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藤田信雄

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


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零式小型水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

倉田耕一『アメリカ本土を爆撃した男』

 

倉田耕一 著
毎日ワンズ (2018/5/9)

 零式小型水偵で米本土を爆撃した搭乗員、藤田信雄中尉について書かれた本。戦後のことが中心。私の知る限りでは米本土爆撃について書かれた一番新しい本。藤田氏は戦後、米国に呼ばれ決死の覚悟で行くが、思いがけない大歓迎に感激する。その後、藤田氏は米国人との交流が始まるが、著者の思想的な「思い」が強すぎるのがちょっと残念だが、戦後の藤田氏の活動を知るには最上の本。

 

槇 幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』

 

槇 幸 著
潮書房光人新社 (2017/2/1)

 米本土爆撃を行った零式小型水偵の母艦の乗組員の記録。「世界で唯一の米本土爆撃」を母艦側から見た貴重な記録。著者の槇氏は知性が高く、冷静に物事を観察している。乗艦中もこまめに日記を付けており艦内の生活が細かく描かれている。伊25潜は米本土爆撃を行った飛行機の母艦である以外にも日本で唯一ソビエト潜水艦を撃沈した艦という側面もある。撃沈した時に同じ潜水艦乗りとして素直に喜べない複雑な心理も描かれている。貴重な記録であり良書でもある。

 

槇 幸『潜水艦気質よもやま物語』

 

 同じく槇氏の著書。『伊25〜』に対してこちらはエッセイ風の内容。潜水艦乗りのエピソードが数十の短編としてまとめられている。米本土爆撃についての記載もある。太平洋戦争を生き抜いた貴重なベテラン潜水艦乗りである著者の貴重な記録。潜水艦特有の恐怖や大型艦に比べ潜水艦は高級軍人も一兵卒も一蓮托生の環境にあるため一体となって和気あいあいとしているなど実際に乗艦した人でなければ分からないエピソードが満載。

 

秦郁彦『太平洋戦争航空史話』上

 

秦郁彦 著
中央公論社 (1995/7/1)

 航空史家の秦郁彦氏が米本土爆撃について書いたもの。米本土爆撃について書かれているのは一つの章だけだが、専門家の調査であるので信頼性は高い。内容も客観的に書かれている。今回紹介した本の中で米本土爆撃の計画から実行、その後まで最も詳細に描かれている。他にも38機を撃墜したアメリカ軍2位のエースマクガイアを撃墜した日本のパイロットは誰かという話やあまり知られていないが、太平洋戦争に参戦していたリンドバーグについて等、気になる航空史のエピソードが多く書かれている。

 

藤田信雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01

 

toratoratora1

 

 米本土爆撃を行った藤田氏自身の手記。複数の手記をまとめた本で藤田氏の手記はその中の一つに過ぎないが、三段組30ページにわたってぎっしりと書かれているので内容は濃い。米本土爆撃以外の自身の潜偵搭乗員としての経験についても詳細に書かれている。潜偵による偵察は、偵察終了後、母艦に戻る際に母艦を発見できること、敵がいないこと、海面が穏やかなことなど複数の条件が重なって初めて母艦に回収されるという。潜偵による偵察任務がどれほど危険なのか良く分かる。他にも著名な撃墜王赤松貞明中尉の手記などもあり貴重。今では入手が困難な書籍なので古本を見つけたら取りあえず購入することをお勧めする。

 

まとめ

 

 今回紹介した書籍はそれぞれ違った面から米本土爆撃にアプローチしているため全部を読むとかなり立体的に米本土爆撃作戦を理解することができる。藤田氏の手記は入手困難かもしれないが他の本は比較的入手しやすい。作戦の詳細、そこに関わった人々、そして戦後と単に「世界で唯一の米本土爆撃」という記録だけでない物語が多くあることが分かる。

 


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『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー第1巻
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

 この本はもう絶版になって久しい本だ。出版されたのは1967年。まだ太平洋戦争が終わってから22年しか経っていない。終戦時20歳だった人もまだ42歳の働き盛りです。その時代の記録なので結構貴重ですね。実はこの本は編集されたものなので記事の初出はもっと早いです。全ての記事の初出は分かりませんが、岩下泉蔵「硫黄島特攻援護記」は昭和29年に初めて出版されています。

 1956年に「もはや戦後ではない」という言葉が流行しましたが、本書の記事が出版された時代は戦後9年目、上記のフレーズが流行る2年前です。1951年にサンフランシスコ講和条約の締結により日本は独立を回復し、1952年GHQの占領が終了します。その2年後に書かれた記事なので史料としてもかなり貴重なものですね。戦後に1冊30円で出されていた読み切りの各記事をまとめ、シリーズとして全24冊が出版されました。本書はその第1巻です。

 

目次

 

  1. 金沢秀利「空母飛龍と共に」
  2. 山川新作「急降下爆撃隊戦記」
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」
  4. 藤田信雄「米本土爆撃記」
  5. 椿恵之「特攻天剣隊記」
  6. 足立次郎他「神雷部隊記」
  7. 岩下泉蔵「硫黄島特攻援護記」
  8. 羽切松雄「新兵器実験記」
  9. 木村八郎「空母を求めて」
  10. 森下久「戦艦大和と共に」

 

 本書の中で私がもっとも読みたかったのは、赤松貞明「日本撃墜王」だ。赤松氏はやたら人気があるようでwikipediaに異常に長い記事がある伝説の搭乗員だ。その赤松氏の貴重な手記である。この記事はある意味伝説の記事だ。赤松氏が言うには本人の撃墜数は350機で世界記録だという。日中戦争ですでに240機を撃墜していたとか。もちろん実際に240機を撃墜したら中国空軍は赤松氏一人で壊滅だ。

 しかし坂井三郎氏によると、エースと言われる人は有言実行型であり、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたという(坂井三郎『零戦の運命』下P162)。日本のトップエースと言われる岩本徹三中尉も「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷を広げていた」という(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』P272)。

 実際、赤松氏も戦争末期、格闘戦では不利と言われる雷電でP51の75機編隊に単機で突入し1機を撃墜しており、これは戦後の調査で証明されている(ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』P88)。伝説の南郷少佐を非常に高く評価していたり、当時の新聞記事の撃墜百機座談会などの引用があり、参加者に新人時代の岩本徹三三空曹や尾関行治一空曹等、のちに太平洋戦争で活躍する搭乗員の名前があったりと面白い。

 他にも世界でたった一人米本土爆撃をした藤田信雄中尉の回顧録もある。さらに戦艦大和の乗組員の手記や艦爆、艦攻搭乗員等貴重な記録が多く載せられている。羽切松雄氏や金沢秀利氏は著書があるがその他の手記はなかなか読むことができないものだ。随分前に買った本だが良い買い物をしたのだ。

 

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槇 幸 著
潮書房光人新社 (2017/2/1)

 

 書評では初めての潜水艦戦記だ。このブログの【書評】という書き方だけど、私は今ひとつ気に入らない。何となくどのブログも【書評】と書いているので【書評】と書いてしまったが、私は感想を書いているだけでその本を「評価」したり「論評」したりしている訳ではない。まあ、それはいいとして、本書は伝説の潜水艦伊25号の航海記である。伝説というのはこの伊25号搭載の零式小型水偵が世界で唯一アメリカ本土を爆撃したからである。

 伊25号は開戦直前の1941年10月に就役した最新鋭艦である。開戦時には真珠湾に配備される。その後、アメリカ本土に接近し、さらにクェゼリン環礁で補給を受けそのままシドニーの偵察を行うという地球を股に掛けた活躍をする。世界で唯一アメリカ本土を爆撃した航空機を発進させた母艦であり、最後にアメリカ本土に砲撃をした艦艇であり、日本で唯一ソビエトの潜水艦を撃沈した艦である。

 因みにソビエトとは当時中立条約を結んでおり、条約違反ではあるが、アメリカ本土付近にいたという事実を隠蔽するためにこの事件は闇に葬られたはずだ。そのソビエト潜水艦が圧壊していく音を聴いて伊25号の乗組員達は自分達と重ね合わせ素直に喜べなかったという。

 クェゼリン環礁では日露戦争から太平洋戦争まで現役で活躍し続けた敷設艦「常磐」を目の当たりにする。敷設艦常磐であるが、その後も戦闘を生き延び、大湊で大破はしたものの撃沈されることなく終戦を迎えた。

 著者の槇氏は向学心が強く、戦争中も日記を書き読書をしていたという珍しい人だ。本書もその日記を参照しながら書いているので緊迫感が伝わってくる。米本土爆撃の時に零式小型水偵を収容した直後にB17三機に爆撃された状況等はすごい緊迫感である。

 著者は知識人であるだけに「国力の関係から日本が長い戦争は出来ない」ことや、ミッドウェー海戦について冷静な分析をしている。本書で一番感じたのは潜水艦乗りが制裁やいじめがなく、和気あいあいと任務を遂行している姿だ。日本海軍は小型艦艇になるほどいじめが無くなるというが、潜水艦とはその最たるものだろう。

 威張っていても爆弾一発で全員死んでしまうという気持ちがあったのかもしれない。士官、下士官、兵という垣根もあまりなかったようである。そして艦長をみんながすごく尊敬しているのが印象的であった。その伊25潜も昭和18年9月に南太平洋に消えていった。。。

 

 本当に良い本に出合った。

 

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倉田耕一 著
毎日ワンズ (2018/5/9)

 

 藤田氏を知る人はあまり多くはないだろう。昔一度テレビに出演したがそれを知らなければ恐らく戦史に詳しい人以外は知らない人だと思う。藤田氏は世界で唯一「アメリカ本土を爆撃した男」なのである。どうやったかというと、当時、日本は世界で唯一(たぶん)潜水艦に航空機を搭載していた。その航空機=零式小型水偵に爆弾を搭載し、潜水艦でアメリカ西海岸まで行き、そこから発進、森林地帯を爆撃したのだ。

 藤田氏は昭和7年に海兵団入団、昭和8年2月に第20期操縦練習生に採用され、同年7月に水上機操縦課程を修了した。太平洋戦争が始まった頃は操縦歴8年を超えるベテランであった。文章で書くと簡単だが、実際は大変な任務だ。日本の潜水艦が西海岸まで行くというのは、太平洋戦争初期であればそれほど難しくなかっただろう(まあ、以後と比べてね)。しかし潜水艦から発進してアメリカの防空網をかいくぐって爆弾を投下する。

 さらに海上にある点のような潜水艦を発見して帰投する。もちろん潜水艦は電波などは出さない。発見するだけでも困難なのであるが、発見出来たとしても天候次第では着水することはできない。天候が良かったとしても敵機に発見されていればむろん帰還することはできない。

 米本土を爆撃し帰還したというのは奇跡に近い。それを成し遂げた人なのである。本書は藤田氏が戦後育て上げた会社が倒産するところから始まる。その後、アメリカの招聘によりアメリカに行くのだが、内容は戦後の話がほとんどだ。戦記物の手に汗握るような迫力の描写を期待しているとちょっと肩透かしを食らうかもしれない。アメリカ爆撃時の話はほんのちょっとだ。

 私はむしろ世界で唯一アメリカ本土を爆撃した男のその後が知りたかったので良かった。こういう本の構成もありだろう。藤田氏が報復されると思い覚悟して行った米国。大歓迎され、自決用に持って行った日本刀を寄贈したこと、自費でアメリカの高校生をつくば万博に招待したこと、それに対してアメリカ大統領からホワイトハウスに掲揚されていた国旗を送られたこと等、興味深かった。

 アメリカ人の大らかさを感じるが、穿った見方をすれば、結局、藤田氏は森林に爆弾を投下しただけで、実際にアメリカに被害は与えていない。だからこその大らかさと言えなくもない。風船爆弾は実際に1000発が米本土に到達し、人的な被害も出した。その設計者にアメリカ大統領は星条旗を送れるか。逆に東京大空襲を行った米軍パイロットに日本の総理大臣が国旗を送れるか。

 本書で著者がもっとも訴えたかったことは藤田氏の功績や人柄ではない。要するに「被害国のアメリカですら藤田氏を英雄として扱ったのに日本は何もしなかった」ということを主張したいのだ。しかし、藤田氏はそもそも「英雄」として扱われたかったのだろうか。著者はどうも藤田氏には直接取材はしていないようだし、藤田氏はもう他界されてしまっている。本書は著者の「思い」が強すぎる気がする。

 

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