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蒼龍

赤松貞明
(画像はwikipediaより転載)

 

 赤松貞明中尉は、太平洋戦争全期間で活躍した主要な搭乗員達が10代後半から20代前半で開戦を迎えていたのに対して、戦闘機搭乗員としては薹(とう)が立った31歳であり、彼らの教官クラスの教官クラスと言っていいほどの搭乗員である。それだけに腕は確かであり、豪放磊落で多彩なエピソードを持っている海軍航空隊の中でも有名な男だった。総撃墜数は27機前後と推定され、内11機が日中戦争での戦果である(秦P183)。総飛行時間6000時間。武道の達人でもあった。

 

赤松貞明の経歴

 

そこそこ詳しい経歴

 1910年7月高知県生まれ。1928年6月佐世保海兵団入団。1931年3月第17期操縦練習生(操練)を卒業した後、赤城、龍驤、加賀乗組を経て横須賀、大村各航空隊に配属される。1937年12月には、13空に配属され、中支戦線に出動。1938年9月に蒼竜乗組。太平洋戦争開戦時は、台湾の第3航空隊に所属していた。開戦後は、3空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、1942年5月本土に帰還する。内地で教員勤務の後、1943年7月331空に異動した。カルカッタ攻撃等で活躍したのち本土に帰還。1944年3月に開隊した302空に異動、終戦まで302空隊員として本土防空戦に活躍した(秦P183、サカイダP86)。

 ものの本には、赤松貞明中尉は「戦闘機隊の古豪」とあるが、まさに古豪という言葉ばぴったりの人物だ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争で名を馳せた著名なパイロットでは、岩本徹三中尉が操練34期、坂井三郎中尉が38期、原田要中尉が35期と出身期が桁違いに若い。これらの搭乗員の年齢と比べても6歳も年長である。

 赤松中尉が卒業した操練とは基本的に水兵から選抜された隊員が航空機搭乗員として訓練を受けるコースで、赤松貞明が操練を修了したのは1931年、岩本徹三などが操練を終了したのは1936年から1937年なので5年以上の経験の差がある。5年というと大したことが無いように感じるかもしれないが、異常に体力と精神力を使うパイロットの4年というのは通常の人とは異なる。

 

 

日本ニュース254号 5:01熱弁をふるっているおじさんが赤松中尉

 

撃墜350機の超超超エース!

 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機であるが、赤松自身は自身の手記では日中戦争時の撃墜数を242〜243機と主張している。これは記録に残っていると書いてあるが無論記録には残っていない。そして太平洋戦争まで含めると赤松自身の主張する撃墜数は何と350機である。これもまたタイトルには「撃墜350機の世界記録」と書いてあるが(赤松P105)、後半になると撃墜340機に変わってしまっている(赤松P131)。

 まぁ、人間細かい事に拘ってはいけない。海軍航空隊にその人ありと言われた赤松中尉である。撃墜数が10機程度違うことなどはどうでもよいのだ。この350機撃墜も恐らく、世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだろう。事実かどうかなどもこの際小さな問題だ。しかし残念ながら、赤松中尉は、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数はわずか百数十機程度であったという(赤松P106)。

 

大言壮語実行型

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(画像はwikipediaより転載)

 

 この話だけをみると赤松貞明中尉とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。そもそも坂井三郎中尉によると、撃墜王になるタイプの多くは、有言実行型であり、時として大言壮語実行型ですらあるという(∈箘P162)。実際、トップエースの一人で、撃墜216機を主張する搭乗員、岩本徹三中尉も「腕も立ったが口も達者だった」と小町定飛曹長に言われるほど大言壮語だった(川崎P272)。撃墜王の全てが大言壮語型だった訳ではないが、彼らは多くの戦場に立ったベテラン搭乗員であることには違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。そもそも、洋の東西問わず、豪傑なんて嘘と過剰な自己アピールだらけだ。

 赤松中尉もその例に漏れず、大袈裟に自己アピールするのだが、その空戦の腕となると尋常ではない。太平洋戦争開戦時にすでに31歳となっており、激しく体力を使う搭乗員としてはすでに旬が過ぎているはずなのだが、開戦当初から第一線で活躍、1945年5月29日には、あの万能戦闘機P51マスタングの75機編隊にこれまた格闘戦に不向きと言われる迎撃機雷電を駆りたった一人で突入、第45戦闘飛行隊のルーファス・ムーア少尉機を撃墜(サカイダP88)、さらに同年7月には同じく雷電を駆ってF6Fヘルキャットを撃墜している等(〆箘P252)、数々の武勲を挙げている実力の人なのだ。この尋常ならざる飛行機の操縦技術に関しては、戦後、赤松中尉が操縦する飛行機に同乗した横山正男上飛曹はその操縦技術の高さに舌を巻いている(横山P211)。

 

 

ベテランの空中戦

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(画像はwikipediaより転載)

 

 ベテランの空戦とはドッグファイトをやって敵機を撃墜するのではなく、それらを高空から見守り、傷付いたり、不調を来した敵機を攻撃すると言われているが(久山P124)、赤松中尉の空戦がまさにそれで後輩の零戦搭乗員坂井中尉に「空中戦で生き残り、勝ち抜くためには敵編隊の端の一番弱い奴から叩いていくのが理想と語っている(〆箘P252)。同様のことを横山上飛曹にも語っているので(横山P210)、これが赤松中尉の戦い方であると考えて良い。

 因みに上記の空戦法はトップエースの一人と言われる岩本徹三中尉も行っており、岩本中尉もこの戦法でトップエースと呼ばれるようになったようだ。しかし、この空戦法、みんなが上空に待機していたらダメな訳で、誰かドッグファイトを行う「損な役」が必要となってくるような気がする。と思っていたら、同じくトップエースの一人である西澤廣義飛曹長はまともにドッグファイトをやるタイプのようで、やはり岩本中尉の戦法が気に入らなかったらしく、岩本徹三中尉に食ってかかったこともあったようだ(神立P199、角田P358)。

 

 

雷電大好き!

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(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、赤松中尉は変人であっただけに航空機の好みもまた変わっていたようだ。赤松中尉がこよなく愛した航空機は、零戦でも紫電改でもなく、「殺人機」とまで呼ばれた局地戦闘機雷電であった。この雷電は、1944年1月頃から実戦に配備された航空機で、大型機の迎撃を主任務とするインターセプター(迎撃機)であった(伊藤P244)。二式大艇や一式陸攻等の大型機が使用する大型の火星エンジンを機首に搭載しているため高速で馬力はあるものの旋回性能は悪く、「雷電国を滅ぼす」とまで毛嫌いされており(‐福田P218)、上記の岩本中尉も雷電に対しては厳しい評価を下している(岩本P251)。

 ベテラン搭乗員に嫌われた理由は、上記の特性以外に大型のエンジンを搭載したために視界が悪く、特に着陸時に非常な注意が必要であったこともある。しかし赤松中尉はこの雷電がお気に入りだったようで、赤松中尉は、世の中にこんな傑作機はないとほれ込んでいたようだ(⊂福田P194)、さらに坂井中尉に対しても「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と語っており(〆箘P252)、雷電に相当ほれ込んでいたようだ。この雷電でP51の75機編隊に突入してP51を撃墜したり、格闘戦能力が優れたF6Fヘルキャットとドッグファイトをやり撃墜したというのだから驚きである。坂井中尉に言わせれば、雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは赤松中尉の他にいないだろうとのことだ(〆箘P252)。

 

 

こんなエピソードも。。。

05_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 但し、操縦、空戦以外では部下の結婚式に泥酔して全裸で乱入、踊り狂ったりとかなりの傑物だったようだ(亀井P85)。武道等にも卓越しており、柔道、相撲、水泳、剣道等合わせて11段の猛者であった(亀井P86。坂井中尉の記憶では15段。〆箘P251)。いわゆる豪傑型の人物で、後年、坂井三郎中尉がヘンリーサカイダ氏の取材に対して「とんでもない気分屋で、変人で、すぐに暴力を振るった」と語っていたようだが(サカイダP86)、その後、歳を重ねるごとに人格を増し、部下からも尊敬畏敬される存在となったという(∈箘P124)。

 そしてこれは全くの余談であるが、赤松中尉はけっこうな「おデブさん」であったようだ(肥田P42)。「太っている」というのは明確な基準がある訳ではないので何とも言えないが、部下であった亀井中尉も赤松中尉は太っていたと書いているので当時の感覚としては「おデブさん」であったのだろう(亀井P85)。「おデブさん」戦闘機搭乗員は他にも10機以上を撃墜した艦隊戦闘機隊のエース菊池哲生上飛曹等がいるので空戦に体形はあまり関係ないのだろう。

 

 

終戦時は徹底抗戦

 赤松中尉が所属した302空は、首都防空をに担う部隊として活躍したが、この部隊は、終戦後に戦争継続を主張、降伏を拒否したことでも有名である。302空司令の小園安名大佐は熱血漢で有名であり、開戦時は台南空副長、251空司令等を歴任している実戦派である。指揮官として以外にも斜め銃と呼ばれる機体の上方に30度程度の角度で付きだした機銃を考案したりと大きな業績のある人物であるが、熱血が災いして終戦時はちょっとした騒ぎとなった。

 結局、終戦後の抗戦は未遂に終わったが、赤松中尉も同様に徹底抗戦を主張していたようだ。302空は終戦後各地に戦争継続のビラを撒いたりしていたが、赤松中尉もまた愛機雷電に乗り、横須賀航空隊に戦争継続を訴えに来たという(坂井P35)。8月22日にはトラックに武器弾薬、食糧を満載して木曽山中に立てこもるというようなことも計画していたらしい(横山P245)。冷静に考えればトラック数台分の武器弾薬で抗戦したところで無駄なのであるが、こういった行動に出る心理というのは当時の人でなければ分からないのだろう。

 

 

プロフェッショナルの戦後

 これらの計画は実行されなかったようであるが、軍隊やパイロットが性に合っていた赤松中尉の戦後は不遇だったようだ。飛行機を奪われた赤松中尉は、アルコール依存症となり、戦友たちが資金を出し合って贈った軽飛行機も酒代捻出のため手放した。戦友たちにも見放され、高知県の小さな喫茶店の店主となったのち、1980年肺炎で死去した(秦P183)。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。

 

参考文献

  1. 秦郁彦『日本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社1975年
  2. ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー1巻今日の話題社1967年
  4. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓拗崔娘1996年
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭找軸講談社2002年
  6. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 横山正男『あこがれの予科練』旺史社2002年
  9. 伊藤進「雷電”空中殺法”厚木空の不屈の闘魂」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  10. ‐福田晧文「私の運命をかえた「愛児」雷電と共に」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  11. ⊂福田晧文『指揮官空戦記』光人社1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  14. 角田和男『零戦特攻』1994年
  15. 亀井勉『空母零戦隊』今日の話題社1979年
  16. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』光人社1999年

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

羽切松雄中尉の略歴

 

 1913年11月10日静岡県に生まれる。1932年横須賀海兵団に入団。1935年2月操練28期に採用された。8月に操練を卒業、館山空で戦闘機の延長教育を受けたのち、11月大湊空に配属、1937年10月には空母蒼龍に配属された。1938年5月には蒼龍飛行機体は中国大陸に進出、羽切三空曹は初めて実戦を経験する。1939年12月横空に異動、十二試艦戦の試験に参加。1940年8月には12空付となり、零戦隊初出撃に参加した。1941年7月筑波空教員として内地に帰還。1942年8月横空に再配属されるが、1943年7月には204空に配属、ソロモン方面に進出したが、9月24日のブイン上空の空戦で重傷を負い本土に帰還、横空に配属され、終戦まで試験と防空任務に活躍した。

 

新型機の実用試験と実戦に活躍した横空の主

 

 羽切松雄中尉は操練28期出身で同期の戦闘機専修者は14名であった。しかし戦闘機不要論の影響を受けて3名が陸攻に転科させられてしまったため11名が戦闘機に進んだ。太平洋戦争終戦を迎えれれたのは4名で、3名が事故死、3名がラバウル、不明が1名である。

 操練を卒業した羽切中尉は館山で戦闘機搭乗員としての延長教育を受けたのち、大湊空に配属された。この大湊空は耐雪、耐寒訓練を行う海軍唯一の航空隊で羽切中尉は各種試験に参加することとなった。1937年10月には空母蒼龍に配属、名指揮官で有名な横山保大尉の2番機となった。

 1938年5月には蒼龍戦闘機隊は南京に進出、羽切中尉は初めて実戦を経験する。約1年半の戦地勤務ののち1939年12月には内地に帰還、横空付となる。ここで羽切中尉は十二試艦戦の性能試験を担当することになる。この十二試艦戦とはのちの零戦である。1940年8月には12空に異動、再び戦地勤務となる。

 零戦と共に進出した羽切中尉は零戦と共に漢口に進出、8月19日の零戦初出撃に参加した。この羽切中尉の経歴の中で強烈なのが「敵飛行場強行着陸」である。これは10月4日に東山市郎空曹長、中瀬正幸一空曹、大石英男二空曹が行ったもので敵飛行場に強行着陸、直接放火しようというもので効果はほとんどなかったが、この敵中着陸は新聞で大きく報道されることとなった。

 その後も多くの空戦に参加した羽切中尉であったが、1941年7月、筑波空教員として内地に帰還した。1942年7月には飛曹長に昇進、准士官学生として准士官の基礎を学んだ後、8月には再び横空に配属された。ここで再び零戦や雷電等の各種実用実験に参加したが、零戦の荷重実験の際、8.6Gの重圧に耐えたのは脅威である。

 その羽切中尉1943年7月、204空付きを命じられラバウルに進出する。ここで羽切中尉は初めて太平洋戦争での実戦を経験する。この204空で2ヶ月間、中隊長として連日のように出撃、空戦に活躍したが、9月23日ブイン上空の空戦で右肩を被弾、重傷を負い内地に送還された。再起は不可能といわれたが、羽切中尉は驚異的な精神力でリハビリを実施、なんと半年で実戦部隊に復帰した。その後は横空で実用実験と防空任務にあたっていたが、1945年4月12日、B-29迎撃で右膝を負傷、療養中に終戦を迎えた。

 戦後は故郷の青年団長となり犯罪集団と化した青年団をまとめ上げた。これは戦場で死線を超えた羽切中尉にのみ出来た仕事であったといえる。それがきっかけとなり市議に当選、市議を4期務めた。1967年には自民党より立候補、静岡県議員となった。1983年には選挙で落選、以降は政治家を引退、1991年までトラック協会会長を務めた。前立腺がんにより1997年1月15日他界。総撃墜数は単独15機、協同撃墜10機といわれている。

 

羽切松雄中尉の関係書籍

 

大空の決戦―零戦搭乗員空戦録 (文春文庫)

羽切松雄 著
文藝春秋 (2000/12/1)

 零戦の実用実験から携わったベテラン搭乗員の羽切氏。零戦の初出撃にも参加、太平洋戦争では激戦地ラバウルで准士官でありながら中隊長として列機を率いて活躍した。本土防空戦でもB-29相手に激闘。敵飛行場強行着陸や8.6Gの重力に耐えた強心臓の持ち主。1997年に他界。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 海軍の戦闘機搭乗員へのインタビュー集。インタビュアーは神立尚紀氏。神立氏独自の人間関係から出来たといえる本でそれぞれの搭乗員の魅力をよく引き出している。登場する搭乗員は日本で初めて敵機撃墜を記録した生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男の各氏。

 

まとめ

 

 操練28期の戦闘機専修者11名の内、太平洋戦争開戦前に戦死した隊員は3名、1名は不明であるが、開戦後に戦死した隊員の内3名がソロモン方面での戦死であった。羽切中尉もソロモン方面で重傷を負っており、操練28期は太平洋戦争での戦死者がソロモン方面の3名のみであることからもソロモン方面の戦闘がどれほど過酷であったのかが分かるであろう。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

吉野俐少尉の略歴

 

 1918年2月21日千葉県に生まれる。1934年6月乙飛5期として採用される。1937年8月卒業後、1938年3月霞空での練習機課程(飛練)終了後、佐伯空で戦闘機専修教育を受ける。同年9月16日実戦部隊である大村空に配属、12空、蒼龍乗組となる。1940年10月千歳空配属で太平洋戦争開戦を迎えた。1942年2月4空に異動、ラバウル基地に進出、3月ラエ基地に進出した。4月台南空に異動。6月9日空戦中行方不明となり戦死と認定された。

 

初期のニューギニア航空戦に参加した吉野少尉

 

 吉野少尉は乙飛5期で同期の戦闘機専修者は17名で角田和男少尉、杉尾茂雄少尉、中瀬正幸少尉等著名な搭乗員が多い。太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を積み太平洋戦争開戦を迎えた最も脂の乗り切ったクラスである。同時に戦死も多く、太平洋戦争開戦1年で17名中9名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか4名という生存率23%のクラスであった。

 予科練を修了した吉野少尉は霞空で練習機課程を修了、その後佐伯空で戦闘機搭乗員としての専門教育を受ける。さらに実戦部隊でもある大村空において当時の新鋭機九六艦戦の訓練を受けた。2ヶ月程の訓練ののち、吉野少尉は同期の中瀬少尉と共に12空に配属(資料によって異なる。)、さらには母艦戦闘機隊員として蒼龍戦闘機隊を経て、1940年10月、新設された千歳空に配属。ここで太平洋戦争開戦を迎える。

 開戦数ヶ月は平穏な内南洋防空任務についていたが、1942年2月4空付きとなり、のちに「搭乗員の墓場」といわれる南東方面(ソロモン、ラバウル)に派遣された。3月にはラエ基地に進出、4月には台南空に編入された。台南空隊員としての初出撃は4月2日で6日には同方面で初撃墜を記録する。この空戦では吉野上飛曹は小隊長として参加、撃墜2機、2番機の丹二飛曹が撃墜1機を報告しているが、この空戦で実際に撃墜された機体は2機のみである。どちらが撃墜したのかは不明であるが、海軍航空隊の空戦方法から小隊長に戦果が集中するのが通常であるため2機は吉野飛曹長の戦果である可能性は高い。

 さらに4月11日にはガス・キッチンズ少尉の操縦するA-24を単独撃墜、その後もしばしば戦果を挙げるものの6月9日、クーラン・J・ジョーンズ少尉操縦のP-39によって撃墜された。総撃墜数は15機といわれている。戦後、連合軍の戦果報告書での損害を突き合わせた結果では、吉野少尉の台南空時代の戦果は3.4機となっている。このクーラン・J・ジョーンズ少尉はのちにエースとなり、戦後、台南空時代の吉野少尉の同僚である坂井三郎氏と会っている。

 

吉野俐少尉の関係書籍

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。吉野俐少尉と同期の角田氏による著作。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。吉野俐少尉の台南空時代の空戦の模様や最後の空戦についても言及されている。

 

まとめ

 

 吉野俐少尉は日中戦争で実戦経験を積んだ後、太平洋戦争に中堅搭乗員として参加。初期のニューギニア航空戦に参加した。若い搭乗員であったが、腕は非常に良く連合軍の戦闘行動報告書から調べられた撃墜戦果でも台南空屈指の戦果を挙げている。しかし6月9日、連合軍機の待ち伏せに散っていった。

 

 

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藤田怡与蔵
(画像はwikipediaより転載)

 

 藤田怡与蔵少佐は、岩本徹三、西澤廣義、坂井三郎等に比べると知名度は今一つであろう。しかし撃墜42機ともいわれるエースである。藤田は撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官であり、それも海兵66期出身という、太平洋戦争開戦前に中国戦線を経験した最後のクラスであった。それ故にもっとも使い勝手が良く、終戦まで酷使されたクラスである。

 

藤田怡与蔵少佐の経歴

 

略歴

 大正6年中国山東省に生まれる。昭和13年9月海兵66期を卒業。昭和15年6月第33期飛行学生を終了。大分空で延長教育を受ける。昭和15年11月修了し、同航空隊の教官となる。昭和16年9月蒼龍乗組。12月8日の真珠湾攻撃が初陣であった。昭和17年6月ミッドウェー海戦では共同撃墜7機を含む10機を撃墜する。内地帰還後、分隊長として飛鷹乗組。10〜12月中旬までガダルカナル航空戦に参加する。昭和18年4月には、「い」号作戦参加のため再度ラバウルに進出。6月築城空に異動。11月飛行隊長として301空に配属される。昭和19年7月飛行隊長として戦闘402飛行隊に配属。台湾沖航空戦、比島航空戦に参加。昭和20年1月内地に帰還。福知山基地で終戦を迎えた。

 

士官だからといって安全な場所にいる訳ではない

 藤田は大正6年生まれ。海兵66期出身。飛行学生を修了したのち、昭和15年11月大分航空隊戦闘機実用機教程を修了、同航空隊の教官となった。因みに教員配置は、士官は教官、下士官は教員という。その後美幌航空隊に配属され中国戦線に進出したが実戦の機会はなかったようだ。

 半年ほど勤務したのち、1941年9月、空母蒼龍乗組となる。その後真珠湾攻撃に参加、ウェーク島攻略、コロンボ空襲と機動部隊の一員として活躍する。蒼龍乗組としてミッドウェー海戦に参加、その後、ラバウル航空戦に参加する。フィリピンには341空飛行隊長として戦闘に参加、本土に帰還後は一瞬だけ343空に配属されるもすぐに601空に転属させられた。

 前述のように海兵66期は酷使された。同期で戦闘機に配属されたもの11名中生存者は5名。死亡率は54%に達する。しかし66期はこれでも生存率が高いクラスであったといえる。前期の65期は死亡率87%、後輩に当る67期も死亡率87%であった。具体的に人数でいうと66期が5名生存しているのに対して67期は3名、65期に至っては戦争を生き抜いたのは1名のみだった。

 

指揮官パイロットの役割

 このようにこのクラスの士官は絶えず最前線に駆り出され消耗していったのだ。それはともかく藤田の話に戻ろう。藤田は真珠湾攻撃で初空戦を体験して以来、小隊長として撃墜を重ねたようだ。士官搭乗員の撃墜数は少ない。なぜなら士官とは戦闘全般の状況を見ながら指揮官として部下を誘導したり指示したりする監督の役割だからだ。自分が実際に戦闘をして撃墜するという状況はあまりない。

 現に海兵59期で日中戦争から太平洋戦争の前半に零戦隊隊長として活躍した横山保中佐ですら撃墜数は5機しかない。同様に不敗の零戦隊202空の名隊長であった鈴木實も横山と同期であり、日中戦争以来のベテランであったが撃墜数は5機、零戦初空戦時の指揮官であった進藤三郎中佐に至っては撃墜数でいえば欧米でいう「エース」にすらなっていない。

 これに対して「敵機撃墜」を主任務とする同世代の下士官は20機、30機撃墜のエースがキラ星の如く輩出した。このように士官と下士官には職務に違いがあり、士官が撃墜を重ねるというのは珍しいことであった。藤田の撃墜数についてはヘンリーサカイダの著書によると42機、秦郁彦『エース列伝』によると10機以上となっている。

 

藤田怡与蔵少佐関係書籍

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

海軍兵学校73期の阿部三郎氏の著作。阿部氏は戦争後半に実戦に参加したため戦闘経験は少ないが、末期の過酷な戦場を生き残っている。タイトルの通り藤田怡与蔵少佐について詳しく書いている。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 

まとめ

 

 この藤田氏、かなり人望のある人だったようだ。最後の福知山時代の部下が藤田を評してこのように言っている。
「ざっくばらんで、きさくな人柄だが、自分の功績を一言も言ったことのない人で、なんとなく人をひきつける何かがあって、この隊長となら安心して戦いが出来るという信頼感を部下に与える人だった」

 藤田は戦後、公職追放のため職業を転々とした後、日本航空のパイロットとして世界の空を飛びまわった。日本で最初のボーイング747の機長となり1977年退職した。そして2006年肺がんのため死去した。

 

01_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 真珠湾攻撃とは、1941年12月8日に日本海軍の空母部隊、小型潜水艦が真珠湾に停泊中の艦船、軍事施設を奇襲した。これにより太平洋戦争が開戦する。合計2回攻撃を行い、戦艦を中心に多くの艦艇を行動不能にしたが、石油タンク、修理工廠は攻撃対象としなかったため攻撃は不徹底で空母を捕捉出来なかったこと合わせて、第二次攻撃をするべきであったのか否かがしばしば問題となるが、実際の諸条件を加味すれば南雲機動部隊の行動は妥当だったといえる。

 

真珠湾攻撃 〜概要〜

 

02_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の南部仏印進駐によって対日石油禁輸等の強硬措置を決定した米国に対して、日本は交渉を継続する一方、対米戦の準備も開始していた。連合艦隊は新しい兵器である航空機で真珠湾に停泊中の艦艇を行動不能とする計画を立てる。当時は一般には、航空機で戦艦を撃沈できるとは考えられておらずかなり奇抜な作戦であった。

 当時、空母は各艦隊に分散配置されていたが、真珠湾攻撃のために空母を終結、第一航空艦隊を編成した。第一航空艦隊に編入された空母は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、そして就役したばかりの翔鶴、瑞鶴の6隻であった。この艦隊は、司令官の苗字をとって南雲機動部隊とも言われる。この南雲機動部隊は、演習を偽装して別個に択捉島単冠湾に集結、11月26日に事前に調査した上で最も艦船の航行しない航路を選択して真珠湾に向かった。

 12月2日、洋上で攻撃決行の暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信、当初の計画通りに12月8日早朝、第一波攻撃隊183機が真珠湾を攻撃、同時に潜水艦によってハワイ近海まで輸送された2人乗り小型潜水艦「甲標的」5隻も真珠湾を攻撃した。続いて第二波167機が真珠湾を攻撃、これらの攻撃で米側は戦死約2,300名、航空機200機撃破、戦艦4隻、その他2隻が撃沈した他、米海軍主力戦艦のほとんどに致命的な損害を与えた。

 しかし、日本海軍が重要攻撃目標としていた空母は在泊しておらず、膨大な量の石油備蓄タンク、艦艇の修理工廠も攻撃を受けなかった。南雲機動部隊は一撃のみを行い真珠湾近海を離脱、日本本土に帰還した。日本側の損害は航空機29機である。

 

第二次攻撃は必要だったのか

 

03_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本軍の攻撃は艦艇や飛行場に集中したため膨大な量の石油タンク、修理工廠は無傷であったため攻撃後、被害を受けた艦艇の多くはすぐに引き上げられ戦争後半には戦列に加わっている。このため、これらを攻撃するために第二次攻撃を行うべきだったのか否かというのが必ずといっていいほど議論になる。これに関しては、海軍の作戦全般を統括する軍令部と連合艦隊の作戦目標のずれが指摘されている。

 軍令部が設定した真珠湾攻撃の目的とは南方資源地帯への進攻を円滑に進めるために米太平洋艦隊を一時的に無力化することであり、連合艦隊の作戦目標は艦隊を含むハワイ基地の機能を無力化することであった。これらの意見のずれは結局、最後まで統一されることはなく不明瞭で、いわば「現場任せ」の状態となっていた。このため南雲中将が一撃で戦艦部隊を無力化したのち帰還したのは軍令部の作戦目標に沿った行動であったといえる。

 むろん石油タンクや修理工廠を使用不能とするに越したことはないが、南雲機動部隊は、第一波攻撃で9機が撃墜、第二波攻撃では20機が撃墜されており、明らかに米軍の反撃体制が整備されつつあることが分かる。ここで第二次攻撃を行った場合、その損害は第一次攻撃を遥かに上回ったことは確実であり、さらには無傷の米空母部隊が攻撃してくる可能性も高かった。さらには日本軍は修理や補給というのを軽視しており作戦計画でも攻撃目標とされていなかった。これらの点も考慮すれば南雲機動部隊の行動は妥当であったと考えてよい。

 

まとめ

 

 真珠湾攻撃は、その準備から実施まで非常に緻密に計算して行われた作戦であった。作戦は参加する隊員に対しても一切知らされることなく準備され、参加部隊は演習と偽り、別々に本土から出撃していった。全参加者に攻撃目標を知らされたのは択捉島単冠湾であった。この緻密さ故に真珠湾攻撃は成功したものの、宣戦布告前の攻撃であったため卑怯なだまし討ちとして「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、国民一丸となって戦争に邁進していく。

 

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