トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

戦闘301飛行隊

高木 晃治,ヘンリー 境田 著
双葉社 (2014/7/16)

 

 343空とは太平洋戦争末期に当時の最新鋭機紫電改で編成された戦闘機隊である。司令官は真珠湾攻撃時の航空参謀源田実大佐で基幹搭乗員にベテランを配し、比較的高い練度を持った部隊であった。終戦まで活躍したが人員、機材共に消耗し終戦を迎える。

 

 

 実は本書は私は買うつもりではなかったのだ。図書館で借りて適当に読んで終わりにしようかと思っていた本だ。何故なら非常に高いから。本の厚さもさることながら値段が古本でも4000円となかなか高価な本なのである。まあ、結局、買うんだけど、理由は内容があまりに良かったからだ。

 普通、戦記物や戦史研究というのはやはり日本人なら日本からの視点、アメリカ人ならアメリカからの視点という風に視点が偏ってしまう。しかしこの本は日本人とアメリカ人の共著なので視点が客観的で良い。日本の搭乗員に関して詳述しているのと同時にアメリカ人の搭乗員に対しても同様にしている。

 特に本書は343空を中心とした本であるので本土防空戦が中心である。アメリカ軍は攻める側で日本は守る側である。アメリカ軍の航空機が撃墜され搭乗員が脱出すれば日本に落ち場合によっては捕虜となる。しかし脱出して降伏した米兵の中には日本軍によって処刑されてしまった者も多い。日本人としてはあまり知りたくない事実であるがこれもまた戦争である。

 本書の白眉は日米の研究者が難しいといわれる空中戦の中でどの搭乗員が誰を撃墜したのか等を可能な限り調査している点である。私は不可能と思っていたが意外と判明していて驚いた。紫電改好きには必携の本だと思う。本書はあまりにも詳しいため読むのと同時に辞書的な使い方もできる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

人気ブログランキング

杉田庄一
(画像はwikipediaより転載)

 

 杉田庄一は、総撃墜数は単独撃墜70機、共同撃墜40機と言われている日本海軍屈指の戦闘機搭乗員である。この撃墜数は、単独と共同が逆じゃないかという指摘もあるが、それは置いても杉田が戦死した時、全軍に発せられた布告分に記載されている数字なので公認といえば公認なのかもしれない。しかし太平洋戦争当時の混乱した戦闘の中では必ずしも撃墜の確認ができたとは言えない。撃墜数は一つの目安と考えた方がいいだろう。

 

杉田庄一の経歴

 

 大正13年新潟県に生まれる。昭和15年で海軍に志願。昭和17年3月丙3期修了。6空に配属される。ミッドウェー海戦を経験する。昭和17年6空隊員としてラバウルに進出。12月には体当たりでB17を撃墜している。昭和18年4月18日の山本五十六戦死の時は護衛戦闘機隊として空戦に参加。昭和19年3月263空に配属。7月201空に異動。昭和20年1月343空戦闘301飛行隊に配属。4月15日離陸中を奇襲され戦死する。

 この杉田は戦前に海軍に志願し、その後丙飛3期として予科練で教育を受ける。同期には、杉野計雄、谷水竹雄がおり、彼らとは同じ教員に教育を受けている。飛練終了後、実戦部隊配属、最初にミッドウェー海戦を経験するという日本が優勢だった前半ではなく、劣勢に向かっていく中盤以降を担当した搭乗員である。

 それゆえ、予科練、その後の飛練でも太平洋戦争開戦以前の搭乗員のように十分な訓練を受けて、尚且つ、日中戦争という比較的激しくない空戦場で十分な経験を積むという恵まれた環境にはなかった。本来ならミッドウェー島航空隊となるはずだった第6航空隊はラバウルに進出を命ぜられる。当然、第6航空隊に所属する杉田もラバウルに進出する。

 杉田の性格をよく表しているのが杉田の初撃墜である。当時、18歳で最年少搭乗員だった杉田は体当たりでB17を撃墜。その後、204空と改称された第6航空隊での最多撃墜記録保持者となる。1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察する際の護衛戦闘機6機の内の一人として護衛任務に就く。杉田は2機を撃墜するが、山本長官機は撃墜されてしまう。その後、負傷して内地の教員勤務を経た後、1944年3月、263空に転属、さらに同7月201空に編入される。

 1945年1月、343空戦闘301飛行隊に転属になる。この343空とは、ほぼ全機が最新鋭機紫電改で編成された決戦部隊である。この部隊でも戦果を挙げるが4月15日、離陸中を攻撃され戦死する。わずか21歳であった。杉田は坂井三郎と共に多撃墜者として表彰されるが、戦果に関しては個人撃墜(70機)と共同撃墜(40機)が逆だったのではないかとも言われるが詳細は不明である。

 

杉田庄一関連書籍

 

笠井智一『最後の紫電改パイロット』

笠井智一 著
潮書房光人新社 (2016/9/1)

 予科練甲飛10期という戦争後半を担当した零戦搭乗員。中部太平洋から比島、本土防空戦と戦い抜く。若年パイロットながら、その間の撃墜数は10機とすごい。猪突猛進の菅野直隊長、同じく杉田庄一と名だたる撃墜王のウイングマンとして戦い続け、無事終戦を迎えることができた。

 本書が上梓された時はすでにかなりの高齢だったためか全体的に漠然とした印象のある戦記となっているが、職人気質で自分の技術を部下に教えたがらない海軍パイロットの中で、杉田庄一上飛曹は包み隠さず全ての技術を部下に教えた。さらに部下に暴力は振るわず指導は優しさに溢れていた等、知られていないエピソードが満載の本。

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死する。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。戦争中盤以降、さらに激しさを増すラバウル航空戦の壮絶な状況が克明に描かれている。体当たり撃墜で初撃墜をした杉田庄一兵曹が、「怒られるのではないか」と不安がっている姿などほほえましいエピソードもある。

 

高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣 改訂増補版』

高木晃治・ヘンリー境田 著
双葉社 (2014/7/18)

 米国の戦史研究家ヘンリーサカイダ氏が日米の記録を徹底的に調べた名著。伝説の紫電改戦闘機隊である「343空」の全戦闘を詳しく書いている。有名な紫電改戦闘機隊は、初空戦で敵機撃墜57機の大戦果を挙げるが、米軍の損害は13機のみであったことや日米のパイロットの素性にまで調査が及んでいる。343空に関してはこれ以上ない名著。

 以上、杉田庄一上飛曹についての概要と杉田庄一氏を知るための書籍を紹介した。杉田庄一上飛曹は、猪突猛進の猛将でありながら部下への愛情に溢れた類稀な大人物であった。

 

菅野直
(画像はwikipediaより転載)

 

 数少ない士官の撃墜王。総撃墜数は25機とも48機とも、または65機ともいわれている。初出撃が1944年と戦争後半を戦った撃墜王である。凄まじい闘志を持っていた暴れん坊だったようで訓練で随分飛行機を破壊したようである。後に有名なエース部隊、「剣」部隊こと343空の隊長として太平洋戦争最末期を暴れまわった。

 

菅野直の経歴

 

 大正10年宮城県に生まれ。昭和16年12月第70期生として海軍兵学校を卒業。昭和18年9月第38期飛行学生教程を修了した。昭和19年4月、初代343空分隊長。7月201空の戦闘306飛行隊分隊長、さらに飛行隊長。フィリピン戦では、最初の神風特攻隊の隊長に内定していたともいわれている。昭和19年12月2代目343空戦闘301飛行隊長となる。昭和20年8月1日、屋久島上空で行方不明。戦死と認定された。

 実際、1944年4月が初陣というのはかなり遅い。この時期といえばラバウル航空戦は実質的には日本の敗北に終わり、最後まで戦っていた岩本徹三、小町定、小高登貫等の撃墜王を輩出した253空もトラック島に後退した時期である。戦闘は完全に守勢にまわっており、同年6月にはマリアナ沖海戦で日本軍の機動部隊は実質的に壊滅する。この時期に菅野は初空戦を経験する。

 初空戦でいきなり隊長というのはかなり無茶な気がするが当時の人事が硬直化した日本海軍では仕方のないことであった。隊長も部下も困ったことだろう。しかし菅野直は元々統率力のある人間だったのだろう。その後も343空においてラバウルの撃墜王杉田庄一の尊敬を一身に受けることとなる。

 菅野は戦闘中に体当たり攻撃をしかけており、ラバウルで体当たり攻撃でB17を撃墜した杉田とは性格的にも合っていたのだろう。どちらも豪放磊落な人物だったようである。この菅野、エース列伝にもあるように何度も特攻に志願したが入れられず343空の隊長として日本海軍最後の決戦部隊の指揮をとることとなる。

 1945年4月、鹿屋基地において杉田が撃墜され戦死すると目に見えて落胆していたという。その菅野も太平洋戦争終結直前の8月1日、行方不明となり戦死と認定される。玉音放送のわずか2週間ちょっと前である。撃墜数については65機、または48機、はたまた25機撃墜と言われているが戦果報告と実際の戦果とは相当な開きがあることはよく知られている。ガンカメラを搭載していた米軍の場合でも戦果は実際の6〜7倍になり、日本軍に至っては10倍以上に膨らんだ例もある。

 菅野は明らかに戦闘機乗り向きの人間である。それは撃墜王杉田庄一が心酔したことからも分かる。他の多撃墜搭乗員も同様であるが、特に菅野が実戦を経験した時期は日本軍が劣勢になっている時期であった。故に菅野が何十機も撃墜した可能性は低いといえる。しかし菅野は、撃墜数に関わらず優秀な戦闘機乗りであり、統率力のある隊長であったことは間違いなさそうだ。

 

7d26b704.jpg
(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

↑このページのトップヘ