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比叡

01_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

斎藤三郎少尉の経歴

 

 1917年、山形県に生まれる。1934年6月横須賀海兵団に入団。75期普通科砲術練習生となったのち1936年戦艦比叡乗組、1938年6月44期操縦練習生となる。大分空、大村空で延長教育を受けたのち、1939年10月12空に配属され漢口に進出した。1939年末から1940年始めの桂林攻撃で初空戦を経験。1940年1月赤城乗組。大分空、徳島空、築城空を経て、1942年11月瑞鶴乗組。同時に上飛曹進級。1943年1月末ラバウルに進出し、4月「い」号作戦に参加。その後一時本土へ帰投するも7月にはトラック島に進出、「ろ」号作戦に参加する。一時的にルオット島に進出したのち内地に帰還。徳島空に配属された後、1944年7月252空戦闘317飛行隊付。10月24日捷号作戦の総攻撃に出撃した際、空戦となり不時着負傷して本土へ帰還、そのままに終戦を迎えた。

 

斎藤少尉の戦い

 

 斎藤三郎少尉は、操練44期出身で同期には金丸健男少尉、山中忠男少尉等がいる。戦闘機専修は17名であるが、1943年を迎える前にすでに9名が戦死しており、終戦まで生き残ったのはわずか5名であった。生存率は29%である。斎藤少尉は海兵団入団後、一時期艦隊勤務に就いたのち航空兵となっている。

 練習生修了後、漢口に展開していた12空に配属、日中戦争で実戦を経験する。1940年1月に赤城、瑞鶴乗組と母艦戦闘機隊に所属する。この母艦戦闘機隊は空母の小さい甲板に離着艦するために特別の技量が必要であり、特に練度の高い隊員が選抜された。

 赤城戦闘機隊に所属となった斎藤少尉は開戦後は内地で教員配置に就いたのち、再び瑞鶴戦闘機隊として1943年1月末にラバウルに進出、4月には「い」号作戦に参加、激戦のラバウルで活躍した。当時の斎藤少尉の乗機は零戦52型であったが、この零戦52型は21型の翼端を左右30cm程切落して成形した型で、他にもエンジンがより強力な栄21型エンジンに変更、武装も強化されて7.7mm機銃の代わりに13mm機銃が設置されており、20mm機銃も銃身の長い2号銃に変更されている。

 斎藤少尉は、この52型に対してスピードもあり、エンジンの馬力も強く、機銃も強力になった上に弾道が安定して命中率が良くなったと高評価を下しているが同じく翼端を切り詰めた32型に関しては安定性が悪いとあまり評価していない。

 い号作戦に参加後、内地に帰投した斎藤少尉は再びラバウルに進出、ろ号作戦に参加したのち内地に帰還、教員配置に就くが、1944年7月には252空戦闘317飛行隊に異動、捷一号作戦に参加する。この空戦で斎藤少尉は被弾、諦めかけた斎藤少尉は自決を考えるも気を取り直し不時着した。この時、斎藤少尉は白い服を着た長い黒髪の女性が手招きしているのを確認、そちらに向かおうとするが体が動かず断念して目が覚めたという。いわゆる「臨死体験」であろう。

 その後、現地人に救助され日本軍警備隊され戦闘317飛行隊に戻ると部隊が自分と他1名を残して全滅したことを知る。再び再編された戦闘317飛行隊に所属した斎藤少尉はそのまま終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、その後日本航空舎監となる。総飛行時間2118時間、撃墜数は単独撃墜18機、協同撃墜6機といわれている。

 

 

斎藤三郎少尉 関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三郎 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三郎少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。

 斎藤三郎少尉は、ラバウル航空戦に参加した当時のことを書いた「瑞鶴戦闘機隊」と台湾沖航空戦、戦争後期の比島航空戦について書いた「台湾・比島沖」の2本の手記を寄稿している。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 斎藤三郎少尉は、自身のラバウル時代のことを記した「南溟の空に消えた瑞鶴零戦隊」という一文を寄稿している。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。

 本書中に斎藤少尉が台湾に向かう際に、他の特准仲間である岩本徹三、西澤廣義、尾関行治、長田延義等と共に角田少尉のもとを訪れている描写がある。

 

まとめ

 

 斎藤三郎少尉は日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したベテラン搭乗員であった。特に優秀者が選抜されるという母艦戦闘機隊に長く所属、「搭乗員の墓場」と言われたラバウルでも長期間にわたって激戦をくぐり抜け終戦を迎えた数少ない搭乗員であった。単著での自伝のようなものはないが、手記を数本寄稿している。因みに名前は「さぶろう」ではなく「みつお」である。

 

 

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01_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 真珠湾攻撃とは、1941年12月8日に日本海軍の空母部隊、小型潜水艦が真珠湾に停泊中の艦船、軍事施設を奇襲した。これにより太平洋戦争が開戦する。合計2回攻撃を行い、戦艦を中心に多くの艦艇を行動不能にしたが、石油タンク、修理工廠は攻撃対象としなかったため攻撃は不徹底で空母を捕捉出来なかったこと合わせて、第二次攻撃をするべきであったのか否かがしばしば問題となるが、実際の諸条件を加味すれば南雲機動部隊の行動は妥当だったといえる。

 

真珠湾攻撃 〜概要〜

 

02_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の南部仏印進駐によって対日石油禁輸等の強硬措置を決定した米国に対して、日本は交渉を継続する一方、対米戦の準備も開始していた。連合艦隊は新しい兵器である航空機で真珠湾に停泊中の艦艇を行動不能とする計画を立てる。当時は一般には、航空機で戦艦を撃沈できるとは考えられておらずかなり奇抜な作戦であった。

 当時、空母は各艦隊に分散配置されていたが、真珠湾攻撃のために空母を終結、第一航空艦隊を編成した。第一航空艦隊に編入された空母は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、そして就役したばかりの翔鶴、瑞鶴の6隻であった。この艦隊は、司令官の苗字をとって南雲機動部隊とも言われる。この南雲機動部隊は、演習を偽装して別個に択捉島単冠湾に集結、11月26日に事前に調査した上で最も艦船の航行しない航路を選択して真珠湾に向かった。

 12月2日、洋上で攻撃決行の暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信、当初の計画通りに12月8日早朝、第一波攻撃隊183機が真珠湾を攻撃、同時に潜水艦によってハワイ近海まで輸送された2人乗り小型潜水艦「甲標的」5隻も真珠湾を攻撃した。続いて第二波167機が真珠湾を攻撃、これらの攻撃で米側は戦死約2,300名、航空機200機撃破、戦艦4隻、その他2隻が撃沈した他、米海軍主力戦艦のほとんどに致命的な損害を与えた。

 しかし、日本海軍が重要攻撃目標としていた空母は在泊しておらず、膨大な量の石油備蓄タンク、艦艇の修理工廠も攻撃を受けなかった。南雲機動部隊は一撃のみを行い真珠湾近海を離脱、日本本土に帰還した。日本側の損害は航空機29機である。

 

第二次攻撃は必要だったのか

 

03_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本軍の攻撃は艦艇や飛行場に集中したため膨大な量の石油タンク、修理工廠は無傷であったため攻撃後、被害を受けた艦艇の多くはすぐに引き上げられ戦争後半には戦列に加わっている。このため、これらを攻撃するために第二次攻撃を行うべきだったのか否かというのが必ずといっていいほど議論になる。これに関しては、海軍の作戦全般を統括する軍令部と連合艦隊の作戦目標のずれが指摘されている。

 軍令部が設定した真珠湾攻撃の目的とは南方資源地帯への進攻を円滑に進めるために米太平洋艦隊を一時的に無力化することであり、連合艦隊の作戦目標は艦隊を含むハワイ基地の機能を無力化することであった。これらの意見のずれは結局、最後まで統一されることはなく不明瞭で、いわば「現場任せ」の状態となっていた。このため南雲中将が一撃で戦艦部隊を無力化したのち帰還したのは軍令部の作戦目標に沿った行動であったといえる。

 むろん石油タンクや修理工廠を使用不能とするに越したことはないが、南雲機動部隊は、第一波攻撃で9機が撃墜、第二波攻撃では20機が撃墜されており、明らかに米軍の反撃体制が整備されつつあることが分かる。ここで第二次攻撃を行った場合、その損害は第一次攻撃を遥かに上回ったことは確実であり、さらには無傷の米空母部隊が攻撃してくる可能性も高かった。さらには日本軍は修理や補給というのを軽視しており作戦計画でも攻撃目標とされていなかった。これらの点も考慮すれば南雲機動部隊の行動は妥当であったと考えてよい。

 

まとめ

 

 真珠湾攻撃は、その準備から実施まで非常に緻密に計算して行われた作戦であった。作戦は参加する隊員に対しても一切知らされることなく準備され、参加部隊は演習と偽り、別々に本土から出撃していった。全参加者に攻撃目標を知らされたのは択捉島単冠湾であった。この緻密さ故に真珠湾攻撃は成功したものの、宣戦布告前の攻撃であったため卑怯なだまし討ちとして「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、国民一丸となって戦争に邁進していく。

 

 

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