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瑞鳳

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

山本旭中尉の略歴

 

 1913年6月13日静岡県に生まれる。1933年横須賀海兵団に入団、1934年7月操練24期を卒業。館山、大湊空を経て1935年11月空母鳳翔乗組。日中戦争の勃発により中国大陸に進出した。1937年12月、内地に帰還、霞空に配属された。1939年10月12空付。再び中国戦線に出動した。1940年7月、内地に帰還、大分空で教員配置となった後、空母加賀乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。真珠湾攻撃を始め、加賀戦闘機隊員として多くの作戦に参加、ミッドウェー海戦では母艦上空直掩で活躍した。1942年7月瑞鳳乗組。南太平洋海戦に参加した。1943年3月に瑞鶴戦闘機隊員としてラバウルに進出。5月、内地に帰還。横空に配属された。1944年6月八幡空襲部隊の一員として硫黄島に進出。11月24日のB-29迎撃戦の際、千葉県八街で被弾脱出したが、落下傘が開かず墜落戦死した。

 

海軍航空の花道を歩いた男

 

 山本旭中尉は操練24期で同期には片翼帰還で有名な樫村寛一飛曹長がいる。同期は9名で卒業までに2名が事故死している。さらに空母加賀に配属された1名が事故死と1/3が事故で亡くなっているクラスである。戦争では1名が日中戦争で戦死、2名が太平洋戦争で戦死しており、太平洋戦争終戦を迎えることが出来たのは3名である。

 操練を卒業した山本中尉は館山、大湊空を経て1935年11月、世界初の空母鳳翔乗組となった。日中戦争が勃発すると鳳翔は僚艦龍驤と共に第三艦隊に編入、上海沖に展開して陸戦部隊の支援を行った。8月19日には山本三空曹は上海上空において敵戦闘機の初撃墜を報告。その後も戦果を重ねた。この山本三空曹の殊勲に対して鳳翔艦長草鹿龍之介大佐より「鷲鳥之疾至於殷折」の褒状が授与された。同年12月には内地に帰還、霞空で教員配置に就いたが、1939年10月、12空付となり再び中国大陸に進出、1940年7月、内地に帰還して大分空の教員配置に就いた。

 1941年10月空母加賀乗組となり太平洋戦争の開戦を迎えた。開戦劈頭の真珠湾攻撃では遊覧飛行を楽しむ民間機を軍用機と誤り撃墜、これが真珠湾攻撃の撃墜第一号となってしまった。撃墜第一号を記録した山本一飛曹は帰ってから上官に怒られ、「大東亜戦争の撃墜第一号を記録したのに、帰ったらおこられたよ」とぼやいていたという。その後もダーウィン攻撃、ミッドウェー海戦等で活躍した。ミッドウェー海戦では上空直掩を担当したが、母艦が被弾していたため空母飛龍に着艦、友永雷撃隊の直掩を務めた。

 1942年7月に空母瑞鳳に異動、南太平洋海戦に参加した。11月には飛曹長に昇進、1943年3月から4月までラバウルに派遣され、激烈なソロモン航空戦に活躍した。5月には内地に異動、横空に配属された。1944年6月には横須賀から移動することのなかった横空が八幡空襲部隊としてついに硫黄島に進出、米機動部隊攻撃をかけたが山本少尉は硫黄島での艦砲射撃で負傷してしまった。この海軍の殿堂と呼ばれた横空の練度の高い隊員で結成された八幡空襲部隊には山本飛曹長を始め、坂井三郎飛曹長、武藤金義飛曹長、志賀正美上飛曹、宮崎勇上飛曹等、そうそうたるベテラン搭乗員が参加していた。

 内地にて負傷が回復した山本少尉は11月24日、B-29迎撃に出撃、千葉県八街上空で被弾脱出したが解傘せずに墜落戦死した。総撃墜数は15機といわれている。

 

山本旭中尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 山本中尉は操練24期、日中戦争勃発以前に搭乗員として十分な訓練を受け、日中戦争で実戦経験を積んだクラスであった。同期の多くが事故死しているのは当時の航空機の信頼性の問題なのかもしれない。太平洋戦争開戦後は母艦戦闘機隊員として特に練度が高いことで有名であった1航戦に配属され、陸上基地勤務では海軍航空の殿堂と言われた横空に在籍していた。海軍航空の表街道を歩いた山本中尉であったが、戦争末期に落下傘が解傘せずに墜落ししてしまう。搭乗員という職業は危険と背中合わせであった。

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52010224.html

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

南義美少尉の経歴

 

 1915年12月15日香川県に生まれる。1933年海軍に入団、1935年11月30期操練を卒業、大村空を経て1937年7月13空(ついで12空)に配属された。二年間の戦地勤務後の1938年9月には内地に帰還、佐伯空、大分空、飛龍、瑞鳳乗組を経て1941年10月翔鶴に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年6月大村空で教員配置に就くが、1944年2月601空に異動、再び母艦戦闘機隊員として新造空母大鳳に配属される。マリアナ沖海戦後、653空に異動。レイテ沖海戦に参加するが、11月25日、神風特攻隊笠置隊員として米機動部隊に突入、戦死した。

 

母艦戦闘機隊のベテラン南大尉

 

 南義美大尉は、操練30期出身で同期の戦闘機専修者は14名で内、5名が終戦まで生き残った。同期には南大尉を除き、いわゆる「撃墜王」と呼ばれる搭乗員はいないが、太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けて日中戦争で多くの実戦を経験した上で25歳前後と搭乗員としては最も脂の乗り切った時期に太平洋戦争開戦を迎えたクラスである。

 南大尉は日中戦争前に操練、大村空での延長教育を修了、戦闘機搭乗員となった。1937年7月の盧溝橋事件勃発前後に13空に配属され上海戦線に出動、1938年9月に内地に帰還するまで1年以上にわたって中国戦線で戦い続けた。同年5月には漢口攻撃に出撃、空戦中にエンジンに被弾、機銃も全て撃ち尽くし帰投中であったが、中華民国空軍のE16戦闘機が近寄ってきて、漢口の方を指し「戻れ」と指示され怒った南兵曹は体当たりを敢行、片翼飛行を続けて不時着救助された。

 4ヶ月後の9月に1年以上に及ぶ戦地勤務を終え内地に帰還。教員配置の後、母艦乗組となる。以降、南大尉は1944年に特攻隊員として戦死するまで母艦戦闘機隊隊員として活躍する。最初に配置された空母は飛龍で、続いて瑞鳳、さらに翔鶴乗組として太平洋戦争開戦を迎えた。開戦後、南上飛曹は翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃、インド洋海戦、珊瑚海海戦に参加、1942年6月には内地で教員配置となる。しばらくの教員配置の後、1944年2月、601空に配属、久々の実戦部隊に戻る。

 601空とはそれまでの第一航空戦隊の空母翔鶴、瑞鶴、大鳳の3隻の航空隊で編成された部隊で空母と航空隊を分離させる制度変更によって生まれた部隊であった。南大尉はこの中の大鳳乗組となる。南飛曹長が開戦時に乗組んだ空母翔鶴ではないものの、また再び同じ部隊に配属となったこととなる。所謂「古巣に戻った」ということであろう。

 この601空隊員として6月には史上最大の空母決戦であったマリアナ沖海戦に参加、多くの熟練搭乗員が戦死する中、南飛曹長は無事生還したが、母艦の大鳳は撃沈されてしまった。本土に戻った南飛曹長は653空に異動となる。この部隊も空母と分離してはいるが、母艦航空隊である。

 この653空隊員として南飛曹長はレイテ沖海戦に参加したが、11月25日、神風特別攻撃隊笠置隊員として爆装した零戦で米機動部隊に突入戦死した。日中戦争当初から実戦経験を積み太平洋戦争全期間にわたって特別な技量を必要とする母艦搭乗員のベテランは爆弾を抱いて敵艦隊に突っ込むという非情な最期を遂げることとなった。戦死後二階級特進して海軍大尉となったが、のちの本土防空戦で「宝石よりも貴重」といわれた熟練搭乗員の惜しすぎる最期であった。

 

南義美少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。田中国義少尉のインタビューで南大尉について触れられている。

 

まとめ

 

 熟練搭乗員が特攻で戦死することはしばしばあった。しかしそれは直掩機としての任務であり爆装機ではないことがほとんどであった。無論直掩機でも何段にも防御体制を敷いている上に重厚な対空兵器を持つ米艦隊に突入するのは死ぬ可能性の非常に高いものであった。

 しかし爆装機は「必死」である。この作戦に対して岩本徹三中尉や岡部健二中尉等、性格の強い搭乗員は敢然と反対を表明、自身の特攻希望にもはっきりと「否」と表明していた。これに対して誰からも好かれる大人しい性格だったといわれる南大尉。終戦時に生き残った両中尉と特攻死した南大尉、ここに性格の違いがあったのかもしれないが、今となっては誰も分からない。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 小八重幸太郎上飛曹は、太平洋戦争開戦後に訓練を修了した正に戦中派パイロット。エリートである母艦戦闘機隊に選抜され、激戦のラバウル航空戦に投入される。内地帰還後は新鋭紫電を駆り比島航空戦に活躍。内地帰還後は海軍の精鋭部隊343空で終戦を迎える。零戦、紫電、紫電改と乗り継いだパイロットであった。

 

小八重幸太郎上飛曹の経歴

 

略歴

 大正12年3月15日、宮崎県生まれ。昭和16年10月丙種予科練7期生に採用される。昭和17年11月第24期飛練課程を卒業、大村航空隊で延長教育を受け戦闘機操縦者となる。空母瑞鳳乗組となり昭和18年3月トラック島進出。「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加する。その後253空配属。昭和19年2月末内地帰還。大村空で教員配置に就く。9月戦闘701飛行隊に編入(7月説あり )。新鋭機紫電を以って、10月末ルソン島マルコット基地に進出する。12月休養のため内地に帰還。昭和20年初頭2代目戦闘701飛行隊に編入。343空に配属され終戦を迎える。

 

母艦戦闘機隊へ

 小八重上飛曹は予科練丙種7期修了。戦中派パイロットである。大村空での延長教育修了後、エリートである母艦戦闘機隊に配属される。母艦搭乗員訓練のため冨高空で鳳翔での着艦訓練を受けた後、瑞鳳戦闘機隊に配属される。

 この時期、冨高空では杉野計雄、谷水竹雄兵曹、小高登貫兵曹等が同じく訓練を行っている。瑞鳳戦闘機隊は鹿児島県鴨池基地で訓練を続け、昭和18年3月にトラック島に進出、「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加している。当時、瑞鳳戦闘機隊は飛行甲板の狭さが理由なのか分からないが、岩井勉、山本旭等のベテラン搭乗員が多数おり小八重上飛曹は中々搭乗員割に入れてもらえなかったようだ。11月2日のラバウル迎撃戦にてF4F2機を撃墜して初戦果をあげた。その後中川健二大尉と共に253空に編入され、激烈なラバウル航空戦を戦った。

 激しい空戦のさ中、米軍戦闘機と単機空戦となりお互いに秘術を尽くして戦ったが勝敗が決せず、どちらからともなく寄り添い顔を見合わせて飛び去って行ったという一コマもあったようだ(小八重幸太郎「零戦に生き紫電改に死す」『零戦搭乗員空戦記』)。

 

紫電・紫電改装備の新鋭部隊に配属

 その後、本土に帰還するが、その時、第一航空戦隊戦闘機隊の生存者は66名中わずか9名であった。昭和19年7月、新鋭戦闘機紫電を装備する戦闘701飛行隊に配属され、台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加した後、極度の過労により入院する。その後2代目戦闘701飛行隊に転属した。

 2代目戦闘701飛行隊は言わずと知れた343空所属の飛行隊であり、ほぼ全機が紫電改で編成された鴛淵孝大尉が隊長を務める部隊である。小八重上飛曹は終戦まで343空で西日本防空戦を戦い抜いた(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。 https://water-wildcat.com/archives/52180397.html  総撃墜数は15機といわれる。丙飛7期という開戦直前に採用され、日本が徐々に劣勢に陥っていくさ中に母艦戦闘機隊として実戦に参加した。その中で生き抜いただけでなく15機もの撃墜を果たしたというのは驚異だ。

 

小八重幸太郎上飛曹関係書籍

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。小八重幸太郎氏は「零戦に生き紫電改に死す」という一篇を寄稿している。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。小八重上飛曹の略歴と戦功が書かれている。

 

まとめ

 

 小八重幸太郎上飛曹は母艦戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加、その後、戦闘701飛行隊として比島航空戦に参加、紫電改で編成された343空で本土防空戦に参加した。太平洋戦争を戦い抜き終戦を迎える。戦後は故郷の宮崎県日南市で消防官として勤務していたようである。

 

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。

 

岩井勉中尉の経歴

 

略歴

 大正8年京都府生まれ。昭和13年8月乙6期予科練の飛練課程修了。佐伯空、大分空に異動する。昭和14年2月大村空配属。5月鈴鹿空配属。昭和15年1月12空配属。9月13日の零戦初空戦に参加した。11月本土へ帰還。筑波空、佐伯空配属。昭和17年2月大村空で教員配置。9月結婚する。11月空母瑞鳳乗組。昭和18年1月ラバウル進出。4月には「い」号作戦に参加した。作戦終了後内地帰還。訓練に明け暮れる。7月瑞鳳戦闘機隊として再度南方進出。昭和19年1月二代目台南空に配属。8月再建中の601空配属。レイテ沖海戦に参加する。11月内地に帰還、昭和20年4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。戦後は1年間兵器処理委員会に所属。経理を学び以後は経理の道を歩む。2004年4月17日死去。享年84歳。

 

瑞鳳戦闘機隊に配属

 岩井勉中尉は戦後まで生き残った数名の零戦初空戦の搭乗員の一人である。他には進藤三郎少佐、三上一禧氏がいるのみである。日中戦争で実戦経験を踏んだ上で太平洋戦争に臨んだ熟練搭乗員である。開戦時は内地で教員配置についていたが、昭和17年11月。空母瑞鳳乗組を命ぜられる。以降、岩井中尉は終始母艦戦闘機隊員として活躍することとなる。この時、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けた。岩井氏は、この言葉によって今日まで生き残って来られたという。

 岩井中尉が配属された空母瑞鳳は改造空母であり、正規空母に比べて飛行甲板が小さかった。故に岩井中尉のような熟練搭乗員が選抜されたのだろう。空母瑞鳳は空母翔鶴、瑞鶴と共に第一航空戦隊を編成、昭和18年1月にラバウルに進出する。「い」号作戦参加の後、4月には内地に帰還。7月、再度南方に進出し激戦を戦った。

 

台南空・601空に配属

 昭和19年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。この時に、亀井勉中尉のあまりの技量の高さから訓練生達から「ゼロファイターゴッド(零戦の神様)」と呼ばれたという。因みにこの部隊の先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹である。

 その後、母艦戦闘機隊である601空配属。レイテ沖海戦に参加、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。

 

岩井勉中尉関係書籍

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 岩井氏の自著。日中戦争から太平洋戦争終戦までが描かれている。空戦の話以外にも翼に神様が乗っている等の興味深い話もある。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏による零戦搭乗員のインタビュー集。岩井勉中尉へのインタビューもある。戦後の話等、自著とはまた違った話もあり面白い。

 

まとめ

 

 岩井中尉は日中戦争以来の熟練者で太平洋戦争では母艦戦闘機隊員として活躍した。総撃墜数は22機と言われるが、特筆すべきはその間に1発も被弾しなかったことだろう。恐らく陸海軍航空隊の中でもこれだけの戦果を挙げた搭乗員で被弾ゼロは皆無であろう。熟練者中の熟練者であった。

 

01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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