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重爆撃機

01_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式重爆飛龍は三菱重工が開発した航続重爆で、最高速度537km/h、航続距離3,800kmであった。軽量コンパクトにまとめられた機体は、のちに雷撃機にも改造され1944年の実戦配備以来、終戦まで戦い続けた。日本が生んだ最高傑作機の一つである。

 

四式重爆撃機 飛龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 22.5m
全長 18.7m
全高 5.6m
自重 8,649kg
最大速度 537km/h(高度6,090m)
上昇力 6,000mまで14分30秒
上昇限度 9,470m
エンジン出力 2,000馬力(2基)
航続距離 3,800km
武装 20mm機関砲1門、12.7mm機関砲4門
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾3発または
   50kg爆弾15発
設計・開発 小沢久之丞 / 三菱重工

 

開発

02_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ49(九七式重爆)の後継機の開発を指向する陸軍は、1939年12月、三菱重工に対してキ67の開発を内示した。これに対して三菱は小沢久之丞技師を設計主務者として研究を開始、1940年9月に試作が内示、1941年2月に正式に試作が指示された。

 試作を命じられた三菱側は、完成した航空機が得てして当初の指示にはない使い方をされることを念頭に性能要求では500kgとなっている爆弾搭載量も最大で800kg搭載できるようにする等、余裕を持った設計が行われた。さらには目玉としては急降下爆撃、超低空飛行が可能なことなどがあった。

 

試作機完成

 1942年12月に試作1号機が完成する。初飛行は12月27日で翌年には試作2号機、3号機も完成、初飛行を行った。完成したキ67は海軍の一式陸攻に比べると小型コンパクトにまとめられていた。エンジンは信頼性の高いハ104(1,900馬力)でプロペラは直径3.6mの4翅プロペラを採用した。

 燃料タンクは、胴体内燃料タンクは装甲板や厚いゴム被膜で防弾しており、翼内タンクは下面がセミ・インレグラルタンク(燃料タンクがそのまま外板になっている構造。)となっており、被弾した際には燃料が自動的に下方に流れ出て火災を防ぐように設計されていた。機銃は5ヶ所で、前方、後上方、尾部、両側面が12.7mm機関砲(ホ103)が装備、死角が無くなるように視界が広く取られた。

 最高速度は537km/hで安定性不良、プロペラの不調、タイヤのパンク等が問題点として指摘されていたが、一つ一つ解消していった。ただ、プロペラの不調に関しては電気系統のトラブルが原因で、電気系統に弱い当時の日本では最後まで手を焼いた。1943年2月には17機の増加試作機が発注され、1944年2月までの間に完成した。この増加試作機で後上方機銃が20mm機関砲(ホ5)に変更され、以後、量産機の標準となった。制式採用は1944年8月であったが、生産は同年初頭には開始されており、3月には量産1号機が完成している。

 生産451号機以降は尾部銃座が連装銃架となり1型乙と呼ばれた。これに伴い20号機(試作機が20機存在するため生産1号機)から100号機までが1型、101〜450号機までが1型甲と呼ばれた。

 

雷撃機化

 1943年12月、陸軍は、三菱に対してキ67を雷撃機改修を内示、1944年1月5日に正式に改修が指示された。差し当たり17、18号機の2機が改修されたが、結果は極めて良好であり、陸軍は17号機以降全機に雷撃装備を施すことが決定した。さらに追加装備として電波警戒器タキ1供超低空用電波高度計タキ1靴鯀備していた。

 

2型、1型改

03_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月よりキ67のエンジンをハ214(2,350馬力)に換装するという研究が開始された。そして1943年9月に1型にハ214を搭載、試験を行った。1945年1月12日、キ67、2型の試作が指示されたが設計中に終戦となった。さらに1型に排気タービン付きハ104ルに換装した1型改も2機製作されたが、最大速度は545〜551km/hと大して向上しなかったため試作のみで終わった。

 

キ109特殊防空戦闘機

 キ109はキ67の防空戦闘機型で、1943年11月20日に試作が指示されている。これは75mm高射砲を装備した特殊防空戦闘機で、小沢久之丞技師を設計主務者として開発を開始、1944年8月末に試作1号機が完成している。テストの結果、操縦性、運動性は良好であり、75mm砲の命中率も高いため早速44機の緊急生産が命令された。

 しかし、1944年11月、実際に2機の試作機で来襲したB29を迎撃したところ、高空性能不足で有効射程に入れなかった。このため軽量化と空気抵抗の低減が行われたが、結局、期待した性能には達しなかった。試作機2機、量産機20機が生産されている。

 

その他試作機

 1944年2月には滑空機曳航装置を装備した型、5月には四式自動爆撃照準器と自動操縦装置を連携させる実験機が製作された。8月には機上サーチライトを装備した実験機が完成している。同月、イ号1型甲空対艦無線誘導ミサイル母機型と体当たり攻撃用ト号機の試作が指示されている。イ号母機は1944年10月に1号機が完成、12月までに全10機が納入されている。

 ト号機は銃座を全て廃し、800kg爆弾2発を搭載した型で15機が製作された。1945年2月にはキ167櫻弾装備特攻機の試作が指示されている。ト号同様、銃座は全て廃されている。試作2機の他、小数機が改修され実戦で使用されている。尚、キ167という計画番号は非公式。

 1945年7月には長距離襲撃機型、特殊航続延長機型が計画されている。特殊航続延長機型は両翼端を75cm延長し、燃料タンクを増設、さらに翼下に落下タンクを各1個装備、武装は尾部の機関砲のみとした機体で、長距離襲撃機型は20mm機関砲を胴体下面に4門、尾部に1門、機首に1門装備することを予定したものであったが、どちらも完成することなく終戦を迎えた。他にも、キ67を輸送機化したキ97輸送機は、1943年2月に試作指示が出たが、1944年9月に開発中止となった。全木製重爆キ112、重爆掩護機キ69が計画されたがいずれも計画のみで終わっている。他にも重爆指揮官機型も計画されていた。

 

生産数

 生産は、三菱名古屋製作所が564機(試作機含む)、熊本製作所が42機、川崎航空機が91機の合計697機が完成している(635機説あり)。

 

戦歴

 1944年5月、四式重爆は豊橋で訓練中の飛行第98戦隊に配備された。この戦隊は陸軍初の雷撃隊で、1944年2月より海軍761空の指揮下に入り、3ヶ月にわたって雷撃の訓練を行っていた部隊であり、四式重爆を配備された98戦隊は同機での訓練を開始、8月に海軍でT攻撃部隊が編成されると98戦隊も同部隊に加えられた。この時点で98戦隊の隊員は暗夜行動可能27組、月明時夜間行動可能5組とかなりの練度にまで達してた。

 四式重爆の初出撃は、1944年10月12日夜で、台湾より98戦隊の四式重爆20機が出撃したものの、1機は離陸に失敗、19機が索敵攻撃に出撃したものの敵機動部隊を発見することができずにバラバラに帰還、台湾にたどり着けたのは8機、中国大陸への不時着3機、行方不明8機という大損害を出してしまった。続く13日の攻撃では16機が出撃、1機以外は全て不時着・未帰還となり98戦隊の可動機はわずか2機となってしまった。同月、浜松では四式重爆を装備した飛行第110戦隊が編成、同月下旬には特攻機であるト号機装備の富嶽隊が編成(翌月全機が突入戦死)、11月には新たに特殊防空戦闘機型のキ109を装備する107戦隊が編成された他、60戦隊も四式重爆に改変されており、1945年1月には61戦隊、2月には62戦隊が四式重爆への改変を行っている。

 7戦隊も四式重爆を装備した部隊で98戦隊同様、雷撃訓練を受けた部隊であったが、この戦隊も98戦隊と同じくT攻撃部隊に編入されたものの台湾沖航空戦には参加せず、11月には比島に進出、数度の攻撃に参加した後内地へ帰還したのち、12月には新編の110戦隊と共にサイパン攻撃を行っている。1945年2月には米軍の硫黄島攻略作戦に際して60戦隊、110戦隊が米艦船攻撃を行っており、3月の沖縄侵攻では7戦隊、60戦隊、62戦隊、98戦隊、110戦隊が沖縄決戦に参加している他、1月に四式重爆に改変した61戦隊が蘭印方面で活躍している。

 

まとめ

 

 四式重爆は性能が高く、操縦性、運動性能も良かったため多くのバリエーションが考案された。しかし登場したのが太平洋戦争後半であり、生産数も少なかったため戦局を覆すほどの活躍は出来なかったが、1944年秋の実戦投入以来、多くの戦場で活躍した傑作機であった。

 

 

 

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01_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍は、戦闘機の援護を不要とすることを目的に設計された陸軍の重爆撃機である。このため設計者も一式戦闘機隼、二式単戦鐘馗を手掛けた小山悌技師を充て開発に乗り出した。結果、九七式重爆と大差ない重爆撃機となってしまったため歴史の中に埋もれてしまった。

 

百式重爆撃機 呑龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 20.42m
全長 16.81m
全高 4.25m
自重 6,540kg
最大速度 492km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで13分39秒
上昇限度 9,300m
エンジン出力 1,520馬力2基
航続距離 2,000km(正規)
武装 20mm機関砲1門、7.92mm機銃5挺
爆装 最大750kg
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は中島飛行機に対してキ49の名称で九七式重爆の後継爆撃機の開発を指示した。性能要求は最高速度が九七式重爆の400km/h以上であったのに対して、500km/h以上、航続距離も九七式重爆の1,500〜2,100km以上に対して3,000km以上、爆弾搭載量は九七式重爆の750kgに対して1,000kgと増加していた。これに対して中島飛行機は、これまで重爆を手掛けていた松村健一技師に代わり(海軍機部門に転属)隼や鐘馗を設計した小山悌技師を設計主務者として開発を開始した。

 この設計主務者に小山技師を据えた判断は陸軍の要求が最高速度500km以上を要求する高速重爆であったため、戦闘機の設計を主に行っていた小山技師に白羽の矢が立ったものであるのだろう。その結果完成した重爆は、太い胴体に平面形の主翼というまさに戦闘機の性格を持った重爆であったと言える。

 1939年8月中旬、試作1号機が完成、本来、エンジンはハ41(1,260馬力)が搭載される予定であったが、生産が間に合わずハ5改(1,080馬力)が搭載されたが、ハ41を搭載した2号機、3号機が完成すると1号機もハ41に換装された。

 上昇力は5,000mまで14分、上昇限度は9,000m、航続距離3,400kmでほぼ要求を満たしたものであったが、最高速度は490km/h、爆弾搭載量は750kgと要求を下回っていた。武装は後上方に20mm機関砲1門、その他前面、尾部、両側面に7.7mm機銃各1挺を装備、合計6挺もの機銃を装備していた。

 1939年9月から年末にかけて基本審査が行われ、1940年1月に実用実験開始、同年8月に制式採用となるはずであったが、この時期、同時進行で開発されていた九七式重爆2型と性能がほぼ拮抗してたため問題となったが、将来の拡張性を考慮した結果、1941年3月、キ49は百式重爆として制式採用された。愛称は中島飛行機太田工場のある太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍様」から呑龍と命名された。

 

2型

03_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍の制式採用の条件が性能向上型の開発であったこともあり、1941年3月、制式採用と同時に2型の研究が開始された。2型はエンジンをハ41の発展型ハ109(1,500馬力)に換装、最高速度は492km/h、上昇力が高度5,000mまで13分39秒、実用上昇限度が9,300m、航続距離が2,000〜3,000kmと1型に比べて僅かに性能が向上していた。1943年8月、基本審査完了、1943年6月には百式重爆2型として制式採用された。

 2型甲は、武装が後上方20mm機関砲(ホ1)、前部、側面両側の機銃を7.92mm機銃に変更、さらに尾部機銃を7.92mm連装機銃とした型であった。2型乙は甲の尾部銃座を12.7mm機関砲(ホ103)に変更した型であった。この乙の一部には推力式単排気管が装備されていた。丙型は電波警戒器タキ1(レーダー)を搭載した哨戒機型で推力式単排気管を装備した型で2型の内35機が改造された。

 

3型

 エンジンをハ107(2,000馬力)またはハ107を2段2速過給器に変更したハ117(2,470馬力)に換装した型である。1941年12月に試作1号機が完成したが、エンジンの開発に手間取ったため、完成したのは1942年4月末であった。1、2号機はハ107仕様であったが、1942年8月上旬に完成した3号機はハ117仕様であった。1943年12月百式重爆3型として制式採用された。

 機体自体にも大幅な改良が加えられ、ナセル間隔の増加、脚の高さの延長、水平尾翼の面積が増加された。武装も尾部機銃が20mm機関砲に変更、後上方、後下方が12.7mm機関砲に変更、爆弾搭載量も当初の要求通りに1,000kgに増加した。同時に燃料タンクの容量も1,000L増加されている。

 性能はハ107装備機が最高速度569km/h(高度4,800m)、ハ117装備機が540km/h(高度5,500m)で、上昇力も5,000mまで10分30秒と向上したが、実用上昇限度は8,500mに低下した。この3型は制式採用は決定したもののキ67(四式重爆飛龍)の開発に重点を置くため6機が製作されたのいで終わった。

 

キ50・キ58・キ80

 キ50は空中給油機型で試作のみ行われた。キ58はキ49の機体をベースとした爆撃機直接掩護用の多座戦闘機である。胴体上面に20mm機関砲を追加、20mm機関砲5門、12.7mm機関砲3門を装備していた。3機が試作されたのみで終わった。キ80は同じくキ49の機体をベースとした空中式用の機体で2機が試作された。

 

生産数

 百式重爆は合計819機(または832機、796機)が生産された。

 

戦歴

 最初に百式重爆が実戦配備されたのは1942年7月から8月にかけてで、配備された部隊は満洲に展開する飛行第7戦隊と第61戦隊であった。両部隊ともに九七式重爆からの改変で、改変が完了した9月には南方進出が決定、10月には7戦隊がジャワ島、61戦隊がスマトラ島に到着、海上を哨戒しつつ洋上航法や艦船攻撃の訓練を行った。

 1943年3月になると7戦隊はビルマに帰還する12戦隊に代わりスラバヤに進出するが、4月には装備機を百式重爆2型に改変するために浜松に帰還、スラバヤにはジャワ島の61戦隊が進出した。6月になると61戦隊にポートダーウィン攻撃命令が下り、一式戦闘機隼を装備する59戦隊などと共にチモール島ラウンテン飛行場に進出、数度の攻撃に参加したのち61戦隊も百式重爆2型に改変するために内地に帰還している。1943年7月になると百式重爆に改変した7戦隊が再びジャワ島に進出、さらに同月ニューギニアのブーツ東飛行場に進出、8月には7戦隊同様百式重爆2型に改変した61戦隊もニューギニアに進出したものの11月までには両戦隊ともに戦力のほとんどを失ってしまったため、1944年2月には7戦隊は人員の一部を61戦隊に転属させ内地に帰還、その後61戦隊は少数機による作戦を実施している。

 その他百式重爆を装備した戦隊であるが、1943年5月になると満洲に展開する74戦隊、95戦隊にも百式重爆が配備、1944年1月には62戦隊にも1型が配備されている。1944年2月になると満洲に展開していた74、95戦隊は内地に展開して哨戒、訓練を行ったのち9月には比島に進出、62戦隊もマレー半島に進出したのち10月には比島に進出して多くの作戦に参加、1944年12月には62戦隊、1945年1月には74戦隊、95戦隊も内地に帰還した。

 

まとめ

 

 百式重爆呑龍は傑作爆撃機九七式重爆と四式重爆撃機の間に挟まれた目立たない爆撃機で、同時期に製作された九七式重爆2型と性能はほぼ拮抗していたが、将来性を見込んで採用した機体であった。3型まで改良された時点で性能は大幅に向上したが、四式重爆の開発が始まってしまったため開発は打ち切られてしまった悲運の爆撃機であった。

 

 

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01_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式重爆は陸軍初の近代的重爆撃機であった。中島、三菱の競作であり、その採用には政治的思惑も噂されているが、性能は素晴らしく、同時期の海軍の爆撃機九六式陸攻の最高速度を100km/h以上上回った傑作爆撃機である。

 

九七式重爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(1型)

全幅 22.00m
全長 16.00m
全高 4.35m
自重 4,691kg
最大速度 432km/h(高度 -000m)
上昇力  -
上昇限度 8,600m
エンジン出力 1,080馬力
航続距離 2,500km
武装 7.7mm連装機銃1挺、7.7mm機銃3挺
爆装 最大 1,000kg
設計・開発 三菱

 

背景から開発まで

 それまでの九三式重爆の旧式化に伴い、陸軍は、新重爆の開発を計画。1935年9月、陸軍航空本部は中島飛行機、三菱、川崎に次期爆撃機の研究に着手させた。その結果、1936年2月15日、中島飛行機と三菱に試作命令が出た。この新重爆は、最大速度がそれまでの九三式重爆の200km/hに対して、一挙に400km/hの速度を要求されたことが特徴的であった。そしてこの重爆が目標としていたことはそれまでの重爆が単に地上支援が任務であったのに対して、新重爆は航空撃滅戦(敵航空機の殲滅)であった。

 

開発

02_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島、三菱に命じられた試作機の完成期限は1936年10月であったが、両社共に遅れた。1936年12月、三菱が一足早く試作機を完成させた。性能はほぼ要求値を満たしており、1937年4月末の基本審査でも大きな問題は指摘されなかった。一方の中島飛行機は1937年3月に試作1号機が完成、6月より基本審査が行われた。両社の試作機を比較すると、まずエンジンは三菱がハ6(700馬力)、中島がハ5(950馬力)であり、寸法は三菱がやや大きく、中島はスマートな流線形であった。性能はどちらも甲乙付け難く、陸軍内部においても意見が二分されてしまった。

 この結果、陸軍は三菱の機体に中島製のエンジンを装着するということで解決、1937年6月11日、三菱に対して増加試作機(キ21)の製作が指示された。この決定は、両社の優れているところだけを抽出するというものであったが、問題はここからである。三菱にはエンジンの変更と共に陸軍の指示により機体の改修が命じられた。この内容は中島製の試作機の長所を全て三菱製に反映させるというもので、案の定、完成した機体はスマートな流線形を持つ中島製試作機にそっくりな形状となった。

 これを知った中島側は、自社の設計を三菱に「横取り」されたと不満を抱き、三菱側は自社の自慢のエンジンを不採用にされたことや設計の変更をさせられたことに不満を感じた。結局、この決定は両社に不満を持たせる結果となってしまった。しかし、この陸軍の決定により九七式重爆という傑作機が生まれたというのは皮肉な話である。

 試作機1、2号機は試験のため中国戦線に投入、さらに1937年末(1938年説あり)までに製造された増加試作機6機の内、5機も戦線に投入され、これらのフィードバックを残りの1機の増加試作機に反映させる方針であった。同時にエンジンをハ5改(850馬力)に換装された量産機(1型)が三菱、中島で製作されていった。

 

1型

 1型甲は、1型よりも燃料搭載量を増大させたタイプで武装は後上方に7.7mm連装機銃、機首と後下方に7.7mm機銃各1挺の合計4挺であった。

 1938年7月20日に試作1号機が完成した1型乙は、尾部銃と側方銃(左右兼用)が各1挺追加された。以前から安定性が不十分であった上に武装強化により重心位置が後退したため水平尾翼が大型化された。燃料タンクも防弾ゴムが装備されている。最大速度は432km/h、上昇限度8,600m。

 丙型は2型へのつなぎとして製造された機体で、外翼の形状の変更、車輪の大型化、燃料搭載量の増大等が行われている。

 

2型

 エンジンをハ101(1,450馬力)に換装した機体である。1939年11月14日、試作が指示された。1型丙のエンジンをハ101に改修して各種テストを実施、1940年12月に完成した。エンジンの換装に伴いエンジンナセルの形状を変更、車輪も完全な引込脚に変更された。武装もそれまで左右兼用であった側方銃も左右に各1挺設置された。エンジンの換装により最大速度は1型の432km/hに対して478km/hと大幅に向上した。2型乙の登場により2型甲と呼ばれた。

 2型乙は後上方機銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、機銃座の風防を球形に改良された型である。2型丙は、機上電波警戒器タキ1(レーダー)を装備した機体で1944年2月中旬に試作機が完成、その後数機が生産された。2型は生産中に単排気管の装着、防弾装備の充実等が行われている。

 

輸送機型

 1型をベースに100式輸送機(キ57)として制式採用された。MC-20として民間にも転用されている。さらには貨物輸送機とされた機もあり、これはMC-21と呼ばれた。

 

生産数

 1型は、試作機2機、増加試作機6機、量産機350機が生産され、1型甲型は143機、乙型が120機、丙型が160機生産されている。1型は合計2型は1944年9月まで生産が続けられ2型甲が1,025機、2型乙が257機の合計1,282機が生産された。総生産数は試作機も含めると2,063機である。

 

戦歴

 1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により日中戦争が始まる。当時の日本陸軍が採用していた重爆は九三式重爆であったが、能力的には十分といえるものではなかった。このため1937年10月末、独立第3中隊に実用実験を兼ねて九七式重爆の試作1号機、2号機が配備、約2ヶ月の実用実験が終了した後、この2機は飛行第6大隊に引き渡された。さらに1938年6月までには大隊の全12機が九七式重爆に改変された。

 1938年8月には第6大隊は飛行第60戦隊に改編、以降、要地攻撃や地上部隊支援、さらには重慶等の奥地攻撃に活躍する。この頃になると九七式重爆は満洲の58、61戦隊、台湾の14戦隊にも配備されるようになっており、61戦隊は1939年に勃発したノモンハン事件にも参加している。このノモンハン戦の最中、九七式重爆を装備した62戦隊が誕生、さらに内地の7戦隊、1940年春には98戦隊、6月から8月の間に12戦隊が九七式重爆に改変された(1941年5月には12戦隊、98戦隊が2型へ改変されている)。

 太平洋戦争開戦時には1型丙を装備した62戦隊、12戦隊、60戦隊、98戦隊が仏印に進出、進出時に悪天候により14機を失ったものの145機が仏印に集結した。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦するとこれらの戦隊はマレー攻撃、シンガポール攻撃に参加、その後ビルマのラングーン航空撃滅戦に参加、1942年2月には98戦隊に搭乗した第一挺身団によるパレンバン油田への空挺降下が実施、3月には九七式重爆によるビルマへの航空撃滅戦が行われている。

 一方、太平洋戦争開戦時に比島攻撃に参加した14戦隊は、1943年3月2日にシンガポールから島伝いにラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加したのち、1944年3月には比島に移動した。比島には12戦隊の九七式重爆と共に第7飛行師団の指揮下に入り比島決戦に活躍した。他にも比島にはタキー1機上電波警戒機を搭載した九七式重爆二型を装備した独立飛行31中隊が哨戒部隊として参加している。

 その他の戦線では、1943年3月には58戦隊、60戦隊がインド洋の哨戒任務や中国大陸での作戦を行っており、12戦隊や14戦隊、62戦隊等も中国大陸で活躍している。1945年になると九七式重爆はすでに旧式化していたが、同年3月に始まった沖縄戦では九七式重爆が義烈空挺隊を乗せて沖縄の飛行場へ強行着陸を敢行している。

 

まとめ

 

 九七式重爆は、日中戦争のさ中に開発された重爆撃機で太平洋戦争終戦まで使用され続けた。生産中に防弾性能の強化も行われたが、連合軍爆撃機に比べれば防弾装備は無きに等しい。沖縄への特攻攻撃である義烈空挺隊の搭乗機としても有名である。戦後も少数がタイで運用されている。

 

 

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01_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 連山は太平洋戦争中期に計画、末期に完成した大型陸上攻撃機である。目的は遠距離の米軍基地を破壊するためのものであったが、試作機が完成した時点ではもはや戦局はひっ迫しており、試作機のみで生産は打ち切られた。戦後、米国でテストされたがエンジン不調のためその飛行性能は分からず仕舞いである。

 

大型陸上攻撃機 連山 〜概要〜

 

 

性能(一部計画値)

全幅 32.54m
全長 22.93m
全高 7.20m
自重 17,400kg
最大速度 593km/h(高度8,000m)
上昇力  -
上昇限度 10,200m
エンジン出力 2,000馬力4基
航続距離 3,700〜7,470km
武装 20mm機銃6挺、13mm機銃4挺
爆装 2,000kg爆弾(または魚雷)2発または
   1,500kg爆弾2発または
   800kg爆弾3発または
   250kg爆弾8発または
   60kg爆弾18発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

 

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

完成まで

 太平洋戦争開戦後、遠距離にある敵基地を攻撃する必要性に迫られた日本海軍は、長距離爆撃機の開発を計画するようになった。このため海軍は4発エンジンの大型陸上攻撃機の開発を志向、1942年12月末、大型機深山開発に実績のある中島飛行機に計画番号N-40の試作計画を内示した。内示からおよそ半年後の1943年5月、この計画は陸海空共同試作機に指定される。

 この内示を受けた中島飛行機は、試製深山と同じ松村健一技師を設計主務者に計画に着手した。そして1943年9月14日、十八試陸上攻撃機試製連山(G8N1)の試作が中島飛行機に発注された。正式な発注に前後して、8〜9月には基礎設計が完了、12月には木型審査も完了した。そして1944年9月末、試作1号機が完成、10月23日初飛行に成功した。試作内示を受けてからわずか1年10ヶ月であった。

 1944年12月29日には試作2号機が完成、1号機とともに試験が行われた。この試製連山は日本では経験の少ない4発重爆である上、戦時下という悪条件の下であったが、作業は順調に進み、失敗が非常に少なかった。これには理由がある。設計主務者の松村健一技師は、作業に失敗を減らすために発動機、プロペラ等の選定には確実性のある資料に基づいて行うことや事前の研究、実験を綿密に行うこと、計画重量を超えない等以外にも以前の航空機設計の失敗からのフィードバックや目前の計画に集中し、それ以外の「欲をかかない」ことを求めた(例えば「将来の性能向上を見越す」等)。これらの対策が試製連山を成功に導いたといえる。

 

連山の特性

 エンジンは排気タービン付の誉24型ル(2,000馬力)でプロペラは6翅にすることも考えられたが結局無難な4翅とした。翼面荷重は速度を重視した高翼面荷重(239kg/屐砲箸掘△海里燭疥ッ緡ν僂某道劵侫薀奪廚噺討个譴襯侫薀奪廚硫縞にもう一枚フラップが付くフラップを採用した。胴体は厚い外板と少数の縦通材を使用する厚板構造の真円断面で、膠着装置は当時では珍しい前車輪式膠着装置(尾輪がなく前輪と主翼下部の車輪のみで機体を支える)が採用された。

 兵装は機首の前方に13mm連装機銃、胴体上方、下方、尾部に20mm連装機銃、側方左右に13mm機銃各1挺であり、側方機銃以外は全て動力式銃架であった。爆撃兵装は爆弾の搭載量は4tで、魚雷も搭載することが可能であったが、この時期にはもう大型機による魚雷攻撃というのは非現実的なものとなっていた。

 結局、連山は4機が完成したが、1945年6月には戦局の関係から開発中止が決定する。この4機の内、3号機は空襲で大破、4号機も破損したが、1、2号機の部品を使用して4号機は修復され戦後、米国に運ばれテストされた。1946年6月に飛行テストが行われたがエンジンの不調のためテストは2回で打ち切られた。連山が全力を発揮することはついになかった。

 

バリエーション

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機4機のみの連山であったが、バリエーションは計画されていた。まず、特攻機桜花の母機として使用するために改修を加えたG8N1A、エンジンをハ43/11型ルに換装したG8N2、このG8N2を鋼製化したG8N3があった。

 

生産数

 連山は試作機6機、増加試作機10機、量産機32機が発注されていたが、1945年6月に連山の開発中止が決定してしまったため試作4号機が完成するにとどまった。連山の総生産数は試作機4機のみである。

 

まとめ

 

 連山は、深山とことなり大きな問題もなく完成した。大型陸上機の経験の少ない日本において非常に珍しいことであったが、そこには作業に関わった人々の知恵と努力があった。連山は、結局、実戦には参加せず、その能力を知られることもなく米国で廃棄されてしまったが、その技術は中島飛行機に継承されていった。

 

 

 

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