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彩雲

04_彩雲
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上偵察機彩雲 〜概要〜

 

 彩雲は太平洋戦争開戦後に開発が始まった高速偵察機であった。試作機は最高速度653km/h、戦後アメリカで高オクタン価の燃料で試験した結果は694km/hと当時の航空機としては抜群の高速性能を発揮したが、主に活躍したのが戦争後半であったため本来の艦上偵察機としての能力は発揮されなかった。

 

性能

全幅 12.5m
全長 11.15m
全高 3.96m
自重 2908kg、全備重量(正規)4500kg、偵察過荷5274kg
最高速度 611km/h
航続距離 正規状態3079km、過荷重 5296.7km

 

開発

 日本海軍では当初、艦上偵察機は艦攻を流用するなど、あまり重要視されていなかったが、1941年頃から重要性が意識されるようになり、艦上偵察機(艦偵)の開発計画が検討されるようになった。さらに太平洋戦争開戦後になると優秀な偵察機が早急に必要になっていく。このような状況の中で、1942年1月30日、中島飛行機に十七試艦上偵察機として試作が内示された。

 海軍からの支持を受けた中島飛行機は福田安雄技師を設計主務者として開発を開始、当初は双発機で計画していたものの、中島飛行機において画期的な高性能エンジン「誉」が完成したこともあり、構造が単純な単発機として開発がスタートした。誉は2,000馬力級エンジンであるにも関わらず小型で画期的なエンジンであったが、高度6,000m以上では出力が低下、海軍の要求する数値には及ばなかった。そこで福田技師は機体を小型化、翼面積も小さくし胴体も空気抵抗を減らすために極力細く設計した。このため艦上機としての離着艦性能が低下するため親子式ファウラー・フラップと大直径プロペラで対応、さらに層流翼や厚板構造等の新機軸を導入してエンジン性能の不足を補った。

 苦心の末、1943年4月、試作1号機が完成、5月15日、初飛行の後、海軍に領収された。海軍において飛行審査が行われたが、この審査中に十七試艦上偵察機は最高速度653km/hという高速を記録した。海軍は当初の計画では試作機3機、増加試作機5機だったものを大幅に増やし、さらに増加試作機11機を追加した。

 

空前の高性能偵察機

 この十七試艦上偵察機に採用されたエンジンは誉22型エンジンで、さらに推力式単排気管を採用することにより、試作機では海軍の要求を上回る653.8km/hという高速を実現した。量産機では速度が低下してしまったが、それでも最高速度611km/hという高速を実現した。しかし前述のように離発艦能力が低下してしまうという問題が生じたため、中島飛行機技術陣は、親子式ファウラーフラップを装備した上に補助翼もフラップとして揚力を増大することで対応、さらにプロペラも大型のものが装備され、低速時でも推力を増大させ、発艦を容易にするという方法が採用された。

 その他、長距離飛行を実現するために翼内の80%まで燃料タンクとし、さらに大型落下式増槽を装着した燃料搭載量の合計は2082リットルという膨大なものだった。初期の零戦11型の落下式増槽も含めた燃料搭載量の合計が855リットルであることを考えるとその搭載量の多さがわかるだろう。高性能で有名な陸軍の百式司偵祁燭垢蕕眈絏鵑觜眄能を発揮した彩雲は1944年4月から量産が開始、同年7月23日に量産一号機が完成、そして9月艦上偵察機彩雲11型として制式採用された。

 

試製彩雲改(彩雲12型)

 1944年3月、誉24型ルを装備する彩雲の開発が計画された。7月には実物大模型審査、1945年2月には試作機が完成した。7月にはテストが開始されたが終戦となった。スペックは自重が3100kg、全備重量が4725kgに増大、最高速度は638.9km/h、上昇時間が6000mまで7分36秒、実用上昇限度が12500mに増大し、航続距離は1300kmに減少する予定であった。

 

彩雲夜戦型

 少数の彩雲は、夜戦型に改造された。これは偵察員席(3人乗りの中央席)に九九式1号20mm機銃2挺、または5式30mm機銃2挺を搭載したもので首都防空の302空などに配属された。

 

生産数

 彩雲は398機生産され、終戦時には173機が残存していた。残存機が多いのは彩雲は高性能であったため本土決戦用に優先的に温存されていたためであったようだ。

 

戦歴

 艦上偵察機として開発された彩雲であったが、量産一号機が完成したのがマリアナ沖海戦が終わった後の1944年7月と機動部隊がほぼ壊滅した後であったため艦上機としての活躍をすることはなかったが、陸上偵察機として終戦までその高性能を発揮することとなる。

 彩雲の初陣は1944年5月30日に実施されたマーシャル諸島偵察であった。この偵察任務を遂行するために121空に配備された彩雲試作機は5月30日にマーシャル諸島の挺身偵察を決行、無事に任務を果たして帰還、以降、ソロモン方面、中部太平洋方面の偵察に活躍した。

 1944年夏にT攻撃部隊が編成された際も彩雲は偵察11飛行隊として6機が参加、9月には丹作戦の事前偵察任務を遂行している。その後も台湾沖航空戦、比島航空戦に参加、第一御楯隊の誘導、ウルシー泊地偵察等に活躍している。1945年になると沖縄航空戦にも参加、以降も本土防空戦において 海軍の「目」として活躍、1945年8月15日の偵察11飛行隊による敵機動部隊索敵が彩雲最後の戦いとなった。

 

まとめ

 海軍での彩雲の評価は高かったため、他にも木製化計画、艦上攻撃機化計画などもあった。高速、高性能の彩雲であったが、実戦配備後は、他の航空機同様、発動機の性能低下に悩まされた。機体によっては、最高速度611km/hが555km/hまで落ち込んだものもあったという。逆に、戦後、アメリカでオクタン価130の燃料で試験したところ、日本の実用軍用機最高の694.5km/hという高速を出した。彩雲という傑出した航空機であっても、当時の日本の基礎技術力の低さは如何ともしがたかった。

 

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田中三也 著
潮書房光人新社 (2020/5/23)

 

 本書は数少ない偵察機搭乗員の戦記である。著者田中氏は甲種予科練5期生として採用され、戦中はほぼ戦場で過ごした。戦後は海上自衛隊に入隊し、搭乗員としての人生を歩み続けた。2017年現在、田中氏は恐らくご健在であろう。本書の内容はまさに衝撃的だ。田中氏は水偵偵察員として実戦に参加、その後艦偵偵察員として数々の危険な偵察を遂行する。

 フィリピンでは航空機を失い、逃げのびた挙句に特攻隊に志願し、それも偶然が重なって内地に帰還できた。本当に命からがらという表現がぴったりだ。その後は有名な三四三航空隊の偵察員として数多くの空戦を生き延びた。搭乗員の戦記というとどうしても戦闘機搭乗員の戦記が人気だが、偵察機搭乗員の記録というのは貴重だし、その経験はもっと貴重だ。

 本書を読んで感じるのは本当に良く生き残ったものだということだ。読んでみればわかるが著者の参加した作戦は本当に生還率の低いものだ。そして戦争の末期にはタイトルの彩雲に登場することとなる。彩雲はやはりかなりの俊足だったようで戦闘機に追跡されても振り切って逃げている。

 最近は戦闘機搭乗員の戦記を読みつくしてしまい、その他航空機搭乗員の戦記を読み漁っているが、戦闘機搭乗員と違い、華はないが、凄まじい修羅場をくぐり抜けていることは同じであった。一般に戦記を読む人はかなりの少数派であるが、戦争を知るために戦記を読むことは重要だと感じた。私はもちろん戦争経験者ではないが、本を通して何分の一かでも体験を知ることができる。

 

 

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01_予科練の空
(画像はwikipediaより転載)

 

「石塚兵曹、敵が射線に入ったら知らせろ。機をすべらす、遅れるな」
「ハイッ!射線に入ったら知らせます」

 

こちらが海面を這うようにしているので、敵も効率のよい急角度では突っ込んでこれない。後上方の浅い角度に定針しようとしている。

後席の機銃がこれに連射をつづける。突っ込む敵機の機軸が、こっちに正向する。その直前、

 

「射点に入る、すべらせー!」

 

と叫ぶやいなや、途端に体がガクンと機体にぶっつけられる。旋回計の鉄球があらぬ方に飛んで、すごい力で体が機体に押しつけられ、肩と頭でようやく支える。

その一瞬、ダダダダと重機銃の斉射音とともに赤、青の曵痕跡が、右の機翼をかすめて流れた。危機一髪、まずは第一撃はかわし得た。

(本間猛『予科練の空』より引用)

 

 1944年10月フィリピン。著者、本間猛兵曹が偵察員を務める重巡利根所属の零式三座水偵はF6Fヘルキャットの追尾を受けていた。操練30期出身のベテラン操縦員松本良治少尉の操縦で零式水偵は山間部を低速、低空で飛行する。高速の新鋭戦闘機ヘルキャットでは速度が早すぎるため迂闊に突っ込むことができない。零式水偵の低速を活かした熟練の戦いであった。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 

予科練とは・・・

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

 当時、海軍の搭乗員になるには海軍兵学校から飛行学生へ行くコース、水兵から操縦練習生になるコース、そして15〜16歳の少年からパイロットを養成する予科練の3つのコースがあった。本間氏はその9期。同期には台南空の撃墜王として著名な羽藤一志がいる。

 予科練の訓練は時期により変わるが本間氏の時代では約4年。まず海軍軍人としての基礎や数学などの基礎科目を学び航空隊員として成長していく。当時の搭乗員には操縦する操縦員と航法、偵察を専門に行う偵察員に分けられる。当然、訓練生のほとんどは操縦員、特に華やかな戦闘機搭乗員を目指していた。

 

高度な専門性が必要な偵察員

 本間氏は飛行艇偵察員。著者はこの配置に対する感想を書いていない。しかし飛行艇偵察員とは操縦員に匹敵する非常に高度な知識を経験を必要とする職種である。当時の航空機は無論GPSなどなく、偵察員と呼ばれる航法専門の搭乗員が測量する。測量には天体航法、地文航法、推測航法の3種類の航法がある。

 天体航法とは星の位置から現在地を割り出す方法、地文航法とは地形の形から現在地を割り出す方法である。これらの中で最も難易度が高いのが推測航法であった。航法とは基本的には速度と距離、方角で現在地を割り出す。しかし航空機の場合、風に流されるのでその偏差を修正しなければならない。推測航法とは地形や天測を行わずこれらの数値だけで位置を測定する方法である。

 

実戦部隊配属、南方の最前線へ

02_九七式大艇
(画像は九七式大艇 wikipediaより転載)

 

 これら高度な技術を身に付けた本間氏が最初に配属されたのは飛行艇部隊のメッカ横浜航空隊である。当時の横浜航空隊は九七式大型飛行艇、通称九七大艇である。この九七大艇は全幅40mの巨人機であった。航続距離は6771kmという凄まじいものだった。しかし武装となると20mm機銃1挺に7.7mm機銃4挺と貧弱な上、装甲は無きに等しかった。

 飛行艇は通常、戦闘任務ではなく偵察、輸送、人命救助などの支援任務に就く。しかし当時の海軍航空隊は飛行艇での雷撃も行った程で横浜航空隊も後方とは程遠いマーシャル諸島に派遣され最前線での活動となった。このため「消耗品」と呼ばれた搭乗員の負担は激しく、精神的な疲労と共に戦友達の多くは冥界に旅立ってしまった。本間氏はソロモン方面含め数々の修羅場を体験していく。この間に乗機は「空中巡洋艦」と称された二式大艇に変更された。

 

 

 

重巡利根水偵隊へ転属

03_重巡利根
(画像は重巡洋艦利根 wikipediaより転載)

 

 1944年2月、本間氏に内地での教員配置が命ぜられる。平和な空気を満喫したのもつかの間、半年後には重巡洋艦利根搭載水上機の搭乗員を命ぜられる。乗機は三座水偵で、1940年に制式採用された愛知飛行機製水上偵察機である。最高速度367km/hと低速ではあるが、太平洋戦争初戦期には活躍した機体であった。

 当時の戦艦や巡洋艦に搭載されていた水上機の搭乗員は実戦に出る機会が少なく比較的練度の高い搭乗員が多く在籍していた。本間氏の操縦員松本良治少尉も下士官から士官に昇進した特務士官であり本間氏の上を行く熟練搭乗員であった。

 

高速偵察機「彩雲」搭乗員として

04_彩雲
(画像は偵察機彩雲 wikipediaより転載)

 

 このペア(同乗している搭乗員をそう呼ぶ)で本間氏はあのレイテ沖海戦に参加することになる。その結果は周知の通り惨敗。大型艦の出番が無くなったため艦載水偵隊は解散することとなる。解散した熟練者揃いの水偵隊の搭乗員は陸上機に転科することになるが、低速水偵で苦い思いをした水偵隊員達の一番人気は高速偵察機彩雲であった。

 水偵隊が陸上機に転科する時、ペアはそのまま維持される。本間氏のペアも彩雲を希望した結果、希望が通り水偵時代そのままのペアで偵察機彩雲で最後の戦場に出るのだった。

 

 

まとめ

 

 本間猛『予科練の空』は、あまり注目されない飛行艇偵察員の戦記である。熟練搭乗員であった本間氏は太平洋戦争初戦から終戦まで最前線で戦い続ける。登場した航空機も九七式大艇、二式大艇、零式水上機、彩雲と多彩である。搭乗員から見た航空機という視点は重要である。地獄の戦場を体験することは多くの人にとってはないだろう。本書はその経験を凄まじい臨場感を以って伝えてくれる。夢中になって読んでしまった。

 

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