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艦上戦闘機

01_F4F-3
(画像はF4F-3 wikipediaより転載)

 

グラマンF4Fワイルドキャット

 

 

  F4Fはグラマン社が開発した艦上戦闘機で、第二次世界大戦では前半は主力艦上戦闘機として、後半は護衛空母艦載機として全期間にわたって運用された傑作艦上戦闘機である。

 1935年、米海軍はグラマンF3F複葉機に代わる次期艦上戦闘機トライアルを行った。グラマン社は複葉機XF4F-1でこのトライアルに挑戦したものの、ライバルであるブルースター社は、全金属製単葉機F2Aを開発していた。これに対してグラマン社は複葉機であるF4F-1ではF2Aに勝てないと考え、完全に再設計、単葉のXF4F-2を開発した。初飛行は1937年9月2日で、トライアルの結果は速度ではわずかにXF4F-2が優っていたが機動性ではF2Aには及ばなかったため次期艦上戦闘機はF2Aに決定したものの、グラマン社は海軍の許可の下、継続してXF4-2の開発を続けた。そしてエンジンを新たにプラット&ホイットニーR-1830ツインワスプ二段二速過給機付きエンジンに変更、主翼のサイズも拡大するなどしたXF4-3を開発、性能でF2Aを上回ることに成功した。初飛行は1939年2月12日である。

 この時、次期艦上戦闘機に採用されたF2Aはブルースター社初の全金属戦闘機ということで生産が上手くいかず米軍への納入が滞っていたこともあり、1939年8月に海軍はXF4-3、78機の購入を決定した。1940年2月には米海軍に納入開始。1941年10月1日、F4F-3ワイルドキャットとして米海軍に制式採用された。このF4F-3は、全長8.76m、全幅11.58m、全高3.61mで離陸重量3,367kg、エンジンは1,200馬力プラット&ホイットニーR-1830-76 14気筒星型エンジンでプロペラは3翅定速プロペラであった。最高速度は533km/h、航続距離は1,360km、実用上昇限度は12,000m、翼面荷重139kgであった。武装は12.7mm機銃4挺で(1挺あたり450発)、45.4kg(100ポンド)爆弾2発、または燃料タンク2個を翼下に搭載可能であった。

 しかし空母艦載機として考えた場合、F4F-3はあまりにも大型であったため主翼を折り畳める機能を求める声が大きかった。このためF4F-3に主翼を折り畳める機能を搭載、エンジンもR-1830-86ツインワスプエンジン(1,200馬力)に変更、機銃も4挺から6挺(1挺あたり240発)に変更したF4F-4を開発。この機体は1941年4月14日に初飛行に成功している。しかし主翼の折畳装置に加え、機銃を2挺増設したために重量が増加、最高速度は512km/hに低下、上昇力も低下してしまった。さらに機銃の装弾数が1挺あたり450発から240発に減少、射撃の振動も酷くなったことからパイロットからは嫌われたようである。

 1943年になると、グラマンはF4Fの後継機であるF6Fヘルキャットの生産に専念するためにF4Fの生産を終了したが、F4F自体は小型の護衛空母に搭載するための艦載機としては十分な性能を持っていると判断されたため生産は継続されることとなった。但し、生産はグラマン社ではなく、ゼネラルモータース/イースタンエアクラフトで行われることとなり、その際に仕様も変更、評判の悪かった機銃も4挺に戻し、翼下にはロケット弾6発を搭載可能にした。これはFM-1と呼ばれるが、さらにその後、エンジンも1,350馬力R-1820-56に変更、それに合わせて機体も設計を変更したFM-2が開発された。FM-1/2の総生産数は5,280機である。

 F4Fは総生産数が7,860機に達した傑作機あったため、写真偵察用F4F-3P、F4F-7、水上機モデルのF4F-3S、エンジンを換装したF4F-5等多くのバリエーションがある。さらに米国以外でも英国海軍航空隊がマートレットとして採用している他、カナダ海軍も少数機を採用している。

 

 

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01_F2A
(画像はF2A wikipediaより転載)

 

F2Aバッファロー戦闘機

 

 F2A戦闘機とは米国ブルースター社によって製造された全金属単葉戦闘機であった。一般に「バッファロー戦闘機」と呼ばれる。1936年6月に米海軍により発注、1937年12月2日初飛行。1938年6月11日、F2A-1として米海軍に制式採用された。1939年7月には爆撃能力が付与されたエンジン出力増加の改良型のF2A-2が海軍に制式採用、1941年7月には操縦席の防弾版と自動防漏燃料タンクを装備したF2A-3が制式採用されたものの、重量の増加によって運動性能が大きく低下している。

 性能は、最終型のF2A-3で全長8.03m、全高3.66m、全幅10.67m、全備重量3,200kg、翼面荷重164.9kg/屐∈嚢眤度が517km/h、航続距離1,553km、上昇限度10,100m、エンジンは1,200馬力のライトXR-1820-40サイクロンエンジンを搭載している。武装は機首と翼内にそれぞれ12.7mm機銃2挺を装備している。1939年12月8日には、空母サラトガに所属する海軍第3戦闘航空隊(VF-3)に10機が初めて配備された他、1941年12月には第221海兵航空団(VMF-221)にF2A-3 20機が配備、ミッドウェー島防衛に活躍している。しかし全金属製戦闘機の製造経験を持たないブルースター社の製造は遅れ、その間に製造遅延対策のために採用されたグラマン社のF4Fの実戦配備方が進んでしまい、実質的にはF4Fが主力戦闘機となってしまった。さらに敵対国である日本の零戦や一式戦闘機隼に対してほぼ全ての性能で劣っていたこともあり、1942年以降は前線から引き揚げられているために米軍では目立った活躍はしていない。

 米軍以外では、英国や英連邦を構成するオーストラリア軍、ニュージーランド軍、さらにオランダがF2A陸上型をB-339、B-439の名称で購入した。英国では1939年に制式採用、クレタ島に配備されたものの、ドイツ機に太刀打ちできず極東に配備、さらにオーストラリア、ニュージーランド、オランダでも同じく極東地域に配備されている。太平洋戦争開戦後は、当初こそは善戦したものの、低性能、低稼働率から被害が続出、開戦早々に壊滅的な打撃を受けたため第一線からは引退したが、1943年11月まで一部地域の後方で運用された。

 このような中で、唯一活躍したのがフィンランドに輸出された44機で、1940年春にフィンランドに到着。旧式装備ばかりのフィンランド軍にとってはB-239(F2A-1)でも十分に高性能であり、ソビエト空軍に対してB-239 19機の損失に対して477機を撃墜、さらに別の部隊では15機の損失に対して459機を撃墜するという圧倒的な戦果を挙げている。このB-239も第二次世界大戦終了までには消耗を続け、終戦時にはわずか8機のB-239が残っているのみであった。しかし内5機は戦後も運用を続け、1948年9月まで現役であった。総生産数は517機である。現存している機体はフィンランドの中央航空博物館にある1機のみである。

 

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

 

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