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日本海軍

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


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01_九九式艦爆
(九九式艦爆 画像はwikipediaより転載)

 

急降下爆撃機とは

 

 急降下爆撃機とは、1930年代に世界各国で研究された新式の爆撃機のことである。これまでの爆撃機の行う爆撃法とは主に水平爆撃で、水平に飛行している爆撃機からそのまま爆弾を投下するものであった。しかし急降下して爆弾を投下する戦法が有効であると知られるようになると世界各国でこの新式の爆撃法、急降下爆撃の研究が盛んになってくる。

 日本でも1930年代初頭に研究が始まったので世界レベルで見ても比較的早期に研究が始まったといえるだろう。最初に制式採用されたのは九四式艦上爆撃機(艦爆)でこれが日本初の急降下爆撃機である。その後、陸軍と海軍はそれぞれ急降下爆撃機の開発を行い、陸軍は九七式軽爆撃機(軽爆)、九九式軽爆、九九式双発軽爆撃機(双軽)、九九式襲撃機等を完成させる。これに対して海軍は、九六式艦爆、九九式艦爆、彗星艦爆、陸上爆撃機銀河、流星艦爆を完成させている。

 

 

 

危険と隣り合わせ

 急降下爆撃機といっても単純に爆撃機を急降下させればよいというものではない。急降下でかかるGは半端ではない。降下中はエンジンの力と機体の自重で速度はどんどん上がっていく。車でいえば急な下り坂で全速力を出しているようなものだ。これはパイロットの身体にも相当な負担がかかるが何よりも通常の航空機では機体の強度が持たないのだ。特に日本軍機は機体強度が低い機体が多く、このような機体で急降下をしては空中分解してしまう。この問題を防ぐためには設計段階から考えなければならないのだ。

 急降下することによって加速して爆弾の命中精度を上げると同時に対空砲火からも防御されるが、あまりにも加速してしまうとコントロールできなくなってしまう。故に急降下爆撃機にはエアブレーキと呼ばれる空気抵抗板が取り付けられている。これによって速度をコントロールすることが出来るのだ。そうは言っても高速であることには違いない。降下角も60°と凄まじい。訓練や実戦で急降下したものの引き起こすことが出来ずに殉職してしまった搭乗員も数えきれない。

 

 

 

急降下爆撃機偵察員

 著者は乙種予科練7期出身で同期には有名な西澤廣義飛曹長がいる。艦爆偵察員とはただ周囲を観察していればいいというのではない。GPSの無い当時のこと、航法は人間がやるのだ。これは偵察員の仕事。航法とは、地文航法、天文航法、推測航法という3種類がある。地文航法というのは地形を見ながら自機の位置を把握する方法、天文航法というのは天体観測をして自機の位置を把握する方法である。地文航法は主に陸軍機、天文航法は主に大型機が使用する。小型機の後方はつまりは推測航法であるが、実はこれが一番難しい。

 推測航法とは自機の速度と方向、そして偏差を考慮して計算によって自機の位置を割り出す航法。偏差というのは飛行機に左右から吹く風の強さから誤差を割り出すことだ。ちょっとの風でも長時間の飛行では誤差は馬鹿にならない。これを習得するには1,000回は航法を経験しなけば一人前とは言えないという大変難しいものなのだ。これは偵察員の世界では千本偏流と呼ばれていたという(永田P93)。1,000本とは毎日搭乗しても3年間、もちろん毎日飛行するハズはないので習得するまでには5年、10年はかかるのだろう。とにかく計算に自分とペアの命がかかっているのだ。

 そして偵察員の任務はそれだけではない。急降下爆撃機の任務はもちろん急降下爆撃である。この急降下爆撃とは字のごとく55〜60°くらいの急角度で敵に急降下、爆弾を落とすという攻撃法である。現在ではもう無くなってしまったが、ミサイルが発達する以前の時代では高い命中精度を誇る必殺の爆撃法であった。しかし敵から撃ち上げて来る対空砲火の威力は凄まじく、砲火の幕の中に突入していく状態である。まさに「ヘルダイバーズ」である。

 

 

 

急降下中の偵察員

 この急降下の最中、偵察員はただボンヤリしていればいいのかといえばそうではない。急降下爆撃中の偵察員は信じられないくらい忙しいのだ。まずは装備、首からは双眼鏡をかけ、左耳にはレシーバー、右耳には操縦員との連絡用の伝声管、口には酸素マスク、手には機銃である。これらを装備しつつ、急降下中は速度と角度を読みながら正確な照準点を操縦員に伝える。それを何百キロという速度で急降下している最中に行うのだ。もう職人技である。

 そしてこの急降下爆撃機の特徴としてはものすごく死亡率が高い。戦闘機搭乗員は生存率が20〜30%程度であったが、急降下爆撃機乗りはそんなものではない。ほぼ生存することが不可能な職種と言っていい。その中を著者が生き残ったのは奇跡と言って良いかもしれない。松浪氏は後方にいたのではない。松浪氏が配属されたのは激闘が続くラバウルの582空である。この582空とは戦闘機と艦爆の混成部隊で戦闘機隊には有名な角田和男氏等が在籍していた部隊だ。松浪氏はこの地獄の戦場で多くの任務をこなし、奇跡的に生き残ったのだ。

 松浪氏の著書は自身の体験を書いているのと同時に死んだ戦友たちへの鎮魂歌でもある。多くのページを戦友たちとの思い出に割いている。戦友たちは良い奴ばかりではない。嘘をつく奴、ズルい奴等がいて、松浪氏も騙されたりと悔しい思いをするのだ。しかしその「イヤな奴ら」も戦争で死んでいく。それはとても悲しいことなのだ。彼らは人間なのだ。人間には良い面も悪い面もある。それが人間なのだ。松浪氏が描く戦友はまさしく人間なのである。

 

 

参考文献

  1. 永田経治「海軍じょんべら予備学生出陣記」『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年

 

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

最強の零戦54型丙

 

 1940年に11型が制式採用されて以来、21型、32型、22型、52型、53型、62型、63型とアホみたいにバリエーション展開をしてきた零戦。すでに二番煎じというレベルではなく、柳の下のどじょうも3〜4匹は居たもののさすがに53型、62型くらいになるとかつての駿馬零戦もポンコツ感が増してきた。この最大の理由はエンジンで、零戦開発当時は小型で高出力であった栄エンジンも戦争後期の重武装、重装甲型にシフトしつつある戦闘機を引っ張るには力不足であった。特にこの問題が顕著だったのが62型で、急降下爆撃機型に各部が強化された零戦を飛ばすには非力に過ぎ、最高速度が52型に比べて20km/h以上低下するという事態になってしまった。こうなるともう栄エンジンの性能が限界であることは誰の目にも明らかであった。

 

そもそも金星が好きなの!

02_栄二一型
(栄21型 画像はwikipediaより転載)

 

 1944年11月、海軍は零戦の次期改良型に栄以外を使用することを許可した。これは、上記の理由も少しはあったのかもしれないが、最大の理由は、エンジンの生産関係の問題であったようだ。この時期、栄エンジン生産工場を中島飛行機から石川島へ変更したことにより栄の生産低下が予想されたからのようだ。しかし、これによって、とうとう零戦も新型エンジンを搭載することができるようになったのだった。

 実は零戦のエンジンは当初から栄エンジン一択であった訳ではない。零戦の試作時点で候補に挙がっていたエンジンは、三菱製の瑞星13型と金星46型の二つで、栄エンジンは計画段階では完成していなかった。そして、この二つのエンジンはそれぞれ特徴があり、瑞星は小型であるが非力、金星は大馬力であるが大型であった。設計主務者の堀越技師としては将来性を考えて出力の大きい金星46型を選びたかったが、戦闘機といえば小型の九六式艦戦サイズが当然と思っている搭乗員と海軍。九六戦に比べるとバカでかい零戦に、さらにデカいエンジンを積んでしまっては海軍に採用されないかもしれない。そう考えた末に堀越技師は妥協することにしたようだ。結局、金星は諦めて小型で非力な780馬力瑞星13型を採用、さらに量産機では新しく完成した栄12型エンジンに変更されたという経緯があった(堀越P99)。つまり設計主務者の堀越技師は当初から金星エンジンを搭載したかったのだ。

 

 

最強の零戦完成じゃー!

03_零戦52型丙
(零戦52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

 この金星エンジン採用の要望はマリアナ沖海戦の直後1944年7月に52型丙の開発命令が出た時にも行われた。この時期になるともうすでに栄21型エンジンは性能の限界に達しており、さらに重武装、重装甲を要求された零戦52型丙を栄21型は余裕を持って飛ばすだけの力はなくなっていた。そこで三菱側は零戦のエンジンを栄から金星へと変更を要望した。しかし海軍は、エンジンの換装ともなると大幅に時間がかかるためという理由で却下したのだ。

 その却下から僅か4ヶ月後の1944年11月。海軍によりエンジンの換装も可能にした零戦の改造試作の指示が出された。この結果、三菱設計陣はエンジンを三菱製ハイパワーな金星62型に換装。さらに軽量化のため胴体内13mm機銃の廃止、胴体内燃料タンク以外は防弾版を廃止して自動消火装置に変更する等重量軽減が図られた。エンジンの変更に合わせてカウリングを再設計、プロペラも3翅3.15mのハミルトン定速プロペラに変更された。燃料タンクは胴体内140L1個、翼内215L、外翼内40Lが左右2個で合計650Lに150L増槽を左右翼下に設置可能であった。この燃料搭載量は21型520L、32型480L、22型580L、52型570L、52型、62型の500Lと比べて圧倒的に多く、全零戦中最高である。

 武装は、九九式2号20mm機銃4型2挺(携行弾数各125発)、三式13mm機銃2挺(携行弾数各240発)、性格の違う2種類の機銃を装備するという非合理さは改善されなかったものの、少なくとも52型丙よりは1挺減らして軽量化。爆弾は60kgまでは左右翼下に各1発、500kg、250kg爆弾は胴体下に搭載できるようになっている。これらの変更に伴い重量は軽量化を意識したにもかかわらず零戦中最高重量である3,155kgとなったが、1,560馬力を発揮する金星62型エンジンのおかげで最高速度は海軍資料では572km/h、三菱資料では563km/h、6,000mまでの上昇速度は、海軍資料では6分50秒、三菱資料では6分58秒、上昇限度は海軍資料で11,200m、三菱資料で10,780m、航続距離は全速30分プラス巡航2.5時間となっている。

 

最初から堀越技師の言う通りにしていれば。。。(ボソッ)

04_零戦52型甲
(零戦52型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 最高速度では海軍資料でいえば零戦中最高速、三菱側の資料を基にしてもそれまで最速であった52型と同等であり、上昇力に関しては間違いなく全零戦中最高である。制式採用後には64型と呼ばれる予定であったこの最強の零戦54型丙は、1945年4月下旬に試作1号機が完成、その後2号機も完成したが、この試作機2機のみで量産されることはなかった。量産される前に終戦となってしまったからである。前述のように栄から金星への換装は十二試艦戦当時から要望されていたもので、実は、堀越技師が最も作りたかった零戦の改良型であったという(堀越P356)。

 海軍は航空機に対して過大な要求を行う傾向にあった。零戦のように成功した機体もあったが、万能を要求するあまりに「どっちつかず」の二式陸偵(後の月光)のような機体も生み出してしまった。「仮に」という話をしても仕方がないが、仮に海軍が堀越技師に全てを任せ最初から通して十二試艦戦のエンジンを金星46型にして、以降、金星のバージョンアップ毎に機体を改良していけば、実はこの零戦54型丙、もっと早くに量産、実戦投入が可能であったのだ。少なくとも技術的には可能であった。ホント残念。トホホ。。。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史 5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 堀越二郎「零戦主任設計者の回想(二)」『零戦よもやま物語』 光人社 1995年

 

 

 


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01_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

零戦62、63型とは

 

爆撃戦闘機隊

 「足の速い零戦を爆装させていち早く敵空母群に攻撃をかけ、飛行甲板を使用不能にする」という考えはどうも1943年頃には生まれていたようだ。この戦法を訓練するために、ミッドウェー海戦後に誕生した新生第3艦隊の空母瑞鶴戦闘機隊の中にA攻撃隊という飛行隊が編成された。この飛行隊は2個小隊8名の隊員から成っており、隊長は海兵67期の小林保平大尉、第2小隊長は操練38期のベテラン岡部健二上飛曹が任命された。このA攻撃隊は1943年春頃から爆撃訓練を始めたようであったが、ほぼ勘頼りの爆撃訓練は危険と隣り合わせであった。

 爆弾を命中させるには目標上空1,000mから30°の角度で緩降下、体当たり寸前で爆弾を投下して離脱するというアクロバティックな技であった(杉野P474)。この訓練は内地から始まり、トラック島でも標的艦矢風を使って行われた。トラック島では接近しすぎた1機が標的艦矢風に衝突、搭乗員が死亡してしまうという悲劇も起こった(杉野P474、谷水P48)。それほど危険な攻撃だったのである。しかしこのA攻撃隊を含む瑞鶴戦闘機隊は「ろ」号作戦によりラバウルに進出。実戦で緩降下爆撃を行う機会はなかったようである。

 

そもそも強度がたりないのでね

 大々的に実戦で使用されたのは「あ」号作戦で、第一航空艦隊の戦闘機234機中、零戦21型83機を爆装出撃した(零戦P136)。これは当時の艦上爆撃機彗星が大型高速化していたために軽空母からの発着艦が出来ないことに対する対策という意味もあったようだが、そもそも徹底した軽量化で強度が弱く、何度も空中分解事故を起こしている零戦21型でこの爆撃を行うのは無謀であった。現にベテラン艦攻搭乗員である肥田真幸大尉や梅林上飛曹も零戦に搭乗した際の急降下で翼面に皺が寄っていることやフラッター等を問題としている(肥田P208、梅林P267)。さらに爆弾搭載用の金具の空気抵抗も大きかった。このため、速度や航続距離が低下した他、爆弾投下装置の不具合でそもそも爆弾が投下できないという致命的な問題も発生した。

 

 

機体とエンジンのバージョンを表しているのだ!

02_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

 こうした経験を基にして開発されたのが戦闘爆撃機型零戦の62型又は63型である。「いや、62型と63型ってどっちなのさ?」と思われるかもしれない。ここでこの「62型又は63型」という妙な呼び方について説明しよう。

 零戦62型又は63型、略符号A6M7。海軍航空機の型名の規則については何度も書いているが、簡単に説明したい。○○型というのは一桁目がエンジンのバージョン、二桁目が機体のバージョンである。零戦は11→21→32→22→52→53型と来ているが、21型ではエンジンは変わらないが機体の構造が変更されたため二桁目のみが「2」となり、32型では機体もエンジンも変更されたため「21」から「32」に変更されている。このような法則で52型、53型まで来て、今回の62又は63型となったのだ。

 

エンジン替えてみた(*´∀`*)エヘ!

03_栄31型甲
(栄31型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦62又は63型という変な呼び方を書いているのは、要するにエンジンで「すったもんだ」があったのだ。零戦のエンジンは有名な栄エンジンである。初代が栄12型で、これは11型、21型に搭載されていたエンジンである。そこに二速過給器を装備した栄21型エンジンが完成、32型以降の零戦は全てこのエンジンを搭載した。

 そこに水メタノール噴射式の栄31型エンジンが完成、これは試験的に52型に取り付けられ、53型として試作された。そして海軍はこの新型栄31型エンジンを次期零戦に装備しようと決めた。つまり52型の機体もエンジンも変更するので63型だ。しかし悲しいかな、当時の日本の基礎工業力は貧弱であった。やっと水メタノール噴射式のエンジンを製作したもののうまく作動しない。作動も不完全で馬力も栄21型と大して変わらず、整備だけは煩雑になったという良い所が一つもない状態であった。

 「いやいやさすがにこのエンジンは使えないでしょ」ということで、栄21型に戻すのかと思ったらそうではない。栄31型エンジンから水メタノール噴射装置を廃した栄31型甲エンジンを新たに製作。これを次期零戦に装着した。「いやいやちょっと待てよ。栄31型エンジンの最大の特徴である水メタノール噴射装置を廃してしまったら、ただの栄21型なのでは???」。考えてみれば当然の論理展開である。「だったらもう62型でいいんじゃね?」という感じで栄31型甲を搭載した次期零戦は62型と呼ばれるようになったのではないかと推測されている(秋本P68)。但し、水メタノール噴射装置を装備した栄31型エンジンを搭載した63型も極少数が生産されたようだが、ほとんどが62型であったようだ。

 

 

機体も替えてみた (・ω<)エヘ!

04_零戦63型
(画像はwikipediaより転載)

 

 まあ、エンジンはともかく機体はどこがどう変わったのだろうか。もっとも変わったのは強度だ。零戦は代々機体の強度が低いのが個性といえる。しかしこれは急降下爆撃機仕様としては当然致命傷になるため、何よりも強度を高める改良が行われた。外観上はそんなに変わらないが、外板や隔壁が分厚くなった。そして胴体下に埋め込み式の爆弾投下装置が設けられた。

 この改良によって増槽が装着できなくなってしまったために、増槽を翼下に装着できるように変更された。この増槽は150Lを左右に1個ずつ搭載できる。合計で300L。それまでの零戦の胴体下の増槽が300〜330Lだったのでほぼ同量の燃料を搭載することが可能となった。他にもエンジンを変更したことでエンジンカバーであるカウリングの設計変更も行われている。

 この改良により62型の最高速度は、543km/h(52型は565km/h)となり、高度6,000mまでの上昇時間は7分58秒(52型は7分01秒)、実用上昇限度は10,180m(52型は11,740m)と全ての点で52型を下回っていた。ただ一つだけ52型を上回っていたのは重量で、52型の2,733kgに対して、3,150kgと大幅に上回っていた。武装は翼内に九九式2号20mm機銃2挺(携行弾数各125発)、翼内と機種に13mm機銃3挺(携行弾数各240発)を装備、爆弾は500kg爆弾までが搭載可能であった。

 

もう無理っス!(´;ω;`)ウゥゥ

 この零戦62型、実戦でもスペック通りの性能を発揮したようで、極めて鈍重で戦闘には不向きな機体であったという(土方P225)。さらには新型の栄31型エンジンも信頼性が低くエンジントラブルも多かったようである(土方P246)。同じ部隊にいた安倍正治一飛曹は63型で飛行中、エンジンが止まりそうになっているし(安倍P225)、零戦63型を空輸した草間大尉も同様にエンジンが止まりそうになっている(草間P396)。

 62型の生産は、1945年5月から始まり終戦まで行われ、総生産数は約490機と推定される(秋本P66)。結局、この零戦62型、63型が量産された零戦の最後となった。日中戦争当時の新鋭機も太平洋戦争末期になるとさすがに限界が見えてきた。原因はエンジンの馬力不足で、傑作エンジン栄にが零戦の高性能の源となり、栄の限界が零戦の限界となった。そしてこれが日本の基礎技術力、工業力の限界であったのかもしれない。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 杉野計雄「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』 光人社 2000年
  4. 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』 原書房 1987年
  5. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  6. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年
  7. 土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』 光人社 2004年
  8. 安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』 光人社 1995年
  9. 草間薫「幻の零戦・六三型丙」『零戦、かく戦えり!』 文芸春秋 2004年

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52189130.html

 

 


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01_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

横須賀航空隊最後の空戦

 

あまり有名ではない重爆B32

02_B32
(B32 画像はwikipediaより転載)

 

 1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送があり戦争は終了した。と思いきや、実は15日以降に飛来した米軍爆撃機B32に対する邀撃戦が行われている。このB32とはコンソリデーテッド社が製造した大型爆撃機で最高速度は575km/h、航続距離6115km、武装は12.7mm連装銃5基、約9,072kgの爆弾を搭載することが可能であった。しかしB29のような与圧室がなかったため、高高度爆撃が不可能であった。B32の製造はあくまでもB29爆撃機が失敗した場合の「保険」であったため僅か115機が製造されたのみで生産は終了した。大量生産こそはされなかったものの、15機が極東空軍に実戦配備されており、6月15日以降、しばしば実戦に参加していたようである(秦P252)。

 

 

実は終戦後毎日飛んでいたんだよ

 8月18日、このB32が写真撮影のために飛来した際、横須賀航空隊の戦闘機隊が迎撃している。日時がハッキリしないのだが、今回の執筆にあたって参照した資料の内、坂井三郎著『零戦の最期』と神立尚紀『零戦の20世紀』では、17日(坂井P36、神立P107、サカイダP29、34、53)、同じく神立尚紀『ゼロファイター列伝』と秦郁彦『八月十五日の空』では18日となっている(神立P205、秦P249)。

 このように日にちが異なってしまっている理由としては、恐らくB32が終戦の日である15日の翌日以降、16、17、18日と毎日写真偵察を行っていたことが考えられる。詳しく書くと、8月16日5時30分、第312爆撃群第386爆撃中隊のB32、ライマン・Pコムズ中尉乗機のシリアルナンバー42-108543号機、フランク・R・クック大佐操縦の42-108532号機の2機が出撃、特に迎撃を受けることなく帰還している。そして翌17日、今度はフランク・W・ウェルズ中尉が操縦する42-108532号機、42-108539号機の2機が5時43分に読谷飛行場を離陸、東京上空で写真撮影を行った(Pacific)。この際には日本機の迎撃を受けているが、秦氏によるとこの迎撃を行ったのは厚木航空隊の森本宗明中尉率いる零戦隊12機であったとしている(秦P253)。

 

8月18日の空戦

03_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

 そして18日、ジェームズ・F・クライン大尉乗機のシリアルナンバー42-108532、、ジョン・R・アンダーソン中尉(秦氏によると大尉。秦P252、サカイダ氏によると少尉。サカイダP34)の乗機42-108578の2機が6時55分、読谷飛行場を離陸、写真撮影のために東京に向かった(Pacific)。横空で空戦があったのが、17日か18日か、どちらが正しいのかは分からないが、恐らくこの数回の内の17、18日の2回の出来事がごちゃ混ぜになってしまったのだろう。とりあえず秦氏の説に従って18日ということで話を進めよう。

 8月18日13時頃、「敵大型機、千葉上空を南下中」との情報が入った。因みにこの空戦に参加した坂井三郎中尉の記憶によると「敵大型爆撃機一機、千葉上空を北上中」という情報だったようである(坂井P36)。それはともかく、一応終戦の詔は出ていたのだが、横須賀航空隊では何故か戦闘機は燃料も弾薬も完全に装備された状態で駐機、さらには搭乗員までも待機しているというやる気満々の状態であった。

 坂井中尉の記憶によると、この情報に対して隊長の指宿正信少佐は飛行長に電話で連絡、隊長の指示の下で出撃したとなっているが(坂井P37)、同じく空戦に参加した小町定飛曹長によると誰からも命令されておらず、お伺いもたてている暇もなかったという(神立P107)。まあ、どちらが正解なのかは分からないが、ともかく横空戦闘機隊は出撃する。搭乗員が機体へ走っていくとすでにヤル気満々の整備員達がエンジンを起動させていたという。坂井中尉の記憶によるとその時、零戦が10機ほどと紫電改が5〜6機あったという(坂井P37)。

 

 

最後の横空戦闘機隊発進!

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 横空所属の国分道明中尉以下、坂井中尉、小町飛曹長、大原飛曹長、平林上飛曹等が出撃したようだ。この内、坂井中尉は零戦52型、小町飛曹長は紫電改に乗って出撃した。坂井中尉は離陸後、高度6,000mとの指示を受け、6,000mに上昇。僚機が攻撃を開始したことを確認、坂井中尉も後上方攻撃をかけるもミス。B32は、館山上空から大島方面に逃走していった。ここらへんになると味方機も攻撃を中止して帰り始める。しかし坂井中尉は第二撃をかけ、それがB32右翼に命中、そこに別の味方機が攻撃をかけた。B32は高度を下げ、三宅島あたりでは超低空飛行になっていたが、坂井中尉は敵空母の存在を恐れてこれ以上追撃せずに帰還している。

 一方、小町飛曹長は発進後、全力で前方へ出て背面ダイブを実施した。この戦法は直上方攻撃と呼ばれる海軍戦闘機搭乗員が実戦から編み出した戦法で、米軍爆撃機の機銃の死角である前上方から背面急降下で一撃してすり抜けるという有効ではあるが危険な戦法であった。これによりB32に20mm弾が命中したものの、紫電改初搭乗であった小町飛曹長は零戦のつもりで引き起こしをするも重量級の戦闘機である紫電改では引き起こし時のマイナスGによりブラックアウトしてしまった(川崎P293)。そしてさらに伊豆半島上空でもう一撃、合計二撃している(神立P205)。

 最後まで追撃したのは坂井中尉と小町飛曹長だったようであったが(坂井P40、秦P250)、撃墜することは出来なかった。この空戦で一番最後に帰還したのは坂井中尉で、帰還後に敵爆撃機がB29ではなかったことを指摘している(秦P251)。

 

いろいろと食い違いが。。。

05_横須賀航空隊本部庁舎
(横須賀航空隊本部庁舎 画像はwikipediaより転載)

 

 と、ここまではそれぞれの本に書いてあることを時系列に基づいて書いていったのであるが、実はちょっと問題があるのだ。坂井中尉は零戦、小町飛曹長は紫電改に搭乗しいてる。坂井中尉は二撃した後、最後まで追尾して最後に帰還。小町氏も二撃をかけ帰還しているが、この2機の性能は歴然とした差があり、小町飛曹長はインタビューで「零戦で大型爆撃機を迎撃するのはむりでした」(川崎P292)、「零戦だったらとてもあそこまでは追えなかったんじゃないかな」(神立P107)と語っている。

 ここまで読んで頂いた読者には分かると思うが、坂井氏は零戦52型で追撃している。つまりは小町飛曹長の言っていることが正しいとすれば、坂井中尉の言っていることは嘘ということになる。さらに前述のように坂井氏の主張では出撃前に指宿隊長からの出撃命令を受けて出撃したと主張しているが、小町氏によるとそれも無かったという。坂井中尉はたまに著書の中で思い違いがあることが指摘されているが(高木・境田P60)、同じく8月17日(18日の誤りか)に零戦52型でB32を迎撃している大原亮治飛曹長はB32に対して三撃したと語っている(神立P120)。

 坂井中尉は二撃、大原飛曹長は三撃ともに零戦52型で行っていると語っているが、では、小町飛曹長が嘘をついているのか、その可能性はあるものの様々なインタビューの内容を読むと、そのぶっきらぼうで飾り気が無く、自身の撃墜数すらも主張しない小町飛曹長が嘘をつくとも思えない。ということで、戦争が終わってすでに70年以上経過し、当事者も全て故人となってしまった現在、残念ながら真実は、誰にも分からないのだ。「分からない」でいいではないか。

 

その後のB32と横空への処罰

06_日本側全権代表団
(画像はwikipediaより転載)

 

 この横須賀空のベテラン搭乗員達に酷い目にあったB32であるが、前述のようにクライン大尉の#532号機、アンダーソン中尉の#578号機の2機であったが、この2機のB32は横空戦闘機隊の攻撃を25分にわたって受け続け、アンダーソン中尉機#578号機が機上戦死1名を出したものの無事帰還している。その間、2機合計で12.7mm機銃弾4,000発を消費し、日本機14機中3機を撃墜したと申告しているが、もちろん横空戦闘機隊には損害はなかったが、まぁ、航空戦での撃墜判定なんてそんなものである。因みにこれら2機のB32であるが、#532号機は1946年5月、#578号機は1945年後半から1946年のどこかでスクラップにされている。

 帝国海軍航空隊は横須賀で始まった。このため終戦まで横須賀航空隊に配属される搭乗員は特に技量に秀でた者が充てられるというのが伝統だったようだ。横須賀から始まった海軍航空の最後の戦いがまた横須賀航空隊であったというのは何か感慨深いものがある。ところで「そもそも終戦後に戦闘して大丈夫なの?」という疑問を持つ読者も少なくないと思う。意外に知られていないのだが、日本が正式に降伏を行ったのは1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏調印なのだ。8月15日は天皇の終戦の詔が放送されて日本国内では武器を置くように命令されたものの国際法上は9月2日が停戦なので問題なかったようである。

 

参考文献

  1. 秦郁彦「夏空に燃えつきた抗戦」『八月十五日の空』文藝春秋1995年
  2. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  3. 神立尚紀『零戦の20世紀』スコラ1997年
  4. ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画2000年
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  6. 川崎浹『ある零戦パイロットの航跡』トランスビュー2003年
  7. 高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣改訂増補版』
  8. Pacific Wrecks

 

 

 


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01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


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01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

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01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

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01_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

要約

 

 占守型海防艦とは日本海軍が主に北方での漁船の警備、救難のために建造した排水量860トンの小型艦艇である。北方での活動を想定していたため、船体は耐氷構造で、解氷装置、暖房等が充実していた。速度は19ノットと遅いもののディーゼル機関の採用により航続距離は長く燃費の良い艦であった。高性能であったが、武装は旧式駆逐艦から転用した12センチ平射砲、爆雷数も少なく、何よりも造船工数が多く、量産には不向きな艦であった。4隻中3隻が終戦を迎え、1隻が賠償艦としてソビエトに引き渡された。

 

占守型海防艦

 

02_国後
(画像は国後 wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。

 この流れが変わったのが1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結であった。この条約は列強各国の補助艦艇の建造を制限するためのもので、この条約の結果、それまでのワシントン海軍軍縮条約では対象外であった空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に至るまで軍縮の対象となった。しかしこの条約では排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦は対象外とされた。つまりは無限に建造することが可能なのだ。

 

 

北方警備用艦艇

 では、この無制限の枠をどう使うのか。日本海軍が考えたのは、北方警備用艦艇の建造であった。当時の日本の国土は北は南樺太、占守島を北端とする千島列島が含まれており、この海域の豊富な漁業資源を求めて多くの日本漁船が操業していた。この日本漁船の警備や事故時の救助等をするために速度は遅くとも航続距離が長く耐氷性に優れた艦艇が必要とされていたが、日本海軍には適当な艦が存在しなかった。このため海軍は駆逐艦を派遣して代用としていたのだ。

 しかし駆逐艦とは本来艦隊戦闘を行うための艦種であり、速度は速く小回りが利くように設計されている。武装も魚雷を装備する等重武装であるが、こと漁船の警備、救助等にはオーバースペックであり、むしろ高速、重武装故の燃費の悪さや北方の極寒海域で活動するための専用装備を持っていない点がマイナスポイントであった。

 北方警備用の専用艦艇を開発することは上記の点からメリットがあったのは言うまでもないが、ロンドン海軍軍縮条約によって保有数が制限された駆逐艦を北方警備から本来の任務に戻すということも重要な目的であった。このため海軍はロンドン海軍軍縮条約が締結された翌年の1931年から北方警備用艦の建造を計画するが、予算不足のため実現するには至らなかった。

 

新型海防艦完成

03_八丈
(画像は八丈 wikipediaより転載)

 

 初めて建造計画が承認されたのが、1937年の第三次補充計画でこれにより警備用小型艦艇の建造が決定した。この小型艦艇は海防艦に類別され翌年の1938年に建造開始、のちに占守型海防艦と命名された。排水量は860トンであるが、計画の排水量は1200トンとされた。これは同計画で計画されていた戦艦大和を秘匿するためのもので大和の排水量65000トンを同計画で建造される様々な艦艇に割り振ったためである。

 前述のように北方警備を主目的に設計された艦であるため舷側は高く、船体は耐氷構造となっている。暖房設備は充実しており、艦内は露天甲板に出ることなく移動することが可能であった。当時の日本の艦艇の建造方針である個艦優越主義の下に設計された艦であるため艦自体のスペックは高かったが、大量生産向きではなく、造船工数は9万と後の丙型海防艦の4倍近い工数を必要とした。

 機関は燃費の良い22号10型ディーゼル機関を採用、2基2軸で出力4,050馬力、速力19.7ノットと駆逐艦の70%程度の速力しかないものの、航続距離は16ノットで8,000海里と同じ7弉茲之造された陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里よりも遥かに長大なものであった。搭載している燃料が占守型220トンに対して陽炎型622トンであることからも占守型の燃費の良さが良く分かる。因みにこの22号10型ディーゼル機関は飛行艇母艦秋津洲、潜水空母伊号13型等に採用されている。

 武装は主砲に三年式45口径12センチ単装平射砲3基を装備したが、これは予算の都合上、旧式駆逐艦の「おさがり」であった。大正3年に開発されたこの砲は手動式で射程距離15,000mであるが、仰角が+33°であり、航空機に対しては無力であった。占守型はのちにソナーやレーダーも追加で装備されていくが、この主砲が換装されることはなかった。北方警備が主目的ではあったが、掃海や艦船の護衛等も任務としているため、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷18個、掃海具を装備している。

 そしてこの占守型海防艦に対しては軍艦籍が与えられた。この「軍艦」とは日本海軍の軍制上の用語であり、一般に言う軍艦とは異なる。簡単に説明すると、日本海軍の艦艇には軍艦とそれ以外の艦艇があり、軍艦の方がランクは上であった。このため軍艦の艦首には菊の御紋と呼ばれる金色の菊のエンブレムが取り付けられた。軍艦籍を与えられている艦種は、主に戦艦、空母、巡洋艦等の大型艦艇であり、駆逐艦、潜水艦等には与えられていなかった。

 900トンに満たない占守型海防艦に対して軍艦籍を与えられた理由は、海防艦の主目的が北方海域で活動する日本漁船の警護や救難が任務であったからだ。これらの任務の遂行上、ソビエト連邦の艦船等とやり取りする必要性があることが想定されたため、通常の艦艇よりも上のランクの軍艦籍が与えられたのだった。

 

占守型海防艦の活躍

04_石垣
(画像は石垣 wikipediaより転載)

 

 同型艦は占守、国後、八丈、石垣の4隻で、1番艦占守が1938年11月に起工、続いて国後が1939年3月、八丈、石垣が同8月に起工している。2年弱の建造期間を経て1940年6月30日に占守が竣工、続いて国後が同年10月3日、4番艦石垣が1941年2月15日、遅れて3番艦八丈が同年3月31日に竣工している。

 1940年、6月30日、最初に竣工した1番艦占守は、舞鶴鎮守府に本籍を置き(つまり舞鶴が占守の母港)、第二遣支艦隊、南遣艦隊に配属され、主に南シナ海方面で作戦に当たった。1940年から1941年初頭に次々と竣工した占守型も全て本籍は舞鶴で、2番艦国後、4番艦石垣は竣工後すぐに大湊要港部部隊に編入、3番艦八丈は占守と共に第二遣支艦隊、南遣艦隊と異動したのち、1941年10月には国後、石垣と共に大湊要港部部隊に編入された。ここで占守以外の3艦は本来の目的である北方警備の任に就いた。

 太平洋戦争が始まると2番艦以降は引き続き北方警備の任に就き、1番艦占守のみは南方作戦に活躍した。1942年7月1日には、類別等級が改正、海防艦が軍艦籍から除籍され、ただの海防艦となった。1944年7月10日、4番艦石垣が米潜水艦により撃沈され北方警備の占守型は2隻のみとなったが、1945年1月には占守が大湊警備府に配属、再び姉妹艦3隻が北方の警備、救難等に活躍、終戦を迎えた。

 戦後は空襲で被弾した八丈はそのまま舞鶴で放置、1番艦占守、2番艦国後の2隻は復員船として復員業務に当たったが、国後は静岡県御前崎付近で座礁、そのまま放棄された。八丈は1948年に解体されたが、無事に生き残った占守は戦後に賠償艦としてソビエトに引き渡され、ソビエト太平洋艦隊に編入された。1953年には通報艦、1957年には工作艦に類別変更され運用されたのち1959年5月に退役、解体された。

 

まとめ

 

 戦前の個艦優越主義の下に設計された艦であったため大量生産には向かず、造船工数も丙型海防艦の24000に対して90000と圧倒的に多かった。そして主砲も平射砲で対空射撃は出来ず、爆雷も18個と貧弱であった。しかしこれらの装備は、平時の漁船警護、救難活動等を主な目的として想定していたためであり、個艦としては高性能な艦艇であった。幸運にも戦前に竣工した艦でありながら終戦時には4隻中3隻が残存していたという幸運な型でもあった。

 

 

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01_奄美
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 海防艦とは沿岸防衛用の旧式艦の総称であったが、のちには護衛任務を主任務とする800〜900トンクラスの小型艦艇の名称へと代わっていく。初の新造海防艦は占守型でこれは北方警備を想定したものであった。その後、太平洋戦争が近づくにつれ構造が簡略化され、大量生産されていく。全型合計で178隻が建造され、戦時中は船団の護衛等に活躍、一部は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。最後の海防艦が現役を退いたのは1966年で戦時の簡略化した設計であったとはいえ、20年以上も現役でいられるほど完成度の高い艦であった。

 

日本海軍の海防艦

 

巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍の海防艦とは、本来、沿岸防衛用に使用される軍艦の総称で、英語のCoast Defence shipの邦訳であった。艦種自体は明治時代から存在しており、旧式化した戦艦や巡洋艦、さらには砲艦等の小型艦艇や鹵獲した艦艇等もまとめて「海防艦」と称されていた。つまりは第一線の任務には使用できないものの後方の沿岸防衛用やその他の補助任務には使用可能な艦艇で日本海海戦で旗艦を務めた戦艦三笠や朝日、敷島、富士等の日露戦争時の主力戦艦、出雲や磐手等の巡洋艦も第一線引退後は海防艦として類別登録されていた時期もあった。

 

 

新造海防艦

 

 海防艦とは二線級の旧式艦が指定されるものであったため、当然新型艦等が建造されるはずもなかったが、1930年代に入ると事態は一変する。それはロンドン海軍軍縮条約の締結であった。ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦以降、列強各国の軍事費が財政を圧迫していることから締結された軍縮条約で、1922年のワシントン海軍軍縮条約が主力艦の保有量を制限したのに対して、1930年のロンドン海軍軍縮条約は当時は補助艦扱いであった空母、巡洋艦やそれ以下の小型艦艇の保有量を制限した条約であった。

 この条約により駆逐艦、潜水艦までが制限の対象になったものの、2000トン以下の小型艦艇は対象外とされた。つまりは2000トン以下であればいくらでも建造できるということになり、駆逐艦の保有量まで規制された各国の海軍にとってはいわゆる「抜け道」で、特に規制された駆逐艦の代用艦として2000トン以下の艦艇の建造に各国は注目することとなった。因みにこの対象外とされる基準はトン数以外にも速度が20ノット以内、砲は6.1インチ砲4門以内である。つまりは排水量2000トンで最高速度20ノット、6.1インチ砲4門搭載の艦艇は条約の制限を受けないということである。

 

占守型海防艦

 

02_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

 この条約の締結を受けて日本海軍は早速上記の制限内での艦艇の建造を計画した。特に必要性が高かったのが北方警備用の艦艇でそれまで駆逐艦で「代用」していたものの、高出力、軽構造の駆逐艦は北方の波浪や氷結には弱く、専用艦の開発が求められていた。このため早速、新型艦の建造が計画されたものの、不況の折でもあり、中々予算が通らなかった。結局、1937年度になってやっと新型艦の建造費が承認された。

 この時建造された新型艦が日本海軍史上初めて新造された「海防艦」占守型であった。当時の日本の最北端の島名を与えられた占守型は、まさに北方での漁船の遭難、救出、警備や居留民の保護を主任務と想定して開発された艦艇で排水量はわずか860トンという小型艦であった。しかし防寒装備や氷結防止装置、耐流氷構造を備え、任務上、長期間の行動が可能なように設計されていた。さらには南方での任務も可能にするため通風能力も強力なものであった。この新型海防艦に関しては公表される際、それまでの海防艦の常識とあまりにも排水量が違うために担当者が、本級の排水量860トンを8600トンと書き換えてしまい、それがそのままそれが発表されてしまったというエピソードもあったようだ。

 このように様々な機能を装備された占守型は当時の日本海軍の主流を占めていた思想で、高性能の艦艇を少数建造するという個艦優越主義の影響もあり、精密で複雑な設計となってしまった。このため次級以降は段々と簡略化されていくこととなる。占守型はネームシップ占守が1938年に起工、1940年6月30日に竣工、さらに2番艦国後、3番艦八丈、4番艦石垣も1941年4月までに竣工した。これら占守型は1番艦占守のみ開戦後も南方で任務に就いたが、他の3艦は本来の目的通り、主に北方で活動している。この占守型4隻の内、1隻が米潜水艦の雷撃により撃沈されたものの、他3隻は終戦まで生き残り、1番艦占守は戦時賠償艦としてソビエト連邦に引き渡し、他の二艦は戦後解体された。

 占守型は建造当初は軍艦として艦首に菊の御紋を持ち、艦長は中佐・大佐が充てられていたが、1942年7月の艦艇類別等級の改正により、海防艦は、軍艦籍から排除され、新たに一艦種として海防艦が規定されたため、海防艦の艦首の菊の御紋は外されることとなった。

 

 

択捉型、御蔵型海防艦

 

03_択捉
(画像は択捉 wikipediaより転載)

 

 太平洋戦争開戦が意識され出した1941年4月、日本海軍は戦時建造計画を策定する。この計画には新たに海防艦択捉型30隻の建造が計画されていた。この択捉型の設計は一部簡略化されているものの基本設計は占守型を踏襲していたため占守型の精密で複雑な設計はほとんど変更されることはなかった。占守型との主な相違点は爆雷搭載数が18個から36個に増加されたこと、旋回性能を向上させるために舵を大型化したこと、艦首の構造を簡略化したことである。

 この択捉型が建造されているさ中、海軍は新たに海防艦の対空兵装と爆雷搭載数の増加、誘爆防止装置を装備した乙型海防艦の開発が決定される。このため択捉型30隻中、変更が間に合った11番艦御蔵から合計8隻が乙型海防艦に変更、海防艦御蔵型となった。そして合計で択捉型14隻、御蔵型8隻が竣工した。これら海防艦は当初は乙型と分類されていたが、のちに丙型、丁型海防艦が建造されると甲型海防艦に分類変更される。

 

 

日振型、鵜来型海防艦

 

05_昭南
(画像は能美 wikipediaより転載)

 

 乙型海防艦が建造されている中、さらに戦時型として大幅に構造を簡略化した改乙型の設計が完了した。このため乙型海防艦の内、残り8隻は戦時型の設計が反映された改乙型として建造されたが、この内3隻は日振型、5隻は鵜来型と呼ばれている。これらは、兵装の違いによって日振型と鵜来型に分かれる。日振型は爆雷投射機こそは旧来の九四式爆雷投射機であるが掃海具を備えている型で、これに対して鵜来型は最新の三式爆雷投射機を装備しているが、掃海具を装備しておらず、重爆雷投射兵装艦といえる。端的に書けば日振型は掃海能力、鵜来型は重爆雷能力を持つことが特徴である。

 開戦前の建造計画で日振型3隻、鵜来型5隻が完成、さらにその後の二度の建造計画で新たに日振型6隻、鵜来型15隻が追加された。これらを合わせると建造された改乙型海防艦は日振型9隻、鵜来型20隻である。そしてこの改乙型海防艦も択捉型、御蔵型同様、丙型、丁型海防艦の建造により甲型海防艦に分類変更された。

 この改乙型は、大量生産を意識して設計されたため、船体はの大部分を平面をして艤装も簡略化された。このため造船工数は大幅に減少、占守型の僅か35%の工数で建造できるようになったが、同時に建造時点で開発されていた新兵器(レーダー、ソナー等)は全て採用、戦後も1960年代まで海上保安庁の巡視船として使用されていることからしても、一概に「安かろう悪かろう」の艦とは言えない。

 

 

丙型、丁型海防艦

 

07_第17号
(画像は第17号 wikipediaより転載)

 

 ブロック工法の採用や設計の簡略化により造船工数は3万強と占守型の35%程度にまで削減された大量生産型の改乙型であったが、戦局は厳しくさらなる大量生産が求められた。このためさらに徹底した簡略化が図られたのが丙型、丁型海防艦である。丙型、丁型海防艦の設計にあたっては、それまでの海防艦、戦時標準船の設計で培ったノウハウを全て採用、さらに作り易くするため船体を鵜来型の940トンから800トンと小型化、最高速度も16ノット程度と割り切って設計された。

 数百隻単位の大量生産が計画されたが、ディーゼル機関が必要数を満たせないため、蒸気タービン機関の艦も建造された。ディーゼル機関装備の艦を丙型(第一号型海防艦)、蒸気タービン機関装備の艦は丁型(第二号海防艦)と呼ばれる。一切の無駄を省いたため居住性は最悪、最高速度も丙型が16.5ノット、丁型が17.5ノットと低速で、丁型に至っては海軍初の単軸推進となった。しかし兵装は12センチ高角砲2門と三式爆雷投射機に爆雷120個とそれなりに強力なものであった。

 この結果、造船工数は2万4000と改乙型よりもさらに削減、4ヶ月で建造することを目標としたが、3ヶ月で完成した艦も多い。最短は75日である。総生産数は丙型が56隻、丁型が67隻であるが、損害も多く、丙型は26隻、丁型は25隻が撃沈されている。

 

 

おわりに

 

 最初に新造された海防艦は占守型でその設計を踏襲した択捉型、さらに御蔵型と続く。その後、大量生産向けに設計された日振型、鵜来型が続き、さらに簡略化された丙型、丁型と続く。総生産数は占守型4隻、択捉型14隻、御蔵型8隻、日振型9隻、鵜来型20隻、丙型56隻、丁型67隻である。この内、終戦まで生き残ったのは占守型3隻、択捉型5隻、御蔵型3隻、日振型4隻、鵜来型17隻、丙型30隻、丁型42隻である。終戦時残存艦の多くは戦時賠償として戦勝国に譲渡されたが、日振型、鵜来型の内数隻は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。

 

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01_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 工作艦明石は日本海軍で初めて工作艦として建造された艦であった。能力は非常に高く、当時は国内にすらなかった貴重なドイツ製工作機械を多数装備していた。太平洋戦争中は主に海軍の拠点であったトラック島において活躍。数えきれないほどの艦艇を修理した。1944年パラオにて大破着底、1954年解体された。

 

工作艦とは

 

 軍艦の構造が複雑化、鋼鉄化していくにつれて整備、修理に高度な工作機械、技術が必要になっていった。このような技術は造船所や工廠にあるため軍艦は定期整備にまたは戦闘で損傷した場合にはこれらの施設に入渠することが必要となっていった。

 しかし技術の進歩により作戦海域が広がっていくと整備や損傷のために整備修理能力を持った施設に戻るための時間的損失が問題となっていった。このため世界の海軍は艦艇に工作能力を持たせ、移動工廠とすることを考え始めた。その結果開発されたのが工作艦である。

 

工作艦 明石 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9000トン
 最大排水量 11036トン
 全長 158.5m
 全幅 20.564m
 吃水 6.29m
 機関出力 10065馬力
 最大速力 19.24ノット
 航続距離 8000海里/14ノット
 乗員 艦固定員 336名
    工作部  433名
 武装 12.7cm砲連装2基
    25mm連装機銃2基
 搭載艇 11m内火艇2隻
     9m内火艇1隻
     12m内火ランチ3隻
     12m伝馬船1隻
     6m通船1隻
     30t積運貨船1隻
 クレーン 中央部右舷23トン 1台
      前後マスト10トン 2台
      両舷5トン 2台
 同型艦 1隻

 

特徴

 日本海軍では工作艦の必要性は認められていたものの、予算的な問題で戦闘艦を優先して建造されていた。このため工作艦は艦齢の高い旧式艦に工作能力を付与し、工作艦として活動させていた。最初の工作艦は日清戦争で活躍した軍用船品川丸と元山丸で、さらに日露戦争では三池丸、関東等があった。数こそはあるものの日本海軍の工作艦の非力さはやはり問題となり、ついに新型の工作艦を開発することとなる。

 この工作艦建造は日本初であったため丹念に諸外国の工作艦が調査の対象とされた(特に参考にしたのは米海軍工作艦メデューサ)。調査は1933年頃より始まり、およそ3年後の1936年に基本計画がまとまった。この計画では新型工作艦は平時には海軍工廠の修理業務の代行、戦時には艦そのものが移動工廠として活動することが期待された。

 そしてその新型工作艦は「明石」と命名され、は1937年1月に起工、1939年7月に竣工する。完成した明石は上甲板中央に23トンを1基、10トンを2台、5トンを2台の計5基のデリック、クレーンを装備、搭載艇は本艦用5隻、工作部用7隻の12隻を持つ。

 艦内には17の工場があり、発電能力は戦艦大和に匹敵するものだった。工作機械も当時海軍工廠ですら配備していないドイツ製の工作機械なども含め、艦艇の修理、整備のために必要なあらゆる工作機械が配備されていた。さらに内部には溶鉱炉や溶接設備、木工所まであり部品の製造まで出来たという。このため米軍は明石を最重要攻撃目標に指定していたほどだった。

 

同型艦

明石(起工1937年1月、竣工1939年7月、1944年3月大破着底)

 

工作艦 明石 〜戦歴〜

02_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 竣工した明石は連合艦隊に所属、日中戦争で艦艇の修理に活躍する。1941年12月6日、明石は南洋委任統治領のパラオに移動、さらにフィリピンのダバオ、スラウェシ島のスターリング湾、モルッカ諸島のアンボン、シンガポール等で艦艇の修理や港湾施設の復旧に活躍した。1942年6月には第2艦隊第11航空戦隊所属でミッドウェー海戦に参加、その後、トラック泊地において同海戦で艦首を失うという大損害を受けた重巡最上に仮艦首を付ける工作を行っている。

 1942年8月11日には母港の呉に帰投するが、一週間後の8月18日には内地を離れ、23日にトラック島に到着した。これ以降明石はトラック泊地に停泊、主にソロモン海での戦闘で損傷した艦艇の修理に活躍する。この間に明石が修理した艦艇の数は数百隻に上る。

 1年以上にわたりトラック泊地に停泊して艦艇の修理を行っていた明石であったが、ソロモン諸島での海戦はすでに米軍が優勢となっており、1944年2月17日には後方基地であったトラック基地にすら米機動部隊の空襲を受けることとなった。明石もこの空襲によって命中弾を受けるが幸いにして不発弾であり損傷は軽微であった。

 1944年2月19〜20日、この空襲を受けて明石他連合艦隊の主力はトラック基地を脱出、さらに後方のパラオ基地に後退した。しかし3月30日、米海軍第58任務部隊はパラオを空襲。危険を察知した連合艦隊司令部は戦闘艦を優先して脱出させていたため、主力艦はすでに退避していたが取り残された明石やその他補助艦艇は空襲を受け、次々に攻撃されていった。ついに明石にも爆弾が命中。その後も次々に爆弾が命中した。消火活動の甲斐もなく明石は大破着底した。1944年5月除籍。

 明石の撃沈により連合艦隊は外地での艦艇修理の拠点を失ったため、新たに特設測量艦白沙を工作艦に変更、明石の代艦としたものの、工作艦として当初から設計された明石に工作能力は遠く及ばず、損傷艦の多くは内地または工廠のある港へ長時間かけて帰投する羽目になってしまった。これにより日本海軍が受けた損失は計り知れないものの、すでに戦争も日本は劣勢となっており、明石が活躍したとしても大勢を覆すことは出来なかった。

 パラオの空襲で大破着底した明石は1944年5月に除籍、大破よりちょうど10年後の1954年に解体された。明石は目覚ましい武勲こそはなかったが、戦闘により損傷した艦艇を後方拠点において修理し続けた。これにより日本海軍の戦闘力がどれほど高められたのかは想像に難くない。工作艦明石は、日本海軍の艦艇で唯一戦略に影響を与えた艦と言えなくもない。

 

工作艦 明石(模型)

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ No.566 日本海軍 工作艦 明石

 明石の模型では定番中の定番。模型業界の老舗アオシマの明石。価格も比較的安価で作り易い。私も製作したが作り易く、エッチングパーツを使用しなくても完成度は高い。

 

青島文化教材社 艦これプラモデルシリーズ No.35 艦娘 工作艦 明石

 上記明石と同じくアオシマ製の明石。こちらは艦娘バージョン。金型も新規製作という。通常版よりは若干高くなるが、より高い完成度を求める方はこちら。

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインディテールアップパーツシリーズ 日本海軍 工作艦 明石専用エッチングセット

 アオシマ製明石用のエッチングパーツセット。明石はクレーンが目立つのでエッチングパーツを使用すると外観が大きく変わる。

 

ピットロード スカイウェーブシリーズ 1/700 日本海軍 工作艦 明石 エッチングパーツ付き

 模型店発祥のピットロード製明石。こちらはエッチングパーツ付属のもの。上級者向け。

 

関連リンク

工作艦メデューサ

 

敷島級戦艦

 

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01_零戦
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 零式艦上戦闘機、通称零戦は、堀越二郎技師の設計による三菱製の艦上戦闘機で1939年4月に初飛行、1940年9月13日に初空戦を行った。特徴は圧倒的な運動性能と20mm機銃という強力な火力で日中戦争から太平洋戦争初期には威力を発揮した。太平洋戦争開戦以降も幾度か改良が行われつつ終戦まで使用され続けた。生産は中島飛行機でも行われ、総生産数は10000機以上にも上る。これは日本の航空機生産史上最高である。

 

零式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(五二型)

全幅 11.0m
全長 9.121m
全高 3.57m
全備重量 2.733kg
上昇力 6000mまで7分01秒
航続距離 全力30分+2560km(増槽装備時)
出力 1130馬力
最大速度 565km/h
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 1937年10月5日、三菱と中島飛行機に海軍の次期艦上戦闘機計画要求書が交付された。この要求書では次期艦上戦闘機は格闘戦性能は九六戦と同等にして速度、上昇力、航続距離を大幅に向上させるという不可能に近い要求であった。このため中島飛行機は試作を断念。三菱のみが十二年試作艦上戦闘機製作を行うこととなった。

 

開発

 当時、設計するにあたって使用できるエンジンは三菱製の780馬力瑞星と1000馬力の金星の2基しか存在しなかった。瑞星はコンパクトではあったが馬力が弱く、逆に金星は大型であったが高馬力であった。これらを選考した結果、非力ではあるが、コンパクトな瑞星が選定された。

 エンジンの馬力が弱いことから設計には特に重量軽減と空気抵抗を極力少なくすることに注意が払われた。このため軽量で強度の高い超々ジュラルミン、沈頭鋲の採用、海軍戦闘機初の引込脚や世界初の水滴型増槽も採用された。

 これらの斬新な技術を取り入れた十二試艦戦は1939年3月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行が行われた。1939年9月海軍に領収され、2号機も翌月に領収されている。これら2機の試作機のエンジンは瑞星であったが、1939年中頃に中島飛行機において瑞星よりも軽量小型である栄エンジンが完成したことからエンジンを栄エンジンに換装することとなった。

 栄への換装は増加試作機1号機である通算3号機から行われた。換装の結果、最高速度が533km/hに達する等高性能を発揮したが、1940年3月11日、奥山益美工手(操練21期)が操縦する試作2号機が空中分解事故を起こしてしまう。これは急降下時におけるフラッター異常であり、早速改修工事が行われた。この事故の約3ヶ月後の7月21日、前線からの要望により制式採用前の十二試艦戦15機が前線に送られた。同月24日、零式一号艦上戦闘機一型として制式採用された。

 

零戦11型

02_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

 1939年3月16日、零戦試作1号機が完成した。同年4月1日、初飛行。これが世界初の零戦で量産型と異なりエンジンが瑞星という780馬力という非力なエンジンであった。量産型に比べて胴体が30センチほど短い。この2機の内、2号機は事故で失われている。エンジンを940馬力栄12型に換装した11型は1939年12月28日に初飛行、1940年7月24日正式採用された。この11型は総数64機(wikipediaでは60機)生産されており、太平洋戦争初期まで使用されていたようだ。着艦フックは付いているものと付いていないものがあった。

 

零戦21型

03_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 この11型を改良したものが零戦21型で1940年12月4日正式採用された。この型は11型の翼端を折り畳めるようにしたもので三菱で740機、中島飛行機で2628機生産された。21型は1944年春まで中島飛行機によって生産が続けられ、太平洋戦争初期から終戦まで使用し続けられた。エースパイロットの坂井三郎氏曰く、21型こそが最高の零戦であるという。

 

零戦32型

04_零戦三二型
(画像は零戦32型 wikipediaより転載)

 

 この21型のエンジンを二速過給機付栄21型エンジンに換装し翼端の折畳部分を切断し角型に整形したのが32型でエンジンの換装により馬力が1130馬力に最高速度が541kmに増加したが発動機の燃料消費量の増大と燃料搭載量の減少で航続距離が減少した。さらに20mm機銃が99式1号2型に変更されて装弾数が60発から100発に増加した。1941年7月14日に初飛行、1942年春に実戦配備された。生産は三菱のみで行われ試作3機とは別に343機が生産された。これは前期型と後期型に分かれ後期型は燃料タンクが大型化されている。前期型が188機、後期型が152機生産されている。

 

零戦22型

05_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

 32型の航続距離の短さが問題となり改良されたのが22型で1942年に1号機完成、1943年1月29日に正式採用された。エンジンは栄21型を使用しているが燃料タンクは増設された。翼端も21型と同様の12mに戻される。この22型には甲という武装が変更されたモデルが存在する。甲型は99式1号の銃身を長くした99式2号3型に変更されている。22型はソロモン方面で活躍した。これも三菱製のみで560機が生産されている。

 

零戦52型

06_零戦五二型丙
(画像は零戦52型 wikipediaより転載)

 

 52型は昭和18年8月23日正式採用された。翼幅は32型と同様に11mに縮小したが、翼端は32型と異なり円形に整形された。発動機は栄21型であるが、排気管をロケット式排気管に変更したため馬力が1300馬力に増加。武装は22型甲と同様に99式2号3型で三菱でエンジンに消火装置の無い前期型と消火装置装備の後期型に分かれる。三菱で747機製造された。前期型が370機、後期型は377機である。同時に中島飛行機でも生産された生産数は3573機と言われている。52型の武装を変更したのが甲型で99式2号3型からベルト給弾式の4型に変更した。これによって携行弾数が125発になった。三菱で391機生産されている。中島製は不明。さらに甲型の右胴体銃を3式13mm固定機銃に変更した乙型が存在する。装弾数230発。三菱で470機生産された。中島製は不明。さらに両翼に13mm機銃増設、防弾強化をした重武装型の丙型がある。三菱184機(推定)、wikipeidaでは341機となっている。最高速度541km。

 

零戦53型、62/63型

 

 この52型丙のエンジンを栄31型に換装したのが53型丙で試作機のみ製作された。さらに戦闘爆撃機型の62型/63型も生産されている。62型も63型も同型である。最高速度543km。機体強度を強化、爆弾投下装置新設。栄31型エンジンを装備している機体と栄21型を装備している機体がある。  紆余曲折があったため呼び方が混乱している。三菱両社で約490機が生産されたと推定される。

 

零戦54/64型

 

 最後に製作されたのが54/64型丙で試作機が2機のみ製作された。エンジンを1500馬力金星エンジンに換装。最高速度は海軍側資料では572km。三菱側資料では563km。胴体銃は廃止され、翼内の20mm機銃、13mm機銃各2門となった。最後であり最強の零戦。

 

零式練戦11型

 

 その他、零式練戦11型が日立航空機272、21空廠で243機生産された。零式練戦は練習用の零戦で昭和18年に試作一号機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。複座式、翼端折畳廃止、固定武双は7.7mm機銃のみで20mm機銃はない。零式練戦22型も試作されたが、試作2機のみ。

 

配属部隊

 1940年7月、当時まだ制式採用前であった十二試艦戦15機が第12航空隊に配属されたのが最初である。その後11型として制式採用、9月13日には重慶上空で初空戦を行っている。同月14空にも零戦9機が配属、北部仏印進駐としてハノイに進出した。両航空隊は1941年9月に解隊するが、その間に対空砲火によって3機の零戦が撃墜されている。

 太平洋戦争開戦時に零戦を装備していた部隊は実験部隊でもある横空を除くと、空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴の戦闘機隊が126機、開戦と同時に比島攻撃を予定していた台南空と3空が各45機、さらには22航戦司令部戦闘機隊が27機であった。1942年2月になるとラバウルに進出した4空が9機(10機とも)の零戦を受領、同月より運用を開始した。

 さらに6空(のちの204空)と空母隼鷹、龍驤の戦闘機隊にも零戦が配備された。この空母に搭載された零戦は隼鷹戦闘機隊隊長の志賀淑雄少佐が半ば強引に配備させたものと言われている。1942年8月には二号零戦(のちの32型)がラバウルに進出した2空に配備されており、以降、零戦は各部隊に順次配備されていった。

 

まとめ

 

 同時期に同じく栄エンジン(陸軍名「ハ-25」)を使用した戦闘機一式戦闘機は愛称「隼」として当時から国民に親しまれていたが、実は零戦は戦中ほとんど国民には存在は知られていなかった。この零戦が一躍「ゼロ戦」として有名になるのは、戦後、零戦は著名なエースパイロット坂井三郎『大空のサムライ』のヒットによる。一躍有名になった「ゼロ戦」は現在でも知らない人はほとんどいない名機中の名機である。

 

 

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 タイトルが中々カッコいい。しかしこのタイトル、著者の一人、本田氏曰く編集者が勝手に付けただけで自身は「撃墜王」と自称してはいないそうだ。それはそうと、本書、基本的には零戦パイロットの手記を集めたものだ。元々単行本であったが、文庫化された。

 本書に手記を寄せているのは著名な撃墜王本田稔氏、梅村武士氏、安部正治氏等であるが、戦死した大野竹好氏、中沢政一の日記も載せられていることだろう。当初私は何も知らずに読んでいき、途中で「この後、〇〇上空で戦死」等の注で戦争の悲惨さを感じた。それはともかく、本田氏の手記は主にラバウルでの戦闘について、梅村氏は終戦まで書いている。

 梅村氏はユーモラスな方のようで南方の激戦で確か3回以上撃墜されているが、本書に寄稿した手記にはその悲惨さをあまり出さず、戦地の様子をユーモラスに描いている。私が特に印象に残ったのは最後の

 

「私は若い人達をみるのは楽しい。〜中略〜私達の仲間が尊い命をすてて守ろうとしたものも、そのような若さであったのではなかったろうか・・・」

 

 このくだりに私はちょっと眼頭が熱くなってしまった。安部正治氏はあの有名なエース揃いの部隊、戦闘303飛行隊におり、岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄氏等と同じ部隊で彼らについて書いている部分も貴重である。本書は零戦搭乗員の手記を集めたものの中でもかなり良くまとまっている良書である。

 

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 今日はマニアックな本の書評。神立尚紀『零戦の20世紀』。本書は1997年、私が零戦のパイロットおたく最盛期に出版された本だ。零戦のパイロットにインタビューをしてくれたことと私以外にも零戦のパイロット好きがいたということに感激したという思い出がある。

 本書が上梓されたのは今から20年近く前で、現在では鬼籍に入ってしまっている方々のインタビューも収録した非常に貴重なものである。本書でインタビューに答えている方は、青木與氏、生田乃木次氏、鈴木實氏、進藤三郎氏、羽切松雄氏、原田要氏、角田和男氏、岩井勉氏、小町定氏、大原亮治氏である。さらにあとがきに代えてを志賀淑雄氏が執筆している。

 これらの内、現在(2015年)でも御健在なのは原田要氏、大原亮治氏のみとなってしまった。羽切氏は本書が上梓される前に他界されており、恐らく最後のインタビューだろう。本書でインタビューを受けている方々について簡単に触れておこう。まず、青木與氏は操練9期、中島飛行機でテストパイロットをやっていたベテラン中のベテラン、生田氏は日本で初めて敵機を撃墜したパイロット、鈴木、進藤、志賀氏は言わずと知れた戦闘機隊の名指揮官、その他は名だたるエース達である。

 内容は神立氏の人柄なのだろうか、青木氏が裏口入隊であったことやテストパイロット時代に工場長に「お前は働いているのか遊んでいるのかどっちだ」と言われ、「どっちかわからんほど楽しくやってりゃいいじゃないか」と答え、半田工場に飛ばされたことや、生田氏が当時アイドルだった森光子からラブレターをもらった等、かなり面白いエピソードを語っている。

 もうすでに絶版になって久しいが内容は面白く貴重なものだ。本ブログでも参考にしているエース列伝とは異なった撃墜数を本人が語っている(たぶん)こと等、興味がある方は絶対に購入することをお勧めする。

 

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柳田邦男ほか 著
潮書房光人新社 (2003/11/13)

 

 今日は書評。今日紹介するのは柳田邦男ほか『零戦よもやま物語』だ。この本には零戦搭乗員だけでなく、零戦にかかわった人々、例えば整備員、陸軍軍人として地上から零戦を見ていた等々が零戦の思い出を書いたものである。総勢125人が書いたというが私は数を数えていないので分らないが一人当たりの文章はかなり短い。

 この本の中で注目なのが零戦の設計者、堀越二郎や著名な撃墜王坂井三郎等、現在では故人となられた方々の寄稿であろう。因みにこういう歴史関係の本を読む時に大切なのはこの本が出版された年代なのだ。この本の初出は1982年。ということは1982年現在の話なのだろうかと思うとそうではない。

 あとがきにもあるが、この本は雑誌『丸』で1970年2月号から連載された「零戦とわたし」という小学生の作文のタイトルのような連載を中心に編集された本なのだ。つまりはこの本の中にある「去年、○○氏が他界された」等の記載も1981年ではないということだ。1970年位〜1982年までのいつかの去年ということになる。

 時代背景から考えると1970年〜1982年というと戦争が終わって25年〜37年となる。戦争中の高級指揮官が終戦時50歳としても75歳〜87歳とかなりの高齢になる。この人達の記録を残しておきたかったというのが本書が1982年に出版された理由なのかもしれない。

 それはともかく本書の特色を書こう。本書で私が注目したのは前述の堀越二郎の寄稿以外に数多くの撃墜王が寄稿していることだ。零戦のパイロットおたくとしてはこの本は重要だ。特に18機撃墜のエース増山正男氏は本書以外に寄稿等をされているのをみたことがない。

 私が知る限り唯一の寄稿文である。さらに撃墜マークで有名な谷水竹雄氏もあまり雑誌等に寄稿しないが本書には寄稿されている。逆に著作のある坂井三郎氏や島川正明氏などは著作を直接読んだ方がいいかもしれない。ただ、この本に寄稿しているほとんどの方は現在(2020年)は他界されている。もう二度と作ることが出来ない本である。当時、零戦と共に生きた人々の生の記録であり貴重である。

 

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百田尚樹 著
太田出版 (2006/8/24)

 

 海軍の搭乗員オタクの私としては読んでおきたい本の一つが本書『永遠の0』であった。最近、やっと読了したのでその書評を書いてみたい。

 主人公は司法試験浪人中のさえないにーちゃん。お姉ちゃんはフリーライター。フリーライターのおねーちゃんは主人公におじいちゃんの生涯を調べるのに付き合ってくれないかという依頼がくる。ここから主人公のおじいちゃんの生涯をたどる旅が始まる。主人公のおじいちゃんは元零戦搭乗員。当時の生存者に話を訊くと「臆病者」であったという。そして最後は特攻隊員として戦死する。なんだ、じいちゃんは臆病者で自分もその血が流れているからダメなやつなんだ。と主人公は考える。

 しかし当然、そんな話で終わる訳もない。じいちゃんは実はかなり腕のいい搭乗員だった。そして臆病者と言われたのにも訳があり、特攻したのにも訳がある。最後は今までの登場人物が意外な伏線として登場する。「臆病者」のじいちゃんがそうさせているのではないかと思いたくなるような不思議な偶然が起こる。

 本書は、零戦の会会長の神立尚紀氏が関わっていると聞いている。零戦搭乗員関係では日本で一二を争うほど詳しい方だ。元零戦搭乗員からの信望も厚い。なので零戦搭乗員の描写もかなりリアル。私からすれば、実在している(していた)いろんな搭乗員達の経験をごちゃまぜにしたのがよくわかる。要するにリアルだということだ。作中に登場する搭乗員のエピソードはほぼ事実だ。太平洋戦争中に海軍の搭乗員の誰かがやったエピソードであることが多い。

 全体的に伏線が多い作品だ。ただ、元放送作家であるからなのか、伏線も小説としてみるとちょっと軽い感じがする。これが映画やテレビ作品だったら完璧だったと思う。小説ってのは結構考えながら読むので伏線があまりにも単純だとイマイチ世界に入りきれない。それと作品全体にマスコミに対する批判が多い。確かに当時のマスコミには批判されるべきことが多いのは事実。ただ、あまり勧善懲悪なのが気になる。

 

 

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一ノ瀬俊也 著
中央公論新社 (2016/7/20)

 

レビュー要約

 

 本書は、内容が天皇の戦争責任等のデリケートな話になることから断定を避けるような書き振りがあり、著者が全体的に迷いながら書いている印象があり、著者の意見が分かりにくい。さらに序章で本書の内容を前半と後半に分けるということを書いているがそれも一つの本にテーマが二つあるということになり、分かりにくさに輪をかけている。

 内容は結構なボリュームであるが、結論も結局、人間というのは自分が目の前で体験したことくらいしか原因を追究しようとしないというような感じのものであるが、これ自体も明確な「結論!」「私の意見!」というような感じではなくボンヤリとした感があり、首肯できるものの、ここまでの労力をかけた作品にしては結論がちょっとぼんやりしすぎているというのが率直な感想である。

 

レビュー

 

 最近、書評ばかり書き過ぎていい感じに訪問者数も減ってきたし、私もちょっと書評を書くのに飽きてきたところだったが、また書評を書いてしまおう。今回は一ノ瀬俊也氏の『戦艦武蔵』を読んでみた。一ノ瀬氏が戦艦武蔵をテーマにしたのは同型艦大和に比べて武蔵は地味で暗いイメージがあることに疑問を持ったことによるようだ。

本書を読む上で大切なのは本書は最新の歴史学の成果や発見で「戦艦武蔵がここまで分かった!」というようなものではない。戦艦武蔵を題材に太平洋戦争の主に大艦巨砲主義と航空主兵主義等の海軍内部の問題、から歴史学的な問題意識から戦争をどうとらえどう継承していくかというところまで行く。

 著者の一ノ瀬氏は日本近代史の専門家だ。今まで『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』等、歴史史料を駆使して今までにない視点から近代戦争史を分析してきた人だ。その著者が歴史学的な問題意識にまで踏み込んだのは本書が初めてなのではないだろうか。

 ただ、本書はちょっと詰め込み過ぎの感はある。前半は戦争とファンタジー、後半は戦争を当事者達はどう描き、それが戦争を知らない世代にどう継承されていたのかを描いている。実は、私は「戦艦武蔵には噴進砲が装備されていた!」的な内容を期待していたのだが・・・。 それはそうと、前半は戦争体験者は戦争をリアルに感じ、戦争を知らない世代は戦争をファンタジーと感じるというのは違うということを書いている。

 戦中派でも実際に戦争をしている最中でも戦争にファンタジーを感じることもあるとする。それはそうだと思うが、そもそもファンタジーとリアルの定義があいまいである。本書中の戦争中のファンタジーの例を見ると、当事者の夢や希望がファンタジーとして扱われている。これがファンタジーであるならば世の中全てがファンタジーなのではないかと思ってしまうこともある。まずは何がファンタジーで何がリアルなのかという定義をするべきだと思う。  

 戦争を知らない人間が戦争をファンタジーとして捉えることの問題点は、戦争に対して自身の理想を投影し、現実の殺し合いや各種残虐行為という「リアル」が見えなくなってしまうことだ。これによって戦争を無邪気に賛美することになってしまう。著者は戦争当事者自身もファンタジーであると結論付けるが、そうなると上記の戦争を理想化する問題は戦争当事者も理想化してしまうことになる。要するに戦争を知らない人、戦争の当事者共に戦争は理想的なものという結論になってしまう。

 それではそういう結論になることによって我々、今を生きる人々にとってその結論から何を得られるのかということを語らなければならない。「こういうことがありました」では学問にならない。それは史料を羅列したのと同じことだ。学問であるならば、この結論によって著者は何を主張したいのかというのを明確にしなければならない。

 後半部分になると主な問題意識は戦艦武蔵の撃沈を中心になぜこのような悲惨なことになったのか、海軍士官と下士官の違いから戦中戦後の意識の違いから分析する。日本にはなぜこうなったのかという原因を追究する姿勢がないという結論に落ち着いたようだ。本書は近代史を専門とする歴史学者が戦争責任等のデリケートな内容にまで踏み込んだということでは意義がある。しかしどこかしら明確な結論を出すことを避けている感があるのが残念だ。

 しかし私は著者の基本的なスタンスが歴史学会の標準的なスタンスにあることが分かったのでこれは良かった。つまり、左右問わず思想的なものを極力排除して合理的な結論を導き出す作業を行っているということだ。ただ思想的なものを排除した結果、結論もありきたりになってしまったのが残念だ。

 

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角田和男 著
潮書房光人新社 (2008/9/1)

 

 異色の空戦記といっていいだろう。何が異色かというとうまく言えない。ただ、本書は輝かしい空戦の様子を記した本ではない。私のように零戦搭乗員の手記を読みまくった人間は本書の冒頭から意表を突かれる。搭乗員が搭乗員を目指した理由というのは、ほとんどの人が「空に憧れていたから」なのだ。

 これは空戦記が好きな人間でなくても大体想像できると思う。しかし本書の著者、角田和男氏は違う。著者は飛行機には全く興味が無かったという。家が貧しく食い扶持を減らすためだったという。少年開拓団と少年飛行兵で悩んだ結果、少年飛行兵を選んだ。

 角田氏は予科練乙種5期の出身だが、実は乙4期も受験していた。しかし、数学は満点だったものの、国語の成績が5点足りなかった。残念ながら不合格となり翌年5期生として採用された。その後、角田氏は航空兵としての訓練を受けて実戦に参加することとなる。

 多くのベテラン搭乗員がそうであるように著者も激戦地ラバウルに送られる。中でも興味深いのは連合軍が赤十字の施設に武器弾薬を保管していたことや著者が体験した慰安婦の実態だろう。慰安婦問題に関心がある人は読むべきだろう。実態の一つがよく分かる。

 それはそうと、著者が本書で一番書きたかったことはタイトルにもあるように「特攻」についてだ。本書後半部分の特攻に関するリアルな描写はかなり衝撃的であり、そして悲しい。ある時、著者は下士官の搭乗員宿舎に向かう。しかし隊舎に向かう途中、先任兵曹にこう言われる。

 

「ここは士官の来る場所ではありません」

 

 しかし、著者が下士官出身の特務士官であることに気が付き、搭乗員隊舎に入ることを許されるが、そこで著者が目にした光景は昼間、元気よくしていた特攻隊員達が黙って座っている姿だった。怖くて眠れないという。そしてそれを囲むように特攻隊に指名されていない搭乗員達も起きている。

 申しわけなくて眠れないという。そして翌朝、特攻隊員達は元気いっぱいに飛び立っていくという。特攻隊員の気持ちというのは指名された人間にしか分からないだろう。当然、私も分からない。しかしこういった書籍を読むことで少なくとも頭の中で理解することだけはできる。それが本の意義だ。

 本書は著者の人柄がにじみ出ている。著名な撃墜王、西沢広義が著者に部下を厳しく育てなければダメだと注意する。しかし著者にはそれが出来ない。そして列機を失っていく。しかしまた新しい部下が自分を著者の列機にしてくれとくる。そしてその部下も失ってしまう。それでも著者は部下に厳しくできない。

 著者を慕っている部下が次から次へと列機にとくるという。優しすぎる零戦乗りだった。また別のエピソードもある。著者の部下が佐官に殴られたという。著者はその佐官に殴りかかる。しかしその佐官は強かった。著者が苦戦していると今度は部下達が著者を守るために突入してきたという。

 本当に部下に愛された人だったのだと思う。そして戦後も部下達のことを毎日思い出すという。本書は私が読んだ搭乗員の手記の中でも私が特に好きなものだ。因みに本書で面白いのはフィリピンに著者がいたとき、著者の部屋にベテランパイロットたちが集まって空戦談義をするという件だ。

 そのベテラン搭乗員というのは、零戦虎徹、岩本徹三、そして西沢広義、斎藤三朗等錚々たるメンバーだった。真正面から空中戦を挑む西沢に対して、ドッグファイトには参加せず、被弾した敵機や逃げる敵機ばかりを狙って撃墜する岩本と、それぞれの戦法の違いと議論というのは面白い。本書は大著ではあるが、内容は充実しており、かなり貴重なものだ。是非読んでもらいたい。

 

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森 史郎 著
文藝春秋 (2015/12/15)

 

 今日は、零戦搭乗員戦記の名作『海軍戦闘機隊』の著者、森史郎氏の著書『零戦7人のサムライ』について書いてみたい。本書は零戦搭乗員6人について森氏が本人や関係者に聞き取り調査をして執筆したものだ。登場する搭乗員は、新郷英城、志賀淑雄、上原定夫、鈴木実、杉田庄一、岡元高志、大黒繁男の各氏である。

 本書は森氏の独自調査による内容であり、著名な搭乗員、新郷英城氏、志賀淑雄氏、杉田庄一氏等についても今までにない新しい情報等があるが、特に私が興味を惹いたのはあまり知られていない戦闘機搭乗員、上原定夫氏、岡元高志氏について詳しく書いてあることだ。

 上原定夫氏はあの著名なエース、坂井三郎氏と同じ台南空に所属し、初期の航空撃滅戦、ラバウル航空戦に参加した。その後マラリアを患って静養、フィリピンで特攻隊の援護任務についた。戦後はジェット機、ヘリコプターの搭乗員として活躍した飛行機一筋の人生だった。自分の戦果をアピールしない人だったようなので撃墜戦果はあまり知られていない。因みに『日本海軍戦闘機隊』によると撃墜数は10機とある。

 まあ、撃墜数自体は一般的に誤認が多く、撃墜もチームプレイであることからあまり意味のあるものではないが、一応書いておく。というのは、上原氏が生前、遠慮がちに「坂井三郎氏が撃墜王になれたのは自分が敵機を引き付けたからだ」というようなことを語っていたからだ。これは敵機撃墜がチームプレイであるということをよく表している。

 岡元高志氏の部分は本書の中でも歴史の証言というのに相応しい。インド洋で英空母ハーミスを撃沈した際、零戦隊がハーミスから脱出した水兵を面白がって銃撃していたこと、同じく日本人搭乗員がガダルカナルでパラシュートで脱出した米軍パイロットを撃ち殺したこと、逆に脱出した日本軍搭乗員を米軍が対空機銃で日本軍搭乗員を形が無くなるまで撃ちまくっていた等、戦争が決してきれいごとではないことが分かる。

 さらに戦争後期になると若年搭乗員が体調不良を理由に出撃を嫌がったりといったこともあったようだ。特に衝撃的なのはフィリピンで航空隊司令が部下の士官搭乗員に対して「戦闘行動には特務士官を使え、戦争が終わっても大切な身体だから大事にしてくれ」と語っていたのを聞いてしまったという件だろう。特務士官というのは兵隊からの叩き上げ士官のことだ。

 かなり重い話になってしまったが、戦後70年が経ち、太平洋戦争がすでにファンタジーの世界になり、妙に美化されるようになった現在、貴重な証言といえる。

 

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岩本徹三01
(画像は岩本徹三少尉 wikipediaより転載)

 

エースとは・・・

 

エースパイロットの定義

 まず基本的なところから押えておきたい。「そもそもエースってよく聞く言葉だけど、そもそも何?」まずはそこら辺からはじめてみよう。

 エース・パイロット(米・英:Flying Ace フライング・エース、仏:As アス、独:Fliegerass フリーガーアス、日本:撃墜王(げきついおう))は、多数の敵機(現在は5機以上)を主に空中戦で撃墜したパイロット(主に戦闘機パイロット)に与えられる称号。航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。

(wikipediaより転載)

 

 一般的にエースとは「切り札」と言う意味で曖昧であることが多いが、航空機パイロットの世界では、エースとは明確に定義された称号である。この称号は第一次世界大戦に生まれたようだ。当初は10機以上撃墜したパイロットをエースと称したが、のちに5機以上に変わり現在に至っている。つまり湾岸戦争、イラク戦争で「エースが生まれた」という話を聞いたら優秀なパイロット・・・だけではなく、5機以上撃墜したパイロットだということだ(湾岸戦争、イラク戦争でもエースは生まれたようだ。)。

 

日本海軍の場合

 まあ、簡単ではあるが、エース(撃墜王)については分ってもらえたと思う。ここで日本海軍の撃墜王について書いてみたい。日本海軍にはエースという概念は無く、5機以上撃墜したところで何も変わらない。個人撃墜も1943年中盤までは記録されたようだが、その後は戦闘報告書に部隊戦果のみが記録されたようだ。また、搭乗員自身も撃墜数をカウントしていない、または途中からカウントすることを止めてしまったということもあるように日本海軍においてはあまり個人撃墜数をカウントするという習慣はなかった。

 さらに日本海軍は当初は3機編成で一個小隊を編成しており、小隊長を先頭に左右に二三番機が続く。撃墜は小隊長がまず攻撃をして2番機、3番機はこれを援護、小隊長が撃ち漏らした場合、2番機、そして3番機と続いて攻撃したようだ。さらに中隊長クラスの部隊指揮官は全体を観て指示を出すという形であったようだ。このように有機的な連携の下に戦闘は進められていく。撃墜とはチームプレーの結果であった。

 この連携の中では当然小隊長の撃墜数が多くなるのは当然だ。現に撃墜王の多くは下士官の小隊長クラスであった。これに対して2、3番機、中隊長等は撃墜数は少なくなってしまう。中隊長クラスともなると撃墜数が5機に満たないという搭乗員も多く存在する。しかし彼らの撃墜数が少ないのは役割上仕方のないことであり、撃墜数と搭乗員の優劣は一概に比例する訳ではない。

 

撃墜確認方法

 その撃墜数についても搭乗員の自己申告である場合がほとんどであった。もちろん嘘を申告する搭乗員は少ないが激しい戦闘のさ中であり、搭乗員自身が撃墜と判断しても、現実には空中分解、または地上に激突等最後まで確認することは難しい。その結果、戦闘が激しさを増し、搭乗員の練度が低下してくる戦争中盤以降になると日本、連合国共に誤認戦果が多くなる。

 その結果、撃墜戦果は実際の2倍、3倍になる場合もあり、時には10倍以上の戦果を報告したこともあった。これは日米双方にあることだが、日本の搭乗員の方がアメリカの搭乗員より戦果を誤認することが多かったようだ。つまりは本人が確認した撃墜スコア自体も事実ではない可能性がある。

 

公認・非公認

 日本海軍戦闘機隊という本は、日本海軍のエースをほぼ網羅した画期的な本であり、私も参考にしている本だが、この本の文中に「公認」「非公認」という基準が多くみられる。しかし前述のように日本海軍にはエースを公認するという制度はない。この公認とは戦闘報告書に記載があるものを「公認」、記載が無く個人が主張しているものを「非公認」としているようであるが、戦闘報告書の「公認」戦果も搭乗員の主張を報告書にしたものであり、あまり違いはない。

 

まとめ

 

 要するに撃墜数とは搭乗員の能力を測る客観的な数値ではなく、事実かどうかも定かではないというあくまでも重要性の低い一つの目安である。多撃墜搭乗員でも誤認している場合も多く、撃墜スコアが全く無い搭乗員でもベテランは存在する。私の記事には撃墜数も記載はするが、以上のことを踏まえた上での記載であることを確認してほしい。

 

01_浅間
(画像はwikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦浅間級は日露戦争前に就役、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争に参加する。特に2番艦常磐は太平洋戦争においても敷設艦として第一線で活躍、大破しつつも撃沈されることなく終戦を迎えたという殊勲艦であった。両艦共に戦後解体処分されている。

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9700トン
 最大排水量 -トン
 全長 134.72m
 全幅 20.45m
 吃水 7.4m
 機関出力 18000馬力
 最大速力 21.5ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 661名
 武装 45口径20.3cm砲連装2基
    40口径15cm砲単装14基
    40口径8cm砲単装12基
    4.7cm砲単装8基
    45.7cm水上発射管1門
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1番艦浅間は1899年に竣工した。艦首に衝角を装備した最後期の軍艦である。主砲は20.3cm連装砲で前後に1基ずつという当時の一般的なレイアウトであった。主砲の射程距離は18000mで発射速度は2発/分である。最大仰角は30°、俯角5°、揚弾は電動で各砲120発の砲弾が搭載されていた。装甲はハーヴェイ鋼で喫水線を中心に配置されている。

 

同型艦

浅間(起工1896年10月、竣工1899年3月)
常磐(起工1897年1月、竣工1899年5月)

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜戦歴〜

02_常磐
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦浅間は1897年10月に就役、一等巡洋艦に類別される。1900年には義和団の乱鎮圧に出撃、日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦で活躍した。第一次世界大戦では巡洋艦出雲、戦艦肥前と共にアメリカ西海岸での哨戒任務についた。その際にメキシコで座礁事故を起こしている。1921年9月、一等海防艦に類別変更。1935年10月には瀬戸内海で再び座礁。この座礁での損傷により練習艦となった。1945年11月除籍、1947年に解体された。

 2番艦常磐は1899年5月に竣工、同年7月に就役する。1900年、姉妹艦浅間と共に義和団の乱の鎮圧に出撃、日露戦争でも活躍する。第一次世界大戦では青島攻略に参加、1921年9月一等海防艦に類別変更。1922年から1923年にかけて敷設艦に改造された。その後、日中戦争にも参加、太平洋戦争開戦後はマーシャル諸島に展開、1943年6月、本土に帰投。日本近海で機雷敷設や訓練に従事する。1945年8月、大湊で米軍機の空襲を受け大破した状態で終戦を迎える。1945年11月除籍、1946年解体される。

 

装甲巡洋艦 浅間級(模型)

 

1/700 日本海軍一等巡洋艦 浅間

 義和団の乱鎮圧から日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と活躍した浅間級巡洋艦の1番艦浅間の模型、1/700スケールモデル。

 

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01_第十六号輸送艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争開戦後に計画、設計され後期に実戦に投入された強行輸送艦である。21隻就役した内、16隻が撃沈されたが、生き残った5隻の内の1隻には数十回の輸送任務を全うした日本海軍中最高の「幸運艦」も存在する。戦後は復員船、捕鯨船として活躍する。

 

第一号輸送艦 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 1500トン
 最大排水量 1965トン
 全長 96m
 全幅 10.2m
 吃水 3.6m
 機関出力 9500馬力
 最大速力 22ノット
 航続距離 3700海里/18ノット
 乗員 148名
 武装 40口径12.7cm砲連装1基
    25mm機銃3連装3基
    25mm機銃連装1基
    25mm機銃単装4基
    爆雷投下軌道1条
 同型艦 21隻

 

特徴

 1944年に竣工した日本海軍の強行輸送艦である。敵制空権下での輸送を前提としているため速力は22ノットと高速である。ガダルカナル島での補給が問題化した1943年4月に計画され、同年11月に起工された。

 短期間で大量に建造するためにブロック工法、電気溶接が採用され、終戦までに21隻が建造された。機関はタービン機関を採用したが一軸推進であったため非常時には不安のあるものだった。武装は対空機銃の他に爆雷を装備、さらにはレーダーやソナーが装備された。

 補給物資は大発4隻、補給物資260トン、特二式内火艇であれば7両、または甲標的2隻、回天ではれば6隻を搭載することができる。艦尾はスローブ状になっており大発や特殊潜航艇の洋上発進も可能であった。

 物資輸送以外にも機雷敷設任務に使用されたりと活躍したがその分、損害も大きく21隻中終戦時に生存していたのは5隻のみであった。就役したのが1944年5月で活躍したのが1年半にも満たない期間であったことを考えるとその損耗率の高さは尋常ではない。

 

第一号輸送艦 〜戦歴〜

02_第十三号輸送艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦が就役したのが1944年と戦争後半であったため、主に中部太平洋からフィリピン及び日本の島嶼部への輸送で活躍したが、制空権、制海権も失った海域での輸送のため主に航空機、潜水艦の攻撃により21隻中16隻が撃沈された。終戦時残存の5隻は復員船、のち捕鯨船として活躍した。3隻はその後解体される。残り2隻は戦時賠償艦として13号がソビエト、16号が中華民国に引き渡された。

 ソビエトに引き渡された13号は1947年にチュメニウラと改称され機雷敷設艦となり、1948年7月には類別変更され救難艦となりさトゥールンと改称された。1964年2月除籍、スクラップとして売却された。中華民国に引き渡された16号は武夷と改称され輸送艦として活躍、1954年に廃艦となった。

 

9号艦の奇跡

 この21隻建造された第一号輸送艦の中で特に9号艦は顕著な活躍をした。9 号艦は1944年9月20日呉で竣工、10月には早速輸送任務に従事、甲標的2基をフィリピンに輸送した。この当時、ミンダナオ海では甲標的に熟知した原田覚司令の下、甲標的が作戦に使用され実績を上げていた。

 その後もレイテ増援輸送作戦(多号作戦)に参加、数度に亘って物資の輸送に成功、12月には米艦隊と交戦する。1945年1月には香港経由で本土に物資を輸送。その後も横須賀、父島間の輸送に12回も成功する。8月には特殊潜航艇海龍を佐伯に輸送、呉で終戦を迎えた。

 戦後は復員船として活躍。1947年戦時賠償として米国に譲渡されるがそのまま太平洋漁業(現在のマルハニチロ株式会社)に貸し出され捕鯨船として活躍、捕鯨船としての職務を全うし1948年6月26日解体された。

 短期間の活躍ながら危険な輸送任務を数十回にわたり実施して生還した幸運艦である。この武勲に対し1944年にと1945年の二回にわたり軍艦表彰を受けている。この第一号輸送艦9号の作戦遂行、生還はこの時期の作戦を行った海域の危険性を考えると奇跡中の奇跡と言っていい。

 他にも駆逐艦雪風や空母隼鷹など幸運艦と呼ばれる艦は数隻存在したが、この9号艦の奇跡は世間ではほとんど知られていない。

 

第一号輸送艦(模型)

 

タミヤ 1/700 ウォーターラインシリーズ No.501 日本海軍 1等・2等輸送艦

 現在発売されている第一号輸送艦の模型はタミヤから発売されているこのモデルだけのようだ。二等輸送艦とセットであり、私も購入し製作したが、ストレスなく短時間で完成するので楽しい。非常に安価で完成度も高いのでかなりお買い得のモデル。

 

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二等輸送艦

 

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01_二等輸送艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 陸軍ではSB艇と言われた二等輸送艦は太平洋戦争の中期に輸送艦不足から短期間に設計、ブロック工法で大量生産された本級は多くの戦場への物資輸送に従事、戦後は復員船として活躍した。しかし戦争後期に建造されたため損害もまた多かった。

 

二等輸送艦(SB艇) 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 810トン
 最大排水量 1040トン
 全長 80.5m
 全幅 9.1m
 吃水 2.33m
 機関出力 2500馬力
 最大速力 16ノット
 航続距離 2700海里/15ノット
 乗員 99名
 武装 40口径8cm砲単装1基
    25mm機銃3連装2基
 同型艦 69隻

 

特徴

 本艇の建造にはブロック建造方式が採用された結果、二等輸送艦はわずか60日で艦が完成されるという常識を打ち破った建艦スピードを達成した。1943年11月に第一艦が起工されて以来、終戦までに69隻が建造された。搭載能力は九七式中戦車であれば9両、九五式軽戦車であれば14両、特二式内火艇カミ車であれば7両、同時に陸戦隊員200名と1週間分の弾薬、食糧を搭載することができた。

 艦首のハッチを開けることで海岸からの揚陸が可能である米軍でいうLSTの機能も持っていたが米軍のLSTが建造されたのはこのSB艇より後だったという。因みにこの二等輸送艦は海軍の水陸両用車も搭載可能だったが、これらの車両を洋上で発進させることも可能であった。戦時の大量生産にしては意外にも高性能だった。

 

二等輸送艦(SB艇) 〜戦歴〜

02_二等輸送艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 短期間で大量生産された本級の内、22隻は陸軍によって運用された。フィリピン方面で多用されたが、戦局が劣勢になった状態での運用によって相当数の犠牲が出た。その他硫黄島などへの輸送任務にも活躍しており、戦後は復員業務に活躍したのち戦時賠償艦として引き渡されるか解体された。

 

二等輸送艦(SB艇)(模型)

 

タミヤ 1/700 ウォーターラインシリーズ No.501 日本海軍 1等・2等輸送艦

 定番の1/700スケールタミヤウォーターラインシリーズ。値段もお手頃で短時間で作り上げることができる。

 

ピットロード 1/350 日本海軍 輸送艦 二等輸送艦 第103号型

 模型店発の模型メーカーピットロードの二等輸送艦。スケールが1/350と大きい。じっくり作りこみたい方向け。

 

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01_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦出雲級は日露戦争開戦前に竣工、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争で活躍した40年以上の艦歴を持つ巡洋艦である。特に1番艦出雲は日露戦争以後も第一線で活躍することが多く、日中戦争、太平洋戦争においても艦隊旗艦を務めたという驚異の戦歴を持っている。

 

装甲巡洋艦 出雲級 〜概要〜

 

性能(竣工時)

 通常排水量 9773トン
 最大排水量 -トン
 全長 123m
 全幅 20.9m
 吃水 7.4m
 機関出力 14500馬力
 最大速力 20.8ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 648名
 武装 45口径20.3cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装14基
    40口径8cm砲単装12基
    47mm機砲8基
    45.7cm水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 10.2cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

02_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 未だ自国で巡洋艦を建造する能力を持たなかった日本がイギリスのアームストロング社に発注した装甲巡洋艦である。艦首には当時、まだ効能があるとされていた衝角(体当たりして敵艦を撃沈するための角)が水面下に装備されており、これも当時有効とされていた魚雷発射管も装備されていた。

 機関は石炭を使用するレシプロ機関であったが、1930年代前半から中盤までに老朽化のため石油石炭混合機関に変更されている。装甲は同時代の巡洋艦に比べて強固で材質は当時最新のクルップ鋼が使用されている。

 主砲は45口径20.3cm砲で射程距離18000m、2発/分の発射速度がある。出雲級は艦歴が長いために武装も時期によって異なっている。当初は上記の武装であったが、1924年には8cm速射砲と47mm機砲、魚雷管の一部が撤去された代わりに8cm単装高角砲が1基搭載され、1945年には主砲と副砲の一部が撤去され、40口径12.7cm高角連装砲2基、単装4基(磐手は3基)、13.2mm単装機銃2門が装備された。

 

同型艦

出雲(起工1898年5月、竣工1900年9月、除籍1945年11月)
磐手(起工1898年11月、竣工1901年3月、除籍1945年11月)

 

装甲巡洋艦 出雲級 〜戦歴〜

03_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦出雲は1900年9月に竣工した。日露戦争では蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。第一次世界大戦では当初はアメリカ西海岸海域での船団護衛などに活躍、さらに第二特務艦隊旗艦として地中海マルタ島に派遣され、船団護衛に活躍した。

 戦後は練習艦として運用され、1922年には巡洋艦から海防艦に類別変更された。1932年には艦隊旗艦としての機能を充実させるために作戦室が増設され、1934年には水上偵察機が搭載されるようになった。1937年には第三艦隊旗艦として上海に展開、太平洋戦争開戦後も中国で作戦行動を続けた。1942年7月には再び類別変更が行われ一等巡洋艦となる。1943年内地に帰投、練習艦として運用される。1945年7月の呉軍港空襲で転覆、着底、1947年に解体される。

 2番艦磐手も1番艦出雲と同様に日露戦争では蔚山沖海戦、日本海海戦に参加、1921年に海防艦に類別変更、主に練習艦として活躍する。1942年には出雲と同様に一等巡洋艦に類別変更、1945年7月に呉軍港空襲で沈没、戦後に解体された。

 

装甲巡洋艦 出雲級(模型)

 

1/700 日本海軍一等巡洋艦 出雲

 1/700スケールの出雲。定番のスケールのため他の艦船との比較が容易。完成度も比較的評判の良いモデルなのでおすすめ。

 

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起重機船さんこう

 

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01_起重機船さんこう
(画像はwikipediaより転載)

 

 起重機船とはクレーン船のことで基本的には自走能力の無い浮桟橋のようなものにクレーンが付いている船のことだ。起重機船さんこうは大正時代に日本に輸入され、戦艦大和の建造、戦艦伊勢の航空戦艦化などに活躍した。2020年現在も現役で活躍している。

 

起重機船 さんこう 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 5011トン
 最大排水量 -トン
 全長 82m
 全幅 5.5m
 全高 28.8m
 同型艦 1隻

 

同型艦

さんこう(起工1921年5月、進水1922年12月、竣工1923年7月)

 

起重機船 さんこう 〜経歴〜

02_起重機船さんこう
(画像はwikipediaより転載)

 

 起重機船さんこうは、1921年にイギリスのコーワンズ・シャルドン社で製造された建造当時では世界最大の起重機船であった。部品として日本に輸入され、三菱重工神戸造船所で起工、1923年に竣工する。1937年には水中速力21ノットという当時としてはケタ違いに高速であった71号艦(潜水艦)の進水作業を行い、戦艦大和の建造にも活躍した。太平洋戦争開戦後の1943年には戦艦伊勢の航空戦艦化改装作業や水上機母艦千歳艦橋部取付を行う。

 終戦後の1946年には航空戦艦伊勢、日向、巡洋戦艦榛名の解体作業、1947年には日露戦争以来の殊勲艦である巡洋艦出雲の解体作業、1948年には呂27号潜水艦の解体作業を行う。1974年には沖縄国際海洋博覧会の海上実験都市アクアポリスの建造にも携わった。近年では岩国基地拡張工事、2015年には新笠岡港での大型変圧器揚陸に活躍した。現在は日興産業株式会社(広島県)所有のクレーン船として活躍している。

 

起重機船 さんこう(模型)

 

トミーテック 1/700 技MIX KC03 300t 海上起重機船 公称3324号

 伝説の起重機船さんこうが模型化しているのはあまり知られていない。発売しているのはトミーテックで艦船模型の一般的なサイズである1/700スケール。同スケールの艦船は多いので色々遊べそうだ。

 

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01_飛行艇母艦秋津洲
(画像はwikipediaより転載)

 

 秋津洲は日本海軍が飛行艇の長大な航続距離を活かした攻撃を行うための拠点として建造された飛行艇の補給、整備のための専用艦である。3隻の建造が計画されたが完成したのは秋津洲1隻のみであった。戦争後半では飛行艇の支援よりも輸送任務で活躍している。

 

飛行艇母艦秋津洲 〜概要〜

 

性能(竣工時)

 通常排水量 5000トン
 最大排水量 -トン
 全長 114.8m
 全幅 15.8m
 吃水 5.4m
 機関出力 8000馬力
 最大速力 19ノット
 航続距離 8000海里/14ノット
 乗員 338名
 搭載能力 航空燃料689トン
      航空魚雷36本
      爆弾800kg30個、500kg15個、250kg100個、60kg100個
      最終時のみ魚雷艇5隻
 武装 40口径12.7cm高角砲連装2基
    25mm連装機銃2基
    九四式爆雷投射機1基
 同型艦 1隻

 

特徴

 飛行艇母艦秋津洲は日本海軍独自の戦術である飛行艇による長距離攻撃を行うための洋上拠点として建造された飛行艇補給、整備をするための専用艦である。同型艦は3隻建造予定であり、以降も多くの飛行艇母艦の建造が計画されたが、完成したのは秋津洲のみである。

 艦尾には二式大艇を吊り上げることが出来る35トンクレーンを装備、飛行艇を艦上に上げて整備、補給を行うことが出来る。但し、この状態で航行することは想定されていない。艦内には燃料、弾薬の他、工作室もあった。外観上の特徴は独特の迷彩塗装で攻撃力がほぼ無い秋津洲のせめてもの防御策であった。

 

同型艦

秋津洲(起工1940年10月、竣工1942年4月、1944年9月沈没)

 

飛行艇母艦秋津洲 〜戦歴〜

 太平洋戦争開戦後の1942年4月に竣工した秋津洲は5月にはラバウルに進出した。同戦域には飛行艇部隊の横浜航空隊が展開しており、横浜空への支援任務に活躍した。8月には、さらに前線に近いショートランド島に進出。この地に進出している飛行艇部隊の支援を行う。12月には本土に帰還、横須賀で整備を受けたのち、1943年1月には再びショートランド島に進出、2月からはマーシャル諸島、ギルバート諸島などで活動した。6月には千島列島の幌筵島に移動、キスカ島撤退作戦の支援にあたる。キスカ島撤退作戦終了後は、輸送任務に活躍した。1944年8月には工作艦不足から工作艦に改造されるが、11月米艦載機の攻撃により撃沈された。

 

飛行艇母艦秋津洲(模型)

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ No.565 水上機母艦 秋津洲 プラモデル

 青嶋次郎が1924年に創業した模型会社の老舗中の老舗。タミヤと並んで艦船模型では定番中の定番の会社。アオシマ製の秋津洲。

 

ピットロード 1/700 スカイウェーブシリーズ 日本海軍 水上機母艦 秋津洲 プラモデル

 1981年に模型店から出発した模型メーカー。艦船模型では有名。精密なモールドには定評がある。ピットロード製の秋津洲。

 

フジミ模型 1/3000 集める軍港シリーズ No.4 トラック泊地 プラモデル 軍港4

 1961年創業の模型メーカーでは後発のフジミ模型。セットの中に1/3000スケールの秋津洲がある。他にも工作艦明石など面白い組み合わせだ。

 

栄光の日本海軍パーフェクトファイル 68号 (秋津洲水上機母艦) [分冊百科]

 

 

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01_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦であった。主砲は後の戦艦のように中心線に一列に並ぶ形式ではなく、前後に2基、左右舷側に2基ずつの合計6基が設置されるという形式であった。艦首の形状も1番艦河内が垂直艦首、2番艦摂津がクリッパー型と異なっていた。6基ある主砲も前後の2基と左右舷側の4基の口径(砲身の長さ)が異なっている等、過渡期的な性格の戦艦といえる。むしろ河内級は戦艦としてよりも標的艦としての活躍の方が有名であろう。

 

戦艦 河内級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 20800トン
 最大排水量 -トン
 全長 152.4m
 全幅 25.7m
 吃水 8.2m
 機関出力 2万5000馬力
 最大速力 20ノット
 航続距離 -海里/ -ノット
 乗員 999名
 武装 50口径30.5cm砲連装2基
    45口径30.5cm砲連装4基
    45口径15.2cm砲単装10基
    40口径12cm砲単装8基
    40口径7.6cm砲単装16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 30.5cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1906年のドレットノート級戦艦の竣工の翌年に発注された日本初の弩級戦艦がこの河内級である。本級は薩摩型戦艦2番艦安芸の改良型といえるものであるが、全長は安芸よりも10mほど長く、排水量も1000トンほど増加している。日本の戦艦としては初めて三脚檣を採用したのも外観上の特徴である。

 本級の一番の特徴は30.5cm連装砲6基を装備した弩級戦艦であることだ。連装砲は前後に2基、左右舷側に2基ずつ配置されている。これにより各方位に対して最低でも3基以上で砲撃することができるようになっているが、弱点としては前後にある2基が50口径の長砲身であるのに対して舷側の4基は45口径で若干砲身が短くなっていることである。これにより射程距離、破壊力が異なり運用上不利であった。これは当時の軍令部長東郷平八郎元帥の意見によって決まったともいわれている。実際の運用では火薬の量を調整することにより運用上の不利を解消したようである。

 主機は前級の1番艦薩摩がレシプロ機関、2番艦安芸がタービン機関であるのに対して、本級では1、2番艦ともに、さらに改良されたタービン機関のみの装備である。速力は20ノットと弩級戦艦よりも若干劣りはするがほぼ同レベルであったが、1番艦河内は垂直艦首であったため凌波性に難があった。装甲はハーヴェイ鋼よりも高性能のクルップ鋼を使用しており防御力も十分であった。

 

同型艦

1番艦河内(起工1909年4月、竣工1912年3月)
2番艦摂津(起工1909年1月、竣工1912年7月)

 

戦艦河内級の活躍

 

1番艦河内

02_戦艦河内
(画像はwikipediaより転載)

 

 前述のように1番艦河内と2番艦摂津の一番大きな違いは艦首の形状である。摂津がクリッパー型の艦首であるのに対して河内は垂直艦首だった。クリッパー型とは艦首が海面に対して少し「前のめり」形状をしている型で、これにより凌波性を高めることができるが、艦首をクリッパー型に変更すると決定した時にはすでに河内の工事は進行していたため修正することができなかった。

 河内は竣工すると直ちに第一艦隊に編入され旗艦となった。第一次世界大戦には姉妹艦摂津と共に海上の警備に従事するが特に目立った活躍はない。1917年予備艦となり、1918年に現役に復帰するが、同年7月徳島湾を航行中に火薬庫の爆発により沈没。9月に除籍となる。

 

2番艦摂津

03_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 1912年に竣工した2番艦摂津は、1番艦河内と同様に第一次世界大戦に海上警備に従事した以外には目立った活躍はしていない。1922年に締結されたワシントン軍縮条約では未成艦は廃棄されることが決定していたが、当時、建造中(実際はほぼ未成艦)の長門型戦艦2番艦陸奥を既成艦として認める代償として摂津が退役、標的艦となった。

 

第一次改装

 1923年10月制式に標的艦となった摂津は、武装を全廃、当初は標的艦を曳航する曳航艦として任務にあたった。1936年無線操縦技術が確立されると摂津は無線操縦の所謂「ラジコン戦艦」となり、同時に演習弾の命中にも耐えられるように装甲が強化された。16基あったボイラーも4基の重油専用ボイラーに変更することとなり、「ラジコン戦艦」としての自動燃焼装置も装備された。これにより速力が20ノットから16ノットに低下している。この時に摂津の煙突は3本から2本になっている。

 

第二次改装

 1939年から1940年にかけて第二次改装を実施する。この改装は航空攻撃に対応することを主眼に改装された。まずは航空攻撃に対する操艦の訓練も行えるように上部装甲を強化、ボイラーも増強され速力も17.4ノットにまで増加された。

 この改装により摂津が航空攻撃に対する艦の操艦訓練も行えるようになったことが、航空攻撃に対する日本海軍の操艦技術の向上に大きく貢献することとなる。太平洋戦争が始まると摂津は南シナ海、フィリピン、台湾等に進出し、機動部隊の空母に偽装して符号を発信した。太平洋戦争中も標的艦として活躍し続けたが1945年7月の呉軍港空襲により大破着底、1945年11月除籍される。

 

まとめ

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦ではあるが、速度も弩級戦艦に比べ若干遅く、主砲の口径も2種類存在するなど、若干難のある戦艦であった。本級の一番の活躍は戦艦としての職責を解かれ標的艦として活躍したことであっただろう。標的艦に改装された摂津は「ラジコン戦艦」として日本海軍の戦闘技術の向上に大きな貢献をしのだった。

 

関連リンク

前級薩摩級戦艦

 

 

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戦艦初瀬01
(画像はwikipediaより転載)

 

 敷島級戦艦はイギリスアームストロング社等で建造された当時としては最新鋭、世界最強の戦艦であった。この戦艦4隻を中心に日本海軍は日露戦争を戦い抜き、日本海海戦で大勝利を挙げることとなる。殊勲のクラスである。

 

戦艦敷島級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14850トン
 最大排水量 -トン
 全長 133.5m
 全幅 23m
 吃水 8.3m
 機関出力 1万4500馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 836名
 武装 30.5cm2連装2基
    15.2cm単装砲14基
    7.6cm単装砲20基
    4.7cm単装砲12基
    45cm水上魚雷発射管1基
    水上発射管4基
 装甲 舷側22.9cm
    甲板10.2cm
    主砲25.4cm
 同型艦 4隻

 

特徴

 日清戦争直後の1896年、1897年の予算により計画された。イギリス海軍のマジェスティック級戦艦の改良型として設計され、1897年より起工した。1900年より順次竣工し日本海軍の戦力を一挙に強化した。

 主砲と副砲は前級の富士級と同じだが主砲の装填機構は改良され、主砲塔がどの方向を向いていても砲弾の装填が可能となったため、主砲の発射速度が大幅に向上した。副砲は左右側面に7基ずつ、合計14基が設置され強力な火力を誇った。

 装甲は前級がハーヴェイ鋼を使用していたのに対して、焼き入れをしてより強固になったクルップ鋼を使用している。推進機関は直立3連成式レシプロ蒸気機関を2基搭載、2軸推進である。主缶は最新式のベルヴィール缶を採用25基装備していた。このため機関出力は前級よりもアップし、前級が14000馬力であったが、敷島、初瀬は1万4500馬力、朝日、三笠は1万5000馬力となった。

 

建造

 同型艦は4隻建造され、1番艦敷島は1897年3月、2番艦朝日は1897年8月、3番艦初瀬は1898年1月、4番艦三笠は1899年1月に起工している。1900年1月に1番艦敷島が竣工、7月には2番艦朝日が竣工している。1901年に入って3番艦初瀬が1月に竣工、4番艦三笠が最も遅く1902年3月に竣工した。

 

戦艦敷島級の活躍

 

1番艦敷島

戦艦敷島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1900年1月に竣工した1番艦は敷島と命名され、4月には日本に到着した。1904年からは連合艦隊として日露戦争に参戦、旅順口攻撃から旅順港閉塞作戦に参加、1905年5月には日本海海戦に参加している。1920年の尼港事件では、沿海州沿岸警備に従事した。

 1921年一等海防艦に類別変更、1923年軍艦籍を除籍され武装を撤去、練習特務艦となる。1925年からは佐世保に定繋、1945年11月除籍、1947年解体された。1911年には大佐時代の鈴木貫太郎が艦長を務めた。

 

2番艦朝日

戦艦朝日
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦朝日は1900年7月に竣工した。1番艦が1月に竣工したのに対して2番艦が7月と遅いのは公試の帰りに座礁する事故があったためである。このため本来は4月頃に竣工する予定であったのが7月になった。竣工当日に出航、10月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると朝日も参戦、旅順口攻撃から日本海海戦まで主要な海戦に参加した。黄海海戦では爆発事故が起こり主砲の一部が使用不能になった。

 1905年12月一等戦艦から戦艦に類別変更された。第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストク警備に従事した。1921年9月一等海防艦に類別変更される。1923年には兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。同年4月軍艦籍より除籍された。

 1925年には潜水艦救難設備が設置されたため、機関部に改装を行い以降一本煙突となり、呉に常駐し潜水艦事故に備えた。1937年5月、救難設備を撤去し工作艦へと改装され8月には類別を工作艦に変更された。朝日は工作艦に変更された後、日中戦争中の中国へ進出修理作業に従事した。1939年11月上海方面根拠地隊旗艦となる。1940年11月日本本土へ帰還。連合艦隊所属となる。

 太平洋戦争開戦後は南方作戦に従事。1942年3月、新鋭工作艦明石と共にシンガポール進出、損傷艦の修理に活躍する。5月駆潜艇1隻を伴って日本本土に帰還途中、米潜水艦サーモンにより撃沈された。1942年6月除籍。

 

3番艦初瀬

戦艦初瀬
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦初瀬は1901年1月に竣工、4月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると主力艦として参戦。旅順口攻撃に参加する。旅順港閉塞作戦中の5月に機雷に触雷沈没する。初瀬沈没は、国民の動揺を防ぐために1年以上秘匿され、日本海海戦勝利後の1905年6月に公表された。1905年6月除籍。

 

4番艦三笠

戦艦三笠01
(画像はwikipediaより転載)

 

 4番艦三笠は1902年3月竣工、5月に日本に到着した。1903年、連合艦隊が編成されると旗艦となった。1904年より日露戦争に参戦。主要な海戦に参加する。8月の黄海海戦では砲身内で砲弾が爆発事故を起こし、12月に日本本土に帰還修理を行った。1905年5月には日本海海戦に旗艦として参加、集中砲火を浴び死傷者113名を出す。

 1905年9月佐世保港内で後部弾薬庫爆発事故のため沈没、339名の死者を出す。1906年8月浮揚され1908年4月工事完了、第一艦隊旗艦となる。1912年10月前部火薬庫で火災が発生している。1914年8月第一次世界大戦勃発により日本海での警備行動を行う。1918年から1921年までシベリア出兵支援を行う。1921年9月一等海防艦に類別変更される。9月ウラジオストク港外で座礁、ウラジオストクで修理を行い帰投した。

 1923年関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであったウラジオストク沖での破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底した。9月除籍。解体される予定であったが記念艦として保存が決定、戦隊の外周部に大量の砂が投入されるとともに下甲板にコンクリートが注入される。

 記念艦となった三笠は太平洋戦争中の空襲の被害からは免れたものの、戦後大規模な盗難に遭い現在保存されている三笠のほとんどの部分は戦後に復元されたものである。現存する世界で唯一の前弩級戦艦である。

 

戦艦敷島級(模型)

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 敷島 レジン&メタルキット

 敷島級のネームシップ。日露戦争で活躍したのち太平洋戦争終結後解体されるまで海軍に在籍していた長命の艦。戦後は解体され新生日本への材料を供給した。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 朝日 レジン&メタルキット

 太平洋戦争時に唯一実戦任務についていた敷島級の艦。連合艦隊の貴重な工作艦として太平洋戦争初戦期に活躍。1942年米潜水艦サーモンにより撃沈されてしまう。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 初瀬 レジン&メタルキット

 新鋭戦艦として期待されながらも日露戦争初期に触雷して沈没した悲劇の艦。日本海海戦後に事実が公表されたアームストロング社製の新鋭戦艦。

 

ハセガワ 1/350 日本海軍 戦艦 三笠 日本海海戦 プラモデル

 唯一現存する敷島級戦艦。1902年の竣工から1923年まで現役を務める。様々な被弾、事故に遭い2度も沈没しながら現存している艦。

 

まとめ

 

 敷島級戦艦は全てイギリスで建造された当時の最新鋭戦艦であった。日露戦争、特に日本海海戦では主力艦としてロシア艦隊を迎撃、一方的な大戦果を挙げた。戦争直後にドレットノート級戦艦が就役、瞬く間に旧式戦艦となってしまった。

 

関連リンク

前級富士級戦艦

 

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戦艦富士01
(画像はwikipediaより転載)

 

 富士級戦艦はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で、日本初の近代戦艦であり、当時の新鋭戦艦であった。同型艦は2隻で日露戦争で活躍する。戦艦富士は日露戦後も運用され、推進器を撤去されながらも練習艦として太平洋戦争終戦まで使われ続けた。

 

戦艦富士級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12533トン
 最大排水量 -トン
 全長 114m
 全幅 22.3m
 吃水 8.1m
 機関出力 1万3500馬力
 最大速力 18.3ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 726名
 武装 30.5cm砲2連装2基
    15.2cm単装砲10基
    4.7cm単装砲24基
    45cm水上発射管1基
    45cm水中発射管4基
 装甲 舷側45,7cm
    甲板6.3cm
    主砲-cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1880年代に仮想敵国であった清国に対抗するために日本がイギリスに発注した戦艦である。1番艦富士はテームズ鉄工所、2番艦八島はアームストロング社のエルジック造船所で1894年に起工した。本級はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で排水量は若干少ないものの性能面では優れていた。

 ロイヤル・サブリン級の主砲が30口径34cm連装砲で天蓋の無いオープントップ式であったのに対して本級は新型のアームストロング式40口径30.5cm連装砲が装甲砲塔内に搭載されていた。砲塔の旋回、俯仰は水圧駆動、砲弾の昇降は電動駆動で行われた。発射速度は1発/1.5分であり、斉射後は砲塔を艦の中心線に合わせないと次弾を装填できないという弱点もあった。

 主缶は石炭専焼缶を10基搭載、2軸推進により18.3ノットの速力を出すことが出来た。富士と八島はほぼ同じ設計であったが船体サイズはわずかに富士の方が大きく艦尾舵の装着部の形状、機械室・缶室の通気筒の大きさなども異なっている。

 

建造

 1番艦富士は1894年8月にテームズ鉄工所で起工、1897年8月に竣工した。2番艦八島は1894年9月に起工、1897年9月に竣工した。1番艦富士は竣工に先立って領収、竣工後直ちに日本に回航され10月末に横須賀到着する。八島も9月にイギリスを出発、11月末に横須賀に到着した。

 

戦艦富士級の活躍

 

1番艦富士

戦艦富士
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年10月末に日本に到着した富士は11月に警備艦、12月に常備艦隊に編入される。1898年3月には一等戦艦に類別された。1903年、連合艦隊に配属される(当時の連合艦隊は常設ではなかった)。1904年に日露戦争が始まると富士は主力艦として旅順口攻撃を始め、黄海海戦、日本海海戦に活躍する。

 1912年、一等海防艦に指定され、類別上戦艦ではなくなる。翌年の1913年には練習艦に指定、1922年9月には軍艦籍から除籍、運送艦、さらに12月には練習特務艦となった。その後ワシントン軍縮条約に基づき装甲を撤去、運用術練習艦となった。1923年の関東大震災では救護活動に活躍する。

 1926年には横須賀に係留され定繋練習艦となる。1934年には推進器を撤去、海軍公開学校が創設されると航海学校保管艦となり浮校舎となった。1945年7月連合国軍の空襲により被爆着底する。1945年11月除籍、1948年5月に解体された。

 

2番艦八島

戦艦八島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年11月に日本に到着した八島は、1898年3月には一等戦艦に類別、1903年、連合艦隊に配属される。1904年日露戦争が始まると旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加するが、1904年5月旅順港沖合を航行中、機雷に触雷し総員退艦の後転覆沈没した。

 日本海軍は国民の動揺を防ぐために事実を1年以上も秘匿、日本海海戦直後の1905年6月に喪失を公表する。1905年6月軍艦籍より除籍。

 

戦艦富士級(模型)

 

1/700 日本海軍戦艦 富士

シールズモデルズ

 富士級戦艦の1番艦。イギリス製戦艦で日露戦争では主力艦の1隻として日本海海戦を始めとする各種作戦に参加する。戦後は練習艦となり、太平洋戦争終戦まで使われ続けた名艦である。

 

まとめ

 

 富士級戦艦は当時の日本が宮廷費の削減、公務員の俸給1割減までして購入した新鋭戦艦であった。日露戦争で活躍したが、初戦期に八島は触雷により失われてしまう。しかし富士はその後も活躍を続け日本海海戦の勝利に貢献する。当時の日本を背負った戦艦であった。

 

関連リンク

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