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操練48期

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

日高義巳上飛曹の経歴

 

 1919年鹿児島県屋久島に生まれる。1936年佐世保海兵団に志願。1937年には重巡足柄乗組となりジョージ6世戴冠記念観艦式の招待艦乗組員としてイギリスに派遣される。1939年6月操縦練習生48期に採用され戦闘機搭乗員となる。1940年1月操縦練習生修了。1941年10月1日台南空に配属される。その後204空に異動、1943年4月18日、山本五十六大将乗機が撃墜された際には護衛を務めた。同年6月7日、「ソ」作戦に参加。戦闘中未帰還となる。

 

死亡率77%の操練48期

 

 日高上飛曹は操練48期、同期の戦闘機専修は13名で、中にはラバウル航空戦で2週間で18機を撃墜した記録を持つ荻谷信男上飛曹もいる。操練の40、50期クラスは太平洋戦争中に中堅搭乗員として酷使されたクラスで13名中、3名が開戦前に戦死、開戦一年後にはさらに3名が戦死、1943年には日高上飛曹を含む2名が戦死、1944年には萩谷信男上飛曹を含む2名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか2名(または3名)、死亡率77%というクラスであった。戦死後、当時の204空司令杉山丑衛大佐が肉親へと宛てた手紙によると撃墜20機とある。

 

日高義巳上飛曹関係書籍

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死するという壮絶な記録。

 本書は日高上飛曹の親族に取材して書いたもののようで日高上飛曹が親へ宛てた手紙、杉山司令から親への手紙等の内容が詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 日高上飛曹は山本五十六大将戦死時の護衛戦闘機6機の内の1機として有名である。日本の搭乗員全般に言えることであるが、日高上飛曹の出身期である操練のこの前後のクラスは特に酷使されており非常に生存者が少ないクラスである。

 

 

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荻谷信男
(画像はwikipediaより転載)

 

 荻谷信男は48期操縦練習生出身で生涯に撃墜した敵機は24機と言われている。当時、海軍航空隊内部でも坂井三郎や岩本徹三という名は知れ渡っていたという。しかし、逆に荻谷は当時ほとんど部内でも知られることがなかった搭乗員であったようだ。それは初空戦が1943年暮れというかなり遅い時期だったことも理由であろう。初空戦後は、円熟の技量で戦果を挙げたが、残念ながら昭和19年2月には未帰還となってしまった。

 

萩谷信男の経歴

 

 1918年茨城県生まれ。1938年海軍に入隊。1940年1月48期操練を卒業。千歳空に配属されルオット島で開戦を迎えた。その後281空に異動。北千島に進出する。1943年11月281空派遣隊としてラバウルに進出、204空所属となる。1944年1月末253空に異動。2月13日未帰還となる。

 荻谷は1918年生まれ、操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西沢広義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。

 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののち一部の隊員は、トラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わることになる。のち201空と呼称される千歳空本隊も1943年7月にはラバウル方面へ進出する。荻谷は違う。北千島に展開する281空に配属される。この281空、何故か岩本徹三がいるのだ。

 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。1943年11月、春田虎二郎中尉以下、岩本徹三、萩谷信男等16機がラバウルに進出。荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜という海軍最高密度の撃墜記録を挙げる。

 日本海軍では採用されていないが、欧米では5機以上撃墜したパイロットはエースと呼ばれる。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。

 萩谷は海軍に入るのが遅く、開戦後も平穏な地域に配属されることが多く、初空戦が25歳という珍しい搭乗員である。しかしそれまでの訓練は伊達ではなかった。突然熾烈なラバウル航空戦に参加し、わずか3ヶ月の間に24機を撃墜するという記録を残した名パイロットであった。

 

萩谷信男関連書籍

 

岩本徹三『零戦撃墜王』

岩本徹三 著
光人社NF文庫 2004/8/1
 

 戦記に詳しい人には有名な海軍のトップエース岩本徹三少尉の本。岩本徹三氏は日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ第一線で戦い続けた稀有なパイロット。総撃墜数は216機で内、ラバウル航空戦で142機を撃墜したと自称していた 岩本徹三氏は戦後10年を待たずして敗血症により他界してしまう。岩本氏は戦中から日記を付けており、その日記を基に戦後執筆したのが本書だ。萩谷信男と同部隊に所属した熟練パイロット。本書中に萩谷の顔写真が出ている。

 

 

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