トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

愛知

01_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式水上偵察機(零式三座水偵)とは、愛知時計電機(のちの愛知航空機)が開発した三座水上偵察機で、当時としては快速で安定性が良い傑作機で、日中戦争から太平洋戦争全般にわたって偵察任務だけでなく、船団護衛、哨戒、魚雷艇攻撃等に活躍した。

 

零式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.49m
全高 4.70m
自重 2,524kg
最大速度 367km/h
上昇力 3,000mまで5分27秒
上昇限度 7,950m
エンジン出力 1,080馬力(金星43型)1基
航続距離 3,326km(14.9時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺(弾数582発。97発弾倉6個)
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発または
設計・開発 松尾喜四郎 / 愛知航空機

 

開発

02_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年初頭、海軍は中島飛行機に対しては十二試二座水偵、愛知時計電機(のちの愛知航空機)と川西航空機に対しては十二試二座水偵と十二試三座水偵の2機種の開発を命じた。この指示を受けた愛知は当時、十一試艦爆(のちの九九式艦爆)、十一試特種偵察機(のちの九八式水上偵察機)を開発中であり、さらに2機種の水上機の開発に力を割く余裕はなかった。

 このため二座水偵の開発を先行、その成果を三座水偵に反映させるという方法で対応した。設計主務者は松尾喜四郎技師で開発を開始した。設計は順調に進んだものの開発中の航空機が多数あったため艤装関係の設計や試作機の製作が遅々として進まなかったため期日に間に合わず失格となってしまった。

 しかし愛知の上層部は研究資料とするために開発の継続を指示、1939年1月1日に試作1号機が完成、4月には初飛行に成功した。飛行試験では小さな問題は発見されたものの大きな問題はなく、最高速度も要求値に達しており安定した素直な機体であった。

 競合していた川西航空機の試作機は期日には間に合ったものの全体的に性能要求には達しておらず、さらにはテスト中に事故が続いたため審査は中止となっていた。このため海軍は愛知の試作機に注目、1939年7月、空技廠から担当者を派遣してテストを行った。その結果、愛知の試作機は直ちに海軍に領収された。

 海軍での試験でも好成績を発揮、12月には制式採用が内定、1940年12月17日、零式水上偵察機として制式採用された。生産は制式採用前から始まっており、1940年9月30日には量産一号機が完成している。因みに生産は愛知では上記の理由で生産能力が限界を超えていたため、広海軍工廠、九州飛行機で主に生産が行われた。

 機体は全金属製セミモノコック構造で主翼は金属製で一部が木製・羽布張り、格納時は主翼の中程から折り畳めるようになっていた。乗員は操縦員、偵察員、電信員の3名で偵察員は爆撃手も兼ねている。風防は完全密閉式である。

 エンジンは三菱製金星43型(1,080馬力)でプロペラは直径3.1m3翅定速プロペラであった。武装は九二式7.7mm旋回機関銃で97発入りドラムマガジンを6個搭載していた。爆撃兵装は60kg爆弾4発、または250kg爆弾1発で60kg爆弾の内2発は翼下、2発は胴体内に搭載することが可能であった。

 

二号

 初期の生産型と大きな変更点はないが、フロートの支持方式が張線から支柱に変更された他、初期生産型ではスピナ無しの機体が多かったが、スピナが標準装備となった。後期生産型からは排気管が推力式単排気管に変更された。

 

その他バリエーション

 11甲型は、1944年11月に制式採用された三式空六号無線電信機4型(レーダー)を装備した機体で、同じく1944年11月に制式採用された11乙型は、磁気探知機装備型である。他には、1944年3月に制式採用された複操縦式の零式練習用水上偵察機、魚雷艇攻撃用に偵察席に20mm機銃1挺を搭載した魚雷艇攻撃機型、戦争末期に魚雷を搭載できるように改造された雷撃機型があった。

 

生産数

 愛知時計電機で1938年から1942年までに133機、1942年から1945年までに九州飛行機で1,200機、広海軍工廠で90機が生産された。合計1,423機である。終戦時には約200機が残存していた。

 

まとめ

 

 零式水上偵察機は、戦艦や巡洋艦にも搭載された他、水上機母艦や基地航空隊にも配属された。有名なR方面部隊にも零式三座水偵は配備されていた。四方を海に囲まれた日本にとって水上機の必要性は高く、日本海軍は他の海軍とは比較にならない程水上機の開発に熱心であった。このため多くの名機が生まれた。特に初期のソロモン方面での戦闘では、滑走路が不要な水上機は重宝されたが、艦上機、陸上機には性能面では太刀打ちできず多くの損害を出した。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_九八式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式水上偵察機とは、日本海軍のお家芸である夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の水上機であった。水雷戦隊旗艦に搭載されて運用されたが、夜襲水雷戦の重要度が下がったことやレーダーの登場等により後継機は製作されなかった。日中戦争から太平洋戦争初期まで活躍した。

 

九八式水上偵察機 〜概要〜

 

性能

全幅 14.49m
全長 10.71m
全高 4.52m
全備重量 3,300kg
最大速度 217km/h
上昇力 3,000mまで18分35秒
上昇限度 4,425m
エンジン出力 620馬力(九一式22型水冷)
航続距離 2,065km(15時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺
設計・開発 森盛重 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 夜間偵察機(夜偵)とは水雷戦隊の夜襲を重視した日本海軍独自の機種で、水雷戦隊の夜襲時に敵艦隊に夜間接触するための専用の偵察機である。この夜間接触専用の機体を開発したのは日本海軍だけである。最初の夜偵は1932年に初飛行した愛知時計電機製六試夜間水上偵察機で飛行艇の形式を採用していた。これは6機製作されたが制式採用とはならず民間航空会社に払い下げられた。そして1936年7月13日、初めて夜間偵察機として愛知製九六式水上偵察機が制式採用された。

 

開発

 九六式水偵が制式採用された1936年10月1日、海軍は愛知と川西に十一試特種偵察機(E11A1)の開発を指示した。これに対して愛知は森盛重技師を設計主務者として開発を開始、翌年の1937年6月に試作1号機を完成させた。十一試特偵の形状も今までの夜偵と同様の飛行艇型で複葉単発、金属製の骨組みに羽布張りであった。風防は密閉式の涙滴型風防でエンジンは、愛知製水冷九一式22型(500馬力)で上翼中央に取り付けられた。プロペラは木製4翅、カタパルトによる射出が可能で主翼は上下共に後退角が付いており、後方に折り畳むことができた。

 性能は、最高速度が216.7km/h、高度3,000mまでの上昇時間が18分35秒、実用上昇限度が4,425m、航続距離が2,065kmであった。競合していた川西も試作機を提出したが、最高速度こそ231km/hと愛知製試作機よりも上だったものの全体的には愛知製が優れており、1938年6月27日、九八式水上偵察機として制式採用された。

 

生産数

 1937年から1940年までに試作機と増加試作機合わせて17機が生産された。終戦時には5機が残存している。

 

まとめ

 

 夜間偵察機は夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の機種であった。夜間であるため戦闘機からの攻撃は考慮する必要はなかった代わりに長時間滞空出来る必要があった。この九八式水偵は15時間に及ぶ滞空能力があったため演習時等は一晩中上空にいたという。夜間偵察の重要性が低くなったのと零式水上偵察機で代用可能であったため、本機以降、夜間偵察機という機種は制式採用されていない。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_月光
(画像は夜間戦闘機月光 wikipediaより転載)

 

 夜間戦闘機 電光とは、太平洋戦争開戦後に愛知航空機によって開発されていた夜間戦闘機で日本では初めての夜間戦闘機として設計された機体であった。斜め銃としても機能する機首の可動式20mm機銃等の新機能や排気タービン過給器の装備により高高度での高性能が見込まれていたが、試作1号機の完成直前に空襲により被爆焼失、そのまま終戦となった。

 

夜間戦闘機 電光 〜概要〜

 

性能(誉24型装備機の計画値)

全幅 17.50m
全長 17.50m
全高 4.25m
自重 6,820kg
最大速度 690km/h(高度10,000m)
上昇力 6000mまで8分15秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,890馬力(誉24型)2基
航続距離 2,477km(巡航5時間、全力30分)
武装 30mm機銃1挺、20mm機銃4挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
乗員 2名
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

開発

 1943年、海軍は愛知航空機に十八試丙戦闘機試製電光の開発が指示された。これは陸海軍で夜間戦闘機として開発された最初で最後の機体であった。愛知航空機には以前から内示が出ており、尾崎紀男技師を設計主務者として研究を行っていた。1943年11月には基礎設計を開始、1944年8月には実大模型審査が行われた。1945年8月には試作1号機が完成する予定で、2号機も疎開先の岐阜工場で組み立てを開始していた。

 電光は、自重6,820kg、全備重量が9,695kgという超大型戦闘機であった。これは同じく夜間戦闘機に改修された大型戦闘機の月光の自重が4,562kg、全備重量が7,527kgであることからその大きさが分かるであろう。そのため、エンジンは排気タービン過給器装備の誉24型(1,890馬力)2基で、プロペラは直径3.45m定速式4翅プロペラを採用された。翼面荷重が206kg/屬肪する本機は、離着陸時にも高揚力が必要なため、フラップには親子フラップを採用、補助翼の一部もフラップとして機能するようになっていた。さらに敵攻撃時の抵抗板もフラップ兼用となっていた。

 武装は、機首中央に五式30mm機銃1挺(弾数100発)、その左右斜め下に九九式2号4型20mm機銃各1挺(弾数各200発)が装備された。中央の30mm機銃は固定式であるが、左右の20mm機銃は30度まで上向させることが可能で斜め銃として使用することが出来る。この操作は操縦席内の操作レバーによって行う。これらの機銃は操縦席内において20mm機銃のみの発射または30mm機銃、20mm機銃の同時発射が選択できるようになっていた。

 さらに偵察機の後方には20mm機銃(弾数各200発)2挺を装備した遠隔操管制銃塔が装備され、爆撃兵装は、250kg爆弾1発、または60kg爆弾4発が装備可能であった。夜間戦闘機に必須のレーダーは十八試空六号または十九試空電波探信儀2号11型が搭載予定であった。

 生産性の向上にも工夫が凝らしてあり、部品点数の最小化を始め、降着装置、油圧系統の部品は陸爆銀河の部品を流用することとなっていた。さらには資材節約のため可能な限り木材や鉄鋼を使用しておりフラップ、昇降舵、方向舵は何と布張りであった。

 それでも予定されていた性能は高く、最高速度は高度9,000mで668.6km/h、高度10,000mでは690km/h、巡航速度は高度4,000mで451km/h、上昇力は高度6,000mまで8分15秒、9,000mまでは13分、上昇限度は12,500m、航続力は2,477km(巡航5時間、全力30分)であった。

 このような高性能を期待されていた電光であったが、海軍の試作機の整理統合において試作中止機の候補に挙がってしまう。しかしB29の空襲が予想されることから整理の対象から外されたものの、1944年12月7日には東海大地震により愛知航空機の工場が大被害を受けると同時にB29による名古屋地区の空襲も激化していった。

 1945年6月9日、愛知航空機に対する集中的な空襲があり、これによって完成寸前であった電光試作1号機は被爆焼失してしまった。さらに岐阜工場で製作されていた2号機も終戦直前に空襲により被爆焼失してしまった。

 

生産数

 試作機2機(未完成)

 

まとめ

 

 夜間戦闘機電光は太平洋戦争開戦後に開発が始められた航空機である。残念ながら試作機製作中に空襲により焼失してしまったが、この電光の特徴はその高性能もさることながら、高性能一点張りであった海軍機が生産効率まで考えて製作されたことであろう。さらに陸海軍が協力して当初からこのような効率的な生産を行っていれば、より多くの高性能機を前線に送ることが出来たであろう。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_彗星
(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上爆撃機 彗星とは、液冷エンジンを搭載した日本海軍の急降下爆撃機であった。その誕生は早く1940年には試作機が初飛行している。その時の最高速度は551km/hを記録、当時の新鋭戦闘機零戦を凌駕した。しかし信頼性は低く、特にエンジントラブルに泣かされた機体であった。戦争後期には芙蓉部隊で集中運用され実績を挙げている。

 

艦上爆撃機 彗星 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 11.50m
全長 10.22m
全高 3.74m
自重 2,635kg
最大速度 580km/h(高度5,250m)
上昇力 3,000mまで4分36秒
上昇限度 10,700m
エンジン出力 1,400馬力(熱田32型)
航続距離 1,516km
武装 7.7mm機銃2挺(弾数各600発)、7.7mm旋回銃1挺(約600発)
爆装 500kg爆弾1発または
   250kg爆弾1発または
   30kg爆弾2発または
設計・開発 山名正夫 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 1937年、海軍は次期新型艦上爆撃機として十三試艦爆の性能要求を決定、愛知時計電機に対して開発を指示した。この性能要求は前代未聞ともいうべき厳しいもので、当時現用であった九六式艦爆に対して、最高速度、巡航速度、航続距離等、全ての面で1.7倍前後の高スペックを要求していた。これは当時、試験中で実用化もされていない十一試艦爆(のちの九九式艦爆)を遥かに超える性能であった。

 

開発

02_彗星
(画像は彗星11型 wikipediaより転載)

 

 1937年、海軍から十三試艦爆開発の指示を受けた愛知時計電機は、山名正夫技師を設計主務者として開発を開始した。この要求に応えるためにエンジンはドイツダイムラー・ベンツ社製液冷式DB601エンジンを国産化した熱田12型(1,200馬力。陸軍名「ハ40」)を採用した。

 爆弾は内蔵式で最大500kg爆弾まで搭載することが出来た(500kg爆弾の場合は爆弾倉の扉は閉じられない)。制動板(急降下時に速度が上がり過ぎないように空気抵抗を発生させる板)は主翼後端に位置し、急降下時以外は主翼の一部として機能していた。燃料タンクはセミインテグラル方式でこれは燃料タンクの一部が機体の外装の一部になる方式で、彗星は主翼下面が燃料タンクとなっており、これは脱着することが可能であった。

 胴体内に爆弾倉を内蔵する形式の割には機体は徹底して空気抵抗を減少させており、液冷エンジンと相まって流線形の美しいシルエットとなった。この機体全体の抵抗は当時のレシプロ機の限界といえるものであった。武装は、機首に九七式7.7mm機銃2挺、後席に九二式7.7mm旋回機銃1挺、爆撃兵装は胴体内に500kgまたは250kg爆弾1発、主翼下に30塲弾各1発を搭載することが出来た。

 1940年11月15日、試作1号機が完成、初飛行が行われた。液冷式エンジンと限界まで抵抗を減らした機体は、一連の性能試験で最高速度551km/hと艦爆でありながら、制式採用された直後の新鋭戦闘機零戦よりも20km/h近い高速を発揮することとなった。これは艦爆としては世界最高記録であり、同時期の米海軍急降下爆撃機ドーントレスよりも140km/h以上、後継機のSB2Cヘルダイバーよりも70km/h近い高速であった。

 しかし実用面となると話は違った。のちに問題となる液冷エンジンの不調はこの時点から発生していた他、燃料タンクからの燃料漏洩等多くの不具合が発生していたが、あまりの高性能に目がくらんだ海軍は試作機を実用実験と耐熱実験を兼ねて南方に進出させただけでなく、試作3号機、4号機を艦上偵察機に改修、空母蒼龍に搭載され実戦にまで投入された。最高の条件で製作された試作機ですら不調が起こっている状態で実戦で活躍できるはずもなく、これら試作機2機は、何ら戦果を挙げぬままミッドウェー海戦で失われてしまった。

 それでも1942年7月6日、艦上偵察機として制式採用されたが、翌月15日には試験中の5号機が空中分解事故を起こし、搭乗員2名が殉職している。この空中分解は急降下爆撃が主任務の艦上爆撃機としては致命傷であったため、艦爆としての制式採用は大幅に遅れ、1943年12月になってやっと艦上爆撃機彗星11型(D4Y1)として制式採用となった。

 

 

二式艦偵11型(D4Y1-C)

03_彗星
(画像は二式艦偵11型 wikipediaより転載)

 

 1942年7月6日に制式採用された彗星の艦上偵察機型であり、最高速度533km/h、自重2,440kg、胴体内の爆弾倉には燃料タンクが増設されていた。さらに偵察装備としては、写真偵察用の固定自動航空写真機K-8型を搭載しており、これは高度10,000mから地上の飛行機の識別が可能であり、電動により一定の間隔で100枚の連続写真の撮影が可能であった。12型は、後述する彗星12型を改造した型で、1944年10月に制式採用、最高速度579.7km/h。翌月には後席機銃を二式13mm旋回銃に換装した12甲型が制式採用された。

 

12型

04_彗星
(画像は彗星12型 wikipediaより転載)

 

 1944年10月に制式採用された型で、エンジンを熱田32型(1,400馬力)に換装した型であったが、熱田12型以上に故障が多かった。照準器は、前期型は光学式九八式射爆照準器であったが、後期型では望遠鏡式の二式射爆照準器1型に変更されている。12甲型は後席の旋回銃を二式13mm旋回銃に換装した型で1944年11月に制式採用された。12戌型(丙型)は、後席に九九式20mm機銃を斜め銃として搭載した夜間戦闘機型である。

 

21,22,22甲型(航空戦艦搭載用)

 21型、22型、22甲型は、航空戦艦伊勢、日向搭載用に各部を強化、制動板を廃止し、カタパルト射出用に改造した型で、21型は1944年3月17日、22型は同年10月、22甲型は11月に制式採用、少数が生産された。21型は彗星11型を航空戦艦用に改造したもの、22型は彗星12型、22甲型は12甲型を航空戦艦用に改造した型である。

 

33型(D4Y3)

05_彗星
(画像は彗星33型 wikipediaより転載)

 

 故障の多い熱田32型エンジンを信頼性の高い金星エンジンに換装した型で1944年5月に正式採用された。初期型は金星61型エンジンであったが、後期型は金星62型エンジンに変更された。馬力は300馬力増加したが、空冷エンジンの採用によって空気抵抗は増加したため最高速度は若干低下した。

 エンジンの換装した上で着艦フックは廃止されたため実質的には陸上爆撃機となった。尾輪は固定式、着艦フックの廃止、垂直尾翼の面積増大、武装は後席の機銃を一式7.9mm旋回銃に変更、胴体内の他に主翼下にも250kg爆弾が各1発装着できるように改造されている。

 

43型、54型(D4Y4)

 33型を防弾強化、噴進器を装備、単座化した型で防弾は、風防前面に防弾ガラスを装備、コックピット前部には5mm厚、後部には9mm厚の防弾鋼板を装備した他、燃料タンクも防弾式に変更された。噴進器は離陸用に機首下面に4FR110型噴進器(推力1,200kg)2本、緊急空中加速用に後部胴体下面に4FH121型噴進器(推力2,000kg)3本(のち2本)が装備された。

 武装は、単座化したため後席の旋回銃は廃止、機首の7.7mm固定機銃2挺も1945年4月には廃止された。胴体内には800kg爆弾1発が搭載可能となったが、爆弾倉扉は廃止された。照準器は初期型は望遠鏡式(一部光学式)であったが、後期型は照門式に変更された。これらの改修のため自重は2,635kg(12型は2,510kg)に増大、最大速力は552km/hに低下した。特攻機的性格の機体ではあるが、後部胴体内には救命筏は搭載されている。さらにエンジンを誉(陸軍名「ハ45」)に換装する54型の計画もあったが計画のみで終わっている。

 

生産数

 愛知では、1942年から1944年の間に11型(二式艦偵含む)が660機、12型が320機、33型が1944年から1945年までに536機、43型が1945年に296機生産されている。他にも第11航空廠でも生産されており、こちらでは1944年から1945年までに約430機生産された。合計2,253機(2,157機とも)。

 

まとめ

 

 彗星は生産性を重視せず、戦闘機すら振り切る高速、高性能を追求した実験機的性格の機体であった。完成当初、制式採用されたばかりの零戦を20km/hも上回る高速に海軍関係者は魅了され、試作機の実戦投入という暴挙に出たほどであった。しかし高性能の反面、生産性、信頼性は低く、実戦部隊での稼働率は低かった。彗星は、目先の高性能に目がくらみ、後方や支援体制を軽視する日本的な性格が顕著に表れた航空機であった。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

↑このページのトップヘ