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日中戦争

01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

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01_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 仏印進駐とは、日中戦争の相手国中華民国への補給路を遮断するために日本軍が北部仏印に進出、これに米英が怒って日本への資源の輸出を禁止、資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。激ギレした米国は対日石油禁輸をする。石油が欲しい日本は太平洋戦争の開戦を決意する。

 

仏印進駐 〜概要〜

 

02_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

北部仏印進駐

 1937年に何となく始まった日中戦争。日本軍が中華民国の首都南京を攻略したものの、中華民国は内陸部の重慶に首都を変更して抗戦を続けた。この中華民国に対してイギリス、アメリカ、ソビエトは大量の物資を送り続け中華民国を支援していた。このルートは4路あったが、その中でも最大のルートがフランスが植民地としていたベトナム、ラオス(仏印)の北部を通るルートであった。

 1940年、中華民国の「兵糧攻め」を狙う日本軍は、このルートの遮断するため北部仏印に武力進出する。当時、ドイツに占領されて力の衰えていたフランスは日本の要求を受諾せざるえなくなかった。この結果、援蒋ルートの遮断には成功したものの米英の反感を買い、同時期に日本が日独伊三国同盟を締結したこともあって米国は日本への鉄くずの輸出を禁止した。

 

南部仏印進駐

 米英からの反感は買ったものの、制裁は日本側が思っていた程厳しいものではなかったが、日本は戦略物資の供給元を失ってしまった。そこで日本が目を付けたのがオランダ領東インドであった。これは現在のインドネシアに相当する地域で豊富な資源を産出していた。

 南部仏印とは現在のベトナム南部で、ここに進駐することはこのオランダ領東インドに圧力をかけることができるだけでなく、イギリス植民地にも圧力をかけることが出来る要地であった。1941年7月末、日本軍は南部仏印に進出する。日本軍の進出は一応、平和的なものであったが、日本軍の強力な武力を背景にしていることには変わりはなかった。

 これに対して米国は即座に対日石油輸出禁止を決定、石油の輸入を米国に頼っていた日本はピンチに陥る。石油が無くなれば戦争も出来なくなると考えた日本は、11月に対米戦争を決意、12月に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。

 

援蒋ルートとは

 

03_援蒋ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年に日本と中華民国の間で日中戦争(日本側呼称は支那事変)が始まると日本の勢力拡大を脅威に感じた米国、英国、ソ連は中華民国に対して大量の支援物資を送ることで対抗した。この支援物資を送るためのルートを当時の中華民国の主席であった蒋介石から「援蒋ルート」と呼ばれるようになった。

 このルートはソ連からのルート、香港からのルート、仏印ルート、ビルマルートの4つが存在したが、ソ連からのルートは独ソ戦開戦によって余裕が無くなったことや日ソが日ソ中立条約を締結したこともあって閉鎖。香港ルートも1938年に日本軍によって広州が占領されると遮断、残る仏印ルートは日本軍による北部仏印進駐によって遮断されたが、米英はビルマルートにより中華民国を支援し続けたため、日本軍はビルマルートを遮断するためにインパール作戦を行うこととなった。

 

仏印進駐のおすすめ書籍

 

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

 2020年菅内閣時に学術会議任命拒否された6人の内の一人、加藤陽子氏による日本近代史の概略を一般向けに分かりやすく解説した本。加藤氏は日本近代史の専門で本書は多少回りくどい部分もあるが、明治維新以降、日本が太平洋戦争に突き進んでいく姿を描き出している。徐々に選択肢が少なくなり、最終的には開戦に至っていくという過程が良く分かる。

 

まとめ

 

 援蒋ルートを遮断するために行った仏印進駐は米英による経済制裁を招いた。鉄と石油という近代国家に必須の戦略物資の供給を断たれた大日本帝国は米英蘭に対して開戦する。開戦当初は二線級の兵器で武装した米英蘭連合軍を圧倒的な戦力で撃破した日本軍であったが、そもそも日本と連合国では、生産力や技術力に圧倒的な差があったため数ヶ月で快進撃は止まり、以降は守勢から敗北へと突き進んでいく。

 

 

 


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