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弩級戦艦

01_戦艦ドレットノート
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ドレットノートは当時の戦艦の主砲が前後に4門、速力が18ノット程度あったのに対して主砲10門、速力21ノットと圧倒的な火力と速力を発揮した。このために本艦以前の戦艦は一気に陳腐化してしまったという革命的な戦艦である。現在、大きい、スゴイという意味で使用されている「超ド級」という言葉の語源でもある。

 

戦艦ドレットノート級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 18110トン
 最大排水量 -トン
 全長 160.6m
 全幅 25m
 吃水 9.4m
 機関出力 2万3000馬力
 最大速力 21ノット
 航続距離 6620海里/10ノット
 乗員 773名
 武装 45口径30.5cm砲連装5基
    40口径7.6cm砲単装27基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 279cm
    甲板 7.6cm
    主砲 27.9cm
 同型艦 1隻

 

特徴

 戦艦史に革命をもたらした戦艦である。本級以前の戦艦は基本的に前後に主砲塔を持ち、舷側に副砲を多数配置するというのが基本的な方であったが、本級は、主砲塔を前後に2門、舷側左右に2門、戦艦の中心線上中央部に1門の合計5基(10門)を装備する。これによりあらゆる方向への攻撃に対して最低でも6門の主砲を発射することができる。以前の戦艦と比較すると正面では前弩級戦艦が2門であるのに対してドレットノートは6門、側面では前弩級戦艦が4門であるのに対してドレットノートは8門と圧倒している。

 さらに機関も高速を出すために最新のタービン機関を採用、これにより前弩級戦艦が18ノット程度であったのに対して21ノットという高速を出すことが出来た。この高速により戦場ではドレットノートが「敵を選べる」状態になったといっていい。主砲を強化したことによりそれまで艦首下部に付いていた衝角は廃止された。

 しかし新しい型であることから問題点も多かった。まず、舷側の装甲板が下に設置しすぎたために水面下に没してしまい価値を半減させてしまった。そして檣楼の前に煙突を設置したことにより檣楼に煙突からの煙がかかってしまい、射撃式装置の能力を低下させた。これらの欠点はあったものの前弩級戦艦の倍の火力と3ノットの優速はそれまでの戦艦を一気に陳腐化させてしまった。

 

同型艦

(起工1905年10月、竣工1906年12月)

 

戦歴

02_戦艦ドレットノート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1906年に就役したドレットノートは1907年から1911年までイギリス本国艦隊の旗艦を務めた。1914年に第一次世界大戦が始まるとドレットノートは北海第4戦艦戦隊の旗艦として活動した。1915年にはドイツ海軍の潜水艦U-29を体当たりで撃沈したが、これは戦艦による潜水艦撃沈の唯一の戦果であり、その記録を作ったのが衝角を廃しした本艦であったのは皮肉であった。

 本艦登場以後の弩級戦艦の発達は目覚ましく第一次世界大戦時にはすでに低速艦となっていたこともあり、本艦はドイツ航空機に対して対空戦闘をした以外は戦闘には参加していない。戦後は予備艦となり、1920年3月に退役、1923年解体された。

 

戦艦ドレットノート(模型)

 

トランペッター 1/700 イギリス海軍戦艦 HMS ドレッドノート 1915 プラモデル

 中国のトランぺッター社の製品。1/700と艦船模型では標準サイズといっていい。

 

ズベズダ 1/350 イギリス戦艦 ドレッドノート ZV9039 プラモデル

 ロシアのズベズダ社のドレットノート。スケールは1/350と大きい。

 

イギリス海軍戦艦ドレッドノート: 弩級・超弩級戦艦たちの栄光 1906-1916 (オーナーズ・ワークショップ・マニュアル)

 一冊ドレットノートについて書いてある本。かなり詳しい。ドレットノートへの愛が止まらない方にはおススメ。

 

まとめ

 

 ドレットノートは戦艦史の革命ともいえる艦であった。前弩級戦艦との戦いでは正面では3倍、側面でも2倍の火力で圧倒した。さらに速力が3ノットも高速であったため、ドレットノートが戦場を選ぶことができるという無敵の戦艦であった。しかし、実戦に投入された時点ではすでに旧式化しており目立った活躍をすることはなかった。とはいえ本艦の登場が世界に与えた衝撃は小さくない。

 

 

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01_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦であった。主砲は後の戦艦のように中心線に一列に並ぶ形式ではなく、前後に2基、左右舷側に2基ずつの合計6基が設置されるという形式であった。艦首の形状も1番艦河内が垂直艦首、2番艦摂津がクリッパー型と異なっていた。6基ある主砲も前後の2基と左右舷側の4基の口径(砲身の長さ)が異なっている等、過渡期的な性格の戦艦といえる。むしろ河内級は戦艦としてよりも標的艦としての活躍の方が有名であろう。

 

戦艦 河内級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 20800トン
 最大排水量 -トン
 全長 152.4m
 全幅 25.7m
 吃水 8.2m
 機関出力 2万5000馬力
 最大速力 20ノット
 航続距離 -海里/ -ノット
 乗員 999名
 武装 50口径30.5cm砲連装2基
    45口径30.5cm砲連装4基
    45口径15.2cm砲単装10基
    40口径12cm砲単装8基
    40口径7.6cm砲単装16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 30.5cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1906年のドレットノート級戦艦の竣工の翌年に発注された日本初の弩級戦艦がこの河内級である。本級は薩摩型戦艦2番艦安芸の改良型といえるものであるが、全長は安芸よりも10mほど長く、排水量も1000トンほど増加している。日本の戦艦としては初めて三脚檣を採用したのも外観上の特徴である。

 本級の一番の特徴は30.5cm連装砲6基を装備した弩級戦艦であることだ。連装砲は前後に2基、左右舷側に2基ずつ配置されている。これにより各方位に対して最低でも3基以上で砲撃することができるようになっているが、弱点としては前後にある2基が50口径の長砲身であるのに対して舷側の4基は45口径で若干砲身が短くなっていることである。これにより射程距離、破壊力が異なり運用上不利であった。これは当時の軍令部長東郷平八郎元帥の意見によって決まったともいわれている。実際の運用では火薬の量を調整することにより運用上の不利を解消したようである。

 主機は前級の1番艦薩摩がレシプロ機関、2番艦安芸がタービン機関であるのに対して、本級では1、2番艦ともに、さらに改良されたタービン機関のみの装備である。速力は20ノットと弩級戦艦よりも若干劣りはするがほぼ同レベルであったが、1番艦河内は垂直艦首であったため凌波性に難があった。装甲はハーヴェイ鋼よりも高性能のクルップ鋼を使用しており防御力も十分であった。

 

同型艦

1番艦河内(起工1909年4月、竣工1912年3月)
2番艦摂津(起工1909年1月、竣工1912年7月)

 

戦艦河内級の活躍

 

1番艦河内

02_戦艦河内
(画像はwikipediaより転載)

 

 前述のように1番艦河内と2番艦摂津の一番大きな違いは艦首の形状である。摂津がクリッパー型の艦首であるのに対して河内は垂直艦首だった。クリッパー型とは艦首が海面に対して少し「前のめり」形状をしている型で、これにより凌波性を高めることができるが、艦首をクリッパー型に変更すると決定した時にはすでに河内の工事は進行していたため修正することができなかった。

 河内は竣工すると直ちに第一艦隊に編入され旗艦となった。第一次世界大戦には姉妹艦摂津と共に海上の警備に従事するが特に目立った活躍はない。1917年予備艦となり、1918年に現役に復帰するが、同年7月徳島湾を航行中に火薬庫の爆発により沈没。9月に除籍となる。

 

2番艦摂津

03_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 1912年に竣工した2番艦摂津は、1番艦河内と同様に第一次世界大戦に海上警備に従事した以外には目立った活躍はしていない。1922年に締結されたワシントン軍縮条約では未成艦は廃棄されることが決定していたが、当時、建造中(実際はほぼ未成艦)の長門型戦艦2番艦陸奥を既成艦として認める代償として摂津が退役、標的艦となった。

 

第一次改装

 1923年10月制式に標的艦となった摂津は、武装を全廃、当初は標的艦を曳航する曳航艦として任務にあたった。1936年無線操縦技術が確立されると摂津は無線操縦の所謂「ラジコン戦艦」となり、同時に演習弾の命中にも耐えられるように装甲が強化された。16基あったボイラーも4基の重油専用ボイラーに変更することとなり、「ラジコン戦艦」としての自動燃焼装置も装備された。これにより速力が20ノットから16ノットに低下している。この時に摂津の煙突は3本から2本になっている。

 

第二次改装

 1939年から1940年にかけて第二次改装を実施する。この改装は航空攻撃に対応することを主眼に改装された。まずは航空攻撃に対する操艦の訓練も行えるように上部装甲を強化、ボイラーも増強され速力も17.4ノットにまで増加された。

 この改装により摂津が航空攻撃に対する艦の操艦訓練も行えるようになったことが、航空攻撃に対する日本海軍の操艦技術の向上に大きく貢献することとなる。太平洋戦争が始まると摂津は南シナ海、フィリピン、台湾等に進出し、機動部隊の空母に偽装して符号を発信した。太平洋戦争中も標的艦として活躍し続けたが1945年7月の呉軍港空襲により大破着底、1945年11月除籍される。

 

まとめ

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦ではあるが、速度も弩級戦艦に比べ若干遅く、主砲の口径も2種類存在するなど、若干難のある戦艦であった。本級の一番の活躍は戦艦としての職責を解かれ標的艦として活躍したことであっただろう。標的艦に改装された摂津は「ラジコン戦艦」として日本海軍の戦闘技術の向上に大きな貢献をしのだった。

 

関連リンク

前級薩摩級戦艦

 

 

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