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日本

01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


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01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

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01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

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01_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 航空母艦 赤城とは、天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約により空母へ改装された。当初は三段空母であったが、のちに全通式空母に改装、これらの変遷を経たために艦内の構造は複雑、居住性は最悪であった。太平洋戦争では第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃を始め太平洋、インド洋を転戦、1942年6月にミッドウェー海戦で撃沈された。

 

航空母艦 赤城 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 36.500トン
 全長 260.67m
 全幅 31.32m
 吃水 8.71m
 機関出力 13万3,000馬力
 最大速力 31.2ノット
 航続距離 8,200海里/16ノット
 乗員 1,630名
 武装 20cm単装砲6基
    12cm連装高角砲6基
    25mm連装機銃14基
 搭載機 常用66機、補用25機  同型艦 1隻

 

特徴

02_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍が計画した八八艦隊の1隻として建造された天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約の締結によって同艦型は廃棄が決定、3番艦、4番艦は廃棄されたものの、1番艦天城、2番艦赤城は空母に改装することによって保有が認められたため空母への改修が行われた。1番艦天城は関東大震災により廃艦となってしまうが、赤城は1927年3月に空母として竣工した。

 当初は上下に飛行甲板、中段に艦橋、重巡並みの20cm連装砲2基を備えた三段空母であったが、構造があまりにも意味不明のため1935年11月から1938年8月まで約3年間かけて全通式空母に改装された。この時に世界の空母でも珍しく艦橋が飛行甲板上左側に設置されている(普通は右側)。

 改装前には2本あった煙突も1本にまとめられ航空機の着艦に影響を与えないように下向きに設置、海面に向けて煙を吐き出す形式となった。このため煙突のある右舷居住区は煙突の排気が流れ込んだ。当初、巡洋戦艦として設計され、三段空母に変更、さらに全通式空母へ変更されるという変遷をたどったため、艦内の構造は複雑であった。

 

同型艦

赤城(起工1920年12月6日、竣工1927年3月25日)

 

航空母艦 赤城 〜戦歴〜

03_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 全通式空母に改装された赤城は、1939年1月に第一航空戦隊旗艦として日中戦争に出撃、海南島攻略戦に参加している。1941年4月には第一航空艦隊に編入。12月に開戦した太平洋戦争では、第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃に参加、1942年1月にはラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃を行う。4月にはセイロン沖海戦に参加、6月のミッドウェー海戦にも旗艦として参加撃沈された。

 

まとめ

 

 ミッドウェー海戦において赤城が撃沈された時、艦長の青木泰二郎大佐は赤城と運命を共にしようとするが説得されて退艦した。このため帰国すると即日予備役に編入、即座に召集され閑職に回される。青木大佐は太平洋戦争を生き抜き、1962年に他界する。

 

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01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

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ニューナンブM60
(画像はwikipediaより転載)

 

 ニューナンブM60とは、1960年に日本警察に初めて納入された国産リボルバーである。S&Wのリボルバーをベースに独自の改良を加えた銃で、命中精度はS&W社のJフレーム拳銃よりは高い。日本警察は2003年頃よりM37を制式採用しているため現在は生産されていない。

 

ニューナンブM60(実銃)

 

 

性能

全長 198mm
重量 670g
口径 38口径
使用弾薬 38スペシャル弾
装弾数 5発
設計・開発 新中央工業

 

背景から開発まで

 戦後の日本の警察官は当初は米軍から貸与された拳銃(一時的には南部十四年式等の旧日本軍の拳銃も使用した)を使用していたが、老朽化が進んだ上に種類も雑多であったため新拳銃の開発が志向された。

 

開発

 1956年9月、日本兵器工業会(のちの日本防衛装備工業会)が通産省指導の下に拳銃研究会を設置し検討を開始した。1957年には新中央工業(のちミネベアの一部門)が開発を開始した。新中央工業が開発した拳銃はリボルバーとオートの2種類であった。1959年11月性能試験が行われ、リボルバー型が採用、1960年に納入が開始された。尚、オート型はM57Aと呼ばれ、のちに自衛隊の次期制式拳銃のトライアルに改良型M57A1が提出されたが不採用となりSIGP220が制式採用された。

 ニューナンブM60はS&W社のリボルバーをベースとしており、装弾数は5発である。大きさはS&WのJフレームとKフレームの間位の大きさであり、固定サイトにグリップ下部にはランヤードリングが装備されている。バックストラップ部分は後方に張り出しており、S&Wのリボルバーと異なる独自の形状となっている。集弾性能は非常に良く25mで5cm程度にまとまる。

 生産当初の銃はシリンダーの強度に問題があったが、1961年以降生産品については問題は解消している。1964年からはサイドプレートのスクリューの数が3本に減らされ、1980年代にはシリンダーラッチの形状が変更、同時期にグリップパネルの形状も小指がはみ出さないように下部前方が延長されている。1999年に生産終了している。バリエーションとしては2インチ型と3インチ型があり、1960年代に153mm(6インチ)銃身にバレル下部にアンダーラ、フルアジャスタブルサイト、同グリップを装備したM60サクラという競技専用銃が3丁試作されている。

 

ニューナンブM60(トイガン)

 

概要

 トイガンでは、大友商会がニューナンブM60を発売していた。これはシリンダーのスイングアウトのみ可能なほぼ無可動ダミーカートもでるであった。発火式モデルガンではHSWから「J-police」として発売されているが、これはS&WのチーフスペシャルをニューナンブM60形状にしたモデルなので大きさが若干小さい。ガスガンはマルシンから8mm弾仕様と6mm弾仕様で「ポリスリボルバー」として発売している。これらのメーカーが「ニューナンブ」という名称を使用できないのは、ニューナンブという名称が商標登録されているからだそうである。

 

マルシン ポリスリボルバー ガスガン

性能(3インチHW)

全長 200mm
重量 415g
装弾数 5発

 「ポリスリボルバー」として新規に設計されたものなので今まで発売されたトイガンの中で一番完成度は高い。2インチ、3インチモデル、実銃にはないシルバーモデルも発売されている。シリンダー内部は改造防止のため切り抜きされている代わりにカートは真鍮製のフルサイズである。初速は60m/s弱で命中精度は「カート式リボルバーにしては」良い。

 

まとめ

 

 S&Wリボルバーの亜流といって良いであろう。命中精度は非常に高い。日本の国産兵器全般に言えることであるが、需要が国内のみであり競争にさらされていないために性能が「今ひとつ」である場合が多い反面、価格は非常に高い。これはあくまでも市場が小さいからであって製造メーカーが暴利を貪っている訳でもなく、むしろ赤字のメーカーも多い。ここまでして「国産兵器」に拘る必要もないと思うのだが、日本という国は変化することが苦手な国なので仕方がないのかもしれない。

 

 

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01_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 薩摩級戦艦は日本初の国産戦艦である。初の戦艦でありながら世界最大の戦艦であり、最新のタービン機関を搭載した画期的な戦艦であった。第一次世界大戦に参加した他は目立った活躍はしていないが、日本戦艦史に残る名艦であるといえる。

 

戦艦 薩摩級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 19372トン(安芸は19800トン)
 最大排水量 -トン
 全長 137.2m(安芸は140.2m)
 全幅 25.5m
 吃水 8.4m
 機関出力 1万7300馬力(安芸は2万5000馬力)
 最大速力 18.3ノット(安芸は20ノット)
 航続距離 -
 乗員 887名(安芸は931名)
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm砲連装6基
    40口径12cm砲単装12基
    45口径15.2cm砲単装8基(安芸のみ)
    40口径7.6cm砲単装8基(安芸は16基)
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 50.8cm
    主砲 233.7cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級は日本初の国産戦艦である。それまで装甲巡洋艦建造の経験はあったものの戦艦の建造経験はなかったが、香取級よりも高性能な戦艦を目指して日本独自の設計で建造された。旧来の戦艦を増産するのではなく独自設計でより高性能を目指した意欲作であった。

 当初の計画では艦の中心線上に主砲連装4基を搭載するという弩級戦艦を先取りする案もあったが、最初の国産戦艦ということもあり従来通りの前後に2基という設計で落ち着いた。主砲の数こそは従来通りであったが、中間砲は45口径25.4cm連装砲を6基とかなり強力な配置となっている。中間砲は威力こそ主砲に劣るものの発射速度では主砲を上回り、状況によっては弩級戦艦をも凌駕する能力を持ったものであった。

 このため排水量は2万トン近くなり、建造時点では世界最大の戦艦となった。さらに2番艦安芸では最新のタービン機関を搭載するという初の国産戦艦としてはかなり挑戦的な艦であった。同型艦で速力が異なるという点を承知の上で新技術に挑む意欲と同時に当時の日本の焦りが感じられなくもない。

 

同型艦

 1番艦薩摩
 2番艦安芸

 

建造

 1番艦薩摩は1905年5月に起工、2番艦安芸は1906年3月に起工した。1番艦薩摩は1910年3月、2番艦安芸は1年後の1911年3月に竣工した。

 

戦艦薩摩級の活躍

 

1番艦薩摩

02_戦艦薩摩
(画像はwikipediaより転載)

 

 主砲の増設を諦める代わりに中間砲を増設した本級だが、当初は発射速度に難があった。改良を繰り返され、後には発射速度も速くなり弩級戦艦に匹敵する砲戦能力になったと言われている。1910年竣工と同時に第一艦隊に就役、第一次世界大戦では第二南遣支隊に編入され、太平洋のドイツ領攻略作戦に活躍した。1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦、除籍となる。1924年9月には標的艦として沈没した。

 

2番艦安芸

03_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 安芸は1番艦薩摩の同型艦とされているが、実際には様々な違いがある。副砲の口径が延長されていること等もあるが、最大の違いは薩摩がレシプロ機関であるのに対して、安芸がタービン機関であることであろう。これにより最大出力が薩摩1万7300馬力に対して安芸2万5000馬力と大幅に増加している。最大速度も薩摩18.5ノットに対して安芸が20ノットと大きな違いが出ている。外観上の違いは煙突の数で薩摩が2本に対して安芸は3本である。

 1911年3月に竣工した安芸は、第一次世界大戦に参加したのち、1919年には大改装を受け、数度御召艦として活躍したが、1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦となった。1924年9月標的艦として戦艦長門、陸奥の砲撃により沈没。艦はこれにより沈没したが、安芸の砲身のみは兵庫県西宮市の鳴尾八幡神社で戦没者を祀る慰霊塔として現存している。

 

04_戦艦安芸砲身
(画像はwikipediaより転載)
鳴尾八幡神社に現存する戦艦安芸の砲身

 

まとめ

 

 薩摩型戦艦は日本海海戦の前々日に起工、日露戦後に就役しワシントン軍縮条約により廃艦となった目立たない戦艦であった。しかし日本初の国産戦艦であった。本級には初の国産戦艦でありながら世界最大の戦艦であったことを始め、最新のタービン機関を採用する等、当時の技術者の数々の意欲的な挑戦がみられる日本戦艦の記念碑的な艦であった。

 

関連リンク

前級香取級戦艦

 

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01_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦香取級は敷島級の後継にあたる戦艦であるが、就役が日露戦後であったためあまり知られていない戦艦であるが、完成当初は世界最強、最新鋭の戦艦であった。海戦を一度も行うことなくワシントン軍縮条約により廃艦となった。

 

戦艦香取級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 15950トン(鹿島16400トン)
 最大排水量 -トン
 全長 139m(鹿島143.3m)
 全幅 23.8m(鹿島)
 吃水 8.2m(鹿島8.1m)
 機関出力 1万6000馬力(鹿島1万5600馬力)
 最大速力 18.5ノット
 航続距離 10000海里/10ノット
 乗員 864名
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm単装砲4基
    15.2cm単装砲12基
    7.6cm単装砲16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 日露戦争開戦前の1904年に起工された艦で風雲急を告げる日露関係に備える目的で発注された戦艦であったが、日露戦争には間に合わず戦後に竣工した。要目は当時イギリスが建造中のキング・エドワード7世級に準じているが、砲数では香取級の方が若干上回っている。

主砲は敷島級と同じ30.5cm砲であったが、敷島級の40口径に対して45口径となり、副砲も長砲身化されたので遥かに強力になっている。因みに「口径」とは砲身長を表す用語で、45口径とは砲身の長さが砲内の直径×45の長さであることを意味する。

 2隻揃うまでの期間を短縮するために1番艦香取はヴィッカーズ社、2番艦鹿島はアームストロング社と別々の会社に発注されたため、砲口径等の主要部分以外の仕様はかなり異なっている。1906年8月に日本に引き渡された際は世界最強の戦艦であったが、わずか4ヶ月後に戦艦の革命とも言えるドレットノート級が完成してしまったため一気に旧式戦艦となってしまった。

 

建造

 1番艦香取は1904年4月にヴィッカーズ社で起工、2番艦鹿島は1904年2月にアームストロング社で起工された。竣工は1番艦が1906年5月20日、2番艦鹿島が1906年5月23日である。一応、同型艦ということになっているが全長等仕様が大きく異なるので別の級と考えた方が良いかもしれない。

 

戦艦香取級の活躍

 

1番艦香取

02_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦香取は、1906年5月に竣工、8月に日本に到着する。日露戦争により2隻の主力艦を失った日本海軍にとっては待望の新戦艦であった。竣工した時点で日露戦争は終結していたため戦闘参加はないが、艦隊旗艦を務め、度々御召艦として大正天皇や後の昭和天皇の行啓に活躍した。

 1914年、第一次世界大戦が始まると中部太平洋に進出、ドイツ領であったサイパン島を占領した。1916年には大改修が行われ、1921年には後の昭和天皇の渡欧に際し、御召艦として再びイギリスに戻った。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。

 

2番艦鹿島

03_戦艦鹿島
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦鹿島は1906年5月竣工、香取と同様、戦闘での活躍はなく、しばしば御召艦として活躍する。1915年に大改修が行われ、1918年にはシベリア出兵に参加、上陸支援に従事した。1921年には1番艦香取と共に遣欧艦隊を編成、イギリスに戻る。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。主砲は陸上砲台へと転用された。

 

まとめ

 

 香取級は日露戦争後に竣工したため目立った戦歴はない。完成後わずか4ヶ月にして革命的戦艦ドレットノート級が完成してしまったため一気に陳腐化してしまった。しかし、日露戦争で主力艦を失った日本海軍にとっては待望の戦艦であり、廃艦までの約20年間日本の海の護りとして活躍した。

 

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前級敷島級戦艦

 

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