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本庄季郎

01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


ミリタリーランキング

01_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 一式陸攻は1941年に制式採用された双発爆撃機でその性能は当時としては随一のものであった。そのため多くの改良型が開発されたが、防弾装備を軽視したため戦場では「ワンショットライター」と呼ばれるほど脆く、多くの機体が撃墜されていったが、機体性能は素晴らしく傑作機といっていい。

 

一式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 24.88m
全長 19.63m
全高 6.00m
自重 8,050kg
最大速度 437.1km/h(高度4,600m 250kg爆弾4発搭載時)
上昇限度 8,950m
エンジン出力 1,850馬力(2基)
航続距離 6,060km(偵察時)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃3挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または500kg爆弾1発または
   250kg爆弾4発または
   60kg爆弾12発
設計・開発 本庄季郎 / 三菱

 

開発

02_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年9月末、海軍は、三菱に対して仮称一二試陸上攻撃機(G4M)の開発を命じた。要求された性能は最高速度398.1km/h(高度4,000m)、航続距離4,815km、800kg爆弾または魚雷搭載可能であること、乗員7〜9名、発動機は金星(1,000馬力)を使用することというものであった。これは当時、制式採用されていた九六式陸攻と爆弾搭載量は同じにして速度は50km/h以上、航続距離は800km以上を増大させるという苛烈なものであった。

 これに対して三菱は九六式陸攻の設計主務者であった本庄季郎技師を設計主務者として検討を開始した。本庄技師は当初は発動機4発の重爆を想定していた。これは双発でも要求性能は発揮することはできたが、防御面が不十分になるためエンジン2発のパワーで本来の性能、もう2発で防御関係の重量を支えるという構想であった。しかし、この構想は海軍側の猛反発に遭い、結果双発高速陸攻が完成するが、同時に防御装備が貧弱であり連合軍からは「ワンショットライター」と呼ばれることとなる。

 爆弾倉を胴体内に持つため胴体はいわゆる「葉巻型」となった。これは空力的には非常に優れた設計であった。翼内には燃料タンクが設けられ、さらに偵察任務の場合には爆弾倉内に増設タンクを搭載することが可能、脚は電動式で機体内に完全収納されるものであった。エンジンは当初は金星エンジンを採用する予定であったがより高性能な火星11型(1,530馬力)が完成したため火星エンジンを採用している。機銃は7.7mm機銃が前方に1挺、胴体上方に1挺、左右側面に各1挺、後方に20mm機銃が1挺の合計5挺が装備された。

 1939年9月、試作1号機が完成、翌10月23日初飛行が行われ、最高速度が444.5km/h(性能要求398.1km/h)、航続距離は5,556km(同4,815km)と性能要求を大幅に超えたもので関係者を驚かせたという。そして一連の審査が終わった1940年1月24日海軍に領収、順調に進んでいたが、掩護機型生産のため(下記参照)作業は大幅に遅れ、1年以上経た1941年4月2日一式陸上攻撃機として制式採用された。

 

海軍の型番の命名規則

 以下、一式陸攻のバリエーションについて解説するが、海軍の型番の命名規則は一の位がエンジンの変更、十の位が機体の変更を表している。つまり最初期型は11型で、機体設計に変更を加えると21型、エンジンに変更を加えると22型となる。さらにエンジンに変更を加えると23型という風に変わっていく。

 

G4M1シリーズ 型番10番台

 

03_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

一式大型陸上練習機11型・一式陸上輸送機11型

 一式陸攻が制式採用される以前、十二試陸上攻撃機の高性能に注目した海軍は掩護機型を思い付く(G6M1)。三菱側は性能が低下すると反対したが、海軍は方針を変えず生産を命じた。改良点は爆弾倉を廃し、代わりに胴体下面に砲塔を設置、前後に20mm旋回銃2挺を搭載、上方銃座を20mm機銃に変更、燃料タンクの防弾化などである。1940年8月に試作機が完成したが予想通り重量超過となり失敗した。この試作機は練習機や輸送機に変更され、一式大型練習機11型(G6M1-L)、一式陸上輸送機11型(G6M1-L2)として制式採用された。

 

11型(12型とも)

 高高度性能を強化する目的でエンジンを火星15型に変更したもの。これにより最高速度が11型に比べ18.5km/h速くなった他、上昇時間、上昇限度も向上した。最高速度463km/h、航続距離6,030kmとなった。途中の生産機から燃料タンクに厚さ30mmの防弾ゴムを装備、防弾性能が強化された。11型、12型併せ略符号はG4M1である。

 

G4M2シリーズ 型番20番台

 

04_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

22型(G4M2)

 22型は1942年11月24日に試作1号機が完成する。12型との変更点は、主翼、水平尾翼の形状を変更、プロペラを4翅に変更、燃料タンクの容量の増加、尾輪を引込脚に変更、上部機銃を20mm機銃に換装した他脚の補強も行われた。重量が増加したためエンジンを火星21型(1,850馬力)に変更している。22型甲は電探装備機で、22型乙は胴体上方の機銃が変更されている。最高速度437.1km/h、上昇限度8,950m、航続距離は2,500km。

 

24型(G4M2A)

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に変更した機体。1944年に1号機が完成する。24型甲は側方銃を20mm1号銃に変更したタイプで、24型乙は24型甲の上方銃を変更したもの。24型丙は24型乙の前方銃を12.7mm機銃に変更したタイプである。24型丁は特別攻撃機桜花の母体とするために設計されたタイプで桜花用の懸吊装置を設置した他、防弾鋼板の設置などがされている。一部の24型丁には離陸補助用の四式噴進器2本が装備されている。

 

25型、26型、27型

 25型は、エンジンを火星27型(馬力不明)にしたものであったが、発動機工場が被爆してしまったため1機のみ製造された。26型はエンジンを火星25型乙に変更したもので2機が試作された。内1機は26型丁として桜花の母機となっている。

 27型はエンジンを火星25型ル付に変更したもので1機が改造された。

 

G4M3シリーズ 型番30番台

 

34型

 34型は、連合艦隊側から航続距離を犠牲にしても防弾性能を強化して欲しいという要望の下にエンジンは火星25型のままで機体の防弾性能を強化したタイプである。燃料タンクを防弾ゴムで覆ったものであったが、設計の途中で設計主務者である高橋巳治郎技師が病に倒れたため完成は遅れた。1944年1月試作1号機が完成、初飛行を行った。最高速度は481km/hと24型よりも向上していたが、重量が増大したため強度不足が生じその対策に手間取った。

 さらに海軍側から航続距離を延長せよという要求が出されたため作業は再び遅れた。そして再び海軍から武装を強化せよという要求が出された結果、完成は遅れに遅れ1944年10月に34型生産1号機が完成した。こうして生産が開始された34型であったが、そのころには攻撃機の主力は陸爆銀河や四式重爆飛龍(陸軍)に代わっており、一式陸攻は輸送や対潜哨戒に使用されていた。このため34型も輸送用や対潜哨戒用に改造された34型甲、上方機銃を長銃身の99式2号銃に変更した34型乙、機首前方機銃を13mm機銃に変更した34型丙もある。

 36型(G4M3D)はエンジンを火星25型乙に換装したもので、桜花の母機として36型丁も製作される予定であった。37型はエンジンを火星25型ル付に換装したもので2機が改造されテスト中に終戦となった。

 

生産数

 G4M1シリーズは、試作機が2機、11型が403機、12型が797機の合計1,202機、G4M2シリーズが、22型から27型までは三菱名古屋製作所で640機、水島製作所で512機(513機とも)の合計1,152機(1,153機とも)、G4M3シリーズが、約516〜530機ほど生産された。総生産数は2,420機、または2,435機である。

 

戦歴

 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空で、1941年5月、九六式陸攻から一式陸攻に改変されている。初めての実戦参加は同年7月27日の成都空襲で、以降、高雄空の一式陸攻は中国戦線での攻撃に度々参加している。そして9月には新たに鹿屋空が一式陸攻に改変を開始、両部隊ともにその後仏印進駐に参加している。

 太平洋戦争開戦時に一式陸攻を装備していたのも両部隊で、開戦劈頭フィリピンの各基地の攻撃に参加、12月10日には鹿屋空の一式陸攻隊がマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに雷撃を行っている。その後、零戦隊と共に比島・蘭印の各作戦に参加、この中で2月28日には高雄空の一式陸攻隊が水上機母艦ラングレーを撃沈している。

 

南東方面(ソロモン・ラバウル)の一式陸攻

 当初2航空隊のみであった一式陸攻隊であったが、1942年2月には新たに三沢空、4空にそれぞれ一式陸攻が配備、4空は2月14日にはラバウルに進出、20日には戦闘機の援護を受けずに米機動部隊攻撃を実施、参加17機中12機が被撃墜、2機が不時着という大損害を受け(ニューギニア沖海戦)、戦力回復後に行われた珊瑚海海戦においても出撃12機中隊長機以下4機を失うという損害を受けていた。このため内地で哨戒任務に就いていた三沢空にもラバウル進出が命ぜられ、8月には三沢空もラバウルに進出した。この頃になると九六式陸攻から一式陸攻への改変は進み、1空、千歳空が新たに一式陸攻を装備するようになっている。

 1942年8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が開始、4空、三沢空の一式陸攻隊は出撃87機中24機と実に30%の戦力を失うという大損害を受けており、これ以降でも8月中にさらに11機が撃墜されている。このため同月中に木更津空、9月には千歳空と高雄空の一部がラバウルに鹿屋空(751空)の一部(27機)がカビエンに進出、同時に戦力を消耗し尽くした4空(702空)が内地に帰還したもののラバウルには三沢空(705空)、木更津空(707空)、千歳空(703空)、高雄空(753空)の4個飛行隊79機が集結した。その後、12月には707空は戦力を消耗して解隊、代わりに九六式陸攻装備の701空(旧美幌空)が進出している。その後これらの航空隊と再度進出した702空によりラバウル航空戦が展開されるが、1944年2月には751空がトラック島に後退、おびただしい犠牲を出した一式陸攻隊によるソロモン航空戦は終止符を打った。

 

千島列島、中部太平洋の一式陸攻

 一方、北東方面(千島列島)では752空(旧1空)の一式陸攻隊45機が幌筵島に進出、アッツ島に来襲した米艦隊への攻撃を行ったものの戦果はなく、アッツ島の玉砕ののちの1943年11月にはマーシャル諸島に移動している。中部太平洋では開戦当初は千歳空(703空)と1空(752空)が展開していたが、ラバウル方面の戦局が逼迫したため千歳空はラバウルに進出、中部太平洋は1空のみとなったが1942年11月には755空(旧元山空)がウェーク島に進出した。1944年に入ると平和であったマーシャル諸島も米機動部隊の攻撃を受けるようになり、2月に入ると米軍が上陸、さらにトラック島も米機動部隊の空襲を受けるようになった。

 

終戦まで

 この後、米軍の攻撃はマリアナ諸島、台湾、比島にも及ぶことになるが、戦力の差が決定的になってしまった状態では一式陸攻も戦果は少なく消耗する一方であった。この戦争後期に特筆すべきなのは721空で、通称神雷部隊と呼ばれるこの航空隊は「人間爆弾」桜花を搭載する部隊であった。飛行隊長は野中五郎少佐で一式陸攻24丁型で各1機特攻機桜花が搭載可能であった。初出撃は3月21日で一式陸攻18機が出撃、全機撃墜されている。以降、6月22日までに計10回出撃が行われているが損害に対して目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

05_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)
雷撃中の一式陸攻。一式陸攻の胴体の高さが2.5mであることを考えると海面ギリギリで雷撃する一式陸攻の搭乗員の練度の凄さが良く分かる。

 

 一式陸攻は完成当時世界トップクラスの飛行性能を持った双発爆撃機であったが、実戦では防弾装備を軽視した結果、機銃弾が命中すると即座に発火、連合軍パイロットから「ワンショットライター」と呼ばれる機体となった。これは海軍が防弾能力を軽視した結果であった。このため海軍は太平洋戦争初戦期で多くの優秀な搭乗員を失ってしまった。

 

 

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01_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式陸攻は全金属製双発攻撃機でそれまでの攻撃機を超越する高性能を示した。最高速度は当時の艦上戦闘機を上回り、航続距離、運動性能全てが優秀であったが、防弾性能は皆無である。九六式陸攻は日中戦争から太平洋戦争終戦まで活躍する。

 

九六式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(11型)

全幅 25.0m
全長 16.45m
全高 3.685m
自重 4,770kg
最大速度 348km/h(高度2,000m)
上昇力  -
上昇限度 7,480m
エンジン出力 910馬力
航続距離 4,550km(過荷重状態)
武装 7.7mm旋回銃3挺
設計・開発 本庄季郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 ワシントン、ロンドン軍縮条約で対米6割とされた日本海軍は、航空機によってその劣勢を補おうとした。そこで目を付けたのが雷撃可能な陸上攻撃機であった。最初に七試大型攻撃機(のちの九五式大攻)の開発を指示、さらに中距離陸上機の開発を三菱重工に命じた。これが八試特殊偵察機(八試特偵)と呼ばれる機体でこれが改良され九六式中攻となる。

 

開発

 

八試特偵

 1933年、三菱は海軍より八試特偵の開発を指示された。九六式艦戦の時と同じように当時の航空本部長山本五十六少将の判断により細部にわたる指示はせずに性能要求は大枠のみを示し、技師に自由に腕を振るわせるという方針であった。このため三菱に提示された性能要求は「乗員3名、巡航速度222km/h以上、航続距離3,330km、自動操縦装置が装備されていること程度の簡単なものであった。

 これに対し三菱は本庄季郎技師を設計主務者として開発を開始、1934年4月18日、試作1号機が完成する。この八試特偵は、全金属製中翼単葉双発機で日本初の引込脚を装備、沈頭鋲の使用、自動操縦装置の装備等斬新なものであった。なお、試作中に計画が変更され、乗員が5名、7.7mm機銃2挺が設置されることとなった。

 1934年5月7日初飛行が行われた。当初は重量超過や重心位置や剛性不足等の問題が発生したが、テスト飛行の結果は非常に優秀であった。馬力不足から上昇力に問題があり、実用上昇限度は4,600mと今ひとつであり、巡航速度は203km/hと性能要求を下回ったものの、全体的な性能は素晴らしく、特に航続距離は4,380kmと性能要求を1,000kmも上回るものであった。操縦性能も抜群で安定性も良好、その軽快さは戦闘機並みであり、テストパイロット達から絶賛された。

 

九試中攻(九六式陸攻)

02_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年2月、八試特偵の実用機型ともいえる九試中攻の開発が指示された。設計主務者は八試特偵と同じく本庄季郎技師で1935年6月に試作1号機が完成する。機体は最新の超ジュラルミンが使用され、主翼と尾翼は八試特偵のものをほぼそのまま流用したが、胴体は完全に再設計され操縦席は正副並列式となった。

 機銃は前上方、後上方、後下方の3ヵ所に7.7mm機銃が設置され、爆弾・魚雷の懸吊、投下装置が設置された(爆弾等は機外に懸吊される)。エンジンは九一式600馬力エンジン2基が装備された。初飛行は1935年7月で最高速度は315km/hを記録、3,000mまでの上昇時間も八試特偵の16分54秒に対して9分43秒と航続距離以外の全てにおいて八試特偵を凌駕していた。一時期、座席の配置が問題となり時間を浪費したが、1936年6月には、九六式陸上攻撃機として制式採用された。

 

11型

 最初期の量産型で34機が製造された。エンジンは金星3型(790馬力)で最高速度は348km/hであった。続いて21型が生産された。これは金星41型または42型(どちらも1,075馬力)エンジンに換装された型で最大速度は376km/hに達した。乗員5名。

 

22型

 1939年4月、それまで後上方の機銃が7.7mmであったのを20mm機銃に変更、胴体側面に7.7mm機銃を各1挺新設、機銃を合計4挺とした武装強化型の22型が制式採用された。後上方銃座は涙滴形風防が採用されている。乗員は7名となった。エンジンは途中の生産機から金星45型(1,000馬力)に変更されている。

 

23型

 1941年2月、一式陸攻の生産に集中するために三菱での九六式陸攻の生産は打ち切られ、中島飛行機に生産が移行された。この中島飛行機で最終生産型の23型が生産されている。23型はエンジンを金星51型(1,300馬力)に変更、最大速度は415km/hとなった。

 

その他バリエーション

 九六式陸上輸送機は11型、21型がある。11型は乗員5名、乗客10名を乗せることができ、12型は乗員以外に落下傘兵12名を乗せることができた。その他民間型もあり、これは乗員4名と乗客8名を乗せることができる。ニッポン号と呼ばれた。

 

生産数

 試作機が21機、11型で34機、21型が343機、22型が238機、23型が412機生産されている。

 

戦歴

 最初に九六式陸攻が配備されたのは館山空で1936年早春のことであった。さらに4月1日には海軍初の陸攻専門部隊である木更津空が誕生、6月には九六式陸攻が配備された。1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると木更津空は長崎県大村基地に鹿屋空は台北に進出、8月14日には18機の九六式陸攻が中華民国軍の飛行場等を爆撃に成功している。この際、九六式陸攻の被撃墜2機、不時着1機、大破1機の損害が発生、以降、3日間に渡って中国本土の基地を攻撃したものの陸攻隊も9機を失うという損害を出している。これが有名な渡洋爆撃の最初であったが、中華民国軍の反撃は激しく、17日には木更津空、鹿屋空ともに兵力が半減してしまっている。

 これ以降、木更津空、鹿屋空で編成された第一連合航空隊(一連空)は陸戦協力や敵飛行場、交通施設等への爆撃、1938年2月には重慶への無差別爆撃も行ったものの、陸攻隊の損害も30機に達したため、3月には内地に帰還した。これと入れ替わりに同月、台湾の高雄で新しく高雄空が編成、さらに1939年10月には千歳基地で千歳空、1940年10月には美幌空、11月には元山空が開隊するなど、徐々に陸攻隊が充実していく。

 1941年になると新鋭の一式陸攻が部隊に配備されるようになり、鹿屋空、高雄空が一式陸攻に改変されていった。しかし未だ一式陸攻は全部隊に配備されるまでには至っておらず、太平洋戦争開戦時には一空、元山空、千歳空が九六式陸攻を装備していた。太平洋戦争開戦後は美幌空、元山空の陸攻隊がマレー沖海戦に参加、航行中の戦艦を撃沈するという快挙を成し遂げた。同時に比島では一空の九六式陸攻がクラーク基地に対して爆撃を行い、中部太平洋では千歳空の九六式陸攻がウェーク島攻撃を実施している。

 1942年1月には一空、元山空がラバウルへ進出、珊瑚海海戦等にも参加したものの7月には一空が内地へ帰還、兵力の補充のため、11月には701空(旧美幌空)がラバウルに進出しているが、この頃には主力は一式陸攻に代わっており、九六式陸攻は徐々に第一線から後退していったものの、終戦まで哨戒、索敵、船団護衛等に活躍した。

 

まとめ

 

 九六式陸攻は当時の戦闘機を凌ぐ高速であったため海軍内部に戦闘機不要論を引き起こす結果となった。しかしこれは防弾性能を全て犠牲にした結果であり、実際に戦闘に参加した九六式陸攻は防弾装備の欠落のため多大な損害を受けることとなる。そして防弾装備を強化されることなく終戦まで使用され続けた。

 

 

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