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空技廠

01_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特別攻撃機 桜花とは、太平洋戦争後期に開発された特別攻撃機である。搭乗員1名が乗機、火薬ロケットにより最高速度648km/hを発揮、機首に搭載された1,200kg爆弾により機体もろとも敵艦を撃沈することを目的としている攻撃機である。無論搭乗員が生還する可能性は全くない。

 

特別攻撃機 桜花 〜概要〜

 

性能

全幅 5m
全長 6m
全高 1m
自重 2,140kg
最大速度 648.2km/h(高度4,000m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 800kg3基
航続距離 37km
弾頭重量 1,200kg
設計・開発 三木忠直 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

 1944年、405空に在籍した太田正一特務少尉は、ロケット推進式の小型有人滑空爆弾を一式陸攻の胴体に懸架して、それを空中から発射、敵艦を撃沈するという意見を海軍航空技術廠(空技廠)に提出したのが始まりである。搭乗員必死である上、母機が投下点に到着する以前に撃墜されてしまう危険性が高いため反対意見も多かったが、太田少尉の並々ならぬ熱意により計画が開始される。発案者の名前をとりマルダイ部品という名目で秘密裏に50機が空技廠に発注された。

 

開発

02_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 空技廠では、実質的には三木忠直少佐が主務者として開発を開始。設計は1944年8月16日から開始。最大でマッハ0.85に達する高速に耐えらえれる機体の設計。火薬ロケットの使用。高翼面荷重機であることや胴体下面懸架式親子飛行機という初めての形式であるなど、新しいことが多かった。このため入念な設計と実験が行われており、決して粗雑に製作された機体ではなかった。

 1944年9月初旬、試作1号機が完成する。エンジンは推力800kgの四式1号20型火薬ロケットで胴体後部に3基搭載された。計算上の最高速度は648.2km/h、航続距離は高度3,500mで発射した場合、約37kmであった。機首には、1,200kg徹甲爆弾が装備された。ロケットエンジンのため高温となる尾部を除き、胴体や主翼、尾翼は全木製であった。全木製としたのは、材料不足という理由はあったものの、レーダーや電波信管に対するステルス化という目的もあった。

 同年10月23日、初飛行はダミー機の投下実験という形で行われた。このダミー機は、ロケットエンジン、操縦者、爆弾、装備品の代わりに固定バラストを搭載して実機と同じ重量配分とした機体であった。実験は成功であり、これにより懸架式親子飛行機という一つのハードルは超えることができた。

 最も大切なのは機体そのものの操縦性や安定性の確認であったが、これはどうしても搭乗員が登場して飛行することが必要であった。最大の問題は高速の本機をどうやって着陸させるかということであったが、機体にバラストとして水を搭載、実験を終えた段階で水を放出して軽量化、揚力を大きくした状態で着陸するという方法に落ち着いた。それでも着陸速度は殺人機と呼ばれた雷電並みであった。この実験機は、軽量化のために主翼は鋼製、尾翼は軽合金とされた。

 搭乗員の操縦による飛行実験は、10月31日に行われた。結果は予想以上に安定性は良く、軽快さは戦闘機並みで着陸も容易であった。11月6日、火薬ロケットを使用した飛行実験が行われたが、この実験でも安定性も操縦性も良好であった。11月20日には爆弾の起爆実験が行われた。この実験以後、「マルダイ」は桜花11型と呼ばれるようになる。さらに1945年2月には機体の強度実験が行われた。この実験の結果、実用には十分であることが確認されたため生産が開始された。

 

仮称桜花練習用滑空機(桜花K-1)

 桜花搭乗員訓練用に作られた滑空機で外形は11型とほとんど変わらないが、ロケットエンジン部分が流線形に整形されており、機内には水バラストタンクが設置されていた。

 

22型

03_桜花22型
(画像は桜花22型 wikipediaより転載)

 

 エンジンをツ11エンジンジェット、さらに緊急加速用として11型で使用されている四式1号20型ロケットをさらに1基、胴体下に搭載、爆弾は600kgで機体は小型化された。兵装はレーダー波を探知する逆探や防弾鋼板も装備される予定であった。最高速度は426km/hに低下する代わりに129.65kmの自力飛行が可能であった。

 1945年2月15日前後に設計が開始され、1ヶ月程度で設計が完了した。4月頃には試作1号機が完成、6月には実験が開始されたが、7月には母機が地上滑走中に試作1号機が母機から転落するという事故を始めとしてトラブルが多発した。空中投下実験は8月12日で母機から離脱しようとした瞬間、突然緊急加速用ロケットが噴射し墜落した。テストパイロットの長野一敏飛曹長は殉職。その後、終戦となった。

 

33型

 33型は、橘花にも搭載されたターボジェットエンジン、ネ20を装備した型で22型のツ11エンジンの2.35倍のパワーが予定されていた。33型は当時開発が進んでいた十八試陸攻連山を母機とする機体で、主翼は木製であるが、それ以外は全軽金属製であった。設計が開始されたが、43型を優先的に開発するという海軍の方針のため設計は中止、そのまま終戦となった。

 

43型

04_桜花43型
(画像は桜花K-2 wikipediaより転載)

 

 43型は、カタパルト射出用の桜花で甲乙2種類が存在する。甲型が潜水艦からのカタパルト射出用、乙型は陸上基地からのカタパルト射出用であった。エンジンにネ20を採用、全軽合金製であった。乙型には訓練用の桜花K-2と呼ばれる複座桜花があり、1945年8月上旬に2機が完成している。風防は涙滴型で前後それぞれが涙滴形となっている。

 

その他バリエーション

 21型は陸爆銀河に搭載できるように軽量化された機体で、爆弾を600kgに変更した型であった。他にも飛行機曳航型の53型等が計画されていた。

 

生産数

 11型が155機、桜花K-1が45機生産されている。アメリカ、イギリス、日本、インドに合計14機が現存している。

 

戦歴

 初めての桜花部隊は1944年10月1日に神ノ池基地で開隊した721空である。当時の海軍の航空隊の編成は、航空機で編成された飛行隊が整備を始めとした後方支援機能を持った航空隊の下に組み込まれ航空隊司令の指揮下で作戦行動するというものであった。つまり飛行隊というユニットが航空隊という器に入ると考えると分かりやすい。

 飛行隊は作戦や状況によって別の航空隊に組み込まれたりすることもある。これは空地分離方式と呼ばれ、1944年7月10日から採用されている。721空は戦闘機と攻撃機の混成部隊で戦闘機隊は戦闘306飛行隊(定数24機のち48機)、攻撃機は攻撃711飛行隊(定数48機)が配属されており、桜花隊はどの飛行隊にも所属しない721空直属部隊である。

 訓練が開始されたのは11月中旬で当初はフィリピン戦に投入される予定であったが、投入予定の桜花50機は空母信濃で輸送中に母艦が雷撃により沈没、桜花も海底に沈んでしまったために投入は見送られた。1945年2月15日、721空は第5航空艦隊に編成替えとなると同時に戦闘305飛行隊、戦闘307飛行隊、攻撃708飛行隊が編入された。これにより定数は戦闘機192機、攻撃機96機に増強された。因みに定数とは保有することができる最大数であるので実際に配備されている機数は定数を下回る場合がほとんどである。

 桜花の初陣は1945年3月21日で、午前11時35分、15機の桜花を搭載した18機の一式陸攻が攻撃708飛行隊長野中五郎少佐直率の下出撃、零戦隊約30機の直掩を受けたものの、米機動部隊の戦闘機約50機の攻撃を受け目標に到達する前に一式陸攻は全滅、護衛の零戦隊も分隊長二人を含む7機を失うという損害を出した。4月1日には陸攻6機に桜花3機を搭載して出撃、桜花3機、陸攻2機を失った。

 4月12日には陸攻8機に桜花8機を搭載して出撃、桜花8機、陸攻5機を失っている。この攻撃で土肥三郎中尉機が米駆逐艦マナート・L・エーブルに命中、轟沈した他、駆逐艦スタンリーにも2機が命中し同艦は大破した他、桜花の至近弾を受けた掃海駆逐艦ジェファーズも大破している。

 4月14日には桜花7機、陸攻7機が出撃、全機未帰還となった。2日後の16日にも桜花6機、陸攻 6機が出撃、桜花5機、陸攻4機が未帰還となった。28日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花1機が未帰還となった。5月4日には桜花7機、陸攻7機が出撃、駆逐艦シェーに命中、シェーが大破した他、「至近弾」2機により掃海艇、上陸支援艇が大破している。この攻撃での未帰還は桜花6機、陸攻5機である。さらに11日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花3機、陸攻3機が未帰還となった。25日には桜花12機、陸攻12機が出撃、各3機が未帰還となっている。

 以降、一ヶ月近く出撃はなかったが、6月22日には桜花6機、陸攻6機が出撃、各4機が未帰還となった。これが最後の出撃で桜花の出撃は合計10回、未帰還となった桜花は55機、陸攻51機で搭乗員の戦死者は桜花隊55名、陸攻隊365名であった。桜花を搭載し重鈍となった一式陸攻の多くは射点到着前に撃墜されたが、一旦発射した桜花はレーダーで追尾することは困難であり、一撃で駆逐艦を大破させる威力があった。

 

まとめ

 

 日本陸海軍の航空機は戦争後半になると機体のバリエーションが多くなる傾向がある。桜花も例外ではなく数多くのバリエーションが計画された。搭乗員が必ず死亡する攻撃機のバリエーションがこれほど計画されているというのは、軍首脳部がこの特攻機にどれだけ期待していたのかが良く分かる。戦争の狂気以外の何物でもない。

 

 


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01_銀河
(画像はwikipediaより転載)

 

陸上爆撃機 銀河 〜概要〜

 

 

 陸上爆撃機銀河は、海軍唯一の陸上爆撃機である。その設計製作は日本最高の技術を誇った空技廠が行った。結果、当時の新鋭戦闘機よりも高速であり、新鋭爆撃機よりも長大な航続距離を持つという当時の水準をはるかに凌駕した超高性能機であった。しかしエンジンの不調や粗悪乱造によりその高性能を発揮することなく消えていった悲運の航空機であった。

 

<性能(試作機)>

全幅 20m
全長 15m
重量 自重7265kg
最高速度 567km/h
上昇時間 −
実用上昇限度 9400m 
航続距離 5371km
武装 20mm機銃2挺
   800kg爆弾1発または500kg爆弾2発、もしくは250kg爆弾2発。

 

背景から開発まで

02_銀河
(画像はwikipediaより転載)

 

 銀河は海軍航空技術廠、通称空技廠によって計画された、当時の航続距離世界最高性能を狙った機体で、当初は純粋な実験機Y-20として計画されていた。その計画が進行していた最中、爆弾1トンを搭載し、航続距離5600kmの急降下爆撃機という意見が出たことにより、Y-20は海軍初の陸上爆撃機として開発されることとなった。

 具体的には当時の最新鋭戦闘機である零戦並みの速度、同じく新鋭の一式陸攻並みの航続距離の両立を狙った野心作で正式な計画要求書が提出されたのが1940年末だったことから十五試双発陸上爆撃機と呼ばれるようになった。

 

開発

03_銀河
(画像はwikipediaより転載)

 

 特徴としては、これまでの陸攻の操縦席が正副操縦士が左右に並列に並ぶ方式であったが、高速を出すためには胴体は、重量軽減や空気の抵抗の点から細い方が好ましかった。このため、十五試双発陸上爆撃機は自動操縦装置を設けた上で、操縦席を縦列に並ばせることとし、胴体の幅が一式陸攻2mに対して1.2mに縮小することが可能となった。

 縮小された胴体は空気抵抗の少ない流線形でまとめられ、主翼も理想的なアスペクト比が設定された。しかしこの計画された高性能を引き出すためのエンジンは当時、該当するものが無かったため、試験機に試験エンジンを使わないという禁を破って、当時試験中であった十五試ル号エンジン(のちの誉エンジン)が採用された。

 これら最新の技術が注ぎ込まれた、十五試双発陸上爆撃機は、1942年6月に1号機が完成する。試作機は、多少のトラブルがあったものの性能は期待通りのもので、最高速度も当時の最新型の零戦32型を上回る566.7km/hを記録、航続距離も初期の一式陸攻を1000km以上上回る5371kmを記録した。間違いなく当時の水準を超えた高性能機であったといえる。

 生産は1943年8月から中島飛行機小泉工場で行われるが、当時、日本最高の技術力を持つ空技廠が製作したものと同等の能力を持つ機体を作ることは中島飛行機であっても困難であった。そのため設計変更が続き、さらには戦訓等に基づく用兵者側からの改修要求が次々と出されたことから生産は困難を極めた。それでも1944年9月20日には制式採用前であったがプレスリリースされ、10月には陸上爆撃機銀河として制式採用された。

 

11型

 試作機3機のみは集合式排気管であったが、4号機以降は推力式単排気管に改められている。エンジンは誉11型もしくは12型で、機体設計の微妙な変更や装備の違いがある。後期型は、夜間飛行時の内面反射が問題となったため局面ガラスから角ばったものに設計が変更されているのが大きな違いである。

 

11甲型

 甲型は、後上方銃を二式13mm旋回機銃に変更したもの。二式13mm旋回機銃はドイツラインメタル社系統の13mm機銃。

 

仮称銀河11乙型

 甲型の後上方銃を四式13mm連装上方銃架に変更したもの。四式13mm機銃はアメリカブローニング社の系統の13mm機銃。この銃架は動力式で四式中型動力銃架とも呼ばれた。

 

仮称銀河11丙型

 乙型の前方銃を二式13mm旋回機銃にし、レーダーを搭載したもの。武装は前方二式13mm機銃。後方四式13mm機銃と、ともに13mm機銃となっている。

 

仮称銀河12、13、14型

 12型はエンジンを誉23型(2000馬力)に換装したもの、13型は複数の説があり、誉21型(2000馬力)に換装したもの、またはツ11型ジェットエンジンを胴体下面に搭載した実験機である。14型は三菱のハ-43(2200馬力)に換装したもの。

 

仮称銀河21型(夜戦白光)

 銀河を夜間戦闘機に改修したもので、後席の直後に20mm二号4型連装斜め銃を2基、合計4挺を装備したもの。携行弾数は各150発。完成は1944年6月以前で空技廠によって製作された。最高速度550km/h、上昇時間が5000mまで8分30秒、上昇限度10200m、航続距離2963km、過荷重では6019kmであった。しかし誉エンジンの不調のため後に火星25型エンジンに換装されている。武装も改修された。

 

極光

 川西飛行機によって製造された銀河の夜間戦闘機型。エンジンが火星25型エンジンに変更された他、武装が20mm斜め銃2挺、20mm旋回銃1挺に変更された。性能は、最大速度522.3km/h、5000mまでの上昇時間が9分23秒、実用上昇限度9560m、航続距離が過荷重で3981.6km。97機製造された。

 

16型

 極光の速度がB-29 を迎撃するには不適当と判明したことから極光の斜め銃を廃し爆撃機型に再設計したのが16型である。16型には甲乙丙型があり、武装は11型の甲乙丙と同様である。

 

その他

 16型のエンジンを火星25型丙に換装した17型、胴体下面に20mm機銃20挺を装備したB-29 基地攻撃用が30機製造されている他、胴体下面に20mm機銃12挺を装備した襲撃機型も存在したという。さらに桜花22型母機型、鋼製実験機、エンジンをハ-43に換装した銀河33型も計画されていた。

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生産数

 試作機3機のみ空技廠で製作された。総生産数は1002機、または1008機と言われる。ほとんどが11型であるが、極光が97機あり、基地攻撃用に改造された11型が30機存在する。

 

戦歴

 制式採用は1944年10月であったが、1943年8月の生産開始から完成した試作機、初期の量産機は十五試双発陸爆として実戦部隊に引き渡されていった。一番最初に銀河を配備されたのは521空で1943年8月のことであった。定数は96機であったが、銀河の生産は軌道に乗らなかったため実際に配備された銀河は定数を大幅に下回っていた。

 1944年3月1日には522空、15日には534空が新たに編成、それぞれ轟部隊、曙部隊と呼ばれた(521空は鵬部隊)。錬成を続けていた各部隊であったが戦局の悪化は錬成の時間を十分にとる事を許さなかった。同年4月には521空に対してマリアナ方面への進出命令が発令、4月18日にグアム島に銀河隊が進出、さらにカロリン方面、ビアク島等にも進出して米機動部隊を迎撃する準備を整えていた。

 初出撃は6月15日で名指揮官で有名な江草隆繁少佐の指揮の下、本隊8機、別動隊2機が出撃、それぞれ艦船攻撃を敢行したものの江草少佐も含め本隊の8機は全滅した。その後も19日まで連日艦船攻撃に出撃しているものの損害は大きかったのに対して目立った戦果は挙げられなかった。同時期、内地では特設飛行隊制度が採用、各航空隊の改編が始まった。

 この改変により521空は解隊、新たに攻撃401飛行隊として761空に編入、その他の航空隊も522空は攻撃406飛行隊、524空は攻撃405飛行隊に改編されどちらも762空に編入、10月には763空に編入された他、横須賀で新たに銀が装備の攻撃501飛行隊が編成、752空に編入された。そして1944年9月25日、T攻撃部隊の編制が正式に発令されると752空がT攻撃部隊に編入された。

 1944年10月には捷号作戦が発令、銀河隊も台湾沖航空戦、比島航空戦に参戦するものの目立った戦果はなく、逆に出撃する度にほどんと全機を失うという悲惨な結果となった。11月になると戦局の悪化を挽回すべく銀河隊でも特攻隊が編成されているが、大型機である銀河は体当たりには向かず戦果よりも損害の方が大きかった。その後も終戦まで正攻法やウルシー泊地特攻等の奇策に銀河は使用され続けるもどれも目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

 銀河は空技廠が設計した当時の水準を大きく超えた傑作機であった。爆撃機でありながら、試作機完成時点での新鋭戦闘機零戦32型の最高速度を20km/h以上上回り、航続距離も同じく当時最新鋭であった一式陸攻を1000km以上上回っていた。

 しかしこれは日本最高の技術を誇る空技廠が設計製造したもので、エンジンも初期の熟練工により組み立てられた高品質の誉エンジンを使っていた故の高性能であった。しかし基礎技術力が低かった日本では量産機でその高性能を維持することは不可能であり、さらに熟練工を無造作に兵隊として戦地に送り込み、代わりに「素人」の工場動員によって製造を行わせた軍首脳部の人的ミスの結果でもあった。

 基礎技術が低い上に素人により製造された銀河は粗悪乱造された低性能の銀河は、人命軽視によるパイロットの消耗を補填するために速成教育された経験不足の搭乗員により運用され戦場に消えていった。技術を含む学術は全体の水準が高いことが重要であり、その時代、その瞬間に求められている一分野の学術が高いだけでは意味を為さない。これは全ての分野においていえることだ。同時に管理者による合理的な采配がどれほど重要なのかも分かる。

 世界最高性能の傑作機であり、試作機の高性能が量産機にも維持されていれば戦局を大きく動かしたかもしれない陸爆銀河の歴史は、進歩には、学術、生産、運用の総合力が必要であることを物語っている。

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

増山正男飛曹長の経歴

 

  1921年長崎県に生まれる。1940年6月に49期操練を修了後、佐世保空を経て14空に配属される。海南島、ハノイ、中国大陸を転戦したのち1941年秋に3空配属となり開戦を迎える。比島蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島に前進。1942年9月から11月までの間ラバウルへ派遣され、台南空指揮下で連日の戦闘に参加、3空復帰後はポートダーウィン攻撃に参加する。1943年4月内地帰還後は、空技廠実験部のテストパイロットとして各種の実験に活躍している。

 

増山飛曹長と操練49期

 

 増山正男飛曹長は操練49期、このクラスの前後は最も戦死者を出したクラスである。同期には坂井三郎中尉の列機として有名な本田敏秋三飛曹、同じく台南空の国分武一二飛曹、翔鶴戦闘機隊で活躍した小町定飛曹長がいる。操練49期は戦闘機専修10名の内、開戦から一年以内に6名が戦死している。その後1名が戦死したが、他3名は終戦まで生き残っている。

 増山飛曹長は操練修了後、14空隊員として中国戦線に加わる。日本軍の北部仏印進駐の一部としてハノイに進出した後、一旦内地帰還後、すぐに台湾に展開する3空に配属される。この3空は海軍でも指折りの練度の高い隊員で編成された部隊で新人でも飛行時間1,000時間以上であったという。この3空の隊員として開戦を迎えた増山飛曹長は比島航空戦から蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島クーパン基地に進出、ここを拠点として3空はポートダーウィン空襲で戦果を重ねることとなる。

 1942年9月には3空飛行長榊原少佐以下21名の隊員がラバウルに進出するが、増山飛曹長もその一員としてラバウルに進出、台南空の指揮下に入った。この台南空には操練49期で同期の国分武一二飛曹が活躍していたが、増山飛曹長の到着に前後して戦死している。そして台南空の指揮下に入った増山飛曹長は、連日のガ島進攻や船団直衛、要地防空に活躍することとなる。

 幾度となく死地をくぐり抜けてきた増山飛曹長は1942年11月、再びチモール島クーパン基地に帰還するが、その間に21名中8名の隊員が戦死している。クーパン基地に戻った増山飛曹長はその後もポートダーウィン攻撃に活躍するが、1943年4月には約1年半振りに内地に帰還、空技廠実験部の所属となり以降はテストパイロットとして各種実験に活躍して終戦を迎えた。総飛行時間1,540時間、総撃墜数は17機ともいわれているが、撃墜数はあまりにも誤認が多いので参考程度である。

 

増山正男飛曹長関係書籍

 

零戦よもやま物語 零戦アラカルト

柳田邦男 豊田穣他 著
潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月

 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。

 増山正男氏は「生への執着」という短編を寄稿している。増山氏の手記はあまり見かけないので貴重である。

 

 

まとめ

 

 増山飛曹長の出身期である操練49期のクラスとその前後のクラスは太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けたクラスであり、戦中の不十分な訓練でそのまま戦場に駆り出されたクラスに比べれば恵まれているといえるが、十分な実戦経験の無いまま過酷な太平洋戦争に突入したため犠牲も多かった。増山飛曹長はその中でも日中戦争で実戦を経験しており比較的恵まれていたといえないこともない。しかし増山飛曹長自身の手記内で戦争中盤で内地勤務になったことが現在生きていられる理由であると語っていることからも太平洋戦争の航空戦がどれほど過酷だったのかが分かる。操練49期の生存者は10名中増山飛曹長を含め3名のみである。

 

 

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01_景雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 陸上偵察機景雲とは、日本海軍の陸上偵察機である。陸偵の重要性は訴えられていたが、それまでは九八陸偵、二式陸偵、百式司偵と転用してきた海軍が初めて専用の陸偵として開発した唯一の機体で、エンジンは液冷ハ70を胴体中央に配置する等意欲的な機体であった。1942年に開発が開始、1945年5月に初飛行するが生産されることなく終戦となった。景雲改としてジェット機化の計画もあった。

 

陸上偵察機 景雲 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 13.05m
全高 4.24m
自重 6,015kg
最大速度 741km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで21分00秒
上昇限度 11,700m
エンジン出力 3,400馬力(ハ70)1基
航続距離 3,611km
乗員 3名
武装 なし
爆装 なし
設計・開発 大築志夫 油井一 / 空技廠

 

海軍陸上偵察機の流れ

 海軍は洋上での活動が主であるため陸上偵察機に関してはほとんど関心を持たなかったが、1938年になると陸上偵察機の必要性が主張されるようになる。早速同年には十三試高速陸上偵察機の開発が計画されるが、陸軍の九七式司令部偵察機を海軍用に改造して使用することが決定したために開発中止となる。この陸偵が1939年11月に制式採用となった九八式陸上偵察機で、これは陸軍の九七式司偵のエンジンを瑞星12型(780馬力)に換装した機体であった。

 この九八陸偵は戦闘機隊を中心に配備され、日中戦争から太平洋戦争開戦後まで縦横無尽に活躍する。この九八陸偵の後継機として十五試陸上偵察機の開発が計画されるが、結局発注されずに終わっている。代わりに後継機として制式採用されたのが十三試双発戦闘機を転用した二式陸上偵察機である。同時に一部部隊では陸軍の百式司偵を譲り受けて使用している。

 1942年、次期陸上偵察機として十七試陸偵が海軍航空技術廠(空技廠)に発注された。空技廠では大築志夫技術少佐を設計主務者として開発を開始したが、性能面で用兵側との折り合いがつかず、長距離偵察機的な性格を持つ十七試陸偵の必要性が薄れてきたこともあり計画は中止された。長距離偵察任務の必要性は薄れてはいたが、局地偵察機の必要性は高く、1943年、改めて空技廠に十八試陸上偵察機景雲として開発が指示された。

 

開発

 十八試陸上偵察機景雲(R2Y)の開発を指示された空技廠は十七試陸偵の設計主務者であった大築少佐を設計主務者として開発を開始したが、戦局の悪化に伴って試作機の整理の対象とされてしまった。数ヶ月後の1945年春、この景雲をジェット機化した景雲改の計画が持ち上がったため景雲の開発が再開される。開始時の設計主務者大築少佐は転出してしまったため、油井一技術少佐を設計主務者として開発を再開した。計画が中断された時点では設計はほぼ完了しており、試作機も6号機までが製作中の状態のままで放置されていたため、1945年4月末には試作1号機が完成した。

 形状は独特で、葉巻型の胴体の先端に操縦席、その後方両側に偵察席、通信士席が並び、さらに後方胴体中央部にエンジンが配置されるというものであった。エンジンは液冷熱田30型を2基並列に並べたハ70/01型(3,400馬力)エンジンで3.9mの延長軸によって先端のプロペラを回転させるという機構であった。プロペラは当初は二重反転プロペラが予定されていたが、実用化できる見込みが薄かったため直径3.8mの定速6翅プロペラに変更された。この構造から外観的には、主翼は操縦席の後方に位置する現在のジェット機に近い形状となり操縦席の視界は非常に良好であった。

 初飛行は1945年5月27日で、さらに29日には第2回目の飛行が行われ、低空を10分ほど飛行したが、エンジン室で火災が発生したため緊急着陸をした。第3回目の飛行も予定されていたが改修・修理中に終戦となった。終戦直後に爆破してしまったため本機は現存していない。

 

景雲改(R2Y2)

 エンジンを三菱重工で開発中のネ330を2基並列に搭載した型でのちのF86セイバーのように機首に空気取入口を設ける予定であった。計画値は最高速度741km/h(高度10,000m)、783km/h(高度6,000m)で、上昇時間は6,000mまで7分、実用上昇限度は10,500m、航続距離1,269kmであった。ネ330が実用化しなかったため計画のみで終わった。

 

生産数

 試作1機のみ。

 

まとめ

 

 陸上偵察機景雲は、太平洋戦争開戦後に計画され終戦間際に初飛行をした試作機であった。例によって海軍の性能要求は過大であり、十七試陸偵の性能要求では与圧気密室装備、最高速度667km/h、巡航速度463km/h、航続距離7,408kmであった。この要求の無謀さは一式陸攻22型の最高速度が437km/h、航続距離6,060kmで一式陸攻の最高速度以上の巡航速度で一式陸攻以上の航続距離を得ようという常軌を逸したものであった。このため景雲の設計は難航してついに飛行2回で終戦を迎えることとなった。

 

 

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