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急降下爆撃機

01_ドーントレス
(画像はwikipediaより転載)

 

SBDドーントレス爆撃機

 

 

開発

 SBD-1ドーントレスとは米国の艦上爆撃機で名称のdauntlessとは「恐れを知らない。不屈の」という意味で、SBDとは(scout(偵察) bomber(爆撃) douglas(ダグラス))の略である。設計は1935年に開始され、1940年後半に初期型のSBD-1が初めて海兵隊に配備された。続いて改良型のSBD-2が海軍に引き渡されている。

 速度は若干遅いものの、機動性、操縦性に優れ、爆弾搭載量も多く、頑丈で防御性能も高い爆撃機であった。全長10.09m、全幅12.66m、全高3.94m、戦闘重量4,492kg、プロペラは3翅3.30m、エンジンはライトR-1820-60エンジン(1,200馬力)、最高速度410km/h(高度4,785m)、実用上昇限度7,650m、航続距離1,794kmで武装は12.7mm機銃2門(各360発)、後席に7.62mm機銃2門(各1,000発)、爆弾倉に最大725kgの爆弾を1発、翼下には45kg爆弾2発を搭載可能である(データはSBD-5)。フラップは穴あき式でダイブブレーキも兼ねており、母艦搭載機であるが翼は折り畳むことができない。

 バリエーションは主にSBD-1からSBD-6までの6種類あり、SBD-2は海軍用で燃料搭載量が増加している。1941年初頭に製造が開始されたSBD-3は機首の機銃を12.7mm2挺へ変更、防弾タンクと防弾鋼板を装備してエンジンをライトR-1820-52(1,000馬力)に変更している。SBD-4は陸軍モデルの海軍呼称で、SBD-5はエンジンをライトR-1820-60(1,200馬力)に変更したものである。このSBD-5が最も量産されたモデルで約2,400機が生産されている。最終型のSBD-6はエンジンをライトR-1820-66(1,350馬力)に変更したモデルである。

 

実戦参加とその後

 初の実戦参加は1941年12月10日で、空母エンタープライズ搭載機が日本の潜水艦伊70を攻撃、撃沈している。その後も様々な作戦において使用されているが、ミッドウェー海戦では日本の機動部隊に致命傷を与えている。このため当時はSBDの頭文字に因んで「Slow But Deadly」(遅いが致命的)というニックネームで呼ばれていたという。

 海軍・海兵隊のみならず陸軍でも採用され、A-24バンシー爆撃機として第二次世界大戦全般を戦っている他、イギリス海軍、ニュージーランド空軍、自由フランス空軍、メキシコ軍でも使用された。海軍では1944年後半から後継機ヘルダイバーに変更されていったが、ドーントレスはヘルダイバーに比べ速度や爆弾搭載量では劣るものの、逆に低速、軽量で着艦時の操作性に優れていたためドーントレスを使用し続ける部隊が多かった。海兵隊は終戦間際までドーントレスを使用し続けている。

 1940年から1944年7月まで製造され、総生産数は5,936機で内、SBD-5が約2,400機、陸軍モデルのA-24が953機(または948機)である。陸軍では戦後も使用され続け、1947年の空軍創設時にも存続、戦闘機として分類されF-24と改称された。この最後のF-24が廃棄されたのは1950年であるが、メキシコ軍ではその9年後の1959年まで使用し続けられた。

 

 

 

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01_九九式艦爆
(九九式艦爆 画像はwikipediaより転載)

 

急降下爆撃機とは

 

 急降下爆撃機とは、1930年代に世界各国で研究された新式の爆撃機のことである。これまでの爆撃機の行う爆撃法とは主に水平爆撃で、水平に飛行している爆撃機からそのまま爆弾を投下するものであった。しかし急降下して爆弾を投下する戦法が有効であると知られるようになると世界各国でこの新式の爆撃法、急降下爆撃の研究が盛んになってくる。

 日本でも1930年代初頭に研究が始まったので世界レベルで見ても比較的早期に研究が始まったといえるだろう。最初に制式採用されたのは九四式艦上爆撃機(艦爆)でこれが日本初の急降下爆撃機である。その後、陸軍と海軍はそれぞれ急降下爆撃機の開発を行い、陸軍は九七式軽爆撃機(軽爆)、九九式軽爆、九九式双発軽爆撃機(双軽)、九九式襲撃機等を完成させる。これに対して海軍は、九六式艦爆、九九式艦爆、彗星艦爆、陸上爆撃機銀河、流星艦爆を完成させている。

 

 

 

危険と隣り合わせ

 急降下爆撃機といっても単純に爆撃機を急降下させればよいというものではない。急降下でかかるGは半端ではない。降下中はエンジンの力と機体の自重で速度はどんどん上がっていく。車でいえば急な下り坂で全速力を出しているようなものだ。これはパイロットの身体にも相当な負担がかかるが何よりも通常の航空機では機体の強度が持たないのだ。特に日本軍機は機体強度が低い機体が多く、このような機体で急降下をしては空中分解してしまう。この問題を防ぐためには設計段階から考えなければならないのだ。

 急降下することによって加速して爆弾の命中精度を上げると同時に対空砲火からも防御されるが、あまりにも加速してしまうとコントロールできなくなってしまう。故に急降下爆撃機にはエアブレーキと呼ばれる空気抵抗板が取り付けられている。これによって速度をコントロールすることが出来るのだ。そうは言っても高速であることには違いない。降下角も60°と凄まじい。訓練や実戦で急降下したものの引き起こすことが出来ずに殉職してしまった搭乗員も数えきれない。

 

 

 

急降下爆撃機偵察員

 著者は乙種予科練7期出身で同期には有名な西澤廣義飛曹長がいる。艦爆偵察員とはただ周囲を観察していればいいというのではない。GPSの無い当時のこと、航法は人間がやるのだ。これは偵察員の仕事。航法とは、地文航法、天文航法、推測航法という3種類がある。地文航法というのは地形を見ながら自機の位置を把握する方法、天文航法というのは天体観測をして自機の位置を把握する方法である。地文航法は主に陸軍機、天文航法は主に大型機が使用する。小型機の後方はつまりは推測航法であるが、実はこれが一番難しい。

 推測航法とは自機の速度と方向、そして偏差を考慮して計算によって自機の位置を割り出す航法。偏差というのは飛行機に左右から吹く風の強さから誤差を割り出すことだ。ちょっとの風でも長時間の飛行では誤差は馬鹿にならない。これを習得するには1,000回は航法を経験しなけば一人前とは言えないという大変難しいものなのだ。これは偵察員の世界では千本偏流と呼ばれていたという(永田P93)。1,000本とは毎日搭乗しても3年間、もちろん毎日飛行するハズはないので習得するまでには5年、10年はかかるのだろう。とにかく計算に自分とペアの命がかかっているのだ。

 そして偵察員の任務はそれだけではない。急降下爆撃機の任務はもちろん急降下爆撃である。この急降下爆撃とは字のごとく55〜60°くらいの急角度で敵に急降下、爆弾を落とすという攻撃法である。現在ではもう無くなってしまったが、ミサイルが発達する以前の時代では高い命中精度を誇る必殺の爆撃法であった。しかし敵から撃ち上げて来る対空砲火の威力は凄まじく、砲火の幕の中に突入していく状態である。まさに「ヘルダイバーズ」である。

 

 

 

急降下中の偵察員

 この急降下の最中、偵察員はただボンヤリしていればいいのかといえばそうではない。急降下爆撃中の偵察員は信じられないくらい忙しいのだ。まずは装備、首からは双眼鏡をかけ、左耳にはレシーバー、右耳には操縦員との連絡用の伝声管、口には酸素マスク、手には機銃である。これらを装備しつつ、急降下中は速度と角度を読みながら正確な照準点を操縦員に伝える。それを何百キロという速度で急降下している最中に行うのだ。もう職人技である。

 そしてこの急降下爆撃機の特徴としてはものすごく死亡率が高い。戦闘機搭乗員は生存率が20〜30%程度であったが、急降下爆撃機乗りはそんなものではない。ほぼ生存することが不可能な職種と言っていい。その中を著者が生き残ったのは奇跡と言って良いかもしれない。松浪氏は後方にいたのではない。松浪氏が配属されたのは激闘が続くラバウルの582空である。この582空とは戦闘機と艦爆の混成部隊で戦闘機隊には有名な角田和男氏等が在籍していた部隊だ。松浪氏はこの地獄の戦場で多くの任務をこなし、奇跡的に生き残ったのだ。

 松浪氏の著書は自身の体験を書いているのと同時に死んだ戦友たちへの鎮魂歌でもある。多くのページを戦友たちとの思い出に割いている。戦友たちは良い奴ばかりではない。嘘をつく奴、ズルい奴等がいて、松浪氏も騙されたりと悔しい思いをするのだ。しかしその「イヤな奴ら」も戦争で死んでいく。それはとても悲しいことなのだ。彼らは人間なのだ。人間には良い面も悪い面もある。それが人間なのだ。松浪氏が描く戦友はまさしく人間なのである。

 

 

参考文献

  1. 永田経治「海軍じょんべら予備学生出陣記」『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年

 

 

 


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