01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

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