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海軍

01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


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01_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特別攻撃機 桜花とは、太平洋戦争後期に開発された特別攻撃機である。搭乗員1名が乗機、火薬ロケットにより最高速度648km/hを発揮、機首に搭載された1,200kg爆弾により機体もろとも敵艦を撃沈することを目的としている攻撃機である。無論搭乗員が生還する可能性は全くない。

 

特別攻撃機 桜花 〜概要〜

 

性能

全幅 5m
全長 6m
全高 1m
自重 2,140kg
最大速度 648.2km/h(高度4,000m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 800kg3基
航続距離 37km
弾頭重量 1,200kg
設計・開発 三木忠直 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

 1944年、405空に在籍した太田正一特務少尉は、ロケット推進式の小型有人滑空爆弾を一式陸攻の胴体に懸架して、それを空中から発射、敵艦を撃沈するという意見を海軍航空技術廠(空技廠)に提出したのが始まりである。搭乗員必死である上、母機が投下点に到着する以前に撃墜されてしまう危険性が高いため反対意見も多かったが、太田少尉の並々ならぬ熱意により計画が開始される。発案者の名前をとりマルダイ部品という名目で秘密裏に50機が空技廠に発注された。

 

開発

02_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 空技廠では、実質的には三木忠直少佐が主務者として開発を開始。設計は1944年8月16日から開始。最大でマッハ0.85に達する高速に耐えらえれる機体の設計。火薬ロケットの使用。高翼面荷重機であることや胴体下面懸架式親子飛行機という初めての形式であるなど、新しいことが多かった。このため入念な設計と実験が行われており、決して粗雑に製作された機体ではなかった。

 1944年9月初旬、試作1号機が完成する。エンジンは推力800kgの四式1号20型火薬ロケットで胴体後部に3基搭載された。計算上の最高速度は648.2km/h、航続距離は高度3,500mで発射した場合、約37kmであった。機首には、1,200kg徹甲爆弾が装備された。ロケットエンジンのため高温となる尾部を除き、胴体や主翼、尾翼は全木製であった。全木製としたのは、材料不足という理由はあったものの、レーダーや電波信管に対するステルス化という目的もあった。

 同年10月23日、初飛行はダミー機の投下実験という形で行われた。このダミー機は、ロケットエンジン、操縦者、爆弾、装備品の代わりに固定バラストを搭載して実機と同じ重量配分とした機体であった。実験は成功であり、これにより懸架式親子飛行機という一つのハードルは超えることができた。

 最も大切なのは機体そのものの操縦性や安定性の確認であったが、これはどうしても搭乗員が登場して飛行することが必要であった。最大の問題は高速の本機をどうやって着陸させるかということであったが、機体にバラストとして水を搭載、実験を終えた段階で水を放出して軽量化、揚力を大きくした状態で着陸するという方法に落ち着いた。それでも着陸速度は殺人機と呼ばれた雷電並みであった。この実験機は、軽量化のために主翼は鋼製、尾翼は軽合金とされた。

 搭乗員の操縦による飛行実験は、10月31日に行われた。結果は予想以上に安定性は良く、軽快さは戦闘機並みで着陸も容易であった。11月6日、火薬ロケットを使用した飛行実験が行われたが、この実験でも安定性も操縦性も良好であった。11月20日には爆弾の起爆実験が行われた。この実験以後、「マルダイ」は桜花11型と呼ばれるようになる。さらに1945年2月には機体の強度実験が行われた。この実験の結果、実用には十分であることが確認されたため生産が開始された。

 

仮称桜花練習用滑空機(桜花K-1)

 桜花搭乗員訓練用に作られた滑空機で外形は11型とほとんど変わらないが、ロケットエンジン部分が流線形に整形されており、機内には水バラストタンクが設置されていた。

 

22型

03_桜花22型
(画像は桜花22型 wikipediaより転載)

 

 エンジンをツ11エンジンジェット、さらに緊急加速用として11型で使用されている四式1号20型ロケットをさらに1基、胴体下に搭載、爆弾は600kgで機体は小型化された。兵装はレーダー波を探知する逆探や防弾鋼板も装備される予定であった。最高速度は426km/hに低下する代わりに129.65kmの自力飛行が可能であった。

 1945年2月15日前後に設計が開始され、1ヶ月程度で設計が完了した。4月頃には試作1号機が完成、6月には実験が開始されたが、7月には母機が地上滑走中に試作1号機が母機から転落するという事故を始めとしてトラブルが多発した。空中投下実験は8月12日で母機から離脱しようとした瞬間、突然緊急加速用ロケットが噴射し墜落した。テストパイロットの長野一敏飛曹長は殉職。その後、終戦となった。

 

33型

 33型は、橘花にも搭載されたターボジェットエンジン、ネ20を装備した型で22型のツ11エンジンの2.35倍のパワーが予定されていた。33型は当時開発が進んでいた十八試陸攻連山を母機とする機体で、主翼は木製であるが、それ以外は全軽金属製であった。設計が開始されたが、43型を優先的に開発するという海軍の方針のため設計は中止、そのまま終戦となった。

 

43型

04_桜花43型
(画像は桜花K-2 wikipediaより転載)

 

 43型は、カタパルト射出用の桜花で甲乙2種類が存在する。甲型が潜水艦からのカタパルト射出用、乙型は陸上基地からのカタパルト射出用であった。エンジンにネ20を採用、全軽合金製であった。乙型には訓練用の桜花K-2と呼ばれる複座桜花があり、1945年8月上旬に2機が完成している。風防は涙滴型で前後それぞれが涙滴形となっている。

 

その他バリエーション

 21型は陸爆銀河に搭載できるように軽量化された機体で、爆弾を600kgに変更した型であった。他にも飛行機曳航型の53型等が計画されていた。

 

生産数

 11型が155機、桜花K-1が45機生産されている。アメリカ、イギリス、日本、インドに合計14機が現存している。

 

戦歴

 初めての桜花部隊は1944年10月1日に神ノ池基地で開隊した721空である。当時の海軍の航空隊の編成は、航空機で編成された飛行隊が整備を始めとした後方支援機能を持った航空隊の下に組み込まれ航空隊司令の指揮下で作戦行動するというものであった。つまり飛行隊というユニットが航空隊という器に入ると考えると分かりやすい。

 飛行隊は作戦や状況によって別の航空隊に組み込まれたりすることもある。これは空地分離方式と呼ばれ、1944年7月10日から採用されている。721空は戦闘機と攻撃機の混成部隊で戦闘機隊は戦闘306飛行隊(定数24機のち48機)、攻撃機は攻撃711飛行隊(定数48機)が配属されており、桜花隊はどの飛行隊にも所属しない721空直属部隊である。

 訓練が開始されたのは11月中旬で当初はフィリピン戦に投入される予定であったが、投入予定の桜花50機は空母信濃で輸送中に母艦が雷撃により沈没、桜花も海底に沈んでしまったために投入は見送られた。1945年2月15日、721空は第5航空艦隊に編成替えとなると同時に戦闘305飛行隊、戦闘307飛行隊、攻撃708飛行隊が編入された。これにより定数は戦闘機192機、攻撃機96機に増強された。因みに定数とは保有することができる最大数であるので実際に配備されている機数は定数を下回る場合がほとんどである。

 桜花の初陣は1945年3月21日で、午前11時35分、15機の桜花を搭載した18機の一式陸攻が攻撃708飛行隊長野中五郎少佐直率の下出撃、零戦隊約30機の直掩を受けたものの、米機動部隊の戦闘機約50機の攻撃を受け目標に到達する前に一式陸攻は全滅、護衛の零戦隊も分隊長二人を含む7機を失うという損害を出した。4月1日には陸攻6機に桜花3機を搭載して出撃、桜花3機、陸攻2機を失った。

 4月12日には陸攻8機に桜花8機を搭載して出撃、桜花8機、陸攻5機を失っている。この攻撃で土肥三郎中尉機が米駆逐艦マナート・L・エーブルに命中、轟沈した他、駆逐艦スタンリーにも2機が命中し同艦は大破した他、桜花の至近弾を受けた掃海駆逐艦ジェファーズも大破している。

 4月14日には桜花7機、陸攻7機が出撃、全機未帰還となった。2日後の16日にも桜花6機、陸攻 6機が出撃、桜花5機、陸攻4機が未帰還となった。28日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花1機が未帰還となった。5月4日には桜花7機、陸攻7機が出撃、駆逐艦シェーに命中、シェーが大破した他、「至近弾」2機により掃海艇、上陸支援艇が大破している。この攻撃での未帰還は桜花6機、陸攻5機である。さらに11日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花3機、陸攻3機が未帰還となった。25日には桜花12機、陸攻12機が出撃、各3機が未帰還となっている。

 以降、一ヶ月近く出撃はなかったが、6月22日には桜花6機、陸攻6機が出撃、各4機が未帰還となった。これが最後の出撃で桜花の出撃は合計10回、未帰還となった桜花は55機、陸攻51機で搭乗員の戦死者は桜花隊55名、陸攻隊365名であった。桜花を搭載し重鈍となった一式陸攻の多くは射点到着前に撃墜されたが、一旦発射した桜花はレーダーで追尾することは困難であり、一撃で駆逐艦を大破させる威力があった。

 

まとめ

 

 日本陸海軍の航空機は戦争後半になると機体のバリエーションが多くなる傾向がある。桜花も例外ではなく数多くのバリエーションが計画された。搭乗員が必ず死亡する攻撃機のバリエーションがこれほど計画されているというのは、軍首脳部がこの特攻機にどれだけ期待していたのかが良く分かる。戦争の狂気以外の何物でもない。

 

 


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01_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 一式陸攻は1941年に制式採用された双発爆撃機でその性能は当時としては随一のものであった。そのため多くの改良型が開発されたが、防弾装備を軽視したため戦場では「ワンショットライター」と呼ばれるほど脆く、多くの機体が撃墜されていったが、機体性能は素晴らしく傑作機といっていい。

 

一式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 24.88m
全長 19.63m
全高 6.00m
自重 8,050kg
最大速度 437.1km/h(高度4,600m 250kg爆弾4発搭載時)
上昇限度 8,950m
エンジン出力 1,850馬力(2基)
航続距離 6,060km(偵察時)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃3挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または500kg爆弾1発または
   250kg爆弾4発または
   60kg爆弾12発
設計・開発 本庄季郎 / 三菱

 

開発

02_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年9月末、海軍は、三菱に対して仮称一二試陸上攻撃機(G4M)の開発を命じた。要求された性能は最高速度398.1km/h(高度4,000m)、航続距離4,815km、800kg爆弾または魚雷搭載可能であること、乗員7〜9名、発動機は金星(1,000馬力)を使用することというものであった。これは当時、制式採用されていた九六式陸攻と爆弾搭載量は同じにして速度は50km/h以上、航続距離は800km以上を増大させるという苛烈なものであった。

 これに対して三菱は九六式陸攻の設計主務者であった本庄季郎技師を設計主務者として検討を開始した。本庄技師は当初は発動機4発の重爆を想定していた。これは双発でも要求性能は発揮することはできたが、防御面が不十分になるためエンジン2発のパワーで本来の性能、もう2発で防御関係の重量を支えるという構想であった。しかし、この構想は海軍側の猛反発に遭い、結果双発高速陸攻が完成するが、同時に防御装備が貧弱であり連合軍からは「ワンショットライター」と呼ばれることとなる。

 爆弾倉を胴体内に持つため胴体はいわゆる「葉巻型」となった。これは空力的には非常に優れた設計であった。翼内には燃料タンクが設けられ、さらに偵察任務の場合には爆弾倉内に増設タンクを搭載することが可能、脚は電動式で機体内に完全収納されるものであった。エンジンは当初は金星エンジンを採用する予定であったがより高性能な火星11型(1,530馬力)が完成したため火星エンジンを採用している。機銃は7.7mm機銃が前方に1挺、胴体上方に1挺、左右側面に各1挺、後方に20mm機銃が1挺の合計5挺が装備された。

 1939年9月、試作1号機が完成、翌10月23日初飛行が行われ、最高速度が444.5km/h(性能要求398.1km/h)、航続距離は5,556km(同4,815km)と性能要求を大幅に超えたもので関係者を驚かせたという。そして一連の審査が終わった1940年1月24日海軍に領収、順調に進んでいたが、掩護機型生産のため(下記参照)作業は大幅に遅れ、1年以上経た1941年4月2日一式陸上攻撃機として制式採用された。

 

海軍の型番の命名規則

 以下、一式陸攻のバリエーションについて解説するが、海軍の型番の命名規則は一の位がエンジンの変更、十の位が機体の変更を表している。つまり最初期型は11型で、機体設計に変更を加えると21型、エンジンに変更を加えると22型となる。さらにエンジンに変更を加えると23型という風に変わっていく。

 

G4M1シリーズ 型番10番台

 

03_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

一式大型陸上練習機11型・一式陸上輸送機11型

 一式陸攻が制式採用される以前、十二試陸上攻撃機の高性能に注目した海軍は掩護機型を思い付く(G6M1)。三菱側は性能が低下すると反対したが、海軍は方針を変えず生産を命じた。改良点は爆弾倉を廃し、代わりに胴体下面に砲塔を設置、前後に20mm旋回銃2挺を搭載、上方銃座を20mm機銃に変更、燃料タンクの防弾化などである。1940年8月に試作機が完成したが予想通り重量超過となり失敗した。この試作機は練習機や輸送機に変更され、一式大型練習機11型(G6M1-L)、一式陸上輸送機11型(G6M1-L2)として制式採用された。

 

11型(12型とも)

 高高度性能を強化する目的でエンジンを火星15型に変更したもの。これにより最高速度が11型に比べ18.5km/h速くなった他、上昇時間、上昇限度も向上した。最高速度463km/h、航続距離6,030kmとなった。途中の生産機から燃料タンクに厚さ30mmの防弾ゴムを装備、防弾性能が強化された。11型、12型併せ略符号はG4M1である。

 

G4M2シリーズ 型番20番台

 

04_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

22型(G4M2)

 22型は1942年11月24日に試作1号機が完成する。12型との変更点は、主翼、水平尾翼の形状を変更、プロペラを4翅に変更、燃料タンクの容量の増加、尾輪を引込脚に変更、上部機銃を20mm機銃に換装した他脚の補強も行われた。重量が増加したためエンジンを火星21型(1,850馬力)に変更している。22型甲は電探装備機で、22型乙は胴体上方の機銃が変更されている。最高速度437.1km/h、上昇限度8,950m、航続距離は2,500km。

 

24型(G4M2A)

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に変更した機体。1944年に1号機が完成する。24型甲は側方銃を20mm1号銃に変更したタイプで、24型乙は24型甲の上方銃を変更したもの。24型丙は24型乙の前方銃を12.7mm機銃に変更したタイプである。24型丁は特別攻撃機桜花の母体とするために設計されたタイプで桜花用の懸吊装置を設置した他、防弾鋼板の設置などがされている。一部の24型丁には離陸補助用の四式噴進器2本が装備されている。

 

25型、26型、27型

 25型は、エンジンを火星27型(馬力不明)にしたものであったが、発動機工場が被爆してしまったため1機のみ製造された。26型はエンジンを火星25型乙に変更したもので2機が試作された。内1機は26型丁として桜花の母機となっている。

 27型はエンジンを火星25型ル付に変更したもので1機が改造された。

 

G4M3シリーズ 型番30番台

 

34型

 34型は、連合艦隊側から航続距離を犠牲にしても防弾性能を強化して欲しいという要望の下にエンジンは火星25型のままで機体の防弾性能を強化したタイプである。燃料タンクを防弾ゴムで覆ったものであったが、設計の途中で設計主務者である高橋巳治郎技師が病に倒れたため完成は遅れた。1944年1月試作1号機が完成、初飛行を行った。最高速度は481km/hと24型よりも向上していたが、重量が増大したため強度不足が生じその対策に手間取った。

 さらに海軍側から航続距離を延長せよという要求が出されたため作業は再び遅れた。そして再び海軍から武装を強化せよという要求が出された結果、完成は遅れに遅れ1944年10月に34型生産1号機が完成した。こうして生産が開始された34型であったが、そのころには攻撃機の主力は陸爆銀河や四式重爆飛龍(陸軍)に代わっており、一式陸攻は輸送や対潜哨戒に使用されていた。このため34型も輸送用や対潜哨戒用に改造された34型甲、上方機銃を長銃身の99式2号銃に変更した34型乙、機首前方機銃を13mm機銃に変更した34型丙もある。

 36型(G4M3D)はエンジンを火星25型乙に換装したもので、桜花の母機として36型丁も製作される予定であった。37型はエンジンを火星25型ル付に換装したもので2機が改造されテスト中に終戦となった。

 

生産数

 G4M1シリーズは、試作機が2機、11型が403機、12型が797機の合計1,202機、G4M2シリーズが、22型から27型までは三菱名古屋製作所で640機、水島製作所で512機(513機とも)の合計1,152機(1,153機とも)、G4M3シリーズが、約516〜530機ほど生産された。総生産数は2,420機、または2,435機である。

 

戦歴

 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空で、1941年5月、九六式陸攻から一式陸攻に改変されている。初めての実戦参加は同年7月27日の成都空襲で、以降、高雄空の一式陸攻は中国戦線での攻撃に度々参加している。そして9月には新たに鹿屋空が一式陸攻に改変を開始、両部隊ともにその後仏印進駐に参加している。

 太平洋戦争開戦時に一式陸攻を装備していたのも両部隊で、開戦劈頭フィリピンの各基地の攻撃に参加、12月10日には鹿屋空の一式陸攻隊がマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに雷撃を行っている。その後、零戦隊と共に比島・蘭印の各作戦に参加、この中で2月28日には高雄空の一式陸攻隊が水上機母艦ラングレーを撃沈している。

 

南東方面(ソロモン・ラバウル)の一式陸攻

 当初2航空隊のみであった一式陸攻隊であったが、1942年2月には新たに三沢空、4空にそれぞれ一式陸攻が配備、4空は2月14日にはラバウルに進出、20日には戦闘機の援護を受けずに米機動部隊攻撃を実施、参加17機中12機が被撃墜、2機が不時着という大損害を受け(ニューギニア沖海戦)、戦力回復後に行われた珊瑚海海戦においても出撃12機中隊長機以下4機を失うという損害を受けていた。このため内地で哨戒任務に就いていた三沢空にもラバウル進出が命ぜられ、8月には三沢空もラバウルに進出した。この頃になると九六式陸攻から一式陸攻への改変は進み、1空、千歳空が新たに一式陸攻を装備するようになっている。

 1942年8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が開始、4空、三沢空の一式陸攻隊は出撃87機中24機と実に30%の戦力を失うという大損害を受けており、これ以降でも8月中にさらに11機が撃墜されている。このため同月中に木更津空、9月には千歳空と高雄空の一部がラバウルに鹿屋空(751空)の一部(27機)がカビエンに進出、同時に戦力を消耗し尽くした4空(702空)が内地に帰還したもののラバウルには三沢空(705空)、木更津空(707空)、千歳空(703空)、高雄空(753空)の4個飛行隊79機が集結した。その後、12月には707空は戦力を消耗して解隊、代わりに九六式陸攻装備の701空(旧美幌空)が進出している。その後これらの航空隊と再度進出した702空によりラバウル航空戦が展開されるが、1944年2月には751空がトラック島に後退、おびただしい犠牲を出した一式陸攻隊によるソロモン航空戦は終止符を打った。

 

千島列島、中部太平洋の一式陸攻

 一方、北東方面(千島列島)では752空(旧1空)の一式陸攻隊45機が幌筵島に進出、アッツ島に来襲した米艦隊への攻撃を行ったものの戦果はなく、アッツ島の玉砕ののちの1943年11月にはマーシャル諸島に移動している。中部太平洋では開戦当初は千歳空(703空)と1空(752空)が展開していたが、ラバウル方面の戦局が逼迫したため千歳空はラバウルに進出、中部太平洋は1空のみとなったが1942年11月には755空(旧元山空)がウェーク島に進出した。1944年に入ると平和であったマーシャル諸島も米機動部隊の攻撃を受けるようになり、2月に入ると米軍が上陸、さらにトラック島も米機動部隊の空襲を受けるようになった。

 

終戦まで

 この後、米軍の攻撃はマリアナ諸島、台湾、比島にも及ぶことになるが、戦力の差が決定的になってしまった状態では一式陸攻も戦果は少なく消耗する一方であった。この戦争後期に特筆すべきなのは721空で、通称神雷部隊と呼ばれるこの航空隊は「人間爆弾」桜花を搭載する部隊であった。飛行隊長は野中五郎少佐で一式陸攻24丁型で各1機特攻機桜花が搭載可能であった。初出撃は3月21日で一式陸攻18機が出撃、全機撃墜されている。以降、6月22日までに計10回出撃が行われているが損害に対して目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

05_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)
雷撃中の一式陸攻。一式陸攻の胴体の高さが2.5mであることを考えると海面ギリギリで雷撃する一式陸攻の搭乗員の練度の凄さが良く分かる。

 

 一式陸攻は完成当時世界トップクラスの飛行性能を持った双発爆撃機であったが、実戦では防弾装備を軽視した結果、機銃弾が命中すると即座に発火、連合軍パイロットから「ワンショットライター」と呼ばれる機体となった。これは海軍が防弾能力を軽視した結果であった。このため海軍は太平洋戦争初戦期で多くの優秀な搭乗員を失ってしまった。

 

 

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01_深山
(画像はwikipediaより転載)

 

 深山は中島飛行機が開発した大型陸上攻撃機である。4発エンジンで全幅はB-29に匹敵する42mに達したが、性能が海軍の要求値に達せず試作機含め6機のみで生産が中止された。この6機の内4機は輸送機に改造されたが、予備部品の不足と油圧系統の不良に最後まで悩まされた。

 

大型陸上攻撃機 深山 〜概要〜

 

性能(試製深山)

全幅 42.14m
全長 31.02m
全高 6.13m
自重 20,100kg
最大速度 420km/h(高度3,000m)
上昇力 2,000mまで5分17秒
上昇限度 9,050m
エンジン出力 1,570馬力
航続距離 5,161km(偵察過荷重)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃4挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)4発または
   250kg爆弾12発または
   60kg爆弾24発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 

大型攻撃機(大攻)と中型攻撃機(中攻)の違い

 1938年、それまで陸上攻撃機としていたものを大型攻撃機(大攻)、中型攻撃機(中攻)という二種類に分類した。主要任務、特性は同じであるが、爆弾搭載量が大攻1,500kg、中攻が800kg、航続距離が大攻が3,000海里(5,556km)、中攻が2,000海里(3,704km)と異なる。その他、乗員数、搭載機銃数等も異なるが、大攻と中攻の大きな違いは爆弾搭載量と航続距離であるといえる。

 

ダグラス社よりDC-4Eを購入

02_DC-4E
(画像はDC-4E wikipediaより転載)

 

 1937年12月、日本の航空産業は四発重爆の開発経験のないため、海軍は米国ダグラス社からDC-4を製造権付きで購入することを決定する。このDC-4はのちに活躍するDC-4Aではなく、DC-4Eと呼ばれる別型である。しかし日本海軍が四発重爆の開発を計画していることは極秘であったため名目上は大日本航空株式会社が購入、中島飛行機が製造するという形式が採られた。

 大日本航空は当時、1938年11月に戦時体制の一環として数社の民間航空会社が合併して誕生した半民半官の会社で日本国内の航空輸送事業を独占していた。1938年、DC-4Eはこの大日本航空の旅客機という名目で95万ドル(当時の金額で190万円)で購入された。このDC-4E、実は失敗作であり、それを承知の上でダグラス社は大日本航空に売り渡したとも言われている。それはともかく、こうして購入されたDC-4Eは1939年10月日本に到着、早速組み立てられ11月13日に初飛行を行った後、密かに霞ヶ浦に運ばれ分解調査が実施された(※筆者注、このへんの時系列は今ひとつはっきりしない)。

 

開発

02_深山
(画像は右が深山、左は連山 wikipediaより転載)

 

 1938年、十三試大攻(G5N1)の計画要求が出された。この中での性能要求はDC-4Eをベースとする四発大型陸上攻撃機で、最大速度444.5km/h以上、航続力は爆装時4,482km以上、偵察時8,334km以上というもので中島飛行機に開発を命じた。中島飛行機は松村健一技師を中心に作業を開始、ベースが旅客機であるので主翼はそのままで胴体を再設計するという方針で開発が進められた。

 開発が開始されたもののベースとなるDC-4Eの製造図面の入手が必要であったため1938年2月、中島飛行機は技師数名をダグラス社に派遣する。製造図面は同年5月に引き渡しが完了する。中島飛行機では同月、全木製グライダーが製作され実験が行われている。1939年6月22日には実物の1/2サイズによる強度試験が実施。1941年2月末には試作1号機が完成する。

 当初は主翼の構造はそのまま生かす方針であったが、DC-4Eの低翼から十三試大攻では中翼に変更、胴体、尾翼は完全な新規設計であった。武装は、前方、胴体中央部上面、胴体下面、後方に1挺、胴体側面に各2挺の合計6挺であった。この内、上面には動力銃架に設置された20mm機銃、後方には20mm機銃が配置されている。

 エンジンは中島製護11型(1870馬力)が予定されていたが、開発が間に合わなかったため火星12型(1,530馬力)4基となった。1941年4月8日初飛行、ついで完成した2号機も海軍に領収された。海軍において試験が開始されたが、重量超過な上、エンジンの馬力が不足しており、最大速度は391.7km/hで要求値よりも約53km/h遅く、航続距離も要求値の50〜60%程度と期待外れのものであった。さらには油圧系統の不調が続出する。

 増加試作機4機は、護エンジンが完成したため、それまでの火星12型に代わり護11型が装備されたが、信頼性が低い上に振動が大きかったため開発は難航したが、1942年中頃には3号機、さらに4〜6号機が海軍に領収された。プロペラは1〜2号機の3翅から4翅に変更されている。これらは深山改(G5N2)と呼ばれている。最高速度は420.4km/hと約30km/h向上、航続距離も増大したが要求値には達しなかった上、相変わらず油圧系統のトラブルに悩まされていた。

 

輸送機型

 4機製造された深山改は性能が要求値に達しなかったため攻撃機としての使用は断念、輸送機に改造された(G5N2-L)。武装は撤去され、後下方銃座の位置には観音開きのハッチが設けられた。貨物搭載量は4tで油圧による操縦系統は人力に切り替えられたが、非常に重くなるため油圧で補助するという方式に変更された。

 

生産数

 試作機深山が2機、増加試作機の深山改が4機の合計6機である。火星エンジン装備の深山2機は空襲で破壊され、深山改の4機の内1号機はテニアン島で破壊され、2号機は事故で消失。終戦時は厚木基地に2機が残存していた。

 

戦歴

 輸送機に改造された深山は、1944年2月半ばに輸送部隊である1021空(通称「鳩部隊」)に配属された。配属された深山は2機で尾翼には当初は「鳩-1(2)」と記入されたがのちに鳩という呼称が廃止されたため尾翼には「21-1(2)」と記載されるようになった。3月にはさらに2機が配属、1021空は、1号機から5号機までの合計4機を保有するようになった(4号機は「死に番」であるため欠番)。これら4機の深山は、3月上旬より輸送飛行が開始されたものの故障が続出した上に部品が不足しており運用は難しかった。このような状況の中、4月19日には台湾から鹿屋に向かった深山2号機が墜落してしまった。

 6月には1号機がテニアンに進出したものの、その後、米軍がテニアン島に上陸したことにより1号機は失われている。1021空は残った2機(3号機、5号機)でマニラ方面への輸送任務を行っていたが1944年8月24日に輸送任務中止が命ぜられたため2機の深山は相模空に整備用の教材として引き渡され、そのまま終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 深山は十三試大艇(二式大艇)と同時に計画された4発大攻である。どちらも4発であったが、飛行艇に対して陸上機の設計実績がなかったため二式大艇のような成功はしなかった。しかしたとえ開発されていたとしても防弾性能の不備により目立った活躍は出来なかったであろう。因みに深山は、キ68またはキ85として陸軍での採用が計画され、1942年4月には実物大模型審査が行われたが深山の性能不足が明らかになったため1943年5月に計画が中止されている。

 

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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99式機銃
(画像は九九式機銃。上が1号銃、下が2号銃 wikipediaより転載)

 

 九九式機銃とは、零戦など海軍航空機に搭載された機銃でそれまでの7.7mm機銃に比べて圧倒的な威力を誇った。零戦に初めて搭載され、以降の海軍戦闘機には必ずと言っていいほど搭載された機銃であった。大まかには初期の1号銃が短銃身、2号銃が長銃身と理解すると分かりやすい。

 

〜九九式機銃の概要〜

 

 九九式機銃は海軍航空機の主力機銃で口径20mmの陸軍では「砲」に該当するほどの大口径機銃であった。この九九式機銃は、スイスのエリコンFF型20mm機銃を国産化したもので、当初は恵式20mm機銃と呼ばれていた。1936年6月にエリコン社とライセンス契約が結ばれ、1937年には、大日本兵器株式会社でノックダウン生産(部品を輸入して組み立てること)を開始、1938年7月からライセンス生産を開始した。

 九九式機銃には、大きく分けて銃身の短い1号(銃身長812mm、全長1331mm)と銃身の長い2号(銃身長1252mm、全長1890mm)の2種類があり、1号銃には1〜4型、2号銃には2〜5型まである。銃は銃身が長いほど初速(弾丸のスピード)が速くなる。銃身長812mmの1号銃の初速が600m/秒であるのに対して440mm銃身長が延長された2号銃の初速は750m/秒となった。初速が早くなると同じ弾丸でも直進性が高くなる。

 

1号銃

 

1号銃1型、2型

 1号銃1型はスイス製のもので弾倉はドラム方式で装弾数60発。それを国産化したのが2型で同じくドラム弾倉で装弾数は60発、重量23kg、発射速度520発/分で1941年11月制式採用、1型は初期の零戦11型、21型等に搭載されている。

 

1号銃3型、4型

 3型は2型を空気装填油圧発射式にしたものでドラム弾倉を使用、装弾数は40発増えた100発となった。弾倉が大型化したため零戦等は弾倉部分は機体の一部を弾倉の大きさに合わせて変形させている。発射速度は520発/分。4型で給弾方式がドラム弾倉式からベルト給弾式に変更される。発射速度も速くなり550発/分となった。

 

2号銃

 

2号銃2型

 九九式2号銃はエリコンFFLを国産化したもので、1940年7月に試作に着手。9月には1号銃が完成し、1942年7月22日、2号銃2型として制式採用された。2号銃2型は弾倉式で装弾数は恐らく60発。少数のみ生産されたようだ。

 

2号銃3型

 2号銃3型は、ドラム弾倉式で装弾数100発。1号銃3型の長銃身モデルである。1号銃3型の発射速度が520発/分であるのに対して、2号銃3型では480発に減少した。重量33.5kg。2号銃4型はベルト給弾式で、重量38kg、発射速度500発/分である。

 

2号銃4型

 4型にはブローバックの退却長を短縮、強力なスプリングを使用して発射速度を向上させた発射速度増大型がある。この改良によって発射速度は620発/分となったが、反動も増大した。

 

2号銃5型

 2号銃5型はベルト給弾式で重量38.5kg。4型で行った発射速度増大の改良をさらに行い、発射速度は720発/分となった。

 

一八試20mm機銃

 日本特殊鋼の河村正弥博士が開発したもので、1943年5月から開発を開始、1945年5月に試作銃が完成している。要目は全長1.95m、重量45.5kg、初速900m/sで発射速度は700発/分であり、甲戦闘機陣風に搭載予定であったといわれている。

 

九九式機銃関係の書籍

 

零戦一代

田中悦太郎 著
サンケイ新聞出版局 (1966)

 日本海軍の機銃に関しては最も詳しい人といってよい田中悦太郎氏。氏が執筆した本書は日本海軍の機銃について詳しく書いてある。

 

日本軍用機航空戦全史〈第5巻〉大いなる零戦の栄光と苦闘

秋本実 著
グリーンアロー出版社 (1995/8/1)

 零戦の項目に九九式機銃について詳しく書いてある。その他航空機に関しても詳細されているのでおすすめの一冊。

 

まとめ

 

 零戦の特徴の一つにこの20mm九九式機銃が挙げられることがある。この機銃は特に地上銃撃において驚異的な威力を発揮した。当初は装弾数が55発と少なく銃身の短さからくる直進性の低さという問題はあったが、改良を重ねることで最後は200発にまで増強され、発射速度や直進性も向上した。日本海軍の戦闘機は開戦から終戦までこの機銃と共に戦ったのだ。

 

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西村誠 著
双葉社 (2015/1/23)

 

 以前読んだ、神立尚紀『特攻の真意』に続いて大西瀧治郎中将について書いた本を読んでみた。私が読んだ大西中将に関する本はこの二冊だけだが、どちらもどちらかというと大西中将に対して好意的である。まあ、超ざっくり書くと仕方なく特攻命令を出したということである。

 

大西 瀧治郎 大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。
(wikipediaより一部転載)

 

 確かに特攻を命令した指揮官でも戦後長寿を保ち、特攻隊の本を出版したりする人物に比べれば自分なりの責任をしっかりとったという点では評価できる。さらに当時の海軍全体が特攻作戦を行う方向で動き出している状況で、大西中将は特攻命令を出さざるを得なかったのもわかる。

 しかし特攻に反対することもできたのではないか。神立氏の著書と本書を読んで大西中将は結局、自主的に特攻を推進したのではないかと逆に思ってしまった。大西中将は豪放磊落であり、まだ安全が十分に保障されていない落下傘で躊躇しているイギリス人教官を後目に平気で飛び降りたりしたことや普段から死を覚悟している言動が多かったことからも大西中将は自分の命を捨てる覚悟というのは相当なものだったのだろう。

 逆に死ぬ覚悟をしている人間というのは人の命を奪うのも躊躇しない。むろんこれは何の根拠もないが、特攻作戦というものに対して心理的な障害は人より少なかったような気がする。それはそうと、本書著者西村氏は、よく必死と決死の違いとして説明される特攻に代表される必死の作戦はダメだが、生還の可能性がわずかでもある決死の作戦であれば許されるというような感覚に対しては批判している。

 僅かな可能性は実際にはないも同然である。開戦劈頭の真珠湾攻撃時の特殊潜航艇も決死であり、必死ではないが、任命された隊員は遺書を書き、敵艦隊が密集する真珠湾内に入って生還できる可能性はまずない。実際、その後に行われた特殊潜航艇での湾内侵入作戦は全て乗員が生還することはなかったという。これも実質的には特攻と同じであるとする。これは卓見であると思う。

 本書は出版年も新しく、それ以前の特攻に関する書籍も十分に研究している。特攻に関することを知りたければ購入しておく必要がある一冊ではあると思う。私としては今ひとつ著者の主張に乗り切れないのだが。

 

 

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「丸」編集部編
光人社 (2011/2/1)

 

総評

 

 本書は現在では数少ない日本海軍戦闘機搭乗員の手記をまとめたものである。内容的にはやはり手記である性質上、一貫性は持たせにくいが編集者の精いっぱいの努力が見られる。現在はほとんどの方が鬼籍に入られているので非常に貴重であるが、ただ、残念なのは、それぞれの手記の初出が書かれていないのは残念であった。私が特に興味を惹いたのは航空隊司令柴田武雄大佐、倉本十三飛曹長、神山武治飛曹長の手記であった。

 

書評

 

 本書は月刊「丸」紙上に発表された海軍戦闘機隊関係者の手記を集めたものである。月刊誌は発売された時に購入しなければならず、その後の購入が困難であり、なおかつ、その後、執筆者の多くが他界してるため、このような形で出版してくれることはありがたい。

 本書の構成は基本的に戦闘機を中心に編集されているようである。最初に航空戦全般について当時参謀だった野村氏の寄稿があり、その後96艦戦、零戦、二式水戦、月光、紫電、紫電改、雷電、烈風とほぼ開発年に合わせた順序になっている。

 

目次

 

野村了介 日本海軍の空戦思想
横山保 新鋭「九六艦戦」の空戦法
羽切松雄/坂井三郎 駿馬「零戦」向かうところ敵なし
横山保 三空零戦隊 開戦の第一撃
吉田一 忘れえぬラバウルの撃墜王たち
中野忠二郎 二〇一空零戦隊ラバウル・ブイン戦記
白浜芳次郎 翔鶴零戦隊マリアナ沖空戦記
柴田武雄 わが海軍戦闘機隊と忘れざる人々
神山猛治 九〇二空「二式水戦」トラック戦記
美濃部正 夜戦「月光」比島の空に奮戦す
原通夫 知られざる夜戦「月光」隊の対潜攻撃
倉本十三 愛機「月光」で記録した一夜五機撃墜
山本重久 飛行審査部“テス・パイ”の思い出
石坂光雄 紫電「奇兵隊」対P51戦闘に燃ゆ
羽切松雄 横空「紫電改」B29ロケット弾邀撃記
中島正 初陣三四三空「紫電改」松山上空の大戦果
市村吾郎 戦闘四〇七飛行隊「紫電改」空戦記
笠井智一 撃墜王杉田上飛曹「紫電改」に死す
戸口勇三郎 本土上空で見せた局戦「雷電」の真髄
赤松貞明 忘れざるジャジャ馬「雷電」との対話
西畑喜一郎 厚木「雷電隊」小園式戦法に戦果あり
小福田租 最後の艦上戦闘機「烈風」試乗リポート
「丸」編集部 終戦時における海軍試作戦闘機

 

 戦後70年以上が経ち、本書に手記を寄稿された方の多くが他界されているので全ての手記が貴重なものであるが、特にファンから人気のある赤松貞明氏が執筆しているのが注目される。特に私の興味を惹いたのは柴田武雄氏の手記である。

 柴田氏は海軍戦闘機隊に詳しい人なら誰でも知っている人物である。太平洋戦争では主に航空隊司令という立場で臨んだ。面白いのは、柴田氏は命令する時に決して「撃滅せよ」という命令は出さなかったそうである。「撃滅せよ」というのは聞こえがいいので何となく使ってしまう司令も多かったのだろう。しかし「撃滅せよ」という命令を発し、撃滅できなかった場合には命令違反になると柴田氏は指摘する。さらに人命に関しては

 

「生命というものは、この世に生をうけた使命役割をいかんなく達成し、もって天意に応えるべきである。そして、これは普遍の真理である」
本文より一部抜粋

 

 という哲学を持っていたという。その哲学の元に被害を少なくすることに全力を注いだという。因みにこの柴田氏は結構な口下手だったそうだ。太平洋戦争前に海軍内部で戦闘機無用論が出た時、柴田氏は戦闘機は必要とその後の結果からみればかなり妥当な意見を主張していたが、源田氏等、戦闘機無用論に太刀打ちできなかったという。

 口下手であっても、上記の哲学を持ち、部下の命令違反にまで気を配る司令には人望が集まったようである。私と同様、柴田氏も運命論者であるという点も共感できた。この柴田氏の稿の中で興味深いのは、柴田氏が本土防空を陸海軍共同でやろうと思い、連合艦隊の同意を得て、陸軍の参謀本部に行った。

 そこで旧知の新藤常右衛門大佐に話したところ意見が一致し、海軍に防空関係の資料一切を提供するように要求したところ、航空主務参謀奥宮正武中佐が、

 

陸軍などに本当のことを言ったら、とんでもないことになる
本文より一部抜粋

 

 といって断ってしまった。ここに陸海軍の対立の根深さが見えると同時に、世間一般では善の海軍、悪の陸軍という二項対立で考えられがちな両者の対立は、実は海軍にも相当な問題があることが分かる。堀栄三『大本営参謀の情報戦記』でも日本空軍創設に反対したのは海軍、特に山本五十六だったことからも窺える。

 神山氏の手記も面白かった。神山氏は数少ない二式水戦の搭乗員であった。二式水戦は、速度こそ遅いものの、実は零戦より旋回性能は良かったようだ。神山氏はこの二式水戦で爆撃機の爆撃を妨害して有効弾を与えられないようにしたり、連合国軍のP38ライトニングと互角に渡り合ったという。これは日本海軍航空隊の実際の記録を丹念に調べた梅本弘『ガ島航空戦』上によっても水上戦闘機隊が通常の戦闘機に対して互角に渡り合ったことが確認されている。

 その他、雷電搭乗員の手記では雷電の離着陸の難しさ、航続距離の無さを指摘する一方、速度、上昇力、加速性能がF6Fやコルセアよりも勝っていた等、実際の搭乗員の意見だけに説得力がある。この雷電は、渡辺洋二『局地戦闘機「雷電」 』によると実は最もB29を撃墜した戦闘機であったという。

 一夜にB29を5機撃墜した倉本十三氏の手記は同乗の黒鳥四朗氏の著作『回想の横空夜戦隊』で別人の視点から確認できて面白いと思う。

 

 

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松永市郎 著
光人社 (1994/1/1)

 

 本書は面白い。是非読んでほしい。戦記物はやはり悲惨なことが多いために内容が重いものが多い。この『思い出のネイビーブルー』の著者、松永市郎氏もやはりかなり悲惨な戦争体験をしている。しかしかなりユーモアのある方のようで本書を読んでいると至るところにユーモアやジョークがちりばめられている。

 松永氏はマレー沖海戦の功労者、松永貞市を父に持つ海軍兵学校出身の士官だ。本書は松永氏が海軍兵学校に入校してから戦争までのエピソードを集めたものでページ数も少ないのであっという間に読了してしまう。そしてかなり印象に残る内容である。

 私も本書を読んだのは実は10年以上前であるが、本書の内容はかなりの部分覚えいている。とにかくユーモラスで面白い。松永氏自身、実はかなり悲惨な体験をしており、その部分の話になると口が重くなったと言われている。まあ、それはともかく本書は私の戦記物でのイチオシである。

 

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渡辺洋二 著
朝日ソノラマ (1993/9/1)

 

 渡辺洋二氏の著書は内容的に重厚で読み応えがある。航空戦史が専門であるが、航空戦史に関する本の中では渡辺氏の本はかなり信頼している。今日紹介する『夜間戦闘機月光』は1982年に上梓された本であるり、30年以上前ではあるが、良書である。

 そもそも太平洋戦争に関して言えば、現在出版されている本よりも20年前、30年前に執筆されたものの方が直接戦争体験者に取材することもできるのでむしろ正確であるという言い方もできる。それはそうと、本書は海軍が開発?した夜間戦闘機を二式陸偵時代から設計段階、生産、実戦から搭乗員に至るまで網羅されている月光の決定版ともいえる本である。

 

 

 普通、書評だとこの本にはこういうことが書いてあって・・・等を書くが、本書の場合は月光に関することは全て書いてあると考えていい。海軍が高い要求を出し過ぎて中途半端になってしまった長距離戦闘機を台南航空隊の小園司令が目を付け、斜め銃を装備した夜間戦闘機として生まれ変わるという流れは面白い。

 結局、夜間戦闘機として大活躍する月光だが、私が驚いたのは夜間戦闘機によるB29の撃墜戦果というのはかなり正確らしい。というのは、通常、戦闘機同士のドッグファイトでは目視のみなので誤認戦果の嵐なのだ。100機撃墜と思っていても、戦後調べると、10機しか撃墜されていなかったというようなことも頻繁に起こる。

 しかし夜間戦闘機に関しては相手が大型機であり、尚且つ、斜め銃で接近して攻撃するため、撃墜戦果はかなり正確だったらしい。それはそうと、日本人だとついつい日本側から見てしまうが、B29の搭乗員にしてみれば出撃すれば1割位は撃墜される。危険度は圧倒的に日本の方が高いがB29の搭乗員は搭乗員でやはり怖かっただろうなぁと思いつつ読了した。

 

 

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神立尚紀 大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 

 今日は書評。最近書評が多いねぇー。これは私の気分だから仕方が無いのだ。今日紹介するのは珍しく最近発売された本、2013年末にテレビ放映されたものを本にしたもののようだ。どっちが先かは分からない。本書は零戦を中心に初登場の日中戦争から太平洋戦争終戦までを概ね時系列で追ったものだ。

 取材を始めたのは2007年というからその当時はまだ零戦の関係者も多かっただろう。撃墜王では角田和男氏、田中国義氏、大原亮治氏、原田要氏などがインタビューに答えている。これは「零戦の会」の協力があって初めて可能になったものだろう。著者はNHKディレクターの大島隆之氏と零戦の会会長の神立尚紀氏である。神立氏の著書はよく読ませて頂いているがここに大島隆之氏が共著者として加わるとまた違った視点になるのが面白い。

 

 「(零戦は)まあ風船玉みたいな飛行機だなと思ったですね。こんなので戦争させたのかと思って。」(本田稔氏)
 「もう本当の消耗品じゃよ、パイロットは。参謀連中はのんきなことを言って、今じゃのう高々と恩給もらって、下の者は戦争させられて。ソロモンは墓場じゃったとよ。」(一木利之)

 

 本田氏、一木氏共に生き残りのベテラン搭乗員である。本書の特徴は証言を重視しており、とかく戦争を美化しないことだろう。戦争末期になり特攻隊が編成される部分になるとその特徴がさらに明確になる。その後、玉音放送、終戦となる訳だが、私が特に面白いと感じたのは、玉音放送を聴いた隊員達を見た者の証言である。

 

 「そのときのみんなの表情がね、頬がゆるんでピクピクしてるんですよ。それを出さないように我慢している姿がね。戦争に負けて理屈では悔しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。みんな悔しいふりはしていますよ。デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ!戦闘続行!なんて言いながら、頬がゆるんでいる。体がよじれるような喜びが内から湧いてくる。戦争に負けたこととこれとは、とりあえず別ですよ」

 

 もちろんこれは証言者の杉田貞雄氏の見た光景であって、全ての隊員がこのような状態ではなかったかもしれない。しかしこの言葉に戦争のリアルを見てしまうのだ。この言葉を収録できたことだけで本書には価値があると思う。

 

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梅本弘 著
大日本絵画 (2011/9/6)

 

 今日は私が零戦搭乗員オタクから一時期手を引いていた時に「しれーっ」と発売されていたのが本書。まあ、「しれーっ」ととは私の勝手な印象なのだが。これ、私が昔やろうとしていたことなんだよね。戦闘行動報告書を調べて撃墜数を知る。さらに彼我の戦闘報告書を調べて実際の空戦を再現すること。

 なぜやらなかったのかというとこれは大変な労力が必要なのだ。私がやろうとしていた当時、1995年前後は、まだインターネットはほとんど普及しておらず、戦闘行動報告書を調べるには防衛庁の戦史編纂室?に行かなければならなかったのだ。ということでこの計画は私の完全な妄想で終わってしまって月日は流れ・・・。

 ふとネットを見てみると(現在、もう電脳社会になっている)、すごい労力をかけやった人がいる。それが著者梅本弘氏だった。本書にも書いてあるが彼我の戦闘報告書を調べるのはもちろん(当然、外国のものは外国語)、日本を含めた参加国の人が書いた戦記を読破した挙句に執筆したのが本書なのだ。労力はハンパじゃない。

 その結果、彼我の戦闘の実態が「ある程度」判明した。「ある程度」とは彼我の報告書を突き合わせても分らないことも多いのだ。今では良く知られていることだが、日米双方ともに戦果を過大評価している。結構、衝撃的だったのは私の憧れのヒーロー、岩本徹三のラバウル航空戦での戦闘行動報告書に記載されている撃墜数は何と20機であった。

 その20機すらも過大に報告された戦果である可能性は否めない。岩本徹三は自著でラバウル航空戦での自身の撃墜数を142機と主張しているが実際は・・・。日中戦争での撃墜14機というのも異論があるようだし、実際のスコアは多くて30〜40機程度だろうなぁ、等と思ってしまうのだ。

 これに対して15機撃墜のエース仲道渉の撃墜戦果はほとんどの場合、相手国の報告書で確認できるという。仲道渉は丙飛4期出身で当時はまだ若年搭乗員であった。必ずしもベテランの撃墜戦果が確実で若手の戦果が誤認であるとは言えないということも本書から分るのだ。

 値段的にちょっと勇気がいるが戦史が好きな人だったら絶対に勝っておくべきだろう。いずれ絶版になるだろうから・・・。

 

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戸高一成 著
PHP研究所 (2009/7/22)

 

 本書は、著者が海軍士官を中心とする方々との交流の中で聞いたエピソードをまとめたものである。内容は非常に興味深く、今まで知られていなかったエピソードも多い。著者の戸高氏はあまり自分の意見を前面に出さす記録者として本書を執筆している姿勢に好感が持てる。14章立てで1章一人なので1章読み切りという感じでついつい読むのが止まらなくなってしまう。本当に面白かった。

 本書は著者が戦後生き残った海軍士官から直接話を聞いた内容を書いている。厳密に言うと13人の海軍士官と1人の報道カメラマンである。戸高氏の著書は以前、古書店で偶然見つけた『海戦からみた太平洋戦争』があまりにも面白かったので、同氏の別の著作を購入したのだ。

 内容は一貫性が無いという批判もあるが、聞き書きなので当たり前だ。逆に私は簡潔にそれぞれの人の興味深い話が短編として記されているので、読みだしたら止まらなくなってしまった。話の内容が人によって違うので退屈しないのだ。

 

 聞き書きに登場する海軍士官は、以下の通りである(カッコ内は著書)。

 

第1章、大井篤(『海上護衛戦』)
第2章、藤田怡与蔵(『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』※藤田氏の著作ではない)
第3章、関野英夫
第4章、山本正治
第5章、大西新蔵(『海軍生活放談』)
第6章、三原 誠
第7章、日辻常雄(『最後の飛行艇
第8章、新見政一(『第二次世界大戦戦争指導史』)
第9章、小瀬本國雄(『激闘艦爆隊』)
第10章、中島親孝(『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』)
第11章、千早正隆(『連合艦隊興亡記』等多数)
第12章、山下清隆
第13章、豊田隈雄
第14章、牧島貞一(『炎の海』)

 

 大井篤氏、日辻常雄氏等半数程の方は著書を持っており、戦記物をよく読む人だったら知っているかもしれない。一応、私の分かる限りで著書を挙げておいた。本書の内容は多岐にわたり、末期の瑞鶴は天山艦攻が3機余計に積めるようになっていた等、あまり知られていない情報や現場の人間しか分からないことが満載されている。

 私が面白かったのは、第3章の関野英夫氏が遠洋航海でサンフランシスコに行った時、野村吉三郎長官が日系人に万が一日米が戦争になったとき、我々はどうするべきかということを質問されたところだ。それに対して野村長官の対応が面白い。

 

<その場の雰囲気は、長官が「日本に忠誠を尽くせ」ということを期待していたようでした。ところが野村長官は「君たちはアメリカ国籍なのだから、立派なアメリカ人としてアメリカに忠誠を尽くさなければならない。それが大和民族の正しい忠誠心というものだ」とはっきり言ったそうです。

 

 この言葉に関野氏は感動したという。さらに戦後、米海軍基地のパーティーで関野氏が、

 

「我々日本海軍軍人だった人間は、米海軍がいかに勇猛でかつ突撃精神を持っているか、またどのような任務でも全力で戦う海軍であることを知っている。だからこそ米海軍は信頼できると思っている。

 

 と発言したのに対して、米軍側は、

 

「我々も日本海軍がどんな困難な任務でも命をかけて最後までそれを果たす海軍であることを良く知っている。だからこそ信頼できると思っている」

 

と返してきたという。これは北村淳『米軍が見た自衛隊の実力』でも米軍軍人の言葉として同様のことが記されている。これはリップサービスではなく、米軍軍人の本心であると私は思っている。ただ、戦時中、日本軍には捕虜の人権を無視していたというような残念な話もある。

 本書で紹介されている士官の最高位である新見政一中将が装甲巡洋艦出雲で遠洋航海に行った際、サンフランシスコで火災に出くわした。その時、出雲でも消防隊を出したのだが、アメリカ側は当然、ポンプ車やはしご車を出したのに対して、鳶口や高張提灯という江戸時代さながらの装束で駆け付けたというちょっと恥ずかしいエピソードも載せている。

 著者曰く、新見氏は分析や研究能力は高かったが、押しの弱い性格だったようだ。その新見氏の著作『第二次世界大戦戦争指導史』に対して昭和天皇が「これはいい本だから皇太子にも読ませたい」と語ったというエピソードも面白い。私は皇太子ではないが、さっそくアマゾンで購入してしまった。

 中島親孝氏の章も面白い。栗田健男中将の艦隊はまともに敵に突っ込んだことがないことや「仙人参謀」黒島亀人大佐はかなり独りよがりの性格であったことなど面白い。因みに黒島大佐については千早氏も宇垣纏『戦藻録』の一部を紛失したことについて自分に都合の悪い部分があったので処分したのではないかと語っている。

 戦艦武蔵の副砲は最上型巡洋艦の主砲であり、装甲が薄い。ここに命中弾を食らったら弾薬に引火して致命傷になるということに誰も気が付かなかったことも初めて知った。戦艦大和型に関しては戸高氏の著書『海戦からみた太平洋戦争』でも大和型は着弾の振動によって主砲の照準器が使えなくなるという欠点があったことが書かれている。

 その他、殺人光線の開発に従事した山本正治氏や有名な坂井三郎氏が負傷して単機で帰る途中の零戦を作家の丹羽文雄氏が見ていたこと、著名な航空機設計者クルトタンク氏と語り合った豊田隈雄氏や戦後軍人の公職追放はマッカーサーはむしろ批判的であったのに日本人が強硬に主張していたことなど、興味深いエピソードが多い。

 

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 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。

 『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 私が特に興味を持ったのは、零戦隊以外にも水上機部隊の活躍を克明に描いていることだ。ラバウル航空戦というと零戦隊の活躍ばかりが取沙汰されるが、零戦隊進出以前から水上機隊の戦いがあったことを知る人は少ない。

 水上機の戦闘記録をここまで克明に再現したのは本書が初めてではないだろうか。日本海軍最後の複葉機、零式観測機、通称零観の活躍や零戦にフロートを付けた二式水戦の活躍が描かれている。さらに九七大艇や二式大艇対B17の戦い等の記録も貴重だ。

 内容は日時から双方の損害、消費弾薬量にまで至る。かなり緻密に調べている。『海軍零戦隊撃墜戦記』では内容が単調で読むのが辛いという意見もあったが、私にはかなり興味深く読んだ。もちろん戦死した人数名前までも調べられる限り調べている。

 一般にラバウル航空戦は前半が日本の圧勝、後半は互角か苦戦というように考えられていると思うが、実際の航空戦を見ると、初期の戦いから空戦の度に日本側が大きな損害を出しているのが分かる。撃墜、行方不明の機数で言えば日本側が若干劣勢という程度であるが、戦死者の数は日本側が圧倒している。

 なぜそうなるのかというとアメリカ側は撃墜されても搭乗員が比較的救助されているのに対して日本側は防弾装備の不備によって「一発着火」していまうことや侵攻作戦であることもあり、生存率は低い。結局、総合的に見ると飛行機の損害は同じようでも日本側が一方的に多数の熟練搭乗員を失っているのが分かる。

 結局、救助されて再出撃することによって経験を積むアメリカ側搭乗員に対して搭乗員を消耗していく日本側というのが印象的だ。梅本氏以外の著作でもヘンリー境田『源田の剣』は彼我の搭乗員の氏名やその後まで調べているが戦闘というのは「人が死んでいる」というのがよく理解できる。戦記物は結構、「やった〜!日本の勝ちだ〜」というようにゲーム感覚で読んでしまいがちであるが、毎回の戦闘で死亡した彼我の兵士の人数、氏名を記されることによってゲーム感覚での読書を防いでくれる。

 本書中盤以降で面白いのはガダルカナル島上空での戦闘で米軍カクタス航空隊の搭乗員の口からさかんに零戦「ナゴヤ型」という新型機の存在が報告されることである。この「ナゴヤ型」は今までの零戦と異なり燃料タンクに自動防漏装置を装備し、速度は今までの零戦に比べ圧倒的に高速(F4Fより111キロ速い)で、並外れた機動性を持つという。

 無論「ナゴヤ型」なる新型機は存在しない。これは二号艦戦(三二型)が登場したという情報と戦場での恐怖心から生まれた新型機ではないかと著者は推測している。因みに「ナゴヤ型」として警戒されていたのは通常の零戦二一型であったようだ。

 航空機に関しては度々、me109やハインケル製ドイツ機との空戦を報告している。これはそれぞれ、零戦三二型、二式陸偵を誤認したものと思われる。これは私には結構新鮮だった。私は日本側の戦記やパイロットの手記は随分読んだが、連合国側のものはほとんど読んでいない。高性能の航空機は結構ドイツ製にされてしまっているようだ。

 本書は著者の今までの著書と同じように誤認戦果についても明確にしている。やはり今まで言われていたように連合国側に比して日本側の方が誤認が多いようだ。ファンには残念なことかもしれないが、著名な撃墜王、西澤廣義氏や太田敏夫氏、奥村武雄氏、角田和男氏等も相当の数の撃墜を誤認しているようだ。

 搭乗員に関しては『蒼空の航跡』でその技量の高さを知られる江馬友一飛曹長と推定される零戦が米軍パイロットを驚嘆させるような機動を行ったことや『ゼロファイター列伝』において三上一禧氏が唯一勝てなかったという奥村武雄一飛曹の技量の高さを知ることができる。

 さらに同『ゼロファイター列伝』での日高盛康氏の南太平洋海戦での決断の結果、米軍航空隊に多大な損害を与えたということも知ることとなった。ただ、前にも書いたように「日本が勝ったーばんざーい!」というような気持で本書を読むことはできない。

 本書を読んでいて一番感じたのは、R方面部隊を始めとする水上機隊の活躍である。水上機は周知のようにフロートを付けていることから通常の戦闘機に比べ機動性が劣る。にもかかわらずかなりの善戦をしていることが分かる。場合によっては米軍戦闘機隊と互角以上の戦いをしている場合もあり、そうでなくても米軍爆撃機から船団を護ることに関しては水上機隊の攻撃により爆撃を反らしたりとかなりの活躍をした。

 本書で私が一番感じたのは、米軍のパイロットは撃墜されても多くが救助されているのに対し、日本の搭乗員はそのほとんどが戦死している。それは防弾性能の悪い機体が主要な原因であり、それにより米軍に比して搭乗員の練度の低下を招いた。結局、日本軍の人命軽視の姿勢が日本空軍の戦力を奪っていくのだ。

 

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神立尚紀 著
潮書房光人新社 (2020/7/21)

 

 特攻隊の生みの親と言われる日本海軍の提督、大西瀧治郎。太平洋戦争末期、フィリピン決戦が叫ばれる中、大西瀧治郎の発案により特攻隊は生まれた。それ以前にも個人的に敵に体当たりをしたり、小規模の特攻は命令されていたようだが、大々的に特攻隊が編成されたのはフィリピンが最初である。本書は特攻隊生みの親、大西瀧治郎がなぜ特攻を命令したのかを調査した本だ。ことの始まりは零戦搭乗員、角田和男氏が聴いた大西瀧治郎の特攻の真意から始まる。それは

 

「特攻をすることによって天皇陛下に戦争終結の聖断を仰ぎ、講和のための手段とする」

 

 ことであったという。この角田氏が聴いた話を当時、大西瀧治郎の副官であった門司親徳氏にぶつける。基本的にこの二人の知った情報により話は展開する。結論は上記のものになるのだが、本書は特攻隊に編成された若者、海軍上層部等をうまく描き出している。中には海軍乙事件と呼ばれる連合艦隊の参謀長、福留繁以下がフィリピンで捕虜になり、後日、救出される事件についても言及している。福留参謀長は、本来なら軍法会議にかけられるところを不問に付し、その後栄転することになる。

 これと比較して興味深いのは坂井三郎『大空のサムライ』に登場する下士官陸攻搭乗員達である。彼らは開戦初頭、同じくフィリピンで現地人の捕虜となるが、その後進出してきた日本軍に救出される。その後、日本海軍軍人が捕虜になったという事実を消すため戦死させようと最前線に送られる。編隊ではカモ小隊カモ番機といわれる第三小隊三番機のさらに後ろ四番機の位置に付けられ出撃させられる。しかし練度の高い彼らは生き残ってしまう。司令部はさらにポートモレスビーへの単機偵察を命じるが、それでも生き残ってしまう。そしてとうとう敵飛行場に体当たりを命じられ戦死する。高級軍人と下士官兵への対応から当時の日本海軍の体質が分かって興味深い。ここらへんの顛末は森史朗『攻防―ラバウル航空隊 発進篇』に詳しい。

 それはそうと私が印象に残ったのは大西瀧治郎の死に方である。特攻を命令した士官の多くは戦後、何事もなかったかのように平和な生活を楽しむのだが、大西瀧治郎は違った。特攻を命じた責任をとるために割腹自殺する。それも腹を十文字に切り裂き、さらに首と胸を突いたのち介錯も拒み半日以上も苦しんで死ぬという壮絶なものだった。その後、大西自決を知った中澤佑中将の「俺は死ぬ係じゃないから」や戦後、元特攻隊員になぜ自決をしないのかを問われた猪口力平参謀の「残された者にもいろいろ役目があるんだよ」と苦笑して答えた姿と比較すると何ともいえない。

 本書は戦後、大西の妻が坂井三郎の印刷店の名目上の取締役に就任したことやその裏事情等にも触れていて面白い。大西の副官門司親徳氏の聡明さも私としては印象が強かった。本書は大著ではあるが、本書の解説にもあるように推理小説のように話が展開するのでついつい引き込まれてしまう。本書を読むと著者がどれだけ調査したのかが分かる。良書だ。

 

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ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

 零戦パイロットについて知りたい人という稀有な人のために「これを読めば海軍の撃墜王が良く分かる」という本を紹介。

 

秦郁彦・伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊』エース列伝

 まずは定番中の定番。一番のポイントは海軍のエース一覧表が掲載されていること。さらには主な撃墜王の経歴が書いてある。この本は1975年に出版された同タイトルの本の復刻版なので情報がちょっと古いものや誤りもあるので注意が必要。表紙の撃墜マークの横に立っているのは谷水竹雄飛曹長。

 


ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 


野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎、甲木清美など独自に調査している。コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。

 

 この3冊を読めば日本海軍のエース、撃墜王は全て把握できる。こういう「エース列伝」はいろいろ批判されたりもしているが、愛好家であれば必読。「これらだけでは物足りない!」「もっと背景まで知りたい!」という人は下記の本もおススメ。

 

秦郁彦・伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊』―戦歴と航空隊史話

 前述の『日本海軍戦闘機隊』の姉妹編。航空隊や戦歴について書かれたもの。パイロットが所属した航空隊や航空戦史についても詳しく書いてある。但し、これも最初に出版されたのが1975年なので情報がちょっと古いので読むときは他の書籍と情報を突き合わせながら読むことをお勧めする。

 


秦郁彦・伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝』

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

 

零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』

 この本は海軍戦闘機搭乗員の生存者が戦後作った「零戦搭乗員会」が出版したもの。他の本と違い当事者の手によるもので史料的価値も高い。海軍航空の成り立ちから制度、訓練さらには航空戦史など海軍航空の全てをかなりの精度で網羅している。巻末には海軍戦闘機搭乗員の名簿がある。かなりの貴重本。

 

 以上、海軍の撃墜王を知るための基本的な文献を紹介してみた。最近は、航空戦史の研究が進んだことで陸軍戦闘機隊が意外に善戦していたことが判明したりと陸軍航空隊が注目されているが、海軍航空隊にも魅力的な航空機やエピソードが多くある。こちらも注目だ。

 

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01_B36
(画像はコンベアB36 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 富嶽とは、太平洋戦争後期に中島飛行機創業者中島知久平の独創によって計画された超大型戦略爆撃機である。当時、大型機の開発経験の無い日本には実現困難な計画であった。特にエンジンには5,000馬力が必要であり、このようなエンジンは当時はどこも実用化していなかった。中島飛行機の社内計画として開始、一時は陸海軍の正式の計画にまでなるが、結局実現困難として開発中止となる。

 

超重爆撃機 富嶽 〜概要〜

 

 

性能(試製富嶽最終案)

全幅 63.00m
全長 42.00m
全高 8.80m
自重 338,000kg
最大速度 780km/h(高度15,000m)
上昇力  -
上昇限度 15,000m
エンジン出力 5,000馬力(ハ54)6基
航続距離 19,400km(爆弾5,000kg搭載時)
乗員 6名
武装 20mm機関砲4門
爆装 最大20,000kgまたは魚雷20本
設計・開発  - / 中島飛行機

 

開発

02_B29
(画像は戦略爆撃機B29 wikipediaより転載)

 

 1942年11月、中島飛行機「大社長」中島知久平は、群馬県太田市に中島飛行機首脳部と幹部技術者を集めて超大型戦略爆撃機を製作するという決意を表した。これに呼応した幹部、技術者は一式戦闘機隼や四式戦闘機疾風の設計で有名な小山悌技師をまとめ役として「必勝防空研究会」を設置、超重爆の研究を開始した。この計画は「Z計画」と名付けられ、1943年1月末には基本方針が出来上がった。この「Z計画」の「Z」とは海軍の「Z旗」が由来であり、そのZ旗とは「皇国の荒廃この一戦に在り」を意味する。

 Z飛行機の基本コンセプトは、米軍機に対して、々丗概離が優越していること、爆弾搭載量が優越していること、B度が優越していることであった。要するに「無敵爆撃機」を製作しようとした訳であるが、このコンセプトからして当時の日本の技術力を超越したものであるのは言うまでもない。このため軍部からは批判の声が強かった。こんなものにリソースを割くのであれば戦闘機を製作せよという訳である。

 しかし「変人」中島知久平はこんなことではめげない。めげるような男であるならばそもそも中島飛行機などという会社は存在しなかったであろう。中島は小山悌技師を同道、陸軍に対して米本土爆撃が可能であることを力説した。この結果、軍部に理解者が現れ始め、ついには「富嶽」という名称で軍の正式な計画となった。

 

Z飛行機計画

03_B29とB36
(画像は戦略爆撃機B29とB36 wikipediaより転載)

 

 以上のように中島飛行機が独自に研究した飛行機は「Z飛行機」と呼ばれ、軍部によって正式に認められた計画によって完成が企図された飛行機が「富嶽」と呼ばれている。つまりZ飛行機計画が正式に採用されて富嶽計画となった訳である。では、このZ飛行機とはどんな飛行機であったのだろうか。

 Z飛行機には複数の案があったが、最終案として残ったものは全幅65m、全長45m、全高12m、重量が自重67.3トン、最大爆弾搭載量50,000kg、最大速度は高度7,000mで680km/h、実用上昇限度12,480m、航続距離は16,000kmというとんでもない化け物飛行機であった。エンジンは6発で搭載が予定されていたのはハ44(2,450馬力)2基をタンデムに連結したハ54エンジン(5,000馬力)であった。

 このようにZ飛行機は空前の超大型機であったが、中島知久平が考案した使用法もまた壮大なものであった。まずZ飛行機には1,000kg爆弾20発を搭載するZ爆撃機、20mm機関砲96門を装備したZ掃討機、7.7mm機関銃400挺を装備したZ掃討機、1,000kg魚雷20本を装備するZ雷撃機、武装落下傘兵200名を搭乗させるZ輸送機があり、これらを駆使して戦っていく。

 第一段階は防衛線で、数百機の爆撃機型Z飛行機で日本本土空襲が可能な位置にある飛行場を爆砕、来襲する敵爆撃機は掃討機型が高度差を利用して上空から機関砲の雨を降らせて全て撃墜する。機動部隊に対してはまず掃討機型で対空砲火を沈黙させる。次いで爆撃機型で絨毯爆撃を行い、撃ち漏らした艦船を雷撃機型で撃沈する。この雷撃機型は1機で1隻が割り当てられており、1隻に対して搭載魚雷20本を撃ち込む。これらにより日本に来襲する敵航空機、艦隊を壊滅させる。

 第二段階では、ドイツ占領下のフランスに前進基地を設けて米本土を猛爆撃する。これでも降伏しなかった場合は、4,000機のZ爆撃機、2,000機のZ掃討機、2,000機のZ輸送機で米本土を占領するというものだ。第三段階はドイツ国内に拠点を設け、ソ連やイギリスを猛爆撃するという壮大な計画であった。もちろん実現する可能性は全くない。

 余談であるが、これを架空戦記としてシミュレーションしたのが、檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』シリーズで、元零戦搭乗員坂井三郎氏も舌を巻く程の専門知識を持つ著者が合理的に「仮に富嶽が量産された場合」をシミュレートする。

 

「試製富嶽」委員会の設置

04_B52
(画像は現代の戦略爆撃機B-52 wikipediaより転載)

 

 中島知久平の熱意により、1944年1月下旬に中島知久平を委員長として「試製富嶽委員会」が背設置されることが決定、陸軍航空技術研究所、海軍航空技術廠を始め、大学、民間企業の専門家をメンバーとした委員会は、1944年3月(4月とも)正式に発足した。

 ここで一番の問題となったのはやはりエンジンであった。Z飛行機で搭載予定であった5,000馬力級エンジンであるハ54は、その元となるハ44エンジンすら試作の段階であったため、開発は難航した。このため様々な代替案が用意されたがどれを採用しても能力が低下することは必須であった。エンジンの開発は難航していたものの、委員会員が協議の上完成させた試製富嶽最終案は以下の通りとなった。

 全幅63m、全長42m、自重338トン、最高速度15,000mで780km/h、航続距離が爆弾15,000kg搭載で16,500km、エンジンはハ54が6基、プロペラは6翅または8翅プロペラで20mm機関砲4門、与圧室装備で乗員6名であった。しかしこの遠大過ぎる計画は明らかに実現困難であったため、1944年4月には開発中止が決定、1945年4月に委員会は正式に解散した。

 

生産数

 計画のみ。

 

超重爆撃機 富嶽の関係書籍

 

檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』

 仮に富嶽が完成していたら。。。というシミュレーションである。著者は架空戦記物の草分け的な存在の檜山良昭氏。戦史や当時の技術に対する造詣の深さは元零戦搭乗員の坂井三郎氏を唸らせるほどであった。本書では、富嶽のエンジンが苦難の末に開発に成功、富嶽の量産が始まる。

 中島知久平の計画では富嶽は数百機を生産することになっているが、本書では月産10機程度しか生産できない。当時の日本の工業力を考えれば妥当な数である。日本軍は、この富嶽を以って陸海合同で戦略空軍を発足、米本土爆撃を始め、様々な作戦に活躍するが所詮20〜30機程度の富嶽では戦局を覆すことは出来ず、富嶽も1機、また1機と消耗していく。

 架空戦記というと当時の日本の技術力、工業力や時代背景を完全に無視した荒唐無稽な作品が多いが、本書は「ハ54エンジンの開発に成功した」という設定の下、日米の国力差、空襲の激化による生産数の減少等、可能な限りリアルに「富嶽」をシミュレートする。

 

まとめ

 

 富嶽は航空機好きなら誰でも知っている中島飛行機が計画した幻の超重爆撃機である。確かに中島知久平の計画通りにこの富嶽が生産されていれば戦局は大逆転したであろう。しかし、もしこの富嶽を日本が製造できる技術力と工業力があれば、日本の軍用機はもっと高性能であり戦場を席巻していたであろうから、そもそも大逆転させなければならない状況にはならなかった。

 技術的にも工業力的にも完全に不可能であった本計画であったが、陸海軍共にこの計画を取り上げて正式な委員会まで設置してしまったことに当時の日本の末期的状態が見て取れる。富嶽は富士であり、富士は日本の象徴であるが、この富嶽計画もまた当時の日本の状態を表す象徴的な計画であった。

 しかし、無理な計画、遠大な計画を目指してそれを実現させていくのが技術であり、この富嶽計画に関わった技術者達の挑戦は決して無駄ではなかった。戦後、中島飛行機はその技術力と会社規模を恐れたGHQの命令により解体されるが、数年後には分割された会社のほぼ全社が再集結して「富士重工業」を成立させる。無論、社名の「富士」は「富嶽」に由来している。富嶽は確かに当時の日本の国力を完全に無視した実現不可能な計画であった。しかし当時の中島飛行機の人々の心に夢として刻み込まれ、それは戦後も生き続けたのである。

 

 

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01_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊攻撃機橘花とは、太平洋戦争末期に日本海軍が計画、中島飛行機が開発したジェット攻撃機である。試作機1機が11分飛行したのが唯一の飛行記録である。2回目の飛行は失敗、そのまま終戦となった。海軍の期待は大きく戦闘機型等多くの派生型が計画されたが画餅となった。

 

特殊攻撃機 橘花 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.00m
全長 9.25m
全高 3.50m
自重 2,300kg
最大速度 679.7km/h(高度6,000m)(計算値)
上昇力 10,000mまで29分18秒(計算値)
上昇限度 10,600m(計算値)
エンジン出力 推力475kg(ネ20)2基
航続距離 680km(計算値)
乗員 1名
武装  -
爆装 500kg爆弾1発または
   800kg爆弾1発
設計・開発 松村健一 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

02_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

03_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 ジェットエンジン研究の先進国はドイツであったが、日本でも研究は進んでいた。1944年、無事に帰国した巌谷技術中佐がもたらした資料を参考に陸海軍官民合同研究会が開催され、ジェットエンジンは海軍、ロケットエンジンは陸軍の主導で行うことが決定された。因みに、この際に決定したジェットエンジンの陸海軍共通名称であるが、ジェットエンジンは「ネ●●●」とカタカナと三ケタの数字で呼ばれることが決定した。この「ネ」は「燃料ロケット」三ケタの数字の上一桁はメーカー番号、下二桁はエンジンの馬力相当出力である。これは1,000馬力級であれば「10」、2,000馬力級であれば「20」と表記される。あと空技廠が製作した場合にはメーカー番号は付与されない。例えば「ネ20」であれば、空技廠製の2,000馬力級ジェットエンジン、「ネ230」であれば中島製3,000馬力級ジェットエンジンという具合である。

 空技廠で開発されていた国産ジェットエンジン「ネ10」は1944年9月には全力運転に成功したが、性能は不安定であり未だ実用レベルには達しておらず、ネ10は、ネ10改、ネ12と改良されていったもののエンジンの耐久性は低いままであった。この頃から空技廠ではドイツ型ジェットエンジン「ネ20」の開発が開始されていたが、このネ20はネ10に比べて小型高性能であり、耐久性も及第点に達したため開発はネ20を中心に進められることとなりネ10の開発は打ち切られることとなった。

 

橘花開発開始

04_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年8月、中島飛行機に対してジェット機「皇国二号兵器」の開発を指示(当時は「橘花」という名称ではなかった)、中島飛行機側は設計主務者に艦上攻撃機天山や百式重爆呑龍の設計主務者である松村健一技師を充てて開発を開始した。機体はドイツ製Me262を模倣した無難な形状に決定、とにかく「飛ばす」ことを目的に開発が進められたのに合わせて海軍では生産計画が立案された。おれは10月には木型審査完了、12月には月産30機、翌1945年1月には月産60機、2月100機、3月150機という遠大な計画で、機体設計すら完了していない状態では無謀という他の無い計画であった。

 1944年12月末、正式に試製橘花計画要求書案が交付される。この要求書で双発単座の陸上攻撃機と明記された。名称に特攻機を示す「花」が使用されていることからも分かるように当初は特攻機として計画されたようであるが、計画が進むにつれて機体の安定性や操縦性等が求められるようになり、落下傘の装備も要求されていたことから、橘花は、特攻機から徐々に通常の攻撃機と性格を変化させていったものと考えられる。

 設計中、空襲の被害を避けるため設計室は栃木県佐野市に疎開、橘花の生産は何と群馬県世良田村の養蚕小屋で行われた。1945年6月25日、この養蚕小屋で試作1号機が完成した。機体は全幅10.00mと零戦よりも2mも小さいコンパクトな双発機で主翼はエンジンから先の外翼が上方に折り畳めるようになっていた。素材はジェラルミンであるが、胴体中央部の一部外板には鋼板、翼端には木を使用しており、主車輪は零戦、前輪は銀河の尾輪の流用であった。

 7月27日に地上滑走、8月7日に初飛行した。8月11日には第二回飛行が行われたが離陸に失敗、そのまま終戦となった。

 

生産数

 完成したのは試作機1機のみである。他に完成直前の2号機、ほぼ完成状態の24機があった。

 

まとめ

 

 海軍の期待が集まっていた橘花には多くの計画があった。しかし完成が1945年6月という終戦直前であったことからも分かるようにこれが当時の日本の航空技術の限界であった。ドイツではMe262が1941年に初飛行、1,430機が生産され実戦部隊も編成されていた。英国でも同時期にグロスターミーティアが実戦配備、米国も1942年にはP59が初飛行、1944年にはP80シューティングスターが初飛行している。太平洋戦争開戦前、九七式戦闘機や零戦、二式大艇等の世界水準の航空機を開発していた日本であったが、技術競争が激しくなる中で基礎技術力の低さが如実に現れた結果であったといえる。

 

 

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01_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式水上偵察機(零式三座水偵)とは、愛知時計電機(のちの愛知航空機)が開発した三座水上偵察機で、当時としては快速で安定性が良い傑作機で、日中戦争から太平洋戦争全般にわたって偵察任務だけでなく、船団護衛、哨戒、魚雷艇攻撃等に活躍した。

 

零式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.49m
全高 4.70m
自重 2,524kg
最大速度 367km/h
上昇力 3,000mまで5分27秒
上昇限度 7,950m
エンジン出力 1,080馬力(金星43型)1基
航続距離 3,326km(14.9時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺(弾数582発。97発弾倉6個)
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発または
設計・開発 松尾喜四郎 / 愛知航空機

 

開発

02_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年初頭、海軍は中島飛行機に対しては十二試二座水偵、愛知時計電機(のちの愛知航空機)と川西航空機に対しては十二試二座水偵と十二試三座水偵の2機種の開発を命じた。この指示を受けた愛知は当時、十一試艦爆(のちの九九式艦爆)、十一試特種偵察機(のちの九八式水上偵察機)を開発中であり、さらに2機種の水上機の開発に力を割く余裕はなかった。

 このため二座水偵の開発を先行、その成果を三座水偵に反映させるという方法で対応した。設計主務者は松尾喜四郎技師で開発を開始した。設計は順調に進んだものの開発中の航空機が多数あったため艤装関係の設計や試作機の製作が遅々として進まなかったため期日に間に合わず失格となってしまった。

 しかし愛知の上層部は研究資料とするために開発の継続を指示、1939年1月1日に試作1号機が完成、4月には初飛行に成功した。飛行試験では小さな問題は発見されたものの大きな問題はなく、最高速度も要求値に達しており安定した素直な機体であった。

 競合していた川西航空機の試作機は期日には間に合ったものの全体的に性能要求には達しておらず、さらにはテスト中に事故が続いたため審査は中止となっていた。このため海軍は愛知の試作機に注目、1939年7月、空技廠から担当者を派遣してテストを行った。その結果、愛知の試作機は直ちに海軍に領収された。

 海軍での試験でも好成績を発揮、12月には制式採用が内定、1940年12月17日、零式水上偵察機として制式採用された。生産は制式採用前から始まっており、1940年9月30日には量産一号機が完成している。因みに生産は愛知では上記の理由で生産能力が限界を超えていたため、広海軍工廠、九州飛行機で主に生産が行われた。

 機体は全金属製セミモノコック構造で主翼は金属製で一部が木製・羽布張り、格納時は主翼の中程から折り畳めるようになっていた。乗員は操縦員、偵察員、電信員の3名で偵察員は爆撃手も兼ねている。風防は完全密閉式である。

 エンジンは三菱製金星43型(1,080馬力)でプロペラは直径3.1m3翅定速プロペラであった。武装は九二式7.7mm旋回機関銃で97発入りドラムマガジンを6個搭載していた。爆撃兵装は60kg爆弾4発、または250kg爆弾1発で60kg爆弾の内2発は翼下、2発は胴体内に搭載することが可能であった。

 

二号

 初期の生産型と大きな変更点はないが、フロートの支持方式が張線から支柱に変更された他、初期生産型ではスピナ無しの機体が多かったが、スピナが標準装備となった。後期生産型からは排気管が推力式単排気管に変更された。

 

その他バリエーション

 11甲型は、1944年11月に制式採用された三式空六号無線電信機4型(レーダー)を装備した機体で、同じく1944年11月に制式採用された11乙型は、磁気探知機装備型である。他には、1944年3月に制式採用された複操縦式の零式練習用水上偵察機、魚雷艇攻撃用に偵察席に20mm機銃1挺を搭載した魚雷艇攻撃機型、戦争末期に魚雷を搭載できるように改造された雷撃機型があった。

 

生産数

 愛知時計電機で1938年から1942年までに133機、1942年から1945年までに九州飛行機で1,200機、広海軍工廠で90機が生産された。合計1,423機である。終戦時には約200機が残存していた。

 

まとめ

 

 零式水上偵察機は、戦艦や巡洋艦にも搭載された他、水上機母艦や基地航空隊にも配属された。有名なR方面部隊にも零式三座水偵は配備されていた。四方を海に囲まれた日本にとって水上機の必要性は高く、日本海軍は他の海軍とは比較にならない程水上機の開発に熱心であった。このため多くの名機が生まれた。特に初期のソロモン方面での戦闘では、滑走路が不要な水上機は重宝されたが、艦上機、陸上機には性能面では太刀打ちできず多くの損害を出した。

 

 

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01_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機秋水とは、太平洋戦争末期に日本陸海軍によって計画されたロケット戦闘機である。開発は三菱重工でドイツのMe163の設計を元としているが、設計図の一部しか日本には届かなかったため独自開発の部分が多い。1号機は1945年7月に初飛行をしたが上昇中にエンジン停止、滑空の後に大破した。2回目の飛行を準備中に終戦となる。

 

局地戦闘機 秋水 〜概要〜

 

性能

全幅 9.5m
全長 5.95m
全高 2.7m
自重 1,445kg
最大速度 800km/h(高度10,000m)※(900km/h説もあり)
上昇力 10,000mまで3分30秒
上昇限度  - m
エンジン出力 推力1,500kg(特呂二号)
航続距離 高度10,000mまで全力上昇後、800km/hで1分15秒
乗員 1名
武装 30mm機銃2挺
設計・開発 高橋己治郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

02_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 ドイツで実用化されたロケット戦闘機Me163コメートの資料を遣独潜水艦によって入手した日本軍は、陸海軍共同で開発を開始することを決定した。設計方針の違いから意見が対立したものの結局、海軍名秋水、陸軍試作機番号キ200として三菱重工によって開発することとなった。

 1944年8月7日、陸海軍は三菱重工に対して試作機の開発を正式に指示した。これに対して三菱重工は高橋己治郎技師を設計主務者として開発を開始した。資料がドイツから届いたといっても届いた資料は簡単な図面と設計説明書等、ごくわずかであったが、1944年11月には設計完了、12月には試作1号機が完成した。

 形状はMe163とほとんど変わらなかったが、Me163が20mm機銃を搭載したのに対して秋水は30mm機銃を搭載したためもあって全体的に秋水よりも少しだけ大型化していた。主翼の桁、垂直尾翼は木製で胴体はジェラルミン製でセミモノコック構造、外板もジェラルミンを使用していた。

 降着装置は主車輪と尾輪、橇によって構成されており、離陸時には主車輪を使用、離陸完了と同時に投下、着陸時は橇を使用する構造になっていた。武装は30mm機銃であるが、同じ機銃であっても海軍は五式30mm機銃、陸軍は口径30mmホ155機関砲を搭載する計画であった。

 エンジンは特呂二号(海軍名「KR10」)で秋水の開発以前から研究されていたもので水素に水化ヒドラジンとメタノールの混合液を反応させ高温高速ガスを発生させるというものであった。開発の中心になったのは三菱の持田勇吉技師であったが、開発を主導していたのは陸軍で海軍空技廠の技術も必要という複雑な中での開発であった。試作機の完成と同時にエンジンも完成するはずであったが、未知の分野であり資料も乏しかったため開発が難航、完成は1945年6月になった。

 

練習用グライダー秋草

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 この秋水の搭乗員訓練用に実物と同じ大きさ、形状のグライダーも製作された。これは無尾翼滑空機秋草(MXY8。陸軍名「ク13」)で1944年12月26日に初飛行に成功している。この初飛行は高度3,000mまで航空機により曳航されたのち切り離されるというものでテストパイロットは秋水のテストパイロットでもある犬塚豊彦大尉で、犬塚大尉の操縦により無事に着陸に成功した。

 さらには重滑空機と呼ばれる実機から動力装置、タンク類、兵装等を取り除いた機体で2機が製作され陸海軍に各1機引き渡された。初飛行は、1945年1月8日に犬塚大尉の手によって行われた。高度1,700mまで曳航された後、滑空しながら無事に着陸した。陸軍でもク13(海軍名「秋草」)や重滑空機の試験を行っていたが、1945年8月10日、訓練中の事故により機体は大破、搭乗員は重傷を負った。

 秋水の初飛行は1945年7月7日で滑空機と同じく犬塚大尉の手によって行われたが、上昇中にエンジンが停止、飛行場に滑り込むことには成功したものの機体は大破、犬塚大尉は重傷、翌日に死亡した。原因は燃料を1/3に減らした状態で試験を行ったため、上昇中に機体の姿勢と加速の関係で燃料取り出し口に燃料が入らなくなってしまったことであった。この燃料を1/3に減らしたのは秋水部隊である312空司令柴田武雄大佐が傾倒していた新興宗教による「お告げ」が原因であったとも言われている。

 

 

キ202 秋水改(計画のみ)

 秋水(キ200)の航続時間延長型である。全体的に秋水よりも一回り大きく、エンジンは特呂三号液体燃料ロケットで最大飛行時間が秋水の6分36秒から10分28秒に増大していたが、実現さえることなく計画のみで終わった。他にも武装を30mm1挺、車輪を廃してカタパルト発射式としたJ8M2等も計画されていた。

 

生産数

 試作機が2機、量産機が5機完成していた。他にも10機がほぼ完成という状態であった。終戦時には5機が残存していた。内3機を米軍が接収、米国で1機のみが現存している。

 

まとめ

 

 秋水はそれまで別々に同じような性能の航空機を開発していた日本陸海軍が共同で開発した画期的な機体であった。しかし遅きに失した感はある。秋水は実用化されなかったものの、仮にされたとしても燃料の調達や整備、生産、秋水自体の安全性から見ても戦果は挙げられなかった可能性が高い。

 

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01_九八式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式水上偵察機とは、日本海軍のお家芸である夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の水上機であった。水雷戦隊旗艦に搭載されて運用されたが、夜襲水雷戦の重要度が下がったことやレーダーの登場等により後継機は製作されなかった。日中戦争から太平洋戦争初期まで活躍した。

 

九八式水上偵察機 〜概要〜

 

性能

全幅 14.49m
全長 10.71m
全高 4.52m
全備重量 3,300kg
最大速度 217km/h
上昇力 3,000mまで18分35秒
上昇限度 4,425m
エンジン出力 620馬力(九一式22型水冷)
航続距離 2,065km(15時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺
設計・開発 森盛重 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 夜間偵察機(夜偵)とは水雷戦隊の夜襲を重視した日本海軍独自の機種で、水雷戦隊の夜襲時に敵艦隊に夜間接触するための専用の偵察機である。この夜間接触専用の機体を開発したのは日本海軍だけである。最初の夜偵は1932年に初飛行した愛知時計電機製六試夜間水上偵察機で飛行艇の形式を採用していた。これは6機製作されたが制式採用とはならず民間航空会社に払い下げられた。そして1936年7月13日、初めて夜間偵察機として愛知製九六式水上偵察機が制式採用された。

 

開発

 九六式水偵が制式採用された1936年10月1日、海軍は愛知と川西に十一試特種偵察機(E11A1)の開発を指示した。これに対して愛知は森盛重技師を設計主務者として開発を開始、翌年の1937年6月に試作1号機を完成させた。十一試特偵の形状も今までの夜偵と同様の飛行艇型で複葉単発、金属製の骨組みに羽布張りであった。風防は密閉式の涙滴型風防でエンジンは、愛知製水冷九一式22型(500馬力)で上翼中央に取り付けられた。プロペラは木製4翅、カタパルトによる射出が可能で主翼は上下共に後退角が付いており、後方に折り畳むことができた。

 性能は、最高速度が216.7km/h、高度3,000mまでの上昇時間が18分35秒、実用上昇限度が4,425m、航続距離が2,065kmであった。競合していた川西も試作機を提出したが、最高速度こそ231km/hと愛知製試作機よりも上だったものの全体的には愛知製が優れており、1938年6月27日、九八式水上偵察機として制式採用された。

 

生産数

 1937年から1940年までに試作機と増加試作機合わせて17機が生産された。終戦時には5機が残存している。

 

まとめ

 

 夜間偵察機は夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の機種であった。夜間であるため戦闘機からの攻撃は考慮する必要はなかった代わりに長時間滞空出来る必要があった。この九八式水偵は15時間に及ぶ滞空能力があったため演習時等は一晩中上空にいたという。夜間偵察の重要性が低くなったのと零式水上偵察機で代用可能であったため、本機以降、夜間偵察機という機種は制式採用されていない。

 

 

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01_景雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 陸上偵察機景雲とは、日本海軍の陸上偵察機である。陸偵の重要性は訴えられていたが、それまでは九八陸偵、二式陸偵、百式司偵と転用してきた海軍が初めて専用の陸偵として開発した唯一の機体で、エンジンは液冷ハ70を胴体中央に配置する等意欲的な機体であった。1942年に開発が開始、1945年5月に初飛行するが生産されることなく終戦となった。景雲改としてジェット機化の計画もあった。

 

陸上偵察機 景雲 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 13.05m
全高 4.24m
自重 6,015kg
最大速度 741km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで21分00秒
上昇限度 11,700m
エンジン出力 3,400馬力(ハ70)1基
航続距離 3,611km
乗員 3名
武装 なし
爆装 なし
設計・開発 大築志夫 油井一 / 空技廠

 

海軍陸上偵察機の流れ

 海軍は洋上での活動が主であるため陸上偵察機に関してはほとんど関心を持たなかったが、1938年になると陸上偵察機の必要性が主張されるようになる。早速同年には十三試高速陸上偵察機の開発が計画されるが、陸軍の九七式司令部偵察機を海軍用に改造して使用することが決定したために開発中止となる。この陸偵が1939年11月に制式採用となった九八式陸上偵察機で、これは陸軍の九七式司偵のエンジンを瑞星12型(780馬力)に換装した機体であった。

 この九八陸偵は戦闘機隊を中心に配備され、日中戦争から太平洋戦争開戦後まで縦横無尽に活躍する。この九八陸偵の後継機として十五試陸上偵察機の開発が計画されるが、結局発注されずに終わっている。代わりに後継機として制式採用されたのが十三試双発戦闘機を転用した二式陸上偵察機である。同時に一部部隊では陸軍の百式司偵を譲り受けて使用している。

 1942年、次期陸上偵察機として十七試陸偵が海軍航空技術廠(空技廠)に発注された。空技廠では大築志夫技術少佐を設計主務者として開発を開始したが、性能面で用兵側との折り合いがつかず、長距離偵察機的な性格を持つ十七試陸偵の必要性が薄れてきたこともあり計画は中止された。長距離偵察任務の必要性は薄れてはいたが、局地偵察機の必要性は高く、1943年、改めて空技廠に十八試陸上偵察機景雲として開発が指示された。

 

開発

 十八試陸上偵察機景雲(R2Y)の開発を指示された空技廠は十七試陸偵の設計主務者であった大築少佐を設計主務者として開発を開始したが、戦局の悪化に伴って試作機の整理の対象とされてしまった。数ヶ月後の1945年春、この景雲をジェット機化した景雲改の計画が持ち上がったため景雲の開発が再開される。開始時の設計主務者大築少佐は転出してしまったため、油井一技術少佐を設計主務者として開発を再開した。計画が中断された時点では設計はほぼ完了しており、試作機も6号機までが製作中の状態のままで放置されていたため、1945年4月末には試作1号機が完成した。

 形状は独特で、葉巻型の胴体の先端に操縦席、その後方両側に偵察席、通信士席が並び、さらに後方胴体中央部にエンジンが配置されるというものであった。エンジンは液冷熱田30型を2基並列に並べたハ70/01型(3,400馬力)エンジンで3.9mの延長軸によって先端のプロペラを回転させるという機構であった。プロペラは当初は二重反転プロペラが予定されていたが、実用化できる見込みが薄かったため直径3.8mの定速6翅プロペラに変更された。この構造から外観的には、主翼は操縦席の後方に位置する現在のジェット機に近い形状となり操縦席の視界は非常に良好であった。

 初飛行は1945年5月27日で、さらに29日には第2回目の飛行が行われ、低空を10分ほど飛行したが、エンジン室で火災が発生したため緊急着陸をした。第3回目の飛行も予定されていたが改修・修理中に終戦となった。終戦直後に爆破してしまったため本機は現存していない。

 

景雲改(R2Y2)

 エンジンを三菱重工で開発中のネ330を2基並列に搭載した型でのちのF86セイバーのように機首に空気取入口を設ける予定であった。計画値は最高速度741km/h(高度10,000m)、783km/h(高度6,000m)で、上昇時間は6,000mまで7分、実用上昇限度は10,500m、航続距離1,269kmであった。ネ330が実用化しなかったため計画のみで終わった。

 

生産数

 試作1機のみ。

 

まとめ

 

 陸上偵察機景雲は、太平洋戦争開戦後に計画され終戦間際に初飛行をした試作機であった。例によって海軍の性能要求は過大であり、十七試陸偵の性能要求では与圧気密室装備、最高速度667km/h、巡航速度463km/h、航続距離7,408kmであった。この要求の無謀さは一式陸攻22型の最高速度が437km/h、航続距離6,060kmで一式陸攻の最高速度以上の巡航速度で一式陸攻以上の航続距離を得ようという常軌を逸したものであった。このため景雲の設計は難航してついに飛行2回で終戦を迎えることとなった。

 

 

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01_九五式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式水上偵察機とは、1935年に制式採用された二座水上偵察機で目新しいアイデア等は無かったが、安定性、操縦性に優れた傑作機であった。九六式艦戦並みと言われた運動性能によって戦闘機代わりに使用された他、爆撃や哨戒とあらゆる任務をこなした。太平洋戦争開戦後も使用され続けインド洋海戦では英空母ハーミスを発見する等殊勲を挙げた。零式水上観測機にその役割を譲った後も哨戒や練習機として終戦まで活躍した。

 

九五式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.98m
全長 8.81m
全高 3.84m
自重 1,370kg
最大速度 299km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで6分31秒
上昇限度 7,270m
エンジン出力 630馬力(寿2型改2)1基
航続距離 898km(増槽装備時)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 30kg爆弾2発
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

 1933年、現用機である九〇式二号水偵の後継機にあたる八試水上偵察機の開発が愛知時計電機、川西飛行機、中島飛行機の3社に指示された。これを受けて中島飛行機は三竹忍技師を設計主務者として開発を開始、1934年3月に試作1号機が完成した。これは同社製九〇式2号水偵をベースとして全体を再設計したもので全幅、全長もほとんど変わらないが空気力学的にはより洗練された機体となった。武装は機首に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備、爆弾は30kg爆弾2発が装備可能であった。

 胴体は木金混製で前半部分が金属張り、後半部分が羽布張りで、エンジンは九〇式水偵と同じ寿2型改1(580馬力)を装備していたが、最高速度は九〇式水偵の最高速度232km/hを67km/hも上回っている他、上昇性能、操縦性、安定性とあらゆる面で性能が向上していた。八試水偵の比較審査では、愛知、川西製も性能では伯仲していたが、総合的に優れていた中島製が他2社を破り1935年9月17日、九五式水上偵察機として制式採用された。1938年10月には、エンジンが寿2型改2(630馬力)に変更されたため、改1の機体を九五式1号水偵、改2を九五式2号水偵と呼称された。

 実戦部隊でも九五式水偵の評価は高く、運動性能に関しては九六式艦戦にも匹敵するとまで言われた。このため戦闘機の代用として使用されたり、哨戒、爆撃とマルチに活躍した水上機であった。この九五式水偵の活躍が水上戦闘機開発のきっかけになったとも言われている。太平洋戦争開戦後も使用され続け、戦艦榛名搭載の九五式水偵は、インド洋海戦で空母ハーミスを発見するという殊勲も挙げている。1942年頃からは後継機にあたる零式水上観測機と交代して第一線からは姿を消したが、哨戒、連絡、訓練等で終戦まで活躍した。

 

生産数

 生産は1942年まで続けられ、中島飛行機で試作機2機、増加試作機7機、生産機700機の合計709機、川西航空機で48機の合計757機生産された。太平洋戦争終戦時には50機が残存していた。

 

まとめ

 

 九五式水偵は、戦艦や巡洋艦の艦載機、水上機母艦、基地航空隊に配備されたが、戦闘機との空中戦、爆撃等あらゆる任務に活躍した。操縦性、安定性も良いためドイツ海軍でも1機が使用された他、タイ王国海軍でも制式採用された。この成功体験が海軍に水上機に対する過剰な期待を持たせることとなり、太平洋戦争開戦後、水上機部隊は、低性能の水上機で米軍の新鋭機と空戦を行わなければならなくなってしまった。九五式水偵は傑作機であると同時に罪深い機体でもある。

 

 

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01_月光
(画像は夜間戦闘機月光 wikipediaより転載)

 

 夜間戦闘機 電光とは、太平洋戦争開戦後に愛知航空機によって開発されていた夜間戦闘機で日本では初めての夜間戦闘機として設計された機体であった。斜め銃としても機能する機首の可動式20mm機銃等の新機能や排気タービン過給器の装備により高高度での高性能が見込まれていたが、試作1号機の完成直前に空襲により被爆焼失、そのまま終戦となった。

 

夜間戦闘機 電光 〜概要〜

 

性能(誉24型装備機の計画値)

全幅 17.50m
全長 17.50m
全高 4.25m
自重 6,820kg
最大速度 690km/h(高度10,000m)
上昇力 6000mまで8分15秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,890馬力(誉24型)2基
航続距離 2,477km(巡航5時間、全力30分)
武装 30mm機銃1挺、20mm機銃4挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
乗員 2名
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

開発

 1943年、海軍は愛知航空機に十八試丙戦闘機試製電光の開発が指示された。これは陸海軍で夜間戦闘機として開発された最初で最後の機体であった。愛知航空機には以前から内示が出ており、尾崎紀男技師を設計主務者として研究を行っていた。1943年11月には基礎設計を開始、1944年8月には実大模型審査が行われた。1945年8月には試作1号機が完成する予定で、2号機も疎開先の岐阜工場で組み立てを開始していた。

 電光は、自重6,820kg、全備重量が9,695kgという超大型戦闘機であった。これは同じく夜間戦闘機に改修された大型戦闘機の月光の自重が4,562kg、全備重量が7,527kgであることからその大きさが分かるであろう。そのため、エンジンは排気タービン過給器装備の誉24型(1,890馬力)2基で、プロペラは直径3.45m定速式4翅プロペラを採用された。翼面荷重が206kg/屬肪する本機は、離着陸時にも高揚力が必要なため、フラップには親子フラップを採用、補助翼の一部もフラップとして機能するようになっていた。さらに敵攻撃時の抵抗板もフラップ兼用となっていた。

 武装は、機首中央に五式30mm機銃1挺(弾数100発)、その左右斜め下に九九式2号4型20mm機銃各1挺(弾数各200発)が装備された。中央の30mm機銃は固定式であるが、左右の20mm機銃は30度まで上向させることが可能で斜め銃として使用することが出来る。この操作は操縦席内の操作レバーによって行う。これらの機銃は操縦席内において20mm機銃のみの発射または30mm機銃、20mm機銃の同時発射が選択できるようになっていた。

 さらに偵察機の後方には20mm機銃(弾数各200発)2挺を装備した遠隔操管制銃塔が装備され、爆撃兵装は、250kg爆弾1発、または60kg爆弾4発が装備可能であった。夜間戦闘機に必須のレーダーは十八試空六号または十九試空電波探信儀2号11型が搭載予定であった。

 生産性の向上にも工夫が凝らしてあり、部品点数の最小化を始め、降着装置、油圧系統の部品は陸爆銀河の部品を流用することとなっていた。さらには資材節約のため可能な限り木材や鉄鋼を使用しておりフラップ、昇降舵、方向舵は何と布張りであった。

 それでも予定されていた性能は高く、最高速度は高度9,000mで668.6km/h、高度10,000mでは690km/h、巡航速度は高度4,000mで451km/h、上昇力は高度6,000mまで8分15秒、9,000mまでは13分、上昇限度は12,500m、航続力は2,477km(巡航5時間、全力30分)であった。

 このような高性能を期待されていた電光であったが、海軍の試作機の整理統合において試作中止機の候補に挙がってしまう。しかしB29の空襲が予想されることから整理の対象から外されたものの、1944年12月7日には東海大地震により愛知航空機の工場が大被害を受けると同時にB29による名古屋地区の空襲も激化していった。

 1945年6月9日、愛知航空機に対する集中的な空襲があり、これによって完成寸前であった電光試作1号機は被爆焼失してしまった。さらに岐阜工場で製作されていた2号機も終戦直前に空襲により被爆焼失してしまった。

 

生産数

 試作機2機(未完成)

 

まとめ

 

 夜間戦闘機電光は太平洋戦争開戦後に開発が始められた航空機である。残念ながら試作機製作中に空襲により焼失してしまったが、この電光の特徴はその高性能もさることながら、高性能一点張りであった海軍機が生産効率まで考えて製作されたことであろう。さらに陸海軍が協力して当初からこのような効率的な生産を行っていれば、より多くの高性能機を前線に送ることが出来たであろう。

 

 

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01_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九四式水上偵察機とは、複葉布張りの3人乗り水上偵察機であるがあまりの高性能にドイツからライセンス生産の要求があったと伝えらえているほどである。また海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどであった。1933年に初飛行した本機は換装して使用され続け太平洋戦争終戦まで実戦で活躍し続けた。

 

九四式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 10.50m
全高 4.73m
自重 2,000kg
最大速度 239km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで10分45秒
上昇限度 7,520m
エンジン出力 600馬力(九一式水冷)
航続距離 12時間
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発または
   30kg爆弾4発
設計・開発 関口英二 / 川西航空機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

02_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1932年、海軍は七試水上偵察機の開発を指向する。これを受けた川西航空機では関口英二技師を設計主務者として開発を開始、1932年3月から設計開始、1933年2月には試作1号機が完成、2月6日からテストが行われた。機体は保守的な複葉布張りであったが、従来機に比べ木製部品の使用割合は大幅に下がり、胴体、主翼の桁はジェラルミン製、小骨は木製という一歩進んだ機体であった。

 エンジンは広島海軍工廠で開発された国産の水冷式九一式500馬力エンジン(後期型では九一式600馬力エンジンに換装)で、最高速度は237.1km/hで性能要求の240.8km/hには及ばなかったものの現用の九〇式3号水偵を上回っており、安定性、航続距離に関しては極めて優秀であった。この七試水偵の高性能は、海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどでドイツが本機のライセンス生産を要求したとも言われている。1934年5月26日、九四式水上偵察機として制式採用された。

 

12型

 九四式水偵のエンジンは、1937年からはより高性能で信頼性の高い瑞星11型(870馬力)エンジンに換装された。この換装は水冷エンジンから空冷への換装であったが、九四式水偵はそもそも余裕のある設計であったため換装は比較的容易であった。これにより最高速度は278km/hに増大、航続距離も2,463km、時間に換算すると11.36時間の長時間飛行が可能であった。この長時間飛行に対応するために本機では前後席どちらでも操縦することが可能となっている。この瑞星搭載型は1938年11月24日に九四式2号水偵(のち12型と改称)として制式採用、それまでの九四式水偵は1号水偵(のち11型と改称)となった。1941年まで生産された。

 

生産数

 生産は川西航空機で試作機2機、1号(11型)が183機、2号(12型)が288機の合計373機、日本飛行機で両型合計で57機製造されている。総生産数は530機。

 

まとめ

 

 九四式水偵は、1933年の初飛行から1945年の終戦まで12年間も使用され続けた名機である。この時期に初飛行した航空機で終戦まで使用されたものも無くはないが、ほとんどが練習機としてであった。これに対して九四式水偵は、偵察、哨戒、輸送等、終戦まで実戦で使用され続けたという稀有な航空機である。これは水上機という特性とともに本機の設計の優秀さ、信頼性の高さを物語っている。

 

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01_彗星
(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上爆撃機 彗星とは、液冷エンジンを搭載した日本海軍の急降下爆撃機であった。その誕生は早く1940年には試作機が初飛行している。その時の最高速度は551km/hを記録、当時の新鋭戦闘機零戦を凌駕した。しかし信頼性は低く、特にエンジントラブルに泣かされた機体であった。戦争後期には芙蓉部隊で集中運用され実績を挙げている。

 

艦上爆撃機 彗星 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 11.50m
全長 10.22m
全高 3.74m
自重 2,635kg
最大速度 580km/h(高度5,250m)
上昇力 3,000mまで4分36秒
上昇限度 10,700m
エンジン出力 1,400馬力(熱田32型)
航続距離 1,516km
武装 7.7mm機銃2挺(弾数各600発)、7.7mm旋回銃1挺(約600発)
爆装 500kg爆弾1発または
   250kg爆弾1発または
   30kg爆弾2発または
設計・開発 山名正夫 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 1937年、海軍は次期新型艦上爆撃機として十三試艦爆の性能要求を決定、愛知時計電機に対して開発を指示した。この性能要求は前代未聞ともいうべき厳しいもので、当時現用であった九六式艦爆に対して、最高速度、巡航速度、航続距離等、全ての面で1.7倍前後の高スペックを要求していた。これは当時、試験中で実用化もされていない十一試艦爆(のちの九九式艦爆)を遥かに超える性能であった。

 

開発

02_彗星
(画像は彗星11型 wikipediaより転載)

 

 1937年、海軍から十三試艦爆開発の指示を受けた愛知時計電機は、山名正夫技師を設計主務者として開発を開始した。この要求に応えるためにエンジンはドイツダイムラー・ベンツ社製液冷式DB601エンジンを国産化した熱田12型(1,200馬力。陸軍名「ハ40」)を採用した。

 爆弾は内蔵式で最大500kg爆弾まで搭載することが出来た(500kg爆弾の場合は爆弾倉の扉は閉じられない)。制動板(急降下時に速度が上がり過ぎないように空気抵抗を発生させる板)は主翼後端に位置し、急降下時以外は主翼の一部として機能していた。燃料タンクはセミインテグラル方式でこれは燃料タンクの一部が機体の外装の一部になる方式で、彗星は主翼下面が燃料タンクとなっており、これは脱着することが可能であった。

 胴体内に爆弾倉を内蔵する形式の割には機体は徹底して空気抵抗を減少させており、液冷エンジンと相まって流線形の美しいシルエットとなった。この機体全体の抵抗は当時のレシプロ機の限界といえるものであった。武装は、機首に九七式7.7mm機銃2挺、後席に九二式7.7mm旋回機銃1挺、爆撃兵装は胴体内に500kgまたは250kg爆弾1発、主翼下に30塲弾各1発を搭載することが出来た。

 1940年11月15日、試作1号機が完成、初飛行が行われた。液冷式エンジンと限界まで抵抗を減らした機体は、一連の性能試験で最高速度551km/hと艦爆でありながら、制式採用された直後の新鋭戦闘機零戦よりも20km/h近い高速を発揮することとなった。これは艦爆としては世界最高記録であり、同時期の米海軍急降下爆撃機ドーントレスよりも140km/h以上、後継機のSB2Cヘルダイバーよりも70km/h近い高速であった。

 しかし実用面となると話は違った。のちに問題となる液冷エンジンの不調はこの時点から発生していた他、燃料タンクからの燃料漏洩等多くの不具合が発生していたが、あまりの高性能に目がくらんだ海軍は試作機を実用実験と耐熱実験を兼ねて南方に進出させただけでなく、試作3号機、4号機を艦上偵察機に改修、空母蒼龍に搭載され実戦にまで投入された。最高の条件で製作された試作機ですら不調が起こっている状態で実戦で活躍できるはずもなく、これら試作機2機は、何ら戦果を挙げぬままミッドウェー海戦で失われてしまった。

 それでも1942年7月6日、艦上偵察機として制式採用されたが、翌月15日には試験中の5号機が空中分解事故を起こし、搭乗員2名が殉職している。この空中分解は急降下爆撃が主任務の艦上爆撃機としては致命傷であったため、艦爆としての制式採用は大幅に遅れ、1943年12月になってやっと艦上爆撃機彗星11型(D4Y1)として制式採用となった。

 

 

二式艦偵11型(D4Y1-C)

03_彗星
(画像は二式艦偵11型 wikipediaより転載)

 

 1942年7月6日に制式採用された彗星の艦上偵察機型であり、最高速度533km/h、自重2,440kg、胴体内の爆弾倉には燃料タンクが増設されていた。さらに偵察装備としては、写真偵察用の固定自動航空写真機K-8型を搭載しており、これは高度10,000mから地上の飛行機の識別が可能であり、電動により一定の間隔で100枚の連続写真の撮影が可能であった。12型は、後述する彗星12型を改造した型で、1944年10月に制式採用、最高速度579.7km/h。翌月には後席機銃を二式13mm旋回銃に換装した12甲型が制式採用された。

 

12型

04_彗星
(画像は彗星12型 wikipediaより転載)

 

 1944年10月に制式採用された型で、エンジンを熱田32型(1,400馬力)に換装した型であったが、熱田12型以上に故障が多かった。照準器は、前期型は光学式九八式射爆照準器であったが、後期型では望遠鏡式の二式射爆照準器1型に変更されている。12甲型は後席の旋回銃を二式13mm旋回銃に換装した型で1944年11月に制式採用された。12戌型(丙型)は、後席に九九式20mm機銃を斜め銃として搭載した夜間戦闘機型である。

 

21,22,22甲型(航空戦艦搭載用)

 21型、22型、22甲型は、航空戦艦伊勢、日向搭載用に各部を強化、制動板を廃止し、カタパルト射出用に改造した型で、21型は1944年3月17日、22型は同年10月、22甲型は11月に制式採用、少数が生産された。21型は彗星11型を航空戦艦用に改造したもの、22型は彗星12型、22甲型は12甲型を航空戦艦用に改造した型である。

 

33型(D4Y3)

05_彗星
(画像は彗星33型 wikipediaより転載)

 

 故障の多い熱田32型エンジンを信頼性の高い金星エンジンに換装した型で1944年5月に正式採用された。初期型は金星61型エンジンであったが、後期型は金星62型エンジンに変更された。馬力は300馬力増加したが、空冷エンジンの採用によって空気抵抗は増加したため最高速度は若干低下した。

 エンジンの換装した上で着艦フックは廃止されたため実質的には陸上爆撃機となった。尾輪は固定式、着艦フックの廃止、垂直尾翼の面積増大、武装は後席の機銃を一式7.9mm旋回銃に変更、胴体内の他に主翼下にも250kg爆弾が各1発装着できるように改造されている。

 

43型、54型(D4Y4)

 33型を防弾強化、噴進器を装備、単座化した型で防弾は、風防前面に防弾ガラスを装備、コックピット前部には5mm厚、後部には9mm厚の防弾鋼板を装備した他、燃料タンクも防弾式に変更された。噴進器は離陸用に機首下面に4FR110型噴進器(推力1,200kg)2本、緊急空中加速用に後部胴体下面に4FH121型噴進器(推力2,000kg)3本(のち2本)が装備された。

 武装は、単座化したため後席の旋回銃は廃止、機首の7.7mm固定機銃2挺も1945年4月には廃止された。胴体内には800kg爆弾1発が搭載可能となったが、爆弾倉扉は廃止された。照準器は初期型は望遠鏡式(一部光学式)であったが、後期型は照門式に変更された。これらの改修のため自重は2,635kg(12型は2,510kg)に増大、最大速力は552km/hに低下した。特攻機的性格の機体ではあるが、後部胴体内には救命筏は搭載されている。さらにエンジンを誉(陸軍名「ハ45」)に換装する54型の計画もあったが計画のみで終わっている。

 

生産数

 愛知では、1942年から1944年の間に11型(二式艦偵含む)が660機、12型が320機、33型が1944年から1945年までに536機、43型が1945年に296機生産されている。他にも第11航空廠でも生産されており、こちらでは1944年から1945年までに約430機生産された。合計2,253機(2,157機とも)。

 

まとめ

 

 彗星は生産性を重視せず、戦闘機すら振り切る高速、高性能を追求した実験機的性格の機体であった。完成当初、制式採用されたばかりの零戦を20km/hも上回る高速に海軍関係者は魅了され、試作機の実戦投入という暴挙に出たほどであった。しかし高性能の反面、生産性、信頼性は低く、実戦部隊での稼働率は低かった。彗星は、目先の高性能に目がくらみ、後方や支援体制を軽視する日本的な性格が顕著に表れた航空機であった。

 

 

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01_九九式艦爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式艦上爆撃機とは、日本海軍で初めて全金属製単葉の艦上爆撃機で開発時は世界最高水準の機体であった。しかし太平洋戦争開戦後は旧式化が目立つようになり、さらには防弾性能が皆無であったため搭乗員からは「九九式棺桶」「九九式棺箱」というあだ名まで付けられていた。

 

九九式艦上爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 14.36m
全長 10,23m
全高 3.35m
自重 2,750kg
最大速度 428km/h(高度5,650m)
上昇力 3,000mまで5分48秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,300馬力(金星54型)
航続距離 1,050km
武装 7.7mm機銃2挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
設計・開発 五明得一郎 / 愛知時計電機

 

開発

03_九九式艦爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍最後の複葉艦爆である九六式艦爆が完成に近づいた1936年、海軍は十一試艦上爆撃機の開発を愛知時計電機(1943年愛知航空機に社名変更)、中島飛行機、三菱重工の3社に指示する。三菱はのちに辞退、中島は山本良造技師を設計主務者として開発を開始、愛知は五明得一郎技師を設計主務者として開発を開始した。補佐として後に艦爆流星、特殊攻撃機晴嵐等を開発した尾崎紀男技師、森重盛技師がついた。

 設計は1936年11月から始まり、1937年12月25日に試作1号機が完成、1938年1月6日初飛行に成功した。この試作1号機は、エンジンに出力の低い光1型(730馬力)を搭載した機体であったが、2号機以降は強力な金星3型(840馬力)に換装、主翼の設計も変更されより大きくなった。1939年3月からは増加試作機の製作を開始する。中島も1938年3月には試作機を完成、性能試験が行われるが、12月には愛知の試作機が九九式艦上爆撃機(D3A1)として制式採用された。

 性能は、最高速度が381km/h(高度2,320m)、上昇力が高度3,000mまで6分27秒、実用上昇限度が8,070m、航続距離が1,473kmと大幅に向上した。機体は全金属製単葉低翼で、主翼は製作に手間がかかるものの空力的には理想的な楕円形を採用、空母搭載を考慮して翼端部は折り畳めるようになっていた。尚、当初、翼端部は下方に折り畳んだが途中からは上方に折り畳むように変更された。

 胴体は外板と縦通材で強度を確保するセミモノコック構造で、特に急降下爆撃後の引き起こしの際、機体には大きな荷重がかかるため十分な強度が確保された。脚は引込式も検討されたが、主翼の強度の点で不利になることや急降下時に脚自体が抵抗板の役割を果たすために固定脚とされた。

 エンジンは三菱製の金星3型(840馬力。陸軍名「ハ112」)エンジンで同クラスの傑作エンジン栄(1,000馬力。陸軍名「ハ25」)に比べやや大型ではあったが信頼性は高く将来的には拡張性の高さという点では栄よりも上であった。零戦、隼、九七式艦攻等は栄を採用しているが、零戦は最終型の54型では金星に変更されている。プロペラは直径3.1mの定速ハミルトンプロペラであった。

 武装は機首に7.7mm機銃2挺(弾数各500発)、後席に7.7mm旋回機銃1挺、爆弾は250kg爆弾1発、若しくは60kg爆弾2発の搭載が可能であった。

 

22型

02_九九式艦爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月にエンジンを金星54型(1,300馬力)に換装、機体各部に改修をおこなった12型が完成、さらに改良が加えられたのち1943年1月には九九式艦上爆撃機22型として制式採用された。エンジン以外にも水平尾翼、背鰭、風防、カウリングが再設計され燃料タンクも増設された。翼下の爆弾懸吊装置も2個増設され、60kg爆弾4発まで懸吊可能となった他、射爆照準器も九九式射爆照準器に変更されている。生産は1942年末から行われている。

 性能は、最大速度が428km/h(高度5,650m)に増加(11型は381km/h)、高度3,000mまでの上昇時間が5分48秒(同6分27秒)に短縮され、実用上昇限度は10,500m(同8,070m)に向上した。但し、航続距離は1,050km(同1,473km)と大幅に減少している。

 生産は制式採用前の1942年末から始まり、1944年まで生産が行われた。同時に昭和飛行機でも1944年から生産され、合計220機が製造されている。この昭和飛行機製の機体はエンジンが推力式単排気管に改良されていた。この22型を改良した練習機型も製作されている。これは仮称九九式練習用爆撃機12型(D3A2-K)と呼ばれる。

 

木製九九式艦爆「明星」

 太平洋戦争開戦後、資材不足のため九九式艦爆の木製化が行われた。計画は1943年から始まり、1945年1月31日には試作1号機の初飛行が行われた。試作機7機が製造されたのみ。

 

生産数

 11型は試作機を含め476機が生産された。22型は愛知で816機、昭和飛行機で220機、明星7機の合計1,519機(1,486機とも)生産された。終戦時には135機が残存している。現在では1968年にバラレ島から回収された機体が修復され、飛行可能状態で米国で保存されている。

 

まとめ

 

 九九式艦爆は開戦初日から海軍の中心となって活躍し続けた。しかし防弾装備が皆無であったため一回の戦闘での消耗は激しく、珊瑚海海戦では33機中9機と約1/3を失った。さらに第二次ソロモン海戦では出撃27機中、23機が撃墜され、南太平洋海戦では出撃57機中40機が撃墜されている。搭乗員の生還率も低く、日本の場合は撃墜=死であることが多かった。このため戦争中盤には日本軍の攻撃機の搭乗員の練度は大幅に低下していく。

 

 

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01_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機天雷とは、中島飛行機によって開発された試作局地戦闘機で合計6機が製作された。対大型機迎撃用の双発単座戦闘機で1944年に完成したものの誉エンジンの品質低下による性能低下のため想定したほどの性能が発揮できず制式採用はされなかった。

 

局地戦闘機 天雷 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.50m
全高 3.51m
自重 5,000kg
最大速度 596km/h(高度5,600m)
上昇力 6,000mまで8分
上昇限度 9,000m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)2基
航続距離 2,740km(増槽装備時)
武装 30mm機銃2挺、20mm機関砲機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
設計・開発 大野和男 中村勝治 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 1942年、海軍は戦闘爆撃機という新しい機種が新設された。この戦闘爆撃機とは攻撃機隊に随伴しての援護や制空を主任務とし、さらに強行偵察や爆撃も行える複座の陸上機であった。このため性能要求は、敵戦闘機以上の速度で敵戦闘機を撃滅できること、夜間戦闘の能力が要求されていた。この戦闘兼爆撃機は同年末、十七試戦闘兼爆撃機として中島飛行機と愛知飛行機に発注されており、1944年初頭に試作機が完成する予定であった。

 当初は戦闘兼爆撃機という機種でスタートした計画であったが、1942年頃には前線ではB17爆撃機の撃墜に苦慮するようになっており、さらにはそれを上回る重爆撃機B29の開発の情報も入ってきた。このため計画は戦闘兼爆撃機から昼間迎撃用の重武装、重装甲の双発単座戦闘機の開発に変更されることとなった。そして翌年の1943年1月、十七試戦闘機兼爆撃機は十八試局地戦闘機試製天雷(J5N1)として再スタートした。

 

開発

 開発命令を受けた中島飛行機は、中村勝治技師を設計主務者として開発を開始、2〜3ヶ月後には大野和男技師に交代しながら開発を継続、1943年9月17日には第一次模型審査、1944年5月には強度試験用の零号機、6月20日には試作1号機が完成した。

 エンジンは中島製誉21型(1,990馬力。陸海軍統合名称「ハ45/21型」)2基、全金属製モノコック構造で翼面荷重は零戦、隼の2倍以上の229.5kg/屬任△辰拭K秒徳置は操縦席前面に厚さ20mmの防弾鋼板、前方風防には厚さ70mmの防弾ガラス、燃料タンクにも防弾処理がされていた。武装は九九式2号4型20mm機銃2挺(弾数各200発)、30mm固定機銃(五式30mm固定機銃1型。弾数各100発)2挺、爆弾は60kg爆弾2発搭載可能であった。

 初飛行は1944年7月8日であったが、大方の期待に反して性能は計画値を下回った。最大速度は計算値では663km/h(高度6,500m)であったのに対して実際は596km/h(高度5,600m)、上昇時間は計算値では6,000mまで6分、8,000mまで9分27秒であったが、実際は6,000mまで8分、8,000mまで11分であった。さらには振動、油漏れとあったエンジン関係のトラブルも相次いだ。フラップとナセルの形状に問題があったこともあったが、原因の多くは、大量生産され、粗悪品が目立ち始めた誉21型エンジンによるものであった。

 想定以下の性能と戦局の悪化に伴い、一旦は整理の対象となったが、B29来襲の可能性が増したため開発を継続、1945年2月には試作6号機まで完成した。しかしここで製作が中止されてしまう。完成した6機の内、5、6号機は前方銃の弾倉を撤去して計測員席を設け複座化、斜め銃も装備して3号機と共に実用実験も行われた。

 

生産数

 試作機6機のみ製作された。1号機、5号機は試験中に脚故障で胴体着陸、2号機は11月25日試験中に着陸大破、4号機は空襲で被爆破損、終戦時には3号機と6号機のみが残っていた。戦後、米軍に接収され現在でも機体の一部が残っている。

 

まとめ

 

 天雷は対大型機迎撃の期待を一身に背負って開発されたのであったが、誉エンジンの能力低下により期待したほどの性能は発揮できなかった。仮に開発が成功していればB29迎撃に威力を発揮したことであろう。しかし当時の日本の基礎工業力の低さでは設計者がどんな名機を設計したところでそれを精確に製作できる能力はなかった。急速に勃興してきた国の悲しさであろう。

 

 

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01_九七式艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式艦上攻撃機とは、中島飛行機と三菱重工が開発した全金属製単葉攻撃機である。中島製は1号、三菱製は2号と呼ばれる。どちらも高性能であったが、中島製は特に性能が高く、栄エンジンを搭載した3号は、太平洋戦争開戦後も海軍の主力攻撃機として活躍した。三菱製は固定脚で約150機ほど生産されている。

 

九七式艦上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(3号)

全幅 15.518m
全長 10.3m
全高 3.7m
自重 2,200kg
最大速度 377.8km/h(高度3,600m)
上昇力 3,000mまで7分40秒
上昇限度 7,640m
エンジン出力 970馬力
航続距離 1,021km(正規状態)
武装 7.7mm旋回機銃1挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 中村勝治 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式2号艦攻
(画像は三菱製2号 wikipediaより転載)

 

 1935年秋、海軍は、中島飛行機、三菱重工の2社に対して十試艦上攻撃機の名称で新型艦上攻撃機の開発指示を出した。これを受けた中島飛行機では中村勝治技師を設計主務者として開発を開始した。全金属製単葉機で密閉式風防、折りたたみ翼にフラップ、可変ピッチプロペラやセミインテグラル・タンク、日本の実用機としては初である油圧機構の引込脚を装備した画期的な機体であった。

 可変ピッチプロペラとは速度によってプロペラの角度を変える機能のことで、高速になるにつれてプロペラの角度は水平に近くなっていきプロペラを効率的に回転させる機能で、日本海軍機としては初の採用であった。セミインテグラル・タンクはタンクの外壁の一部が機体の外装となっているタンクでこれにより燃料の容量を多く確保することが出来る。エンジンは最新の栄エンジンを搭載したかったが未だ開発中だったため光3型エンジン(710馬力)が採用された。のちに栄エンジンに変更される。

 1936年12月31日、試作1号機が完成、1937年1月18日初飛行に成功した。三菱製は1936年10月末に試作1号機が完成、11月21日に初飛行に成功した。両機とも海軍に領収され、性能試験が行われた。性能要求では最大速度は333km/h以上であったが、中島製は368km/h、三菱製は固定脚であったため若干遅かったがそれもで353km/hと両機とも基準を満たしていた。速度以外の性能も両機とも大幅に上回っており、1937年11月26日、中島製を九七式1号艦上攻撃機(後に11型と改称)、三菱製を九七式2号艦上攻撃機(後に61型と改称)としてどちらも制式採用された。

 1938年4月より量産が開始、秋には栄エンジン(1,000馬力)を搭載した試作機が完成、1939年12月、九七式3号艦上攻撃機(後に12型と改称)として制式採用された。

 

生産数

 1号艦攻、3号艦攻は中島で練習機30機を含む669機製造された他、愛知航空機、広工廠でも約580機製造された。中島製九七式艦攻の合計は約1,250機、三菱製2号艦攻は約150機で合計1,400機が生産された。

 

まとめ

 

 九七式艦上攻撃機は完成当時は速度、航続距離等、海軍の性能要求を上回っており、世界的に見ても最高水準の艦上攻撃機であった。技術的には全金属製単葉、引込脚、可変ピッチプロペラ等、かなり先進的なものであったが、太平洋戦争開戦後はその防弾性能の低さから多くの機体と搭乗員を失うこととなる。

 

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