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日本

01_防人
(画像は防人。本物そっくりだ。 wikipediaより転載)

 

防人

 

そもそも防人ってなんなのさ!

 663年、日本軍は白村江において唐・新羅連合軍に大敗する。白村江の戦いである。日本軍の水上部隊の総兵力は2万、それに対する唐・新羅連合軍の総兵力4万。大陸での長い戦いの歴史の中で集団戦闘を訓練されている唐・新羅軍に対して豪族とその私兵を中心として集団戦闘の訓練も受けていない日本軍はあまりにも弱かった。フルボッコにされた日本軍は内地に帰還、朝廷はすぐに逆撃体制を整える。

 対馬から九州、西日本一帯にはおびただしい数の山城を構築、防御の拠点となる九州北部の大宰府は1,200mにも及ぶ水城と呼ばれる城壁を設けて要塞化していた。そして山々にはと烽と呼ばれる狼煙を設けて各拠点間の通信設備も整えた。そして防御の専門部隊として防人が充てられた。防人とは「さきもり」と読み、語源は不明であるが、「岬(みさき)守(もり)」あたりが語源だと言われている。現在でも、国境警備に当たる自衛隊やその他の公務員を「○○の防人」などと表現することもあるが、そもそもこの防人とはどんな存在だったのか、知名度の高さの割には意外と知られてない防人。今回はこの防人に関して解説してみたい。

 

律令以前の防人

 簡単に防人といっても古代で防人がいた期間というのは意外に長く、7世紀中葉から9世紀まで断続的ではあるが主に北九州に配備されていた。防人の初見は646年の大化改新の際に朝廷より出された改新の詔であるが、これはちょっと胡散臭い。ガチ確実なのは、664年で先述の通り、白村江以後の日本の防衛のために配備されたものである。ただ、この時期の防人というのはどのような編成でどこに配備されていたのかというと詳しいことは分からない。685年に朝廷が「任期満了した防人は返せ」とわざわざ指示していることから任期があるのだが、その任期はあまり守られていなかったのかもしれない。

 

 

大宝律令で明記された防人

 701年、大宝律令が制定されると防人は律令によって明確に規定されることになる。防人は当時の常備軍である軍団から選別されたが、どうも現在の関東甲信地方の軍団から選抜されていたようだ。関東甲信地方は、現在でこそ東京があり、埼玉、神奈川があり、全国のオシャレ人(びと)が集結する夢の大都会だが、古代ではこの一帯は「ド田舎」どころか、さらにもう二つ三つ「ド」が付くような辺境である。逆に人々はハングリーだったようで、この辺の地域は朝廷の軍事力の供給源となっていた。

 明確な規定は無いが、防人の規模は2,000〜3,000人、東国から摂津(大阪府)を経て水路で北九州に送られた。ちょっと細かいことを書くと、古代といえども政府の組織は官僚が管理している。防人の管轄は、防人の徴収から摂津までが徴収した国の国司が担当、摂津から大宰府までは兵部省の管轄、そして大宰府に到着すると大宰府麾下の防人司に管轄が移る。総司令官は大宰帥(だざいのそつ)という大宰府の総責任者だ。古代でも管轄やら手続やらいっぱいあるのだ。

 防人の任期は3年で、赴任先は北九州。当時、唐や新羅と緊張関係にあった古代日本にとって西部方面の防衛は最重要だった。装備は弓や剣、さらには弩と呼ばれる巨大ボーガンのような重兵器も使用した。当時は全国に軍団が設置されていたため北九州は防人と軍団によって「爪牙(そうが)の備え」とも呼ばれる鉄壁の守りを誇っていた。

 ただし、防人に選ばれた人はけっこう悲惨である。徒歩で関東から大阪に行き、はるばる船に揺られ瀬戸内海を通過、北九州に到着するのであるが、帰り道で野垂れ死にしてしまう防人もいた。それが理由なのか何なのか、奈良時代中葉になると防人は北九州諸国からも徴発されるようになる。しかし現場の大宰府は困ったもの。唐軍や新羅軍が攻めて来ることはないが横行する海賊に対して九州の兵は今ひとつだったようだ。再び剽悍な東国兵の復活を申請するが認められなかった。

 

廃止

 帰順した蝦夷を防人として送り込む等の奇策も行ったものの、795年には壱岐対馬以外の防人は廃止、804年にはとうとう壱岐対馬の防人も廃止されてしまう。廃止の理由は良く分からないが、防人とその家族の負担があまりにも重すぎることや財政的な負担が理由と考えられる。826年になると北九州は軍団も廃止され、代わりに地元の金持ちの子弟で編成される統領・選士と呼ばれる少数精鋭の兵士が沿岸防衛任務に就くこととなった。

 この時期の北九州の軍縮の理由は不明だが、この時期は、東北での大侵攻作戦を行っており大規模な軍が投入されていた。これに対して北九州は、この150年の間に唐や新羅の軍事侵攻の可能性は低くなり、強力な部隊を北九州に展開する必要がなくなったのだろう。これより以前、8世紀末には全国の軍団も廃止されていることからも財政的負担を軽減するための措置だったのではないかと思う。

 

 

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01_二式浜田
(画像はwikipediaより転載)

 

浜田式拳銃

 

 

性能(浜田式拳銃)

全長 165mm
重量 650g
口径 7.65mm
使用弾薬 32ACP
装弾数 9発(32ACP弾)
総生産数 3,000丁程度
設計・開発 浜田文治 / 浜田鉄砲店

 

日本の銃器メーカー

 あまり知られていないが日本にも銃器メーカーというものはある。重機メーカーは世界に誇る大企業があるのは知られているが銃器メーカーも豊和工業、ミロク等がある。戦前も存在しており、その日本の民間銃器会社が開発、生産したのが浜田式拳銃である。この銃を発明したのは浜田文治氏、浜田氏は優秀な銃器デザイナーであると同時に1895年に父親が創業した浜田鉄砲店(日本銃器株式会社)の二代目経営者でもあった。それまでは猟銃などを製造販売していたのだが、1940年代に入ると日本でも戦争の空気が充満して来る。猟銃を作ろうにも鋼鉄などの物資の調達も次第に難しくなり、浜田氏は自動拳銃の開発をすることになる。

 外観はブローニングM1910に似ている。このブローニングM1910とは、ベルギーのFN社が製造、1910年に発売されたモデルであったが、無駄のないシンプルなデザインで人気があり、1983年まで製造された傑作中型拳銃である。口径は32口径でハンマー、サイト等の突起を最小限にしてコンシールド性を高めたモデルであった。この銃は日本にも多く輸入されており、日本軍の将校達に人気があった。人気があった理由というのは性能もさることながらグリップの大きさが多くの日本人にフィットしたのも大きな理由であった。のちに開発される九四式拳銃のグリップはこのM1910を参考にしたと言われている。

 

M1910のコピーではない

 一般にはこの人気モデルをベースに製作したのが浜田式ではあるのだが、後年の浜田氏へのインタビューによると全く独自の設計であるということだ(浜田氏は1980年代までご健在であったようだ)。その浜田氏は世界中の銃器の構造に精通しており、求められた条件に合わせて設計したら撃発方式や外観がM1910に似てしまったらしい。

 実際、内部構造は水平に90度回して外すバレル等はM1910には無い独創的なものである。発射機構はストレートブローバック、撃発方式はストライカー方式である。ストライカー方式とはスライド内部に内蔵された細長い棒状のピンによってカートリッジを発火するタイプのもので、撃発はハンマーなどを使用せずにコイルスプリングによって行われる。このため銃外面にハンマーのような突起を少なくすることができるために服に引っかかったりしないので使用上はメリットが多い。現在でもグロック17等はストライカー方式を採用している。

 ストレートブローバック、ストライカー方式はどちらもM1910と同様であるが、どちらもかなり一般的な作動方式であり、この点と外観の類似性をもってコピーとするのは浜田氏の業績を消し去ってしまう危険がある。南部式大型拳銃の外観がドイツ製自動拳銃ルガーP08に似ていることから「japanese luger」と呼ばれたのと同様で注意しなければならない。南部式大型拳銃とルガーP08は構造は全く異なっている。

 全長165mm、重量650gと小型軽量で外観上はM1910のようは優美さはないが、表面仕上げは丁寧になされていた。使用弾薬は32ACPで、装弾数は9発。銃口初速は300m/sでブローニングM1910と同じである。1941年に完成したことから日本軍には制式採用されなかったものの一式拳銃と呼称されており、総生産数は3,000丁程度である。

 

 

浜田式拳銃二式

 日本軍の士官の拳銃は自弁であったため外国製拳銃を使用している士官も多く、弾薬も32ACPやら軍制式の8mm南部弾やらが混在していた。これを8mm南部弾に統一しようと考えた陸軍は浜田氏に浜田式拳銃の8mm化を依頼した。浜田氏はかなり短期間で浜田式拳銃を8mm弾仕様に変更したようで、1943年には8mm南部弾に改良されたタイプが完成した。外観上は別の銃のようであるが、内部構造はほぼ一緒である。スライドが大型化しているのは8mm弾の圧力に耐えるためと発射機構がストレートブローバックであるため質量が欲しかったのだろう。

 特徴的なのは、スライド後部上方リアサイト前方に大きな「えぐられたような溝」があるが、これで重量の調整をしたのだろう。後方の重量を減らしたことは反動を抑制するにも効果的である。オリジナルの浜田式が丁寧に表面処理されていたのに対して、二式は何故か鉄の地肌丸出しのものしか現存していない上にシリアルナンバーが近いものばかりであるという。恐らく何か特殊な事情があったのだろう。すでに太平洋戦争中盤に入っていた日本、制式採用も仮制式を飛ばし、1943年10月12日、いきなり制式採用された。装弾数は当初は8発であったが、制式採用されたものは6発であった。これには何か民間企業の銃を制式採用する際の「軍のメンツ」的なものがあったというがこれは謎である。

 完成した二式は、日本軍の拳銃不足に対応するため、完成したものは多くが中国戦線、一部太平洋方面にも送られてたと言われている。第二次世界大戦末期の日本本土空襲により生産記録が消失してしまったため総生産数は不明であるが、推定される二式の生産量は最大でも1,500丁程度で、一式の3,000丁と併せても最大で4,500〜5,000丁と言われる。現存しているものは非常に少なく、浜田式拳銃が米国で30丁程度、二式が17丁現存していることが分かっているようだ。

 

トイガン

 1990年代後半(恐らく1998年)に伝説のモデルガンデザイナー六人部氏の六研から無可動モデルで浜田式が発売されている。他には頑住吉からこちらも無可動モデルとして二式が発売されている。

 

 

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01_南部式大型拳銃
(画像はwikipediaより転載)

 

南部式大型拳銃

 

 

性能

全長 230mm
重量 955g
口径 8mm
使用弾薬 8mm南部弾
装弾数 8発
総生産数  -
設計・開発 南部麒次郎

 

 1893年、日本初の軍用リボルバー二十六年式拳銃が制式採用された。このリボルバーは低威力ではあったものの、その分扱いやすく、諸外国のリボルバーと比べても比較的完成度が高いものであった。しかしその後時代は徐々に自動拳銃へと傾斜していく。日本でもその流れに対応して銃器設計者南部麒次郎が自動拳銃を開発した。これが南部式大型自動拳銃である。完成したのは1902年で当時未だルガーP08、コルトガバメントという名銃たちは完成しておらず、かなり早い時期の自動拳銃といえる。

 初期に製作された型は甲型と呼ばれ、マウザー(モーゼル)C96等と同様にホルスター兼用の木製ストックが装備されていた。驚くことにトリガーガードは木製でリアサイトは照尺式のアイアンサイトであった。因みに「照尺式リアサイト」とは遠距離を射撃することを目的に開発された照準器でサイトを調整することで遠距離を照準することができるものだ。20世紀初期にはブローニングハイパワーやマウザー(モーゼル)C96等に装備された。しかしそもそもハンドガンで遠距離射撃をする必要はないし、そもそも当たらない。そのため後にはほとんど採用されることはなくなっていった旧世代の照準器である。

 

海軍、そして陸軍も採用

 甲型にも採用されたということはこの甲型はストックと併せて遠距離射撃にも対応していたということであろう。この甲型、1904年には生産設備が整い生産が開始、早くも同年に勃発した日露戦争において実戦仕様されている。当時の価格は25円、二十六年式拳銃の22円に比べ若干であるが高くなっている。しかしリボルバーと自動拳銃という違いを考慮すればむしろ割安といえる。その後、甲型を改良した乙型が完成、これはホルスター兼用ストック、照尺式リアサイトを廃して、トリガーガードもアルミ製としたもので甲型に比べてかなり近代化したものとなった(後期型では照尺式リアサイトが復活している。)。当時制式採用されていた二十六年式拳銃と比べても、重量は同等でありながら自動拳銃で連射は容易になり、威力も増している。純粋に高性能な拳銃であった。

 このため1908年には「仮称四一式拳銃」として陸軍で採用試験が行われた結果、採用直前まで行ったが、予算の関係上採用されることはなかったが、本銃の優秀さに目を付けた海軍が1909年(1914年とも)に陸式拳銃として制式採用した。それ以外にも、将校への販売や官吏の護身用に支給されていた他。中国やタイにも輸出されている。1924年になると海軍陸戦隊が制式採用、10,000丁が納入された。そして1925年には乙型を改良した南部十四年式拳銃が陸軍に採用されている。

 

作動方式など

 作動方式はショートリコイル方式と呼ばれる銃身が少しだけ後退して次弾を装填すると前進する方式で銃身と遊底(ボルト)とのロックはプロップアップ式が採用された。撃発方式はハンマーを使用しないストライカー方式で、安全装置はグリップ前面にあるグリップセイフティのみである。全弾発射するとボルトはマガジンに引っかかることでホールドオープン、後退したボルトを戻すボルトストップも装備されていない。生産は東京造兵廠、小倉造兵廠、東京瓦斯電気工業などで行われた。

 バリエーションとしてこの乙型を小型化した南部式小型拳銃も開発された。この銃は全長174mm、銃身長74mm、重量548gで口径が乙型が8mmであるのに対して7mm×19mmの小型のカートリッジを採用、装弾数も乙型8発に対して7発になった。生産数も少ない上に仕上げも丁寧にされており、非常に高価であった。このためか恩賜品(天皇からプレゼントされる物)としても使用されている。

 南部式拳銃は戦後、米兵によって米国に持ち帰られている。大型拳銃をパパナンブ、小型拳銃をベビーナンブという愛称で呼ばれているが、数が少なく高価で取引されている。因みにこの南部式大型拳銃の美しいシルエットに感動したスタームルガーの創業者は最初の自社製品にそのデザインを採用している。なのでスタームルガーMark1は南部式大型拳銃にビミョーに似ているのだ。

 

トイガン

 トイガンでは1991年にマルシン工業より南部式小型拳銃が発売、1998年には六研から無可動であるが南部式大型拳銃が発売、近年ではCAWより南部式大型拳銃が発売されている。マルシン製南部式小型拳銃は度々再生産されるので比較的入手は容易であるが、CAW製の南部式大型拳銃は入手困難、六研製に至っては入手はほぼ不可能である。

 

 

 

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01_桑原製軽便拳銃
(画像はwikipediaより転載)

 

桑原製軽便拳銃

 

動画は二十六年式拳銃。桑原製軽便拳銃も大体こんな感じ。

 

性能

全長 150mm
重量 375g
口径 32口径
使用弾薬 32口径
装弾数 6発
総生産数 - 
販売 1894年
設計・開発 桑原鉄砲店

 

明治日本軍の制式拳銃

 日本軍のハンドガン、拳銃は、明治初期にS&WNo3を輸入、一番形として制式採用したことに始まる。No3自体は非常に高性能なリボルバーで口径は44口径でトップブレイク方式であった。このトップブレイク方式とは、銃身とフレームに蝶番のような結節部があり、銃身を下方に「折る」と銃身部と一体化したシリンダーが上面にでる方式で、それまで一般的であったシリンダーを抜き取って再装填する銃に比べて格段に再装填のスピードが早くなった。この方式を採用したためシリンダー内の弾薬を全弾撃ち終わったのちの再装填も容易であった。このためロシア軍、トルコ軍、米軍などが制式採用、有名な保安官ワイアットアープも愛用したとされるほどでこれに目を付けた日本軍も陸海軍共に採用した。しかしこのNo3、問題が全くなかったのかといえばそうでもない。特に当時の日本人にとって何より問題だったのは重量であった。

 No3の重量は何と1.3kg、現在よりもはるかに小柄であった当時の日本人にとってこの重量はかなりの負担であった。このため日本人にあったリボルバーをということで開発されたのが二十六年式拳銃である。この二十六年式拳銃は見た目こそ凡庸というか、何ともチープな感じがするのだが性能は当時としては中々のものであった。何よりもNo3が射撃ごとにハンマーをコッキングして引き金を引くというシングルアクションであったのに対して二十六年式拳銃は引き金を引くだけで連動してハンマーがコッキングされるというダブルアクションで連射ができるのというのは大きいメリットであった。口径9mmで威力は驚くほど低いのだが、重量は928gと1kgを切り、トップブレイク方式でサイドプレートが外せるなどメンテナンス性も良好であった。

 

二十六年式拳銃の改良

 この二十六年式拳銃をベースにして東京の桑原銃砲店が開発したのが桑原製軽便拳銃である。軽便の名の通り、重量は二十六年式拳銃に比べて半分以下の375gであり、さらには二十六年式拳銃がダブルアクションのみであったのに対してシングルアクションでの射撃も出来るようになっている。装弾数も二十六年式拳銃と同じく6発であった。護身用としては軽量でダブルアクション、シングルアクションどちらにも対応した非常に取り回しの良い銃であった。

 シングルアクションに対応したことからハンマーにスパー(ハンマーをコッキングするために指を掛ける部分)が追加され、仕上げは二十六年式拳銃のブルーに対してニッケルメッキ、機関部にも錆止め処理が施されており、グリップは水牛の角を使用していた。値段も二十六年式拳銃が22円であったのに対して15円とかなり割安に設定されており、近衛師団が多数装備していたようだ。

 このように書くと二十六年式拳銃に比べて全てが高性能のように感じるかもしれないが、本銃最大の欠点は威力が低いことにある。二十六年式拳銃の口径が38口径(9mm)であるのに対して本銃の口径は32口径(8mm)と小口径化している。38口径も32口径も現在でも使用されている口径ではあるが、当時の38口径、32口径は現在のカートリッジに比べて長さが短く、内部にも防湿のため厚紙が挟んであるなどしていたため火薬の装薬量が少なかった。その上、二十六年式拳銃は意図的に銃身のライフリングと呼ばれる弾丸に回転を与えて飛距離を伸ばす溝を大型化、そこから発射時のガスが抜けるようになっている。

 

問題は低威力か

 この構造にした意図は不明であるが、恐らく前方にガスを逃がすことで発射時の反動を抑制することができるために撃ちやすくするのと同時に銃本体へのダメージも減少させることが狙いであったのだろう。しかし発射時に弾丸を押し出すガスがライフリングの隙間から逃げてしまうために弾丸の威力は低下してしまうのだ。これは二十六年式拳銃の話であるが、この二十六年式拳銃をベースにした桑原製軽便拳銃も恐らく同様の構造を持っていたのだろうと考えると、低威力の二十六年式拳銃をさらに小口径化した桑原製軽便拳銃の威力は推して知るべしというところだろう。

 ただし、護身用として考えれば威力は低くても小型軽量で取り回しが良いよい拳銃であったのかもしれない。総生産数は不明であるが、制式採用された銃ではないのでそれほど多くが出回っていたとも考えられない。弾は100発で2円で二十六年式拳銃の9mm弾が3円であったのに比べて30%ほど割安である。単純に当てはめることはできないが当時の1円は現在の2万円程度になるらしいので、桑原製軽便拳銃の弾丸は100発で40,000万円、1発400円とかなり高価である。

 

トイガン

 ガスガンでは確実にモデルアップされていない。恐らくモデルガンでもモデルアップはされていないだろう。しかし二十六年式拳銃であればマニアックな製品をモデルアップすることで有名な(私の中で)HWSから精巧なモデルガンが発売されている。よくもまあモデルアップしたものだと思う。完成度は非常に高いが生産数が少なくたまにしか再生産しないので欲しい人はあった時に買っておくのがベスト。これはモデルガン全般にいえることでもあるのだが。

 

 

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01_藤原良房
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐、摂政は制度としては現在でも存続しているが、関白は明治時代に廃止された。臣下で最初に摂政になったのは藤原良房、最初に関白になったのはその子、藤原基経である。

 

摂政と関白

 

摂政、関白とは

 日本史上初めて臣下で摂政に任じられたのは藤原良房である!すっ、すげーよぉ〜。臣下でありながら摂政とは。そして史上初の関白に任じられたのは藤原基経なのだ。そっちもすげーよぉー。摂政になったり関白になったり。だって偉いんでしょ?摂政も関白も!

 そう偉いのだ!摂政も関白も偉いのだ。天皇に次いで偉いと言っても良い。どっちも偉い。と言っても偉いだけなら貴族だって偉いし、大臣も偉い、天皇なんてもっと偉いのだ。では、何がどのように偉いのか。摂政と関白の違いも分からないし、最初に登場した藤原良房と藤原基経って何?わからないことだらけの古代の制度。ここから簡単にというよりも出来るだけわかりやすく説明してみよう。まず摂政と関白の違いだ。摂政とは天皇に代わって政務をみる役割、天皇が幼かったり、病気だったり、その他大人の事情があったりと、何らかの事情で政務をみられない場合に皇族や臣下が天皇の代わりに政務をみる。それが摂政である。古い時代から主に皇族が摂政として天皇を代行したが、初めて臣下で摂政となったのは前述した藤原良房である。

 これに対して関白とは天皇の補佐役、要するに宰相と考えて良い。みんなの大好きな三国志の時代、劉備を補佐していたのが諸葛孔明、劉備が天皇であるならば孔明の立場が関白に近い。まあ、ほぼ同じだ。天皇は発言権と決定権を持ち続けているが、そのナンバー2として存在するのが関白なのだ。当然、天皇を除くと政界の頂点に君臨する最高権力者である。

 

摂政と関白、その後。。。

 古くは聖徳太子がなったと言われる摂政、実は現在でも制度としてはあるのだ。摂政も古代から近世まで存続、明治時代になっても大日本国憲法に摂政の制度が定められた。摂政というのは天皇の代行であって天皇に万が一のことがあった時には必要不可欠な存在である。近代以降でも実は摂政がいた時代があった。その時代とは大正時代で、大正10年(1921年)から大正15年(1926年)まで大正天皇に代わって、皇太子であった裕仁親王が天皇の代行、摂政を務めた。この裕仁皇太子は言うまでもなく、後の昭和天皇である。当時は摂政を務めていたので摂政宮(せっしょうのみや)と呼ばれていた。この摂政の制度は現在でもあり、天皇に何かあった場合は摂政に就任する順位も決まっている。

 これに対して関白というのは平安時代に誕生、以降、藤原氏が継承するようになり、中世、近世と続いていく。戦国武将の豊臣秀吉も就任するなど権力の頂点に君臨した関白であったが、江戸時代になると関白といえども江戸幕府には逆らえない。関白に就任するには幕府の許可が必要であった。その後、明治時代になると関白という職は廃止されて現在に至る。関白というのはあくまで補佐なのでその役割は、明治時代になると維新の元勲たち、そして総理大臣に継承されていった。

 

藤原良房と基経

 つまりは摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐というのが摂政と関白の違いである。ところで最初に登場した藤原良房やら藤原なんちゃらさん、具体的にどういうことなのかこれも説明しよう。藤原氏というのは藤原鎌足から始まる。その子が不比等、男の子が4人おり、それぞれが家を起こした。この四家は藤原四家と呼ばれるが、それぞれが権力を争い、平安時代になると北家と呼ばれる次男の一族が権力を掌握する。平安時代前期、この一族に生まれたのが藤原良房である。

 パパである藤原冬嗣は弘仁元年の政変で藤原北家台頭の基礎を築いた。子である良房は当時の上皇(退位した天皇)の支援等を受けて順調に昇進、30歳で参議、翌年には従三位と貴族の中でも「公卿」と呼ばれる一段上の地位に上る。さらに36歳で中納言と権力街道まっしぐらであった。家柄だけでなく本人もかなり有能で、文徳天皇の外戚(皇后のお父さん)となり絶大な権力を手に入れた。

 そんな時に応天門の変という事件が起こる。この事件により当時の左大臣、右大臣が一挙に力を失った。この空白を埋めるために良房は摂政に就任する。これが日本史上初の臣下による摂政だ。その後、権力は子の藤原基経が継承する。基経も摂政となり、そして日本史上初の関白となった。

 天皇の代行である摂政に比べて関白というのは一段グレードが下がるのではないかと思われるかもしれない。確かに制度上はそうであるが、そこはそこ、実際はかなりの権力を持っていた。例えば、基経の力によって即位した宇多天皇が基経を関白に任命する際「阿衡に任ずる」と詔を下した。阿衡とは関白のかっちょいい表現であったのだが、基経は、「阿衡とは有名無実の役職」との話を小耳にはさみすっかりへそを曲げてしまった。

 ブチ切れて政務を放棄してしまった基経、宇多天皇も「違うんだよ〜」「そんな意味じゃないよー(涙目)」と基経に言うのだが納得しない。仕方なく宇多天皇は「ハイ!僕が間違っていました!(涙)」というような詔を発布して何とか政務に復帰して頂いたのだ。それほどの権力を基経は持っていた。良房と親子二代、どちらも有能な人物であったのだ。

 最後に簡単にまとめると、摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐、臣下で最初に摂政になったのは藤原良房で最初に関白になったのは藤原基経ということなのだ。因みに関白自体は制度としては亡くなってしまったが、「亭主関白」などの言葉としては残っている。もちろん絶対的な権力を持っている夫という意味であるが、よーく考えると関白というのはあくまでも天皇の補佐である。家族で亭主が関白に就任するということは、つまりは天皇は妻ということになる。どっちが偉いのかというと。。。

 

 

 

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ニューナンブM60
(画像はwikipediaより転載)

 

 ニューナンブM60とは、1960年に日本警察に初めて納入された国産リボルバーである。S&Wのリボルバーをベースに独自の改良を加えた銃で、命中精度はS&W社のJフレーム拳銃よりは高い。日本警察は2003年頃よりM37を制式採用しているため現在は生産されていない。

 

ニューナンブM60(実銃)

 

 

性能

全長 198mm
重量 670g
口径 38口径
使用弾薬 38スペシャル弾
装弾数 5発
設計・開発 新中央工業

 

背景から開発まで

 戦後の日本の警察官は当初は米軍から貸与された拳銃(一時的には南部十四年式等の旧日本軍の拳銃も使用した)を使用していたが、老朽化が進んだ上に種類も雑多であったため新拳銃の開発が志向された。

 

開発

 1956年9月、日本兵器工業会(のちの日本防衛装備工業会)が通産省指導の下に拳銃研究会を設置し検討を開始した。1957年には新中央工業(のちミネベアの一部門)が開発を開始した。新中央工業が開発した拳銃はリボルバーとオートの2種類であった。1959年11月性能試験が行われ、リボルバー型が採用、1960年に納入が開始された。尚、オート型はM57Aと呼ばれ、のちに自衛隊の次期制式拳銃のトライアルに改良型M57A1が提出されたが不採用となりSIGP220が制式採用された。

 ニューナンブM60はS&W社のリボルバーをベースとしており、装弾数は5発である。大きさはS&WのJフレームとKフレームの間位の大きさであり、固定サイトにグリップ下部にはランヤードリングが装備されている。バックストラップ部分は後方に張り出しており、S&Wのリボルバーと異なる独自の形状となっている。集弾性能は非常に良く25mで5cm程度にまとまる。

 生産当初の銃はシリンダーの強度に問題があったが、1961年以降生産品については問題は解消している。1964年からはサイドプレートのスクリューの数が3本に減らされ、1980年代にはシリンダーラッチの形状が変更、同時期にグリップパネルの形状も小指がはみ出さないように下部前方が延長されている。1999年に生産終了している。バリエーションとしては2インチ型と3インチ型があり、1960年代に153mm(6インチ)銃身にバレル下部にアンダーラ、フルアジャスタブルサイト、同グリップを装備したM60サクラという競技専用銃が3丁試作されている。

 

 

ニューナンブM60(トイガン)

 

概要

 トイガンでは、大友商会がニューナンブM60を発売していた。これはシリンダーのスイングアウトのみ可能なほぼ無可動ダミーカートもでるであった。発火式モデルガンではHSWから「J-police」として発売されているが、これはS&WのチーフスペシャルをニューナンブM60形状にしたモデルなので大きさが若干小さい。ガスガンはマルシンから8mm弾仕様と6mm弾仕様で「ポリスリボルバー」として発売している。これらのメーカーが「ニューナンブ」という名称を使用できないのは、ニューナンブという名称が商標登録されているからだそうである。

 

マルシン ポリスリボルバー ガスガン

性能(3インチHW)

全長 200mm
重量 415g
装弾数 5発

 「ポリスリボルバー」として新規に設計されたものなので今まで発売されたトイガンの中で一番完成度は高い。2インチ、3インチモデル、実銃にはないシルバーモデルも発売されている。シリンダー内部は改造防止のため切り抜きされている代わりにカートは真鍮製のフルサイズである。初速は60m/s弱で命中精度は「カート式リボルバーにしては」良い。

 

まとめ

 

 S&Wリボルバーの亜流といって良いであろう。命中精度は非常に高い。日本の国産兵器全般に言えることであるが、需要が国内のみであり競争にさらされていないために性能が「今ひとつ」である場合が多い反面、価格は非常に高い。これはあくまでも市場が小さいからであって製造メーカーが暴利を貪っている訳でもなく、むしろ赤字のメーカーも多い。ここまでして「国産兵器」に拘る必要もないと思うのだが、日本という国は変化することが苦手な国なので仕方がないのかもしれない。

 

 

 

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01_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 薩摩級戦艦は日本初の国産戦艦である。初の戦艦でありながら世界最大の戦艦であり、最新のタービン機関を搭載した画期的な戦艦であった。第一次世界大戦に参加した他は目立った活躍はしていないが、日本戦艦史に残る名艦であるといえる。

 

戦艦 薩摩級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 19372トン(安芸は19800トン)
 最大排水量 -トン
 全長 137.2m(安芸は140.2m)
 全幅 25.5m
 吃水 8.4m
 機関出力 1万7300馬力(安芸は2万5000馬力)
 最大速力 18.3ノット(安芸は20ノット)
 航続距離 -
 乗員 887名(安芸は931名)
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm砲連装6基
    40口径12cm砲単装12基
    45口径15.2cm砲単装8基(安芸のみ)
    40口径7.6cm砲単装8基(安芸は16基)
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 50.8cm
    主砲 233.7cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級は日本初の国産戦艦である。それまで装甲巡洋艦建造の経験はあったものの戦艦の建造経験はなかったが、香取級よりも高性能な戦艦を目指して日本独自の設計で建造された。旧来の戦艦を増産するのではなく独自設計でより高性能を目指した意欲作であった。

 当初の計画では艦の中心線上に主砲連装4基を搭載するという弩級戦艦を先取りする案もあったが、最初の国産戦艦ということもあり従来通りの前後に2基という設計で落ち着いた。主砲の数こそは従来通りであったが、中間砲は45口径25.4cm連装砲を6基とかなり強力な配置となっている。中間砲は威力こそ主砲に劣るものの発射速度では主砲を上回り、状況によっては弩級戦艦をも凌駕する能力を持ったものであった。

 このため排水量は2万トン近くなり、建造時点では世界最大の戦艦となった。さらに2番艦安芸では最新のタービン機関を搭載するという初の国産戦艦としてはかなり挑戦的な艦であった。同型艦で速力が異なるという点を承知の上で新技術に挑む意欲と同時に当時の日本の焦りが感じられなくもない。

 

 

同型艦

 1番艦薩摩
 2番艦安芸

 

建造

 1番艦薩摩は1905年5月に起工、2番艦安芸は1906年3月に起工した。1番艦薩摩は1910年3月、2番艦安芸は1年後の1911年3月に竣工した。

 

戦艦薩摩級の活躍

 

1番艦薩摩

02_戦艦薩摩
(画像はwikipediaより転載)

 

 主砲の増設を諦める代わりに中間砲を増設した本級だが、当初は発射速度に難があった。改良を繰り返され、後には発射速度も速くなり弩級戦艦に匹敵する砲戦能力になったと言われている。1910年竣工と同時に第一艦隊に就役、第一次世界大戦では第二南遣支隊に編入され、太平洋のドイツ領攻略作戦に活躍した。1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦、除籍となる。1924年9月には標的艦として沈没した。

 

2番艦安芸

03_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 安芸は1番艦薩摩の同型艦とされているが、実際には様々な違いがある。副砲の口径が延長されていること等もあるが、最大の違いは薩摩がレシプロ機関であるのに対して、安芸がタービン機関であることであろう。これにより最大出力が薩摩1万7300馬力に対して安芸2万5000馬力と大幅に増加している。最大速度も薩摩18.5ノットに対して安芸が20ノットと大きな違いが出ている。外観上の違いは煙突の数で薩摩が2本に対して安芸は3本である。

 1911年3月に竣工した安芸は、第一次世界大戦に参加したのち、1919年には大改装を受け、数度御召艦として活躍したが、1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦となった。1924年9月標的艦として戦艦長門、陸奥の砲撃により沈没。艦はこれにより沈没したが、安芸の砲身のみは兵庫県西宮市の鳴尾八幡神社で戦没者を祀る慰霊塔として現存している。

 

04_戦艦安芸砲身
(画像は鳴尾八幡神社に現存する戦艦安芸の砲身 wikipediaより転載)

 

まとめ

 

 薩摩型戦艦は日本海海戦の前々日に起工、日露戦後に就役しワシントン軍縮条約により廃艦となった目立たない戦艦であった。しかし日本初の国産戦艦であった。本級には初の国産戦艦でありながら世界最大の戦艦であったことを始め、最新のタービン機関を採用する等、当時の技術者の数々の意欲的な挑戦がみられる日本戦艦の記念碑的な艦であった。

 

 

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01_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦香取級は敷島級の後継にあたる戦艦であるが、就役が日露戦後であったためあまり知られていない戦艦であるが、完成当初は世界最強、最新鋭の戦艦であった。海戦を一度も行うことなくワシントン軍縮条約により廃艦となった。

 

戦艦香取級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 15950トン(鹿島16400トン)
 最大排水量 -トン
 全長 139m(鹿島143.3m)
 全幅 23.8m(鹿島)
 吃水 8.2m(鹿島8.1m)
 機関出力 1万6000馬力(鹿島1万5600馬力)
 最大速力 18.5ノット
 航続距離 10000海里/10ノット
 乗員 864名
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm単装砲4基
    15.2cm単装砲12基
    7.6cm単装砲16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 日露戦争開戦前の1904年に起工された艦で風雲急を告げる日露関係に備える目的で発注された戦艦であったが、日露戦争には間に合わず戦後に竣工した。要目は当時イギリスが建造中のキング・エドワード7世級に準じているが、砲数では香取級の方が若干上回っている。

主砲は敷島級と同じ30.5cm砲であったが、敷島級の40口径に対して45口径となり、副砲も長砲身化されたので遥かに強力になっている。因みに「口径」とは砲身長を表す用語で、45口径とは砲身の長さが砲内の直径×45の長さであることを意味する。

 2隻揃うまでの期間を短縮するために1番艦香取はヴィッカーズ社、2番艦鹿島はアームストロング社と別々の会社に発注されたため、砲口径等の主要部分以外の仕様はかなり異なっている。1906年8月に日本に引き渡された際は世界最強の戦艦であったが、わずか4ヶ月後に戦艦の革命とも言えるドレットノート級が完成してしまったため一気に旧式戦艦となってしまった。

 

建造

 1番艦香取は1904年4月にヴィッカーズ社で起工、2番艦鹿島は1904年2月にアームストロング社で起工された。竣工は1番艦が1906年5月20日、2番艦鹿島が1906年5月23日である。一応、同型艦ということになっているが全長等仕様が大きく異なるので別の級と考えた方が良いかもしれない。

 

 

戦艦香取級の活躍

 

1番艦香取

02_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦香取は、1906年5月に竣工、8月に日本に到着する。日露戦争により2隻の主力艦を失った日本海軍にとっては待望の新戦艦であった。竣工した時点で日露戦争は終結していたため戦闘参加はないが、艦隊旗艦を務め、度々御召艦として大正天皇や後の昭和天皇の行啓に活躍した。

 1914年、第一次世界大戦が始まると中部太平洋に進出、ドイツ領であったサイパン島を占領した。1916年には大改修が行われ、1921年には後の昭和天皇の渡欧に際し、御召艦として再びイギリスに戻った。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。

 

2番艦鹿島

03_戦艦鹿島
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦鹿島は1906年5月竣工、香取と同様、戦闘での活躍はなく、しばしば御召艦として活躍する。1915年に大改修が行われ、1918年にはシベリア出兵に参加、上陸支援に従事した。1921年には1番艦香取と共に遣欧艦隊を編成、イギリスに戻る。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。主砲は陸上砲台へと転用された。

 

まとめ

 

 香取級は日露戦争後に竣工したため目立った戦歴はない。完成後わずか4ヶ月にして革命的戦艦ドレットノート級が完成してしまったため一気に陳腐化してしまった。しかし、日露戦争で主力艦を失った日本海軍にとっては待望の戦艦であり、廃艦までの約20年間日本の海の護りとして活躍した。

 

関連リンク

前級敷島級戦艦

 

 

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B-17
(画像はwikipediaより転載)

 

読書の感想など

 

大石五雄『英語を禁止せよ―知られざる戦時下の日本とアメリカ』

 最近ではもう忘れ去られてしまっている戦時下の「英語禁止」。その経緯を丹念に描いた作品。著者は日本人で同時に米国で長期間生活した経験から日米双方の視点で英語禁止について考察する。日本の英語禁止はまずは芸能人の芸名から始まり、その後、徐々に拡大していくが、大切なことはこれが明確に国家からの命令という形ではなく、いわゆる「空気」によって促されていくことだ。英語禁止の論理というのは、戦争をしている敵国の言葉を使うというのは前線の兵士に申し訳ないという感情的なもの。同時に当時の日本人も「舶来品」等という言葉に代表されるように、外国の文化に対して憧れを抱いていることが分かる。

 敵性語を禁止を強硬に主張すればするほど、それは自分達自身の心の中にある欧米への憧れの大きさであるということもできる。前線の兵士はこんな形で自分達を利用して欲しいとは思っていないだろうが、英語禁止の論理の弱さと共に感情的というよりもむしろ感覚的に英語を禁止して嫌なものを見ないという当時の日本人の視点が分かる。

 これに対して米国は日本語の地名などを禁止するという意見も主張されたが、地元の人達が抵抗した結果、禁止されることはなかった。それどころか米国は日本語学校を開設して日系二世などに日本語の訓練を施し、情報部員として活躍させていた。日本との違いには驚くが、この理由としてはやはり米国と日本の国力の差というものが大きかったのだろう。米国には余裕があったのだ。

 全体的に米国はおおらかで合理的、日本は感情的で非合理的という感じを受けたが、果たしてそうだろうか。おおむね同意はするが、少し米国を美化しすぎのような印象もある。まあ、それはともかく英語禁止についてここまで事実を追った記録は貴重。本棚にあると便利である。a

 

 

柳田由紀子『二世兵士激戦の記録』

 では、実際に米国にいた日系二世の人々はどうであったのかというのは若干気になる。そこでおすすめなのが本書。日系二世のことを丹念に調べた著者。当時の日系米国人は明治時代に米国に移民した日本人たち。本国日本では失われてしまった明治の日本の価値観をそのまま保ち続けたいわば「純粋日本人」といえる。米国のために死ぬこと、生き恥を晒してはいけない等の教えを受けた日系二世たちは軍に志願するも、最初に与えられた任務は軍用犬に日本人の匂いを覚えさせるために噛まれる役割だった。

 激しい日系人差別の中でついに日系人部隊である442連隊が結成され、ヨーロッパ戦線に送り込まれる。しかしこの部隊は米軍の白人部隊の盾となり消耗していく残酷な運命が待ち構えていた。凄まじい戦死者の数、「消耗品」として使用された日系人兵士の「ママ」「お母さん」という断末魔の声が戦場に響き渡る。

 それでも「突撃」の命令が下ると全員が塹壕から出て機関銃に向かって突進していく。捕虜になることを恥じて手榴弾で自殺した日系人兵士もいたという。最悪の用兵で戦死者の山を作った日系人部隊。そこまでして差別を克服したのだ。

 同時に情報部員として活躍した日系人たち、沖縄の戦場で日本に留学していた時代の同級生を助けた日系人、戦後のGHQで活躍した日系人など、それぞれの戦争があった。丹念に二世兵士に取材して作り上げた本書は貴重。もう生存者もどんどんいなくなってしまっている。

 

 

 

ルース・ベネディクト『菊と刀』

 第二次世界大戦中に書かれた米国人による日本文化研究の本。著者は一度も日本に来ていないものの、日系人や日本人捕虜、日本映画、書籍を徹底的に調査した。結果、日本人は「義理」と呼ばれる価値観の下に生きているとことに注目する。著者は、「義理」に対して「恩」を返すこと、それが日本人の根幹にある思想であると見た。全ては「義理」に対する「恩」のためで、戦争に行くのも天皇や世間から受けた「義理」に対する「恩」である。とまあ、正解と言えば正解であるが、ワレワレはそこまで一つの価値観で統一されているのだろうか?と日本人としてはピンとこない部分もある。

 むしろ山本七平が指摘するように「空気」と解釈した方が日本人のアタクシとしては腑に落ちるところではある。しかし日本人が社会での自分の立場、人からどう見られているかを異常に気にすること等、視点は鋭い。日本人は序列を好みその序列が変化するのを嫌う。米国では尊敬を集める一代で財を成した成功者を日本では「成り上がり」と軽蔑するのがその典型だという。

 上下関係を中心とした社会的秩序を重んじ、変化を嫌う。これは子供の教育から形成される。子供時代に「そこの家の子供になっちゃいなさい!」と子に言う母親を知って著者は驚愕する。子供を家族という群れから排除する発想は米国にはないのだ。さらに子供が世間から嘲笑などの攻撃を受けた場合、日本の親は子供を守ろうとはせずに世間と一緒になって「世間に嘲笑されるような」子供を非難する。それによって日本人は社会から排除される恐怖を知るのだという。

 その結果、日本人は社会の人の目を非常に気にするようになる。と、恐ろしいほど正確に日本人を見ている著者はやはり只者ではない。全て何もかも著者の主張が正しい訳ではないが、その視点の鋭さには舌を巻いてしまう。内容と共に、戦争中にこのような対日研究をやっていた米国とはすごいものだと思う。かたや日本はというと敵性語として英語禁止、米国研究以前のレベルであった。それを考えると日本は米国に国力のみで負けたのではないと理解できる。

 

 

つげ義春『無能の人』

 主人公は著者自身。世の中はバブルの真っ最中の1980年代。その世間の喧騒とは全く別世界に生きる「無能」な人々。河原で拾った石を売る著者、鳥を捕まえる人、それを売る人、買う人。全てにおいて何も生み出すことがなく、世間からも存在を忘れられ、夢もなく目標もなくただその日を生きる人々。シュールでどこか詩的な美しい世界。寡作の著者が生み出した代表作。

 と、なぜか書評のようなことを書いてしまったが、本書は漫画。私が数年前に購入してしばしば読み返すのだ。何ともいえない世界観。諦めた訳ではなく、希望もない。ただ日常が過ぎていくのだが、何かに惹かれる。それが何なのか、何度読んでも分からない。恐らく著者も分からなくて感覚的に描いているのではないかと思う。つまらない日常が淡々と描かれていくだけなのだが、読み始めると止まらなくなる不思議さ。

 鳥を捕まえる男が転落して死ぬ時に大鳥が飛び立とうとしていると「見えた」鳥屋の主人が「飛べ、飛ぶんだ!」と叫んだあとに「俺も連れていってくれ!」と叫ぶシーンが忘れられない。あれは何だったのだろうか。鳥屋の主人はどこに連れて行って欲しかったのだろうか。答えはもちろんなく、考え続けるだけなのだが。

 

 

 

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01_ガーター勲章を佩用する明治天皇
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 栄光ある孤立を選んでいた英国であったが、中国におけるロシア・フランス・ドイツの進出を防ぐために日本との同盟を選んだ。直後に起こった日露戦争での日本の強さを知った英国はより強力な同盟を締結する。しかし日英両国の接近は両国に挟まれた米国の警戒心を生む。結局、日英に米仏を含めた四か国条約を締結することで日英同盟は解消された。

 

日英同盟

 

同盟締結までの情勢

 清国はアヘン戦争以降、英国の半植民地のような状態であったが、1895年に日清戦争によって日本が勝利すると状況は一変することになる。日本に対して巨額の賠償金の支払い義務がある清国は資金を捻出するためにロシアとフランスから金を借りることにした。その見返りとして自国への権益を認めざるを得なかった。

 ロシアは満洲から中国に勢力を拡大、同時にフランスも自国領であるベトナムから中国に勢力を拡大してきた。さらにドイツが山東半島に出兵して勢力圏としたのに対して英国もいよいよ単独で対処するには限界となり、どこかの国と軍事同盟を結ぼうと考えるようになった。

 その国とは日本の事で、日本もロシアの南下に対して警戒感を強めていた。このまま南下が続けば、その先には日本がある。どこかで南下を食い止めたかったのだ。日本ではロシアと協約を結び、ロシアが朝鮮半島へ侵入するのを防ぐ案と英国と同盟を結びロシアと開戦するという案の二つが対立したが、結局、英国と同盟を結ぶこととなった。

 

第一次日英同盟(1902年)

 1902年、日英同盟が成立する。この同盟は1国が戦争状態になった時、同盟国は中立を守ること。そして2国以上と交戦状態になった場合は同盟国側に立ち参戦することが決められた。つまりは一対一の「サシの勝負」は見守るだけだが、相手に助太刀が入った場合は「お味方致す」ということだ。この時の秘密交渉では日本はロシアと開戦する予定であると英国に伝えている。期限は5年間でああった。

 

 

第二次日英同盟(1905年)

 2年後の1904年、日露戦争が開戦する。大方の予想に反して戦局は日本にとって有利となった。1905年、奉天会戦での勝利、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃滅と同盟国が予想以上に強かったので気を良くした英国は、さらに進めて同盟国が1国以上と交戦した場合は参戦するというより積極的な同盟に変更された。つまりは「サシの勝負」でも日英の2国で戦うということだ。さらに期限も10年と延長されることとなった。この第二次日英同盟時に日本の大韓帝国保護国化を英国が承認することが確認された。これは割と重要なことだ。

 

第三次日英同盟(1911年)

 日露戦争以降、米国は膨張していく日本に対して警戒感を強めていた。米国にとって日本と英国とは大洋を挟んだ隣国なのだ。自国を挟んだ隣国同士が軍事同盟を結んでいるというのは脅威でしかない。このため米国の希望により第三次日英同盟では米国を交戦相手国の対象外とすることが決められた。但し、この決定は日英同盟の自動参戦規定とは矛盾することになる。

 

同盟解消(1923年)

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種差別撤廃を主張した。これは主に移民に対する差別を禁止することを目的としたものであった。これに対して英国が反対にまわったことは両国のわだかまりとして残った。さらに日英同盟を警戒する米国の思惑が重なった結果、1921年のワシントン会議で新たに日英同盟に米国とフランスを加えた四か国条約を締結することとなった。これは日英同盟のような強力な軍事同盟ではなく、相互尊重、現状維持という内容のあまり実体のあるものではなかった。1923年、四か国条約発効とともに日英同盟は破棄されることになった。

 

 

 

 

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01_ワシントン会議
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 アメリカが提唱。列強各国の中国の権益の新規獲得禁止を決定。現状維持であるが、日本の進出を警戒した米国の圧力や国際的孤立を恐れたため日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島を返還することになった。以降、ワシントン体制という軍縮、国際協調の時代が訪れた。

 

九か国条約

 

 日露戦争が終わると日本はロシアから獲得した関東州と南満州鉄道を中心に中国への進出を強めていった。これに対して中国進出に出遅れた米国は満鉄の共同経営を提案するが日本に拒否されてしまう。米国と日本は中国を巡って利害が対立、さらに米国は、大国ロシアに勝った日本へ軍事的な警戒心も抱き始めていた。米国から見れば日本は隣国で、隣国が軍事的にも経済的にも力を付け始めたのだ。そして第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦。どさくさに紛れてドイツ権益である山東半島や南洋の島々を占領してしまった。

 そこで米国は、自国が主催したワシントン会議によって中国の門戸開放を主張。要するに「自分も一枚かませろ」という訳だ。この結果、締結されたのが九か国条約で、新たに権益を獲得することを禁止した。つまりは「昔の権益は持っていていい」ということだ。しかし日本に対しては満洲の権益には目をつぶる代わりに米国は、第一次世界大戦で獲得した山東半島は返還を求めた。日本の力が強くなりすぎるのは米国にとってよろしくないのだ。

 これに対して日本は抵抗するが、当時の日本は、1907年に締結した日露協約というロシアと結んだ同盟と日英同盟という英国と結んだ同盟の二つの同盟を持っていた。しかしロシアには革命が起こりソビエトとなってしまったため協約は解消、日英同盟の延長も米国やカナダが難色を示していることから日英同盟も危ない。ここで米国の提案を拒否すれば、日本は国際的に孤立してしまう。このため日本は渋々と山東半島は返還することにした。しかしこの条約に参加した国の多くは山東半島の日本支配を肯定していたため、米国の仲介により日本と中国の二国間交渉で返還することになった。

 これらを経て日本は「ワシントン体制」という国際協調の中に組み込まれていった。但し、この九か国条約、ソビエトが入っていなかったこと、違反に対する制裁規定はなかったこと、これがのちに問題となっていくのだ。

 

 

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01_長門
(画像はwikipediaより転載)

 

ワシントン会議

 

概要

 ワシントン会議は、1921〜1922年に行われた。提唱したのは米大統領ハーディングで日本、米国、英国、仏国、中国、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダの九か国が参加した。日本側の全権代表は日本海海戦時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎大将である。

 第一次世界大戦(1914〜1918年)は、主に欧州での戦争ではあったのだが、実は日本も連合国軍としてちゃっかり参戦している。この機会とばかりにドイツ領であった山東半島や内南洋の島々を占領した。戦後、パリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約によってヨーロッパの秩序は出来たものの、アジア(要は中国)・太平洋は未だ問題を多く残している(要するに日本)。このため中国や太平洋の各国の権益の調整を図るためにワシントン会議が行われたのだ。結果、中国に関しては九か国条約、太平洋に関しては四か国条約、各国の膨大な軍事費を抑えるための海軍軍縮条約も締結された。

 

九か国条約

 この会議で、中国に対しては日本側が得た山東半島を中国に返還することが決定、同時に中国に対する門戸開放、領土保全、機会均等が決められた。要するに「中国の権益は一つの国が独占しちゃだめだよ」ということだ。これは九か国条約として参加国全部が批准した。これにより日本は第一次世界大戦のどさくさに紛れて取った山東半島を返還した。九か国条約の「九か国」とは、日本、英国、米国、フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、ポルトガルである。

 

四か国条約

 さらに太平洋についても話し合われた。これは日米関係が大きな意味を持つ。当時の日米は相当険悪になっていた。日本は中国から第一次世界大戦のどさくさで南洋のドイツ権益の島々を制圧してしまった。膨張する軍事強国日本は米国には脅威だったのだ。当時日本も米国の日系移民への迫害を行っている米国に対して良い印象を持っていない。お互い緊張関係があった。

 この状態で米国が気に入らないのが、長い間続いている同盟関係である日英同盟である。この同盟には米国と日本が戦争状態になった時の参戦条項等はないものの、日本と英国という米国を挟んだ大国同士が結んでいる軍事同盟は気持ちの良いものではない。地理的にみれば、米国は日本と英国に包囲されている状態なのだ。

 何とか二次にわたって続いた同盟をぶっ潰したい米国。米国との関係悪化を心配する英国。そして日本と三者の思惑が交差した結果、日英同盟は軍事的義務や同盟的性格を削除、問題が起これば「協議する」という激ユルな内容に変更。さらに日英に加え米国も加入、何だか分からないがフランスも加入した。結果、「太平洋における領土と権益の相互尊重、非軍事基地化」というこれもまた何だか分からない内容に変更した日英同盟に米仏も加えた四か国条約を締結した。これにより20年にわたって続いた日英同盟は破棄されたのだ。

 

ワシントン海軍軍縮条約

 第一次世界大戦は何とか終了したものの、世界の軍拡競争は激しかった。世界の強国は今の我々がみれば、頭がおかしいのではないかと思うくらい軍隊、特に海軍に予算をつぎ込んでいた。当時は「海軍の力=国力」という側面もあったのだ。当然のように国家予算は圧迫していたため話し合って軍縮をしようではないかということになった。人類史上初の軍縮だったようだ。

 とりあえず莫大な金食い虫である戦艦、空母、巡洋艦という主力艦の新規の建造を禁止、さらに現有の主力艦も保有量を制限した。当初、対英米7割を主張した日本であったが、結果、対英米6割でまとまった。5大海軍国でみると米英5、日本3、仏伊1.67という割合である。さらに主力艦は今後10年間建造を禁止することとなった。これ以降、次のロンドン海軍軍縮条約が失効するまでの間は「海軍の休日(Naval holiday」といわれる。

 

 

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08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

はじめに

 

 装甲巡洋艦とは、巡洋艦が重軽に分類される前に存在していた区分で、戦艦に比べて軽量、高速である巡洋艦をある程度重装甲とした艦種である。妙にふわっとしているが、艦種分類はその時代と国によって異なっており、明確に定義することは難しい。大雑把に書くと、戦艦には及ばないにしても格下の艦相手には十分な装甲を持ち、速力も戦艦よりも若干上回るというようなもので、要するに準戦艦と考えて良い。

 日本海軍では、1899年から1911年まで12隻の装甲巡洋艦が建造されており、この内、8隻が日露戦争に参加した。当然のことながら、これらの艦艇の存在がなければ日露戦争で日本海軍が歴史的勝利を収めることはなかった。そしてこれらの装甲巡洋艦たちは、日露戦争後も多くの任務に就き、中には太平洋戦争終戦まで戦った艦もあった。今回は、この日露戦争に参加した装甲巡洋艦8隻の戦歴とその後について簡単にみてみたい。

 

 

春日型装甲巡洋艦

 

春日(第1艦隊第1戦隊)

※以下カッコ内は日露戦争時の所属

02_春日
(画像は春日 wikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦春日は、1902年3月、イタリア国アンサルド社にてアルゼンチン海軍装甲巡洋艦リッヴァダヴィダとして起工、1903年に日本海軍が購入し艦名を春日と変更した。1904年1月竣工、2月には横須賀に回航される。排水量は7,700トンで全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員562名である。兵装は、25.4cm(40口径)単装砲1門、20.3cm(45口径)連装砲2門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門で、さらに45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する

 1904年2月に日露戦争が勃発すると、4月には旅順口攻撃、8月に黄海海戦に参加したのち、翌年5月、日本海海戦に参加した。そして終戦直前の7月には樺太占領作戦にも参加している。そして第一次世界大戦が勃発すると南シナ海、インド洋で活躍するも1917年、1918年に2度の座礁事故に遭う。1921年9月には一等海防艦に類別変更、海防艦としてシベリア出兵の支援任務に活躍する。1925年には類別海防艦のまま横須賀鎮守府警備艦兼練習艦となった。太平洋戦争開戦後の1942年7月1日、特務艦に類別変更。終戦間際の1945年7月18日、空襲を受け大破着底、1948年に引き上げられ解体された。

 装甲巡洋艦春日は日露戦争、第一次世界大戦をくぐり抜け、太平洋戦争では軍艦籍を除かれたものの練習艦として終戦直前まで活躍した。歴代艦長には岡田啓介、米内光政というのちの総理大臣もいる

 

日進(第1艦隊第1戦隊)

03_日進
(画像は日進 wikipediaより転載)

 日進は春日型装甲巡洋艦の2番艦で、春日同様にイタリア国アンサルド社で建造、アルゼンチン海軍から買い取った艦である。春日とほぼ同時期の1902年3月起工、1904年1月に就役している。排水量は7,700で全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員は568名で兵装は、20.3cm(45口径)連装砲4門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門に45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 1904年2月に日本に回航された後、4月には日露戦争旅順口攻撃に参加、その後、黄海海戦、日本海海戦に参加した後、終戦直前には樺太占領作戦にも参加する。日露戦争後の1912年、乗員による火薬庫放火により弾薬庫が爆発する。第一次世界大戦では太平洋、東南アジア海域の警備、地中海派遣艦隊として活躍した。1921年9月、一等海防艦に類別変更、翌年のシベリア出兵では警備を担当する。1935年4月に除籍、廃艦となる。廃艦後は標的艦として使用、同年10月9日に実験弾が1発命中、想定では1発では沈まないはずであったが老朽化のためそのまま沈没してしまった。その後引き揚げられ解体された。

 この艦には日露戦争時、少尉候補生だった山本五十六が乗艦していたり、アルゼンチン海軍の観戦武官も乗艦していたという艦であった。同型艦春日とは異なり廃艦となり沈没するという寂しい最後であった。

 

出雲(第2艦隊第2戦隊)

04_出雲
(画像は出雲 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦の1番艦である。1898年5月に英国アームストロング社で起工、1900年9月に竣工すると同年12月に日本へ回航された。排水量9,750トン、全長122m、全幅21m、最大速度20ノットで乗員672名、兵装は20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。日露戦争ではロシアのウラジオ艦隊に対抗するため対馬海峡に展開、蔚山沖海戦、日本海海戦には第二艦隊旗艦として参加、日本海海戦では東郷司令長官の命令を無視。結果、「世紀のパーフェクトゲーム」に貢献した。

 戦後は第一艦隊旗艦、第一次世界大戦では遣米艦隊旗艦、続いて第二特務艦隊旗艦とし地中海に派遣、連合国の船団護衛に活躍した。1920年代初頭に一等海防艦に類別変更、その後練習艦、海防艦として活躍するが、1932年2月、日中関係の悪化によって中国方面の艦隊を統率する第三艦隊の旗艦となる。その後さらに第四艦隊も加えた支那方面艦隊の旗艦となる。その後、支那方面艦隊は規模を縮小され、第三艦隊は第一遣支艦隊と改名、引き続き同艦隊旗艦を務める。

 1942年7月、海防艦の定義変更(占守型海防艦等が順次完成していた)により、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、竣工42年目にして再び巡洋艦となった。1943年8月20日、出雲は内地に帰還、練習艦として運用。1945年7月24日、米軍の空襲により至近弾を受け大破着底、1947年に引き上げられ解体された。艦歴の多くを旗艦として生きた稀有な艦であった。

 

磐手(第2艦隊第2戦隊)

05_磐手
(画像は磐手 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦2番艦。出雲よりも6ヶ月遅い1898年11月、英国アームストロング社にて起工、1901年3月に竣工、同年5月に日本に回航された。排水量9,750トン、全長132m、全幅21m、最大速度21ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基、45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 日露戦争では1番艦出雲と第二艦隊第二戦隊を編成、蔚山沖海戦や日本海海戦に活躍した。戦後は出雲と同様に1920年代初頭に海防艦に類別変更、他の艦に比して居住性が良かったため練習艦として使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、1945年7月26日、米軍の呉軍港空襲により沈没、戦後引き揚げられた後解体された。歴代艦長にはのちに総理大臣となった米内光政、猛将で知られる角田覚治、潜水艦隊司令長官として有名な醍醐忠重などがいる。

 

 

吾妻(第2艦隊第2戦隊所属)

05_吾妻
(画像は吾妻 wikipediaより転載)

 

 基本的に英国の艦船を購入していた日本海軍には珍しいフランス製装甲巡洋艦である。1898年にフランス国ロワール社にて起工、1900年7月に竣工した。排水量9,326トンで同時期の英国製装甲巡洋艦出雲型に比べ若干少ないもののほぼ同じである。しかし全長は出雲型132mに対して136mと4mも長く、逆に全幅は18mと出雲型に比べ3m細かった。つまり出雲型に比べ、前後に長く、細い艦艇であった。最大速度は20ノットと出雲型に比べて1ノット劣る。乗員は644名で兵装は、兵装20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、 47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備している。

 日露戦争では第二艦隊に編入、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。戦後は一時期練習艦となるも第一次世界大戦では第一特務艦隊に編入された。他の装甲巡洋艦と同様に1921年9月1日に一等海防艦に類別変更、舞鶴で練習艦として運用される。どうも機関部に不調があったようで1927年には定繋練習艦、1942年7月には練習特務艦に類別変更された。さらに第二次世界大戦中の1943年9月には備砲を撤去、1944年2月15日に除籍、鉄資源の回収のため1945年に解体された。

 

八雲(第2艦隊第2戦隊所属)

07_八雲
(画像は八雲 wikipediaより転載)

 

 こちらもかなり珍しいドイツ製装甲巡洋艦である。1898年9月ドイツで起工、1900年6月に就役した。排水量9,695トン、全長124.7m、全幅 19.6mと同時期の装甲巡洋艦に比して全長が短い。最大速度は20.5ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に所属、黄海海戦、日本海海戦に参加、終戦直前には第三艦隊旗艦として樺太占領作戦にも参加している。その後は他の装甲巡洋艦と同様に練習艦として活躍したのち、1932年には海防艦に類別変更された。1942年7月1日には海防艦から再び一等海防艦に類別変更、太平洋戦争にも参加している。1945年5月には主砲が撤去され、12.7cm連装高角砲が設置、同年7月の呉空襲にも遭遇したが、奇跡的に中破状態で生き残った。自力航行可能であったため戦後は特別輸送船(復員船)として活躍、1946年7月に解体された。復員船としても活躍した唯一の日露戦争参加装甲巡洋艦。さすが鉄鋼の国ドイツ製といったところだろうか。

 

浅間(第2艦隊第2戦隊)

08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

 

 日露戦争参加装甲巡洋艦中最も古い艦である。1896年10月、英国アームストロング社にて起工、1899年3月竣工した。同月英国を出航、5月に日本に到着した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 1900年に義和団の乱で出撃。日露間の関係が悪化する中で1903年に連合艦隊が編成されると浅間は第二艦隊第二戦隊に編入された。日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加している。戦後は練習艦になったのち、第一次世界大戦では太平洋上のドイツ領攻略に参加している他、北米西海岸での哨戒任務に就いている。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、1942年7月1日には帝国海軍籍から削除、練習特務艦となった。他の装甲巡洋艦が一等巡洋艦に類別変更されたのに対して浅間が除籍されたのは、1935年10月に起こった座礁事故による竜骨損傷や老朽化が原因と言われている。

 軍艦籍から除籍されたのちは主砲、副砲も撤去され砲塔跡に校舎も設置された。1945年11月30日に除籍、1947年に解体された。日露戦争では日本海海戦に参加するも戦闘初期に舵が故障し集中砲火を浴びてしまった他、1915年にはメキシコで座礁、1935年には広島湾でまた座礁してしまう。今ひとつ運の無い艦だったようだが、とにもかくにも太平洋戦争終戦まで生き残った。

 

常磐(第2艦隊第2戦隊所属)

09_常磐
(画像は常磐 wikipediaより転載)

 

 1897年1月英国アームストロング社にて起工、1899年5月に就役した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に編入、旅順港攻撃、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1914年8月第二艦隊第四戦隊に編入、第一次世界大戦にも参加した。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、翌1922年9月には敷設艦に類別変更、1923年4月までに敷設艦に改装された。そのまま敷設艦として活躍を続け、1941年12月8日の太平洋戦争開戦もマーシャル諸島クェゼリン環礁で迎えた。1942年2月の米機動部隊の空襲により被弾、3月に佐世保に帰還、修理完了ののち、再びマーシャル諸島に進出している。

 1943年6月に内地に帰還、7月には大湊を根拠地として本土近海での機雷敷設任務に活躍した。1945年8月9日、大湊空襲により被弾、浸水したが沈没には至らなかった。しかし終戦を迎え、乗員が去っていくなかで排水作業が不可能となり擱座した状態で終戦を迎えた。1946年〜1947年にかけて解体された。常磐は日露戦争から太平洋戦争までを戦った数少ない装甲巡洋艦であった。

 

 

おわりに

 

 日露戦争に参加した装甲巡洋艦は全部で8隻、内、7隻が太平洋戦争開戦まで存在していた。ほとんどは練習艦となっていたものの、出雲のように旗艦として活動していた艦や八雲や常磐のように実戦に参加していた艦も存在する。これらの艦はあまり知られてはいないものの、装甲巡洋艦という類別から外れたのちも各種任務にまい進した日本海軍の縁の下の力持ちであった。

 

 

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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 

 


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01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

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01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

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01_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 航空母艦 赤城とは、天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約により空母へ改装された。当初は三段空母であったが、のちに全通式空母に改装、これらの変遷を経たために艦内の構造は複雑、居住性は最悪であった。太平洋戦争では第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃を始め太平洋、インド洋を転戦、1942年6月にミッドウェー海戦で撃沈された。

 

航空母艦 赤城 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 36.500トン
 全長 260.67m
 全幅 31.32m
 吃水 8.71m
 機関出力 13万3,000馬力
 最大速力 31.2ノット
 航続距離 8,200海里/16ノット
 乗員 1,630名
 武装 20cm単装砲6基
    12cm連装高角砲6基
    25mm連装機銃14基
 搭載機 常用66機、補用25機  同型艦 1隻

 

特徴

02_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍が計画した八八艦隊の1隻として建造された天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約の締結によって同艦型は廃棄が決定、3番艦、4番艦は廃棄されたものの、1番艦天城、2番艦赤城は空母に改装することによって保有が認められたため空母への改修が行われた。1番艦天城は関東大震災により廃艦となってしまうが、赤城は1927年3月に空母として竣工した。

 当初は上下に飛行甲板、中段に艦橋、重巡並みの20cm連装砲2基を備えた三段空母であったが、構造があまりにも意味不明のため1935年11月から1938年8月まで約3年間かけて全通式空母に改装された。この時に世界の空母でも珍しく艦橋が飛行甲板上左側に設置されている(普通は右側)。

 改装前には2本あった煙突も1本にまとめられ航空機の着艦に影響を与えないように下向きに設置、海面に向けて煙を吐き出す形式となった。このため煙突のある右舷居住区は煙突の排気が流れ込んだ。当初、巡洋戦艦として設計され、三段空母に変更、さらに全通式空母へ変更されるという変遷をたどったため、艦内の構造は複雑であった。

 

同型艦

赤城(起工1920年12月6日、竣工1927年3月25日)

 

航空母艦 赤城 〜戦歴〜

03_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 全通式空母に改装された赤城は、1939年1月に第一航空戦隊旗艦として日中戦争に出撃、海南島攻略戦に参加している。1941年4月には第一航空艦隊に編入。12月に開戦した太平洋戦争では、第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃に参加、1942年1月にはラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃を行う。4月にはセイロン沖海戦に参加、6月のミッドウェー海戦にも旗艦として参加撃沈された。

 

まとめ

 

 ミッドウェー海戦において赤城が撃沈された時、艦長の青木泰二郎大佐は赤城と運命を共にしようとするが説得されて退艦した。このため帰国すると即日予備役に編入、即座に召集され閑職に回される。青木大佐は太平洋戦争を生き抜き、1962年に他界する。

 

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01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

 

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