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紫電改

01_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

横須賀航空隊最後の空戦

 

あまり有名ではない重爆B32

02_B32
(B32 画像はwikipediaより転載)

 

 1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送があり戦争は終了した。と思いきや、実は15日以降に飛来した米軍爆撃機B32に対する邀撃戦が行われている。このB32とはコンソリデーテッド社が製造した大型爆撃機で最高速度は575km/h、航続距離6115km、武装は12.7mm連装銃5基、約9,072kgの爆弾を搭載することが可能であった。しかしB29のような与圧室がなかったため、高高度爆撃が不可能であった。B32の製造はあくまでもB29爆撃機が失敗した場合の「保険」であったため僅か115機が製造されたのみで生産は終了した。大量生産こそはされなかったものの、15機が極東空軍に実戦配備されており、6月15日以降、しばしば実戦に参加していたようである(秦P252)。

 

 

実は終戦後毎日飛んでいたんだよ

 8月18日、このB32が写真撮影のために飛来した際、横須賀航空隊の戦闘機隊が迎撃している。日時がハッキリしないのだが、今回の執筆にあたって参照した資料の内、坂井三郎著『零戦の最期』と神立尚紀『零戦の20世紀』では、17日(坂井P36、神立P107、サカイダP29、34、53)、同じく神立尚紀『ゼロファイター列伝』と秦郁彦『八月十五日の空』では18日となっている(神立P205、秦P249)。

 このように日にちが異なってしまっている理由としては、恐らくB32が終戦の日である15日の翌日以降、16、17、18日と毎日写真偵察を行っていたことが考えられる。詳しく書くと、8月16日5時30分、第312爆撃群第386爆撃中隊のB32、ライマン・Pコムズ中尉乗機のシリアルナンバー42-108543号機、フランク・R・クック大佐操縦の42-108532号機の2機が出撃、特に迎撃を受けることなく帰還している。そして翌17日、今度はフランク・W・ウェルズ中尉が操縦する42-108532号機、42-108539号機の2機が5時43分に読谷飛行場を離陸、東京上空で写真撮影を行った(Pacific)。この際には日本機の迎撃を受けているが、秦氏によるとこの迎撃を行ったのは厚木航空隊の森本宗明中尉率いる零戦隊12機であったとしている(秦P253)。

 

8月18日の空戦

03_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

 そして18日、ジェームズ・F・クライン大尉乗機のシリアルナンバー42-108532、、ジョン・R・アンダーソン中尉(秦氏によると大尉。秦P252、サカイダ氏によると少尉。サカイダP34)の乗機42-108578の2機が6時55分、読谷飛行場を離陸、写真撮影のために東京に向かった(Pacific)。横空で空戦があったのが、17日か18日か、どちらが正しいのかは分からないが、恐らくこの数回の内の17、18日の2回の出来事がごちゃ混ぜになってしまったのだろう。とりあえず秦氏の説に従って18日ということで話を進めよう。

 8月18日13時頃、「敵大型機、千葉上空を南下中」との情報が入った。因みにこの空戦に参加した坂井三郎中尉の記憶によると「敵大型爆撃機一機、千葉上空を北上中」という情報だったようである(坂井P36)。それはともかく、一応終戦の詔は出ていたのだが、横須賀航空隊では何故か戦闘機は燃料も弾薬も完全に装備された状態で駐機、さらには搭乗員までも待機しているというやる気満々の状態であった。

 坂井中尉の記憶によると、この情報に対して隊長の指宿正信少佐は飛行長に電話で連絡、隊長の指示の下で出撃したとなっているが(坂井P37)、同じく空戦に参加した小町定飛曹長によると誰からも命令されておらず、お伺いもたてている暇もなかったという(神立P107)。まあ、どちらが正解なのかは分からないが、ともかく横空戦闘機隊は出撃する。搭乗員が機体へ走っていくとすでにヤル気満々の整備員達がエンジンを起動させていたという。坂井中尉の記憶によるとその時、零戦が10機ほどと紫電改が5〜6機あったという(坂井P37)。

 

 

最後の横空戦闘機隊発進!

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 横空所属の国分道明中尉以下、坂井中尉、小町飛曹長、大原飛曹長、平林上飛曹等が出撃したようだ。この内、坂井中尉は零戦52型、小町飛曹長は紫電改に乗って出撃した。坂井中尉は離陸後、高度6,000mとの指示を受け、6,000mに上昇。僚機が攻撃を開始したことを確認、坂井中尉も後上方攻撃をかけるもミス。B32は、館山上空から大島方面に逃走していった。ここらへんになると味方機も攻撃を中止して帰り始める。しかし坂井中尉は第二撃をかけ、それがB32右翼に命中、そこに別の味方機が攻撃をかけた。B32は高度を下げ、三宅島あたりでは超低空飛行になっていたが、坂井中尉は敵空母の存在を恐れてこれ以上追撃せずに帰還している。

 一方、小町飛曹長は発進後、全力で前方へ出て背面ダイブを実施した。この戦法は直上方攻撃と呼ばれる海軍戦闘機搭乗員が実戦から編み出した戦法で、米軍爆撃機の機銃の死角である前上方から背面急降下で一撃してすり抜けるという有効ではあるが危険な戦法であった。これによりB32に20mm弾が命中したものの、紫電改初搭乗であった小町飛曹長は零戦のつもりで引き起こしをするも重量級の戦闘機である紫電改では引き起こし時のマイナスGによりブラックアウトしてしまった(川崎P293)。そしてさらに伊豆半島上空でもう一撃、合計二撃している(神立P205)。

 最後まで追撃したのは坂井中尉と小町飛曹長だったようであったが(坂井P40、秦P250)、撃墜することは出来なかった。この空戦で一番最後に帰還したのは坂井中尉で、帰還後に敵爆撃機がB29ではなかったことを指摘している(秦P251)。

 

いろいろと食い違いが。。。

05_横須賀航空隊本部庁舎
(横須賀航空隊本部庁舎 画像はwikipediaより転載)

 

 と、ここまではそれぞれの本に書いてあることを時系列に基づいて書いていったのであるが、実はちょっと問題があるのだ。坂井中尉は零戦、小町飛曹長は紫電改に搭乗しいてる。坂井中尉は二撃した後、最後まで追尾して最後に帰還。小町氏も二撃をかけ帰還しているが、この2機の性能は歴然とした差があり、小町飛曹長はインタビューで「零戦で大型爆撃機を迎撃するのはむりでした」(川崎P292)、「零戦だったらとてもあそこまでは追えなかったんじゃないかな」(神立P107)と語っている。

 ここまで読んで頂いた読者には分かると思うが、坂井氏は零戦52型で追撃している。つまりは小町飛曹長の言っていることが正しいとすれば、坂井中尉の言っていることは嘘ということになる。さらに前述のように坂井氏の主張では出撃前に指宿隊長からの出撃命令を受けて出撃したと主張しているが、小町氏によるとそれも無かったという。坂井中尉はたまに著書の中で思い違いがあることが指摘されているが(高木・境田P60)、同じく8月17日(18日の誤りか)に零戦52型でB32を迎撃している大原亮治飛曹長はB32に対して三撃したと語っている(神立P120)。

 坂井中尉は二撃、大原飛曹長は三撃ともに零戦52型で行っていると語っているが、では、小町飛曹長が嘘をついているのか、その可能性はあるものの様々なインタビューの内容を読むと、そのぶっきらぼうで飾り気が無く、自身の撃墜数すらも主張しない小町飛曹長が嘘をつくとも思えない。ということで、戦争が終わってすでに70年以上経過し、当事者も全て故人となってしまった現在、残念ながら真実は、誰にも分からないのだ。「分からない」でいいではないか。

 

その後のB32と横空への処罰

06_日本側全権代表団
(画像はwikipediaより転載)

 

 この横須賀空のベテラン搭乗員達に酷い目にあったB32であるが、前述のようにクライン大尉の#532号機、アンダーソン中尉の#578号機の2機であったが、この2機のB32は横空戦闘機隊の攻撃を25分にわたって受け続け、アンダーソン中尉機#578号機が機上戦死1名を出したものの無事帰還している。その間、2機合計で12.7mm機銃弾4,000発を消費し、日本機14機中3機を撃墜したと申告しているが、もちろん横空戦闘機隊には損害はなかったが、まぁ、航空戦での撃墜判定なんてそんなものである。因みにこれら2機のB32であるが、#532号機は1946年5月、#578号機は1945年後半から1946年のどこかでスクラップにされている。

 帝国海軍航空隊は横須賀で始まった。このため終戦まで横須賀航空隊に配属される搭乗員は特に技量に秀でた者が充てられるというのが伝統だったようだ。横須賀から始まった海軍航空の最後の戦いがまた横須賀航空隊であったというのは何か感慨深いものがある。ところで「そもそも終戦後に戦闘して大丈夫なの?」という疑問を持つ読者も少なくないと思う。意外に知られていないのだが、日本が正式に降伏を行ったのは1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏調印なのだ。8月15日は天皇の終戦の詔が放送されて日本国内では武器を置くように命令されたものの国際法上は9月2日が停戦なので問題なかったようである。

 

参考文献

  1. 秦郁彦「夏空に燃えつきた抗戦」『八月十五日の空』文藝春秋1995年
  2. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  3. 神立尚紀『零戦の20世紀』スコラ1997年
  4. ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画2000年
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  6. 川崎浹『ある零戦パイロットの航跡』トランスビュー2003年
  7. 高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣改訂増補版』
  8. Pacific Wrecks

 

 

 


ミリタリーランキング

01_紫電改
(画像はwikipediaより転載)

 

 紫電改は零戦と並んで戦後最も有名な戦闘機と言っていいだろう。当時、最高のエンジンである誉エンジンを使用した海軍の万能機は同エンジン搭載の陸軍四式戦闘機と並んで日本軍用機史に有終の美を飾った。

 

紫電改 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.99m
全長 9.376m
正規全備重量 3800kg
最高速度 644km/h
航続距離 2392km
武装 20mm機銃4挺、60kg爆弾4発又は250kg爆弾2発

 

開発

 太平洋戦争時の戦闘機で零戦と並んで知名度の高いのがこの紫電改である。紫電改は紫電11型をベースにしたことから紫電改と呼ばれているが、主翼以外はほぼ新規の設計である。太平洋戦争末期に完成し343空で集中運用したことから有名になった。

 紫電を紫電改に改良するという計画は、1943年1月5日、仮称一号局戦兵装強化第三案としてスタートした。紫電の初飛行が1942年12月31日、脚を収納しての初飛行が1943年1月1日なので紫電完成直後に紫電改計画はスタートしたことになる。

 

初飛行まで

 2ヶ月後の1943年3月15日には、仮称一号局地戦闘機改として試作命令が出され、1943年8月1日、試作機の製作開始。この時期に「試製紫電改」と名称を改める。1943年12月31日に試製紫電改が完成、1944年1月1日に初飛行する。やはり母体があったことが作業の省略を可能にしたのだろう。試作命令が出てから初飛行まではわずか9ヶ月である。

 

紫電の視界不良を改良

 主な改良点であるが、まず、中翼から低翼に変更される。胴体は再設計された。胴体の幅は紫電に比べ切り詰められ長さは40cm延長された上、胴体断面形が丸型からおむすび型に変更された。これにより低翼と合わせて視界不良が解消された。

 この視界不良というのはパイロットがコックピットから下方を見た時を想像したもらいたい。中翼であることによって視界不良になるというのは容易に想像できるが、丸型の胴体も同様に下方の視界を妨害しているのだ。コックピットを頂点とする滑らかな三角形にすることで下方の視界を確保した。

 コックピットでいえば、キャノピーは上面の縦通材が廃止されている。脚は低翼化に伴って二段階式引込脚から普通の引込脚に変更。さらに脚の長さが短縮された。これによって100kg以上の重量軽減になった。その他垂直尾翼、水平尾翼にも変更が加えられているが、主翼はほぼ紫電のままである。

 

その他変更点

 武装は20mm機銃4機(九九式2号4型)で4挺とも翼内に収納された。装弾数は内側銃が200発、外側銃が250発である。機首の7.7mm機銃が廃止されたことによって機首の機銃口も廃止された。爆弾搭載量は60kgまたは250kg爆弾2発である。

 主翼はほぼそのまま紫電のものが使用されたのは前述の通りであるが、他にも、紫電や紫電の母体となった水上戦闘機強風で評判の良かった自動空戦フラップや腕比変更装置などはそのまま受け継がれた。部品点数は紫電に比べて大幅に減少しており、部品総数が紫電66000個に対して紫電改は43000個と65%に減少している。これにより生産性の向上が図られた。

 

生産

02_紫電改
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年4月4日、試製紫電改1号機が海軍に引き渡され、1944年7月には量産機の生産を開始している。紫電21型として制式採用されたのが1945年1月なので、紫電改は制式採用前に生産が開始されたことになる。

 生産数と各型の特徴であるが、紫電改は試作機が8機製作されている。量産された機体の内、29号機までは試製紫電改と全く同一である。30号機(51号機説もあり)以降99号機までの70機は20mm機銃が3度上向きに取り付けられている。

 

紫電21型

 初期の生産型。試作機を含み99機が生産された。

 

紫電21甲型

 1945年2月頃から紫電21甲型が生産される。紫電21甲型は爆撃兵装を改修しており、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発搭載可能である。101号機からは垂直尾翼が縮小された。これが200機製造された。100号機のみは試製紫電改と同型の垂直尾翼である。

 

紫電31型(紫電改一)

 201号機以降は紫電31型(紫電改一)に代わる。31型は、機種に三式13mm固定機銃4型を2挺追加。爆弾懸吊装備も電気投下式に変更された。これらの改造によって重心が変わってしまったため発動機架を前方に150mm延長されている。

 

紫電31型(紫電改二)

 この紫電31型は艦上戦闘機化もされた(紫電改二)。この紫電改二は、1944年11月中旬に空母信濃で着艦テストが行われている。

 

紫電32型(紫電改三)

紫電31型のエンジンを低圧燃料噴射式の誉23型に変更したのが紫電32型(紫電改三)である。2機のみ生産された。これも艦上機化されている(紫電改四)。艦上機型はどちらも2機程度生産されたようだ。

 

紫電25型(紫電改五)

 紫電21甲型のエンジンを2200馬力のハ43・11型に変更したのが紫電25型(紫電改五)で、大型化したため機首の13mm機銃は廃止された。生産数は不明。複座型も製作された。これは、紫電21型を複座にしたもので仮称紫電練習戦闘機と呼ばれた。複座になった以外は21型と変更点はない。その他計画のみであるが、エンジンを二段三速過給機付きの誉44型に換装する計画や鋼製化計画もあった。

 

生産数

 生産数は川西飛行機鳴尾工場で362機、同姫路工場で44機、さらに昭和飛行機2機、愛知2機、佐世保の21航空廠で1機、三菱で9機が生産された。合計420機(試作機8機が含まれているかは不明)。戦後3機が米国に輸送された。この3機と1978年に海底から引き揚げられた21型1機の計4機が現存している。

 

戦歴

 真珠湾攻撃時の航空参謀源田實大佐は太平洋戦争末期、最新鋭戦闘機紫電改を配備した精鋭部隊を編成することで制空権を奪回するという構想を抱いていた。この構想により内地では紫電改を集中配備することを予定した部隊343空の編成が始まっていた。のちに「剣」部隊と言われた343空の最初の部隊である戦闘301飛行隊が横須賀で訓練を開始したのは1944年11月下旬であった。

 当初は紫電で訓練を続けていた戦闘301飛行隊であったが、まもなく紫電改が1機到着、訓練を開始した。紫電改の初陣は1944年12月10日で、偵察に現れたB29を戦闘301飛行隊に配備されたたった1機の紫電改が迎撃したものの、B29を捕捉することは出来なかった。12月10日には、343空に戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊が加えられ松山基地で343空が誕生した。

 紫電改はこの時期、343空以外にも横空、横空審査部、空技廠、筑波空にも少数が配備されている。1945年2月16、17日の米機動部隊艦載機による関東空襲の際、これらの紫電改が空戦に参加、特に17日の空戦では海軍のエースパイロット武藤金義少尉がオレンジ塗装の試作機の紫電改で迎撃、衆目の中、12機編隊に単機で突入、内4機を撃墜するという戦果を挙げている。

 1945年2月に入ると343空も紫電改への改編が進み、戦闘301、戦闘701、戦闘403の順で紫電改が配備されていった。この結果、3月1日には3隊合わせて83機の紫電改を装備するに至ったものの可動機は21機に過ぎなかった。343空の初陣は3月13日で、この日会敵することはなかったものの、3月19日には米艦載機の呉方面空襲に際して54機が出撃、敵機撃墜52機を報告した(実際は10機)。これに対して紫電改は12機が被撃墜、4機が大破した。

 4月になると米軍の沖縄上陸が開始されたため、343空も沖縄航空戦に参加するため鹿屋に進出、さらに第一国分基地から松山、大村と進出して制空、迎撃戦に活躍した。5月、6月になると紫電改の消耗に対して機材の補充が間に合わず、出撃を抑制する兵力温存方針が採られるようになった。その後もたびたび出撃したものの、8月に入り終戦となった。

 

まとめ

 

 紫電改の活躍で最も有名なのが、源田實大佐指揮の343空が行った1945年3月19日の空戦であろう。この空戦で敵機52機撃墜(諸説あり)という偉業を達成するが、後年の調査によれば実際に撃墜したのは戦闘機10機のみである。

 これに対して343空の損害は戦闘機16機であり、空戦の結果としては負けているのだが、この時期としては大戦果と言って良かった。その後は紫電改を集中運用した343空も次第に戦力を消耗していく。戦後、紫電改の知名度が高かったのは、この343空での集中運用が理由であろう。だからといって紫電改自体も決して性能が悪かった訳ではない。陸軍の四式戦闘機と並んで第二次世界大戦中の万能戦闘機の一つに数えられている名機である。

 

 

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