トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

海軍搭乗員

01_彩雲
(画像はwikipediaより転載)

 

読書の感想4冊

 

柳谷 晃『一週間はなぜ7日になったのか』

 最近、中学高校の数学をもう一度やり直したくなって読んだ一冊。数学が大の苦手だった文系のアタクシ。いきなり教科書を読んでしまうと失神、卒倒してしまうのでまずは数学に慣れるところからとあまり勉強と関係のないところから攻めたのだ。

 内容はピラミッドの数学的な法則から始まり、ピラミッドが宇宙の法則を表していることを解説している。もちろん宇宙の法則といってもスピリチュアルなものではなく、地球が太陽を一周するのが365日であることや地球と太陽の距離などの科学的なもの。当時のエジプトの学者はそれらを理解しており、それらをピラミッドの構造に表現しながら設計していた。

 タイトルに関しては中盤に説明があるが、そもそも人間は目で見てすぐに分かる月を時間の基準にしていたようだ。月は29.5日で満月から次の満月になる。この29.5日を4等分すると大体7日になるというのが理由だそうだ。なぜ4等分かというと、それは満月→半月→新月→半月→満月と4等分は見た目で分かりやすいのだ。

 奇しくも以前から何故暦は一年を12ヶ月に分けてさらに一週間に分割されているのだろうと疑問に思っていた私としてはスッキリしたのだった。内容は面白かったが、中学高校の数学の勉強のとっかかりとはならなかった。もちろん著者が悪い訳ではない。

 

 

高橋一雄『つまずき克服!数学学習法』

 それではイカン!と思い読んだのが本書。こちらは本当の中学数学の入門書。小学生の算数から数学になったときに付いていけなくなる理由は、小学生の算数に対して中学の数学は抽象的だからだという。それまでの具体的なものをイメージしやすい算数から「x、y」等の記号が登場してくる。さらにそれを基礎としてどんどん抽象的になっていくのだ。

 アタクシが本書に興味を持ったのが、著者の高橋一雄氏は高校三年生まで数学の偏差値が38という超数学劣等生。中高の数学に付いていけなかった人が書いた数学の本は文系一筋のアタクシには非常に理解しやすいのだ。数学に限らず面白く学問を解説する系の本を書いているのは大体、その筋(暴力団関係者とかではなく)の専門家、専門家とは大好きな人がなるものなので、その学問が理解できない人や嫌いな人の気持ちが分からないのだ。

 そこにいくと高橋一雄氏は出来ない人や嫌いな人の気持ちが良く分かっている。出来なかった人は大体できないままで終わるのでこういう人の著書はかなり貴重なのだ。因みにあまりにも面白かったので同氏の著作を検索していたら高橋一雄『神龍特別攻撃隊』というのが出てきて爆笑してしまった。もちろん数学の学習書ではなく、同姓同名の別人である。数学がちょっと面白そうだと思えた一冊であった。

 

 

 

高橋一雄『神龍特別攻撃隊』

 せっかくなのでこちらも紹介。こちらは旧日本海軍のパイロットであった高橋一雄氏。海軍のパイロットなのでもちろん数学は出来たと思うが、上記書籍とは全く無関係の別人。高橋氏は予科練6期生という超ベテラン搭乗員。日本のトップエースの一人である西澤廣義飛曹長よりも一期先輩ということですごさも分かるというものだ。

 高橋氏は戦闘機ではなく水上機一筋。水上機というのは離着水がかなり難しく、水上機から陸上機への転科は出来るが逆はないと言われるほどだ。重巡熊野乗組から重巡利根乗組と艦載水上機の道を歩む。我々オタクの興味を引くのは伊400潜搭載の特殊攻撃機晴嵐の搭乗員であったことだろう。

 晴嵐とは潜水艦搭載の攻撃機で当時の零戦数十機分のコストをかけて製造された超高性能機であった。完成すると「潜水空母」伊400型に搭載されパナマ運河を攻撃する計画であった。実際にパナマ運河の攻撃は行われなかったが、終戦直前に晴嵐を搭載した伊400型は出撃している。

 本書はパイロットとしての側面から晴嵐について書かれた珍しい本だ。著者は操縦性の良い晴嵐に惚れ込んでしまったようだ。晴嵐を操縦した操縦員はかなり少ない。本書は貴重であるが、それだけではなく、潜水艦伊37潜に乗艦していた時、第6潜水艦隊司令部の命令で撃沈した商船から脱出した無抵抗の乗組員を銃撃して虐殺したというような戦争の暗部もまた描かれている。

 

 

 

田中三也『彩雲のかなたへ』

 偵察機といえば高速偵察機彩雲。著者の田中氏は偵察機偵察員。偵察員とは操縦ではなく航法や写真撮影等をやる専門家。GPSが無かった当時、航法というのは職人技といえる精密なもの。特に方角と速度、偏流のみで測定する推測航法は難易度が高く、1,000回測定して一人前と言われるような技の世界だ。写真偵察も同様。当時の写真機は大型で操作にも熟練が必要なのだ。

 田中氏はこの偵察のエキスパート。海軍の教育課程の最上位に位置する特修科で訓練を受けた一流のオペレーターであり写真偵察の専門家であった。田中氏は前述の高橋氏同様、水上機搭乗員として利根乗組から二式艦偵に移る。因みに高橋氏が1942年5月に利根から移動となり、田中氏が同年7月から利根乗組となっているので入れ違いであったようだ。

 まさに偵察のエキスパートであり、戦法も悪天候を利用して敵艦隊上空に到達、急降下して艦隊の隙間をすり抜けて脱出する等、実戦で鍛え上げた強烈な戦い方だ。南太平洋海戦では空母ホーネット発見の功績も挙げている。その後、水偵から艦上偵察機に移り、二式艦偵、彗星、そして新鋭偵察機彩雲と乗り継いでいく。

 彩雲とは米国の新鋭戦闘機F6Fの追跡を振り切り「我に追いつくグラマンなし」と電報を打ったことで有名な高速偵察機である。田中氏はこの彩雲で紫電改で編成された決戦部隊である343空に参加、沖縄への強行偵察等も行う。戦後は海上自衛隊で対潜哨戒部隊に所属、定年を迎えるが、戦後も民間で空撮を行い総飛行時間は合計で5,500時間という偵察に一生を捧げた人生であった。読んでいて鳥肌ものである。

 

 

 

 

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01_九九式艦爆
(九九式艦爆 画像はwikipediaより転載)

 

急降下爆撃機とは

 

 急降下爆撃機とは、1930年代に世界各国で研究された新式の爆撃機のことである。これまでの爆撃機の行う爆撃法とは主に水平爆撃で、水平に飛行している爆撃機からそのまま爆弾を投下するものであった。しかし急降下して爆弾を投下する戦法が有効であると知られるようになると世界各国でこの新式の爆撃法、急降下爆撃の研究が盛んになってくる。

 日本でも1930年代初頭に研究が始まったので世界レベルで見ても比較的早期に研究が始まったといえるだろう。最初に制式採用されたのは九四式艦上爆撃機(艦爆)でこれが日本初の急降下爆撃機である。その後、陸軍と海軍はそれぞれ急降下爆撃機の開発を行い、陸軍は九七式軽爆撃機(軽爆)、九九式軽爆、九九式双発軽爆撃機(双軽)、九九式襲撃機等を完成させる。これに対して海軍は、九六式艦爆、九九式艦爆、彗星艦爆、陸上爆撃機銀河、流星艦爆を完成させている。

 

 

 

危険と隣り合わせ

 急降下爆撃機といっても単純に爆撃機を急降下させればよいというものではない。急降下でかかるGは半端ではない。降下中はエンジンの力と機体の自重で速度はどんどん上がっていく。車でいえば急な下り坂で全速力を出しているようなものだ。これはパイロットの身体にも相当な負担がかかるが何よりも通常の航空機では機体の強度が持たないのだ。特に日本軍機は機体強度が低い機体が多く、このような機体で急降下をしては空中分解してしまう。この問題を防ぐためには設計段階から考えなければならないのだ。

 急降下することによって加速して爆弾の命中精度を上げると同時に対空砲火からも防御されるが、あまりにも加速してしまうとコントロールできなくなってしまう。故に急降下爆撃機にはエアブレーキと呼ばれる空気抵抗板が取り付けられている。これによって速度をコントロールすることが出来るのだ。そうは言っても高速であることには違いない。降下角も60°と凄まじい。訓練や実戦で急降下したものの引き起こすことが出来ずに殉職してしまった搭乗員も数えきれない。

 

 

 

急降下爆撃機偵察員

 著者は乙種予科練7期出身で同期には有名な西澤廣義飛曹長がいる。艦爆偵察員とはただ周囲を観察していればいいというのではない。GPSの無い当時のこと、航法は人間がやるのだ。これは偵察員の仕事。航法とは、地文航法、天文航法、推測航法という3種類がある。地文航法というのは地形を見ながら自機の位置を把握する方法、天文航法というのは天体観測をして自機の位置を把握する方法である。地文航法は主に陸軍機、天文航法は主に大型機が使用する。小型機の後方はつまりは推測航法であるが、実はこれが一番難しい。

 推測航法とは自機の速度と方向、そして偏差を考慮して計算によって自機の位置を割り出す航法。偏差というのは飛行機に左右から吹く風の強さから誤差を割り出すことだ。ちょっとの風でも長時間の飛行では誤差は馬鹿にならない。これを習得するには1,000回は航法を経験しなけば一人前とは言えないという大変難しいものなのだ。これは偵察員の世界では千本偏流と呼ばれていたという(永田P93)。1,000本とは毎日搭乗しても3年間、もちろん毎日飛行するハズはないので習得するまでには5年、10年はかかるのだろう。とにかく計算に自分とペアの命がかかっているのだ。

 そして偵察員の任務はそれだけではない。急降下爆撃機の任務はもちろん急降下爆撃である。この急降下爆撃とは字のごとく55〜60°くらいの急角度で敵に急降下、爆弾を落とすという攻撃法である。現在ではもう無くなってしまったが、ミサイルが発達する以前の時代では高い命中精度を誇る必殺の爆撃法であった。しかし敵から撃ち上げて来る対空砲火の威力は凄まじく、砲火の幕の中に突入していく状態である。まさに「ヘルダイバーズ」である。

 

 

 

急降下中の偵察員

 この急降下の最中、偵察員はただボンヤリしていればいいのかといえばそうではない。急降下爆撃中の偵察員は信じられないくらい忙しいのだ。まずは装備、首からは双眼鏡をかけ、左耳にはレシーバー、右耳には操縦員との連絡用の伝声管、口には酸素マスク、手には機銃である。これらを装備しつつ、急降下中は速度と角度を読みながら正確な照準点を操縦員に伝える。それを何百キロという速度で急降下している最中に行うのだ。もう職人技である。

 そしてこの急降下爆撃機の特徴としてはものすごく死亡率が高い。戦闘機搭乗員は生存率が20〜30%程度であったが、急降下爆撃機乗りはそんなものではない。ほぼ生存することが不可能な職種と言っていい。その中を著者が生き残ったのは奇跡と言って良いかもしれない。松浪氏は後方にいたのではない。松浪氏が配属されたのは激闘が続くラバウルの582空である。この582空とは戦闘機と艦爆の混成部隊で戦闘機隊には有名な角田和男氏等が在籍していた部隊だ。松浪氏はこの地獄の戦場で多くの任務をこなし、奇跡的に生き残ったのだ。

 松浪氏の著書は自身の体験を書いているのと同時に死んだ戦友たちへの鎮魂歌でもある。多くのページを戦友たちとの思い出に割いている。戦友たちは良い奴ばかりではない。嘘をつく奴、ズルい奴等がいて、松浪氏も騙されたりと悔しい思いをするのだ。しかしその「イヤな奴ら」も戦争で死んでいく。それはとても悲しいことなのだ。彼らは人間なのだ。人間には良い面も悪い面もある。それが人間なのだ。松浪氏が描く戦友はまさしく人間なのである。

 

 

参考文献

  1. 永田経治「海軍じょんべら予備学生出陣記」『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年

 

 

 


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坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 

 私が零戦の搭乗員に興味を持つきっかけになった本!。。。ではない。私が零戦搭乗員に興味を持ったのは中学二年生の時に岩本徹三『零戦撃墜王』を西友の古本市で見つけたのがきっかけだ。学校にある図鑑に胴体に桜の撃墜マークをたくさん描いた零戦の絵があり、「撃墜200機以上」の〇×△の機体と書いてあった。古本市でたまたま岩本徹三『零戦撃墜王』を発見して、図鑑にそんな絵が描いてあったなーなんかこの人っぽい(著者〇×△氏。もちろん1回図鑑を観ただけで名前を記憶できる能力は私にはない)と思い、購入。これが零戦搭乗員に興味を持ったきっかけだ。

 その後、徐々に興味が広がり、他の搭乗員の本も読むようになった。まあ、これは高校を卒業してからなのでだいぶ後だ。タイミングが悪かった。ちょうどその時は戦後50周年ということで多くの搭乗員が本を出版していた。搭乗員自体もまだ70〜80代で健在だった。私はどんどんはまり込んでいったのだ。

 その中に坂井氏の著作もあった。『零戦の運命』『零戦の真実』『零戦の最期』の三部作は全てリアルタイムで読んでいる。しかし何故か『大空のサムライ』は読まなかった。当時の私は正直言って零戦搭乗員の撃墜数を知りたかったのだ。坂井三郎氏の撃墜数は64機というのは有名だ(まあ創作なのだが。。。)。なので敢て記録を読み解いてみる必要もないという訳だ。

 まあ、そうはいっても著名な搭乗員、一度は読んでみなければなるまいと思い、結構後になって読んだのが『大空のサムライ』だ。恐らく2000年代に入ってからだと思う。感想としてはまあ、想像通り。当たり前だ。それ以前に私は坂井氏の著作というのは沢山読んでいる。書いてあることは知っていることばかりだ。

 ただ、私は今一つ他の著作と比べて面白くは感じなかった。理由は全体的に文章がきれいでスマートなのだ。登場する搭乗員も他の著者のものだとそれぞれ戦後、本を上梓している搭乗員が同じ部隊にいてそれぞれ名前が確認できたりとそれなりに関係があるのだが、『大空のサムライ』に至ってはほとんどそれがなかった。

 何か別の世界の話のような気がした。これも私が興味を持てなかった理由の一つだった。最近になって本書はゴーストライターが書いたものだと知った(神立尚紀『祖父たちの零戦』)。ただ、内容はフィクションを多少含むがほとんどは事実のようだ。ただ、有名な敵基地上空での編隊宙返りはどうも眉唾物だという。しかし比島で一時的に捕虜になった陸攻搭乗員達が司令部の命令で敵基地に体当たりさせられるというエピソードがあったがこれは事実であったようだ。

 これは戦史家の森史朗氏が『攻防―ラバウル航空隊 発進篇』という著書の中で詳しく調べている。ゴーストライターが書いたとはいえ、坂井氏に無断で書いている訳ではないので坂井氏の著書と考えていいと私は思っている。零戦搭乗員にあまり興味はないが、零戦に興味があったり戦史に興味があったりする人の入門書としては良いと思う。まず藤岡弘主演『大空のサムライ』から入ってそれから原作という順番がいいかな。

 

 


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神立尚紀 大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 

 今日は書評。最近書評が多いねぇー。これは私の気分だから仕方が無いのだ。今日紹介するのは珍しく最近発売された本、2013年末にテレビ放映されたものを本にしたもののようだ。どっちが先かは分からない。本書は零戦を中心に初登場の日中戦争から太平洋戦争終戦までを概ね時系列で追ったものだ。

 取材を始めたのは2007年というからその当時はまだ零戦の関係者も多かっただろう。撃墜王では角田和男氏、田中国義氏、大原亮治氏、原田要氏などがインタビューに答えている。これは「零戦の会」の協力があって初めて可能になったものだろう。著者はNHKディレクターの大島隆之氏と零戦の会会長の神立尚紀氏である。神立氏の著書はよく読ませて頂いているがここに大島隆之氏が共著者として加わるとまた違った視点になるのが面白い。

 

 「(零戦は)まあ風船玉みたいな飛行機だなと思ったですね。こんなので戦争させたのかと思って。」(本田稔氏)
 「もう本当の消耗品じゃよ、パイロットは。参謀連中はのんきなことを言って、今じゃのう高々と恩給もらって、下の者は戦争させられて。ソロモンは墓場じゃったとよ。」(一木利之)

 

 本田氏、一木氏共に生き残りのベテラン搭乗員である。本書の特徴は証言を重視しており、とかく戦争を美化しないことだろう。戦争末期になり特攻隊が編成される部分になるとその特徴がさらに明確になる。その後、玉音放送、終戦となる訳だが、私が特に面白いと感じたのは、玉音放送を聴いた隊員達を見た者の証言である。

 

 「そのときのみんなの表情がね、頬がゆるんでピクピクしてるんですよ。それを出さないように我慢している姿がね。戦争に負けて理屈では悔しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。みんな悔しいふりはしていますよ。デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ!戦闘続行!なんて言いながら、頬がゆるんでいる。体がよじれるような喜びが内から湧いてくる。戦争に負けたこととこれとは、とりあえず別ですよ」

 

 もちろんこれは証言者の杉田貞雄氏の見た光景であって、全ての隊員がこのような状態ではなかったかもしれない。しかしこの言葉に戦争のリアルを見てしまうのだ。この言葉を収録できたことだけで本書には価値があると思う。

 

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梅本弘 著
大日本絵画 (2011/9/6)

 

 今日は私が零戦搭乗員オタクから一時期手を引いていた時に「しれーっ」と発売されていたのが本書。まあ、「しれーっ」ととは私の勝手な印象なのだが。これ、私が昔やろうとしていたことなんだよね。戦闘行動報告書を調べて撃墜数を知る。さらに彼我の戦闘報告書を調べて実際の空戦を再現すること。

 なぜやらなかったのかというとこれは大変な労力が必要なのだ。私がやろうとしていた当時、1995年前後は、まだインターネットはほとんど普及しておらず、戦闘行動報告書を調べるには防衛庁の戦史編纂室?に行かなければならなかったのだ。ということでこの計画は私の完全な妄想で終わってしまって月日は流れ・・・。

 ふとネットを見てみると(現在、もう電脳社会になっている)、すごい労力をかけやった人がいる。それが著者梅本弘氏だった。本書にも書いてあるが彼我の戦闘報告書を調べるのはもちろん(当然、外国のものは外国語)、日本を含めた参加国の人が書いた戦記を読破した挙句に執筆したのが本書なのだ。労力はハンパじゃない。

 その結果、彼我の戦闘の実態が「ある程度」判明した。「ある程度」とは彼我の報告書を突き合わせても分らないことも多いのだ。今では良く知られていることだが、日米双方ともに戦果を過大評価している。結構、衝撃的だったのは私の憧れのヒーロー、岩本徹三のラバウル航空戦での戦闘行動報告書に記載されている撃墜数は何と20機であった。

 その20機すらも過大に報告された戦果である可能性は否めない。岩本徹三は自著でラバウル航空戦での自身の撃墜数を142機と主張しているが実際は・・・。日中戦争での撃墜14機というのも異論があるようだし、実際のスコアは多くて30〜40機程度だろうなぁ、等と思ってしまうのだ。

 これに対して15機撃墜のエース仲道渉の撃墜戦果はほとんどの場合、相手国の報告書で確認できるという。仲道渉は丙飛4期出身で当時はまだ若年搭乗員であった。必ずしもベテランの撃墜戦果が確実で若手の戦果が誤認であるとは言えないということも本書から分るのだ。

 値段的にちょっと勇気がいるが戦史が好きな人だったら絶対に勝っておくべきだろう。いずれ絶版になるだろうから・・・。

 

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 最近、忙しくて中々本を読む時間が無かった。何とか読み終わったのが本書、『神龍特別攻撃隊』である。本書は潜水艦搭載水上機の搭乗員をしていた高橋氏の貴重な記録である。高橋氏は乙種予科練6期修了という超が付くほどのベテラン搭乗員である。6期というのがどれほどのベテランかというと、日本のトップエースと言われる西沢広義氏は高橋氏の後輩にあたる7期出身だ。同期には零戦初空戦に参加した岩井勉氏がいる。

 著者は数少ない潜水艦搭載水上機の搭乗員であり、さらに戦争末期には水上攻撃機晴嵐に搭乗していたというかなり貴重な体験をした人だ。晴嵐とは日本海軍が1943年に完成させた特殊水上攻撃機で「潜水空母」伊400での運用を前提に設計された機体である。28機が生産され、最高速度は474km/h、非常時にはフロートを投棄することも可能である。航続距離は1,540km、800kg爆弾1発または魚雷1本、250kg爆弾4発を搭載することが出来たが、あまりの高性能故に生産コストは零戦50機分に相当すると言われている。

 

 

 私は元々零戦の搭乗員の戦記が大好きだった。しかし最近はもう読む本が無くなってしまったこともあり、水上機搭乗員の戦記を読み始めたのだが、水上機搭乗員の戦記は今まで読んだものはどれもかなり濃い内容だった。本書も他の水上機戦記と同様に内容は濃い。訓練中にいじめられていた搭乗員がいじめた上官を後席に乗せ海面に突入して殉職した話などは衝撃だった。

 さらにペナン島ではドイツのUボートが10隻ほど作戦行動をしており、その性能の高さは日本の潜水艦長を羨ましがらせた。乗っていたのは15歳くらいの少年達が多かったというのもあまり知られていない事実なのではないだろうか。さらに目を背けたくなることだが、撃沈した商船の捕虜を無差別に処刑したことについても書かれている。この処刑命令は潜水艦隊司令部から出ていたものだったという。著者は敢えてその事実と商船の名前を書いているのは勇気のいることだと思う。戦争はスポーツではない。現実はこんなものだろう。

 その他、呉軍港空襲の際に戦艦が特殊砲弾(恐らく三式弾)を発射して米軍機が撃墜されている様子等もあるが、やはり水上攻撃機晴嵐についての記述は特に貴重だ。晴嵐はかなり操縦しやすい航空機だったようである。爆弾は800kgの大型爆弾を搭載することが可能で雷撃もできた。そしてフロートを外すと最高速度は560kmと零戦五二型と同等の速度を出すことが出来るというあまり知られていない高性能機でもある。

 さらに著者は瑞雲にも搭乗している。瑞雲もかなり高性能だったようであり、空戦性能は零戦と互角であると評している。本書は潜水艦搭載水上機搭乗員の記録としてもかなり貴重であるが、晴嵐や瑞雲に実際に乗った数少ない搭乗員の記録であり、戦記に興味のある人にとっては貴重な本だと思う。おススメだ。。。いや、絶対に読んだ方がいい。

 

 

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岩井 勉 著
藝春秋 (2001/12/7)

 

 海軍母艦戦闘機隊のエース、岩井勉氏の著書である。岩井氏は大正8年京都府生まれ、乙6期予科練生として横須賀航空隊に入隊。昭和15年には日中戦争に参加、何と零戦初空戦にも参加しているというすごい人だ。10年程前まで御健在であったが2004年4月17日他界された。

 岩井氏のすごさは当時でいう「支那事変以来のベテラン」であるだけでなく、当時、腕のいい搭乗員が選抜されるという母艦戦闘機隊隊員としてラバウル航空戦に参加、数々の戦果を挙げただけでなく、その間に被弾ゼロだったという奇跡ともいえる記録を持っていることだろう。この記録を持っていれば当然であるが無事終戦を迎えた。

 この被弾ゼロに関しては本書に面白い記載がある。戦時中一時帰郷した際、鞍馬寺で導師に憑依した大力権現が郷里の人には伏せていた戦闘で怪我をしたことを見抜き、さらには「お前の飛行機の左翼の上には、いつでもこの大力権現が乗ってやっている。思う存分戦うがよい」と言われたという。神様のお墨付きであったようだ。

 教員時代に「ゼロファイターゴッド」と訓練生にあだ名を付けられた岩井氏は操縦は飛行時間の大小によって決まり空戦の優劣は実戦経験の多寡によって決まるという。そして海軍に対しては古い操縦練習生出身者、ならびに予科練出身者に対し進級を早くし、高度の指揮権与えてほしかったという。

 その後岩井氏は特攻隊に編入されるが結局、自分だけが生き残ったという自責の念を持ったようだ。ここらへんの気持ちは当時の同じ境遇にいた人にしか分らないことなのだろう。本書は戦後70年過ぎ、多くの零戦搭乗員が鬼籍に入られた現在においては貴重な歴史の記録であるといえる。

 

 

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横山長秋 著
光人社 (2011/3/1)

 

 かなり久しぶりに戦記物を読んだので感想を書いてみたい。本書の著者は元海軍陸攻搭乗員だ。陸攻とは中攻ともいう双発の爆撃機だ。陸攻とは陸上攻撃機の略で中攻とは中型攻撃機の略だ。どちらも同じものを指す。有名なのは一式陸攻や九六陸攻などがある。著者は九六陸攻の操縦員だった。結構戦記で一式陸攻空戦記は多いが、九六陸攻空戦記というのは貴重だと思う。本書の面白いところは戦争後半から末期の九六陸攻空戦記なのだ。

 著者は1943年に甲種予科練12期に入隊したのち37期飛練で訓練を受け、1944年10月から実戦部隊に配属された。太平洋戦争ももう負けが確定していた時代だ。著者の実戦部隊にいた期間は1年にも満たないが我々が普通に生きる1年とは意味が違う。生きるか死ぬかという瀬戸際に立たされた1年だ。九六陸攻は開発当初は渡洋爆撃に活躍したがこの頃になると旧式化しており後方任務に使用されることが多かった。

 著者も初陣は対潜爆撃である。しかし一式陸攻と異なり九六陸攻は速度が遅いので対潜攻撃には一式陸攻以上に優れていたとは思う。後方任務といっても夜戦に攻撃されたり、F6Fに銃撃されたりと安全な任務だった訳ではない。何度か死線をくぐり抜けている。特に興味深いのは九六陸攻による対潜攻撃の方法と実践が詳述されていることだ。さらに海面への不時着水の難しさというのは本書を読むと良く分かる。

 著者は自身を「悪運が強い」と言っているが、実際その通りだと思う。後方任務が中心ではあったが沖縄に物資や人員を空輸したりと危険な任務があった。戦争末期に防弾性能がほぼ皆無といってよい九六陸攻で作戦を遂行し生き残ったというのは技量もさることながら運の要素も大きかっただろう。

 

 

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藤代 護 著
書房光人新社 (2017/9/1)

 

 また飛行艇戦記。著者は藤代護氏、乙種予科練9期出身の水偵乗り。偵察員であった。「偵察員」とはよくわからない方もいるかもしれないが、水上偵察機には通常、2〜3名の搭乗員が乗る。操縦員と偵察員、または操縦員と電信員、偵察員である。予科練を目指す者で初めから偵察員を目指す人はまずいない。著者も予科練では当然のように操縦員を希望していた。しかし操縦員には選ばれなかった。著者はトイレで泣いたという。

 しかし、今度は日本一の偵察員にやってやると気持ちを切り替える。著者はその後も数々の不本意な状況に置かれるがその都度前向きに頑張る。偵察員に指名されたことについて、これは私の勝手な推測だが、著者は操縦適性が無かったのではなかったと思う。ただ、偵察適性がダントツに高かったのだろう。要するに頭が良かったのだ。

 著者は予科練での送受信訓練でモールスで送られてくる通信文を毎回一文字も間違えなかったという。さらに飛行時間1000時間を超えるころには300カイリを飛行しても推測航法で誤差が1カイリ以内だったという。海軍の航法には天文航法、地文航法、推測航法の3種類ある。天文航法は天体の位置から自機の位置を測るというもので地文航法とは地形を見て自機の位置を測るものだ。そして推測航法とは自機の速度と風向き、風速を推測して自機の位置を測るという最も難易度の高い航法である。

 全て推測だ。300カイリ飛行して1カイリ以内に収めるというのがどれだけすごいことなのか想像できるだろう。kmに直すと500km以上を飛行して誤差は2km以内ということだ。著者は恐らく、操縦適性以上に偵察適性があったのだろう。例えば操縦適性がBランクで偵察適性がAであれば偵察に回される。こういうことだったのだろうと思う。著者は戦後、大学に入っている。もともと頭の良い人だったのだろうと思う。著者は部下の統率にも優れた才能を発揮している。予科練内での甲乙間の軋轢なども興味深い。

 

 

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坂井スマート道子 著
産経新聞出版 (2012/8/17)

 

 今日紹介するのは多分、日本で一番有名な撃墜王、坂井三郎の著書・・・ではなく、坂井三郎の子、坂井スマート道子氏の著書『父、坂井三郎』である。64機撃墜した海軍航空隊の撃墜王、大空のサムライとして有名な坂井氏の普段の生活、ものの考え方などがよく分る本である。

 まず、冒頭で坂井三郎氏が一番批判されている撃墜数について述べる。坂井氏は撃墜数64機となっているが自称したことは一度も無く、これは出版社が創作した数字であるとのこと。そして坂井氏との思い出が描かれる。坂井氏はアメリカ人に対して

 

「お前、アメリカ人は楽しいぞ」

「話が早くて、簡単なんだ。話していて気持ちがいい」

 

というようにアメリカ人とは波長が合ったようだ。アメリカ人も坂井氏の著書を読んで今までは血も涙もない存在だと思っていた零戦パイロットが自分達と同じ人間なのだということが分ったという。さらに本書では坂井氏がティベッツ大佐(エノラゲイ機長)と対話した際のエピソードも記している。坂井氏はティベッツ大佐に対して命令であれば自分も投下していたと語り、論理的にティベッツ大佐に対する日本人の批判が間違いであると語ったという。

 このくだりは本書に詳細にしるしてあり、引用したかったがあまりにも長かったために断念した。ただし戦争当事者同士のやりとりとしては貴重な記録だと思う。さらに本書では坂井三郎氏の哲学、子供への教育などが語られる。これは坂井氏の子供であるスマート道子氏でなければ書けないものだろう。外に出たときは前後左右上下を確認するなど、坂井氏独自の考えが面白い。

 本書の中で特に注目したいのは、「おわりに」でスマート道子氏が坂井氏の批判ともとれる内容が記述されている、神立尚紀『祖父たちの零戦』に言及していることだろう。零戦搭乗員でもっとも有名になってしまった坂井氏への評価が相対的に見られるのが面白い。本書は上記『祖父たちの零戦』と併せて読むのが面白いと思う。どちらの本も事実を極力客観的に記載しているのでこの2冊を読むと坂井氏の輪郭の一部が浮き彫りになると思う。その姿をどうとるかというのは読者次第であろう。私は魅力的な人物だと思った。

 

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木下悦朗「炎の翼「二式大艇」に生きる」

 木下少尉は野球部出身ということで体育会系のノリがあったのだろう。軍隊でうまくやれたようだ。さらに大学の恩師の著書を焼いてしまうという思いっきりの良さで、部下からの信頼も厚かったようだ。木下という名前から木下藤吉郎にあやかって瓢箪をマスコットにしたりとチームの団結が強いのが分かる。作戦は危険な作戦が多く、良く生き残れたなと思うほど危険をくぐり抜けている。『二式大艇空戦記』の著者、長峯五郎氏もそうだが、重防御で重武装の二式大艇といってもやはり危険なことには変わりないんだなぁと思う。

 著者が搭乗しているのが1機のみ造られた二式大艇の「K3」型で、離水すると翼端のフロートが跳ね上がる構造になっていたようだ。一般の二式大艇に比べて速度も5ノットほど速かったという。面白かったのは嚮導機として出撃した時に米軍のB-29を含む大型機と「すれ違った」ことだ。お互いに気付いていたが任務があるので何事もなく通り過ぎるという。これも戦争の「妙」なところだ。さらに特攻隊員の幽霊が出たりもしたという。

 戦場での霊に関しては横山保『あゝ零戦一代』に「ケンダリーの怪談」というのが登場する。同じように霊が現れるが、横山大尉がちゃんと足まで布団をかけて寝るようにと全隊に指示したところ霊が現れなくなったという。要は隊長の変化による幻だったようだ。本書の特攻隊員の霊もやはり夏の蒸し暑い時期に出てきているので同様の理由だろう。そういえば、「ケンダリーの怪談」は他の搭乗員の手記にも書いてあったと思うけど忘れてしまった(えへ!)。

 

日辻常雄「大いなる愛機「二式大艇」奇跡の飛行日誌」

 日辻氏は著名な飛行艇隊の隊長だ。初戦期から戦闘に参加し、南方での戦闘も経験している。この手記の中でも南方でのB-17との空中戦はすさまじい。しかし飛行艇隊は消耗が激しく、飛行艇の講習を修了した同期11名は1942年の末に日辻氏を残して全員戦死してしまう。日本海軍機で最初に電探(レーダー)を搭載したのが九七大艇であったことや飛行艇でパナマ運河を爆撃するという発想(有馬正文少将の考え)もあったことも知ることが出来る。

 本書で手記を書いている木下少尉や『二式大艇空戦記』の長峯五郎氏が参加した梓特別攻撃隊を隊長の視点から見ているのも興味深い。最後の二式大艇を操縦して米軍人を感嘆させる場面は見もの。詳しく知りたい人は日辻常雄『最後の飛行艇』を読んでみるといい。もっと詳しく書いてある。

 

山下幸晴「わが潜偵米機動部隊の直上にあり」

 これまた貴重な潜偵搭乗員の手記だ。潜偵とは潜水艦偵察機の略で潜水艦に搭載される零式小型水偵のことだ(因みに晴嵐は攻撃機)。潜偵は一度偵察に出ると生還することはかなり難しい。発艦は良くても着艦する時にまず潜水艦を見つけられない可能性がある。さらに見つけたとしても敵機に追跡されていれば母艦は潜行してしまう。そして敵機に追跡されていなかったとしても洋上の波が荒ければ着水できないこともある。

 故に潜偵乗りは非常に危険なのだ。そしてその潜偵乗りの手記はかなり貴重なものだ。山下氏の手記を読むと、潜水艦の中の生活が生々しく描写されている。入浴ができないので体中垢だらけだとか、爆雷攻撃を受けている時の恐怖心など、体験しているだけに凄まじい迫力だ。潜偵搭乗員は特攻隊員のような気持ちだそうだ。一度偵察任務が命じられたならば生還の可能性は低い。偵察時期が近づくと死の階段を一段一段登っていくような気持ちだという。

 その山下氏もメジュロ環礁の偵察が命じられる。薄暮に出撃して夜に帰還。潜偵は廃棄して搭乗員のみ収容という計画が立てられる。山下氏はメジュロの偵察を敢行し何とか無事にたどり着く。貴重な潜偵搭乗員の手記だ。他に潜偵搭乗員の手記は高橋一雄『神龍特別攻撃隊』と藤田信雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』所収くらいだろう。ただ、『トラ・トラ・トラ』はもう絶版なので入手は困難だろう(アマゾンには無かった(´;ω;`)ウッ…)。別に藤田氏が乗艦した伊25号の乗組員が書いた手記、槇幸『伊25号出撃す』等もある。

 

佐々木孝輔「翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」」

 著者は海軍兵学校67期の出身だ。飛行艇では、九七大艇、二式大艇を操縦している。九七大艇は水上滑走しながら雷撃ができることや1943年にイタリアが降伏した際、日本はイタリアを今後敵国として扱うこととなった。その時、昭南島(シンガポール)にあったイタリアの潜水艦隊が抑留され、ドイツ軍に引き渡されたが、潜水艦母艦「エレトリア」は監視の目をかいくぐって逐電してしまった等の話は興味深い。

 佐々木氏の手記の特長は特に操縦関係に関して詳しいことだ。対空砲火の中を銃爆撃している時は怖くないが帰還する時、急に怖くなる等、搭乗員でなければ分からない心理も書かれている。圧巻なのは、インド洋で潜水艦から燃料補給を受けて遠距離作戦を行ったことだ。残念ながら着水して潜水艦との合流は上手くいったものの離水に失敗して水没してしまったという。幸い、搭乗員は潜水艦に救助され無事に帰還した。

 

佐々木孝輔「南海の空に燃えつきるとも」

 これも佐々木氏の手記。初出は1984年9月で前出の手記の翌月に掲載されたものだ。前出の手記が著者の海軍生活の前半、この手記が終戦までの後半という形になっている。あの猛将角田覚治中将がテニアン島で戦死する前に著者に対してしっかり頼むと手を握りしめ、涙をポロポロ流しながら話したというエピソードや公刊戦史に記録されていない「あ」号作戦時の飛行艇隊の記録等は貴重だ。

 さらに幻の木製飛行艇「蒼空」の審査を担当していた。蒼空の記事はかなり貴重だと思う。蒼空は3階建てで人員102名を乗せる予定だった。中は畳敷きであったなど面白い。以上が本書の私が興味を持ったところだ。山下氏以外は全て飛行艇戦記である。その山下氏も潜偵戦記とかなり珍しい1冊になっている。二式大艇は海面をバウンドする「ポーポイズ」に悩まされたことは有名だ。荷物の積み方まで工夫する必要があったという。これに対して九七大艇は非常に安定した離水性能だったという。同じ飛行艇乗りのベテラン下士官北出氏は、選べる時は九七大艇に登場したという(北出大太『奇跡の飛行艇』)。

 

 

 飛行艇戦記では他に、日辻常雄『最後の飛行艇』や長峯五郎『二式大艇空戦記』等があるので興味のある方は読んでみるといいと思う。

 

 

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 また本のレビュー。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。

 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。

 

 

 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。

 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。

 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。

 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。

 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2020年)ご健在であれば97歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。

 

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長峯五郎 著
光人社 (2006/12/1)

 

 私は第二次世界大戦の航空機の中で二式大艇が一番好きなので買ってしまった。二式大艇の詳しく知りたい方は下記参照。

 

 

 本書で私が一番驚いたのは長峯氏の性格である。以前、機種ごとの搭乗員の性格というのが確か坂井氏の著書か何かに書いてあったが、戦闘機と艦爆は勇猛、艦攻乗りは冷静沈着、そして水上機乗りはビックリする位温和な人が多いとかだったと思う。翻って行間から浮かび上がる長峯氏の性格は勇猛果敢でかなり戦闘向きの性格をしている。戦後は長峯水産という会社を横浜で起こしたらしいので相当な親分肌だったのだろう。

 長峯氏は乙種予科練12期というものなので実戦に参加したのは太平洋戦争中期以降である。日辻常雄氏のようにガダルカナルでの空戦を経験しているようなベテランではないが、操縦技術や統率に関する自信は並大抵ではない。すぐに実戦には参加せずに横須賀航空隊での勤務があったことが氏の練度向上に役立ったことは間違いない。当時としてはある意味幸運であったともいえる。

 長躯、トラック島に偵察機彩雲用の増槽を空輸して命からがら帰還したり、夜間着水に失敗して瀬戸内海を漂流したりとすごい経験をしている。しかしもっとも強烈なのは梓特別攻撃隊の嚮導機として特攻隊に編入されたことだろう。長峯氏は奇跡的にメレヨン島に不時着するが、司令官からの最大級の褒章が「サツマイモ5個」という飢餓の島だった。

 配給された米は量を増すために粥にしては絶対ならず(粥にして食べた人達は餓死した)、30回噛んで食べること等、貴重な経験が書かれている。長峯氏は貴重な熟練搭乗員ということで潜水艦により救出される。実は不時着が確認されて直後に潜水艦が救出に向かうが撃沈されてしまっているので二隻目の潜水艦だった。

 当時、熟練搭乗員というのがどれほど大切にされていたのかが分かる。日本海軍は戦争開始から搭乗員救出には米軍程熱心ではなかった。梅本弘『ガ島航空戦上』に詳しいが、日米航空戦で同数が撃墜されても搭乗員の死亡率は圧倒的に米軍が高い。戦争末期ほど搭乗員を大切にしていれば日本海軍航空隊ももっと戦えたと思うと残念。これは搭乗員に限らずにいえることだ。

 因みにメレヨン島に関しては戦後、海軍側責任者宮田嘉信は自決、メレヨン島最高司令官北村勝三は遺族への訪問を一年がかりで終えたのち1947年8月15日に自決している。それと本書には死んだ息子があいさつに来た等、常識では考えられないような不思議な話も載せられている。戦記物を読んでいるとたまにこういう話に出くわす。

 

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零戦01
(画像はwikipediaより転載)

 

オール先任搭乗員

 

 オール先任搭乗員。何のことだか分からないかもしれない。これは日本海軍の戦闘機搭乗員であった菊池哲生上飛曹に付けられたあだ名だ。先任とは軍隊では同じ階級で最も序列が上の人間を指す言葉だ。では「オール先任」とはどういうことだろうか。日本海軍では特務士官といって下士官兵から士官への昇進のルートが存在した。特に搭乗員は昇進が早く、ある程度の経験、実績を積むと特務士官となることができる。

 著名な海軍の搭乗員である岩本徹三や坂井三郎等も兵として海軍に入り特務士官となり少尉として終戦を迎えている(岩本、坂井は菊池と同年兵)。しかし菊池哲生は士官への昇進を拒み続け下士官として生涯を終えた。「オール先任搭乗員」というあだ名はこれに由来している。もちろん能力が低くて昇進できなかった訳ではない。彼は技量人格共に優れ、撃墜数も恐らく20機は超えていると言われる程の熟練搭乗員であった。菊池はあくまでも「自ら」士官になることを拒み続けたのだ。

 

海兵団入団。戦闘機搭乗員へ。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池哲生は大正5年(1916年)に岩手県に生まれる。父親、兄共に医師であった(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法昭和9年(1934年)に海軍に入隊、当初整備兵であったが航空機搭乗員を目指し、昭和12年(1937年)5月操縦練習生39期に採用された。操縦練習生略して操練は兵から選抜される搭乗員養成課程である。前の38期には著名な撃墜王坂井三郎がおり首席で卒業している。余談だが、操練は兵からの選抜のため年齢に開きがあるが搭乗員という体力が必要な職種である以上、ある程度年齢層は固まっている。

 例えばこの操練39期前後のクラスは主に大正5年前後の年齢の練習生が主だった。大正5年生まれ前後の搭乗員は20代前半で中国戦線で実戦経験を積み、25歳前後の知力体力共に充実した時期に太平洋戦争に突入したため、戦争初期から中核となって戦ったクラスであったが同時に犠牲も多かった。 例えば、菊池の卒業した操練39期生30名の内、戦闘機専修は7名いるが、その内6名が戦死している。このことからもどれだけ過酷だったのかが分かるだろう。

 訓練を終えた菊池の初の戦地は昭和14年(1939年)に配属された南支戦線である。しかし、ここでは空戦の機会には恵まれず内地に帰還、霞ヶ浦航空隊、谷田部航空隊で教員配置となる。海軍の搭乗員の教育は「職人の養成」と言われるくらいの少数精鋭主義であった。この時期は日米開戦を間近に控えた時期であったため搭乗員の大量育成が始まりつつあったが戦争中期や末期に比べればはるかに充実していた。それだけに教育も厳しかったが特に「日本の張飛」と言われた菊池哲生の教育の厳しさは有名だったようであり、入隊早々の挨拶が「パンチ」であり、以後も折に触れ体罰が加えられたという(『本田稔空戦記』)。

 この時期に菊池に教育を受け、後に南方やラバウル航空隊や343空で活躍した著名なエース本田稔氏は菊池教員についてこのように語っている。

 

菊池哲生―― その名は、霞が浦にまで知れ渡っており、本田氏はもし自分が谷田部空に行っても、この菊地兵曹の指導だけは避けたいと祈る思いでいた。だが、残念ながら本田氏の祈りは天に届かなかったのである。とにかく菊池教官の指導は厳しかった。「93式中間練習機」通称”赤とんぼ”の後部座席から、ことあるごとにゴツンと頭を殴られる毎日が続いた。本田氏は菊地教官の指導についてこう語っている。「菊池教官の教育は、要するに自分の操縦は自分で編み出せということでした。昔の侍の剣の道と一緒だというわけです。つまり、基本は教えてやるけれども、本田流の操縦は自分で編み出せと。結局それが良かったと思いますね」
(井上和彦『最後のゼロファイター』より引用)

 

 体罰については当時の搭乗員の間にも賛否があるようで乙種予科練5期の角田和男は反対、日本海軍のトップエースと言われる西澤廣義は肯定などまちまちだった。因みに、この昭和16年(1941年)中盤から後半に育成された搭乗員は丙飛(旧操練)2〜4期、乙飛(旧予科練)10期、甲飛5期、海兵68期は戦争初期から中期にかけて各地の戦線に投入された。活躍すると同時に多くの犠牲を出すこととなる。甲飛5期にいたっては戦闘機専修者42名中36名が太平洋戦争で命を落とした。

 

母艦搭乗員。そして開戦。。。

 

03_セイロン島沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊池は教員配置の後、昭和16年(1941年)9月空母赤城乗組みを命ぜられる。そして昭和16年(1941年)12月8日、赤城以下6隻の空母艦載機が真珠湾を攻撃する。所謂真珠湾攻撃である。菊池は制空隊ではなく艦隊上空哨戒を命ぜられる。恐らく当時はまだ熟練搭乗員が多く経験の比較的少ない菊池クラスの搭乗員が上空哨戒にまわされたのであろう。この時に艦隊上空哨戒を行った搭乗員にはのちに活躍する岩本徹三、原田要、小町定等がいた。

 昭和17年(1942年)4月にはインド洋作戦に参加。5日のコロンボ空戦では単機で撃墜3機、不確実撃墜2機を記録する。これが確認できる菊池の初戦果のようだ。このコロンボ空襲はインド洋の要衝に位置するセイロン島にある英軍基地を空襲したものであった。日本側発表の戦果は英軍機を51機撃墜。対して日本側の戦闘機1機、艦爆6機が撃墜されたとしている。この数字はやや過大であり、戦後の航空史家の調査によると英軍の実際の損害は28機と日本軍の報告した戦果の約半数であるという(梅本弘『ビルマ航空戦〈上〉』上)。それにしても圧倒的勝利であったことは間違いない。勝利の要因は日本側の兵力が圧倒していたためだろう。

 そして昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に参加。第一次制空隊としてミッドウェー島攻撃に参加、2機撃墜、2機不確実撃墜の戦果を挙げる。その後艦隊上空哨戒で来襲してきた米軍機と交戦協同で3機を撃墜するも母艦赤城が撃墜されたため飛龍に着艦する(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』)。この時、飛龍が被弾艦内に閉じ込められてしまう。一緒にいた高須上飛(操練51期)と出口を探すが全て閉鎖されており一時は自決を決意したようだ。しかし士官室の窓から外に出られることに高須上飛が気が付き脱出するが菊池は20数貫(80kg以上)を超す巨体。一時は脱出を断念すも最終的には何とか脱出することができた(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法

 その後、菊池はミッドウェー海戦生き残りの他の搭乗員と共に鹿屋基地に軟禁される。外出は禁止され仲間以外とは口がきけない状態だったという。菊池は鹿屋基地に軟禁されたがミッドウェー海戦に参加した他の搭乗員も各基地に軟禁された。例えば後にラバウルで有名を馳せる第6航空隊(のち204空)の搭乗員は木更津(204空編『ラバウル空戦記』)、蒼龍乗組の岡元高志(操練43期)は大湊航空隊に。同じく蒼龍乗組の原田要は笠之原基地に軟禁された(森史朗『零戦 7人のサムライ』、原田要『零戦(ゼロファイター)老兵の回想』)。

 この軟禁はミッドウェーの敗戦を隠すための口封じというのが大方の搭乗員の見方であった。味方の搭乗員を軟禁とは大げさと思われるかもしれないが、木更津基地に軟禁された6空搭乗員は海岸寄りの隊舎に入れられた上、縄張りが張られ憲兵によって監視されており(杉野計雄『撃墜王の素顔』)、まさしく軟禁である。このミッドウェー海戦の敗北の隠ぺいでそれまで正確に報道していた大本営発表が虚偽の発表を行うようになった。これは国民だけでなく陸軍に対してさえも隠ぺいされたという(辻田真佐憲『大本営発表』)。

 

ソロモン戦線へ

 

04_瑞鶴航空隊員
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、正確な日時は不明だが1ヶ月ほどで軟禁は解かれたようだ。菊池は今は機動部隊の主力となった空母翔鶴に着任する。他のミッドウェー生き残りの搭乗員は7月にそれぞれ新しい部隊に着任しているので菊池も7月頃に翔鶴に着任したのだろう。菊池は翔鶴戦闘機隊として第二次ソロモン海戦に参加する。第二次ソロモン海戦とは昭和17年8月24日に始まった日米空母海戦である。主な参加兵力は日本側が空母翔鶴、瑞鶴、龍驤、米側はエンタープライズ、サラトガ、ワスプである。

 海戦の結果は日本側は空母龍驤、駆逐艦睦月が撃沈され、多数の航空機を失ったのに対して米側はエンタープライズ中破と20機の航空機を失ったに過ぎなかった。日本側の完全な敗北である。これによってガダルカナル島の制空権は完全に米側の手に落ちた。その後菊池は新郷英城大尉の指揮の下、ブーゲンビル島ブカ基地に進出。連日の航空戦に参加する。9月4日に翔鶴戦闘機隊は帰還するが、進出した15機中帰還したのは菊池を含め10機のみであった。未帰還の5機の中にはミッドウェー海戦で共に飛龍から脱出した高須上飛も含まれていた。

 さらに10月26日、空母翔鶴は南太平洋海戦に参加する。これは陸軍のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場総攻撃を支援するために出撃した日本海軍機動部隊とそれを阻止するために派遣された米海軍機動部隊との間に行った海戦である。結果的に米機動部隊の撃退には成功したものの主目的である日本軍の総攻撃は失敗したが、日本側の損害が空母翔鶴大破というのに対して米側は空母ホーネットが沈没、エンタープライズ中破と一応戦術的勝利を収めた形になる。

 しかし人員の損害をみると艦船乗員の死者は同数であるものの航空機搭乗員の米側26名に対して日本側148名と極端に多い(「南太平洋海戦」wikipedia)。この南太平洋海戦で菊池の操練39期の同期星谷嘉助も瑞鶴戦闘機隊員として戦死している。この海戦に菊池は参加していない。これは菊池がブカ基地に進出した際マラリアとデング熱に感染してしまったことが原因らしい。菊池はマラリアとデング熱のために体が熱くなり、それを冷ますための氷嚢に入っている氷をかじっていたことにより病状をこじらせてしまった。このため南太平洋海戦の間は翔鶴の艦内で寝ていたようだ(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法0みにこの南太平洋海戦で操練39期の同期星谷嘉助が瑞鶴戦闘機隊で参加戦死している。

 

俺は准太郎になるほどの馬鹿じゃない

 

 菊池はそのまま内地の病院に入院してしまう。同時に昭和17年(1942年)11月、菊池は上飛曹に進級する。これは菊池にとって生前の最高位である。以降菊池は戦死するまで「俺は士官の仲間入りはしない」(小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供戞法崕畋析此塀攣隆院疊曹長)になるほどの馬鹿じゃない」(白浜芳次郎『最後の零戦』)と飛曹長(士官)への任官を拒み続ける。菊池が士官への任官を拒否する理由はこうだ。菊池によると日本海軍の強さは下士官にある。そして兵を強い下士官に育てるのは下士官だ。しかし戦争が始まって経験の浅い兵ばかりになってしまった。そのために自分が下士官として残り続け優秀な下士官を育て続ける。というのだ(白浜芳次郎『最後の零戦』P174)。

 菊池の性格は豪放磊落で気骨のある「日本の張飛」とあだ名されるほどの人物だったが菊池が広い視野で海軍全体を客観的に見ていることが分かる。ただの豪傑ではないのだ。菊池の聡明さを示すエピソードにこんなものがある。のちの話になるが、昭和19年(1944年)5月に連合軍がビアク島に上陸した際、母艦搭乗員の間で敵機動部隊の主目標について憶測が交わされた。多くの搭乗員はビアクを主目標と考えたが菊池は一人異を唱える。

 

ビアク島こそ牽制作戦だ。大体アメリカさんは、ソロモン・ニューギニア方面を陸軍が受け持っとるタラワ、クェゼリンは玉砕したが、あの方面ー太平洋の真ん中は、海軍の受け持ちだ。だから、敵の機動部隊はサイパンにくる。サイパンだ
東富士喜「龍鳳戦爆隊」『艦隊航空隊』

 

 当時米軍は陸軍と海軍がそれぞれの方面から日本に侵攻していた。海軍はマーシャル諸島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄と太平洋を進撃する作戦を行い、陸軍はニューギニアからフィリピンを目指していた。根拠から分析、結論まで全く正確であったことはのちに判明することとなる。連合艦隊がビアク島に上陸した米軍に対して渾作戦を行い兵力を分散させてしまったことを考えると菊池は連合艦隊の参謀以上に正確に状況を把握していたといえる。

 

再びソロモン戦線へ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年(1942年)11月、内地帰還後築城空の教員をしていた菊池だが昭和18年(1943年)9月再び母艦勤務に復帰する。龍鳳、飛鷹、隼鷹と第二航空戦隊を転々とした後、南方に進出する。この間、昭和18年12月末から一週間カビエン基地へ派遣された。さらに昭和19年(1944年)になると隼鷹、飛鷹、龍鳳の第二航空戦隊はラバウルに派遣され菊池上飛曹も1月25から2月19日までラバウルで連日の迎撃戦に参加する。ラバウルに派遣された第二航空戦隊は戦闘機だけで69機を数え、少数で迎撃戦を展開していたラバウル航空隊にとって強力な増援であった。

 同時に、この第二航空戦隊の進出によって長い間戦線を支えていた204空はトラック島に後退する。この大部隊の登場に、当時253空に所属していた岩本徹三飛曹長は、歓迎すると同時に「艦隊戦闘機隊という誇りはあっても敵の性能、戦法も知らない状態であれば危険である」と不安を感じていた(岩本徹三『零戦撃墜王』)。実際、第二航空戦隊戦闘機隊は初空戦で4機を喪失するという損害を出してしまう。菊池や小泉藤一という熟練搭乗員もいたが多くが実戦経験の少ない若手搭乗員だったことが理由だろう。岩本の不安は的中した。

 しかし連合軍側には第二航空戦隊の戦線参加は脅威だったようだ。当時の連合軍側航空隊指揮官は下記のように警鐘を鳴らしている。

 

ラバウルの防空戦には明らかに新しい部隊が加わっていた。新着の零戦隊は自軍の対空砲火に当たる危険を顧みずSBD艦爆の急降下に食らいついて来た。従来の零戦隊に比べ、この部隊はよく訓練され指揮統率もより攻撃的であった。これからもこの部隊と戦わなければならないとすると、大きな損害を覚悟しなければならないかも知れない。
(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)

 

 菊池達、第二航空戦隊の登場は連合軍側を恐怖せしめたようだ。しかしこの第二航空戦隊も連日の戦闘で徐々に消耗していきラバウルを後退する時には69機あった戦闘機も37機に減少していた。約半数になってしまったのだ。

 

そして、マリアナ沖海戦へ

 

06_マリアナ沖海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年(1944年)2月に第二航空戦隊はラバウルを後にする。そして菊池はそのまま652空に転じた。652空は第二航空戦隊の後進部隊であり基幹搭乗員も多くが残されたようだ(因みに第二航空戦隊は艦隊であり652空は航空隊である。複雑なので説明は割愛する)。ただ第二航空戦隊はラバウルでの戦闘で大きく消耗しており内地で再建が急がれた。下士官の「ぬし」である菊池上飛曹も部下の教育に腐心したであろう。

 そして昭和19年(1944年)6月、あ号作戦に出撃する。菊池上飛曹は攻撃隊直掩として出撃するも敵機動部隊を発見出来ずに燃料がなくなったためグアム島に着陸する。菊池上飛曹は上空哨戒にあたっていたがその時40〜50機の米軍機が来襲、菊池上飛曹等直掩戦闘機隊は迎撃する。しかし長距離飛行をしてきた直掩戦闘機隊には燃料がなく、撃墜されるまでもなく次々に落ちていったという。菊池上飛曹も敢闘し敵機2機を撃墜するも燃料切れのため落ちていった。豪放磊落でありながら広い視野を持ち、幾度もの士官昇進の内示も拒否し続けた名物男、「オール先任搭乗員」菊池上飛曹は昭和19年(1944年)6月19日マリアナ沖に消えた。

 菊池上飛曹の戦果は判明しているもので撃墜5機、協同及び不確実7であるが、日本海軍は公式資料には個人戦果を記載しない場合が多く、この菊池上飛曹の戦果も赤城時代のものしか残ってない。一説には20機以上撃墜していたともいわれるが実際のところは不明である。

 

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。

 

 

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森 史郎 著
文藝春秋 (2015/12/15)

 

 今日は、零戦搭乗員戦記の名作『海軍戦闘機隊』の著者、森史郎氏の著書『零戦7人のサムライ』について書いてみたい。本書は零戦搭乗員6人について森氏が本人や関係者に聞き取り調査をして執筆したものだ。登場する搭乗員は、新郷英城、志賀淑雄、上原定夫、鈴木実、杉田庄一、岡元高志、大黒繁男の各氏である。

 本書は森氏の独自調査による内容であり、著名な搭乗員、新郷英城氏、志賀淑雄氏、杉田庄一氏等についても今までにない新しい情報等があるが、特に私が興味を惹いたのはあまり知られていない戦闘機搭乗員、上原定夫氏、岡元高志氏について詳しく書いてあることだ。

 上原定夫氏はあの著名なエース、坂井三郎氏と同じ台南空に所属し、初期の航空撃滅戦、ラバウル航空戦に参加した。その後マラリアを患って静養、フィリピンで特攻隊の援護任務についた。戦後はジェット機、ヘリコプターの搭乗員として活躍した飛行機一筋の人生だった。自分の戦果をアピールしない人だったようなので撃墜戦果はあまり知られていない。因みに『日本海軍戦闘機隊』によると撃墜数は10機とある。

 まあ、撃墜数自体は一般的に誤認が多く、撃墜もチームプレイであることからあまり意味のあるものではないが、一応書いておく。というのは、上原氏が生前、遠慮がちに「坂井三郎氏が撃墜王になれたのは自分が敵機を引き付けたからだ」というようなことを語っていたからだ。これは敵機撃墜がチームプレイであるということをよく表している。

 岡元高志氏の部分は本書の中でも歴史の証言というのに相応しい。インド洋で英空母ハーミスを撃沈した際、零戦隊がハーミスから脱出した水兵を面白がって銃撃していたこと、同じく日本人搭乗員がガダルカナルでパラシュートで脱出した米軍パイロットを撃ち殺したこと、逆に脱出した日本軍搭乗員を米軍が対空機銃で日本軍搭乗員を形が無くなるまで撃ちまくっていた等、戦争が決してきれいごとではないことが分かる。

 さらに戦争後期になると若年搭乗員が体調不良を理由に出撃を嫌がったりといったこともあったようだ。特に衝撃的なのはフィリピンで航空隊司令が部下の士官搭乗員に対して「戦闘行動には特務士官を使え、戦争が終わっても大切な身体だから大事にしてくれ」と語っていたのを聞いてしまったという件だろう。特務士官というのは兵隊からの叩き上げ士官のことだ。

 かなり重い話になってしまったが、戦後70年が経ち、太平洋戦争がすでにファンタジーの世界になり、妙に美化されるようになった現在、貴重な証言といえる。

 

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01_予科練の空
(画像はwikipediaより転載)

 

「石塚兵曹、敵が射線に入ったら知らせろ。機をすべらす、遅れるな」
「ハイッ!射線に入ったら知らせます」

 

こちらが海面を這うようにしているので、敵も効率のよい急角度では突っ込んでこれない。後上方の浅い角度に定針しようとしている。

後席の機銃がこれに連射をつづける。突っ込む敵機の機軸が、こっちに正向する。その直前、

 

「射点に入る、すべらせー!」

 

と叫ぶやいなや、途端に体がガクンと機体にぶっつけられる。旋回計の鉄球があらぬ方に飛んで、すごい力で体が機体に押しつけられ、肩と頭でようやく支える。

その一瞬、ダダダダと重機銃の斉射音とともに赤、青の曵痕跡が、右の機翼をかすめて流れた。危機一髪、まずは第一撃はかわし得た。

(本間猛『予科練の空』より引用)

 

 1944年10月フィリピン。著者、本間猛兵曹が偵察員を務める重巡利根所属の零式三座水偵はF6Fヘルキャットの追尾を受けていた。操練30期出身のベテラン操縦員松本良治少尉の操縦で零式水偵は山間部を低速、低空で飛行する。高速の新鋭戦闘機ヘルキャットでは速度が早すぎるため迂闊に突っ込むことができない。零式水偵の低速を活かした熟練の戦いであった。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 

予科練とは・・・

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

 当時、海軍の搭乗員になるには海軍兵学校から飛行学生へ行くコース、水兵から操縦練習生になるコース、そして15〜16歳の少年からパイロットを養成する予科練の3つのコースがあった。本間氏はその9期。同期には台南空の撃墜王として著名な羽藤一志がいる。

 予科練の訓練は時期により変わるが本間氏の時代では約4年。まず海軍軍人としての基礎や数学などの基礎科目を学び航空隊員として成長していく。当時の搭乗員には操縦する操縦員と航法、偵察を専門に行う偵察員に分けられる。当然、訓練生のほとんどは操縦員、特に華やかな戦闘機搭乗員を目指していた。

 

高度な専門性が必要な偵察員

 本間氏は飛行艇偵察員。著者はこの配置に対する感想を書いていない。しかし飛行艇偵察員とは操縦員に匹敵する非常に高度な知識を経験を必要とする職種である。当時の航空機は無論GPSなどなく、偵察員と呼ばれる航法専門の搭乗員が測量する。測量には天体航法、地文航法、推測航法の3種類の航法がある。

 天体航法とは星の位置から現在地を割り出す方法、地文航法とは地形の形から現在地を割り出す方法である。これらの中で最も難易度が高いのが推測航法であった。航法とは基本的には速度と距離、方角で現在地を割り出す。しかし航空機の場合、風に流されるのでその偏差を修正しなければならない。推測航法とは地形や天測を行わずこれらの数値だけで位置を測定する方法である。

 

実戦部隊配属、南方の最前線へ

02_九七式大艇
(画像は九七式大艇 wikipediaより転載)

 

 これら高度な技術を身に付けた本間氏が最初に配属されたのは飛行艇部隊のメッカ横浜航空隊である。当時の横浜航空隊は九七式大型飛行艇、通称九七大艇である。この九七大艇は全幅40mの巨人機であった。航続距離は6771kmという凄まじいものだった。しかし武装となると20mm機銃1挺に7.7mm機銃4挺と貧弱な上、装甲は無きに等しかった。

 飛行艇は通常、戦闘任務ではなく偵察、輸送、人命救助などの支援任務に就く。しかし当時の海軍航空隊は飛行艇での雷撃も行った程で横浜航空隊も後方とは程遠いマーシャル諸島に派遣され最前線での活動となった。このため「消耗品」と呼ばれた搭乗員の負担は激しく、精神的な疲労と共に戦友達の多くは冥界に旅立ってしまった。本間氏はソロモン方面含め数々の修羅場を体験していく。この間に乗機は「空中巡洋艦」と称された二式大艇に変更された。

 

 

 

重巡利根水偵隊へ転属

03_重巡利根
(画像は重巡洋艦利根 wikipediaより転載)

 

 1944年2月、本間氏に内地での教員配置が命ぜられる。平和な空気を満喫したのもつかの間、半年後には重巡洋艦利根搭載水上機の搭乗員を命ぜられる。乗機は三座水偵で、1940年に制式採用された愛知飛行機製水上偵察機である。最高速度367km/hと低速ではあるが、太平洋戦争初戦期には活躍した機体であった。

 当時の戦艦や巡洋艦に搭載されていた水上機の搭乗員は実戦に出る機会が少なく比較的練度の高い搭乗員が多く在籍していた。本間氏の操縦員松本良治少尉も下士官から士官に昇進した特務士官であり本間氏の上を行く熟練搭乗員であった。

 

高速偵察機「彩雲」搭乗員として

04_彩雲
(画像は偵察機彩雲 wikipediaより転載)

 

 このペア(同乗している搭乗員をそう呼ぶ)で本間氏はあのレイテ沖海戦に参加することになる。その結果は周知の通り惨敗。大型艦の出番が無くなったため艦載水偵隊は解散することとなる。解散した熟練者揃いの水偵隊の搭乗員は陸上機に転科することになるが、低速水偵で苦い思いをした水偵隊員達の一番人気は高速偵察機彩雲であった。

 水偵隊が陸上機に転科する時、ペアはそのまま維持される。本間氏のペアも彩雲を希望した結果、希望が通り水偵時代そのままのペアで偵察機彩雲で最後の戦場に出るのだった。

 

 

まとめ

 

 本間猛『予科練の空』は、あまり注目されない飛行艇偵察員の戦記である。熟練搭乗員であった本間氏は太平洋戦争初戦から終戦まで最前線で戦い続ける。登場した航空機も九七式大艇、二式大艇、零式水上機、彩雲と多彩である。搭乗員から見た航空機という視点は重要である。地獄の戦場を体験することは多くの人にとってはないだろう。本書はその経験を凄まじい臨場感を以って伝えてくれる。夢中になって読んでしまった。

 

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