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戦艦榛名

01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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01_ヘンダーソン飛行場
(画像はヘンダーソン飛行場 wikipediaより転載)

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃とは、日本海軍の戦艦金剛、榛名以下12隻の艦艇が一晩中ガダルカナル島ヘンダーソン基地を艦砲射撃した戦闘。砲撃は大成功でヘンダーソン基地に合計966発の砲弾を撃ち込むことに成功、全艦無事に帰還した。ヘンダーソン基地は航空機54機を喪失、第一飛行場が一時的に使用不可能となったが、第二飛行場が完成していたため致命傷とはならなかった。

 

ヘンダーソン基地艦砲射撃 〜概要〜

 

02_金剛型戦艦
(画像は金剛型戦艦右から金剛・榛名・霧島・比叡 wikipediaより転載)

 

 1942年10月11日、日本海軍の拠点トラック島を栗田健男中将が指揮する日本海軍の戦艦金剛、榛名、軽巡五十鈴他駆逐艦9隻が出撃、直掩機6機の護衛の下にソロモン海域に侵入した。10月13日夕方より全力でガダルカナル島に侵入、23時より14日1時まで2時間ほど、ヘンダーソン基地に対して砲撃を開始、基地攻撃に有効であると考えられた対空用の零式弾、三式弾、ついには副砲や徹甲弾等ありとあらゆる砲弾を撃ち込みまくった。当時の航空機は夜間攻撃が出来なかったため、栗田艦隊は夜陰に乗じて侵入、砲撃終了後は、最大戦速の29ノットで脱出した。その間、米軍魚雷艇の攻撃を受けたものの撃退、全艦が無事に帰還した。

 米軍側は海兵隊が反撃するも砲弾が届かず、ヘンダーソン基地所属航空機96機の内、54機が撃破された他、第一飛行場が一時的に使用不可能となった。しかし日本軍に知られていなかった第二飛行場は無傷であり、被害を免れた航空機が翌日には出撃、日本軍を攻撃している。

 

艦砲射撃の威力

 

 「一度成功すると何度でも同じことをやる」と米軍高官に言わしめた日本軍、翌14日夜にも重巡鳥海、衣笠と駆逐艦2隻がガダルカナル島に侵入、ヘンダーソン基地に対して752発の砲弾を撃ち込んでいる。さらに15日夜には重巡妙高、摩耶以下9隻が主砲926発を撃ち込んでいる。これらの前後も含めてヘンダーソン基地に対する砲撃は何と13回にも及んでいる。結構な確率で砲撃は成功しているものの、ヘンダーソン基地に対しては致命傷となるような損害を与えることは出来なかった。これに対して日本軍は待ち構えていた米艦隊の攻撃により戦艦比叡、霧島を失っている。

 戦艦の砲弾は対艦攻撃用には徹甲弾を使用するが、日本海軍は対空戦闘用に空中で爆発する零式通常弾、三式弾を開発していた。これらの砲弾は時限信管を持っており、時間になると爆発、内部にあるマグネシウムや金属片を周囲に飛散させる仕組みになっていた。ヘンダーソン基地砲撃にはこれらの砲弾が使用され、一定の効果を発揮したが、撃ち尽くした後は通常の徹甲弾を撃ち込んでいる。何もしないよりはマシだが地上目標に対しては地面にめり込むだけなのでほとんど効果はない。

 この艦砲射撃を受けた米軍は早速この戦法を応用、戦争後半の太平洋の島嶼攻撃、沖縄本島への攻撃等を行った。米軍の艦砲射撃は航空機による制空権の確保、地上爆撃を行った上で、圧倒的な火力に正確な着弾観測を行い、目標をエリアで区切り一つずつ徹底して潰していくというものであった。この砲撃の凄まじさは当時の日本軍兵士の手記等により知ることが出来る。この艦砲射撃は1991年の湾岸戦争においても戦艦ミズーリ、ウィスコンシンによってイラク軍陣地に対して行われている。

 

まとめ

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃は、一定の戦果は上がったが、米軍のように一点に全戦力を投入して徹底して行うというものではなく、戦力を小出しにしている感が否めない。だが、仮に全戦力を集中して投入したところでガダルカナル島を再占領維持するのは日本の国力、特にロジスティクスの観点から考えると難しかった。ここは内地からは遠すぎるのだ。

 

 

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坂井三郎01 (画像はwikipediaより転載)

 

 日本でもっとも有名な撃墜王。大空のサムライこと坂井三郎である。坂井は海兵団から操縦練習生を経て最終階級は少尉、戦後に何だか分らない昇進で中尉となったという正真正銘の叩き上げ軍人で、昭和18年、大村航空隊教員時代に多撃墜搭乗員として杉田庄一と共に表彰されている熟練搭乗員である。

 

坂井三郎の経歴

 

 大正5年8月26日佐賀県に生まれる。昭和8年5月佐世保海兵団入団。9月戦艦霧島乗組となる。昭和10年海軍砲術学校入校。昭和11年5月戦艦榛名乗組。昭和12年3月、第38期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊する。同年11月30日第38期操縦練習生を首席で卒業。昭和13年4月大村空に配属される。同9月第12空配属される。昭和15年大村空で教員配置。昭和16年4月、再び第12空に配属され、同10月台南空に配属される。昭和17年4月ラバウル進出、連日の航空戦に参加。同8月、ガダルカナル上空の空戦で負傷。内地送還。横須賀海軍病院、佐世保病院での療養を経て、昭和18年4月大村空配属。昭和19年4月横空配属。7月横空戦闘701飛行隊配属。11月203空配属。12月343空配属。昭和20年再び横空配属で終戦を迎える。平成12年9月22日逝去。84歳。

 坂井三郎を有名にしたのは戦後に書かれた坂井三郎空戦記録、そしてそれを元にした『大空のサムライ』であろう。さらに90年代まで執筆を続けた。主な著書は『大空のサムライ』『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』等がある。  坂井は上記のように操縦練習生38期を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜されている。38期の同期には撃墜50機と言われる岡部健二がいる。坂井は日中戦争に参加するも実戦に参加することはほとんどなかったようであるが、1機を撃墜している。太平洋戦争が始まると台湾の台南航空隊に配属され、開戦と同時にフィリピンから始まる東南アジアの航空撃滅戦に参加している。

 航空撃滅戦を行ったのは台南航空隊と第3航空隊であるが、第3航空隊はチモール島クーパン基地へ、台南航空隊は17年4月、ニューブリテン島ラバウル基地へ展開した。当初はニューギニア東部のラエ基地に展開してポートモレスビー攻撃に参加した。1942年8月にガダルカナルに米軍が上陸すると台南空はすぐさま攻撃に向かうがここで坂井は負傷してしまう。記録によるとここまでで少なくとも33機は撃墜しているようである。因みに1942年8月7日のガダルカナル攻撃では坂井は4機撃墜を報告している。ヘンリーサカイダ氏の調査でも4機は誤認だとしても1機は確実に撃墜しているとのことだ。

 トップエースである西沢広義は6機を撃墜しており、日本軍の総撃墜数は48機、損害は12機となっている。しかし米軍の損害は実際には12機であり、ベテラン搭乗員で編成されたこの時期の零戦隊であっても4倍の誤認戦果を出してしまっている。因みに日本軍の損害は陸攻5機、艦爆5機、戦闘機2機である。撃墜した米軍機のほとんどが戦闘機であったとすれば日本軍は相当優勢であったといえるが、損害の数だけを比較するのであれば互角の戦いであり、搭乗員の死亡者で比較すれば惨敗である。

 坂井は目を負傷してしまったためその後はほとんど前線に出ることは無かったようである。内地帰還後は大村航空隊で教員勤務が続いた。1944年5月横須賀航空隊へ転勤し、6月には八幡空襲部隊として硫黄島に進出する。そこで迎撃戦に参加した。坂井氏はここで特攻出撃を命ぜられているが、特攻出撃後、空中戦を行い、同じく撃墜王である武藤少尉と共に帰還している。1944年12月、有名な343空、通称「剣」部隊に転出するがこれは極短期間であったようだ。1945年には再び横空付となり終戦を迎える。

 総撃墜数64機としているが、公文書で確認できるのは30機前後と言われている。しかし坂井の上官である笹井醇一が親に書いた手紙に坂井の撃墜数を50機としていることから一概に嘘であるとは言えない。戦後の坂井に関してはあまり良くない噂等もあるが、日中戦争以来のベテラン搭乗員であり、海軍航空隊の勇者であることは間違いない。

 

坂井三郎関連書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。

 

坂井三郎『大空に訊け!』

坂井三郎 著
光人社 (2000/11/1)

 週刊プレイボーイ紙上で連載していた坂井三郎氏の悩み相談集。読者から寄せられる様々な悩みに坂井氏が答えていく。坂井氏の答えは、死線をくぐり抜けてきた人間が持つ圧倒的な説得力と同時に非常に論理的かつ広い視野から答えている。世間一般とは違う考え方をしている部分が多いが、それも論理的であり、正論である。実は私は坂井氏の著作の中で本書が一番好きである。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿があった。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

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