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水上機

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


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01_零式観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式観測機とは艦砲の弾着観測専用に開発された航空機で全金属製の最後の複葉機である。太平洋戦争は主力艦同士の砲撃戦から航空機を中心とした戦術に移行していたため本来の弾着観測に用いられることはなかったが、高い格闘戦能力から船団護衛や対潜哨戒などに活躍した。複葉機でありながらしばしば戦闘機を撃墜した。戦闘機だけでなく単機でB-17撃墜記録すらある特異な航空機である。

 

零式観測機〜概要〜

 

 

性能

全長9.5m
全幅11m
全高4m
全備重量2.550kg
最高速度370km/h
航続距離1070km
武装7.7mm固定機銃2門、7.7mm旋回銃1門

 

開発

 零式観測機は、戦艦同士の砲撃戦の際に着弾観測をする専用の機体として1934年、愛知、川西、三菱の3社に十試観測機の名で試作が内示されたことに始まる。さらに1935年3月計画要求書が愛知、三菱に手交された。観測機はその性格上、着弾観測のみならず、敵艦隊付近を飛行して弾着観測をするため敵戦闘機の妨害を排除する必要があったため、この零式観測機には複座機でありながら格闘戦性能も要求するという厳しいものであった。この要求に対して三菱は佐野栄太郎技師を主務者として開発を開始する。本機の特徴の一つとして興味深いのは設計主務者の佐野栄太郎技師が「義務教育を受けただけ」と言われており、大学等で専門教育を受けた技師ではなかったことであろう。

 零戦を設計した堀越二郎技師や一式陸攻の本庄季郎技師、紫電改や二式大艇の菊原静男技師や飛燕の土井武夫技師等、当時の航空機エンジニアの多くは東京帝国大学工学部航空学科という定員が数名の超難関を突破した秀才中の秀才達であった。これに対して義務教育が小学校まで出会った当時、佐野栄太郎技師の義務教育を受けただけというのは本当であれば異色中の異色である。

 それはともかく、当時は単翼機に時代が移りつつあったものの、敢えて複葉機として設計した。これは複座でありながら戦闘機並みの格闘戦性能を要求されたためで、速度を犠牲にしても格闘戦能力を得るという苦肉の策であった。試作機は、1936年6月9日1号機が完成、6月22日には初飛行に成功した。飛行試験で方向安定が極端に不足していることが判明した上、水上曳航中に転覆など問題が多発。数次にわたり改修を行った結果、1937年3月、海軍に領収された。

 

エンジンの変更

 しかし、軍のテストで垂直旋回中と宙返り中に自転が発生するという問題が判明する。これに対して佐野技師は、垂直尾翼と方向舵の面積を増大させることで解決した。十試観測機は、エンジンに光1型を装備していたが、ちょうどこの頃、三菱で800馬力エンジン瑞星が実用化されたため、2号機のエンジンを瑞星に換装。この結果、最大速度は37km/h、5000mまでの上昇時間は約2分短縮されたため以降は瑞星を装備した。瑞星換装の十試観測機は当時の現用戦闘機である九六艦戦との比較テストで総合的には互角と判定されたほどで、水上機としては異例の高性能であった。

 

制式採用

 1940年12月12日、零式1号観測機1型として制式採用された。生産は三菱で1940〜43年の間に524機生産された他、佐世保の第21海軍航空廠で594機、合計1118機生産された。さらに試作機が4機製造されているので総生産数は1122機である。バリエーションはほとんどなく、零式観測機11型と練習機の仮称零式練習用観測機の2種類だけである。但し、生産時期によって若干仕様が変更されている。初期の生産分はプロペラが二翅でスピナ無し、後期はプロペラが三翅でスピナが装着されている。因みに零式観測機の操縦席の風防は解放式であるが、試作機のみは操縦席が密閉式風防になっている。武装は機首に7.7mm固定銃2挺、装弾数各400発。偵察席に92式7.7mm旋回機銃1挺、装弾数582発。爆弾は30kgまたは60kg爆弾2発を翼下に搭載できる。観測機という性格上、91式観測鏡という弾着観測専用の観測装置を持っていた。

 

生産数

 試作機が4機、量産機が1118機の合計1122機が生産された。

 

零式観測機の模型

 

戦歴

 1941年4月、連合艦隊に第11航空戦隊、第三艦隊に第12航空戦隊が編成されると零観は初めて実戦部隊に配備されることとなり、最初に第11航空戦隊の水上機母艦千歳と同瑞穂に配備、9月になると第12航空戦隊所属の特設水上機母艦神川丸、山陽丸、相良丸、そして根拠地隊である17空(トラック島)、18空(サイパン)、19空(クェゼリン)と各部隊に順次配備されていった。

 1941年12月、太平洋戦争が開戦すると、第11航空戦隊は比島部隊として比島攻略戦、第12航空戦隊はマレー半島攻略の支援に参加したのち、両戦隊ともに南方攻略作戦に活躍した。1942年8月になると米軍がガダルカナル島に上陸、戦闘の激化に伴い水上機母艦もブーゲンビル島南方のショートランド泊地に集結、8月29日には集結した千歳、山陽丸、讃岐丸の艦載水上機でR方面部隊を編成、9月には神川丸、聖川丸、14空、国川丸の水上機隊もR方面部隊に編入された。

 1942年10月8日には、ブーゲンビル島に陸上機基地であるブイン基地が完成するが、引き続きショートランド島のR方面部隊は対潜対空哨戒、偵察、爆撃、防空等に活躍、1943年1月頃になる零観は防空任務を二式水戦に譲り内南洋や内地へと撤退していき、偵察や対潜哨戒に活躍することとなったものの、1944年春頃になると水上機の活躍の機会はほぼ無くなったため、多くの熟練搭乗員は陸上機へと機種転換していった。

 太平洋戦争末期には多くの機種が特攻機として使用されたものの、零観はフロートがあるため特攻機として使用されることはなかったが、1945年になるとフロートにレールを装着することにより250kg爆弾の搭載が可能となり特攻隊にも編入されるようになっていった。

 

零式観測機の書籍

 

海軍零式観測機 (世界の傑作機 NO. 136)

 定番の『世界の傑作機』シリーズの零観号。砲弾観測用に開発された零観であったが類稀な運動性能により連合国軍の戦闘機と互角に渡り合うことすらあったという。日本海軍最後の高性能複葉機。

 

水偵隊の戦い 武井慶有『零式水偵空戦記』

武井慶有 著
潮書房光人新社; 新装版 (2015/11/1)

 貴重な水偵隊搭乗員の記録。予科練のベテラン搭乗員がソロモンに太平洋に活躍する。戦争後期に著者は台湾沖で筆で「大」と書いたような浮遊物を見つける。それは撃沈された輸送船に乗っていた陸軍兵士達であったようだ。恐らく本書はゴーストライターを使わずに著者が自分自身の筆で書いたものだろう。迫力がある。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。  全般において水偵隊であるR方面部隊を始めとする水偵隊の活躍が多く描かれている。彼我の戦闘行動調書、手記やあらゆる記録を調査して描き出す「実際の戦果」は圧巻。

 

まとめ

 

 零式観測機は低速ではあったが運動性に優れていたため、実戦では多くの戦果を挙げたが同時に損害も大きかった。特にR方面部隊での活躍は特筆に値するもので、この活躍の蔭には多くの搭乗員、整備員の努力があったことは言うまでもない。零観は、世界に名だたる水上機王国であった日本が生んだ最後の複葉機であり、世界最後の複葉、単フロートの実戦機であった。

 

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01_二式水戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式水上戦闘機は、開発中であった十五試水上戦闘機(のちの強風)の開発に時間がかかるため急遽、海軍の主力戦闘機零戦にフロートを付けた水上戦闘機で、極めてつなぎの色彩の濃い戦闘機であった。しかし最高速度こそ零戦には劣るものの運動性能は零戦に優ったとも言われている最も活躍した水上戦闘機である。

 

二式水上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.5m
全長 10.24m
全備重量 1922kg
最大速度 437km/h
航続距離 1150km
上昇限度 10500m
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 二式水上戦闘機、略して二式水戦は世界で最初に量産された水上戦闘機である。後継機として強風が量産されるがこの二機種のみが人類史上量産された水上戦闘機である。つまりは水上戦闘機を量産したのは世界で日本のみだ。この背景には計画当時、将来に南方侵攻作戦が予想されていたことがある。南方の飛行場の無い地域でも作戦可能なことから水上機が有用と考えられ、さらに日中戦争で水上機がしばしば敵戦闘機、攻撃機を撃墜している実績があったことから水上戦闘機の生産が決定された。

 この計画によって開発が決まったのが十五試水上戦闘機のちの強風である。しかし計画は始まったものの、この十五試水上戦闘機が近々開始が予想される南方侵攻作戦に間に合う可能性は皆無に近かった。そこで考え出されたのが新鋭戦闘機零戦を水上戦闘機化するという案であった。三菱製である零戦の水上機化ということであれば、本来なら三菱に設計を依頼するところであるが、三菱は零戦や一式陸攻の生産に忙殺されていた。そこで小型水上機開発の経験が豊富な中島飛行機に命じて零戦11型をベースに水上戦闘機化させたのが二式水上戦闘機である。

 

開発

 

 以上の経緯から1941年初頭に仮称一号水上戦闘機として中島飛行機に試作が命ぜられた。中島飛行機では三竹忍技師を設計主務者として作業を開始。1941年12月に試作1号機を完成させた。零戦からの主な改良点は主脚、尾輪、着艦フックとこれらに関係する装置の廃止、同時に各収納穴を廃止して平滑に整形した。さらに胴体下面に全金属製のフロートを取り付け、両翼端下面に補助フロートを取り付けた。フロートの影響により尾部を再設計し、垂直尾翼の大型化、方向舵下方に安定鰭を追加した。

 これにより全長が8.1cm増大し10.131mとなり、全高が4.305m(零戦は3.509m)となった。自重は226kg増大したが脚や着艦フック関係の装備を廃止したために増大量は比較的少なかった。初飛行は1941年12月8日、初飛行するが、すでに正式採用されている機体がベースとなっているためテストは順調に進められた。最高速度が零戦11型の533kmから435km、航続距離が2222kmから1782kmと大幅に低下したが、巡航速度、上昇力共に零戦と大きくは異ならなかった。

 1942年7月6日、二式水上戦闘機として正式採用され、1943年9月に生産が終了するまで327機が製作された。当初は重整備のために還納されてくる零戦を改造する方針であったが水上機として設計されていない零戦の機体は開口部が多く無理であることが判明したために新造することになったという。二式水戦の実用化のめどがついたことにより、1942年5月下旬、海軍初の飛行艇専門部隊横浜航空隊に水戦隊が編成された。さらに東港空の水戦隊が7月9日に編制され、8月には特設水上機母艦神川丸水戦隊、14空水戦隊が編成された。

 

実戦参加

 編成を終えた横浜空水戦隊12機は1942年5月26日、特設水上機母艦聖川丸で横須賀を出港、6月3日にラバウルに到着した。水戦隊の初の実戦は6月5日のラバウル上空哨戒である。初の戦闘は1942年6月10日、5機の二式水戦が5機の敵機と空戦になったが戦果は不明である。7月4日、佐藤理一郎大尉に率いられた先遣隊7機がツラギに進出、23日さらに4機が進出した。先遣隊7機は、7月10日に来襲したB-24を迎撃、1機を撃墜、水戦隊の初戦果を記録するが、最近の研究によると実際はこの地域にB-24は進出していなかったようだ。

 

生産数

 その後も二式水戦は北方、中部太平洋、本土防空に活躍し続ける。前述のように総生産数は327機であるが、終戦時に残存していた二式水戦は合計24機のみである。内訳は、河和に11機、天草に3機、香取に2機、ペナンに2機、鹿島、北浦、館山、大津、今宿、佐世保に各1機であった。現存する機体はない。

 

まとめ

 

 二式水上戦闘機は世界で初めて量産され実戦で使用された水上戦闘機である。速力こそ零戦に及ばなかったものの、低速になった分、空戦性能はオリジナルの零戦すら上回ったという。中には38機を撃墜したという河口猛飛曹長というエースパイロットもいたというが詳しくは分からない。水上戦闘機という特殊な機種は、島嶼の奪還戦となった太平洋戦争では日本軍の飛行場設営能力の不足と相まって重宝された。しかし新鋭の連合国軍戦闘機と互する性能はなかった。二式水戦は、零戦以上に日本の限界を可視化した機体であったのかもしれない。

 

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01_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

水上戦闘機強風 〜概要〜

 

性能

全幅 12m
全長 10.58m
最大離陸重量 3.5kg
最大速度 488.9km/h
航続距離 4.8時間
実用上昇限度 10560m
武装 7.7mm機銃2挺、20mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 水上戦闘機は日中戦争で水上機の空戦能力に有用性が認められたことと対米戦が南方侵攻作戦が中心になることを想定して開発が進められた機種で、他国では試作機は造られたものの、量産化したのは日本だけだ。この量産化水上戦闘機で最高性能を発揮したのが水上戦闘機強風11型である。

 強風は上記の必要性から1940年9月に飛行艇を中心に製造していた川西飛行機(現在の新明和工業)に試作が命ぜられた。他の海軍機同様、試作機の性能要求は厳しく、水上戦闘機でありながら最高速度574kmが要求された。当時の新鋭戦闘機である零戦ですら533kmであることからもその要求の厳しさが分かるだろう。

 

開発

02_強風の原型機の2重反転プロペラ
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊原技師を中心とする川西飛行機の設計チームはその性能要求に応えるべく、エンジンには、当時の日本では最高出力である1450馬力火星エンジンを採用、機体は大出力ではあるが、大型の火星エンジンを使用するために紡錘形の空気抵抗の少ない胴体が採用された。さらに空気抵抗を減らすためと出来るだけ水面から翼を遠ざけるために胴体の中央部に主翼を付ける中翼式を採用した。この結果、1942年4月に十五試水戦の試作1号機が完成する。この試作1号機には火星14型エンジンが採用され、二重反転プロペラが採用された。

 1942年5月6日に初飛行をするが、二重反転プロペラは、振動が多く、さらに構造が複雑になり生産や整備に手間がかかることや重量がかさむため採用は見送られ、2号機以降は一般的な三翅プロペラが採用され、同時にエンジンも火星14型エンジンから火星13型エンジンに変更された。

 最大速度、上昇力、航続距離共に現行の二式水戦に勝っていたが、格闘戦能力のみは傑作機零戦を母体とした二式水戦には敵わなかった。このため技術陣は、Gに応じて自動的にフラップが出入りし、常に最適のフラップ角度をとるようにした自動空戦フラップを開発。強風に標準装備された。さらに航空機の特性として高速時には舵の効きは敏感であるが、低速時には操作量が増大するという操縦性の悪さを解消するために腕比変更装置も採用された。これは強風が最初のようである。

 強風は最高速度489kmと性能要求の574kmには遠く及ばなかったものの、航続距離1980km、上昇限度10560mと水上戦闘機としては高い性能を発揮した。そもそもの性能要求が無茶過ぎなのだ。武装は翼内に20mm砲2門(九九式二号三型)、機首に7.7mm機銃2門を装備する。

 

強風の生産

03_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機は8機製造され、3機が1942年末に海軍に引き渡された。1号機は火星14型エンジンに二重反転プロペラを装備したが、2号機以降は火星13型エンジン三翅プロペラを装備している。因みに2号機は試験中に転覆沈没している。3号機以降は、主フロートの主支柱が太くなっているのが特徴である。

 1943年8月10日(12月という資料もあり)、強風11型として正式採用され、1943年1〜12月までに89機が生産された。強風11型の総生産数は、この量産型89機と試作機8機の合計97機である。昭和18年に残りの試作機5機を含む65機が海軍に納入され、さらに1944年1月〜3月の間に残り29機が引き渡されている。この強風は初期生産型と後期生産型では若干の違いがある。

 

初期型と後期型

 初期生産型は集合式排気管で気化器空気取入口はカウリング内、スピナは先端のとがったものを使用しているが、後期型は排気管が推力式単排気管でカウリングとスピナが再設計され、カウリングは深く、全面上部に空気取入口が設けられた。スピナは直径と長さが小さくなり形も丸っこいものに変わった。カウリングが深くなったため機首の7.7mm機銃の発射口とカウリング前端との距離が広がっている。

 

22型(計画のみ)

 強風の派生型として、紫電21型(紫電改)を水上機としてフィードバックさせた強風22型の開発計画があったとされており、さらに後継機として川西十八試水戦という機体の開発が考えられていたが実現しなかった。

 

戦歴

 最初に強風が実戦配備されたのは1943年12月頃で、ニューギニア島西方セラム島南西に位置するアンボン島に展開していた934空水戦隊に配備され、翌月の1944年1月には甲木清実飛曹長操縦の強風がB-24を撃墜、強風の初撃墜を記録している。マレー半島ではペナン島に展開する936空の強風が1945年1月にB-29と交戦、翌月にも再び交戦している。さらに3月3日には第一南遣艦隊付属水上機隊の強風がB-24と交戦、ほぼ撃墜確実であったといわれている。他にも横空、鹿島空が水戦搭乗員教育のため強風を配備、さらに佐世保空、呉空、大津空、小松島空、宿毛空、901空、931空に配備されている。

 

生産数

 強風は、97機が生産された。終戦まで残存したのは31機で、内訳は、河和に22機、佐世保に5機、今宿に4機が残存した。現存しているのは戦後アメリカに接収された4機の内、3機のみである。

 

まとめ

 

 強風は太平洋戦争開戦前に計画され戦争後期に実戦配備された機体であった。しかし強風が実戦配備された頃には、南方侵攻作戦はとっくに終了しており水上戦闘機の出番は無かった。それでも南方資源地帯での防空戦や本土防空戦に使用された。甲木清実飛曹長のB24撃墜を始め若干の戦果を挙げた。F6Fヘルキャットを撃墜したことすらあったらしい。フロートを付けた「重い」機体は戦争後期の連合国軍新鋭機を撃墜するのは至難の業であった。しかし、陸上機型に改良された紫電、紫電改は海軍の決戦機として大活躍することになる。

 


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紫雲
(画像はwikipediaより転載)

 

水上偵察機紫雲〜概要〜

 

 紫雲は潜水艦隊旗艦用巡洋艦として建造された大淀に搭載するために製作された高速水偵で生産数はわずか15機のみであったが、二重反転プロペラを始めとする画期的な技術を採用した水偵で、当時の水上機では最高レベルの性能を持っていた機体でもあった。しかし戦局は紫雲を必要としない方向に推移し、紫雲は目立った活躍をすることなく消えていった。

 

性能

全幅 14m
全長 11.567m
翼面積 30.0
全備重量 4.100kg
過荷重 4900kg
武装 7.7mm旋回銃1挺、60kgb爆弾2発。
最大速度 468km/h(川西飛行機資料)
航続距離 (正規)1389km、(過荷重)3370.6km

 

背景から開発まで

 潜水艦隊旗艦用巡洋艦搭載用の高速水偵として計画された。 この巡洋艦は丙型巡洋艦と呼ばれ、索敵により敵艦隊の位置を把握して指揮下の潜水艦を的確に所用海域に向かわせることが使命であった。海軍の要求は、二座水偵であること、カタパルトによる射出が可能であること、自動操縦装置、写真機装置の装備、そして何よりも敵艦隊付近での強行偵察という目的であったため、最高速度が高度4,000mで555km/h以上という戦闘機並みの高速を要求するという非現実的な要求であった。

 

開発

 1939年7月1日、川西航空機に開発が指示された。これを受け川西航空機では設計を開始、この非現実的な要求に対応するため、エンジンは当時最強力であった火星エンジン(二式大艇や一式陸攻に使用されている)を採用、トルクによる影響をなくすため二重反転プロペラとし、フロートは少しでも空気抵抗を減らすため単フロート、補助フロートは半引込式とすることが決定した。

 1941年12月5日初飛行。試作機5機、さらに増加試作機10機が発注されたが、1号機は転覆事故を起こすなどトラブルが続出、1942年10月に海軍に領収されるが、トラブル続きのため、領収は順調にはいかず、以降、15機全てが領収されたのは1944年2月であった。1943年8月10日には水上偵察機紫雲11型として制式採用されたものの量産化はされず試作機のみ。 エンジンは川西の資料では火星14型(1500馬力)であるが、海軍の資料では火星24型(1850馬力)となっている。開発途中で変更された可能性が高い。

 水偵としては当時最高性能であったが、海軍側の要求値には達しておらず、計画から完成までの間にレーダーの出現など海戦様式が大きく変化した関係もあり紫雲の大淀搭載は中止となり、大淀は連合艦隊旗艦に改装された。

 

悲運の紫雲

 1944年4月、横須賀で紫雲隊が編成、5月28日以降3機がパラオに進出(最終的には6機)、第12偵察隊として第一航空艦隊第五基地航空部隊第41西空襲部隊に配属された。翌月には「あ」号作戦に参加したが、出動した機はいずれも敵戦闘機の追撃を受けたとき主フロートが落下せず撃墜されたといわれている。 主フロートは投下可能であったが実機による試験は行っていなかった。

 

生産数

 試作機5機、増加試作機10機の合計15機のみ。

 

まとめ

 

 大戦中、日本陸海軍は少ない資源を使って多くの試作機を製作した。本機もそれら試作機の一つであった。レーダーの開発により存在意義を無くした機体であったが実戦でも使用された。実戦ではフロートが落下せず多くが撃墜されたようだ。仮にフロートが落下したとしても、フロートを投下するということは生還したとしても海面に危険な胴体着水する他ない。日中戦争時に計画された航空機であったが、戦争の様相が変わった太平洋戦争において紫雲はもはや活躍の場はなかった。それでも開発を中止させることなく航空機開発の貴重なリソースを使い続けた上に投下式フロートという人命軽視の思想。ある意味日本海軍を象徴した航空機と言えるかもしれない。

 


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01_零式小型水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

零式小型水偵〜概要〜

 

 零式小型水偵は珍しい潜水艦搭載偵察機である。羽布張りの小型偵察機ながら太平洋戦争では主に初期に活躍した。特に有名なのが伊25潜搭載の藤田信雄飛曹長機が米本土爆撃を敢行したことだろう。これは世界初の米本土爆撃で以後現在に至るまで行われたことはない。

 

性能

全長 8.53m
全高 3.39m
全装備重量 1450kg
最高速度 246km/h
航続距離 882km
武装 7.7mm機銃1挺
爆装 60kg爆弾1発

 

背景から開発まで

 潜水艦搭載偵察機を実戦に投入したのは日本だけであったが、潜水艦に航空機を搭載するというアイディアはそれ以前から各国にあった。最も初期はドイツでハインケル社がU-1の名称で試作を行っており、この機体を日本海軍は2機輸入、潜偵の実用化に向けて研究実験を行っていた。この結果、1927年には国産潜偵試作1号機が完成、機雷敷設用潜水艦伊21潜(のちの伊121潜)で実験を行った。そして1932年には川西航空機が九一式水偵が完成、1936年には九六式水偵が制式採用された。そしてこの九六式水偵の後継機として開発されたのが零式小型水偵である。

 

開発

 零式小型水偵とは、潜水艦に搭載された小型偵察機である。世界で唯一米本土を爆撃した航空機でもある。1936年6月5日、潜偵の性能標準が軍令部から海軍省に提示。1937年には、第三次補充計画で潜水艦の大幅増強が行われることとなった。これと同時に、海軍は、その新潜水艦搭載用潜偵として十二試潜偵の開発を計画、開発は空技廠に命じられた。この指示を受けた空技廠は加藤啓技師を設計主務者として開発を開始、1938年には1号機を完成させた。

 

1号機完成

 この十二試潜偵は、発動機が340馬力天風発動機12型で木金混合製の骨組みに羽布張り、金属製のフロートを装備、潜水艦が浮上後、格納庫の扉が開いてから組み立てるまでに熟練者であれば10分で完了することが出来た(記録上の最短記録は6分23秒)。しかし試作機は安定性が悪く燃料搭載量が少ない等多くの問題があり試験は難航したが、機体の形状の変更、潜水艦側のカタパルトの能力の向上で問題は解決、1940年12月17日に制式採用された。当初は零式一号小型水上機と呼ばれていたがのちに零式小型水上機11型と改称した。

 初期型は最大速度246km、巡航速度157km、航続距離882km、後期型は最大速度239km、巡航速度167km、航続距離982kmで、武装は7.7mm旋回銃1挺、他小型爆弾を搭載できる。生産はのちに震電を開発したことで有名な九州飛行機で行われた。  因みに各部を再設計した改良型の零式二号小型水偵も存在する。この零式小型水偵は太平洋戦争において、2回の米本土爆撃を含め、58回の偵察行動を行った(54回とする説もある)。

 

戦歴

 最初の作戦は開戦前の1941年11月30日で、フィジー諸島のスバ港の偵察が最初の偵察であった。以来、北はキスカ島偵察、南はオーストラリア、西は北米、東はアフリカ大陸と広大は空域で偵察を実施した。もしかしたら日本軍機で最も広範囲に活動した航空機であったかもしれない。

 1942年9月には、藤田信雄飛曹長操縦の零式小型水偵が、オレゴンの森林地帯に焼夷弾による爆撃も行っている。これが世界で唯一の米本土爆撃といわれている。そして1944年6月12日、伊10潜機がメジュロ環礁の偵察飛行をしたのが潜偵の最後の偵察であった。終戦時には17機が残存。現存機はない。

 

生産数

 総生産数は126機で、他に試作機2機、増加試作機10機が製造された。これらを含めると138機が生産されたことになる。

 

まとめ

 

 潜水艦に水偵を搭載するというアイデアは画期的と思われるが、実際は危険だらけであった。発進した水偵は潜水艦の位置を正確に確認しなければならず、さらに敵に追尾されていないこと、海が着水できる状態であること、潜水艦自体が攻撃を受けていないことなど無事帰還するためには多くの条件が必要であった。潜偵隊はこれらの過酷な条件の中任務を遂行していった。

 

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 最近、忙しくて中々本を読む時間が無かった。何とか読み終わったのが本書、『神龍特別攻撃隊』である。本書は潜水艦搭載水上機の搭乗員をしていた高橋氏の貴重な記録である。高橋氏は乙種予科練6期修了という超が付くほどのベテラン搭乗員である。6期というのがどれほどのベテランかというと、日本のトップエースと言われる西沢広義氏は高橋氏の後輩にあたる7期出身だ。同期には零戦初空戦に参加した岩井勉氏がいる。

 著者は数少ない潜水艦搭載水上機の搭乗員であり、さらに戦争末期には水上攻撃機晴嵐に搭乗していたというかなり貴重な体験をした人だ。晴嵐とは日本海軍が1943年に完成させた特殊水上攻撃機で「潜水空母」伊400での運用を前提に設計された機体である。28機が生産され、最高速度は474km/h、非常時にはフロートを投棄することも可能である。航続距離は1,540km、800kg爆弾1発または魚雷1本、250kg爆弾4発を搭載することが出来たが、あまりの高性能故に生産コストは零戦50機分に相当すると言われている。

 

 

 私は元々零戦の搭乗員の戦記が大好きだった。しかし最近はもう読む本が無くなってしまったこともあり、水上機搭乗員の戦記を読み始めたのだが、水上機搭乗員の戦記は今まで読んだものはどれもかなり濃い内容だった。本書も他の水上機戦記と同様に内容は濃い。訓練中にいじめられていた搭乗員がいじめた上官を後席に乗せ海面に突入して殉職した話などは衝撃だった。

 さらにペナン島ではドイツのUボートが10隻ほど作戦行動をしており、その性能の高さは日本の潜水艦長を羨ましがらせた。乗っていたのは15歳くらいの少年達が多かったというのもあまり知られていない事実なのではないだろうか。さらに目を背けたくなることだが、撃沈した商船の捕虜を無差別に処刑したことについても書かれている。この処刑命令は潜水艦隊司令部から出ていたものだったという。著者は敢えてその事実と商船の名前を書いているのは勇気のいることだと思う。戦争はスポーツではない。現実はこんなものだろう。

 その他、呉軍港空襲の際に戦艦が特殊砲弾(恐らく三式弾)を発射して米軍機が撃墜されている様子等もあるが、やはり水上攻撃機晴嵐についての記述は特に貴重だ。晴嵐はかなり操縦しやすい航空機だったようである。爆弾は800kgの大型爆弾を搭載することが可能で雷撃もできた。そしてフロートを外すと最高速度は560kmと零戦五二型と同等の速度を出すことが出来るというあまり知られていない高性能機でもある。

 さらに著者は瑞雲にも搭乗している。瑞雲もかなり高性能だったようであり、空戦性能は零戦と互角であると評している。本書は潜水艦搭載水上機搭乗員の記録としてもかなり貴重であるが、晴嵐や瑞雲に実際に乗った数少ない搭乗員の記録であり、戦記に興味のある人にとっては貴重な本だと思う。おススメだ。。。いや、絶対に読んだ方がいい。

 

 

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藤代 護 著
書房光人新社 (2017/9/1)

 

 また飛行艇戦記。著者は藤代護氏、乙種予科練9期出身の水偵乗り。偵察員であった。「偵察員」とはよくわからない方もいるかもしれないが、水上偵察機には通常、2〜3名の搭乗員が乗る。操縦員と偵察員、または操縦員と電信員、偵察員である。予科練を目指す者で初めから偵察員を目指す人はまずいない。著者も予科練では当然のように操縦員を希望していた。しかし操縦員には選ばれなかった。著者はトイレで泣いたという。

 しかし、今度は日本一の偵察員にやってやると気持ちを切り替える。著者はその後も数々の不本意な状況に置かれるがその都度前向きに頑張る。偵察員に指名されたことについて、これは私の勝手な推測だが、著者は操縦適性が無かったのではなかったと思う。ただ、偵察適性がダントツに高かったのだろう。要するに頭が良かったのだ。

 著者は予科練での送受信訓練でモールスで送られてくる通信文を毎回一文字も間違えなかったという。さらに飛行時間1000時間を超えるころには300カイリを飛行しても推測航法で誤差が1カイリ以内だったという。海軍の航法には天文航法、地文航法、推測航法の3種類ある。天文航法は天体の位置から自機の位置を測るというもので地文航法とは地形を見て自機の位置を測るものだ。そして推測航法とは自機の速度と風向き、風速を推測して自機の位置を測るという最も難易度の高い航法である。

 全て推測だ。300カイリ飛行して1カイリ以内に収めるというのがどれだけすごいことなのか想像できるだろう。kmに直すと500km以上を飛行して誤差は2km以内ということだ。著者は恐らく、操縦適性以上に偵察適性があったのだろう。例えば操縦適性がBランクで偵察適性がAであれば偵察に回される。こういうことだったのだろうと思う。著者は戦後、大学に入っている。もともと頭の良い人だったのだろうと思う。著者は部下の統率にも優れた才能を発揮している。予科練内での甲乙間の軋轢なども興味深い。

 

 

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伊400
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍の潜水艦にはいろいろなものが搭載できる。これは前回ブログを書いていて気付いたことである。では日本軍の潜水艦には具体的にどのようなものが搭載された、若しくは搭載予定だったのだろうか。今回は趣向を変えて日本軍の潜水艦搭載兵器を特集してみよう。

 

潜水艦に偵察機を積む

 

02_零式小型水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 まず最初にあげられるのは零式小型水偵。これは潜水艦搭載用に設計された小型水上偵察機である。機体は木と金属で成っており、翼はは羽布であった。開発したのはのちに震電を開発して有名になる九州飛行機で、最高速度246km/h、航続距離882km/h、7.7mm機銃1挺に小型爆弾を搭載することもできる。

 

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 この零式小型水偵は世界で唯一アメリカ本土を爆撃した航空機なのだ。この任務を遂行したのは有名な藤田信雄飛曹長。1942年に2回空襲をしている。因みにこの潜水艦伊25はタンカーを撃沈するついでにソビエトの潜水艦も撃沈している。なぜこんなところにソビエトの潜水艦がいたのかはよく分らないけど、この攻撃、ソビエトにバレちゃったようだ。結局、大人の事情で表沙汰にはならなかった。

 

潜水艦に潜水艦を積む

 

03_甲標的
(画像はwikipediaより転載)

 

 潜水艦に潜水艦を積む。。。マトリョーシカ人形のような良く分からない状態だが、日本の潜水艦は甲板上に「潜水艦」を搭載することもあった。潜水艦といってももちろん二人乗りの小型潜水艦でその名は甲標的。太平洋戦争開戦前、仮想敵国が激リッチな米国である日本海軍の悩みの種は、その圧倒的な戦力差であった。何とかその差を埋めようと考案されたのが「漸撃戦術」という戦術であった。

 まさか航空機が海戦の主力となるとは露ほども考えなかった日本海軍では、海戦は戦艦で決着を着けるものと当然のように考えていた。しかし残念ながら非常に貧乏な日本は戦艦の数では米国に太刀打ちできない。おまけにワシントン軍縮条約で戦艦の数も制限されてしまっていた。そうなると戦艦以外の攻撃で相手の戦艦の数を減らそうと当然のように考える。それが「漸撃戦術」なのである。

 中部太平洋から何も知らずにのんきに突き進んでくる米国戦艦部隊に対して、潜水艦、陸上攻撃機、母艦攻撃機、甲標的による攻撃で滅多打ちにして残った艦隊を日本の戦艦部隊が攻撃して大勝利を収める。。。というのが構想である。まあ、当然、米国も同じことをするだろうことは容易に想像できるのであるが、そこはそこ、大和魂や精神力で何とかするつもりだったのだろう。

 ともかく、そのために開発されたのが、小型潜水艦甲標的である。名称が甲標的とヘンテコな名前なのはもちろん外国を騙すために「標的ですよ〜」という意味を込めた名前である。最高速度は23ノット、潜航時は19ノットと意外と速い。武装は魚雷2本を艦首に装備しているのみである。太平洋戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃から戦争末期まで使用された。舵がスクリューの前に付いているため旋回性能が悪かったことと、なにぶん潜水しているため潜望鏡以外では外が全く見えないのが欠点であった。

 真珠湾攻撃では潜水艦に搭載された5隻の甲標的が発進、戦艦オクラホマに魚雷を命中させている。潜水艦から発進する場合が多かったが、甲標的母艦、陸上基地からも運用された。地味に戦果を挙げてはいるものの生還率が非常に低いため決死の出撃をすることになる。ともあれ、潜水艦に潜水艦を搭載するというのも日本以外無いんじゃないだろうか。

 

潜水艦に爆撃機を積む

 

04_晴嵐02
(画像はwikipediaより転載)

 

 そして晴嵐。偵察機からさらにグレードアップして、潜水艦に攻撃機を搭載することにした。晴嵐とは太平洋戦争開戦後に開発が開始された超高性能水上攻撃機である。最高速度は474km/hでフロートを投棄すると560km/hと零戦52型並みの高速を発揮することができる。航続距離は2,000kmで終戦までに28機が生産された。超高性能仕様だったため生産コストは零戦50機分にも相当すると言われている。

 

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 この晴嵐は伊号400型潜水艦に3機、伊号13型に2機搭載することが可能であった。本来の目的は海戦初期の段階で、パナマ運河を破壊して米大西洋艦隊を足止めすることだった。晴嵐が完成したのは1943年、海軍が受領したのは1944年。。。これって開戦当初に必要だった戦力な訳で・・・。ともかくこの晴嵐、世界初の潜水艦搭載攻撃機という意義は大きい。それまで戦術兵器でしかなかった潜水艦が世界中のあらゆる地点を攻撃できるようになったのである。世界初の戦略潜水艦の誕生とまで言われている。まあ、実際の攻撃力は攻撃機3機のみなので微々たるものであるが。。。

 

潜水艦に戦車を積む

 

05_特二式内火艇カミ車
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の潜水艦は戦車も積んでしまう。その潜水艦搭載戦車とは、水陸両用戦車「特二式内火艇」。もう名称からして戦車なのか船なのか分からない。「カミ車」ともいう。これは海軍の頭文字「カ」と出処不明の「ミ」を合わせた名称。「ネ申」ではないので注意。陸軍の九五式戦車をベースに水上航行可能に改造した車両?、艇?である。

 全長7.42m、最高速度が37km/h、水上では9.5km/h、主砲は37mm戦車砲である。上陸後にフロートを外すことになっているが、本体の装甲があまりにも貧弱であるためフロートを装着したまま使用されることも多かった。本来、強襲揚陸艦に搭載されて運用されるものであるが、潜水艦に搭載して運用することを想定していた。

 実は日本軍にはその強襲揚陸艦の元祖ともいえる特種船あきつ丸が存在していたのであるが、これは海軍とあまり仲がよろしくない陸軍が建造した空母であったため、陸軍とあまり仲がよろしくない海軍が作った戦車を運用することは難しかったのである。陸軍が造った空母に海軍が作った戦車を載せられない。。。もう何だか分からない。因みに後継の特三式内火艇も潜水艦に搭載することができる。

 

人間魚雷回天

 

回天01
(画像はwikipediaより転載)

 

 甲標的は極めて危険度の高い決死の兵器であったが、回天は必ず死ぬ必死の兵器である。これも潜水艦に搭載されていた。初期のものは回天と潜水艦に交通筒が無く、回天を発進さるためには一旦浮上して乗員を回天に登場させる必要があった。つまりは敵の近くで一旦浮上するということでかなり危険が伴った。

 一見、人間が操縦するので命中率が高いのではないかと思われるかもしれないが、当然、窓もない。あったとしても海中は真っ暗で何も見えない。位置の測定は潜望鏡とジャイロスコープで行う。要するに「目が見えない」状態での送還を余儀なくされる。

 潜望鏡を上げれば発見されてしまうので、搭乗員はジャイロスコープとストップウォッチで自艦の位置と目標を計算しながら、同時に操艦もする。強い意志と高い練度、知性、勇気が必要だ。つまりはどの世界においても必要とされる優秀な人材が求められる。回天は一度乗ったら成功、不成功に関わらず脱出することはできない。

 

運貨筒

 

 潜水艇が積めるのであればもちろん同じ潜水艇である運貨筒も積める。この運貨筒というのは物資輸送用の潜水艇だ。潜水艦によって曳航され目的地で切り離される。それを大発等で回収するのだ。南方で使用されたようだ。

 

海軍特殊部隊

 

 正式には呉鎮守府第101特別陸戦隊という。これは潜水艦等で隠密裏に上陸を行い各種の特殊任務を行うという現在のアメリカのSEALチームと同様の発想で1944年に養成が始められた海軍特殊部隊だ。剣道や柔道の有段者を集め信じられないくらい過酷な訓練を行ったようである。もし日本海軍が存続していればSEALのような部隊が独自に日本でも編成されていたかもしれない。

 

まとめ

 

 以上のように日本海軍の潜水艦にはさまざまなものが搭載された。または搭載されるところだった。発想自体は革新的なものも多かったが、水陸両用戦車を搭載するという基本的に意味がないものもあった。この潜水艦を戦略の拠点にするという発想が出てくる背景には日本が海洋国家であったことと、同時に日本の国力が欧米、特に同じ海洋国家であるアメリカに対して劣っていたことが挙げられるだろう。正面切って戦うには国力の違いがありすぎる。そのための「搦め手」としての潜水艦運用であったのだろう。

 

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長峯五郎 著
光人社 (2006/12/1)

 

 私は第二次世界大戦の航空機の中で二式大艇が一番好きなので買ってしまった。二式大艇の詳しく知りたい方は下記参照。

 

 

 本書で私が一番驚いたのは長峯氏の性格である。以前、機種ごとの搭乗員の性格というのが確か坂井氏の著書か何かに書いてあったが、戦闘機と艦爆は勇猛、艦攻乗りは冷静沈着、そして水上機乗りはビックリする位温和な人が多いとかだったと思う。翻って行間から浮かび上がる長峯氏の性格は勇猛果敢でかなり戦闘向きの性格をしている。戦後は長峯水産という会社を横浜で起こしたらしいので相当な親分肌だったのだろう。

 長峯氏は乙種予科練12期というものなので実戦に参加したのは太平洋戦争中期以降である。日辻常雄氏のようにガダルカナルでの空戦を経験しているようなベテランではないが、操縦技術や統率に関する自信は並大抵ではない。すぐに実戦には参加せずに横須賀航空隊での勤務があったことが氏の練度向上に役立ったことは間違いない。当時としてはある意味幸運であったともいえる。

 長躯、トラック島に偵察機彩雲用の増槽を空輸して命からがら帰還したり、夜間着水に失敗して瀬戸内海を漂流したりとすごい経験をしている。しかしもっとも強烈なのは梓特別攻撃隊の嚮導機として特攻隊に編入されたことだろう。長峯氏は奇跡的にメレヨン島に不時着するが、司令官からの最大級の褒章が「サツマイモ5個」という飢餓の島だった。

 配給された米は量を増すために粥にしては絶対ならず(粥にして食べた人達は餓死した)、30回噛んで食べること等、貴重な経験が書かれている。長峯氏は貴重な熟練搭乗員ということで潜水艦により救出される。実は不時着が確認されて直後に潜水艦が救出に向かうが撃沈されてしまっているので二隻目の潜水艦だった。

 当時、熟練搭乗員というのがどれほど大切にされていたのかが分かる。日本海軍は戦争開始から搭乗員救出には米軍程熱心ではなかった。梅本弘『ガ島航空戦上』に詳しいが、日米航空戦で同数が撃墜されても搭乗員の死亡率は圧倒的に米軍が高い。戦争末期ほど搭乗員を大切にしていれば日本海軍航空隊ももっと戦えたと思うと残念。これは搭乗員に限らずにいえることだ。

 因みにメレヨン島に関しては戦後、海軍側責任者宮田嘉信は自決、メレヨン島最高司令官北村勝三は遺族への訪問を一年がかりで終えたのち1947年8月15日に自決している。それと本書には死んだ息子があいさつに来た等、常識では考えられないような不思議な話も載せられている。戦記物を読んでいるとたまにこういう話に出くわす。

 

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01_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式水上偵察機(零式三座水偵)とは、愛知時計電機(のちの愛知航空機)が開発した三座水上偵察機で、当時としては快速で安定性が良い傑作機で、日中戦争から太平洋戦争全般にわたって偵察任務だけでなく、船団護衛、哨戒、魚雷艇攻撃等に活躍した。

 

零式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.49m
全高 4.70m
自重 2,524kg
最大速度 367km/h
上昇力 3,000mまで5分27秒
上昇限度 7,950m
エンジン出力 1,080馬力(金星43型)1基
航続距離 3,326km(14.9時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺(弾数582発。97発弾倉6個)
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発または
設計・開発 松尾喜四郎 / 愛知航空機

 

開発

02_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年初頭、海軍は中島飛行機に対しては十二試二座水偵、愛知時計電機(のちの愛知航空機)と川西航空機に対しては十二試二座水偵と十二試三座水偵の2機種の開発を命じた。この指示を受けた愛知は当時、十一試艦爆(のちの九九式艦爆)、十一試特種偵察機(のちの九八式水上偵察機)を開発中であり、さらに2機種の水上機の開発に力を割く余裕はなかった。

 このため二座水偵の開発を先行、その成果を三座水偵に反映させるという方法で対応した。設計主務者は松尾喜四郎技師で開発を開始した。設計は順調に進んだものの開発中の航空機が多数あったため艤装関係の設計や試作機の製作が遅々として進まなかったため期日に間に合わず失格となってしまった。

 しかし愛知の上層部は研究資料とするために開発の継続を指示、1939年1月1日に試作1号機が完成、4月には初飛行に成功した。飛行試験では小さな問題は発見されたものの大きな問題はなく、最高速度も要求値に達しており安定した素直な機体であった。

 競合していた川西航空機の試作機は期日には間に合ったものの全体的に性能要求には達しておらず、さらにはテスト中に事故が続いたため審査は中止となっていた。このため海軍は愛知の試作機に注目、1939年7月、空技廠から担当者を派遣してテストを行った。その結果、愛知の試作機は直ちに海軍に領収された。

 海軍での試験でも好成績を発揮、12月には制式採用が内定、1940年12月17日、零式水上偵察機として制式採用された。生産は制式採用前から始まっており、1940年9月30日には量産一号機が完成している。因みに生産は愛知では上記の理由で生産能力が限界を超えていたため、広海軍工廠、九州飛行機で主に生産が行われた。

 機体は全金属製セミモノコック構造で主翼は金属製で一部が木製・羽布張り、格納時は主翼の中程から折り畳めるようになっていた。乗員は操縦員、偵察員、電信員の3名で偵察員は爆撃手も兼ねている。風防は完全密閉式である。

 エンジンは三菱製金星43型(1,080馬力)でプロペラは直径3.1m3翅定速プロペラであった。武装は九二式7.7mm旋回機関銃で97発入りドラムマガジンを6個搭載していた。爆撃兵装は60kg爆弾4発、または250kg爆弾1発で60kg爆弾の内2発は翼下、2発は胴体内に搭載することが可能であった。

 

二号

 初期の生産型と大きな変更点はないが、フロートの支持方式が張線から支柱に変更された他、初期生産型ではスピナ無しの機体が多かったが、スピナが標準装備となった。後期生産型からは排気管が推力式単排気管に変更された。

 

その他バリエーション

 11甲型は、1944年11月に制式採用された三式空六号無線電信機4型(レーダー)を装備した機体で、同じく1944年11月に制式採用された11乙型は、磁気探知機装備型である。他には、1944年3月に制式採用された複操縦式の零式練習用水上偵察機、魚雷艇攻撃用に偵察席に20mm機銃1挺を搭載した魚雷艇攻撃機型、戦争末期に魚雷を搭載できるように改造された雷撃機型があった。

 

生産数

 愛知時計電機で1938年から1942年までに133機、1942年から1945年までに九州飛行機で1,200機、広海軍工廠で90機が生産された。合計1,423機である。終戦時には約200機が残存していた。

 

まとめ

 

 零式水上偵察機は、戦艦や巡洋艦にも搭載された他、水上機母艦や基地航空隊にも配属された。有名なR方面部隊にも零式三座水偵は配備されていた。四方を海に囲まれた日本にとって水上機の必要性は高く、日本海軍は他の海軍とは比較にならない程水上機の開発に熱心であった。このため多くの名機が生まれた。特に初期のソロモン方面での戦闘では、滑走路が不要な水上機は重宝されたが、艦上機、陸上機には性能面では太刀打ちできず多くの損害を出した。

 

 

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01_九八式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式水上偵察機とは、日本海軍のお家芸である夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の水上機であった。水雷戦隊旗艦に搭載されて運用されたが、夜襲水雷戦の重要度が下がったことやレーダーの登場等により後継機は製作されなかった。日中戦争から太平洋戦争初期まで活躍した。

 

九八式水上偵察機 〜概要〜

 

性能

全幅 14.49m
全長 10.71m
全高 4.52m
全備重量 3,300kg
最大速度 217km/h
上昇力 3,000mまで18分35秒
上昇限度 4,425m
エンジン出力 620馬力(九一式22型水冷)
航続距離 2,065km(15時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺
設計・開発 森盛重 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 夜間偵察機(夜偵)とは水雷戦隊の夜襲を重視した日本海軍独自の機種で、水雷戦隊の夜襲時に敵艦隊に夜間接触するための専用の偵察機である。この夜間接触専用の機体を開発したのは日本海軍だけである。最初の夜偵は1932年に初飛行した愛知時計電機製六試夜間水上偵察機で飛行艇の形式を採用していた。これは6機製作されたが制式採用とはならず民間航空会社に払い下げられた。そして1936年7月13日、初めて夜間偵察機として愛知製九六式水上偵察機が制式採用された。

 

開発

 九六式水偵が制式採用された1936年10月1日、海軍は愛知と川西に十一試特種偵察機(E11A1)の開発を指示した。これに対して愛知は森盛重技師を設計主務者として開発を開始、翌年の1937年6月に試作1号機を完成させた。十一試特偵の形状も今までの夜偵と同様の飛行艇型で複葉単発、金属製の骨組みに羽布張りであった。風防は密閉式の涙滴型風防でエンジンは、愛知製水冷九一式22型(500馬力)で上翼中央に取り付けられた。プロペラは木製4翅、カタパルトによる射出が可能で主翼は上下共に後退角が付いており、後方に折り畳むことができた。

 性能は、最高速度が216.7km/h、高度3,000mまでの上昇時間が18分35秒、実用上昇限度が4,425m、航続距離が2,065kmであった。競合していた川西も試作機を提出したが、最高速度こそ231km/hと愛知製試作機よりも上だったものの全体的には愛知製が優れており、1938年6月27日、九八式水上偵察機として制式採用された。

 

生産数

 1937年から1940年までに試作機と増加試作機合わせて17機が生産された。終戦時には5機が残存している。

 

まとめ

 

 夜間偵察機は夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の機種であった。夜間であるため戦闘機からの攻撃は考慮する必要はなかった代わりに長時間滞空出来る必要があった。この九八式水偵は15時間に及ぶ滞空能力があったため演習時等は一晩中上空にいたという。夜間偵察の重要性が低くなったのと零式水上偵察機で代用可能であったため、本機以降、夜間偵察機という機種は制式採用されていない。

 

 

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01_九五式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式水上偵察機とは、1935年に制式採用された二座水上偵察機で目新しいアイデア等は無かったが、安定性、操縦性に優れた傑作機であった。九六式艦戦並みと言われた運動性能によって戦闘機代わりに使用された他、爆撃や哨戒とあらゆる任務をこなした。太平洋戦争開戦後も使用され続けインド洋海戦では英空母ハーミスを発見する等殊勲を挙げた。零式水上観測機にその役割を譲った後も哨戒や練習機として終戦まで活躍した。

 

九五式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.98m
全長 8.81m
全高 3.84m
自重 1,370kg
最大速度 299km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで6分31秒
上昇限度 7,270m
エンジン出力 630馬力(寿2型改2)1基
航続距離 898km(増槽装備時)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 30kg爆弾2発
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

 1933年、現用機である九〇式二号水偵の後継機にあたる八試水上偵察機の開発が愛知時計電機、川西飛行機、中島飛行機の3社に指示された。これを受けて中島飛行機は三竹忍技師を設計主務者として開発を開始、1934年3月に試作1号機が完成した。これは同社製九〇式2号水偵をベースとして全体を再設計したもので全幅、全長もほとんど変わらないが空気力学的にはより洗練された機体となった。武装は機首に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備、爆弾は30kg爆弾2発が装備可能であった。

 胴体は木金混製で前半部分が金属張り、後半部分が羽布張りで、エンジンは九〇式水偵と同じ寿2型改1(580馬力)を装備していたが、最高速度は九〇式水偵の最高速度232km/hを67km/hも上回っている他、上昇性能、操縦性、安定性とあらゆる面で性能が向上していた。八試水偵の比較審査では、愛知、川西製も性能では伯仲していたが、総合的に優れていた中島製が他2社を破り1935年9月17日、九五式水上偵察機として制式採用された。1938年10月には、エンジンが寿2型改2(630馬力)に変更されたため、改1の機体を九五式1号水偵、改2を九五式2号水偵と呼称された。

 実戦部隊でも九五式水偵の評価は高く、運動性能に関しては九六式艦戦にも匹敵するとまで言われた。このため戦闘機の代用として使用されたり、哨戒、爆撃とマルチに活躍した水上機であった。この九五式水偵の活躍が水上戦闘機開発のきっかけになったとも言われている。太平洋戦争開戦後も使用され続け、戦艦榛名搭載の九五式水偵は、インド洋海戦で空母ハーミスを発見するという殊勲も挙げている。1942年頃からは後継機にあたる零式水上観測機と交代して第一線からは姿を消したが、哨戒、連絡、訓練等で終戦まで活躍した。

 

生産数

 生産は1942年まで続けられ、中島飛行機で試作機2機、増加試作機7機、生産機700機の合計709機、川西航空機で48機の合計757機生産された。太平洋戦争終戦時には50機が残存していた。

 

まとめ

 

 九五式水偵は、戦艦や巡洋艦の艦載機、水上機母艦、基地航空隊に配備されたが、戦闘機との空中戦、爆撃等あらゆる任務に活躍した。操縦性、安定性も良いためドイツ海軍でも1機が使用された他、タイ王国海軍でも制式採用された。この成功体験が海軍に水上機に対する過剰な期待を持たせることとなり、太平洋戦争開戦後、水上機部隊は、低性能の水上機で米軍の新鋭機と空戦を行わなければならなくなってしまった。九五式水偵は傑作機であると同時に罪深い機体でもある。

 

 

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01_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九四式水上偵察機とは、複葉布張りの3人乗り水上偵察機であるがあまりの高性能にドイツからライセンス生産の要求があったと伝えらえているほどである。また海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどであった。1933年に初飛行した本機は換装して使用され続け太平洋戦争終戦まで実戦で活躍し続けた。

 

九四式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 10.50m
全高 4.73m
自重 2,000kg
最大速度 239km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで10分45秒
上昇限度 7,520m
エンジン出力 600馬力(九一式水冷)
航続距離 12時間
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発または
   30kg爆弾4発
設計・開発 関口英二 / 川西航空機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

02_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1932年、海軍は七試水上偵察機の開発を指向する。これを受けた川西航空機では関口英二技師を設計主務者として開発を開始、1932年3月から設計開始、1933年2月には試作1号機が完成、2月6日からテストが行われた。機体は保守的な複葉布張りであったが、従来機に比べ木製部品の使用割合は大幅に下がり、胴体、主翼の桁はジェラルミン製、小骨は木製という一歩進んだ機体であった。

 エンジンは広島海軍工廠で開発された国産の水冷式九一式500馬力エンジン(後期型では九一式600馬力エンジンに換装)で、最高速度は237.1km/hで性能要求の240.8km/hには及ばなかったものの現用の九〇式3号水偵を上回っており、安定性、航続距離に関しては極めて優秀であった。この七試水偵の高性能は、海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどでドイツが本機のライセンス生産を要求したとも言われている。1934年5月26日、九四式水上偵察機として制式採用された。

 

12型

 九四式水偵のエンジンは、1937年からはより高性能で信頼性の高い瑞星11型(870馬力)エンジンに換装された。この換装は水冷エンジンから空冷への換装であったが、九四式水偵はそもそも余裕のある設計であったため換装は比較的容易であった。これにより最高速度は278km/hに増大、航続距離も2,463km、時間に換算すると11.36時間の長時間飛行が可能であった。この長時間飛行に対応するために本機では前後席どちらでも操縦することが可能となっている。この瑞星搭載型は1938年11月24日に九四式2号水偵(のち12型と改称)として制式採用、それまでの九四式水偵は1号水偵(のち11型と改称)となった。1941年まで生産された。

 

生産数

 生産は川西航空機で試作機2機、1号(11型)が183機、2号(12型)が288機の合計373機、日本飛行機で両型合計で57機製造されている。総生産数は530機。

 

まとめ

 

 九四式水偵は、1933年の初飛行から1945年の終戦まで12年間も使用され続けた名機である。この時期に初飛行した航空機で終戦まで使用されたものも無くはないが、ほとんどが練習機としてであった。これに対して九四式水偵は、偵察、哨戒、輸送等、終戦まで実戦で使用され続けたという稀有な航空機である。これは水上機という特性とともに本機の設計の優秀さ、信頼性の高さを物語っている。

 

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