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栄31型

01_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

零戦62、63型とは

 

爆撃戦闘機隊

 「足の速い零戦を爆装させていち早く敵空母群に攻撃をかけ、飛行甲板を使用不能にする」という考えはどうも1943年頃には生まれていたようだ。この戦法を訓練するために、ミッドウェー海戦後に誕生した新生第3艦隊の空母瑞鶴戦闘機隊の中にA攻撃隊という飛行隊が編成された。この飛行隊は2個小隊8名の隊員から成っており、隊長は海兵67期の小林保平大尉、第2小隊長は操練38期のベテラン岡部健二上飛曹が任命された。このA攻撃隊は1943年春頃から爆撃訓練を始めたようであったが、ほぼ勘頼りの爆撃訓練は危険と隣り合わせであった。

 爆弾を命中させるには目標上空1,000mから30°の角度で緩降下、体当たり寸前で爆弾を投下して離脱するというアクロバティックな技であった(杉野P474)。この訓練は内地から始まり、トラック島でも標的艦矢風を使って行われた。トラック島では接近しすぎた1機が標的艦矢風に衝突、搭乗員が死亡してしまうという悲劇も起こった(杉野P474、谷水P48)。それほど危険な攻撃だったのである。しかしこのA攻撃隊を含む瑞鶴戦闘機隊は「ろ」号作戦によりラバウルに進出。実戦で緩降下爆撃を行う機会はなかったようである。

 

そもそも強度がたりないのでね

 大々的に実戦で使用されたのは「あ」号作戦で、第一航空艦隊の戦闘機234機中、零戦21型83機を爆装出撃した(零戦P136)。これは当時の艦上爆撃機彗星が大型高速化していたために軽空母からの発着艦が出来ないことに対する対策という意味もあったようだが、そもそも徹底した軽量化で強度が弱く、何度も空中分解事故を起こしている零戦21型でこの爆撃を行うのは無謀であった。現にベテラン艦攻搭乗員である肥田真幸大尉や梅林上飛曹も零戦に搭乗した際の急降下で翼面に皺が寄っていることやフラッター等を問題としている(肥田P208、梅林P267)。さらに爆弾搭載用の金具の空気抵抗も大きかった。このため、速度や航続距離が低下した他、爆弾投下装置の不具合でそもそも爆弾が投下できないという致命的な問題も発生した。

 

 

機体とエンジンのバージョンを表しているのだ!

02_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

 こうした経験を基にして開発されたのが戦闘爆撃機型零戦の62型又は63型である。「いや、62型と63型ってどっちなのさ?」と思われるかもしれない。ここでこの「62型又は63型」という妙な呼び方について説明しよう。

 零戦62型又は63型、略符号A6M7。海軍航空機の型名の規則については何度も書いているが、簡単に説明したい。○○型というのは一桁目がエンジンのバージョン、二桁目が機体のバージョンである。零戦は11→21→32→22→52→53型と来ているが、21型ではエンジンは変わらないが機体の構造が変更されたため二桁目のみが「2」となり、32型では機体もエンジンも変更されたため「21」から「32」に変更されている。このような法則で52型、53型まで来て、今回の62又は63型となったのだ。

 

エンジン替えてみた(*´∀`*)エヘ!

03_栄31型甲
(栄31型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦62又は63型という変な呼び方を書いているのは、要するにエンジンで「すったもんだ」があったのだ。零戦のエンジンは有名な栄エンジンである。初代が栄12型で、これは11型、21型に搭載されていたエンジンである。そこに二速過給器を装備した栄21型エンジンが完成、32型以降の零戦は全てこのエンジンを搭載した。

 そこに水メタノール噴射式の栄31型エンジンが完成、これは試験的に52型に取り付けられ、53型として試作された。そして海軍はこの新型栄31型エンジンを次期零戦に装備しようと決めた。つまり52型の機体もエンジンも変更するので63型だ。しかし悲しいかな、当時の日本の基礎工業力は貧弱であった。やっと水メタノール噴射式のエンジンを製作したもののうまく作動しない。作動も不完全で馬力も栄21型と大して変わらず、整備だけは煩雑になったという良い所が一つもない状態であった。

 「いやいやさすがにこのエンジンは使えないでしょ」ということで、栄21型に戻すのかと思ったらそうではない。栄31型エンジンから水メタノール噴射装置を廃した栄31型甲エンジンを新たに製作。これを次期零戦に装着した。「いやいやちょっと待てよ。栄31型エンジンの最大の特徴である水メタノール噴射装置を廃してしまったら、ただの栄21型なのでは???」。考えてみれば当然の論理展開である。「だったらもう62型でいいんじゃね?」という感じで栄31型甲を搭載した次期零戦は62型と呼ばれるようになったのではないかと推測されている(秋本P68)。但し、水メタノール噴射装置を装備した栄31型エンジンを搭載した63型も極少数が生産されたようだが、ほとんどが62型であったようだ。

 

 

機体も替えてみた (・ω<)エヘ!

04_零戦63型
(画像はwikipediaより転載)

 

 まあ、エンジンはともかく機体はどこがどう変わったのだろうか。もっとも変わったのは強度だ。零戦は代々機体の強度が低いのが個性といえる。しかしこれは急降下爆撃機仕様としては当然致命傷になるため、何よりも強度を高める改良が行われた。外観上はそんなに変わらないが、外板や隔壁が分厚くなった。そして胴体下に埋め込み式の爆弾投下装置が設けられた。

 この改良によって増槽が装着できなくなってしまったために、増槽を翼下に装着できるように変更された。この増槽は150Lを左右に1個ずつ搭載できる。合計で300L。それまでの零戦の胴体下の増槽が300〜330Lだったのでほぼ同量の燃料を搭載することが可能となった。他にもエンジンを変更したことでエンジンカバーであるカウリングの設計変更も行われている。

 この改良により62型の最高速度は、543km/h(52型は565km/h)となり、高度6,000mまでの上昇時間は7分58秒(52型は7分01秒)、実用上昇限度は10,180m(52型は11,740m)と全ての点で52型を下回っていた。ただ一つだけ52型を上回っていたのは重量で、52型の2,733kgに対して、3,150kgと大幅に上回っていた。武装は翼内に九九式2号20mm機銃2挺(携行弾数各125発)、翼内と機種に13mm機銃3挺(携行弾数各240発)を装備、爆弾は500kg爆弾までが搭載可能であった。

 

もう無理っス!(´;ω;`)ウゥゥ

 この零戦62型、実戦でもスペック通りの性能を発揮したようで、極めて鈍重で戦闘には不向きな機体であったという(土方P225)。さらには新型の栄31型エンジンも信頼性が低くエンジントラブルも多かったようである(土方P246)。同じ部隊にいた安倍正治一飛曹は63型で飛行中、エンジンが止まりそうになっているし(安倍P225)、零戦63型を空輸した草間大尉も同様にエンジンが止まりそうになっている(草間P396)。

 62型の生産は、1945年5月から始まり終戦まで行われ、総生産数は約490機と推定される(秋本P66)。結局、この零戦62型、63型が量産された零戦の最後となった。日中戦争当時の新鋭機も太平洋戦争末期になるとさすがに限界が見えてきた。原因はエンジンの馬力不足で、傑作エンジン栄にが零戦の高性能の源となり、栄の限界が零戦の限界となった。そしてこれが日本の基礎技術力、工業力の限界であったのかもしれない。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 杉野計雄「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』 光人社 2000年
  4. 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』 原書房 1987年
  5. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  6. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年
  7. 土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』 光人社 2004年
  8. 安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』 光人社 1995年
  9. 草間薫「幻の零戦・六三型丙」『零戦、かく戦えり!』 文芸春秋 2004年

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52189130.html

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 

 


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