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日露戦争

01_ガーター勲章を佩用する明治天皇
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 栄光ある孤立を選んでいた英国であったが、中国におけるロシア・フランス・ドイツの進出を防ぐために日本との同盟を選んだ。直後に起こった日露戦争での日本の強さを知った英国はより強力な同盟を締結する。しかし日英両国の接近は両国に挟まれた米国の警戒心を生む。結局、日英に米仏を含めた四か国条約を締結することで日英同盟は解消された。

 

日英同盟

 

同盟締結までの情勢

 清国はアヘン戦争以降、英国の半植民地のような状態であったが、1895年に日清戦争によって日本が勝利すると状況は一変することになる。日本に対して巨額の賠償金の支払い義務がある清国は資金を捻出するためにロシアとフランスから金を借りることにした。その見返りとして自国への権益を認めざるを得なかった。

 ロシアは満洲から中国に勢力を拡大、同時にフランスも自国領であるベトナムから中国に勢力を拡大してきた。さらにドイツが山東半島に出兵して勢力圏としたのに対して英国もいよいよ単独で対処するには限界となり、どこかの国と軍事同盟を結ぼうと考えるようになった。

 その国とは日本の事で、日本もロシアの南下に対して警戒感を強めていた。このまま南下が続けば、その先には日本がある。どこかで南下を食い止めたかったのだ。日本ではロシアと協約を結び、ロシアが朝鮮半島へ侵入するのを防ぐ案と英国と同盟を結びロシアと開戦するという案の二つが対立したが、結局、英国と同盟を結ぶこととなった。

 

第一次日英同盟(1902年)

 1902年、日英同盟が成立する。この同盟は1国が戦争状態になった時、同盟国は中立を守ること。そして2国以上と交戦状態になった場合は同盟国側に立ち参戦することが決められた。つまりは一対一の「サシの勝負」は見守るだけだが、相手に助太刀が入った場合は「お味方致す」ということだ。この時の秘密交渉では日本はロシアと開戦する予定であると英国に伝えている。期限は5年間でああった。

 

 

第二次日英同盟(1905年)

 2年後の1904年、日露戦争が開戦する。大方の予想に反して戦局は日本にとって有利となった。1905年、奉天会戦での勝利、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃滅と同盟国が予想以上に強かったので気を良くした英国は、さらに進めて同盟国が1国以上と交戦した場合は参戦するというより積極的な同盟に変更された。つまりは「サシの勝負」でも日英の2国で戦うということだ。さらに期限も10年と延長されることとなった。この第二次日英同盟時に日本の大韓帝国保護国化を英国が承認することが確認された。これは割と重要なことだ。

 

第三次日英同盟(1911年)

 日露戦争以降、米国は膨張していく日本に対して警戒感を強めていた。米国にとって日本と英国とは大洋を挟んだ隣国なのだ。自国を挟んだ隣国同士が軍事同盟を結んでいるというのは脅威でしかない。このため米国の希望により第三次日英同盟では米国を交戦相手国の対象外とすることが決められた。但し、この決定は日英同盟の自動参戦規定とは矛盾することになる。

 

同盟解消(1923年)

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種差別撤廃を主張した。これは主に移民に対する差別を禁止することを目的としたものであった。これに対して英国が反対にまわったことは両国のわだかまりとして残った。さらに日英同盟を警戒する米国の思惑が重なった結果、1921年のワシントン会議で新たに日英同盟に米国とフランスを加えた四か国条約を締結することとなった。これは日英同盟のような強力な軍事同盟ではなく、相互尊重、現状維持という内容のあまり実体のあるものではなかった。1923年、四か国条約発効とともに日英同盟は破棄されることになった。

 

 

 

 

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01_南満州鉄道本社
(画像は南満州鉄道本社社屋 wikipediaより転載)

 

超要約

 

 日露戦争後、日露関係は急速に改善、1907年に日露協約を結んだ。これは極東での両国の特殊権益を認め合うというもので双方にとってメリットのあるものであった。1916年に第4次日露協約が締結されたが、翌年のロシア革命によって成立したソビエト連邦政府によって破棄された。

 

 

日露協約とはなにか

 

そのまえの国際情勢

 日露戦争が終わるとロシアは進出の矛先を満洲からバルカン半島に移すことになる。そしてロシアがドイツと緊張関係になると、ドイツに敵対している英国はロシアに接近する。1907年、ロシアは英国とは英露協商、日本とは日露協約を結ぶこととなった。これ以降、利害が一致したこの三国の関係は緊密になっていく。

 

第一次日露協約

 日本とロシアの間で結ばれた日露協約は1907年から1916年まで合計4回に及ぶ。内容は主に両国の極東での特殊権益を相互に認めることで一貫している。まず最初の1907年の第一次日露協約では、日露間の条約と日露が清国との間に結んだ条約を尊重することが決められた。さらに清国の独立、門戸開放、機会均等等が決められた。「清国の独立」とは要するに清国はどこかの国の所有ではなく、みんなで美味しく頂きましょうということだ。決して清国の側に立ったものではない。

 この第一次日露協約には秘密条約があった。それはロシアが持っている北満洲、外蒙古での特殊権益を認める代わりに日本の南満州、朝鮮半島での特殊権益も認めるというものだ。因みに「特殊権益」とは、簡単にいうと「戦争で奪い取った権益」のオブラートに包んだ言い方だ。

 

第二次日露協約

 1910年に第二次日露協約が結ばれる。これは米国の国務長官ノックスによって提案された満洲の鉄道を全て清国に返還、その後、米・英・仏・露・清・日の六か国によって共同管理を使用という提案だ。中国市場に出遅れた米国はどうしても中国の権益が欲しかったのだが、米・清国以外には何のメリットもないためその他4ヶ国によって拒否されてしまった。

 第二次日露協約とはこの提案を拒否することを日露両国が確認したものである。

 

第三次日露協約

 1912年、第三次日露協約が結ばれる。これは同年に中国で起こった辛亥革命に対応するためのもので、内蒙古の西部をロシア、東部を日本が利益を分割するということを取り決めたもの。

 

第四次日露協約

 1916年に結ばれた最後の日露協約。第一次世界大戦中の協約で日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、そしていつも通りの極東における両国の特殊権益の擁護を再確認したものだ。第一次世界大戦でドイツ・オーストラリア、イタリアの三国同盟に対抗したのは、主に英・仏・露・日である。英・仏・露は前述の英露協商にフランスが加わった三国協商、さらに日露協約という協約によって成り立っている。それを再確認したかったのだ。因みに露仏は1894年に露仏同盟、英仏は1904年に英仏同盟、日本と英は1902年に日英同盟を結んでいる。ガチガチの同盟関係をさらに確認したことになる。

 しかし1917年にとんでもないことが起こる。ロシア革命だ。ロシア革命により帝政ロシアは滅亡してしまった。新しく権力を握ったソビエト連邦政府は日露協約を破棄。10年近く続いた日露の同盟関係は終わりを告げた。

 

 

 

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08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

はじめに

 

 装甲巡洋艦とは、巡洋艦が重軽に分類される前に存在していた区分で、戦艦に比べて軽量、高速である巡洋艦をある程度重装甲とした艦種である。妙にふわっとしているが、艦種分類はその時代と国によって異なっており、明確に定義することは難しい。大雑把に書くと、戦艦には及ばないにしても格下の艦相手には十分な装甲を持ち、速力も戦艦よりも若干上回るというようなもので、要するに準戦艦と考えて良い。

 日本海軍では、1899年から1911年まで12隻の装甲巡洋艦が建造されており、この内、8隻が日露戦争に参加した。当然のことながら、これらの艦艇の存在がなければ日露戦争で日本海軍が歴史的勝利を収めることはなかった。そしてこれらの装甲巡洋艦たちは、日露戦争後も多くの任務に就き、中には太平洋戦争終戦まで戦った艦もあった。今回は、この日露戦争に参加した装甲巡洋艦8隻の戦歴とその後について簡単にみてみたい。

 

 

春日型装甲巡洋艦

 

春日(第1艦隊第1戦隊)

※以下カッコ内は日露戦争時の所属

02_春日
(画像は春日 wikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦春日は、1902年3月、イタリア国アンサルド社にてアルゼンチン海軍装甲巡洋艦リッヴァダヴィダとして起工、1903年に日本海軍が購入し艦名を春日と変更した。1904年1月竣工、2月には横須賀に回航される。排水量は7,700トンで全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員562名である。兵装は、25.4cm(40口径)単装砲1門、20.3cm(45口径)連装砲2門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門で、さらに45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する

 1904年2月に日露戦争が勃発すると、4月には旅順口攻撃、8月に黄海海戦に参加したのち、翌年5月、日本海海戦に参加した。そして終戦直前の7月には樺太占領作戦にも参加している。そして第一次世界大戦が勃発すると南シナ海、インド洋で活躍するも1917年、1918年に2度の座礁事故に遭う。1921年9月には一等海防艦に類別変更、海防艦としてシベリア出兵の支援任務に活躍する。1925年には類別海防艦のまま横須賀鎮守府警備艦兼練習艦となった。太平洋戦争開戦後の1942年7月1日、特務艦に類別変更。終戦間際の1945年7月18日、空襲を受け大破着底、1948年に引き上げられ解体された。

 装甲巡洋艦春日は日露戦争、第一次世界大戦をくぐり抜け、太平洋戦争では軍艦籍を除かれたものの練習艦として終戦直前まで活躍した。歴代艦長には岡田啓介、米内光政というのちの総理大臣もいる

 

日進(第1艦隊第1戦隊)

03_日進
(画像は日進 wikipediaより転載)

 日進は春日型装甲巡洋艦の2番艦で、春日同様にイタリア国アンサルド社で建造、アルゼンチン海軍から買い取った艦である。春日とほぼ同時期の1902年3月起工、1904年1月に就役している。排水量は7,700で全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員は568名で兵装は、20.3cm(45口径)連装砲4門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門に45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 1904年2月に日本に回航された後、4月には日露戦争旅順口攻撃に参加、その後、黄海海戦、日本海海戦に参加した後、終戦直前には樺太占領作戦にも参加する。日露戦争後の1912年、乗員による火薬庫放火により弾薬庫が爆発する。第一次世界大戦では太平洋、東南アジア海域の警備、地中海派遣艦隊として活躍した。1921年9月、一等海防艦に類別変更、翌年のシベリア出兵では警備を担当する。1935年4月に除籍、廃艦となる。廃艦後は標的艦として使用、同年10月9日に実験弾が1発命中、想定では1発では沈まないはずであったが老朽化のためそのまま沈没してしまった。その後引き揚げられ解体された。

 この艦には日露戦争時、少尉候補生だった山本五十六が乗艦していたり、アルゼンチン海軍の観戦武官も乗艦していたという艦であった。同型艦春日とは異なり廃艦となり沈没するという寂しい最後であった。

 

出雲(第2艦隊第2戦隊)

04_出雲
(画像は出雲 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦の1番艦である。1898年5月に英国アームストロング社で起工、1900年9月に竣工すると同年12月に日本へ回航された。排水量9,750トン、全長122m、全幅21m、最大速度20ノットで乗員672名、兵装は20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。日露戦争ではロシアのウラジオ艦隊に対抗するため対馬海峡に展開、蔚山沖海戦、日本海海戦には第二艦隊旗艦として参加、日本海海戦では東郷司令長官の命令を無視。結果、「世紀のパーフェクトゲーム」に貢献した。

 戦後は第一艦隊旗艦、第一次世界大戦では遣米艦隊旗艦、続いて第二特務艦隊旗艦とし地中海に派遣、連合国の船団護衛に活躍した。1920年代初頭に一等海防艦に類別変更、その後練習艦、海防艦として活躍するが、1932年2月、日中関係の悪化によって中国方面の艦隊を統率する第三艦隊の旗艦となる。その後さらに第四艦隊も加えた支那方面艦隊の旗艦となる。その後、支那方面艦隊は規模を縮小され、第三艦隊は第一遣支艦隊と改名、引き続き同艦隊旗艦を務める。

 1942年7月、海防艦の定義変更(占守型海防艦等が順次完成していた)により、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、竣工42年目にして再び巡洋艦となった。1943年8月20日、出雲は内地に帰還、練習艦として運用。1945年7月24日、米軍の空襲により至近弾を受け大破着底、1947年に引き上げられ解体された。艦歴の多くを旗艦として生きた稀有な艦であった。

 

磐手(第2艦隊第2戦隊)

05_磐手
(画像は磐手 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦2番艦。出雲よりも6ヶ月遅い1898年11月、英国アームストロング社にて起工、1901年3月に竣工、同年5月に日本に回航された。排水量9,750トン、全長132m、全幅21m、最大速度21ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基、45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 日露戦争では1番艦出雲と第二艦隊第二戦隊を編成、蔚山沖海戦や日本海海戦に活躍した。戦後は出雲と同様に1920年代初頭に海防艦に類別変更、他の艦に比して居住性が良かったため練習艦として使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、1945年7月26日、米軍の呉軍港空襲により沈没、戦後引き揚げられた後解体された。歴代艦長にはのちに総理大臣となった米内光政、猛将で知られる角田覚治、潜水艦隊司令長官として有名な醍醐忠重などがいる。

 

 

吾妻(第2艦隊第2戦隊所属)

05_吾妻
(画像は吾妻 wikipediaより転載)

 

 基本的に英国の艦船を購入していた日本海軍には珍しいフランス製装甲巡洋艦である。1898年にフランス国ロワール社にて起工、1900年7月に竣工した。排水量9,326トンで同時期の英国製装甲巡洋艦出雲型に比べ若干少ないもののほぼ同じである。しかし全長は出雲型132mに対して136mと4mも長く、逆に全幅は18mと出雲型に比べ3m細かった。つまり出雲型に比べ、前後に長く、細い艦艇であった。最大速度は20ノットと出雲型に比べて1ノット劣る。乗員は644名で兵装は、兵装20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、 47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備している。

 日露戦争では第二艦隊に編入、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。戦後は一時期練習艦となるも第一次世界大戦では第一特務艦隊に編入された。他の装甲巡洋艦と同様に1921年9月1日に一等海防艦に類別変更、舞鶴で練習艦として運用される。どうも機関部に不調があったようで1927年には定繋練習艦、1942年7月には練習特務艦に類別変更された。さらに第二次世界大戦中の1943年9月には備砲を撤去、1944年2月15日に除籍、鉄資源の回収のため1945年に解体された。

 

八雲(第2艦隊第2戦隊所属)

07_八雲
(画像は八雲 wikipediaより転載)

 

 こちらもかなり珍しいドイツ製装甲巡洋艦である。1898年9月ドイツで起工、1900年6月に就役した。排水量9,695トン、全長124.7m、全幅 19.6mと同時期の装甲巡洋艦に比して全長が短い。最大速度は20.5ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に所属、黄海海戦、日本海海戦に参加、終戦直前には第三艦隊旗艦として樺太占領作戦にも参加している。その後は他の装甲巡洋艦と同様に練習艦として活躍したのち、1932年には海防艦に類別変更された。1942年7月1日には海防艦から再び一等海防艦に類別変更、太平洋戦争にも参加している。1945年5月には主砲が撤去され、12.7cm連装高角砲が設置、同年7月の呉空襲にも遭遇したが、奇跡的に中破状態で生き残った。自力航行可能であったため戦後は特別輸送船(復員船)として活躍、1946年7月に解体された。復員船としても活躍した唯一の日露戦争参加装甲巡洋艦。さすが鉄鋼の国ドイツ製といったところだろうか。

 

浅間(第2艦隊第2戦隊)

08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

 

 日露戦争参加装甲巡洋艦中最も古い艦である。1896年10月、英国アームストロング社にて起工、1899年3月竣工した。同月英国を出航、5月に日本に到着した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 1900年に義和団の乱で出撃。日露間の関係が悪化する中で1903年に連合艦隊が編成されると浅間は第二艦隊第二戦隊に編入された。日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加している。戦後は練習艦になったのち、第一次世界大戦では太平洋上のドイツ領攻略に参加している他、北米西海岸での哨戒任務に就いている。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、1942年7月1日には帝国海軍籍から削除、練習特務艦となった。他の装甲巡洋艦が一等巡洋艦に類別変更されたのに対して浅間が除籍されたのは、1935年10月に起こった座礁事故による竜骨損傷や老朽化が原因と言われている。

 軍艦籍から除籍されたのちは主砲、副砲も撤去され砲塔跡に校舎も設置された。1945年11月30日に除籍、1947年に解体された。日露戦争では日本海海戦に参加するも戦闘初期に舵が故障し集中砲火を浴びてしまった他、1915年にはメキシコで座礁、1935年には広島湾でまた座礁してしまう。今ひとつ運の無い艦だったようだが、とにもかくにも太平洋戦争終戦まで生き残った。

 

常磐(第2艦隊第2戦隊所属)

09_常磐
(画像は常磐 wikipediaより転載)

 

 1897年1月英国アームストロング社にて起工、1899年5月に就役した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に編入、旅順港攻撃、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1914年8月第二艦隊第四戦隊に編入、第一次世界大戦にも参加した。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、翌1922年9月には敷設艦に類別変更、1923年4月までに敷設艦に改装された。そのまま敷設艦として活躍を続け、1941年12月8日の太平洋戦争開戦もマーシャル諸島クェゼリン環礁で迎えた。1942年2月の米機動部隊の空襲により被弾、3月に佐世保に帰還、修理完了ののち、再びマーシャル諸島に進出している。

 1943年6月に内地に帰還、7月には大湊を根拠地として本土近海での機雷敷設任務に活躍した。1945年8月9日、大湊空襲により被弾、浸水したが沈没には至らなかった。しかし終戦を迎え、乗員が去っていくなかで排水作業が不可能となり擱座した状態で終戦を迎えた。1946年〜1947年にかけて解体された。常磐は日露戦争から太平洋戦争までを戦った数少ない装甲巡洋艦であった。

 

 

おわりに

 

 日露戦争に参加した装甲巡洋艦は全部で8隻、内、7隻が太平洋戦争開戦まで存在していた。ほとんどは練習艦となっていたものの、出雲のように旗艦として活動していた艦や八雲や常磐のように実戦に参加していた艦も存在する。これらの艦はあまり知られてはいないものの、装甲巡洋艦という類別から外れたのちも各種任務にまい進した日本海軍の縁の下の力持ちであった。

 

 

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01_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 南下政策を採るロシアに対して国防の危機を感じた日本は開戦を決意、主に北東中国(満洲)や日本近海で日露両軍が激突し、陸軍は辛勝、海軍は完勝する。この後、アメリカの仲介によって講和会議が開かれ、日本は遼東半島の一部、東清鉄道(南満州鉄道)の一部、韓国への監督権、南樺太を手に入れる。戦後数年で韓国を併合、満洲政策を巡ってアメリカと不仲となる。

 

日露戦争 〜概要〜

 

02_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

前史

 日清戦争によって清国の冊封体制から脱した大韓帝国(韓国)にはロシアの影響力が浸透しつつあった。満洲に権益を持つロシアはさらに南下政策を進め韓国にまでその影響力を及ぼそうとしていた。これに対して大日本帝国は隣国である韓国がロシアの影響下に置かれることに国防上の危機感を感じていた。とはいってもロシアは明らかに強そうなので出来れば戦争をしたくない日本は満洲はロシア、日本は韓国という満韓交換論等の妥協案を提示したものの当時の超大国ロシアはクソ弱小国(ロシア視点)の日本に遠慮する必要はなく交渉がまとまることはなかった。

 

日露戦争とは

陸軍の行動

 1904年2月、先遣隊として日本陸軍が朝鮮半島仁川に上陸、さらに本隊の第一軍が朝鮮半島に上陸してロシア軍の抵抗を排除しつつ北上。さらに遼東半島から上陸した第二軍もロシア軍陣地等を制圧しつつ北上した。当時、ロシア軍最強の旅順要塞があったが、これらに対して両軍ともに攻撃しないで北上を続けた。とはいってもやはり旅順要塞を放置していくと主力部隊の背後を突かれてしまうため、5月、乃木大将の下、第三軍を編成、8月に旅順攻略を開始した。

 攻略は1905年1月には終わったが分厚いコンクリートと機関銃で武装された要塞に日本軍は歩兵の突撃で対抗したため旅順攻略戦だけで6万名の死傷者を出すこととなった。そのころロシア軍主力は奉天に集結しており、日本陸軍も第一軍、第二軍、のちに編成された第四軍、さらに旅順攻略を行った第三軍が奉天に集結、2月末には奉天会戦が行われた。ロシア軍36万人、日本軍24万人が参加したこの会戦は日本軍の兵力を過大に見積もった上、包囲されると勘違いしたロシア軍が退却、一応日本軍の勝利ということになった。

 

海軍の行動

 日本海軍は戦時にほぼ全艦隊を集中運用するための連合艦隊を編成。旅順要塞にいるロシア極東艦隊と対峙した。戦力は連合艦隊と同数のロシア旅順艦隊であったが、バルト海に展開する所謂バルチック艦隊が到着すれば戦力は日本の倍となり圧倒的に有利。「だったら待った方が良くね?」と日本艦隊との戦いを避け旅順要塞から出てこなかった。

 出てこないと日本は困るので陸から旅順港を砲撃、これが結構効いちゃったため8月、旅順艦隊は渋々出撃、連合艦隊と黄海海戦が起こり連合艦隊が勝利して旅順艦隊は再び旅順要塞に逃げていった。その後、陸軍第三軍により旅順要塞は陥落。連合艦隊はバルチック艦隊に対抗するための準備を行った。

 バルト海からはるばる喜望峰を回って7ヶ月かけて日本近海に到着したバルチック艦隊であったが、疲労困憊、士気もあるんだか無いんだか。とりあえずウラジオストックに逃げ込もうとするが、対馬沖で待ち受けていた連合艦隊と遭遇、1905年5月、日本海海戦が起こった。ほぼ互角の戦力といっても方や7ヶ月間の航海で疲労困憊、方や十分な休養と訓練で準備万端。勝敗は目に見えており、バルチック艦隊はほぼ壊滅、連合艦隊の完全勝利となった。

 

講和会議

 

03_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争は日本の国力を大きく超えていた(戦費の借金を返済し終わったのは何と1986年)。同時にロシアも革命の機運が高まっており、戦争を継続することは困難であった。ここでアメリカ合衆国が仲介に入り、8月に講和会議が行われた。この結果、日本は賠償金(当時は敗戦国が戦勝国に莫大な賠償金を支払う慣習があった)こそは取れなかったものの、それまでロシアが持っていた満洲の遼東半島の租借権(中国から借りる権利)、東清鉄道の一部、終戦間際にどさくさ紛れに占領した南樺太、さらに朝鮮半島の監督権を入手した。

 

その後。。。

 

 満洲の遼東半島の一部と後の南満州鉄道、さらには韓国への監督権をロシアに認めさせた日本。本格的に満洲の開発に乗り出すことになるが、当初、アメリカやその他の国で山分けしましょうね。と言っていたもののロシアと独占してその他の国を締め出してしまった。このため戦争をしたにも関わらずロシアとの関係は急接近。対して講和会議までやってくれたアメリカとは険悪な関係になってしまった。

 

 

 


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 本書の執筆者、原朗氏は経済史が専門とのこと。私は経済史の研究者には暗いので残念ながら原氏の存在は初めて知った。それはともかく本書は著者が2012年に行った講演を文章化したものであり、明治から太平洋戦争までの期間を概論的にみている。

 本書だけではないが、日清日露戦争関係の本を読むと必ず司馬遼太郎『坂の上の雲』が登場する。私が読んだ本は大体『坂の上の雲』に対して批判的であるが、逆にここまで影響を与える司馬氏の作品というのはちょっとした脅威である。

 

坂の上の雲 『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の長編歴史小説。著者の代表作の一つとされる。 1968年(昭和43年)4月22日から1972年(昭和47年)8月4日にかけ産経新聞夕刊に連載。単行版全6巻(文藝春秋、初版1969年〜1972年)、文庫版全8巻(文春文庫、初版1978年、島田謹二解説)で刊行。
(wikipediaより一部転載)

 

 司馬氏は本人も自分の作品はフィクションと語っているが、俗に「司馬史観」と言われる独自の史観はいわば日本人の隠れた正史と言ってもいいくらいに日本人の歴史観に影響を与えている。とくに『坂の上の雲』はその最たるものだ。私もだいぶ前に読んだが、原氏と同様の疑問を感じた。原氏の司馬氏批判を簡単に説明すると、司馬氏の「明るい明治と暗い昭和」という構図が決してそうではないということだ。

 司馬氏が全く触れていない「旅順虐殺事件」や義和団戦争において「日本軍は一兵も略奪はしなかった」としている『坂の上の雲』に対して事実は「馬蹄銀事件」と言われる略奪事件を起こしていることなどを指摘している。

 本書ではさらに日露戦争も日本がロシアに勝ったというよりも「痛み分け」という程度のものでしかなかったという。日本海海戦で完全勝利したにもかかわらず日本から和平交渉を持ちかけているのが何よりの証拠だ。結構、読んでいくと気が重くなる内容であるが、歴史には明の部分もあれば暗の部分もある。戦争に関して言えば世界中の国家がこの明暗を持っている。日本もまた例外ではないということだろう。

 講演を元にした本なので全体的に根拠の提示等があまり行われていないが、この時代の歴史を学ぶためには本書は一読することをお勧めする。ただ、これはこの著者の見解であって、別の思想を持っている人はまた別の見解を持っている。歴史以外にもいえることだが、一冊の本のみで歴史を理解してはいけない。

 

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野村實 著
吉川弘文館 (2016/8/17)

 

 著者は元海軍士官で防衛大学校教授という海軍の専門家であると同時に歴史学で博士号を持つ海軍史の専門家である。日本海海戦といえば秋山真之が考案した「丁字戦法」が有名であるが、著者は考案者は山屋他人であるとする。

 さらに東郷はバルチック艦隊が対馬海峡を通過すると確信しており、泰然自若として待ち構えていたと言われているが、実際はかなり揺れており、津軽海峡に向かう直前でバルチック艦隊を捕捉した。結果、日本海海戦には大勝利するが、この勝利によって東郷は神格化され、日本には大国意識が芽生え満州事変、太平洋戦争と突き進んでいく。

 満州事変では東郷平八郎が事変に反対する軍令部を抑えこんでしまったという東郷の負の部分も明らかにする。内容はかなり充実している。史料も信頼性の高いものを使用しているようなので信頼できる。日露戦争関係の本を読むと毎回感じるのは『坂の上の雲』の存在の大きさである。

 司馬氏が明言するように『坂の上の雲』はフィクションであるが、あまりにも時代考証や事実関係の正確度が高いために以後の日露戦争のイメージに相当な影響力を与えてしまったことを痛感する。『坂の上の雲』は左右問わず批判されているが批判されるというのはそれだけ名著だということだ。

 

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01_浅間
(画像はwikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦浅間級は日露戦争前に就役、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争に参加する。特に2番艦常磐は太平洋戦争においても敷設艦として第一線で活躍、大破しつつも撃沈されることなく終戦を迎えたという殊勲艦であった。両艦共に戦後解体処分されている。

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9700トン
 最大排水量 -トン
 全長 134.72m
 全幅 20.45m
 吃水 7.4m
 機関出力 18000馬力
 最大速力 21.5ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 661名
 武装 45口径20.3cm砲連装2基
    40口径15cm砲単装14基
    40口径8cm砲単装12基
    4.7cm砲単装8基
    45.7cm水上発射管1門
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1番艦浅間は1899年に竣工した。艦首に衝角を装備した最後期の軍艦である。主砲は20.3cm連装砲で前後に1基ずつという当時の一般的なレイアウトであった。主砲の射程距離は18000mで発射速度は2発/分である。最大仰角は30°、俯角5°、揚弾は電動で各砲120発の砲弾が搭載されていた。装甲はハーヴェイ鋼で喫水線を中心に配置されている。

 

同型艦

浅間(起工1896年10月、竣工1899年3月)
常磐(起工1897年1月、竣工1899年5月)

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜戦歴〜

02_常磐
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦浅間は1897年10月に就役、一等巡洋艦に類別される。1900年には義和団の乱鎮圧に出撃、日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦で活躍した。第一次世界大戦では巡洋艦出雲、戦艦肥前と共にアメリカ西海岸での哨戒任務についた。その際にメキシコで座礁事故を起こしている。1921年9月、一等海防艦に類別変更。1935年10月には瀬戸内海で再び座礁。この座礁での損傷により練習艦となった。1945年11月除籍、1947年に解体された。

 2番艦常磐は1899年5月に竣工、同年7月に就役する。1900年、姉妹艦浅間と共に義和団の乱の鎮圧に出撃、日露戦争でも活躍する。第一次世界大戦では青島攻略に参加、1921年9月一等海防艦に類別変更。1922年から1923年にかけて敷設艦に改造された。その後、日中戦争にも参加、太平洋戦争開戦後はマーシャル諸島に展開、1943年6月、本土に帰投。日本近海で機雷敷設や訓練に従事する。1945年8月、大湊で米軍機の空襲を受け大破した状態で終戦を迎える。1945年11月除籍、1946年解体される。

 

装甲巡洋艦 浅間級(模型)

 

1/700 日本海軍一等巡洋艦 浅間

 義和団の乱鎮圧から日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と活躍した浅間級巡洋艦の1番艦浅間の模型、1/700スケールモデル。

 

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戦艦初瀬01
(画像はwikipediaより転載)

 

 敷島級戦艦はイギリスアームストロング社等で建造された当時としては最新鋭、世界最強の戦艦であった。この戦艦4隻を中心に日本海軍は日露戦争を戦い抜き、日本海海戦で大勝利を挙げることとなる。殊勲のクラスである。

 

戦艦敷島級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14850トン
 最大排水量 -トン
 全長 133.5m
 全幅 23m
 吃水 8.3m
 機関出力 1万4500馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 836名
 武装 30.5cm2連装2基
    15.2cm単装砲14基
    7.6cm単装砲20基
    4.7cm単装砲12基
    45cm水上魚雷発射管1基
    水上発射管4基
 装甲 舷側22.9cm
    甲板10.2cm
    主砲25.4cm
 同型艦 4隻

 

特徴

 日清戦争直後の1896年、1897年の予算により計画された。イギリス海軍のマジェスティック級戦艦の改良型として設計され、1897年より起工した。1900年より順次竣工し日本海軍の戦力を一挙に強化した。

 主砲と副砲は前級の富士級と同じだが主砲の装填機構は改良され、主砲塔がどの方向を向いていても砲弾の装填が可能となったため、主砲の発射速度が大幅に向上した。副砲は左右側面に7基ずつ、合計14基が設置され強力な火力を誇った。

 装甲は前級がハーヴェイ鋼を使用していたのに対して、焼き入れをしてより強固になったクルップ鋼を使用している。推進機関は直立3連成式レシプロ蒸気機関を2基搭載、2軸推進である。主缶は最新式のベルヴィール缶を採用25基装備していた。このため機関出力は前級よりもアップし、前級が14000馬力であったが、敷島、初瀬は1万4500馬力、朝日、三笠は1万5000馬力となった。

 

建造

 同型艦は4隻建造され、1番艦敷島は1897年3月、2番艦朝日は1897年8月、3番艦初瀬は1898年1月、4番艦三笠は1899年1月に起工している。1900年1月に1番艦敷島が竣工、7月には2番艦朝日が竣工している。1901年に入って3番艦初瀬が1月に竣工、4番艦三笠が最も遅く1902年3月に竣工した。

 

戦艦敷島級の活躍

 

1番艦敷島

戦艦敷島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1900年1月に竣工した1番艦は敷島と命名され、4月には日本に到着した。1904年からは連合艦隊として日露戦争に参戦、旅順口攻撃から旅順港閉塞作戦に参加、1905年5月には日本海海戦に参加している。1920年の尼港事件では、沿海州沿岸警備に従事した。

 1921年一等海防艦に類別変更、1923年軍艦籍を除籍され武装を撤去、練習特務艦となる。1925年からは佐世保に定繋、1945年11月除籍、1947年解体された。1911年には大佐時代の鈴木貫太郎が艦長を務めた。

 

2番艦朝日

戦艦朝日
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦朝日は1900年7月に竣工した。1番艦が1月に竣工したのに対して2番艦が7月と遅いのは公試の帰りに座礁する事故があったためである。このため本来は4月頃に竣工する予定であったのが7月になった。竣工当日に出航、10月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると朝日も参戦、旅順口攻撃から日本海海戦まで主要な海戦に参加した。黄海海戦では爆発事故が起こり主砲の一部が使用不能になった。

 1905年12月一等戦艦から戦艦に類別変更された。第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストク警備に従事した。1921年9月一等海防艦に類別変更される。1923年には兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。同年4月軍艦籍より除籍された。

 1925年には潜水艦救難設備が設置されたため、機関部に改装を行い以降一本煙突となり、呉に常駐し潜水艦事故に備えた。1937年5月、救難設備を撤去し工作艦へと改装され8月には類別を工作艦に変更された。朝日は工作艦に変更された後、日中戦争中の中国へ進出修理作業に従事した。1939年11月上海方面根拠地隊旗艦となる。1940年11月日本本土へ帰還。連合艦隊所属となる。

 太平洋戦争開戦後は南方作戦に従事。1942年3月、新鋭工作艦明石と共にシンガポール進出、損傷艦の修理に活躍する。5月駆潜艇1隻を伴って日本本土に帰還途中、米潜水艦サーモンにより撃沈された。1942年6月除籍。

 

3番艦初瀬

戦艦初瀬
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦初瀬は1901年1月に竣工、4月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると主力艦として参戦。旅順口攻撃に参加する。旅順港閉塞作戦中の5月に機雷に触雷沈没する。初瀬沈没は、国民の動揺を防ぐために1年以上秘匿され、日本海海戦勝利後の1905年6月に公表された。1905年6月除籍。

 

4番艦三笠

戦艦三笠01
(画像はwikipediaより転載)

 

 4番艦三笠は1902年3月竣工、5月に日本に到着した。1903年、連合艦隊が編成されると旗艦となった。1904年より日露戦争に参戦。主要な海戦に参加する。8月の黄海海戦では砲身内で砲弾が爆発事故を起こし、12月に日本本土に帰還修理を行った。1905年5月には日本海海戦に旗艦として参加、集中砲火を浴び死傷者113名を出す。

 1905年9月佐世保港内で後部弾薬庫爆発事故のため沈没、339名の死者を出す。1906年8月浮揚され1908年4月工事完了、第一艦隊旗艦となる。1912年10月前部火薬庫で火災が発生している。1914年8月第一次世界大戦勃発により日本海での警備行動を行う。1918年から1921年までシベリア出兵支援を行う。1921年9月一等海防艦に類別変更される。9月ウラジオストク港外で座礁、ウラジオストクで修理を行い帰投した。

 1923年関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであったウラジオストク沖での破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底した。9月除籍。解体される予定であったが記念艦として保存が決定、戦隊の外周部に大量の砂が投入されるとともに下甲板にコンクリートが注入される。

 記念艦となった三笠は太平洋戦争中の空襲の被害からは免れたものの、戦後大規模な盗難に遭い現在保存されている三笠のほとんどの部分は戦後に復元されたものである。現存する世界で唯一の前弩級戦艦である。

 

戦艦敷島級(模型)

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 敷島 レジン&メタルキット

 敷島級のネームシップ。日露戦争で活躍したのち太平洋戦争終結後解体されるまで海軍に在籍していた長命の艦。戦後は解体され新生日本への材料を供給した。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 朝日 レジン&メタルキット

 太平洋戦争時に唯一実戦任務についていた敷島級の艦。連合艦隊の貴重な工作艦として太平洋戦争初戦期に活躍。1942年米潜水艦サーモンにより撃沈されてしまう。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 初瀬 レジン&メタルキット

 新鋭戦艦として期待されながらも日露戦争初期に触雷して沈没した悲劇の艦。日本海海戦後に事実が公表されたアームストロング社製の新鋭戦艦。

 

ハセガワ 1/350 日本海軍 戦艦 三笠 日本海海戦 プラモデル

 唯一現存する敷島級戦艦。1902年の竣工から1923年まで現役を務める。様々な被弾、事故に遭い2度も沈没しながら現存している艦。

 

まとめ

 

 敷島級戦艦は全てイギリスで建造された当時の最新鋭戦艦であった。日露戦争、特に日本海海戦では主力艦としてロシア艦隊を迎撃、一方的な大戦果を挙げた。戦争直後にドレットノート級戦艦が就役、瞬く間に旧式戦艦となってしまった。

 

関連リンク

前級富士級戦艦

 

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戦艦富士01
(画像はwikipediaより転載)

 

 富士級戦艦はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で、日本初の近代戦艦であり、当時の新鋭戦艦であった。同型艦は2隻で日露戦争で活躍する。戦艦富士は日露戦後も運用され、推進器を撤去されながらも練習艦として太平洋戦争終戦まで使われ続けた。

 

戦艦富士級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12533トン
 最大排水量 -トン
 全長 114m
 全幅 22.3m
 吃水 8.1m
 機関出力 1万3500馬力
 最大速力 18.3ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 726名
 武装 30.5cm砲2連装2基
    15.2cm単装砲10基
    4.7cm単装砲24基
    45cm水上発射管1基
    45cm水中発射管4基
 装甲 舷側45,7cm
    甲板6.3cm
    主砲-cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1880年代に仮想敵国であった清国に対抗するために日本がイギリスに発注した戦艦である。1番艦富士はテームズ鉄工所、2番艦八島はアームストロング社のエルジック造船所で1894年に起工した。本級はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で排水量は若干少ないものの性能面では優れていた。

 ロイヤル・サブリン級の主砲が30口径34cm連装砲で天蓋の無いオープントップ式であったのに対して本級は新型のアームストロング式40口径30.5cm連装砲が装甲砲塔内に搭載されていた。砲塔の旋回、俯仰は水圧駆動、砲弾の昇降は電動駆動で行われた。発射速度は1発/1.5分であり、斉射後は砲塔を艦の中心線に合わせないと次弾を装填できないという弱点もあった。

 主缶は石炭専焼缶を10基搭載、2軸推進により18.3ノットの速力を出すことが出来た。富士と八島はほぼ同じ設計であったが船体サイズはわずかに富士の方が大きく艦尾舵の装着部の形状、機械室・缶室の通気筒の大きさなども異なっている。

 

建造

 1番艦富士は1894年8月にテームズ鉄工所で起工、1897年8月に竣工した。2番艦八島は1894年9月に起工、1897年9月に竣工した。1番艦富士は竣工に先立って領収、竣工後直ちに日本に回航され10月末に横須賀到着する。八島も9月にイギリスを出発、11月末に横須賀に到着した。

 

戦艦富士級の活躍

 

1番艦富士

戦艦富士
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年10月末に日本に到着した富士は11月に警備艦、12月に常備艦隊に編入される。1898年3月には一等戦艦に類別された。1903年、連合艦隊に配属される(当時の連合艦隊は常設ではなかった)。1904年に日露戦争が始まると富士は主力艦として旅順口攻撃を始め、黄海海戦、日本海海戦に活躍する。

 1912年、一等海防艦に指定され、類別上戦艦ではなくなる。翌年の1913年には練習艦に指定、1922年9月には軍艦籍から除籍、運送艦、さらに12月には練習特務艦となった。その後ワシントン軍縮条約に基づき装甲を撤去、運用術練習艦となった。1923年の関東大震災では救護活動に活躍する。

 1926年には横須賀に係留され定繋練習艦となる。1934年には推進器を撤去、海軍公開学校が創設されると航海学校保管艦となり浮校舎となった。1945年7月連合国軍の空襲により被爆着底する。1945年11月除籍、1948年5月に解体された。

 

2番艦八島

戦艦八島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年11月に日本に到着した八島は、1898年3月には一等戦艦に類別、1903年、連合艦隊に配属される。1904年日露戦争が始まると旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加するが、1904年5月旅順港沖合を航行中、機雷に触雷し総員退艦の後転覆沈没した。

 日本海軍は国民の動揺を防ぐために事実を1年以上も秘匿、日本海海戦直後の1905年6月に喪失を公表する。1905年6月軍艦籍より除籍。

 

戦艦富士級(模型)

 

1/700 日本海軍戦艦 富士

シールズモデルズ

 富士級戦艦の1番艦。イギリス製戦艦で日露戦争では主力艦の1隻として日本海海戦を始めとする各種作戦に参加する。戦後は練習艦となり、太平洋戦争終戦まで使われ続けた名艦である。

 

まとめ

 

 富士級戦艦は当時の日本が宮廷費の削減、公務員の俸給1割減までして購入した新鋭戦艦であった。日露戦争で活躍したが、初戦期に八島は触雷により失われてしまう。しかし富士はその後も活躍を続け日本海海戦の勝利に貢献する。当時の日本を背負った戦艦であった。

 

関連リンク

前級ロイヤルサブリン級戦艦

 

次級敷島級戦艦

 

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