を搭載した哨戒機型で推力式単排気管を装備した型で2型の内35機が改造された。

 

3型

 エンジンをハ107(2,000馬力)またはハ107を2段2速過給器に変更したハ117(2,470馬力)に換装した型である。1941年12月に試作1号機が完成したが、エンジンの開発に手間取ったため、完成したのは1942年4月末であった。1、2号機はハ107仕様であったが、1942年8月上旬に完成した3号機はハ117仕様であった。1943年12月百式重爆3型として制式採用された。

 機体自体にも大幅な改良が加えられ、ナセル間隔の増加、脚の高さの延長、水平尾翼の面積が増加された。武装も尾部機銃が20mm機関砲に変更、後上方、後下方が12.7mm機関砲に変更、爆弾搭載量も当初の要求通りに1,000kgに増加した。同時に燃料タンクの容量も1,000L増加されている。

 性能はハ107装備機が最高速度569km/h(高度4,800m)、ハ117装備機が540km/h(高度5,500m)で、上昇力も5,000mまで10分30秒と向上したが、実用上昇限度は8,500mに低下した。この3型は制式採用は決定したもののキ67(四式重爆飛龍)の開発に重点を置くため6機が製作されたのいで終わった。

 

キ50・キ58・キ80

 キ50は空中給油機型で試作のみ行われた。キ58はキ49の機体をベースとした爆撃機直接掩護用の多座戦闘機である。胴体上面に20mm機関砲を追加、20mm機関砲5門、12.7mm機関砲3門を装備していた。3機が試作されたのみで終わった。キ80は同じくキ49の機体をベースとした空中式用の機体で2機が試作された。

 

生産数

 百式重爆は合計819機(または832機、796機)が生産された。

 

戦歴

 最初に百式重爆が実戦配備されたのは1942年7月から8月にかけてで、配備された部隊は満洲に展開する飛行第7戦隊と第61戦隊であった。両部隊ともに九七式重爆からの改変で、改変が完了した9月には南方進出が決定、10月には7戦隊がジャワ島、61戦隊がスマトラ島に到着、海上を哨戒しつつ洋上航法や艦船攻撃の訓練を行った。

 1943年3月になると7戦隊はビルマに帰還する12戦隊に代わりスラバヤに進出するが、4月には装備機を百式重爆2型に改変するために浜松に帰還、スラバヤにはジャワ島の61戦隊が進出した。6月になると61戦隊にポートダーウィン攻撃命令が下り、一式戦闘機隼を装備する59戦隊などと共にチモール島ラウンテン飛行場に進出、数度の攻撃に参加したのち61戦隊も百式重爆2型に改変するために内地に帰還している。1943年7月になると百式重爆に改変した7戦隊が再びジャワ島に進出、さらに同月ニューギニアのブーツ東飛行場に進出、8月には7戦隊同様百式重爆2型に改変した61戦隊もニューギニアに進出したものの11月までには両戦隊ともに戦力のほとんどを失ってしまったため、1944年2月には7戦隊は人員の一部を61戦隊に転属させ内地に帰還、その後61戦隊は少数機による作戦を実施している。

 その他百式重爆を装備した戦隊であるが、1943年5月になると満洲に展開する74戦隊、95戦隊にも百式重爆が配備、1944年1月には62戦隊にも1型が配備されている。1944年2月になると満洲に展開していた74、95戦隊は内地に展開して哨戒、訓練を行ったのち9月には比島に進出、62戦隊もマレー半島に進出したのち10月には比島に進出して多くの作戦に参加、1944年12月には62戦隊、1945年1月には74戦隊、95戦隊も内地に帰還した。

 

まとめ

 

 百式重爆呑龍は傑作爆撃機九七式重爆と四式重爆撃機の間に挟まれた目立たない爆撃機で、同時期に製作された九七式重爆2型と性能はほぼ拮抗していたが、将来性を見込んで採用した機体であった。3型まで改良された時点で性能は大幅に向上したが、四式重爆の開発が始まってしまったため開発は打ち切られてしまった悲運の爆撃機であった。

 

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01_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式重爆は陸軍初の近代的重爆撃機であった。中島、三菱の競作であり、その採用には政治的思惑も噂されているが、性能は素晴らしく、同時期の海軍の爆撃機九六式陸攻の最高速度を100km/h以上上回った傑作爆撃機である。

 

九七式重爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(1型)

全幅 22.00m
全長 16.00m
全高 4.35m
自重 4,691kg
最大速度 432km/h(高度 -000m)
上昇力  -
上昇限度 8,600m
エンジン出力 1,080馬力
航続距離 2,500km
武装 7.7mm連装機銃1挺、7.7mm機銃3挺
爆装 最大 1,000kg
設計・開発 三菱

 

背景から開発まで

 それまでの九三式重爆の旧式化に伴い、陸軍は、新重爆の開発を計画。1935年9月、陸軍航空本部は中島飛行機、三菱、川崎に次期爆撃機の研究に着手させた。その結果、1936年2月15日、中島飛行機と三菱に試作命令が出た。この新重爆は、最大速度がそれまでの九三式重爆の200km/hに対して、一挙に400km/hの速度を要求されたことが特徴的であった。そしてこの重爆が目標としていたことはそれまでの重爆が単に地上支援が任務であったのに対して、新重爆は航空撃滅戦(敵航空機の殲滅)であった。

 

開発

02_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島、三菱に命じられた試作機の完成期限は1936年10月であったが、両社共に遅れた。1936年12月、三菱が一足早く試作機を完成させた。性能はほぼ要求値を満たしており、1937年4月末の基本審査でも大きな問題は指摘されなかった。一方の中島飛行機は1937年3月に試作1号機が完成、6月より基本審査が行われた。両社の試作機を比較すると、まずエンジンは三菱がハ6(700馬力)、中島がハ5(950馬力)であり、寸法は三菱がやや大きく、中島はスマートな流線形であった。性能はどちらも甲乙付け難く、陸軍内部においても意見が二分されてしまった。

 この結果、陸軍は三菱の機体に中島製のエンジンを装着するということで解決、1937年6月11日、三菱に対して増加試作機(キ21)の製作が指示された。この決定は、両社の優れているところだけを抽出するというものであったが、問題はここからである。三菱にはエンジンの変更と共に陸軍の指示により機体の改修が命じられた。この内容は中島製の試作機の長所を全て三菱製に反映させるというもので、案の定、完成した機体はスマートな流線形を持つ中島製試作機にそっくりな形状となった。

 これを知った中島側は、自社の設計を三菱に「横取り」されたと不満を抱き、三菱側は自社の自慢のエンジンを不採用にされたことや設計の変更をさせられたことに不満を感じた。結局、この決定は両社に不満を持たせる結果となってしまった。しかし、この陸軍の決定により九七式重爆という傑作機が生まれたというのは皮肉な話である。

 試作機1、2号機は試験のため中国戦線に投入、さらに1937年末(1938年説あり)までに製造された増加試作機6機の内、5機も戦線に投入され、これらのフィードバックを残りの1機の増加試作機に反映させる方針であった。同時にエンジンをハ5改(850馬力)に換装された量産機(1型)が三菱、中島で製作されていった。

 

1型

 1型甲は、1型よりも燃料搭載量を増大させたタイプで武装は後上方に7.7mm連装機銃、機首と後下方に7.7mm機銃各1挺の合計4挺であった。

 1938年7月20日に試作1号機が完成した1型乙は、尾部銃と側方銃(左右兼用)が各1挺追加された。以前から安定性が不十分であった上に武装強化により重心位置が後退したため水平尾翼が大型化された。燃料タンクも防弾ゴムが装備されている。最大速度は432km/h、上昇限度8,600m。

 丙型は2型へのつなぎとして製造された機体で、外翼の形状の変更、車輪の大型化、燃料搭載量の増大等が行われている。

 

2型

 エンジンをハ101(1,450馬力)に換装した機体である。1939年11月14日、試作が指示された。1型丙のエンジンをハ101に改修して各種テストを実施、1940年12月に完成した。エンジンの換装に伴いエンジンナセルの形状を変更、車輪も完全な引込脚に変更された。武装もそれまで左右兼用であった側方銃も左右に各1挺設置された。エンジンの換装により最大速度は1型の432km/hに対して478km/hと大幅に向上した。2型乙の登場により2型甲と呼ばれた。

 2型乙は後上方機銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、機銃座の風防を球形に改良された型である。2型丙は、機上電波警戒器タキ1(レーダー)を装備した機体で1944年2月中旬に試作機が完成、その後数機が生産された。2型は生産中に単排気管の装着、防弾装備の充実等が行われている。

 

輸送機型

 1型をベースに100式輸送機(キ57)として制式採用された。MC-20として民間にも転用されている。さらには貨物輸送機とされた機もあり、これはMC-21と呼ばれた。

 

生産数

 1型は、試作機2機、増加試作機6機、量産機350機が生産され、1型甲型は143機、乙型が120機、丙型が160機生産されている。1型は合計2型は1944年9月まで生産が続けられ2型甲が1,025機、2型乙が257機の合計1,282機が生産された。総生産数は試作機も含めると2,063機である。

 

戦歴

 1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により日中戦争が始まる。当時の日本陸軍が採用していた重爆は九三式重爆であったが、能力的には十分といえるものではなかった。このため1937年10月末、独立第3中隊に実用実験を兼ねて九七式重爆の試作1号機、2号機が配備、約2ヶ月の実用実験が終了した後、この2機は飛行第6大隊に引き渡された。さらに1938年6月までには大隊の全12機が九七式重爆に改変された。

 1938年8月には第6大隊は飛行第60戦隊に改編、以降、要地攻撃や地上部隊支援、さらには重慶等の奥地攻撃に活躍する。この頃になると九七式重爆は満洲の58、61戦隊、台湾の14戦隊にも配備されるようになっており、61戦隊は1939年に勃発したノモンハン事件にも参加している。このノモンハン戦の最中、九七式重爆を装備した62戦隊が誕生、さらに内地の7戦隊、1940年春には98戦隊、6月から8月の間に12戦隊が九七式重爆に改変された(1941年5月には12戦隊、98戦隊が2型へ改変されている)。

 太平洋戦争開戦時には1型丙を装備した62戦隊、12戦隊、60戦隊、98戦隊が仏印に進出、進出時に悪天候により14機を失ったものの145機が仏印に集結した。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦するとこれらの戦隊はマレー攻撃、シンガポール攻撃に参加、その後ビルマのラングーン航空撃滅戦に参加、1942年2月には98戦隊に搭乗した第一挺身団によるパレンバン油田への空挺降下が実施、3月には九七式重爆によるビルマへの航空撃滅戦が行われている。

 一方、太平洋戦争開戦時に比島攻撃に参加した14戦隊は、1943年3月2日にシンガポールから島伝いにラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加したのち、1944年3月には比島に移動した。比島には12戦隊の九七式重爆と共に第7飛行師団の指揮下に入り比島決戦に活躍した。他にも比島にはタキー1機上電波警戒機を搭載した九七式重爆二型を装備した独立飛行31中隊が哨戒部隊として参加している。

 その他の戦線では、1943年3月には58戦隊、60戦隊がインド洋の哨戒任務や中国大陸での作戦を行っており、12戦隊や14戦隊、62戦隊等も中国大陸で活躍している。1945年になると九七式重爆はすでに旧式化していたが、同年3月に始まった沖縄戦では九七式重爆が義烈空挺隊を乗せて沖縄の飛行場へ強行着陸を敢行している。

 

まとめ

 

 九七式重爆は、日中戦争のさ中に開発された重爆撃機で太平洋戦争終戦まで使用され続けた。生産中に防弾性能の強化も行われたが、連合軍爆撃機に比べれば防弾装備は無きに等しい。沖縄への特攻攻撃である義烈空挺隊の搭乗機としても有名である。戦後も少数がタイで運用されている。

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

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01_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機九七式司令部偵察機の後継機で三型で最高速度630km/h、四型では10,000mでも同速度を発揮した。これは日本陸海軍実用機中最高速度である。太平洋戦争開戦から終戦まであらゆる戦場に現れ情報収集に活躍した。

 

百式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.70m
全長 11.00m
全高 3.88m
自重 3,263kg
最大速度 604km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで20分15秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,050馬力×2基
航続距離 4,000km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

背景から開発まで

 九七式司令部偵察機の活躍は陸軍に戦略偵察機の重要性を認めさせるには十分であった。しかし九七式司令部偵察機は司令部偵察機としては暫定的なもので固定脚であること等、性能に不満な点も残るものであった。このため陸軍は本格的な司令部偵察機の開発を計画することになる。この時の性能要求は引込脚で最大速度が高度4,000mで600km/h以上、航続距離が巡航速度400km/hで6時間という厳しいものであった。特に写真撮影のために水平直線飛行性能が良好であることが強く求められた。

 

開発

02_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月27日、陸軍は三菱重工に次期司令部偵察機をキ46として試作を命じた。これに対して三菱重工は、設計主務者を九七式司令部偵察機と同じ久保富夫技師として設計にかかった。まずエンジンは、敵地深くに侵入した際にも安全性を確保できるようにハ26(850馬力)の双発とし、構造上、空気抵抗が大きくなってしまう空冷エンジンの不利を極小化するためにエンジンナセルを始め流線形のデザインを取り入れた。本機はその後、日本陸海軍を代表する傑作機と言われるが、本機の要求に関して陸軍は細部にまで注文を付けず、メーカーに自由に設計を行わせたことにあるとも言われている。

 1939年11月(8月とも)、試作1号機が完成、同月に初飛行に成功する。その後、基本審査、実用実験、寒冷地試験等の各種試験が行われ1940年8月(6月とも)10日試験が完了した。試験の結果、安定性、操縦性などに関しては非常に優秀であったものの、最高速度が540km/hと性能要求の600km/h以上に遥かに及ばなかったが、1940年9月下旬に百式司令部偵察機として制式採用された。この間に試作機、増加試作機含め7機が製造されている。

 

二型

 1941年3月、キ46のエンジンをハ102(1050馬力)に換装したキ46兇了邵遒行われた。このハ102に換装した況燭蝋眦5,800mで最高速度604km/hを記録、改良により自重は増加したが燃料搭載量も増大したため航続力も374km長くなった。但し、自重が増えたため着陸速度が増大し、着陸距離が儀燭606mから706mと100mほど長くなった。同時に翼面荷重も若干増大している。二型の試験は1年以上に及び、1942年5月に試験が完了、翌月に百式二型司令部偵察機として制式採用された。この二型は、初期こそ脚破損等の問題点が発生したが種々の対策により解消されている。

 この二型は大戦時に最も活躍した型であったためいくつかのバリエーションが存在する。B17迎撃用として37mm戦車砲を搭載した型がある。これは1942年12月末に設計開始、1943年1月に1号機が完成した。この機体は17機(15機とも)製造され、同年2月にラバウルの飛行第10戦隊に送られた。1944年11月には6機に斜め銃が取り付けられた。さらには現地部隊で翼端を25cm切断した機体もあったようだ。この機体は速度こそ10km/hほど向上したものの離着陸が非常に困難であったという。

 

三型甲

 二型が初飛行を行った1942年5月、三型の開発が命じられている。これはエンジンを水メタノール噴射式のハ112供1,500馬力)に変更したもので、エンジンが大型化したため新たに抵抗の少ないエンジンナセルを製作、同時に航続距離を延長するために燃料タンクを増設した。さらに後部の7.7mm機銃は効果が無いため撤去、胴体燃料タンクには防弾ゴム被覆が施された。

 1943年3月に試作1号機が完成、1944年3月に基本審査が完了したのち1944年8月に百式三型司令部偵察機として制式採用された。

 最高速度は高度6,000mで630km/hと日本陸海軍の実用機中最速を記録した。大きな欠点はなかったものの酸素装置の性能不良、自動操縦装置の不良、脚の強度不足等の問題が実戦部隊から指摘された。後期生産機からは推力式単排気管が採用されている。

 

三型乙(百式司令部偵察機三型防空戦闘機)

 1943年6月、審査中の二型の防空戦闘機型の開発を開始。1944年8月、試作1号機が完成した。これは機首に20mm機関砲2門搭載、それまで胴体と一体化して流線形を構成していた風防を段付きに変更、推力式単排気管を採用した。乙型は90機(75機とも)が改造され、内、15機が37mm上向砲1門を搭載した三型乙+丙であった。

 

四型

 三型に排気タービン過給器を装着した型で、1943年12月に試作1号機が完成、1944年1月12日初飛行をした。排気タービン過給器を装着したため細部に改造が行われた。このため自重は179kgしたものの高高度性能はずば抜けており、高度10,000mで630km/hを記録した(三型は580km/h)。基本審査は1945年8月に完了、同年9月より量産に入る予定であった。

 

生産数

03_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 儀燭試作機3機、増加試作機5機、生産機26機の合計34機が生産されている。二型は試作機4機、生産機1,093機の合計1097機、三型は試作機を含め611機が生産された(内4機が四型に改造されている)。合計の生産数は1,742機である。現在はイギリスに三型甲が1機が完全な姿で残されている(上掲画像)。

 

戦歴

 1940年11月に制式採用された百式司偵は、1941年8月に北支に展開していた独立飛行第16中隊に配備、これが初めての実戦部隊への配備であった。その後、この独飛16中隊は飛行第81戦隊に改変、11月には仏印サイゴンに進出、マレー方面の隠密偵察を行っている。太平洋戦争の開戦を迎えると81戦隊と同じく百式司偵を装備した第15独立飛行隊によってシンガポールの偵察が行われた。

 その他にも初戦期の蘭印航空戦、パレンバン空挺降下の事前偵察を行う一方、ビルマ方面でも81戦隊が百式司偵による偵察を実施、81戦隊は終戦まで同地で偵察活動に活躍している。南方では1942年7月に独飛70戦隊がニューギニアに進出、10月には独飛76中隊がラバウルに進出しており、それぞれニューギニア、オーストラリアやソロモン方面の偵察に活躍した。1943年6月には独飛74中隊、81中隊がニューギニアに進出、さらに1944年1月には満洲から進出した独飛82中隊も進出した。

 1944年5月には満洲から15戦隊がニューギニアに進出、海軍指揮下に入り洋上航法を習得したのちニューギニア北岸の偵察、さらには「あ」号作戦開始に伴いパラオ、ペリリュー島に進出して洋上での索敵を行ったのち、9月には比島に移動している。一方、同時期に満洲から比島に進出した2戦隊もダバオに進出、同じく海軍指揮下で洋上航法の訓練を受け6月にはパラオ島、ペリリュー島に進出、7月には同隊も比島に移動した。

 1944年10月には台湾沖航空戦が行われるが、この航空戦でも百式司偵を装備した10戦隊が米機動部隊索敵に出撃し、接触に成功、写真撮影を行い帰還している。この頃には百式司偵三型に改変した15戦隊、38戦隊が比島に進出、1945年2月には全ての戦隊が内地に帰還した。蘭印方面ではニューギニアで消耗した独飛74中隊が百式司偵三型に改変して同方面に進出、哨戒活動に従事している。1945年3月には台湾に展開していた第10戦隊が沖縄方面の偵察活動に参加、満洲では独飛81中隊と第42教育飛行隊が終戦まで活動している他、中国大陸では18中隊が同じく終戦まで活動している。

 そのほか、北東方面(現在の北方領土)でのアッツ島偵察やマリアナ強行偵察、本土防空戦での武装司偵によるB29迎撃等、百式司偵は多くの方面で活躍した。

 

まとめ

 

 百式司令部偵察機の成功は、陸軍が設計の細部に至るまで首を突っ込まなかったことになると言われている。その結果、実用機中最高速度を発揮、その高速は海軍にも注目される程であった。四型に至っては高度10,000mで630km/hを記録している。この高空性能に注目した陸軍は防空戦闘機型も開発したものの偵察機用に設計された機体は強度的に急機動には耐えられず目立った活躍はしなかった。

 

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01_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式戦闘機は川崎航空機が1935年に開発した陸軍主力戦闘機で初期の日中戦争で活躍した複葉機である。複葉機としては究極の高性能であり、最高速度は400km/hと海軍の九五式艦戦を50km/h近く上回り、九六式艦戦とほぼ同じ速度であったが、複葉機の時代は終わり単翼機が主流となっていく中で最後の複葉戦闘機となった。

 

九五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(二型)

全幅 10.02m
全長 7.55m
全高 3.3m
自重 1,360kg
最大速度 400km/h
上昇力 5,000mまで5分00秒
上昇限度 11,500m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,100km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)
設計・開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1934年9月陸軍は川崎航空機にキ‐10、中島飛行機にキ‐11の試作を命じた。特に川崎航空機は九三式単軽爆撃機の発動機不調、九二式戦闘機の後継機として開発したキ-5の不採用により経営状態が悪化していたためこのキ-10にかける熱意は凄まじかった。そして初の日本人スタッフのみでの設計の機体であった。

 

開発

02_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年9月、試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始、わずか6ヶ月後の1935年3月には試作1号機が完成した。前作では斬新な逆ガル翼の機体であったが、今回は保守的に複葉機となった。エンジンはドイツBMW製エンジンを独自に改良した800馬力ハ-9兇鮑陵僉金属製の骨組みに羽布を張った構造となった。

 1935年7月には、中島飛行機に製作が命じられたキ-11と共に比較審査が行われた。この結果、キ-10は最高速度400km/hとキ-11に15km/hほど劣っていたが、上昇力、運動性能、操縦性は断然優っていたため1935年9月に陸軍の次期主力戦闘機はキ-10に内定、11月に制式採用された。生産は12月から始まり、同時に2型の設計もスタートした。

 

二型

 1935年12月に設計がスタートした。一型は高性能ではあったが安定性に問題があり、その問題を解消するのと同時に格闘戦性能を向上させるというのが二型の目的であった。試作機は1936年11月に完成、優秀な成績で審査をクリア制式採用され、1937年6月より生産が開始された。これに伴って1型の生産は1937年10月で打ち切られている。

 一型に比べ二型は翼面積が増大し、同時に重量も増大したが、翼面積が増大したため翼面荷重は減少している。最大速度、上昇速度、航続距離は1型とほとんど変わりはないが、実用上昇限度が11,500mと向上、当初の狙いであった安定性も向上した。

 

1型性能向上第2案型(キ10-飢)

 第1案型が制式採用され2型となったのとは別に第2案型も製造されていた。設計開始は1936年4月で10月に試作機が完成している。これは翼断面型や冷却器、脚支柱等の変更を行ったもので、これにより最大速度が420km/hと1型よりも20km/h向上していたが、2型が成功したために1機生産されたのみで終わった。

 

1型性能向上第3案型(キ10-恐)

 1937年3月、1型第1案(2型)のエンジン、冷却器、脚、風防を改修した第3案の設計が開始され、同年11月に試作1号機が完成した。これはエンジンを850馬力ハ9恐気亡港し、風防を川崎航空機初の密閉式風防に変更されたものであった。性能は2型と大きく変わらないが、最大速度は440km/hと2型よりもさらに20km/h向上した。同時に安定性、運動性能も向上している。複葉戦闘機としては究極の機体ではあったが、当時、はるかに高性能であったキ-27(のちの九七式戦闘機)が制式採用されたため2機が試作されたのみである。

 

生産数

 総生産数は、1型試作機4機、量産機300機、2型試作機1機、量産機280機、性能向上機第2案型1機、第三案型2機の合計588機である。

 

戦歴

 制式採用された翌年の1936年になると九五式戦闘機はいよいよ実戦部隊に配備されることとなった。配備された部隊は第4、6、8、9、16飛行連隊である。1937年7月に盧溝橋事件が勃発すると満洲に展開していた関東軍所属の第16飛行連隊が中国大陸に進出、9月にはダグラスO-38観測機と空戦になり4機を撃墜、日本陸軍初の撃墜を記録した。

 続いて内地で編成された臨時航空団が中国大陸に進出、九五式戦闘機を装備している飛行第2大隊(定数24機)、第8大隊(定数24機)、独立第9中隊(定数12機)も航空団と共に奉天に進出、順次華北戦線に参加していった。戦線が華北から華中に広がるにつれ陸軍航空隊も華中戦線に参加、九五式戦闘機装備の独立飛行第10中隊が最初に上海に進出したのち、南京攻略戦に活躍する。その後も防空や地上部隊との直協任務に活躍するが1938年7月には九七式戦闘機に改変された。

 一方、第8大隊は1937年12月に南京に進出、翌年にかけて各種作戦に参加している他、第2大隊も河南省彰徳(現在の安陽市)に進出、3月の第一次帰徳空戦では第1中隊(隊長加藤建夫)が「七度重なる感状」の最初の感状を授与されている。1938年夏になると陸軍航空隊はこれまでの連隊編成から戦隊編成に改変、第2大隊と独立第9中隊が合流して飛行第64戦隊が誕生している。この中隊は後に「加藤隼戦闘隊」として有名になる部隊である。改編時には第2中隊、第3中隊が九五式戦闘機を装備していたが、1938年中に全部隊が九七式戦闘機に改変されており、他の戦隊も順次新型の九七式戦闘機に改変されていった。

 

まとめ

 

 九五式戦闘機は、1936年に制式採用、日中戦争初期に活躍したが、時代は単翼機に移り変わったため日本陸軍最後の複葉戦闘機となった。しかし、最高速度は400km/hと海軍の九六式艦戦量産型とほぼ変わらない高速を発揮した究極の複葉戦闘機であった。

 

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01_キ87
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した高高度迎撃用の重戦闘機である。成層圏での運用を想定した究極の戦闘機であった。1945年に試作機が1機完成し、5回飛行を行ったが不具合が続発した。計画通りであれば最高速度700km/h超、高度1万メートルでの空戦が可能なP47サンダーボルトに匹敵する航空機となる予定であった。

 

試作高高度戦闘機 キ87 〜概要〜

 

性能(推定値)

全幅 13.423m
全長 11.82m
全高 4.49m
自重 4,383kg
最大速度 689km/h
上昇力 -
上昇限度 12,855m
エンジン出力 2,450馬力
航続距離 1,600kmプラス空戦30分、余裕1時間
武装 20mm機関砲(ホ5)2門、30mm機関砲(ホ155)2門
設計開発 中島飛行機

 

開発

  

 1942年11月、陸軍は中島飛行機に高高度近距離戦闘機キ87の試作を指示した。陸軍の要望は、最高速度700km/h、上昇限度13,000m、高度10,000m以上での空戦を行うことを目的とした戦闘機で、米国製戦闘機P47サンダーボルトに対抗するための機体であった。

 この指示を受け、中島飛行機はこれまで一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風等を手掛けたベテラン設計者である小山悌技師を設計主務者として開発を開始したが、他の機体の設計が優先されたため作業が遅れ、設計が完了したのは1944年11月、3ヶ月後の1945年2月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行を行った。

 高高度で空戦を行うための発動機は2400馬力排気タービン過給器付き発動機ハ44-12ルに決定した。これは中島飛行機初の国産発動機寿エンジンを18気筒化したもので1942年7月に試作開始、終戦までに23台が製造された発動機であった。この強力な発動機に対応するためのプロペラはラチェ改と呼ばれる電気式定速四翅プロペラで直径は3.6mという巨大なものであった。

 本機の外観上の特徴ともいえる排気タービンは陸軍側は胴体下面に搭載することを要望していたが、中島飛行機側は被弾した時の燃料漏れによる火災を防ぐために胴体側面を主張した結果、胴体右側面に装備することとなったが、6号機以降は陸軍の要望通りに胴体下面に移される予定であった。

 武装は20mm砲(ホ5)2門と30mm砲(ホ155)2門が搭載された。高高度迎撃機ではあったが、250kg爆弾を1発搭載することが出来る。防弾装置は風防前面に70mmの防弾ガラス、座席背後の防弾鋼板は16mmであった。これら武装や燃料タンクで翼に余剰スペースが無くなってしまったため、脚は90度回転後方引込式を採用した。これは複雑な機構であったため不具合が多かった。

 上記の装備を搭載した本機の重量は自重が4,383kgと凄まじく、これは一式戦闘機隼3機分に相当する。このため翼面荷重も235kg/屬叛┐泙犬、海軍の局地戦闘機震電の210kg/屬気┐眈絏鵑辰討い拭1945年4月より5回試験飛行が行われたが、発動機不調、排気タービン過熱、脚収納装置の不具合等不具合が続いた。尚、この5回の飛行中は大事を取って脚を収納せずに行った。

 

バリエーション(計画のみ)

 キ87の低中高度戦闘機型で武装を20mm機関砲6門とし、排気タービンを廃止したキ87乙、発動機をハ47に換装したキ87兇計画されていた。

 

生産数

 当初は試作機3機、増加試作機7機の計10機が1945年4月には完成させる予定であったが、結局、試作機が1機造られたのみである。戦後、米軍に接収され1945年11月に米本土に送られたが、同地での飛行記録は残っていない。

 

まとめ

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した自重4,383kg、翼面荷重235kg/屬竜霏臉鐺機であった。成層圏での戦闘を想定した機体であったが、日本の基礎工業力が低かった上に物資不足や部品の品質劣化もあり設計通りの性能を発揮することはなかった。仮に完成していたとすればB-29にとって最大の脅威となったであろう。

 

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01_キ74
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ74は立川飛行機が開発した長距離偵察爆撃機である。排気タービン過給器と与圧キャビンを装備しており、高高度での高速飛行を実現した。航続距離も四発重爆並みにあったことから陸軍の次期主力爆撃機に決定したが、試作機を含め14機が生産されたのみで終戦となった。

 

戦略偵察爆撃機 キ74 〜概要〜

 

性能

全幅 27.00m
全長 17.65m
全高 5.10m
自重 10,200kg
最大速度 570km/h(高度8,500m)
上昇力 8,000mまで17分00秒
上昇限度 12,000m
エンジン出力 1940馬力×2基
航続距離 8000km
武装 12.7mm機関砲(ホ103)
   500kg爆弾1発または250kg爆弾2発または100kg爆弾9発
設計開発 立川飛行機

 

背景から開発まで

 1939年、ソ連を仮想敵国とする日本陸軍は、バイカル湖以遠を偵察することができる長距離偵察機を発案する。1940年の研究方針ではこの偵察機は重爆並みの航続距離を持つ高高度隠密偵察機となっており司令部偵察機とは性格が異なる。陸軍は、この新型機の研究試作を立川飛行機に命じた。

 これを受けて立川飛行機は小口宗三郎技師を設計主務者として研究開発をスタートした。しかし、この頃、朝日新聞社が長距離飛行記録への挑戦を企画、記録挑戦用の機体であるA-26の製作を開始した。これに対し陸軍は、A-26の製作がキ74開発に役に立つと考え、キ74の開発担当であった立川飛行機に細部の設計と機体製作を発注した。これによりキ74の計画は一時的に中断してしまう。

 

開発

 1941年4月キ74の計画が再開された。しかし、この間に航空機の性能は大幅に向上、計画を練り直す必要に迫られた。その結果、計画は、戦闘機を上回る高速と与圧キャビンを備えた高高度性能に重点を置いた機体ということに変更された。これに対して立川飛行機は複数の案を提案、陸軍側とのやり取りの結果、1942年9月にには正式に試作が発注された。

 決定案は最大速度600km/h(高度10,500m)、上昇限度12,000m、航続距離は爆弾を1000kg登載した状態で8400kg、与圧キャビンを装備、12.7mm機関砲を装備するといおうものであった。エンジンは三菱製ハ211ル(陸海軍統合名称「ハ43-11ル」)であった。これは金星エンジンの18気筒版で出力は2100馬力で、他には試作艦上戦闘機烈風に搭載された。

 搭乗員は正副操縦士、機関士、通信士の4名で、操縦士の席はタンデムに配置されている。気密保持のため窓は小さい窓が最小限に設置されたため視界は非常に悪く、同時に乗員の居住性も悪い。爆撃用の照準器は捕獲したB-17に装備されていたノルデン照準器をコピーした10型照準器を装備、尾部には遠隔操作式の一式12.7mm機関砲(ホ103)が装備されていた。

 1944年3月、試作1号機が完成、5月に初飛行に成功した。この1号機は、飛行特性を試験するための機体で、排気タービン過給器、与圧キャビン、武装は装備されていなかった。さらに機体の形状ものちの試作機、増加試作機とは異なる。直ちに試験が開始されたが、1944年7月にプロペラが故障、大破してしまった。

 1944年8月には2号機も完成するが、この2号機も与圧キャビン、排気タービン過給器を装備しておらず(装備してたとする資料もあり)、その長大な航続距離から日独連絡飛行用に使用される予定であった。この飛行は「ヤ」号飛行と呼ばれており、2号機はヤ号輸送機ともいわれる。

 3号機は、与圧キャビンを装備しており(与圧キャビンなしとする資料もあり)、試験中にエンジンの不具合が発生したためにエンジンを出力は小さいが、実績のあるハ104ルに変更された。4号機以降は同エンジンを使用している。

 飛行性能は、排気タービン過給器付きハ104ルエンジン装備の機体では最高速度が570km/h(高度8500m)、巡航速度が406km/h(8000m)実用上昇限度が12000m、航続距離が8000km(爆弾無しで9920km)であった。最高速度こそ計画値を下回ったもののおおむね要求値を満たしていたことから1944年10月には本機を陸軍の主力爆撃機とすることが決定した。

 

 1944年3月、遠距離爆撃機型キ74兇侶弉茲スタートした。これは二つの案があり、第1案はキ74の長大な航続距離を活かした米本土爆撃機で500kg爆弾2発を搭載、爆撃後、乗員は落下傘で脱出、現地でゲリラ戦を展開するというものであった。このため気密室を縮小、爆弾倉、燃料タンクを大型化、操縦席は正副並列型にするというものであった。

 さらに儀燭寮能向上型である第2案も計画されていた。これは第1案同様に気密室を縮小、爆弾搭載量を2000kgに増大させるというもので、航続距離は7000kmを予定していた。実物模型まで製作されたが試作機を製作する前に終戦となった。

 

その他計画機

 恐は、中島飛行機の「富嶽」に対抗するために計画された型で航続距離が況燭茲蠅皹篦垢気譴討い襦キ114も特殊長距離機。他には輸送機型の計画もあった。

 

生産数

 当初は試作機2機、増加試作機が6機で9号機以降が生産機という予定であったが、計画が変更され、1〜3号機が研究機、4号機以降が遠距離偵察爆撃機と変更された。総生産数は1944年に3機、1945年に11機の合計14機であったが、実際に飛行したのは7号機までである。また、生産しながら改良をしていくという方針であったため各部の形状が機体によって異なる。戦後は4機が米軍に接収されたが3機は試験以前に処分、残りの1機は博物館で保存予定であったが行方不明となった。

 

戦歴

 キ74は飛行第14戦隊に配属される予定であったものの生産が遅延していたため改変前に終戦となった他、審査部が1945年9月頃を目標にキ74によるマリアナの米軍基地攻撃を計画していたがこれも決行前に終戦となった。この間に試作機の1機がマリアナ偵察を敢行、これがキ74の唯一の実戦参加である。

 

まとめ

 

 キ74は排気タービン過給器と与圧キャビンを装備した意欲作で、長大な航続距離から日独連絡飛行や米本土爆撃まで計画されていた。この米本土爆撃は500kg爆弾2発を投下した後、乗員は落下傘で脱出、現地でゲリラ戦を展開する計画であったという。戦略的にも戦術的にも全く意味の無い作戦計画であった。本機を使用したサイパン島長距離偵察が行われたのがキ74の唯一の実戦参加である。

 

 

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01_キ83
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ83とは大戦末期に試作機が完成した双発複座戦闘機であった。構造は極めてユニークで一見双発単座戦闘機のように見えるが、後席が胴体内にある機体であった。高空性能、速度ともにずば抜けており、特に速度は762km/hと日本機の最速記録であった。試作機4機が完成したが3機は事故と空襲で消失、終戦時には1機のみが残存した。

 

試作遠距離戦闘機 キ-83 〜概要〜

 

性能

全幅 15.50m
全長 12.50m
全高 4.60m
全備重量 9,430kg
上昇力 10000mまで10分30秒
上昇限度 12,660m
最大速度 686km/h(高度8000m)
エンジン出力 1930馬力×2基
航続距離 3,500km(増槽装備時)
武装 30mm機関砲(ホ5)2門
   20mm機関砲(ホ203)2門
   50kg爆弾2発または250kg爆弾2発 設計開発 三菱

 

背景から開発まで

 日中戦争において戦闘機による掩護を受けられなかった日本軍の爆撃機はしばしば甚大な損害を受けた。これを受けて爆撃機に随伴できる長距離戦闘機の開発が指向されたのと同時に当時活躍していた戦略偵察機である百式司令部偵察機の後継機の必要性もあり、陸軍は百式司偵を開発した三菱1社に対して特命で試作命令が発せられた。

 

開発

 1941年5月23日、三菱に対して爆撃機掩護用の長距離戦闘機の開発が指示された。この指示の設計基礎要求は、行動半径1500kmプラス2時間の余裕、最高速度は680km/h以上、将来の目標として720km/h以上という苛烈さで、さらには燃料タンクの防弾、搭乗員保護用の防弾版の設置等、非常に厳しい要求であった。これに対して三菱は設計主務者を久保富夫技師として作業を進め1942年4月に実物大模型を完成させたが、現場サイドから戦闘機は小型であるべきであるという強硬な意見が出されたため作業は混乱した。

 以降、陸軍と三菱の間で仕様の決定に手間取り、最終的に仕様が決定したのは1943年7月であった。決定した仕様は、双発複座戦闘機であること、最大速度800km/h以上(高度10000m)、実用上昇限度13000m、武装は前方に30mm機関砲3門、20mm機関砲2または4門、そしてエンジンはハ211を使用するというもので、行動半径こそ1046kmプラス2時間と緩和されたが、それ以外の要求はさらに過酷になっていた。

 これを受けて三菱側は設計を進め、1944年10月には試作1号機が完成した。発動機は海軍の試作艦上戦闘機”烈風”にも搭載された三菱製ハ211ル(海軍名)である。これは同社製14気筒金星エンジンを18気筒化した上に排気タービン過給器を装着したものであった。これにより高度9500mでも1720馬力を発揮することが可能であった。

 機体は百式司偵を彷彿とさせる流線形の非常に美しいフォルムで、風防は操縦席のみ涙滴型風防を装備、後席は胴体内に収められている。後席の視界は上面、左右面に窓により確保されている。操縦席と後席の間には巨大な燃料タンクがあり、連絡は通話装置を使用して行われる予定であった。防弾装置としては操縦席後方には厚さ12mmの防弾鋼板を装備、往路で使用する翼内燃料タンクには防弾装置は設けられなかったものの、胴体内燃料タンクは16〜30mmの防弾ゴムで覆われていた。

 武装は30mm機関砲(ホ155)が機首上段に2門(弾数各80または100発)、20mm機関砲(ホ5)が機首下段に2門(弾数各160または200発)が装備された。全体的にコンパクトに収められた機体であったが、自重は重く、翼面荷重は262.5km/屬醗貅粟鐺機の2.6倍にも達していた。

 1944年11月より飛行試験に入ったが、性能は全体的に良好であり、速度は高度8000mで686.2km/hを発揮した。この結果を受けて翌年1月に試作2号機、3月に3号機、4月に4号機が完成した。1、2号機には排気タービンと中間冷却器が装備されたが3、4号機はタービン関係以外の試験を促進するため単排気管となった。

 しかし同年3月、2号機のテスト飛行中に風防が飛散、これが操縦者に当たり搭乗員は殉職、機体は墜落大破した。さらに3、4号機は6月25日の各務原への空襲で大破消失、1号機のみ当時大本営が建造中であった長野県松本市へ移動し、引き続き試験が行われていたが終戦となった。戦後は米軍の手により試験が行われた際には762km/h(高度7000m)を発揮、日本機としては最速記録であった。

 

司偵型(計画のみ)

 当初はキ83乙、その後キ95と称された機体で司令部偵察機用に武装を撤去し機首に偵察席を設置する予定であったが、後に計画が変更され20mm機関砲を装備することとなった。これとは別に襲撃機型のキ103も計画されていた。

 

生産数

 合計で4機の試作機が完成した。2号機は試験飛行中の事故で墜落、3、4号機は空襲で大破。終戦時には1号機のみが残存していた。この一号機は戦後、再整備の後に米軍の手に引き渡され、米軍のテストパイロットヘンリー中尉の手でテストが行われた。この際に高度7,000mで最高速度762km/hと日本戦闘機最速を記録している。

 

まとめ

 

 キ83は最高速度762km/hという高速に加え、排気タービンによる高い高空性能と長大な航続距離を持った戦闘機で仮に量産されていたとすれば百式司偵に続く司令部偵察機や本土防空戦においてB-29迎撃機として活躍したことが想像される。大戦末期に三菱が作り出した究極の戦闘機であった。

 

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01_キ64
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ64は外観は陸軍の三式戦闘機キ-61と酷似しているが、胴体一体化したファストバック式風防ではなく涙滴型風防であったこと、機体正面にラジエーターが無い「ロケット」のような外観をしている。1機のみ製造されたが、試験飛行では690km/hを記録する高速戦闘機であった。しかし技術が先端に過ぎ実用化されることなく終戦となった。

 

試作高速戦闘機 キ64 〜概要〜

 

性能

全幅 13.50m
全長 11.03m
全高 4.25m
全備重量 5,100kg
上昇力 5000mまで5分00秒
上昇限度 12,000m
最大速度 690km/h(高度5000m)
エンジン出力 2200馬力
航続距離 1000km(予定)
武装 20mm機関砲2〜4門(計画)
設計開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1930年代後半、先進国の戦闘機開発の最先端は2000馬力級エンジンに達しつつあった。1938年には英国でネイピアセイバーエンジンが2000馬力を記録、翌年には米国でP&WR2800ダブルワスプが同じく2000馬力エンジンを開発していた。日本でもこれらに影響を受けた人々によって高速戦闘機の開発がスタートすることになった。

 高速戦闘機の開発は日本では川崎航空機が自主開発をしており、これに注目した陸軍航空研究所が主導して正式に試作機として発注したものであった。川崎航空機では単発並の機体前面投影面積で双発のパワーを発揮することができるため、エンジンを2基連結して2000馬力を発揮するエンジンを計画していた。

 この計画が実行に移されることになったのは日本がドイツ製DB601Aエンジンのライセンスを購入したことによる。このエンジンはプロペラ軸内砲の装備を前提としていたため、串型に連結するには好都合であったからだ。

 

開発

 1940年8月、キ64として開発が川崎航空機に指示された。川崎航空機では三式戦闘機の主務者であった土井武夫を主務者として1940年11月から研究を開始、1941年10月実物大模型を完成させた。陸軍の計画では1942年3月に1号機が完成、12月には審査を終える予定であったが、実際には新技術導入のために時間を要し、1号機が完成したのは1943年12月であった。

 機体はほぼキ-61であったが、胴体と一体化したファストバック式風防は通常の涙滴型風防に変更された。主翼は空気抵抗を減らすために翼面の凹凸を極小化したLB層流翼が採用された。これは同時期に川崎が試作していた研三からフィードバックされたものであった。

 エンジンはハ-40を2基串型に組み合わせた構造のハ-201(陸海軍統合名称「ハ-72・11型」)で、出力は2350馬力に達した。二重反転プロペラを採用しており、エンジンは操縦席を挟んだ形で設置された。前方のエンジンで後方のプロペラ、後方のエンジンで前方のプロペラを駆動するようになっていた。プロペラピッチは前方が固定ピッチ式、後方が可変ピッチ式であった。これは日本において定速可変ピッチ機構が開発出来なかったためであった。このためピッチの合わない前後のプロペラを調整しながら作動させなければならなかった。

 エンジンの冷却は翼表面蒸気冷却器を採用した。これは従来のラジエーターを廃した上で冷却水を高温高圧状態で発動機内を流し、一旦水蒸気化した上で翼面で冷却し水に戻し再び発動機内を循環させるというシステムであった。このシステムの採用によりラジエーターによる空気抵抗が無くなったことにより約40km/hの速度向上が期待されていた。

 初飛行は1943年12月で、以降5回にわたって飛行試験が行われたが、5回目の飛行中、翼表面蒸気冷却器が不調となり異常に高温化した。これにより後方発動機から発火、空中火災となり緊急着陸をした。この際、脚を破損してしまった。飛行試験でのデータは、最高速度が高度5000mで690km/h、同高度までの上昇時間が5分30秒、、実用上昇限度が12000mであった。

 試作1号機はプロペラを前後共にVDM電気可変ピッチプロペラに変更するためにエンジンの改修とプロペラの設計が進められていたが、そのまま終戦となった。

 

ハ-321エンジン搭載型

 エンジンをハ-140(ハ‐40を水メタノール噴射式に改良したエンジン)を2基串型に組み合わせたハ‐321エンジン(陸海軍統合名称「ハ‐72・21型」)を搭載した型が計画されていた。このハ‐321搭載型の計画上の最高速度は750km/hで1943年12月に1号機完成、1944年10月には審査完了が予定されていた。

 

生産数

試作機が1機のみ完成。戦後米軍が調査した。

 

まとめ

 

 あまりにも最先端の技術を追求したキ64であったが、日本の基礎工業力がその技術を実現するレベルになかったのが惜しまれる。戦後に本機を調査した米軍の報告によれば、本機の設計、機体構造は良好、翼表面蒸気冷却器は米国設計者にとって興味深いものであったとしている。キ64の機体はキ61(飛燕)の機体をベースにしている。このことからもキ61の機体設計が余裕のある機体設計であったことが分かる。設計者の土井武夫技師は戦後もYS11の設計に関与、他のベテランが嫌がる電装系を担当する等、ひたすら挑戦し続ける人生であった。

 

 


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01_三式指揮連絡機
(画像はwikipediaより転載)

 

 三式指揮連絡機は滑走路の整備されていない前線の不整地でも使用可能な短距離離着陸機であり、離陸距離はわずか58m、5m/s程度の風速があれば30mで離陸が可能であったといわれる。このため対潜哨戒機として改修され特種船あきつ丸の艦載機としても活躍した。それ以外にも使い勝手の良さから実施部隊でも重宝された隠れた傑作機である。

 

三式指揮連絡機 〜概要〜

 

性能

全幅 15.00m
全長 9.56m
全高 3.30m
全備重量 1,540kg
上昇力 4000mまで22分44秒
最大速度 178km/h
エンジン出力 280馬力
航続距離 750km
武装 7.92mm機銃1挺(弾数300発)、爆雷100kg1個(2個とも)、又は50kg2個
設計開発 益浦幸三 / 日本航空工業(日本国際航空工業)

 

背景から開発まで

 陸軍が連絡機という機種を考え始めたのは1937年頃であった。当初は地上部隊に対する直接強力という任務は考慮されておらず、飛行場間の連絡が想定されていた。そのため翌年の陸軍航空兵器研究方針では旧式機を利用することが検討されていた。1940年になると連絡機の要求は具体化していき、戦場の制限された飛行場で容易に離着陸ができること、行動時間は2〜3時間程度となった。さらに旧式機の利用と共に専用機の開発についても示唆していた。

 

開発

 指揮連絡機キ-76の開発が日本航空工業株式会社に内示されたのは1940年8月で、同時にドイツにSTOL(短距離離着陸)性能の優れたフィーゼラーFi156シュトルヒが発注された。1941年1月に正式に試作指示。益浦幸三技師を主務者として開発を開始した。1941年5月に試作1号機が完成、6月にはライバルであるシュトルヒも日本に到着した。

 シュトルヒに比べキ-76は一回り大型で発動機の馬力もシュトルヒ240馬力に対してキ-76は310馬力と上回っていた。性能もシュトルヒが離陸滑走距離100mに対してキ-76が68m、着陸滑走距離がシュトルヒ53mに対してキ-76が61m、最高速度はシュトルヒ165km/hに対してキ-76が178km/h、航続距離がシュトルヒ346kmに対して420km、実用上昇限度がシュトルヒ4350mに対してキ-76が5360mと着陸滑走距離以外は全ての点においてキ-76が優っていた。

 エンジンは日立製空冷二式280馬力エンジンでこれは310馬力エンジンをディチューンしたものである。武装は九八式7.92mm旋回機銃1挺(弾数300発)で、対潜哨戒型は胴体下面に50kg爆雷2発、または100kg爆雷1発を搭載した。太い胴体は操縦席からの視界の面では不利ではあったが、胴体側面まで回り込んだ大きな曲面窓は良好な視界を確保している。

 主翼は後方に折り畳むことが可能であり、前縁には固定スロット翼、後縁には大型ファウラーフラップが取り付けられていた。これにより失速速度は40km/hに抑えられ、風速5m/s程度の風があれば30mの距離での離陸が可能であった。但し、フラップを下げた状態では機体が不安定となり操縦は難しかったため実施部隊の一部では不評であった。

 1号機は1941年に完成したもののSTOL機は陸軍としては初めてであったため実用審査は長引き、三式指揮連絡機として制式採用されたのは1943年12月であった。制式採用と前後して、同年11月には三式指揮連絡機の艦載機としての特性に目を付けた陸軍は、艦上哨戒機への改修を発注、1943年12月から1944年6月まで下志津陸軍飛行学校銚子分校で乗員の訓練が行われた。これと同時に搭載予定の母艦あきつ丸では飛行甲板の拡張等の固定翼機の発着を可能にする工事が行われた。

 

生産数

 不明。

 

戦歴

 1944年7月25日、独立飛行第一中隊が編成、丙型特種船あきつ丸に乗船して対馬海峡での対潜哨戒に従事したのち、福岡県雁の巣飛行場に移動して対潜哨戒任務を実施した。同年12月から1945年2月まで東シナ海対潜哨戒任務に従事したのち再び雁の巣飛行場を拠点に対馬海峡の対潜哨戒任務に従事した。8月には朝鮮に移動金浦基地で終戦を迎えた。他にも捜索、指揮連絡、軽輸送にも活躍した。

 

まとめ

 

 戦闘機や爆撃機に比べ全く目立たない機種ではあったが、三式指揮連絡機は独創性があり、短距離離着陸性能が優れ利用価値は高かった。あまりの使い勝手の良さに「こんな便利でしかも優秀な機がなぜもっと早く実用化しなかったのか」とさえいわれたという。隠れた名機である。

 

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01_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを液冷から空冷のハ-112兇吠儿垢靴慎‖里任△襦このため機体は三式戦闘機の機体と大きな違いはないが、途中から風防が胴体一体型のファストバック式風防から涙滴型風防に変更されている。最高速度こそは三式戦闘機に劣っているが、運動性能や離着陸性能は優れていた。生産数は400機前後と少ないが、最優秀戦闘機の一つといえる。

 

五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.92m
全高 3.75m
全備重量 3,495kg
上昇力 5000mまで6分00秒
最大速度 580km/h
エンジン出力 1500馬力
航続距離 5時間30分/2200km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)
   12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)
設計開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 陸軍が1943年に制式採用した初の液冷エンジン戦闘機飛燕であったが、液冷エンジンの不調に泣かされた航空機であった。このエンジンは、ドイツ製DB601エンジンの製造ライセンスを取得し国産化したものでハ-40(海軍名「熱田」。統合名称「ハ-60」)と呼ばれている。

 高性能エンジンではあったが、DB601エンジンは、本家のドイツでも生産に手を焼く程の難物であり、当時の日本の基礎工業力、技術力ではこのエンジンを生産できる水準には達していなかった。さらに戦争が開始されると熟練工は徴兵されて、代わりに素人の徴用工、動員学徒、挺身隊等が生産を担ったため工作精度が大幅に低下し、生産が遅れた上、信頼性の低いエンジンとなってしまった。

 三式戦闘機況燭任呂海離-40をさらに改良したハ-140を採用したが、ハ-40以上に工場での生産は滞っていた。これに対して三式戦闘機況燭竜‖里寮源困録覆鵑任い燭燭瓠工場にはいわゆる「首無し機」が溢れかえることになった(儀燭亮麑気靴眤減澆靴討い襦)。このため陸軍航空本部は1944年10月、況燭離┘鵐献鵑鬟-140から空冷のハ-112供奮し殻勝峩眄62型」)への換装に踏み切り、名称をキ-100として正式に試作命令を出した。

 

開発

02_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 実は三式戦闘機の空冷化の研究は以前から行われていた。これは1943年4月に三式戦闘機で編成された飛行第68戦隊がラバウルに進出した際、液冷エンジンの不調に悩まされたことにより始まったものであった。このためキ-100の設計は順調に進み、試作命令から2ヶ月後の1944年12月には設計完了、1945年2月には試作1号機が完成、同月初飛行した。

 性能は最高速度が三式戦闘機の600km/h超から580km/hに低下、急降下性能も劣ったが、翼面荷重が190kg/屬ら175kg/屬妨詐したため離着陸性能、運動性能がが向上した。この設計変更での一番の問題はハ-112競┘鵐献鵑粒扱造三式戦闘機の胴体よりも大きいことで、これを埋めるために推力式単排気管を並べて段差を埋め、さらには大型のフィレットを被せることで解決した。

 武装は計画では、胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)を装備する予定であったが、生産段階では翼内砲は廃止され20mm機関砲のみが搭載された。照準器は三式射爆照準器で、250kg爆弾2発を搭載することができた。風防は当初は胴体と一体化したファストバック式風防であったが、途中から涙滴型風防に変更された。

 

 エンジンを排気タービン付きのハ-112競襪亡港した高高度性能を向上させたタイプで、1945年2月に設計開始、4月には設計が完了、5月に1号機が完成した。性能は、高度6000mまでは儀燭諒が10km/h程優っていたが、8000mでは況燭585km/hと15km/h優越し、10000mでは最高速度565km/hを発揮、儀燭30km/h以上上回った。

 上昇時間は高度5000mまでが儀燭6分00秒であるのに対して6分40秒、10000mまでの上昇が儀20分に対して況燭18分で到達することが出来た。これに対して航続距離は儀燭鉾罎拊擦、増槽なしで3時間、増槽付きで5時間30分と儀燭鉾罎30分短かった。

 エンジンに泣いた日本航空機にしては珍しくこの況浸邵邉,魯┘鵐献鵐肇薀屮襪少なく、量産されていればかなりの活躍をした可能性がある。しかし、9月から生産が開始される予定であったが、終戦となり試作機が3機生産されるにとどまった。

 

生産数

 生産数は合計390機(または398機以上)であった。終戦時には台湾に展開していた飛行第17戦隊が11機の五式戦を保有、終戦後に台湾空軍に引き渡された。さらに中部方面に展開していた飛行第5戦隊が25機、小牧基地に展開していた飛行第111戦隊が約90機の五式戦闘機を保有していたことが判明している。

 

戦歴

 最初に五式戦闘機が配備されたのは飛行第18戦隊で1945年3月に五式戦の未修教育を受けた後、五式戦が配備、同年4月7日に初空戦を行った。4月22日、明野教導飛行師団に配備された五式戦も空戦に参加、P51相手に奮戦している。東京では調布の244戦隊が五式戦へ改変、5月17日には沖縄航空戦へ参加するため九州へ向かった。同じく5月には歴戦の59戦隊が五式戦に改変、芦屋に進出、月末には清洲に展開していた5戦隊もそれまでの二式複戦に代わり五式戦を受領している。

 1945年6月5日には、明野教導飛行師団の五式戦が岐阜上空で爆撃終了後帰途についた敵機を迎撃、11機に及ぶ撃墜戦果を挙げている(連合軍側資料)。6月中旬には5戦隊も戦列に参加、中部方面の防空戦に活躍した。同月、17戦隊がそれまで装備していた三式戦を19戦隊に引き渡して五式戦に改変、さらに7月18日には新しく明野教導飛行師団第一教導飛行隊を基幹として111戦隊、常陸教導飛行師団教導飛行隊を基幹とした112戦隊が編成、どちらの戦隊にも五式戦が配備された。

 これらの戦隊はその後も本土防空戦に活躍、少なくない戦果を挙げたものの衆寡敵せず、8月14日に行った244戦隊の迎撃戦が五式戦最後の戦いとなった。

 

まとめ

 

 五式戦闘機は三式戦闘機の液冷エンジン不調若しくは不足から誕生した高性能戦闘機であった。信頼性の高い空冷エンジンを使用することで信頼性が高くなり、速度が遅くなった分、運動性能は上がり空中戦で活躍した。第二次大戦時の最強戦闘機と言われたP51マスタングにも十分に対抗できる戦闘機であったといわれている。

 

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01_疾風
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式戦闘機は1944年(皇紀2604年)に採用された重戦闘機である。試作名称はキ-84で通称は「疾風」連合軍コードネームは「フランク」である。当時芸術品とまで言われたハ-45エンジンを搭載した陸軍唯一の航空機であり、大東亜決戦機と呼ばれ、陸軍の期待を一身に背負った傑作機である。

 

四式戦闘機 疾風 〜概要〜

 

 

性能(一型甲)

全幅 9.92m
全長 11.24m
全高 3.38m
全備重量 3890kg
上昇力 5000mまで5分弱
最大速度 655km/h
エンジン出力 2000馬力
航続距離 2500km(2920km)(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(弾数各150発)、12.7mm機関砲(弾数350発)


開発 小山悌 / 中島飛行機

 

背景から開発まで(ハ-45エンジン)

02_ハ45
(画像はwikipediaより転載)

 

 ハ-45エンジン(海軍名「誉」)は、中島飛行機が開発した2000馬力級エンジンで、ハ-25(海軍名「栄」)を基に開発したエンジンであった。1940年9月に試作指示、1941年3月に試作品が完成、1942年9月に海軍に「誉」エンジンとして制式採用された。同年12月より大量生産が行われた。

 ベースとなった栄は最高出力1150馬力の14気筒エンジンであったが、これを18気筒に増やした上で過給機の強化、エンジン回転数の増大、高オクタン燃料の採用、水メタノール噴射等を行った。さらに軽量・コンパクト化のためクランクケースを特殊鋼鋳造品にする等した結果、外径1180mm、重量830kgという驚異的な小型エンジンが完成した。

 同時に誉エンジンはあまりにも技術的に先端を追求した結果、構造は複雑精密になり、戦争後期の熟練工不足や物資の欠乏によって本来の能力を発揮することが出来なかった。あまりの精密さ故に芸術品と呼ばれた「奇跡」のエンジンは、同時に「悲劇」のエンジンでもあった。

 

開発

 キ-84開発計画が内示されたのは1941年12月であったが、太平洋戦争開戦後ということもあって1年以内に試作機が完成することを要求するという無茶ぶりであった。さすがに試作機の完成は無理であったが、何と、これに対して中島飛行機は設計主務者小山悌技師を中心に陸軍機担当のスタッフを総動員して1942年11月には設計を完了させた。内示からわずか11ヶ月であった。

 試作機は4ヶ月後の1943年3月に完成、4月に初飛行した。6月には2号機も完成する。8月には第一次増加試作機の内、3機も完成した。試作されたキ-84は性能試験中、最高速度631km/hを記録している。当初の計画では試作機が3機、増加試作機が5機の予定であったが、実際に製作された試作遺は2機で、増加試作機は合計125機(第一次83機、第二次42機)という膨大な数であった。これは短期間の内に審査を完了し、円滑な実用化と部隊装備を可能にし、工場側の生産を早めるためである。1944年3月に第一次増加試作機83機が完成、第二次増加試作機も4月までに40機が完成、6月で全ての増加試作機の生産を完了した。

 

キ-84試作機・増加試作機

 2機の試作機と初期の増加試作機は、方向舵下部が後方に突出した形になっており、エンジンの排気管は推力式集合排気管を装備していた。これらは後期型以降は量産型と同形に改められ、排気管も推力式単排気管に変更されている。推力式単排気管とは日本の後期の戦闘機等によく見られるエンジンと機体のつなぎ目にある排気口が複数後方に向かっているタイプのもので、この形式にするだけで速度が10〜20km/h速くなる。これはロケット効果であると言われているが、排気流による機体上面の整流効果が速力増大につながったとも言われている。

 

キ-84甲・乙・丙・丁型

 初期の量産型で武装は胴体内に一式12.7mm固定機関砲(ホ103)2門を装備、翼内に20mm固定機関砲(ホ5)を2門装備した型。弾数はホ103が各350発、ホ5が各150発である。因みにホ103は航空機に左右並べて搭載するため弾薬を左側から装填する甲型、右側から装填する乙型があった。キ-84の場合は左が甲型、右が乙型である。

 乙型は胴体砲、翼内砲ともに20mm機関砲(ホ5)を装備した機体である。この乙型には甲部胴体、水平安定板、翼端等を木製化したキ-84供兵隻改)と呼ばれる機体もあった。

丙型は胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門、翼内に30mm機関砲(ホ105)を搭載した型で1門搭載型と2門搭載型があったがどちらも試作のみで終わった。

 丁型は夜戦型で操縦席後方に45度の角度で20mm機関砲(ホ5)を装着したもので1944年9月にに完成したが、結局2機が改造されたのみであった。

 

キ-106

 キ-84の主要部分を木製化したもので、1943年9月22日、立川飛行機に試作が内示、12月には正式に試作指示が出た。主に品川信次郎技師が設計を担当した。1944年9月に試作機が完成した。材料の変更に伴い機体構造は大きく変わった他、垂直尾翼、脚カバー等の形状が変更された。自重はキ-84に比べて約477kg、全備重量は260kg増加した。

 1944年10月初飛行。最大速度はキ-84を下回る580km/h、5000mまでの上昇時間は7分30秒とキ-84量産型に比べ2分30秒以上遅くなった。武装は試作機が胴体内に12.7mm砲、翼内に20mm砲を搭載していた(量産型では逆)。試作機が4機、量産機が6機生産された。内4機は北海道の54戦隊で運用された。戦後2機が米国に運ばれている。

 

キ-116

 キ-116はエンジンを信頼性が高く余裕のある設計であったハ-112兇亡港したもので1945年3月満洲飛行機に試作指示が出された。同年7月に試作機が完成した。同エンジンはハ-45に比べ190kgも軽かったため、重心位置の変更を行いプロペラも3翅に変更した。自重でキ-84よりも500kgの軽量化に成功し、全備重量も3250kgで翼面荷重も155kg/屬板磴抑えられたバランスの良い機体であった。ソ連の進攻によって機体、設計図共に関係者の手により処分された。

 

その他実験機

 キ-84サ号機は、キ-84の高高度性能実験機でエンジンのシリンダー内に水メタノールの代わりに酸素を噴射するようにした実験機である。高度9000mで速度が約50km/h向上したが実用化前に終戦となった。

 

設計・計画のみ

 キ-84靴惑啜ぅ拭璽咼鷁甬覺鑄佞のハ-45ルを装備する予定であったが計画のみに終わった。キ-84Rは二段三速過給器付きハ-45・44エンジンを搭載した高高度性能の向上を狙った型でプロペラも直径3.5mのものに変更される予定であったがこちらも計画のみで終わった。キ-84Nは1945年6月に開発が決定した性能向上型でキ-84Pはエンジンを2500馬力ハ-44・13型に換装、高高度迎撃機とする予定であった。キ-117はエンジンをハ-44・13型に換装、主翼を1.5屬砲靴臣羚眦拈鐺機となる予定であった。

 

生産数

 各型含めおよそ3500機が製造された。

 

配属部隊

 疾風が最初に装備された部隊は飛行第22戦隊で、1944年3月に編成された。飛行隊長は歴戦の岩橋譲三少佐で搭乗員には熟練者が多く在籍している。8月には錬成が完了したため大陸打通作戦の一環である湘桂作戦に参加するため中国大陸に進出、連日の空戦に活躍した。同じく1944年3月上旬には一足遅れで第1戦隊、第11戦隊が疾風への改編、4月28日には第51戦隊、第52戦隊、5月には第71戦隊、第72戦隊、第73戦隊が新たに編成されたが、70番台の戦隊に疾風が供給されたのは7月であった。

 1944年7月に入ると中国大陸に展開している第85戦隊も二式単戦から疾風に改変、9月より供給されている。他にも新たに第101戦隊、第102戦隊、第103戦隊、第104戦隊、第200戦隊が編成を開始、これらの部隊は10月から年末にかけて疾風を受領している。これら疾風装備の部隊は9月には比島に進出、10月には少数(10機)ではあるが台湾沖航空戦に参加、海軍攻撃機の護衛を務めたが、最も疾風が投入されたのは比島戦である。

 比島には疾風装備の戦隊の内、9月に51戦隊と52戦隊が最初に進出、10月には11戦隊、1戦隊、22戦隊、200戦隊が進出した。11月になるとさらに第21飛行団の71戦隊、72戦隊、73戦隊が進出するなど85戦隊と100番台の戦隊以外の全ての戦隊が参加しているが、1945年初頭には多くの戦隊が消耗し逐次比島を去っていった。1945年3月になると米軍は沖縄に上陸、九州に展開していた疾風装備の第100飛行団所属101戦隊、102戦隊、103戦隊が沖縄航空戦に参加している。

 内地では47戦隊、112戦隊、246戦隊、第1錬成飛行隊、常陸教導飛行師団、陸軍審査部等が疾風を装備、他にも台湾では29戦隊と24戦隊が疾風を受領、ビルマ仏印方面では50戦隊、中国大陸では9戦隊、25戦隊、前述の85戦隊、満洲方面では104戦隊が疾風を受領している。

 

まとめ

 

 四式戦闘機疾風は陸軍唯一のハ-45エンジン搭載機である。海軍が早い段階からハ-45(海軍名「誉」)エンジンに目を付けたのに対して陸軍は四式戦闘機が唯一の採用というのが面白い。稼働率の低さという問題はあったものの、武装、速度、空戦性能、防弾性能共に平均以上の能力で、第二次世界大戦の万能戦闘機の一つに数えらえている。最高速度は660km/hであるが、戦後米軍の試験では最高速度は687km/hに達したという。著名な海軍のパイロット坂井三郎は著書において最高の戦闘機ベスト3中3位にこの四式戦闘機を挙げている(1位はP51マスタング、2位は零戦)。傑作機中の傑作機である。

 

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01_飛燕
(画像はwikipediaより転載)

 

 三式戦闘機は日本では珍しい液冷エンジン搭載の戦闘機である。陸軍の軽・重戦闘機という区分に疑問を持った設計者が完成させた中戦ともいわれる機体は日本の航空機には珍しく頑丈であった。最高速度は590km/hであるが、況寝では610km/h、成層圏でも編隊飛行が可能であった。しかし信頼性の低い液冷エンジンを採用したためエンジンの不調に悩まされることとなった。

 

三式戦闘機 飛燕 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.94m
全高 3.70m
全備重量 3,470kg
上昇力 5000mまで7分00秒
最大速度 560km/h
エンジン出力 1175馬力
航続距離 1800km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(携行弾数120発)、12.7mm機関砲2門(携行弾数250発)
   250kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 三式戦闘機が登場するまで、日本陸軍の戦闘機は空冷エンジンを装備していた。空冷エンジンは液冷に比べ空気抵抗があるものの、取り扱い易さや信頼性においては上回っていたからである。しかしドイツの新型戦闘機Bf-109が液冷エンジンで高性能を発揮したことから陸軍は液冷エンジンに興味を示し、Bf-109が搭載していたDB601エンジンをハ-40としてライセンス生産することとなった。

 

開発

 1940年2月、陸軍は当時の戦闘機の基本方針である軽・重戦闘機の2本立ての計画から川崎航空機にハ-40発動機を使用した重戦闘機キ-60と軽戦闘機キ-61の試作が指示された。これが後の三式戦闘機飛燕である。設計は1940年12月に開始されるが、主任設計者の土井技師はこの区分に疑問を持ち、軽重の区分にとらわれない戦闘機の開発を志向した。

 1941年12月、1号機が完成する。同月初飛行に成功した。試作機は3機製造され、さらに9機の増加試作機が製造された。この増加試作機のテスト結果は、最高速度が高度6000mで591km/h、上昇時間が10000mまで17分14秒、実用上昇限度11600mと良好であり、その他の性能も全てが満足行くものであった。1942年8月から量産が開始され、1943年6月に三式戦闘機として制式採用された。

 パーツ毎に一体構造で作られた機体は非常に頑丈であった。降下限界速度も850km/hと高く、三式戦闘機では一度も空中分解事故は起こらなかったと言われている。武装は7.7mm機銃2挺と12.7mm砲2門、または12.7mm砲4門で運動性能を示す翼面荷重(機体重量を翼面積で割ったもの)は147.5kg/屬任△辰拭これは抜群の運動性能を誇った一式戦闘機隼が102kg/屐⇔軅21型が108kg/屬任△襪里鉾罎戮襪搬腓いが高速重戦闘機キ-44鐘馗の翼面荷重は171kg/屬茲蠅肋さい数値である。因みにこれらは全て当時の諸外国の戦闘機に比べると低い方ではある。

 

三式戦闘機儀

04_飛燕丁
(画像は三式戦闘機儀拭wikipediaより転載)

 

 儀森辰蓮∈能蕕領婿叉,1942年8月に1号機が完成している。武装は機首胴体内に12.7mm砲(ホ103)2門、翼内に7.7mm機銃(89式)2挺である。燃料タンクはゴムに覆われ防火装置となっている。儀寝気詫稙睨い12.7mm砲(ホ103)に変更し、12.7mm砲4門となった。胴体内燃料タンクは廃止、以降、三式戦闘機の搭載燃料は500Ⅼになった。

儀進困詫稙睨い鬟泪Ε供151/20・20mm砲に換装したタイプで1943年9〜1944年7月まで生産された。総生産数は388機(400機説あり)で現地で改修されたものもある。儀臣は胴体砲を20mm砲(ホ5)に換装したタイプで胴体燃料タンクも95Lではあるが復活した。潤滑油タンクの設計を変更したため全長が8.94mと20cm長くなった。この改造の結果、重量は250kg、最大速度は30km/h低下した。1944年1月から1945年1月までに1358機が生産された。

 

 性能向上型である況燭1942年4月に設計が開始される。1943年3月には設計完了、同年8月に試作1号機が完成した。エンジンは1500馬力のハ-140で、全長は9.16mと丁型よりも40cm程延長され、翼面積も22崛大し、垂直尾翼も大型化された。武装は胴体に20mm砲(ホ5)2門、翼内に12.7mm砲(ホ103)2門であったが期待した性能が出せる見込みがなかったため、試作機3機、増加試作機8機が製作された段階で計画は打ち切られた。

 

況寝

05_五式戦
(画像は五式戦闘機 wikipediaより転載)

 

 況寝は、況燭瞭溝里縫-140エンジンを搭載、儀臣の主翼を取り付け、部分的な改修を施した機体で1944年4月に完成した。総重量は2825kgで最高速度は高度6000mで610km/h、10000mでも544km/hを出すことが出来たことから三式二型として制式採用され、1944年9月から生産を開始し終戦までに374機が生産された。この内99機は完成したが、ハ-140の生産が遅れたため275機はエンジンの生産待ちの状態になってしまった。このため空冷式エンジンであるハ-112(海軍名「金星」)を装着した五式戦闘機(キ-100)となった。前期型は通常の三式戦闘機の風防であるが、後期型は水滴風防を採用している。

 

その他

 儀燭1機が翼面蒸気冷却実験機に改修されている他、儀臣の翼内砲を30mm砲2門とした実験機も存在する。

 

生産数

 三式戦闘機飛燕の総生産数はかなり異説がありはっきりしないが、総生産数は2844〜2888機前後である。儀燭蝋膩2746機で、試作機が3機、増加試作機が9機、儀森辰388機、乙が591〜603機、丙が388機(400説あり)、丁が1358機で、況燭倭加試作機30機、量産機が100機程度である。さらには五式戦闘機に改修された機体が275機あり、これらを含めた合計は3150機前後であるといわれている。

 

配属部隊

 1942年4月18日、未だ制式採用前の飛燕は水戸飛行場で試作機として試験中であった。そこにドーリットル少佐率いるB-25が来襲、緊急出動して迎撃したというのが飛燕の初陣であった。2機の飛燕が迎撃に出撃したものの1機は敵機を発見することなく帰還、もう1機は敵機を発見、攻撃をかけたもののそれまでの試験で燃料を使い果たしていたため致命傷を与えることができなかった。

 最初に飛燕が配属された部隊は68戦隊で1942年12月に改変を開始、翌1943年3月に完了した。この68戦隊は空母春日丸(のちの大鷹)に搭載されトラック島に到着、そこから空路ラバウルに進出している。次に飛燕が配備されたのは78戦隊でこちらは1943年4月〜6月にかけて改変を行い、7月には78戦隊もニューギニアに進出している。同時期に東京調布の244戦隊も飛燕が配備された。

 1944年になると17戦隊が飛燕を装備してフィリピンに進出、続いて19戦隊も同じくフィリピンに進出した。他には18戦隊、55戦隊、56戦隊、59戦隊、105戦隊、第7錬成部隊、独立23中隊、さらには明野、水戸等の教導団でも飛燕を装備、特攻機としても使用されている。

 

まとめ

 

 三式戦闘機は日本では数少ない液冷エンジン搭載の戦闘機である。このためエンジン不調に泣かされたが、機体は頑丈で一度も空中分解事故を起こすことは無かった。生産されたのは儀燭ほとんどであるが、戦争後期に完成した況寝は生産数こそは少なかったものの高度10000mの成層圏で544km/hというB-29と同等の速度を出すことが出来た。これは日本の戦闘機としては稀有なことであった。

 


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01_屠龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式複戦屠龍は攻撃機の長距離掩護、制空戦闘を目的に開発された日本初の双発複座戦闘機である。開発は難航したものの完成した屠龍は傑作機として評価が高い。太平洋戦争初期から終戦まで活躍した。特に本土防空戦ではB29相手に活躍した。

 

二式複戦 屠龍 〜概要〜

 

 

性能 キ-45改甲

全幅 15.07m
全長 11.0m
全高 - m
全備重量 5270kg
上昇力 5000mまで7分00秒
航続距離 1500km
出力 1080馬力は102エンジン2基
最大速度 540km/h(547km/hとも)
武装 20mm機関砲2門
   12.7mm機関砲2門
   7.92mm旋回銃1挺

 

背景から開発まで

 1930年代になると先進各国は双発複座戦闘機の開発に乗り出していた。理由は複座戦闘機ではれば後席の旋回機銃によって戦闘をすることができ、さらには航法にも有利ということであった。その上双発であれば速度、航続距離が飛躍的に高まり爆装することで軽爆撃機としても使用できるというメリットからであった。

 日本も同時期に複座戦闘機、1937年には双発複座戦闘機の開発が開始された。これはキ-38と呼ばれる制空、攻撃機の援護、対地攻撃を目的とした機体であった。研究は中島、川崎、三菱の3社に指示され、川崎のみが作業を進めることとなる。

 結局、この計画は中止され、キ-45開発へと発展することとなる。この計画中止の背景には陸軍が新しい双発複座戦闘機の方針を確立していなかったからだと推測されている。

 

開発(キ-45)

 川崎に対して開発が命じられたキ-45は1938年1月に設計に着手する。性能要求は主に掩護、制空戦闘機としてであった。形式は双発単葉複座で最高速度は540km/h、武装は固定機関砲1門、固定機関銃2挺、旋回機関銃1挺であった。これらの要求を踏まえた上で設計を開始、1939年1月に日本初の双発複座戦闘機であるキ-45試作1号機が完成する。

 完成したキ-45は流線形の胴体に翼の先端に行くほど幅が狭まる楕円テーパー翼を採用し、エンジンはコンパクトな790馬力空冷9気筒エンジンハ-20乙を採用した。脚は引込式ではあるが、搭乗員が手動で行うもので、武装は胴体下に20mm機関砲1門、機首に7.7mm機銃2挺、後方に7.7mm旋回銃1挺を装備していた。照準器は眼鏡式である。

 完成したキ-45試作機は不調の連続でテストは難航した。特にエンジンの不調は深刻であったため、1940年4月にハ-20乙エンジンは不採用となり、ハ-25エンジン(海軍名「栄」)が採用されることとなった。この栄エンジンは1933年に設計開始、1934年に完成したエンジンでこの時点ではすでに海軍の九七式艦攻で実用化されていたエンジンであった。

 このエンジンを装着したキ-45はハ-20乙が最高速度480km/hであったのに対して520km/hと好成績を出した。このため増加試作機8機も全てハ-25に換装されたが、実用機としては不満があるということで1940年10月不採用となった。そして第二次性能向上機としてキ-45改の開発が開始された。

 

開発(キ-45改)

 1940年10月、キ-45改の試作及び生産命令が発せられた。この時点で川崎側はキ-45には見切りをつけ、新たに採用された九九式双軽(キ-48)をベースにキ-45改の開発を開始した。これは1941年5月に設計完了、同年6月に試作1号機が完成した。

 このキ-45改はエンジンに1080馬力ハ-102(海軍名「瑞星21型」)を使用、機体はキ-45よりも若干大型化した。テストされたキ-45改は最高速度が540km/hとキ-45を20km/h上回り、上昇力、航続力等あらゆる点で申し分ない高性能を発揮、1942年2月に二式複座戦闘機として制式採用された。制式採用の前月の1942年1月から川崎航空機岐阜工場、明石工場で量産機の生産が開始された。

 

キ-45改甲

02_屠龍甲
(画像はwikipediaより転載)

 

 初期の量産機である。機首に12.7mm砲(ホ103)2門、胴体右下に試製20mm固定機関砲(ホ3)1門、後席に7.92mm(九八式)旋回機関銃1挺を装備している。ホ3はフランス製ホチキス20mm対空機関砲を改造したもの、九八式旋回機関銃はドイツ製MG15機関銃を国産化したものである。さらに操縦席と後席の間に2門の12.7mm砲(ホ103)を上向砲(いわゆる斜め銃)として装備した夜間戦闘機仕様のキ-45改甲丁装備機と呼ばれる機体もあった。

 

キ-45改乙

 

 乙は、甲の装備はそのままで胴体下の20mm機関砲を九四式37mm戦車砲1門に換装したタイプである。1943年1月から6月までおよそ20機が換装された。この九四式37mm戦車砲は九五式軽戦車の主砲として開発されたもので連射機能はなく搭乗員が手動で装填した。初速は575m/s 、発射速度2発/分、最大射程7000mで100mで25mmの鋼板を撃ち抜くことができる。 後期型は主翼付け根に増槽架兼爆弾架が設置された。

 

キ-45改丙(二式複戦改、二式襲撃機)

03_屠龍丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 機首に37mm砲(ホ203)、胴体下に20mm砲、後席には7.92mm九八式旋回機関銃を装備したもの。陸軍航空工廠において1943年3月に設計開始、同年5月に試作1号機が改修された。外観上の特徴は銃身が機首から突出している。同年10月までに65機が改修された。その後、川崎航空機でも生産された。この型は機首を延長して砲身がカバーされている。ホ203は全長1.53m、重量89kg、セミオートで装弾数16発、初速576m/s 、射程900mである。二式複戦改、二式襲撃機とも呼ばれていた。

 

キ-45改丁

04_屠龍丁
(画像はwikipediaより転載)

 

 丙に12.7mm砲(ホ5)2門を上向砲として搭載した夜間戦闘機型。砲は操縦席と後席の中間に設置された。キ-45改中、最も活躍した最強のキ-45改である。

 

その他改良型

 

ホ204装備機

 機種に37mm砲(ホ204)を搭載した機体。1943年1月に1機のみ試作。ホ204は1943年9月に完成した砲で米国ブローニング社の37mm機関砲を改造したもの。

 

ホ401装備機

 機首に57mm砲(ホ401)を搭載した機体。1機のみ試作。砲身が2.4mに達するため機首を1m延長した。ホ401は1944年に日本特殊鋼株式会社製で開発された砲で、セミオートで発射速度は50発/分(30発とも)、初速565m/s であった。

 

ホ301装備機(戊型)

 胴体下部に40mm機関砲(ホ301)を搭載し、レーダー(タキ2号)を搭載した試作機。ホ301はは陸軍航空技術研究所によって開発されたロケット弾を発射する機関砲である。全長1.5m、重量40kg、初速220m/s 、発射速度400発/分。

 

その他改修機

 1944年12月に電波暗視器装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1945年3月にはビーコン装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1944年3月には高高度飛行用装備実験機が陸軍航空工廠で1機のみ試作された。高高度飛行を可能とするため高高度用の改良を加えたハ-102特エンジンを装備したが成功しなかった。他にも1942年8月にはエンジンをハ-112に換装、翼面積を増大したキ-45改兇計画されていた。

 

生産数

 キ-45は試作機3機、増加試作機8機の11機。キ-45改(屠龍)は、試作機3機、川崎航空機岐阜工場で320機、明石工場で1367機の合計1690機が生産された(1704機説あり)。

 

配属部隊

 1942年1月上旬、当時ハノイに展開していた独立飛行第84中隊が9機の屠龍を受領、これが最初に屠龍を受領した部隊である。この中隊は同年10月に1戦隊から人員を補充、21戦隊となった。次に受領したのは5戦隊で同年3月から配備が開始されている。その後4戦隊、13戦隊も屠龍を受領、5戦隊と共に全面的に屠龍に改変した。

 1943年にはB-17の重装甲を破壊するために37mm砲を装備した改造型が完成、本機で独立中隊を編成、特別攻撃隊と名付けられた同隊がラバウルに進出しているが目立った戦果はなかった。1944年2月には屠龍を襲撃機型に改造した二式複戦改が45戦隊に配備されていた他、27戦隊も同機を装備していた。

 本土防空戦では初期の九州への空襲に4戦隊が対応、大きな戦果を挙げた。関東地区では53戦隊が屠龍を装備防空戦闘に活躍している。中部地区は南方から帰還した5戦隊が担当、斜め銃を装備してB-29迎撃に活躍したが1944年5月末に五式戦に改変された。他にも満洲では25中隊が終戦までソ連軍機甲師団相手に健闘している。

 

まとめ

 

 長距離掩護、または制空戦闘機として開発された日本初の双発複座戦闘機屠龍は戦争後期には37mm砲を装備した対爆撃機用戦闘機として活躍する。この屠龍を駆って撃墜不可能と言われたB-29爆撃機を多数撃墜した樫出勇大尉等の活躍も有名である。

 

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01_一式戦闘機隼
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦中最も生産された陸軍の戦闘機「隼」として有名な機体である。合計5751機の生産数は零戦に次いで日本軍用機史上2番目の多さ。太平洋戦争開戦から終戦まで使用され、戦後もアジア地域で使用されていた。

 

一式戦闘機隼〜概要〜

 

 

 

性能(一式一型)

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

背景から開発まで

 傑作機として有名な九七式戦闘機の後継機として計画された本機の基本方針は、「九七式戦闘機と同程度の旋回性能を保持しつつ他の性能を向上させる」というものであった。高速重戦闘機に移行しつつあった世界の趨勢とは異なり、格闘戦性能に重きを置いた要求であった。

 しかしだからといって速度では妥協はしたくない。航続力も欲しいということで性能要求は、速度は九七式戦闘機と比較して40km/h以上、航続力は1.6倍とする無茶な性能要求であった。

 

開発

 1937年12月、陸軍は、九七式戦闘機の後継機であるキ-43の開発を中島飛行機に指示した。試作機キ-43の設計は、設計主務者小山悌を中心に進められ、1938年12月末、試作1号機が完成した。初飛行は同年12月12日で、1939年2月に2号機、3月に3号機が立て続けに完成した。単翼で陸軍戦闘機初の引込脚を採用、風防も密閉式が採用された。照準器は旧来の筒状の望遠鏡式が採用され、プロペラは2翅、スロットルレバーはフランス式の手前に引くと増速するタイプのものであった。

 試作機の武装はドイツラインメタル社製MG17、またはこれを国産化した九八式7.9mm固定機関銃2丁であった。装弾数は各400発である。これら3機の試作機は各部に微妙な違いがあったが、1940年から1941年にかけて試作4号機以降と統一された。完成した試作機の性能はというと機体が大型化し重量も増加したため空戦性能では九七式戦闘機に及ばず、速度も期待していたほどではなかった。

 試作機3機についで増加試作機も10機が1939年11月から1940年9月にかけて製造された。試作機の不評を受けてこの増加試作機では、尾翼、風防等多くの部分で性能改善が行われた。この時にスロットルレバーも前方に押すと増速する方式に変更された。さらに機銃も八九式7.7mm固定機銃2挺に変更されたが、中島飛行機側は採用を半ば諦めていたようだ。

 変化が訪れたのは1940年の夏、シンガポール攻略を念頭に置いた遠距離戦闘機の必要性から航続距離の長いキ-43の採用が決定した。この結果、中島飛行機では1941年4月までに陸軍が要求したキ-43戦闘機40機を完成、1941年5月に一式戦闘機として制式採用された。

 制式採用された一式戦闘機は1942年3月に報道関係者に発表されたが、この時に報道係将校である西原勝少佐の発案で「隼」という愛称が考案され、以降、戦闘機隼として国民に親しまれた。因みにこれは愛称であり正式名称ではない。

 

一式一型

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

 最も初期に生産された一式戦闘機。発動機はハ‐25(海軍名「栄」)で950馬力、全幅11.44m、全長8.83m、重量1580kg、武装は八九式7.7mm固定銃または一式12.7mm固定機関砲2挺を機首内に装備できる。海軍の零戦と異なり、当初から防弾装備が装備されていた。7.7mm2挺を装備した機体は一型甲、右7.7mm、左12.7mmの機体は一型乙、12.7mm2挺の機体は一型丙と呼ばれる。

 武装に関しては威力からすると12.7mm機関砲2挺が好ましかったが、当時の12.7mm機関砲は信頼性が低かったため、実績のある7.7mm機銃2挺とした。後に12.7mm機関砲の信頼性が向上したため12.7mm機関砲2挺の丙型が誕生した。無線機は九六式飛三号無線機。

 

一式二型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 1975kg(資料により異なる)
出力 1130馬力
最大速度 515km/h(米軍テスト結果では558km/h)
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 キ-43が制式採用される前の1940年1月、速度及び上昇力向上を目的とした第二案の研究が始まった。これはエンジンをハ-25の改良型ハ‐105に変更し、機体を空気抵抗の少ない形に改良することであった。1940年5月にキ-43増加試作機1機に改修を実施、発動機はハ-105をさらに改良したハ-115(海軍名「栄21型」)を搭載した試作1号機が1942年2月に完成した。

 その後、5機の試作機と3機の増加試作機が製作され、1942年6月一式二型戦闘機として制式採用された。上記以外の改良点としてはプロペラが2翅から3翅に変更、主翼の両翼端を30cm切り詰め、主翼付け根部分の縦通材が強化された。さらに照準器は望遠鏡式から光学照準器である一式照準器に変更された。燃料タンクにも13mmのゴムで防弾化された。防弾タンクを装備した関係で搭載燃料は36L減少した。無線機は九九式飛三号無線機。

 生産は中島飛行機と立川飛行機で行われた。1942年11月に量産一号機が完成、1944年9月まで生産が続けられた。二型は大きく甲乙丙の3タイプに分けられるがこれは一般的に用いられている区分であり、陸軍の公式の呼称ではない。

 

二型甲

 甲型は最初の生産型。二型は一型に比べエンジンのパワーが向上したため潤滑油冷却器を装備しているが、初期生産型と後期生産型では冷却器の位置が異なる。排気管は集合排気管を使用。

 

二型乙

 排気管が推進力式排気管に変更された。初期生産機は集合排気管であったが、後期生産機は単排気管となった。それ以外にも冷却器の追加、増槽振れ止め、増槽取付位置の変更、頭部保護支柱の改修等の改良が行われた。二型乙型以降はタ弾、ト弾、ロ弾の搭載が可能となっている。1943年1月頃から実戦配備が開始されている。

 

一式三型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 - kg
出力 1130馬力
最大速度 568km/h
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 エンジンを水メタノール噴射式のハ-115供淵-35・32型)に換装した型。最大速度は試作機で568km/hに達し、量産機でも550km/hを維持していた。1943年末に試作が内示、1944年3月に試作指示が出され、1944年12月に制式採用された。

 水メタノール噴射式のエンジンを採用したことにより、胴体内に70Ⅼのメタノールタンクが新設された。さらに座席後方の3ヵ所に厚さ13mmの防弾鋼板が追加され、照準器も三式照準器に変更されている。これらの改良により三型は一式戦の使いやすさ、運動性能を維持しつつ、速度、上昇力、実用上昇限度、航続距離等が向上している。但し、エタノール噴射装置の不具合や整備員の不慣れにより稼働率は低下している。無線機は九九式飛三号無線機であるが、一部に性能向上型であるム4四式飛三号無線機を装備している。

 この三型の武装強化型として三型乙というのも計画された。これは武装を20mm機関砲に変更したもので、1944年末から製作を開始、1945年初頭に試作機が完成した。当初は翼下に20mm機関砲ポッドを装着する案も検討されたが、結局、機首12.7mm機関砲を20mm機関砲に変更することになった。このため三型乙は風防前面の胴体が大きく膨らんだものとなった。

 この改良により重心位置が変わったためエンジン架を200mm程延長しているが、この三型乙は重量過大のため不採用となった。

 

一式四型

 計画のみに終わったが、一式戦闘機にハ-45(海軍名「誉」)、ハ-33(海軍名「金星」)エンジンを装着するという案があった。しかし計画中に終戦となった。または航空本部の指示により中止されたとも言われている。因みに零戦は金星エンジンを装着した五四型が2機試作されている。

 

その他の改修機

ロケット弾搭載型

 試作のみで終わったが、二型の両翼下面にロ三ロケット弾各2発を搭載できるようにしたロケット弾搭載機が53機試作された。1943年11月に設計に着手、1944年3月に試作機が完成したが実用に適せずとして不採用となった。

 

対潜爆弾搭載型

 二型に対潜爆弾を搭載できるようにした型。1943年11月に設計に着手、1944年1月に試作機が完成した。懸吊架は木製で両翼に60kgまたは30塲弾を搭載することができる。合計3機が試作されたが試作のみに終わった。

 

着陸制動フック装着型

 陸軍が開発中であった陸上移動式着陸制動装置と射出装置に対応するように改造された型。1944年3月に設計に着手、9月までに50機が改修されている。

 

 マルサ装置搭載型

 マルサとは資料上は○の中にカタカナのサが入る。「サ」とは酸素を指すと思われる。高高度性能を強化するためにエンジンに液体酸素を供給することにより高性能を発揮することを企図したもの。試作機のみ製作された。

 

寒冷地用装備型

 エンジンの過冷却防止のためカウリング前面の開口部に脱着可能なシャッター付き空気制限板が用意されていた。主翼とプロペラの防氷装置も試作されたが試作のみ。

 

生産数

 一型は試作機が13機あり、量産機は1941年4月から1943年2月までの間に中島飛行機で703機、陸軍航空工廠で51機の合計767機、二型が試作機8機、量産機は1942年11月から1944年9月までの間に中島飛行機で2481機、立川飛行機で1342機の合計3831機、三型が試作機3機、量産機が立川飛行機のみで1143機の合計5751機である。

 

配属部隊

 この一式戦闘機を最初に装備した部隊は59戦隊で1941年6月に立川にて一式戦一型甲を約30機受領した。しかし強度的な不具合が続出、空中分解事故が起こるに至って再度立川に帰還、一型乙に改修した後、仏印に進駐している。同年8月には64戦隊が一式戦に改変、太平洋戦争開戦時には、59戦隊が21機、64戦隊が32機、合計53機の一式戦を装備していたのみであった。

 太平洋戦争開戦後は一式戦の配備も進み、33戦隊、50戦隊、教導飛行隊の204戦隊にも一式戦が装備されていった。1942年10月になるとビルマに展開していた64戦隊は一式戦2型に改変するために内地に帰還、1943年2月3日には同じくビルマに展開していた50戦隊もスラバヤに移動、陸軍輸送船あきつ丸で運ばれてきた一式戦2型を受領、同時に2型への改編が完了した64戦隊が再びビルマに進出した。遅れて11月頃には204戦隊も2型に改変された。

 南東方面では1942年12月18日、一式戦を装備した11戦隊がラバウルに到着、1943年1月9日には1戦隊もラバウルに進出した。5月には2型を装備した24戦隊がニューギニアに進出、8月には11戦隊の後退と共に59戦隊が進出、二式複戦装備の13戦隊や三式戦装備の68戦隊も11戦隊や24戦隊、59戦隊が残していった一式戦を装備していた他、63戦隊、77戦隊が一式戦を装備していた。

 以降、20戦隊、26戦隊、30戦隊、31戦隊等多くの部隊が一式戦闘機を装備、終戦まで活躍した。

 

 

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林えいだい 著
光人社 (2009/11/30)

 

 特攻に出撃して諸事情により引き返してきた隊員達を隔離した施設に関する記録。一般的には特攻に出撃すれば必ず体当たりが実行されると思われがちだが、実際は天候不良や機体の不調、さらには敵艦隊を発見することが出来ずに帰還することはかなりあった。

 特攻隊員達は生きながら神として食事も特別な物を用意されていた。戦死後は二階級特進という名誉と遺族には軍人恩給が支給される。二階級特進というのは単純に名誉と考えられがちであるが、階級が二階級上がる分、金額も大きくなるという実質も伴っていた。

 そのような至れり尽くせりの状態で特攻出撃した故に生還した場合は悲惨であったようだ。生還した隊員達は「振武寮」に送られ、司令官、参謀に罵倒された挙句、暴行されたりもしたようだ。その結果、自殺した隊員もいたという。

 

概要
 振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
(wikipediaより一部転載)

 

 特攻出撃から生還した隊員に関しては海軍でも死ぬことが強要されることがあったようだ(角田和男『修羅の翼』)。まさしく日本軍の負の歴史である。因みに特攻というのはフィリピンが最初であると言われている(それ以前でも戦闘中の体当たり等はかなりある)。このフィリピンで行われた特攻はまさしく「奇襲」であり、米軍も想定していなかった攻撃であったことからかなりの戦果を挙げた。

 そしてその成功は以後、特攻作戦の常態化へと進んでいく。しかしレイテ以降は米軍の迎撃態勢も整ったことに加え、ほとんど飛行経験のない搭乗員と機材の性能不足により目立った戦果を挙げることはなくなった。

 実は特攻というのはかなり難易度が高い。機体は落ちるようには設計されていない。特に戦闘機等の軽い飛行機は急降下しても自然と浮いてしまう。それを抑えながら命中させるというのはかなりの技量が必要だという。

 その上、末期には航空機の工作精度も落ちた上に、速度の遅い旧式機や練習機まで動員された。対する米軍はレーダーを装備して最新鋭戦闘機を何重にも配備して待ち構えていた。それを突破したとしてもVT信管を内蔵した対空砲火が数百門待っている。

 本書を読んでいると、著者、林えいだい氏の主観が随分入り込んでいると感じる。内容が内容なだけに怒りを感じるのも自然ではあるが、もう少し突き放した視点が欲しかった。全体的に「高級軍人=悪」「現場の軍人=善」というような単純な二項対立的視点があるように感じてしまった。

 但し、振武寮という今まで知られていなかったことを世に問うた功績は大きい。著者は戦中派だけに戦争を憎む気持ちが行間にあふれている。読んでいるとかなり気が重くなる。特攻作戦というのを立体的に知りたければ読んだ方がいい。

 

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01_B36
(画像はコンベアB36 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 富嶽とは、太平洋戦争後期に中島飛行機創業者中島知久平の独創によって計画された超大型戦略爆撃機である。当時、大型機の開発経験の無い日本には実現困難な計画であった。特にエンジンには5,000馬力が必要であり、このようなエンジンは当時はどこも実用化していなかった。中島飛行機の社内計画として開始、一時は陸海軍の正式の計画にまでなるが、結局実現困難として開発中止となる。

 

超重爆撃機 富嶽 〜概要〜

 

 

性能(試製富嶽最終案)

全幅 63.00m
全長 42.00m
全高 8.80m
自重 338,000kg
最大速度 780km/h(高度15,000m)
上昇力  -
上昇限度 15,000m
エンジン出力 5,000馬力(ハ54)6基
航続距離 19,400km(爆弾5,000kg搭載時)
乗員 6名
武装 20mm機関砲4門
爆装 最大20,000kgまたは魚雷20本
設計・開発  - / 中島飛行機

 

開発

02_B29
(画像は戦略爆撃機B29 wikipediaより転載)

 

 1942年11月、中島飛行機「大社長」中島知久平は、群馬県太田市に中島飛行機首脳部と幹部技術者を集めて超大型戦略爆撃機を製作するという決意を表した。これに呼応した幹部、技術者は一式戦闘機隼や四式戦闘機疾風の設計で有名な小山悌技師をまとめ役として「必勝防空研究会」を設置、超重爆の研究を開始した。この計画は「Z計画」と名付けられ、1943年1月末には基本方針が出来上がった。この「Z計画」の「Z」とは海軍の「Z旗」が由来であり、そのZ旗とは「皇国の荒廃この一戦に在り」を意味する。

 Z飛行機の基本コンセプトは、米軍機に対して、々丗概離が優越していること、爆弾搭載量が優越していること、B度が優越していることであった。要するに「無敵爆撃機」を製作しようとした訳であるが、このコンセプトからして当時の日本の技術力を超越したものであるのは言うまでもない。このため軍部からは批判の声が強かった。こんなものにリソースを割くのであれば戦闘機を製作せよという訳である。

 しかし「変人」中島知久平はこんなことではめげない。めげるような男であるならばそもそも中島飛行機などという会社は存在しなかったであろう。中島は小山悌技師を同道、陸軍に対して米本土爆撃が可能であることを力説した。この結果、軍部に理解者が現れ始め、ついには「富嶽」という名称で軍の正式な計画となった。

 

Z飛行機計画

03_B29とB36
(画像は戦略爆撃機B29とB36 wikipediaより転載)

 

 以上のように中島飛行機が独自に研究した飛行機は「Z飛行機」と呼ばれ、軍部によって正式に認められた計画によって完成が企図された飛行機が「富嶽」と呼ばれている。つまりZ飛行機計画が正式に採用されて富嶽計画となった訳である。では、このZ飛行機とはどんな飛行機であったのだろうか。

 Z飛行機には複数の案があったが、最終案として残ったものは全幅65m、全長45m、全高12m、重量が自重67.3トン、最大爆弾搭載量50,000kg、最大速度は高度7,000mで680km/h、実用上昇限度12,480m、航続距離は16,000kmというとんでもない化け物飛行機であった。エンジンは6発で搭載が予定されていたのはハ44(2,450馬力)2基をタンデムに連結したハ54エンジン(5,000馬力)であった。

 このようにZ飛行機は空前の超大型機であったが、中島知久平が考案した使用法もまた壮大なものであった。まずZ飛行機には1,000kg爆弾20発を搭載するZ爆撃機、20mm機関砲96門を装備したZ掃討機、7.7mm機関銃400挺を装備したZ掃討機、1,000kg魚雷20本を装備するZ雷撃機、武装落下傘兵200名を搭乗させるZ輸送機があり、これらを駆使して戦っていく。

 第一段階は防衛線で、数百機の爆撃機型Z飛行機で日本本土空襲が可能な位置にある飛行場を爆砕、来襲する敵爆撃機は掃討機型が高度差を利用して上空から機関砲の雨を降らせて全て撃墜する。機動部隊に対してはまず掃討機型で対空砲火を沈黙させる。次いで爆撃機型で絨毯爆撃を行い、撃ち漏らした艦船を雷撃機型で撃沈する。この雷撃機型は1機で1隻が割り当てられており、1隻に対して搭載魚雷20本を撃ち込む。これらにより日本に来襲する敵航空機、艦隊を壊滅させる。

 第二段階では、ドイツ占領下のフランスに前進基地を設けて米本土を猛爆撃する。これでも降伏しなかった場合は、4,000機のZ爆撃機、2,000機のZ掃討機、2,000機のZ輸送機で米本土を占領するというものだ。第三段階はドイツ国内に拠点を設け、ソ連やイギリスを猛爆撃するという壮大な計画であった。もちろん実現する可能性は全くない。

 余談であるが、これを架空戦記としてシミュレーションしたのが、檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』シリーズで、元零戦搭乗員坂井三郎氏も舌を巻く程の専門知識を持つ著者が合理的に「仮に富嶽が量産された場合」をシミュレートする。

 

「試製富嶽」委員会の設置

04_B52
(画像は現代の戦略爆撃機B-52 wikipediaより転載)

 

 中島知久平の熱意により、1944年1月下旬に中島知久平を委員長として「試製富嶽委員会」が背設置されることが決定、陸軍航空技術研究所、海軍航空技術廠を始め、大学、民間企業の専門家をメンバーとした委員会は、1944年3月(4月とも)正式に発足した。

 ここで一番の問題となったのはやはりエンジンであった。Z飛行機で搭載予定であった5,000馬力級エンジンであるハ54は、その元となるハ44エンジンすら試作の段階であったため、開発は難航した。このため様々な代替案が用意されたがどれを採用しても能力が低下することは必須であった。エンジンの開発は難航していたものの、委員会員が協議の上完成させた試製富嶽最終案は以下の通りとなった。

 全幅63m、全長42m、自重338トン、最高速度15,000mで780km/h、航続距離が爆弾15,000kg搭載で16,500km、エンジンはハ54が6基、プロペラは6翅または8翅プロペラで20mm機関砲4門、与圧室装備で乗員6名であった。しかしこの遠大過ぎる計画は明らかに実現困難であったため、1944年4月には開発中止が決定、1945年4月に委員会は正式に解散した。

 

生産数

 計画のみ。

 

超重爆撃機 富嶽の関係書籍

 

檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』

 仮に富嶽が完成していたら。。。というシミュレーションである。著者は架空戦記物の草分け的な存在の檜山良昭氏。戦史や当時の技術に対する造詣の深さは元零戦搭乗員の坂井三郎氏を唸らせるほどであった。本書では、富嶽のエンジンが苦難の末に開発に成功、富嶽の量産が始まる。

 中島知久平の計画では富嶽は数百機を生産することになっているが、本書では月産10機程度しか生産できない。当時の日本の工業力を考えれば妥当な数である。日本軍は、この富嶽を以って陸海合同で戦略空軍を発足、米本土爆撃を始め、様々な作戦に活躍するが所詮20〜30機程度の富嶽では戦局を覆すことは出来ず、富嶽も1機、また1機と消耗していく。

 架空戦記というと当時の日本の技術力、工業力や時代背景を完全に無視した荒唐無稽な作品が多いが、本書は「ハ54エンジンの開発に成功した」という設定の下、日米の国力差、空襲の激化による生産数の減少等、可能な限りリアルに「富嶽」をシミュレートする。

 

まとめ

 

 富嶽は航空機好きなら誰でも知っている中島飛行機が計画した幻の超重爆撃機である。確かに中島知久平の計画通りにこの富嶽が生産されていれば戦局は大逆転したであろう。しかし、もしこの富嶽を日本が製造できる技術力と工業力があれば、日本の軍用機はもっと高性能であり戦場を席巻していたであろうから、そもそも大逆転させなければならない状況にはならなかった。

 技術的にも工業力的にも完全に不可能であった本計画であったが、陸海軍共にこの計画を取り上げて正式な委員会まで設置してしまったことに当時の日本の末期的状態が見て取れる。富嶽は富士であり、富士は日本の象徴であるが、この富嶽計画もまた当時の日本の状態を表す象徴的な計画であった。

 しかし、無理な計画、遠大な計画を目指してそれを実現させていくのが技術であり、この富嶽計画に関わった技術者達の挑戦は決して無駄ではなかった。戦後、中島飛行機はその技術力と会社規模を恐れたGHQの命令により解体されるが、数年後には分割された会社のほぼ全社が再集結して「富士重工業」を成立させる。無論、社名の「富士」は「富嶽」に由来している。富嶽は確かに当時の日本の国力を完全に無視した実現不可能な計画であった。しかし当時の中島飛行機の人々の心に夢として刻み込まれ、それは戦後も生き続けたのである。

 

 

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01_一式貨物輸送機
(画像は一式貨物輸送機 wikipediaより転載)

 

 ロ式B型高高度研究機とは、陸軍が開発した高高度研究機である。名称がキ番号ではなく「ロ式B型」という妙な名称であるのは本機が「極秘」よりもさらに上の「特秘」扱いであったことによる。具体的に研究していた内容は成層圏を飛行する際に必要になる与圧室の研究であった。この分野の研究において日本は各国に後れを取っており開発が急がれていた。

 

ロ式B型高高度研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 19.96m
全長 11.76m
全高 3.46m
自重 5,157kg
最大速度 475km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで13分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,055馬力(ハ102)2基
航続距離 2,200km
乗員 6名(操縦員2名、実験員3〜4名)
武装  -
爆装  -
設計・開発 小川太一郎 / 東京帝国大学航空研究所

 

与圧室とは。。。

 地球を取り巻く大気層は、およそ高度11,000mまでを対流圏、50,000mまでを成層圏と呼ぶ。軍事上、成層圏飛行が有利なのは航空機の発見が困難であること、地上からの攻撃が困難であること等がある。このため各国では成層圏を飛行することが可能な高高度航空機の開発が研究されていた。

 高高度飛行を行う上での問題は、高度が高くなるにつれて酸素の量が減少することである。このため高高度を航空機が飛行するためには、機内を気密化して酸素を送り込み気圧を人間が生存できる気圧にする必要がある。さらに与圧することで機内と機外とでは圧力に差が生じる。与圧室を製造するためには機内の気密化して酸素を送り込むことと同時に圧力差に耐えうる強度が必要になる。

 

開発

 1938年、東京帝国大学航空研究所内に「航二研究会」と呼ばれる航空機による成層圏飛行に関する研究を行う研究会が発足した。リーダーは小川太一郎博士で陸軍からの資金協力も得ていた。この計画は「研二」とも呼ばれている。1940年になると航二研究会は実際に高高度研究機製作に動き出す。当時の日本の技術力ではいきなり成層圏を目指すのは難しかったため、中間機として高度8,000mから10,000mを常用高度とする中間機の開発を指向することとなった。

 基礎設計は東大航研で設計主務者はリーダーの小川太一郎博士で基礎設計は主に木村秀政所員が行った。細部の設計と機体の製作は立川飛行機が担当することとなった。しかしゼロから機体を製作していたのでは時間がかかり過ぎるため機体は現用機から流用することとした。その候補として挙がったのが、ロッキード14Yと三菱製九七式重爆であった。

 検討の結果、重量軽減が可能である点や立川飛行機でライセンス生産されている点が試験には有利である等という点からロッキードY14がベースとして選ばれた。設計は1940年8月から開始された。主な改造点としては、胴体は新規設計、発動機、プロペラの交換であった。同年秋には基礎設計が完了、立川飛行機によって細部の設計が行われた。1941年末に設計完了、試作機2機の製作が開始、1942年7月試作機の機体は2機ともほぼ完成する。

 機体は完成したものの日本初であった与圧室の開発が難航したため完全に試作機が完成したのは翌年1943年5月であった。6月には与圧装置は使用せずに高度3,000mまでの初飛行が行われ、9月1日には与圧装置を使用した飛行も行われた。1944年8月には2号機も完成、1944年10月9日には試験飛行において高度11,200mに到達、成層圏飛行に成功した。

 今回、全く新規に設計された胴体は円形断面で機首は段無しの流線形となった。窓は二重ガラスになっており、その間に温めた空気を送り込んで曇りなどを防いでいた。このためもあって操縦席からの視界の悪さは酷い物であったという。エンジンは1号機が二速過給器を搭載したハ102特(海軍名「瑞星21型」)で2号機はさらに高高度に対応したハ102超過給型が装備された。プロペラは直径3.2mでブレードは高高度で馬力を吸収するために幅広に設計された。

 

生産数

 2機が製作された。終戦まで残存していたが米軍によってスクラップにされた。

 

まとめ

 

 日本でロ式B型が試験されたいた頃、米国ではB29が実戦に投入されていた。このB29は完全な与圧室を持ち、搭乗員は機内では通常の飛行服での勤務が可能であった。実用上昇限度は13,000mを超え、総生産数は3,970機に達する。これに対して日本側は最高の頭脳を投入しても不完全な与圧室を備えた実験機が2機、それもベースは米国機というのが現実であった。技術が進歩するためにはそれを下支えする工業力が必要である。それは天才、秀才が設計したものを実際に生産することができる基礎技術力であり、一分野に秀でることではなく全分野の技術力の高さである。

 当時の日本は、飛行機を製造することはできても飛行機を作る機械は米国製であったり、ドイツから高性能の機銃を輸入してもプレス加工ができないために製造することができない、ライセンスを得ても同じ品質のものが造れない等の悲しい現実があった。日本には世界レベルの航空機設計者達が多くいた。しかし設計は一流であってもその設計を実物に変える力が不足していた。この「国力の差」を如実に表しているのがこのロ式B型研究機であろう。

 

 

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01_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ77長距離研究機とは、朝日新聞社が東大航研に製作を依頼、のちに陸軍も加わって開発された長距離飛行を目的とした実験機であった。戦時中であったため国際機関からの公認はされていないが、総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分という世界記録を達成している。これは1962年にB52爆撃機に抜かれるまでは世界最長飛行記録であった。2機が製作され、1機は日独連絡のためにシンガポールを離陸後行方不明となっている。

 

キ77長距離研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 29.43m
全長 15.30m
全高 3.85m
自重 7,237kg
最大速度 440km/h(高度4,600m)
上昇力 6,000mまで24分00秒
上昇限度 8,700m
エンジン出力 1,090馬力(ハ115特)2基
航続距離 18,000km(300km/hで滞空55時間)
乗員 6名
武装  -
爆装  -
設計・開発 木村秀政 / 東京帝国大学航空研究所

 

背景から開発まで

 キ77は、1939年に朝日新聞社が皇紀2600年記念に太平洋無着陸訪米親善飛行を行うために東京帝国大学航空研究所に専用の長距離航空機の設計を依頼したのが始まりである。皇紀とは明治時代に発案された日本独自の紀年法で神武天皇即位を元年とする。そこから計算して1940年は皇紀2600年ということになり、多くのイベントが企画された。キ77はその企画の一つとして発案されたものである。

 

開発

02_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年に東大航研に開発を依頼した機体は当初朝日新聞社の頭文字「A」をとって「A-26」と呼ばれていたが、やがて陸軍がこのA-26に目を付けて陸軍の試作機に加えた。これによって以降はキ77と呼ばれることとなる。このキ77の開発は基礎設計は東大航研、機体製作は立川飛行機、エンジンの製作は中島飛行機が行うこととなっていた。

 機体設計の幹事は木村秀政で、長距離飛行を可能にするために巡航速度を高くする必要があった。このため高翼面荷重の機体を製作するが、燃料が減るにつれて翼面荷重は低くなっていく。これを解決するために徐々に高度を上げていくという方法を採用している。これは現在の長距離飛行機の採用している方法と近いものであった。1940年3月に基礎設計開始、同年秋には基礎設計が完了した。以後の細部の設計は立川飛行機で行われたが、太平洋戦争開戦後に陸軍の命令により一時製作が中断するが、1942年4月に突如製作再開が命じられた。それどころか年末までに1号機を製作させよという急展開であった。この陸軍の変節は同月に米軍によって行われたドーリットル隊の空襲に対して一矢報いるためであったと言われている。

 この要求に対して製作陣は1942年9月に1号機を完成させたものの、あまりにも作業工程を切り詰めた突貫作業であったために各部の工作は粗悪になってしまっていた。それでも同年10月には地上運転、11月18日には初飛行に成功している。1943年4月には2号機も完成するが、こちらは時間的な余裕があったため丁寧な仕上げになっていた。試験飛行は1942年11月から1943年3月まで行われ、結果は良好であった。1943年4月には総合試験として東京からシンガポールまでの往復1万キロ以上の距離を53時間で無事に飛行した(無着陸ではない)。

 機体はセミモノコック構造で主翼は薄い層流翼を採用した。長距離飛行のために主翼はインテグラルタンク(翼がそのまま燃料タンクとなっている構造)を採用、さらに胴体にもいたるところに燃料タンクを設けた結果、燃料搭載量は12,202Lに達している(一式陸攻34型4,400L、二式大艇17,080L)。機内は、当初は与圧キャビン、次いで気密室が計画されたが当時の日本の技術力では製作することが難しかったため結局、酸素吸入マスクを使用することとなった。

 エンジンは中島製ハ115(1,170馬力。海軍名「栄21型」)2基でプロペラは直径3.8m3翅のハミルトン定速プロペラであった。

 

生産数

 1号機、2号機の合計2機。1号機は、戦後米軍の手によって米本土に運ばれたが途中、嵐により大破1949年頃にスクラップとなった。2号機はドイツとの戦時連絡飛行に使用されたが行方不明となった。

 

まとめ

 

 キ77は1944年7月2日午前9時47分満洲の新京を離陸、新京、白城、ハルビンを結ぶ一周865kmのコースを19回飛行、4日19時に新京に着陸した。総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分であった。これは戦時中であったため国際航空連盟未公認の記録であったが、当時の世界最長記録であった。2号機は、この長距離飛行能力でドイツに連絡に行かせるという暴挙のため失われている。

 

 

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01_研三
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ78高速研究機(研三)とは、陸軍が東大航研に依頼した高速実験機で製作は川崎航空機が行った。1939年に計画がスタートし、1943年12月には日本機最速の699.9km/hを記録した。この記録を超える機体は終戦まで登場しなかった。実験機は1機のみ製作され戦後進駐してきた米軍によってスクラップにされた。

 

キ78高速研究機(研三) 〜概要〜

 

 

性能

全幅 8.00m
全長 8.10m
全高 3.20m
自重 1,930kg
最大速度 699.9km/h(高度3,527m)
上昇力  -
上昇限度 8,000m(計画値)
エンジン出力 1,550馬力(DB601A改)1基
航続距離 600km(計画値)
乗員 1名
武装  -
爆装  -
設計・開発 山本峰雄 / 東京帝国大学航空研究所

 

開発

 1939年10月、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、速度世界記録樹立を目標とした速度研究機の開発を東京帝国大学航空研究所所長和田小六に依頼した。当時、世界では航空機の速度世界記録が頻繁に更新されており、日本もその競争に参加しようということであるのだが、いきなり世界記録を目指すことは様々な問題があり難しかった。このため第一段階で700km/h級の中間機を製作、第二弾で800〜850km/h級の記録機を製作するという方針が立てられた。

 当時、東大航研では「研二」と呼ばれる高高度研究機の開発を行っており、高速機の研究は「研三」として進められた。1940年1月には研三委員会が組織され、設計は山本峰雄所員が中心となり、製作は川崎航空機で行われることが決定、1942年12月に1号機が完成、12月26日に初飛行に成功した。

 機体は空気力学的に理想的と考えられる数値を探し出した結果、三式戦闘機飛燕に似たシルエットの風防と排気管、冷却器以外には突起物のない美しい流線形の胴体となった。主翼は桁に新たに開発されたSSDと呼ばれる超超ジュラルミンが採用、高速実験機であることから離着陸に支障のない程度に翼面荷重は高く設定された。このため翼面荷重は220kg/屬販軅錣簇擦2倍に達する高翼面荷重の機体となった。それにしても降着速度はあまりにも高速で脚を損傷する可能性があるため着陸はエンジンを徐々に絞って着陸する推力着陸という手法が採用された。

 風防は重量軽減のため脱着式を採用、搭乗員が乗り込んだ後、機体にネジで固定された。エンジンはメッサーシュミットBf109に採用されたDB601エンジンの改良型で、エンジンの回転数増加、メタノール噴射等の改良を施すことで馬力が1,175馬力から1,550馬力に強化されていた。プロペラは直径2.85m3翅のラチエ電気可変ピッチ式プロペラである。

 研三は小改良を加えながら飛行試験を続け、1943年12月27日の第31回飛行試験では最高速度699.9km/hを記録した。これは当時の日本航空機の最速記録であり、終戦までこの記録を上回る機体は登場しなかった。当初の計画にあった2号機は戦局の悪化のため中止となっている。

 

生産数

 実験機が1機のみ。戦後米軍の手によってブルドーザーでスクラップにされた。

 

まとめ

 

 研三とは日本の航空機の限界に挑戦した実験機であった。もしかするとオクタン価の高い燃料を使用すればさらに高記録を発揮したのかもしれないが、戦後は飛行することなく米軍の手によって破壊されてしまう。日本航空機技術者が世界に挑戦しようとした記念碑的な航空機である。

 

 

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01_キ102
(画像はキ102 wikipediaより転載)

 

 襲撃機キ93とは、第一陸軍航空技術研究所で開発された襲撃機で全幅19mという巨大な機体であった。1945年4月に試作機1機が初飛行を行ったのちに空襲によって大破、そのまま終戦となった。75mm砲を装備する計画もあった機体で完成していればタンクバスターとして活躍した可能性がある。

 

襲撃機 キ93 〜概要〜

 

性能

全幅 19.00m
全長 14.22m
全高 4.85m
自重 7,826kg
最大速度 624km/h(高度8,300m)
上昇力 4,000mまで4分18秒
上昇限度 12,050m
エンジン出力 2,400馬力(ハ214)2基
航続距離 2,350km
乗員 2名
武装 57mm機関砲(ホ402)1門、20mm機関砲(ホ3)2門、12.7mm機関砲(ホ103)1門
爆装 250kg爆弾2発
設計・開発 安藤成雄 / 第一陸軍航空技術研究所

 

開発

 1943年2月、陸軍航空本部は、第一陸軍航空技術研究所(一技研)、陸軍航空工廠に対してキ93の名称で正式に開発の指示を出した。これに対して一技研では安藤成雄中佐を設計主務者として開発を開始した。陸軍自身が設計開発を行うのは1927年に完成した試製三座軽爆撃機以来、実に16年振りであった。

 1943年5月から設計開始、1945年3月に試作1号機が完成した。初飛行は4月8日に20分間飛行したが、その際事故が発生、ほぼ修理が完了した4月30日に空襲によって完全に破壊されてしまった。試作2号機も製作されていたが、完成直前に終戦となった。

 全幅19mという巨大な機体で、セミモノコック構造で乗員2名で前方に操縦員、後方に同乗者席という配置になっていた。エンジンはハ214M(2,400馬力)でプロペラは直径3.80mの定速6翅プロペラであった。武装は前方固定砲に57mm砲1門(ホ402。弾数20発)、20mm砲2門(ホ5。弾数各600発)、後上方旋回砲として12.7mm旋回機関砲1門(ホ103。弾数400発)で、爆弾搭載量は250〜800kgである。

 防弾性能を非常に重視しており、操縦席前方には厚さ70mmの防弾ガラスと12mmの鋼板の防弾装置、搭乗員席の背部には厚さ15mmの防弾鋼板、燃料タンクはゴムで被覆されており、後方には厚さ10mmの防弾鋼板が設置されていた。

 

生産数

 試作機1機のみ。

 

まとめ

 

 キ93は戦争末期に試作機が完成、1回飛行したのみの機体であった。当時の最先端の技術を投入した機体で計画通りの性能を発揮することが出来れば全幅19mの大型機でありながら双発戦闘機並みの運動性能を発揮して活躍するはずであったが、当時の日本の航空機のエンジンの性能低下は目を覆うばかりであったため仮に量産されていたとしても計画通りの性能を発揮することはなかったであろう。

 

 

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01_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 カ号観測機とは、日本陸軍が制式採用した唯一のオートジャイロで終戦までに98機が生産された。当初の目的は砲兵隊用の着弾観測機としてであったが、太平洋戦争開戦後は一部が対潜哨戒として使用されたがほとんど目立った戦果を挙げることはなかった。

 

カ号観測機 〜概要〜

 

 

性能(一型)

全幅 3.02m
全幅 10.60m
全高 3.10m
自重 750kg
最大速度 165km/h
上昇力  - m
上昇限度  - m
エンジン出力 240馬力(アルグスAs10C)
航続距離 360km
乗員 2名
爆装 60kg爆弾1発
設計・開発 小原五郎 / 萱場製作所

 

開発

02_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年11月、陸軍は砲兵隊の着弾観測の必要性から萱場製作所に観測用オートジャイロの開発を命じた。小原五郎技師を設計主務者として開発を開始、1941年4月にケレットKD-1を修理改造した1号機が完成、5月26日に多摩川飛行場で初飛行に成功、1942年11月までにさらに2機を完成した。これらは、カ号一型観測機として制式採用された。名称の「カ」とは回転翼の頭文字である(1944年に陸軍の作戦名「カ号作戦」と名称が重複したためオ号と改称)。因みに通常、陸軍の航空機には計画番号「キ」が付されるが、このカ号にキ番号が付されていないのは陸軍技術本部の要求により開発されたためである。

 機体は、鋼管製の骨組みに布張り、ローターは鋼管製の桁にベニヤ板を張った3翅ローターで機首の周辺にだけ軽金属の外板を使用した。エンジンは、1号機はジャコブスL-4MA-7、2号機3号機はアルグスAs10を機首に搭載しており、正面のプロペラは2翅固定ピッチである。しかしアルグスエンジンはトラブルが多発したため生産は20機で打ち切られ、以降は1号機と同じジャコブスエンジンを装備している。アルグスエンジン搭載型は一型、ジャコブスエンジン搭載型は二型と呼ばれている。

 ローターで揚力を発生させ、前方のプロペラで前進する方法で約30〜60mで離陸することが可能であり、エンジンが停止した状態でローターの揚力のみで着陸する「オートローテーション」も可能であった。1945年4月にはローターの先に火薬ロケットを取り付けた新型ローターの実験が行われたが実用化はされなかった。カ号は発動機、伝動装置等の製作が捗らず、終戦までに98機が生産されたのみであった。この内、10数機は空襲により被爆、30機はエンジンが付いていなかったため実際に運用されたのは50機前後である。

 

生産数

 98機が生産されたが、エンジンが未装着のものが約30機あったため実際に完成したといえるのは70機程度である。

 

まとめ

 

 オートジャイロとはヘリコプターのようにローターによって推進するのではなく、上方にローター、前方にプロペラという2種類の推進器によって飛行するという過渡期の航空機であった。同時期に米軍はヘリコプターを実用化させており、終戦と同時に軍用オートジャイロは日本から姿を消した。現在でもオートジャイロは主にスポーツ用として活躍している。

 

 

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01_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ115剣とは、太平洋戦争末期に中島飛行機が開発した特攻専用のレシプロ機である。大量に余ったエンジンを有効活用するために木材や鋼鉄などの入手が容易な材料で簡単に製造できるように設計されていた。完成した試作機は長所が一つもないと言ってもいいくらい性能は劣悪であったため制式採用されることはなかった。

 

キ115剣 〜概要〜

 

性能

全幅 8.60m
全長 8.55m
全高 3.30m
自重 1,690kg
最大速度 550km/h(高度 - m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 1,150馬力(ハ115海軍名「栄21型」)1基
航続距離 1,200km(増槽装備時)
乗員 1名
爆装 800kg爆弾(または500kg)
設計・開発 青木邦弘 / 中島飛行機

 

開発

02_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島飛行機は工場に大量に残されたハ25(栄12型)やハ115(栄21型)エンジンの活用を考えた結果、簡易的な攻撃機を大量に生産することを思い付いた。これは500〜800kgの爆弾を搭載した600km/h程度の速度の突撃機で脚は離陸後投棄して着陸は胴体着陸とする。さらに機体の材料は木材や鉄板を活用するという「廃材利用機」ともいえるものであった。

 この計画は、暗に特攻を示唆するものであったため、当初は陸軍によって拒否されたが、戦局がひっ迫した1945年1月20日、中島飛行機に開発指示がでた。これに対して中島は青木邦弘技師を設計主務者として開発を開始、わずか1ヶ月半後の3月5日に試作1号機が完成した。

 機体は徹底的に簡素化され、入手しやすい材料によって簡単に大量生産ができるようになっていた。このため主脚にはショックアブソーバーもなく、風防は半解放式で前面はガラスだが、後方のガラスは一部のみであった。離陸には離陸促進用ロケットを使用、爆弾は胴体下面の切り欠きに半分胴体に内蔵した形で搭載するという設計であった。エンジンはハ115(1,130馬力)でプロペラは2.9mハミルトン定速3翅プロペラであった。翼面積が小さく機体重量はそれなりにあるため翼面荷重は212kg/屬販軅錣簇擦2倍という非常に高いものであった。

 審査は3月から開始されたが、視界不良、ショックアブソーバーが無いため離着陸が難しい上に50kg以上の爆弾を搭載するとバウンドして転覆する可能性が高かった。他にも安定性、操縦性、運動性全てが悪い上に強度不足で最高速度も計画値に達していなかった。ため、6月下旬に審査主任の高島亮一少佐は不採用と判定した。この際、キ115を使用した作戦での推定攻撃効果という数値が算出されているが、これによるとキ115の内、30%は離陸に失敗、離陸した70%の内50%は敵機に撃墜される。残りの20%の内対空砲火により15%は撃墜され、5%が命中もしくは命中に近いものとなるが、実際に効果があるのは3%で、さらにこの3%も大きい艦艇に対しては効果は薄いというものであった。つまりは100機出撃して、その内3機が小艦艇に損害を与えることが可能ということである。

 

生産数

03_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 終戦までに105機が生産されている。

 

まとめ

 

 キ115剣は特攻専用に開発されたレシプロ機であった。海軍の桜花と異なり完全な特攻機としてではなく帰還することも想定はされていたが、それは建て前上であり実際には完全な特攻機であったと考えてよいだろう。全ての性能は劣悪であり、爆弾を装備すると離陸時に転覆するという酷い機体であった。それでも実戦配備を要求し続けた上層部に対して審査主任の高島亮一少佐は要求を撥ね付け続けた結果、実戦に使用されることなく終戦を迎えた。

 

 

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01_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式戦闘機とは、日本陸軍が1937年に制式採用した主力戦闘機で分類としては軽戦闘機になる。この軽戦闘機としての本機の性能は世界最高で世界の軽戦闘機の頂点を極めたといっていい。最高速度でも前年に制式採用された海軍の九六式艦上戦闘機を上回る究極の戦闘機であった。

 

九七式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.31m
全長 7.53m
全高 3.28m
自重 1,110kg
最大速度 470km/h(高度3,500m)
上昇力 5,000mまで5分22秒
上昇限度 12,250m
エンジン出力 610馬力(ハ1乙)1基
航続距離 627km
乗員 1名
武装 7.7mm機銃2挺(八九式固定機関銃弾数各500発)
爆装 25kg爆弾4発
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式戦闘機甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

 1935年12月、陸軍は中島、川崎、三菱の3社に九五式戦闘機に次ぐ、次期主力戦闘機の設計研究を命じ、4月には正式に指示が出された。当時、格闘戦を重視した軽戦闘機至上主義であった陸軍の性能要求は、九五式戦闘機と同等の運動性能を持つ上、最高速度が50km/h上回る戦闘機という困難な要求であった。1936年10月、試作1号機が完成、同月15日には初飛行を行った。1937年3月には各社の試作機を破って中島製キ27の採用が内定、12月(9月とも)には九七式戦闘機として制式採用された。

 機体はセミモノコック構造で空気力学的に優れており、徹底した軽量化も行われた。このため脚も構造が複雑で重量がかさむ引込脚ではなく固定脚としている。燃料タンクは翼内のみで通常の航空機のように胴体内には装備されなかった。これは被弾した際に搭乗員を守るための配慮で燃料タンクは主翼内胴体付近に装備され、操縦席床板は厚くして火のまわりを遅くしていた。

 このため航続距離は357〜850kmと短いためこれを補うために増加燃料タンクが翼下に各1個装備することができた。尚、陸軍の強い要望により胴体内燃料タンクを装備した試作機(キ27改)も製作されたが安全性に問題があるため不採用となっている。風防は密閉式涙滴型風防で、エンジンはハ1乙(海軍名「寿」。610馬力)1基でプロペラは直径2.9m金属製2翅固定ピッチ、武装は八九式固定機銃二型2挺(弾数各500発)のみである。

 この九七式戦闘機の構造で革新的であったのは、主翼を一体で製作してその上に胴体を乗せるという方法に変更したことであった。それまでの航空機は、胴体と中翼を一体で製作し、そこに外翼を取り付けるという方法であったが、これだと構造上重量がかさんでしまうという問題があった。それを上記の方法に変更することにより、重量軽減にもなり、さらには機体の強度を上げることも出来るという一石二鳥であった。しかし輸送には不便であったため、胴体は操縦席後方で分割できるようにしていた。この方法はのちに中島製戦闘機、三菱の零戦等でも使用され、現代のジェット機では定番となっている。

 

生産数

03_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 生産は中島飛行機で1937年12月から1942年(1940年とも)12月まで2,007機、立川飛行機で1938年から1939年8月まで60機、満洲飛行機で1939年から1942年まで1,315機が生産された。総生産数は3,382機(3,386機)である。

 

まとめ

 

 九七式戦闘機は当時最高性能を誇った戦闘機であった。軽快な運動性能はノモンハンで遺憾なく発揮された。このため世界の戦闘機開発で主流となりつつあった重戦闘機への開発が遅れるという弊害も生みだしてしまった。次期主力戦闘機でも同じく運動性能を重視したため速度も運動性能も今ひとつな一式戦闘機を生み出してしまう。成功体験が次の失敗を生み出してしまうという良い例である。

 

 

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02_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 高高度戦闘機キ94とは、立川飛行機が開発した高高度戦闘機で独特の形状をした儀燭肇ーソドックスな尾輪式単発単座の況燭ある。これは儀燭陸軍の意向により開発中止になり、オーソドックスな形状で再度試作指示が出たためであった。況燭禄戦直前に1号機が完成、初飛行前に終戦となったが、かなりの高性能が見込まれたことから登場の遅さが非常に悔やまれる機体である。

 

高高度戦闘機 キ94 〜概要〜

 

 

性能(キ94儀弉菽諭

全幅 15.00m
全長 13.05m
全高  - m
全備重量 8,800〜9,400kg
最大速度 780km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで9分56秒
上昇限度 14,000m
エンジン出力 2,200馬力(ハ211ル)2基
航続距離 4,520km
乗員 1名
武装 37mm機関砲2門、30mm機関砲2門
爆装 50kg爆弾2発または
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行場

 

性能(キ94況弉菽諭、┰説あり)

全幅 14.00m
全長 12.00m
全高 4.65m
自重 4,690kg
最大速度 712km/h(高度12,000m)
上昇力 10,000mまで17分38秒
上昇限度 14,100m
エンジン出力 2,500馬力(ハ44/12ル)1基
航続距離 1,538km
乗員 1名
武装 20mm機関砲2門(ホ5弾数各200発)、30mm機関砲2門(ホ155驚匿各100発)
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行機

 

開発

 

03_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 1943年6月、陸軍は立川飛行機に対して高高度戦闘機の試作を指示した。これに対して立川飛行機は長谷川龍雄技師を設計主務者として開発を開始、同年12月には実物大模型を完成させた。機体は串型双発双胴型で中央胴体の前後にエンジンとプロペラを装備、左右の胴体の後方にはそれぞれ垂直尾翼が付いていた。左右の胴体の後方にある水平尾翼はつながっており、一見、米軍のP38に似た形状に見える。

 高高度での運用に対応するために操縦席は与圧室となっており、エンジンはハ211ル(2,200馬力)を装備していた。これは三菱で開発された金星エンジンの改良型で高高度用に排気タービン過給器を装備していた。武装は37mm機関砲(ホ204)2門と30mm機関砲(ホ155)2門でホ204は側胴前端部にホ155は主翼内に搭載される予定であった。さらに最大500kgの爆弾を搭載することが可能であった。

 1944年8月に試作1号機を完成させる予定ではあったが、実物大模型審査の結果、発動機の装備方法が現実的ではないことや搭乗員の脱出が困難であること等から開発が中止された。

 

01_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 あまりにも独特な形状のため開発が中止となったキ94であるが、1944年3月、オーソドックスな尾輪式単発単座機として改めて開発が指示された。これもキ94であるが、通常は串型双胴双発型をキ94機改めて開発指示が出された型をキ94兇噺討个譴討い襦

 陸軍は、開発の遅れを取り戻すために当時中島飛行機で開発中であったキ87の設計を極力利用することを要求したが検討の結果、独自の設計を行うこととなり、1944年5月にはキ94気汎瑛佑膨甲川龍雄技師を設計主務者として開発を開始した。

 

 

 キ94兇皚儀親瑛諭▲┘鵐献鵑魯211ルでプロペラは直径4.00m4翅プロペラを装備、与圧室、排気タービン過給器を装備、胴体はセミモノコック構造を採用した。速度を重視した翼面荷重236.8kg/屬箸い高翼面荷重の機体でこれは当時の日本の単発戦闘機中最大のものであった。武装は30mm機関砲(ホ155)2門(弾数各100発)、20mm(ホ5)2門(弾数各200発)で主翼に装備された。

 予定では1945年2月には試作1号機が完成することになっていたが、作業の遅れにより7月20日、試作1号機が完成した。8月6日には地上運転が開始され、8月18日には初飛行の予定であったが終戦のため中止となった。

 

生産数

 キ94兇了邵邉,1機のみ完成した他、完成直前の2号機があった。

 

まとめ

 

 キ94は立川飛行機が16年振りに開発した戦闘機であった。立川飛行機は以前から与圧室の研究には一日の長があり、高高度戦闘機の製作には適していたといえる。高高度戦闘機はB29による空襲の可能性が高まるにつれて重要性が増し、陸海軍共に様々な機体が開発されたが、同じような機体があまりに多いことは大きな問題である。陸海軍が協力して機種を絞って開発を行っていれば高性能な機体が大量に実戦配備されたであろう。そうならなかったのが残念である。

 

 キ94と同じハ211ルを装備したキ83

 海軍の双胴高高度戦闘機

 

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01_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機秋水とは、太平洋戦争末期に日本陸海軍によって計画されたロケット戦闘機である。開発は三菱重工でドイツのMe163の設計を元としているが、設計図の一部しか日本には届かなかったため独自開発の部分が多い。1号機は1945年7月に初飛行をしたが上昇中にエンジン停止、滑空の後に大破した。2回目の飛行を準備中に終戦となる。

 

局地戦闘機 秋水 〜概要〜

 

性能

全幅 9.5m
全長 5.95m
全高 2.7m
自重 1,445kg
最大速度 800km/h(高度10,000m)※(900km/h説もあり)
上昇力 10,000mまで3分30秒
上昇限度  - m
エンジン出力 推力1,500kg(特呂二号)
航続距離 高度10,000mまで全力上昇後、800km/hで1分15秒
乗員 1名
武装 30mm機銃2挺
設計・開発 高橋己治郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

02_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 ドイツで実用化されたロケット戦闘機Me163コメートの資料を遣独潜水艦によって入手した日本軍は、陸海軍共同で開発を開始することを決定した。設計方針の違いから意見が対立したものの結局、海軍名秋水、陸軍試作機番号キ200として三菱重工によって開発することとなった。

 1944年8月7日、陸海軍は三菱重工に対して試作機の開発を正式に指示した。これに対して三菱重工は高橋己治郎技師を設計主務者として開発を開始した。資料がドイツから届いたといっても届いた資料は簡単な図面と設計説明書等、ごくわずかであったが、1944年11月には設計完了、12月には試作1号機が完成した。

 形状はMe163とほとんど変わらなかったが、Me163が20mm機銃を搭載したのに対して秋水は30mm機銃を搭載したためもあって全体的に秋水よりも少しだけ大型化していた。主翼の桁、垂直尾翼は木製で胴体はジェラルミン製でセミモノコック構造、外板もジェラルミンを使用していた。

 降着装置は主車輪と尾輪、橇によって構成されており、離陸時には主車輪を使用、離陸完了と同時に投下、着陸時は橇を使用する構造になっていた。武装は30mm機銃であるが、同じ機銃であっても海軍は五式30mm機銃、陸軍は口径30mmホ155機関砲を搭載する計画であった。

 エンジンは特呂二号(海軍名「KR10」)で秋水の開発以前から研究されていたもので水素に水化ヒドラジンとメタノールの混合液を反応させ高温高速ガスを発生させるというものであった。開発の中心になったのは三菱の持田勇吉技師であったが、開発を主導していたのは陸軍で海軍空技廠の技術も必要という複雑な中での開発であった。試作機の完成と同時にエンジンも完成するはずであったが、未知の分野であり資料も乏しかったため開発が難航、完成は1945年6月になった。

 

練習用グライダー秋草

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 この秋水の搭乗員訓練用に実物と同じ大きさ、形状のグライダーも製作された。これは無尾翼滑空機秋草(MXY8。陸軍名「ク13」)で1944年12月26日に初飛行に成功している。この初飛行は高度3,000mまで航空機により曳航されたのち切り離されるというものでテストパイロットは秋水のテストパイロットでもある犬塚豊彦大尉で、犬塚大尉の操縦により無事に着陸に成功した。

 さらには重滑空機と呼ばれる実機から動力装置、タンク類、兵装等を取り除いた機体で2機が製作され陸海軍に各1機引き渡された。初飛行は、1945年1月8日に犬塚大尉の手によって行われた。高度1,700mまで曳航された後、滑空しながら無事に着陸した。陸軍でもク13(海軍名「秋草」)や重滑空機の試験を行っていたが、1945年8月10日、訓練中の事故により機体は大破、搭乗員は重傷を負った。

 秋水の初飛行は1945年7月7日で滑空機と同じく犬塚大尉の手によって行われたが、上昇中にエンジンが停止、飛行場に滑り込むことには成功したものの機体は大破、犬塚大尉は重傷、翌日に死亡した。原因は燃料を1/3に減らした状態で試験を行ったため、上昇中に機体の姿勢と加速の関係で燃料取り出し口に燃料が入らなくなってしまったことであった。この燃料を1/3に減らしたのは秋水部隊である312空司令柴田武雄大佐が傾倒していた新興宗教による「お告げ」が原因であったとも言われている。

 

 

キ202 秋水改(計画のみ)

 秋水(キ200)の航続時間延長型である。全体的に秋水よりも一回り大きく、エンジンは特呂三号液体燃料ロケットで最大飛行時間が秋水の6分36秒から10分28秒に増大していたが、実現さえることなく計画のみで終わった。他にも武装を30mm1挺、車輪を廃してカタパルト発射式としたJ8M2等も計画されていた。

 

生産数

 試作機が2機、量産機が5機完成していた。他にも10機がほぼ完成という状態であった。終戦時には5機が残存していた。内3機を米軍が接収、米国で1機のみが現存している。

 

まとめ

 

 秋水はそれまで別々に同じような性能の航空機を開発していた日本陸海軍が共同で開発した画期的な機体であった。しかし遅きに失した感はある。秋水は実用化されなかったものの、仮にされたとしても燃料の調達や整備、生産、秋水自体の安全性から見ても戦果は挙げられなかった可能性が高い。

 

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01_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式襲撃機・軍偵察機とは、1939年に初飛行した日本陸軍の襲撃機・偵察機であった。機体は堅実な設計で固定脚を採用、安定したエンジンを装備していたため本来の用途以外にも練習機や連絡機として終戦まで活躍した隠れた傑作機である。

 

九九式襲撃機・軍偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.10m
全長 9.21m
全高  - m
自重 1,873kg
最大速度 424km/h(高度3,000m)
上昇力 5,000mまで8分47秒
上昇限度 8,270m
エンジン出力 940馬力(ハ26供
航続距離 1,060km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 50kg爆弾4発または
   15kg爆弾12発
設計・開発 大木喬之助 / 三菱重工

 

軍偵と襲撃機

 襲撃機とは1938年の『航空器材研究方針』に初めて登場した区分で、敵飛行場にある飛行機や地上部隊の襲撃を主任務とする機種で、軽快で超低空飛行、急降下爆撃が可能であることが要求されていた。武装は、50kg以下の爆弾を200kg搭載できること、固定機関銃、旋回機関銃各1挺、特別装備としてガス雨下装置を搭載でき、その装置量は爆弾量の1/2以上とすることが要求されていた。ガス雨下装置とは毒ガスを空中から散布する装置のことである。

 その後、1940年の『研究方針』改定時には、襲撃機の性能の中に高速であることと単座であること、さらに特別装備であったガス雨下装置が爆弾との交換装備となった。1943年の改定ではこの項目は省略されている。因みに毒ガスは1925年のジュネーブ議定書において使用が禁止されている。この条約は1928年に発効している。日本はこの条約に署名、1970年に批准している。

 この1938年の『研究方針』以降は、軍偵察機は襲撃機と同一機種とすることが決められていた。軍偵察機とは陸軍の偵察機の区分の一つで他には直協偵察機、司令部偵察機がある。直協偵察機とは地上部隊との連携の下に偵察活動をする機種で、司令部偵察機とは戦略偵察を行う機種である。つまり「直協=近距離」「軍偵=中距離」「司偵=遠距離」と考えて良い。そして同一機種を襲撃機型と偵察機型に分ける方針が決定した。

 

開発

02_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は三菱重工に対して襲撃機の開発を内示した。1938年2月、正式に開発が指示される。これに対して三菱は大木喬之助技師を設計主務者として開発を開始した。同年12月、軍偵察機型の開発が指示されるが、これは襲撃機型に航空写真機を装備しただけのものにする計画であった。

 1939年6月には試作1号機が完成した。初飛行の結果、特に問題点は指摘されず、最高速度424km/hを記録、操縦性は良好と高評価であった。7月からは基本審査が開始、同時に増加試作機11機の製作が発注された。10月からは実用審査が開始、12月に九九式襲撃機として制式採用された(1940年5月説もあり)。

 エンジンはハ26供940馬力。海軍名「瑞星」)を採用、プロペラは2.9m3翅定速ハミルトンプロペラであった。主翼は低翼で、エンジンが小型であったため胴体はコンパクトにまとめられた。性能要求では引込脚、胴体内爆弾倉を要求していたが、1,000馬力級エンジンを採用している関係上、重量増加、機体大型化になるためこれらの要求は退けられた。武装は翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺が装備された。爆弾は50kg爆弾4発、15kg爆弾12発であった。

 軍偵型は写真機が垂直撮影用に1基、斜め撮影用に1基が装備され、偵察用窓も追加された。襲撃機型にあった防弾装置は廃止された。爆弾も軍偵は特別装備となりその量も半減されている。1943年11月以降は、火力不足から一部の機の翼内銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、さらに一部の機は旋回機銃も12.7mm機関砲に換装された。

 

生産数

 試作機2機、増加試作機11機が製作された。量産機は1940年初頭から1943年末まで生産が行われ、1944年以降は立川陸軍航空工廠で生産が行われた。三菱では試作機も含め1,472機、立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産された。襲撃機型、軍偵型併せ総生産数は2,385機である。

 

まとめ

 

 九九式襲撃機は大戦後半になると爆弾搭載量の少なさや速度の遅さから旧式化が否めなかったが、不整地でも離着陸できる固定脚に堅実な設計と操縦性能、運動性能の良さから汎用性が高く、終戦まで練習機や連絡機、要人輸送機としても使用された。

 

 

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01_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式双軽爆撃機とは、1939年に制式採用された日本陸軍の双発軽爆撃機である。航続距離、爆弾搭載量こそは少なかったものの、速度、運動性能は抜群であり太平洋戦争終戦まで活躍した。双発爆撃機でありながら急降下爆撃も可能であり汎用性の高い機体であった。

 

九九式双軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 17.47m
全長 12.88m
全高 4.32m
自重 4,550kg
最大速度 505km/h(高度5,600m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 10,100m
エンジン出力 1130馬力2基
航続距離 2,400km
武装 7.92mm連装機銃1挺、7.92mm機銃2門挺
爆弾搭載量 300〜500kg
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

陸軍爆撃機が航続距離が短く爆弾搭載量が少ない理由

 日本陸軍の爆撃機は、航続距離が短く爆弾搭載量が少ない機体が多い。これは、地上部隊との協同が主な任務であったことやソビエトを仮想敵国としていたことから国境付近に展開している敵を攻撃することが主眼となっていたためであった。地上部隊との協同、国境付近の敵への攻撃には長距離を飛行する必要がなく、頻繁に往復することが可能であるため爆弾搭載量も少なくても問題無かった。むしろ敵戦闘機に対抗するために運動性能、速度が重視された結果であった。

 

開発

02_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月末、陸軍は、旧式化した九三式双軽爆撃機に代わる軽爆撃機キ48の開発を川崎航空機に指示した。これを受けた川崎航空機は、のちに二式複戦屠龍や三式戦闘機飛燕の開発で有名になる土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。

 エンジンはハ25(1,000馬力。海軍名「栄」)を搭載。プロペラは直径2.8m3翅プロペラを採用、爆弾は全弾胴体内に収納できるよう設計されていた。爆弾倉の扉はそれまでの単純な左右に開く方式だと機体の安定が悪く、命中率が低下していた。そこでキ48では爆弾扉は二重繰り上げ方式という独自の方式を採用していた。機銃は7.7mm機銃で後上方に連装1基、前方、後下方に1挺の合計4挺が設置された(後期生産型では7.92mm機銃)。脚は引込脚を採用し、尾輪も引込式であった。

 1939年4月に設計完了、同年7月上旬には試作1号機が完成した。8月から基本審査、11月から実用審査が行われた。最大速度は480km/h(高度3,500m)、5,000mまでの上昇時間が9分、実用上昇限度は9,500m、航続距離が2,400kmという圧倒的な高性能を示した。このため審査は順調に進み、爆撃審査では苦心して開発した二重繰り上げ方式爆弾扉の効果で命中率は90%近かった。増加試作機も発注され、1940年5月11日に九九式1型双軽爆撃機として制式採用された。

 

2型甲

 1940年6月、エンジンを二速過給器付きハ115(1,130馬力。海軍名「栄21型」)に換装した性能向上型の設計を開始した。設計は1941年2月に完了したがエンジンの製作が遅延していたため試作機の完成は遅れ、1年後の1942年2月に試作1号機が完成した。最大速度は25km/h向上した他、武装も強化され、機銃の数は変わらなかったが、口径は7.7mmから7.92mm機銃に変更された。搭載爆弾もそれまでの100kg爆弾から250kg爆弾の搭載が可能となった。1943年2月、九九式2型双軽爆撃機として制式採用された。

 

2型乙

 キ66用に開発された制動板(急降下爆撃時に機体の速度を落とすための板)を装着した急降下爆撃機型で搭載爆弾も500kg爆弾の搭載が可能となった。九九式2型双軽爆撃機乙型として制式採用された。この乙型は制動板以外にも急降下爆撃用に各所に改良が加えられている。乙型をベースに後上方機銃を12.7mm機関砲に改修、機首側面に7.92mm機銃が追加された2型丙も製作されている。

 

生産数

 1型試作機は4機、増加試作機5機、量産機が557機生産されている。2型試作機は3機、2型甲は1942年4月から1944年10月まで550機が生産されている。乙型が1943年5月から1944年10月まで858機が生産されている。総生産数は1,977機である。

 

まとめ

 

 九九式双軽爆撃機は、速度と軽快な運動性能が特徴の爆撃機であったが、爆弾搭載量は少なく防弾装備がなかったため米軍からの評価は低い。大戦中盤には旧式化が目立つようになっていったが、この時期の航空機の発達速度からいえば仕方が無かったのかもしれない。

 

 

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