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潜水艦

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


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 私は以前から潜水艦にすごい興味があったので、潜水艦関係の書籍を探していたのだ。しかし潜水艦の本というのは大戦中のものが多く中々私が望んでいるような現代の潜水艦の能力や運用についてのものはなかった。確かに潜水艦というのは機密の塊だ。所在も機密であるし機能も機密が多い。おまけに気密もしっかりしないといけない(あまり面白くないですね(;^_^A)。

 古い潜水艦戦記も面白いのだけどやはり現代の潜水艦の能力が知りたいと思っていた私にとって本書はまさにドンピシャ!だった。中村秀樹氏は元海上自衛隊の潜水艦長だった人だ。経歴から見ると、潜水艦に関しては中村氏より詳しい人は日本にはいないんじゃないかと思う。内容はさすがに何もかも書いてある訳ではないが、普通の人が全く知らない世界なので機密に触れない範囲であっても相当に面白い。

 潜水艦が本気になって隠れると水上艦艇や航空機によって探し出すのはほぼ不可能だということや潜水艦は機雷敷設から陸上基地攻撃、対空戦闘に至るまでやろうとすれば何でもできるという。まさに無敵の兵器だ。私は旧軍の潜水艦のそれも中途半端な知識しかないので、現代の潜水艦が艦艇の中で最速の乗り物だということも本書で知った。

 原子力潜水艦に至っては40ノット出るものもあるという。さらに実は潜水艦の中は臭いとか食事が非常においしい等、潜水艦よもやま物語という感じの体験者でしか分からないエピソードもあって面白い。著者は本書の1/3くらいのところから何かが吹っ切れたのか、突然文章に冗談やらシャレが頻発し俄然面白くなる。軍事関係の本なのだけどあまりにも面白くて止まらなくなってしまった。

 海軍士官は冗談やシャレがうまいのだなぁと思ってしまった。あまりにも面白いので読みながらついニヤニヤしてしまう。一人でニヤニヤしながら潜水艦の本を読んでいる私は相当不気味だったと思う。中村氏は幕僚まで勤めた海自の幹部。海自の潜水艦運用の問題点や水上艦艇や航空隊まで含めた海自の問題点まで言及している。

 

自衛隊の欠点を率直に述べる姿勢

 

 実は問題点というのを通り越して海上自衛隊の内情暴露に近い。私自身、元自衛官として陸上自衛隊が見掛け倒しの軍隊であることは分かっていたが、海上自衛隊も同様だったというのは衝撃であった。護衛艦にはミサイルが全数満載されている艦がない事や補給すべき予備のミサイルもないことを暗にほのめかしている。そして海自護衛艦隊を壊滅させる方法まで書いてしまっているのだ。

 さらに自衛隊自慢のミサイルも実戦では敵とそれ以外(戦闘区域には中立国の船もいる)の識別が現実的には不可能であること。撃ったとしても命中率は一般に想像している以上に低いことなども本書によって知ることが出来た。ここまで書くというのは驚きだった。こういうことを「自衛隊をディスってる」と見るのは完全な間違いだ。著者は恐らくかなりの覚悟を持って本気で自衛隊を良くしたいと思っているのだと思う。

 退官したといっても防衛省自衛隊との人間関係はあるし圧力もかかるかもしれない。それでもここまで書いたのはすごい。本書はユーモアに包まれた中に著者の凄みを感じた。

 

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伊400
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍の潜水艦にはいろいろなものが搭載できる。これは前回ブログを書いていて気付いたことである。では日本軍の潜水艦には具体的にどのようなものが搭載された、若しくは搭載予定だったのだろうか。今回は趣向を変えて日本軍の潜水艦搭載兵器を特集してみよう。

 

潜水艦に偵察機を積む

 

02_零式小型水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 まず最初にあげられるのは零式小型水偵。これは潜水艦搭載用に設計された小型水上偵察機である。機体は木と金属で成っており、翼はは羽布であった。開発したのはのちに震電を開発して有名になる九州飛行機で、最高速度246km/h、航続距離882km/h、7.7mm機銃1挺に小型爆弾を搭載することもできる。

 

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 この零式小型水偵は世界で唯一アメリカ本土を爆撃した航空機なのだ。この任務を遂行したのは有名な藤田信雄飛曹長。1942年に2回空襲をしている。因みにこの潜水艦伊25はタンカーを撃沈するついでにソビエトの潜水艦も撃沈している。なぜこんなところにソビエトの潜水艦がいたのかはよく分らないけど、この攻撃、ソビエトにバレちゃったようだ。結局、大人の事情で表沙汰にはならなかった。

 

潜水艦に潜水艦を積む

 

03_甲標的
(画像はwikipediaより転載)

 

 潜水艦に潜水艦を積む。。。マトリョーシカ人形のような良く分からない状態だが、日本の潜水艦は甲板上に「潜水艦」を搭載することもあった。潜水艦といってももちろん二人乗りの小型潜水艦でその名は甲標的。太平洋戦争開戦前、仮想敵国が激リッチな米国である日本海軍の悩みの種は、その圧倒的な戦力差であった。何とかその差を埋めようと考案されたのが「漸撃戦術」という戦術であった。

 まさか航空機が海戦の主力となるとは露ほども考えなかった日本海軍では、海戦は戦艦で決着を着けるものと当然のように考えていた。しかし残念ながら非常に貧乏な日本は戦艦の数では米国に太刀打ちできない。おまけにワシントン軍縮条約で戦艦の数も制限されてしまっていた。そうなると戦艦以外の攻撃で相手の戦艦の数を減らそうと当然のように考える。それが「漸撃戦術」なのである。

 中部太平洋から何も知らずにのんきに突き進んでくる米国戦艦部隊に対して、潜水艦、陸上攻撃機、母艦攻撃機、甲標的による攻撃で滅多打ちにして残った艦隊を日本の戦艦部隊が攻撃して大勝利を収める。。。というのが構想である。まあ、当然、米国も同じことをするだろうことは容易に想像できるのであるが、そこはそこ、大和魂や精神力で何とかするつもりだったのだろう。

 ともかく、そのために開発されたのが、小型潜水艦甲標的である。名称が甲標的とヘンテコな名前なのはもちろん外国を騙すために「標的ですよ〜」という意味を込めた名前である。最高速度は23ノット、潜航時は19ノットと意外と速い。武装は魚雷2本を艦首に装備しているのみである。太平洋戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃から戦争末期まで使用された。舵がスクリューの前に付いているため旋回性能が悪かったことと、なにぶん潜水しているため潜望鏡以外では外が全く見えないのが欠点であった。

 真珠湾攻撃では潜水艦に搭載された5隻の甲標的が発進、戦艦オクラホマに魚雷を命中させている。潜水艦から発進する場合が多かったが、甲標的母艦、陸上基地からも運用された。地味に戦果を挙げてはいるものの生還率が非常に低いため決死の出撃をすることになる。ともあれ、潜水艦に潜水艦を搭載するというのも日本以外無いんじゃないだろうか。

 

潜水艦に爆撃機を積む

 

04_晴嵐02
(画像はwikipediaより転載)

 

 そして晴嵐。偵察機からさらにグレードアップして、潜水艦に攻撃機を搭載することにした。晴嵐とは太平洋戦争開戦後に開発が開始された超高性能水上攻撃機である。最高速度は474km/hでフロートを投棄すると560km/hと零戦52型並みの高速を発揮することができる。航続距離は2,000kmで終戦までに28機が生産された。超高性能仕様だったため生産コストは零戦50機分にも相当すると言われている。

 

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 この晴嵐は伊号400型潜水艦に3機、伊号13型に2機搭載することが可能であった。本来の目的は海戦初期の段階で、パナマ運河を破壊して米大西洋艦隊を足止めすることだった。晴嵐が完成したのは1943年、海軍が受領したのは1944年。。。これって開戦当初に必要だった戦力な訳で・・・。ともかくこの晴嵐、世界初の潜水艦搭載攻撃機という意義は大きい。それまで戦術兵器でしかなかった潜水艦が世界中のあらゆる地点を攻撃できるようになったのである。世界初の戦略潜水艦の誕生とまで言われている。まあ、実際の攻撃力は攻撃機3機のみなので微々たるものであるが。。。

 

潜水艦に戦車を積む

 

05_特二式内火艇カミ車
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の潜水艦は戦車も積んでしまう。その潜水艦搭載戦車とは、水陸両用戦車「特二式内火艇」。もう名称からして戦車なのか船なのか分からない。「カミ車」ともいう。これは海軍の頭文字「カ」と出処不明の「ミ」を合わせた名称。「ネ申」ではないので注意。陸軍の九五式戦車をベースに水上航行可能に改造した車両?、艇?である。

 全長7.42m、最高速度が37km/h、水上では9.5km/h、主砲は37mm戦車砲である。上陸後にフロートを外すことになっているが、本体の装甲があまりにも貧弱であるためフロートを装着したまま使用されることも多かった。本来、強襲揚陸艦に搭載されて運用されるものであるが、潜水艦に搭載して運用することを想定していた。

 実は日本軍にはその強襲揚陸艦の元祖ともいえる特種船あきつ丸が存在していたのであるが、これは海軍とあまり仲がよろしくない陸軍が建造した空母であったため、陸軍とあまり仲がよろしくない海軍が作った戦車を運用することは難しかったのである。陸軍が造った空母に海軍が作った戦車を載せられない。。。もう何だか分からない。因みに後継の特三式内火艇も潜水艦に搭載することができる。

 

人間魚雷回天

 

回天01
(画像はwikipediaより転載)

 

 甲標的は極めて危険度の高い決死の兵器であったが、回天は必ず死ぬ必死の兵器である。これも潜水艦に搭載されていた。初期のものは回天と潜水艦に交通筒が無く、回天を発進さるためには一旦浮上して乗員を回天に登場させる必要があった。つまりは敵の近くで一旦浮上するということでかなり危険が伴った。

 一見、人間が操縦するので命中率が高いのではないかと思われるかもしれないが、当然、窓もない。あったとしても海中は真っ暗で何も見えない。位置の測定は潜望鏡とジャイロスコープで行う。要するに「目が見えない」状態での送還を余儀なくされる。

 潜望鏡を上げれば発見されてしまうので、搭乗員はジャイロスコープとストップウォッチで自艦の位置と目標を計算しながら、同時に操艦もする。強い意志と高い練度、知性、勇気が必要だ。つまりはどの世界においても必要とされる優秀な人材が求められる。回天は一度乗ったら成功、不成功に関わらず脱出することはできない。

 

運貨筒

 

 潜水艇が積めるのであればもちろん同じ潜水艇である運貨筒も積める。この運貨筒というのは物資輸送用の潜水艇だ。潜水艦によって曳航され目的地で切り離される。それを大発等で回収するのだ。南方で使用されたようだ。

 

海軍特殊部隊

 

 正式には呉鎮守府第101特別陸戦隊という。これは潜水艦等で隠密裏に上陸を行い各種の特殊任務を行うという現在のアメリカのSEALチームと同様の発想で1944年に養成が始められた海軍特殊部隊だ。剣道や柔道の有段者を集め信じられないくらい過酷な訓練を行ったようである。もし日本海軍が存続していればSEALのような部隊が独自に日本でも編成されていたかもしれない。

 

まとめ

 

 以上のように日本海軍の潜水艦にはさまざまなものが搭載された。または搭載されるところだった。発想自体は革新的なものも多かったが、水陸両用戦車を搭載するという基本的に意味がないものもあった。この潜水艦を戦略の拠点にするという発想が出てくる背景には日本が海洋国家であったことと、同時に日本の国力が欧米、特に同じ海洋国家であるアメリカに対して劣っていたことが挙げられるだろう。正面切って戦うには国力の違いがありすぎる。そのための「搦め手」としての潜水艦運用であったのだろう。

 

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