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海軍機

01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 


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01_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上攻撃機 天山とは、太平洋戦争中に完成した日本海軍の攻撃機でその性能は防弾性能と機銃の能力以外は、同時代の米海軍雷撃機TBFアベンジャーの性能を遥かに凌いだものであった。1943年に前線に配備された後、終戦まで活躍した。

 

艦上攻撃機 天山 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 14.894m
全長 10.865m
全高 3.820m
自重 3,083kg
最大速度 481.5km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分24秒
上昇限度 9,040m
エンジン出力 1,850馬力
航続距離 1,746km(正規状態)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃2挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

02_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年12月、海軍は、九七式艦攻に代わる次期艦上攻撃機の開発を計画、十四試艦上攻撃機という名称で中島飛行機に開発を指示した。これを受けて中島飛行機では、松村健一技師を設計主務者として開発を開始、1941年春には試作1号機が完成した。同年3月14日には初飛行した。

 十四試艦攻は、エンジンを当時、未だ開発中であった国産エンジンの中で最大のパワーを持つ護11型(1,870馬力)を採用、プロペラは3.5m4翅プロペラが装備された。機体は大型化し全長は空母のエレベーターに乗る11mギリギリになり、重量も九七式艦攻の2,200kgに対して3,800kgと1,5倍以上増加したが主翼は切り詰められた。このため翼面荷重は139.78kg/屬塙發た字となった。尾輪は引込式で、武装は左翼内に7.7mm機銃1挺、後上方、後下方に7.7mm旋回機銃各1挺が装備された。この新たに装備された後下方機銃は、防御用と共に魚雷投下後に艦上を掃討することを想定して装備された。

 

トラブルが多発

 初飛行には成功したものの、最新の護11型エンジンはトラブルが多く、機体自体にもトラブルが多発した。これらのため海軍に領収されたのは初飛行から4ヶ月後の7月19日になってからであった。海軍による性能試験の結果、最高速度は465km/hと性能要求を上回り、その他の項目もおおむね性能要求を上回っていたが問題が多く、改修、改造などが続けられた。

 1942年末には性能試験が完了し離着艦試験に入ったが、十四試艦攻はこれまでにない重量であったため着艦フックの破損や母艦の着艦ワイヤーの切断といった事故が多かった上、母艦からの離艦距離が長いことも問題となった。離艦距離の問題は胴体両側に離艦促進用ロケット(RATO)を装備することで解決、その他の問題も強度や形状を変更することで解決した。

 

制式採用

 1943年2月、戦局の悪化から審査完了を待たずに生産を開始、生産しつつ改良が加えられた。合計で133機生産されたが、7月には十四試艦攻の性能向上型の開発が始まったため生産が打ち切られた。8月には護12型エンジンの制式採用が決定、8月30日には護12型エンジンを搭載した十四試艦攻が制式採用された。制式採用の名称であるが、1943年7月27日付けで改定された『航空機名称付与様式』によってそれまでの年式から山名に命名規則が変更されたため十四試艦攻の制式名称は天山11型となった。

 11型の性能は、最高速度が464.9km/h(高度4,800m)、上昇力が高度5,000mまで11分、実用上昇限度が8,650m、航続距離が正規状態で1,463km、過過重で3,447kmであった。

 

12型

03_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に換装した型で1943年6月に生産開始、1944年3月17日に天山12型として制式採用された。エンジン換装と同時に排気管を推力式単排気管に変更された。尾輪は固定式となっている。性能は、最高速度が16km/h向上して481.5km/h、高度5,000mまでの上昇時間が36秒短縮され10分24秒、実用上昇限度も8,650mから9,040mに向上、航続距離も1,463kmから1,746kmに増加した。

 1944年11月には後上方機銃を13mm旋回機銃、後下方銃を7.9mm機銃に換装、さらに三式空6号無線電信機四型(レーダー)を搭載した12甲型が制式採用された。この12型の内2機は、エンジンを火星25型丙に換装、尾輪を引込式に戻し、カウリング、風防などを再設計した仮称天山13型が試作されている。

 

生産数

 11型が133機、12型、12甲型が1,133機、合計1,266機生産された。

 

戦歴

 

新鋭艦攻第一線へ

 天山を最初に受領した部隊は1943年7月1日に開隊した第531空である。制式採用前であったが18機を保有していた。次に配備されたのは1943年9月1日に開隊した第551空で当時スマトラ島に展開していた同部隊に24機の天山が空母千代田で輸送された。最初に天山を受領した第531空が南東方面カビエン(ラバウルの北にある島)に進出。当時同地域に展開していた第582空に編入された。初出撃は、12月3日の第六次ブーゲンビル沖航空戦で6機の天山が出撃、戦果を記録したものの米側には損害の記録はない。

 実戦部隊に配備された天山は時速250ノットに達すると尾部に振動が発生、そのまま操縦不能となり海中に突入するという事故が複数発生した。このため551空天山隊はシンガポールで尾部の補強工事を受けた後、1944年2月11日には内南洋トラック諸島に到着した。しかし2月17日にはトラック島大空襲に遭遇、所属機のほとんどを消失、残った天山も4月30日の敵機動部隊攻撃により全機を失った。その後6月3日には551空に天山11機が補充され「あ」号作戦に参加した。同時期、攻撃256飛行隊天山14機が八幡空襲部隊として硫黄島に進出、数回にわたって敵艦船に雷撃を行っている。

 

マリアナ沖海戦

 6月19日には日本海軍史上最大規模の機動部隊である第一機動部隊と米海軍機動部隊がマリアナ沖で激突した。第一機動部隊は空母大鳳、翔鶴、瑞鶴で編成された第一航空戦隊、隼鷹、飛鷹、龍鳳で編成された第二航空戦隊、千歳、千代田、瑞鳳で編成された第三航空戦隊の空母部隊を基幹としていた。この内、一航戦には天山が44機、二航戦には18機、三航戦には9機(旗艦千歳のみ。他は九七式艦攻)が配備されている。海戦の結果はVT信管とレーダーを駆使した米艦隊の一方的な勝利で海戦が終わった時、残存していた天山は一航戦が1機、三航戦が5機の僅か6機のみであった。

 

終戦まで

 1944年4月29日、天山13機装備の553空が千島列島最北端の占守島に進出。北海道から千島列島の哨戒任務についたが553空は天山1機と九七艦攻4機を残して比島に進出した。この1機の天山は1945年春に事故により失われている。

 1944年夏には新たにT攻撃部隊が発足。天山装備の攻撃262飛行隊が同部隊に編入された。同年10月には台湾沖航空戦が勃発、T攻撃部隊他、攻撃256飛行隊23機、攻撃252飛行隊24機、攻撃263飛行隊29機、634空10機の合計86機の天山が参加しているものの実際には目立った戦果はない。

 その他、エンガノ沖海戦を始め比島航空戦にもしばしば10機程度の少数機による索敵、攻撃が行われている。1945年になると特攻隊である第二御楯隊に天山が編入、いよいよ天山も特攻に使用されるようになってくる。この攻撃で雷装の天山艦攻が護衛空母ビスマルク・シーに止めを刺した可能性が高い。

 1945年3月になると沖縄戦の前哨戦である航空戦が展開されるがこの攻撃にも攻撃251飛行隊の天山22機が参加している。沖縄に集結している米軍に対して海軍も各航空隊を九州に集結、天山も攻撃251飛行隊に加え、254飛行隊、256飛行隊の計34機、210空13機、601空の合計103機の天山が動員、さらに台湾には攻撃252飛行隊の14機、253飛行隊の14機が終結、沖縄航空戦に参加している。これらの天山隊は一部特攻隊として編成されたものの多くは少数機による地味な攻撃を行った。

 これら以外には艦攻という機種が海上護衛に適していたため多数機が海上護衛部隊で使用されている。

 

艦上攻撃機 天山の関係書籍

 

肥田真幸『青春天山雷撃隊』

肥田真幸『青春天山雷撃隊』
肥田真幸 著
光人社 2011年

 海軍兵学校67期という戦前に飛行学生を終えた最後の期出身の著者。太平洋戦争中盤まで内地で教官任務に就いたのち、天山を2番目に配備された部隊の隊長として実戦に参加。多くの修羅場をくぐり抜け終戦まで戦い続けた。天山の後部機銃を20mm機銃に変更して実戦で使用する等、興味深い。

 

まとめ

 

 天山は試作機完成後に故障が相次ぎ、制式作用、前線に登場するのが遅れた攻撃機であったが、基本性能は非常に高く、防弾装備と機銃以外は同時期の連合軍雷撃機の性能を遥かに上回っていた。高性能であったが前線に登場するのがあまりにも遅かったため戦局に決定的な影響を与えることが出来なかった悲運の航空機である。

 

 

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01_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の3機種の機能を全て兼ね備える万能機として設計された。戦争後期に生産され実戦にも参加したが、ほとんど活躍することなく終戦を迎えた。基本性能だけを見れば世界最高級の航空機であるが、エンジンの不調や各種不調に悩まされた航空機であった。

 

艦上爆撃機 流星 〜概要〜

 

性能

全幅 14.4m
全長 11.490m
重量 自重 全高 4.07m
自重 4,030kg
最大速度 567km/h(高度6,000m)
上昇力 6,000mまで10分20秒
上昇限度 11,250m
エンジン出力 2,200馬力
航続距離 1,852km(増槽装備時)
武装 20mm機銃2挺、13mm機銃1挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

背景から開発まで

 それまで艦上攻撃機、艦上爆撃機と機種を分けていた海軍航空であったが、機体の性能の進化、また同時に艦艇の性能の向上により艦上攻撃機には高機動性、艦上爆撃機には積載能力の向上というように艦攻と艦爆の設計上の差が少なくなっていった。

 この結果、艦攻と艦爆、そして艦偵の機種統合という動きが現れるようになってきたが、これはまた実施部隊からしても好都合であった。このような事情を踏まえ1941年、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機という名称で、艦上攻撃機と艦上爆撃機の両方機能を備えた高性能艦上機の開発を命じた。

 

開発

02_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 1941年10月、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機の開発を命じた。海軍からの性能要求は、当時の新鋭機零戦を上回る速度と武装を持ち、優れた空戦能力を持った艦上攻撃機の能力と艦上爆撃機の能力を持った艦上機の開発という毎度ながらの過酷な要求であった。

 これに対して海軍からの要求を受けた愛知航空機は尾崎紀男技師を設計主務者として計画を策定、1942年1月から本格的な設計が開始された。機体は日本では珍しい逆ガル翼の主翼に胴体内爆弾倉を設け魚雷以外の爆弾はこの爆弾倉内に搭載することとし、これによって空気抵抗の減少を図った。尚、扉は油圧による開閉式である。

 武装は当初は翼内に7.7mm機銃各1挺、後部座席に旋回式7.7mm機銃1挺であったが、増加試作中に武装強化が要求され、翼内に20mm機銃各1挺とされた。さらに1944年には旋回銃も13mm機銃に変更が要求され、結局、20mm機銃2挺と13mm機銃1挺という強力な武装となった。エンジンは誉11型(1,800馬力)でプロペラは4翅VDM定速プロペラが採用されていた。

 1942年12月試作1号機が完成、初飛行が行われた。完成した流星は予想以上に重量があり、さらには誉エンジンのトラブルやその他故障が頻発し、量産に入ったのは1944年4月であった。同年10月には実施部隊で使用できるレベルにまで達したが、その後も実験が続き、制式採用されたのは1945年3月であった。

 生産は開始されたものの東海地震や空襲などにより捗らず、終戦までに合計111機が生産されたのみである。試作機は増加試作機も含め9機(8機の可能性あり)が製造され、これらは試製流星(B7A1)と呼ばれ、その後の量産型はエンジンを誉12型(1,825馬力)または誉21型(2,000馬力)に換装、流星改、または流星11型と呼ばれた(B7A2)。さらに試製流星改一(B7A3)と呼ばれるエンジンをハ42/11型に換装した性能向上型も計画されたが計画のみで終わった。

 

評価

 スペックとしてはエンジン出力、爆弾搭載量では米国艦上攻撃機には劣っていたものの、速度、航続力は上回っており、世界最高性能と言って良い機体であったが、誉エンジンの不調や油圧系統のトラブル泣かされ、稼働率は低かった。流星は実戦にも参加したが戦果は不明である。流星の実戦部隊が編成されたのが昭和20年3月であり、初の実戦が7月24日で、英国機動部隊に対するものであった。戦果は不明であるが、111機製造され、終戦時の残存機が58機と大きく消耗していた。戦闘で撃墜されたものは15機で、その他の消耗の理由は不明である。

 

生産数

 愛知飛行機で試作機1機、増加試作機8機、量産機82機、大村の第21航空廠で約20機の合計111機が製造された。終戦時には58機が残存している。

 

戦歴

 1945年3月に流星が制式採用されると同月流星を運用するための部隊第5飛行隊が編成、第一航空艦隊75空(のちの752空)に麾下に配属されることとなった。これが唯一の流星部隊で初の実戦は前述の通り7月24日、25日で英機動部隊である第37機動部隊に対し薄暮攻撃を実施するため流星12期が1733から1818の間に千葉県木更津基地を出撃するが、戦果は無く、夜戦型ヘルキャットの攻撃を受け4機が撃墜されている。8月9日にも12機が出撃、6機が未帰還、13日にも4機が出撃したが全機未帰還、最後の出撃は終戦の日である8月15日の午前中である。

 

まとめ

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の全てを合わせた万能機となる予定であったが、あまりにも計画が理想的に過ぎた。海軍の性能要求は、当時の日本の技術力を大幅に超えたものであり、その上登場時期も遅すぎた。機体設計は素晴らしかったが、他の戦争後期の日本機同様にエンジンの不調に泣かされた機体でもあった。しかし、工場の工作精度の低下や空襲が頻発したこの時期に至ってはどのような航空機であっても高性能を発揮することは出来なかっただろう。

 

 

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01_烈風
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上戦闘機烈風 〜概要〜

 

 

 烈風は零戦の後継機であるが、開発に紆余曲折があり、結局、試作機が7機のみ完成したに過ぎない。しかし最高速度627km/h、空戦性能も高く、操縦も比較的容易という当時の日本の航空機では卓越した高性能を発揮した機体であった。早期に実戦配備されていれば戦局にも大きな影響を与えたとも言われる。

 

<性能>

全幅 14m
全長 10.995m
翼面積 30.86
自重 3110kg
全備重量 4410kg
最高速度 627.8km/h
上昇時間 6000mまで6分7秒
実用上昇限度 10900m
武装 翼内に九九式2号20mm機銃5型2挺(内側)、三式13mm機銃2挺(外側)
   または九九式2号20mm機銃5型4挺
爆装 60kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 1939年実用機試製四ヵ年計画に三菱十六試艦上戦闘機として初めて計画、1940年末に三菱に試作が内示される。しかし三菱は零戦の改造と十四試局戦(雷電)の開発で手一杯な上に適当な発動機がないことを理由に開発は見送ることとなった。その後、さらに構想を練り直し、1942年4月、十七試艦上戦闘機(A7M1)として計画が再開することとなる。通常、後継機の開発は3年強程度の間隔を置いているが、烈風の場合は5年以上の間隔があり、かなり期間が開いてしまった。

 

開発

 1942年7月6日、十七試艦戦試製烈風の計画要求書が交付された。内容は最高速度638km/h、上昇力6000mまで6分以下、格闘戦性能は零戦と同等以上という厳しいものであった。この要求に対して三菱は零戦の設計で有名な堀越二郎技師を設計主務者として開発を開始、堀越技師は多少大型にはなるが、自社で試作中のMK9Aエンジン(2200馬力)の使用を主張するも海軍は傑作エンジンである誉発動機(1850馬力)の採用を決定した。これがのちの烈風に暗い影を残すこととなる。

 1944年4月19日、試製烈風1号機が完成する。エンジンは誉22型(2000馬力)で空戦性能は高かったが、速度は最高でも574km/h程度までしか出ず、上昇力も6000mまで10分以上と今ひとつの性能であった。これに対して三菱は当初要望していたMK9Aエンジンへ換装した試作機の製作を希望、海軍も換装した機体をA7M2とするとして試作を認めた。その結果、1944年10月初旬、烈風6号機を改造したA7M2試作1号機が完成した。

 

発動機の変更

 元々、発動機換装の可能性を考慮して製作された烈風は重心位置の調整のための部分を再設計した程度で全体の設計にはほとんど影響がなく、再設計も全長が11mm短縮された程度であった。1944年10月13日初飛行をした結果、最大速度は624km/h、6000mまでの上昇時間も6分5秒と大幅に性能が向上した。空戦性能も自動空戦フラップを装備した結果良好であり、試験を担当した空技廠からの意見書には、上記の特徴に加え、操縦が容易である程度未熟な搭乗員でも充分活用できるとした上で、至急生産を開始することを要望していた。

 しかし、当初からMK9Aエンジンを選考から外してしまったためエンジンの生産が行われていなかった上、空襲の影響も甚大であり、生産は遅々として進まなかった。1945年6月、A7M2は烈風11型として制式採用されたが、量産1号機の完成寸前に終戦となった。

 

試製烈風改(計画のみ)

 1944年2月、烈風を高高度用局地戦闘機に改造することが決定した。これはエンジンを過給機付きのMK9A(ハ-43 11型)に変更し(この時点での烈風は誉エンジン搭載予定であった)、武装を30mm固定機銃4挺または6挺(2挺は斜め銃)。最大速度は10200mで633.4km/h、10000mまでの上昇時間が18分15秒とし、1号機の完成時期は1945年3月とされた。

 これはかなりの大改造を必要としており、実現不可能な要求であったものの、1944年11月基礎設計が終わり、12月全面的に了承された。武装は五式30mm固定機銃4挺で携行弾数は60発、過荷重では73発(75発説もあり)であった。防弾装備は風防前面と後方に防弾ガラス、後方に防弾鋼板、燃料タンクには防弾ゴム、消火装置も装備する予定であった。

 計画では全長11.964m、自重3955kg、全備重量5732kg、最大速度が高度10300mで648.2km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで15分30秒となっていた。しかし過給機付きMK9Aをしてもパワーが足りないことが想定され、実現できた可能性は低い。

 

試製烈風性能向上型

 これはエンジンを三速過給機付きハ-43・51型に換装して、武装も20mm機銃6挺に強化、防弾性能も向上させる予定であった。試作1号機の完成が1945年12月であったが、その前に終戦となった。

 計画では最高速度が642.6km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで13分6秒、実用上昇限度が11300m、航続力が巡航2.6時間プラス全力30分となっていた。照準器は四式射爆照準器3型を装備した。3型は対大型機撃墜用である。

 防弾装備は風防前後に防弾ガラスを装備し、胴体内タンクは防弾式、翼内タンクは自動消火装置を設置した。この烈風性能向上型は実現性が高く関係者の期待を集めていた。

 

二十試甲戦闘機(陸風)

 卓越した空力的特性を持った烈風改の機体を若干改良してエンジンをハ-44・21型(二段三速過給機装備)とすることで比較的簡単に次期甲戦ができるというのが狙いであった。エンジンは大型であったが、烈風の機体設計には余裕があったため大きな改造をしなくても搭載可能であると考えられていた。

 最大速度は高度10000mで657km/h以上、上昇力は10000mまで15分以内、空戦性能はA7M2程度という要求であった。1946年に烈風性能向上型が実戦配備され、数年活躍した後、1947年初めから実戦配備するという予定であった。

 

評価

 烈風に関しては、空技廠でテストパイロットを担当した小福田中佐は、視界の良さ、操縦の容易さを絶賛しており、戦後の手記にもういちど操縦して思いっきり飛んでみたいと書くほどの高評価であった。これに対して同じく烈風の試験飛行を行った志賀淑雄少佐は全く逆の評価を下している。

 烈風の乗り心地の良さは認めるものの、とにかく機体が大きく、キレがなくて大味、被弾面積が大きすぎて話にならないと酷評した上で、このような無茶な性能要求をした海軍を批判している。さらには烈風は実戦に間に合わなくてよかったとまで言い切っている。

 テストパイロット2人が真逆の意見となってしまった理由は、恐らく、志賀少佐が烈風に搭乗した日は、1944年5月31日とある。記録が正しければ、この烈風は前月に初飛行をした誉エンジン搭載の「低性能モデル」A7M1で、小福田中佐が搭乗した烈風はA7M2であった可能性が高い。志賀少佐が仮にエンジンをMK9Aに換装した「高性能モデル」A7M2に登場していれば評価も変わったのかもしれない。

 

生産数

 烈風の生産数は試作の7機のみである。試作機のため各機で若干細部が異なっていた。烈風改は部品の一部が完成した程度、以降の型は計画のみで実現していない。現存機なし。

 

まとめ

 

 烈風に関しては上記評価でも書いたように賛否が分かれる機体である。理由の一つとしては全幅14mと艦攻並の大きさであることが挙げられる。これは海軍の無理な性能要求に応えた結果でもあるが、小福田中佐は設計者堀越二郎が将来の拡張性も考慮した結果ではないかとも推測している。

 もしそうだとすれば、零戦がギリギリの機体設計であったため、技術の進歩に対して拡張性がなく小改造を繰り返したことを考慮したのかもしれない。同時期に開発されたスピットファイアやBf109は改良を繰り返し終戦まで一流の性能を維持し続けた。

 烈風には計画のみであったが様々なバリエーションが予定されており、計画のほとんどはエンジンを大型のものに換装することが予定されていたが、機体は若干の改良で済むと想定されていた。これは烈風の機体設計に余裕があったためであり、仮に堀越が拡張性を意識していたとすれば、正に先見の明であったといえる。

 

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ミリタリーランキング

「丸」編集部編
光人社 (2011/2/1)

 

総評

 

 本書は現在では数少ない日本海軍戦闘機搭乗員の手記をまとめたものである。内容的にはやはり手記である性質上、一貫性は持たせにくいが編集者の精いっぱいの努力が見られる。現在はほとんどの方が鬼籍に入られているので非常に貴重であるが、ただ、残念なのは、それぞれの手記の初出が書かれていないのは残念であった。私が特に興味を惹いたのは航空隊司令柴田武雄大佐、倉本十三飛曹長、神山武治飛曹長の手記であった。

 

書評

 

 本書は月刊「丸」紙上に発表された海軍戦闘機隊関係者の手記を集めたものである。月刊誌は発売された時に購入しなければならず、その後の購入が困難であり、なおかつ、その後、執筆者の多くが他界してるため、このような形で出版してくれることはありがたい。

 本書の構成は基本的に戦闘機を中心に編集されているようである。最初に航空戦全般について当時参謀だった野村氏の寄稿があり、その後96艦戦、零戦、二式水戦、月光、紫電、紫電改、雷電、烈風とほぼ開発年に合わせた順序になっている。

 

目次

 

野村了介 日本海軍の空戦思想
横山保 新鋭「九六艦戦」の空戦法
羽切松雄/坂井三郎 駿馬「零戦」向かうところ敵なし
横山保 三空零戦隊 開戦の第一撃
吉田一 忘れえぬラバウルの撃墜王たち
中野忠二郎 二〇一空零戦隊ラバウル・ブイン戦記
白浜芳次郎 翔鶴零戦隊マリアナ沖空戦記
柴田武雄 わが海軍戦闘機隊と忘れざる人々
神山猛治 九〇二空「二式水戦」トラック戦記
美濃部正 夜戦「月光」比島の空に奮戦す
原通夫 知られざる夜戦「月光」隊の対潜攻撃
倉本十三 愛機「月光」で記録した一夜五機撃墜
山本重久 飛行審査部“テス・パイ”の思い出
石坂光雄 紫電「奇兵隊」対P51戦闘に燃ゆ
羽切松雄 横空「紫電改」B29ロケット弾邀撃記
中島正 初陣三四三空「紫電改」松山上空の大戦果
市村吾郎 戦闘四〇七飛行隊「紫電改」空戦記
笠井智一 撃墜王杉田上飛曹「紫電改」に死す
戸口勇三郎 本土上空で見せた局戦「雷電」の真髄
赤松貞明 忘れざるジャジャ馬「雷電」との対話
西畑喜一郎 厚木「雷電隊」小園式戦法に戦果あり
小福田租 最後の艦上戦闘機「烈風」試乗リポート
「丸」編集部 終戦時における海軍試作戦闘機

 

 戦後70年以上が経ち、本書に手記を寄稿された方の多くが他界されているので全ての手記が貴重なものであるが、特にファンから人気のある赤松貞明氏が執筆しているのが注目される。特に私の興味を惹いたのは柴田武雄氏の手記である。

 柴田氏は海軍戦闘機隊に詳しい人なら誰でも知っている人物である。太平洋戦争では主に航空隊司令という立場で臨んだ。面白いのは、柴田氏は命令する時に決して「撃滅せよ」という命令は出さなかったそうである。「撃滅せよ」というのは聞こえがいいので何となく使ってしまう司令も多かったのだろう。しかし「撃滅せよ」という命令を発し、撃滅できなかった場合には命令違反になると柴田氏は指摘する。さらに人命に関しては

 

「生命というものは、この世に生をうけた使命役割をいかんなく達成し、もって天意に応えるべきである。そして、これは普遍の真理である」
本文より一部抜粋

 

 という哲学を持っていたという。その哲学の元に被害を少なくすることに全力を注いだという。因みにこの柴田氏は結構な口下手だったそうだ。太平洋戦争前に海軍内部で戦闘機無用論が出た時、柴田氏は戦闘機は必要とその後の結果からみればかなり妥当な意見を主張していたが、源田氏等、戦闘機無用論に太刀打ちできなかったという。

 口下手であっても、上記の哲学を持ち、部下の命令違反にまで気を配る司令には人望が集まったようである。私と同様、柴田氏も運命論者であるという点も共感できた。この柴田氏の稿の中で興味深いのは、柴田氏が本土防空を陸海軍共同でやろうと思い、連合艦隊の同意を得て、陸軍の参謀本部に行った。

 そこで旧知の新藤常右衛門大佐に話したところ意見が一致し、海軍に防空関係の資料一切を提供するように要求したところ、航空主務参謀奥宮正武中佐が、

 

陸軍などに本当のことを言ったら、とんでもないことになる
本文より一部抜粋

 

 といって断ってしまった。ここに陸海軍の対立の根深さが見えると同時に、世間一般では善の海軍、悪の陸軍という二項対立で考えられがちな両者の対立は、実は海軍にも相当な問題があることが分かる。堀栄三『大本営参謀の情報戦記』でも日本空軍創設に反対したのは海軍、特に山本五十六だったことからも窺える。

 神山氏の手記も面白かった。神山氏は数少ない二式水戦の搭乗員であった。二式水戦は、速度こそ遅いものの、実は零戦より旋回性能は良かったようだ。神山氏はこの二式水戦で爆撃機の爆撃を妨害して有効弾を与えられないようにしたり、連合国軍のP38ライトニングと互角に渡り合ったという。これは日本海軍航空隊の実際の記録を丹念に調べた梅本弘『ガ島航空戦』上によっても水上戦闘機隊が通常の戦闘機に対して互角に渡り合ったことが確認されている。

 その他、雷電搭乗員の手記では雷電の離着陸の難しさ、航続距離の無さを指摘する一方、速度、上昇力、加速性能がF6Fやコルセアよりも勝っていた等、実際の搭乗員の意見だけに説得力がある。この雷電は、渡辺洋二『局地戦闘機「雷電」 』によると実は最もB29を撃墜した戦闘機であったという。

 一夜にB29を5機撃墜した倉本十三氏の手記は同乗の黒鳥四朗氏の著作『回想の横空夜戦隊』で別人の視点から確認できて面白いと思う。

 

 

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