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瑞星

01_九七式司令部偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式司令部偵察機は三菱重工が開発した世界初の戦略偵察機で最高速度は陸軍の性能要求を上回る480km/hを発揮、当時最新鋭の陸軍の主力戦闘機九七式戦闘機の最高速度444km/hを40km/h近く上回っていた高速偵察機であった。この高性能は海軍にも注目され、九八式陸上偵察機として制式採用された。

 

九七式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.00m
全長 8.70m
全高3.34m
自重 1,592kg
最大速度 510km/h(高度4,330m)
上昇力 5,000mまで6分49秒
上昇限度 11,900m
エンジン出力 900馬力
航続距離 2,400km
武装 7.7mm旋回機関銃(テ4)
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

偵察機の違い

 日本陸軍には軍偵察機、直協偵察機、司令部偵察機という3種類の偵察機があった。当初は単に偵察機と称していたが、1935年末に初めて遠距離偵察をする航空機、部隊に直接協同する偵察機の2種類に分けられた。そして1937年になるとこれらに司令部偵察機が加わり、3種類の偵察機が存在するようになった。

 具体的には遠距離偵察・爆撃を専門とする偵察機は「軍偵察機(軍偵)」、地上部隊(特に砲兵)への協力・指揮連絡を行う偵察機を直協偵察機(直協)、そして航空情報の蒐集、戦略上の要地の偵察を行うのが司令部偵察機である。

 この司令部偵察機が要求されている性能とは、当時の最優秀戦闘機よりも高速であること、高高度で隠密偵察が出来ること、そして複座であることが求められている。最後の複座であることは、当時、電子機器が未発達のため偵察員の搭乗を意味する。これらを満たすことを条件として九七式司令部偵察機は計画されることとなった。

 

開発

 1935年7月23日(11日説もあり)、陸軍は三菱重工に対してキ15という名称で司令部偵察機の試作指示を出した。三菱では久保富夫技師を設計主務者として設計を開始、1936年5月には1号機を完成させた。発動機はハ8(750馬力)を採用、固定脚ではあったが、沈頭鋲を採用した全金属製の低翼単葉機でカウリング等も空気抵抗の少ない形状を採用していた。

 試作機は2機製作され、早速、審査が行われた。試作指示の段階で陸軍が要求していた性能要求は最高速度450km/h以上であったが、この試作機は最高速度480km/hを記録、性能要求よりも30km/hも高速を発揮した。前方の視界不良等のいくつかの点で問題はあったもののおおむね問題は無かったが、当時、未だ戦略偵察機の価値を理解しない一部の論者は採用に難色を示した。

 1937年2月になると前述の偵察機3種類の分類が決定、これを受け同年5月には増加試作機が完成、各部に微修正が施された後、1937年5月九七式司令部偵察機として制式採用された。この試作機の内、2号機は朝日新聞社に払い下げられ神風号と命名、1937年4月6日、立川飛行場を離陸、台湾、中東、イタリア、フランスを経由し、4月9日ロンドンへ着陸する。これは世界初の偉業であった。

 

2型

 エンジンを空冷14気筒ハ26機900馬力)に換装した型。1938年1月に先行試作機が完成、6月には試作が指示された。この2型は最高速度が30km/h向上、510km/hとなり、同時に上昇性能も向上した。1939年9月に制式採用され生産が開始された。

 

九八式陸上偵察機(海軍)

 当時、長距離偵察機の必要性を痛感していた海軍は、この九七式司令部偵察機2型の高性能に注目、陸軍の了承の下に発動機を瑞星12型に換装し各種艤装を海軍式に変更したものを九八式陸上偵察機11型として制式採用した。さらに1941年、エンジンを零戦と同じ栄12型(940馬力)エンジンにしたものを12型として制式採用した。

 

3型

 1939年発動機をハ102(1,080馬力)に換装した3型が試作された。これにより最高速度が530km/hに達したが、すでに後継機としてキ46(のちの百式司令部偵察機)がさらに高性能を記録していたため2機が試作されたのみで製作は中止された。

 

生産数

 合計で437機が製造された。九八式陸上偵察機は11型が20機、12型が30機である。

 

戦歴

 九七式司偵の活躍の場はすぐに訪れた。制式採用の2ヶ月後の1937年7月7日、盧溝橋事件が発生、同月26日には九七式司偵による偵察が行われている。その後1機が北支に進出、さらに2機が増強された。そして1938年3月14日には臨時独立飛行第1中隊が編成、1939年秋頃からは2型も配備されるようになり、仏印進駐、ノモンハン事件でも重要な役割を果たした。

 太平洋戦争が始まると九七式司偵は飛行第2戦隊、8戦隊、81戦隊、独飛50、51、63、70、76、81、101中隊に配備され各地の偵察に活躍、多くの犠牲を出しながらも任務を遂行していたものの、1941年8月頃から百式司偵の配備が進み九七式司偵は前線から徐々に消えていった。

 

まとめ

 

 九七式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機として日中戦争から太平洋戦争中期まで活躍、その座を百式司令部偵察機に譲った。特に試作2号機が東京からロンドンまで51時間で飛行、世界新記録を樹立したことが有名である。三菱が生んだ傑作機である。

 

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01_一式貨物輸送機
(画像は一式貨物輸送機 wikipediaより転載)

 

 ロ式B型高高度研究機とは、陸軍が開発した高高度研究機である。名称がキ番号ではなく「ロ式B型」という妙な名称であるのは本機が「極秘」よりもさらに上の「特秘」扱いであったことによる。具体的に研究していた内容は成層圏を飛行する際に必要になる与圧室の研究であった。この分野の研究において日本は各国に後れを取っており開発が急がれていた。

 

ロ式B型高高度研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 19.96m
全長 11.76m
全高 3.46m
自重 5,157kg
最大速度 475km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで13分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,055馬力(ハ102)2基
航続距離 2,200km
乗員 6名(操縦員2名、実験員3〜4名)
武装  -
爆装  -
設計・開発 小川太一郎 / 東京帝国大学航空研究所

 

与圧室とは。。。

 地球を取り巻く大気層は、およそ高度11,000mまでを対流圏、50,000mまでを成層圏と呼ぶ。軍事上、成層圏飛行が有利なのは航空機の発見が困難であること、地上からの攻撃が困難であること等がある。このため各国では成層圏を飛行することが可能な高高度航空機の開発が研究されていた。

 高高度飛行を行う上での問題は、高度が高くなるにつれて酸素の量が減少することである。このため高高度を航空機が飛行するためには、機内を気密化して酸素を送り込み気圧を人間が生存できる気圧にする必要がある。さらに与圧することで機内と機外とでは圧力に差が生じる。与圧室を製造するためには機内の気密化して酸素を送り込むことと同時に圧力差に耐えうる強度が必要になる。

 

開発

 1938年、東京帝国大学航空研究所内に「航二研究会」と呼ばれる航空機による成層圏飛行に関する研究を行う研究会が発足した。リーダーは小川太一郎博士で陸軍からの資金協力も得ていた。この計画は「研二」とも呼ばれている。1940年になると航二研究会は実際に高高度研究機製作に動き出す。当時の日本の技術力ではいきなり成層圏を目指すのは難しかったため、中間機として高度8,000mから10,000mを常用高度とする中間機の開発を指向することとなった。

 基礎設計は東大航研で設計主務者はリーダーの小川太一郎博士で基礎設計は主に木村秀政所員が行った。細部の設計と機体の製作は立川飛行機が担当することとなった。しかしゼロから機体を製作していたのでは時間がかかり過ぎるため機体は現用機から流用することとした。その候補として挙がったのが、ロッキード14Yと三菱製九七式重爆であった。

 検討の結果、重量軽減が可能である点や立川飛行機でライセンス生産されている点が試験には有利である等という点からロッキードY14がベースとして選ばれた。設計は1940年8月から開始された。主な改造点としては、胴体は新規設計、発動機、プロペラの交換であった。同年秋には基礎設計が完了、立川飛行機によって細部の設計が行われた。1941年末に設計完了、試作機2機の製作が開始、1942年7月試作機の機体は2機ともほぼ完成する。

 機体は完成したものの日本初であった与圧室の開発が難航したため完全に試作機が完成したのは翌年1943年5月であった。6月には与圧装置は使用せずに高度3,000mまでの初飛行が行われ、9月1日には与圧装置を使用した飛行も行われた。1944年8月には2号機も完成、1944年10月9日には試験飛行において高度11,200mに到達、成層圏飛行に成功した。

 今回、全く新規に設計された胴体は円形断面で機首は段無しの流線形となった。窓は二重ガラスになっており、その間に温めた空気を送り込んで曇りなどを防いでいた。このためもあって操縦席からの視界の悪さは酷い物であったという。エンジンは1号機が二速過給器を搭載したハ102特(海軍名「瑞星21型」)で2号機はさらに高高度に対応したハ102超過給型が装備された。プロペラは直径3.2mでブレードは高高度で馬力を吸収するために幅広に設計された。

 

生産数

 2機が製作された。終戦まで残存していたが米軍によってスクラップにされた。

 

まとめ

 

 日本でロ式B型が試験されたいた頃、米国ではB29が実戦に投入されていた。このB29は完全な与圧室を持ち、搭乗員は機内では通常の飛行服での勤務が可能であった。実用上昇限度は13,000mを超え、総生産数は3,970機に達する。これに対して日本側は最高の頭脳を投入しても不完全な与圧室を備えた実験機が2機、それもベースは米国機というのが現実であった。技術が進歩するためにはそれを下支えする工業力が必要である。それは天才、秀才が設計したものを実際に生産することができる基礎技術力であり、一分野に秀でることではなく全分野の技術力の高さである。

 当時の日本は、飛行機を製造することはできても飛行機を作る機械は米国製であったり、ドイツから高性能の機銃を輸入してもプレス加工ができないために製造することができない、ライセンスを得ても同じ品質のものが造れない等の悲しい現実があった。日本には世界レベルの航空機設計者達が多くいた。しかし設計は一流であってもその設計を実物に変える力が不足していた。この「国力の差」を如実に表しているのがこのロ式B型研究機であろう。

 

 

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01_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九四式水上偵察機とは、複葉布張りの3人乗り水上偵察機であるがあまりの高性能にドイツからライセンス生産の要求があったと伝えらえているほどである。また海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどであった。1933年に初飛行した本機は換装して使用され続け太平洋戦争終戦まで実戦で活躍し続けた。

 

九四式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 10.50m
全高 4.73m
自重 2,000kg
最大速度 239km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで10分45秒
上昇限度 7,520m
エンジン出力 600馬力(九一式水冷)
航続距離 12時間
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発または
   30kg爆弾4発
設計・開発 関口英二 / 川西航空機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

02_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1932年、海軍は七試水上偵察機の開発を指向する。これを受けた川西航空機では関口英二技師を設計主務者として開発を開始、1932年3月から設計開始、1933年2月には試作1号機が完成、2月6日からテストが行われた。機体は保守的な複葉布張りであったが、従来機に比べ木製部品の使用割合は大幅に下がり、胴体、主翼の桁はジェラルミン製、小骨は木製という一歩進んだ機体であった。

 エンジンは広島海軍工廠で開発された国産の水冷式九一式500馬力エンジン(後期型では九一式600馬力エンジンに換装)で、最高速度は237.1km/hで性能要求の240.8km/hには及ばなかったものの現用の九〇式3号水偵を上回っており、安定性、航続距離に関しては極めて優秀であった。この七試水偵の高性能は、海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどでドイツが本機のライセンス生産を要求したとも言われている。1934年5月26日、九四式水上偵察機として制式採用された。

 

12型

 九四式水偵のエンジンは、1937年からはより高性能で信頼性の高い瑞星11型(870馬力)エンジンに換装された。この換装は水冷エンジンから空冷への換装であったが、九四式水偵はそもそも余裕のある設計であったため換装は比較的容易であった。これにより最高速度は278km/hに増大、航続距離も2,463km、時間に換算すると11.36時間の長時間飛行が可能であった。この長時間飛行に対応するために本機では前後席どちらでも操縦することが可能となっている。この瑞星搭載型は1938年11月24日に九四式2号水偵(のち12型と改称)として制式採用、それまでの九四式水偵は1号水偵(のち11型と改称)となった。1941年まで生産された。

 

生産数

 生産は川西航空機で試作機2機、1号(11型)が183機、2号(12型)が288機の合計373機、日本飛行機で両型合計で57機製造されている。総生産数は530機。

 

まとめ

 

 九四式水偵は、1933年の初飛行から1945年の終戦まで12年間も使用され続けた名機である。この時期に初飛行した航空機で終戦まで使用されたものも無くはないが、ほとんどが練習機としてであった。これに対して九四式水偵は、偵察、哨戒、輸送等、終戦まで実戦で使用され続けたという稀有な航空機である。これは水上機という特性とともに本機の設計の優秀さ、信頼性の高さを物語っている。

 

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01_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式襲撃機・軍偵察機とは、1939年に初飛行した日本陸軍の襲撃機・偵察機であった。機体は堅実な設計で固定脚を採用、安定したエンジンを装備していたため本来の用途以外にも練習機や連絡機として終戦まで活躍した隠れた傑作機である。

 

九九式襲撃機・軍偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.10m
全長 9.21m
全高  - m
自重 1,873kg
最大速度 424km/h(高度3,000m)
上昇力 5,000mまで8分47秒
上昇限度 8,270m
エンジン出力 940馬力(ハ26供
航続距離 1,060km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 50kg爆弾4発または
   15kg爆弾12発
設計・開発 大木喬之助 / 三菱重工

 

軍偵と襲撃機

 襲撃機とは1938年の『航空器材研究方針』に初めて登場した区分で、敵飛行場にある飛行機や地上部隊の襲撃を主任務とする機種で、軽快で超低空飛行、急降下爆撃が可能であることが要求されていた。武装は、50kg以下の爆弾を200kg搭載できること、固定機関銃、旋回機関銃各1挺、特別装備としてガス雨下装置を搭載でき、その装置量は爆弾量の1/2以上とすることが要求されていた。ガス雨下装置とは毒ガスを空中から散布する装置のことである。

 その後、1940年の『研究方針』改定時には、襲撃機の性能の中に高速であることと単座であること、さらに特別装備であったガス雨下装置が爆弾との交換装備となった。1943年の改定ではこの項目は省略されている。因みに毒ガスは1925年のジュネーブ議定書において使用が禁止されている。この条約は1928年に発効している。日本はこの条約に署名、1970年に批准している。

 この1938年の『研究方針』以降は、軍偵察機は襲撃機と同一機種とすることが決められていた。軍偵察機とは陸軍の偵察機の区分の一つで他には直協偵察機、司令部偵察機がある。直協偵察機とは地上部隊との連携の下に偵察活動をする機種で、司令部偵察機とは戦略偵察を行う機種である。つまり「直協=近距離」「軍偵=中距離」「司偵=遠距離」と考えて良い。そして同一機種を襲撃機型と偵察機型に分ける方針が決定した。

 

開発

02_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は三菱重工に対して襲撃機の開発を内示した。1938年2月、正式に開発が指示される。これに対して三菱は大木喬之助技師を設計主務者として開発を開始した。同年12月、軍偵察機型の開発が指示されるが、これは襲撃機型に航空写真機を装備しただけのものにする計画であった。

 1939年6月には試作1号機が完成した。初飛行の結果、特に問題点は指摘されず、最高速度424km/hを記録、操縦性は良好と高評価であった。7月からは基本審査が開始、同時に増加試作機11機の製作が発注された。10月からは実用審査が開始、12月に九九式襲撃機として制式採用された(1940年5月説もあり)。

 エンジンはハ26供940馬力。海軍名「瑞星」)を採用、プロペラは2.9m3翅定速ハミルトンプロペラであった。主翼は低翼で、エンジンが小型であったため胴体はコンパクトにまとめられた。性能要求では引込脚、胴体内爆弾倉を要求していたが、1,000馬力級エンジンを採用している関係上、重量増加、機体大型化になるためこれらの要求は退けられた。武装は翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺が装備された。爆弾は50kg爆弾4発、15kg爆弾12発であった。

 軍偵型は写真機が垂直撮影用に1基、斜め撮影用に1基が装備され、偵察用窓も追加された。襲撃機型にあった防弾装置は廃止された。爆弾も軍偵は特別装備となりその量も半減されている。1943年11月以降は、火力不足から一部の機の翼内銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、さらに一部の機は旋回機銃も12.7mm機関砲に換装された。

 

生産数

 試作機2機、増加試作機11機が製作された。量産機は1940年初頭から1943年末まで生産が行われ、1944年以降は立川陸軍航空工廠で生産が行われた。三菱では試作機も含め1,472機、立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産された。襲撃機型、軍偵型併せ総生産数は2,385機である。

 

まとめ

 

 九九式襲撃機は大戦後半になると爆弾搭載量の少なさや速度の遅さから旧式化が否めなかったが、不整地でも離着陸できる固定脚に堅実な設計と操縦性能、運動性能の良さから汎用性が高く、終戦まで練習機や連絡機、要人輸送機としても使用された。

 

 

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