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川崎航空機

01_キ102
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ102とは、キ45(二式複戦屠龍)をベースとして開発された高性能双発機で複座型の襲撃機タイプ、単座の高高度戦闘機タイプが存在した。制式採用はされていなかったが実戦部隊にも配属された。高高度戦闘機タイプは実戦でB29撃墜も記録されている。

 

戦闘・襲撃機 キ102 〜概要〜

 

性能(乙型)

全幅 15.57m
全長 11.45m
全高 3.70m
自重 4,950kg
最大速度 580km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分54秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,500馬力
航続距離 2,000km
武装 57mm機関砲1門、20mm機関砲2門、12.7mm旋回機関砲1門
爆装 500kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   50kg爆弾4発または
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 

キ96として設計開始

 キ96は、1942年8月、キ45(二式複戦屠龍)の性能向上型としてキ45兇箸靴椴Ψ海ら川崎航空機に開発が指示された。これに対して川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。4ヶ月後の12月に計画番号がキ96に変更されている。

 このキ96は防空を目的とした双発戦闘機であり、操縦席はキ45兇醗曚覆蠱浦族修気譴拭1943年6月に設計完了。9月には試作1号機が完成.主翼はキ66試作急降下爆撃機のものを翼面積を増大させた上でそのまま流用、翼面荷重は176.4km/屬箸覆辰拭H動機はハ33/62(1,500馬力)で、プロペラは直径3mハミルトン定速式3翅が採用された。武装は前方固定方として機首に37mm機関砲(ホ203)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門を装備している。

 性能は、試作1号機は最高速度600km/h(高度6,000m)。上昇時間が5,000mまで6分。実用上昇限度11,500m。高度10,000mまで17分という新記録を樹立したが、双発戦闘機であっため単発戦闘機のような軽快さがなかったため不採用となった。

 

キ102に変更

 1943年4月、キ96を複座襲撃機に改修することが命ぜられた。さらに6月には、B29迎撃用の高高度戦闘機に改修が命じられる。これらは、高高度戦闘機型をキ102甲、襲撃機型はキ102乙と命名され、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始。1944年1月には設計完了。同年3月試作1号機が完成した。同月キ102丙夜間戦闘機型の試作命令も発令されている。キ102丙は1945年5月に設計完了したが6月28日の空襲で製作中の試作機は破損、そのまま終戦となった。

 

乙型(基本型)

 キ102乙(襲撃機型)は、エンジンにハ112供1,500馬力)を採用。機首に57mm機関砲(ホ401。携行弾数16発)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5。携行弾数各200発。)2門、後席には12.7mm旋回機関砲(ホ103)爆弾架には500kg爆弾1発、または250kg爆弾2発、50kg爆弾4発を搭載することが出来る。最大速度は580km/h(高度6,000m)、上昇時間は5,000mまで6分4秒、実用上昇限度は10,000m、航続距離2,000kmであった。215機が製作され25機が甲型に改造されている。

 

甲型

 甲型はエンジンを排気タービン付きハ112競襪亡港、機首の前方固定砲を37mm機関砲(ホ204。携行弾数35発)1門に変更された以外は乙型と同じであった。1944年11月、B29の空襲激化のため緊急生産指令が出て乙型の内25機が甲型に改修され、15機が陸軍に納入された。性能は上昇限度が10,000m、高度10,000mで最大速度580km/hを出すことが可能であり、高度10,000mまでの上昇時間は18分であった。しかし排気タービン過給器の故障は続出した。

 

丙型(未完成)

 丙型はキ102の夜間戦闘機型であり、夜間における離着陸、高空性能を向上させるため翼面積が増大され、それに伴い機体を安定させるため胴体後部を延長した。風防は操縦席と同乗者の風防を分離、中間に45度の角度で30mm機関砲(ホ155)2門を搭載。胴体下面の20mm機関砲(ホ5)は残されたが、機首砲、後席の旋回砲は廃止された。エンジンはハ112競襪如▲譟璽澄爾療觝椶睛縦蠅気譴討い拭性能は高度10,000mで600km/h、上昇時間は10,000mまで18分、実用上昇限度は13,500m、航続距離は2,200kmになる計画であった。

 

キ108

 1943年4月、陸軍は川崎航空機に対して与圧気密室付き高高度戦闘機キ108の開発を指示、同年8月、川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発に着手した。土井技師はキ102の機体をベースに与圧化することを計画。1944年5月には設計が完了した。7月にはキ102の機体を改修した試作1号機が完成する。胴体を大改修した結果、胴体の全長と全幅は増大した。エンジンはハ112兇鮖藩僉I霑は機首に37mm機関砲(ホ203)、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門搭載予定であったが試作機は、実験機的な性格であったため、実際には搭載されなかった。

 性能は最大速度が高度6,000mで580km/h、高度10,000mで610km/h、上昇時間が高度5,000mまで9分、8,000mまで12分20秒、10,000mまで16〜17分、実用上昇限度は13,500m、航続距離が1,800kmであった。

 

キ108改

 1944年8月、高高度性能を向上させるため翼面積を増大させたキ108改が計画、1945年1月に設計完了。1945年3月には試作1号機が完成する。試作機は2機製造された。エンジンはハ112兇派霑は搭載されていなかった。1945年6月22日と26日の空襲で破壊、試作1号機のみ終戦時残存。

 

生産数

 試作機3機、増加試作機20機。総生産数は215機である。内25機が甲型に改造されている。

 

戦歴

 試作機であるものの215機が生産されたキ102は、一部「五式複戦」とも呼ばれた。襲撃機型である乙型は計爆撃機部隊である飛行第3戦隊、45戦隊、75戦隊に配備された他、1945年6月頃からは戦闘機隊である飛行第28戦隊へも配属、夜間戦闘機として活躍している。高高度戦闘機型である甲型も1942年10月に新設された航空審査部の黒江保彦少佐の手により複数回出撃、1945年3月25日の迎撃戦ではB29の撃墜に成功している。

 

まとめ

 

 キ102はキ45の改良型キ96として計画がスタート、キ96は双発戦闘機として十分な性能を発揮したものの当時の陸軍では高高度迎撃という必要性は認識されていなかったため制式採用はされなかった。仮に制式採用されていたとすれば効率的に量産化が行われ本土防空戦ではB29相手に健闘していたことが予想される。キ102は、悲運といえば悲運な航空機であった。

 

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

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01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

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01_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式戦闘機は川崎航空機が1935年に開発した陸軍主力戦闘機で初期の日中戦争で活躍した複葉機である。複葉機としては究極の高性能であり、最高速度は400km/hと海軍の九五式艦戦を50km/h近く上回り、九六式艦戦とほぼ同じ速度であったが、複葉機の時代は終わり単翼機が主流となっていく中で最後の複葉戦闘機となった。

 

九五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(二型)

全幅 10.02m
全長 7.55m
全高 3.3m
自重 1,360kg
最大速度 400km/h
上昇力 5,000mまで5分00秒
上昇限度 11,500m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,100km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)
設計・開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1934年9月陸軍は川崎航空機にキ‐10、中島飛行機にキ‐11の試作を命じた。特に川崎航空機は九三式単軽爆撃機の発動機不調、九二式戦闘機の後継機として開発したキ-5の不採用により経営状態が悪化していたためこのキ-10にかける熱意は凄まじかった。そして初の日本人スタッフのみでの設計の機体であった。

 

開発

02_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年9月、試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始、わずか6ヶ月後の1935年3月には試作1号機が完成した。前作では斬新な逆ガル翼の機体であったが、今回は保守的に複葉機となった。エンジンはドイツBMW製エンジンを独自に改良した800馬力ハ-9兇鮑陵僉金属製の骨組みに羽布を張った構造となった。

 1935年7月には、中島飛行機に製作が命じられたキ-11と共に比較審査が行われた。この結果、キ-10は最高速度400km/hとキ-11に15km/hほど劣っていたが、上昇力、運動性能、操縦性は断然優っていたため1935年9月に陸軍の次期主力戦闘機はキ-10に内定、11月に制式採用された。生産は12月から始まり、同時に2型の設計もスタートした。

 

二型

 1935年12月に設計がスタートした。一型は高性能ではあったが安定性に問題があり、その問題を解消するのと同時に格闘戦性能を向上させるというのが二型の目的であった。試作機は1936年11月に完成、優秀な成績で審査をクリア制式採用され、1937年6月より生産が開始された。これに伴って1型の生産は1937年10月で打ち切られている。

 一型に比べ二型は翼面積が増大し、同時に重量も増大したが、翼面積が増大したため翼面荷重は減少している。最大速度、上昇速度、航続距離は1型とほとんど変わりはないが、実用上昇限度が11,500mと向上、当初の狙いであった安定性も向上した。

 

1型性能向上第2案型(キ10-飢)

 第1案型が制式採用され2型となったのとは別に第2案型も製造されていた。設計開始は1936年4月で10月に試作機が完成している。これは翼断面型や冷却器、脚支柱等の変更を行ったもので、これにより最大速度が420km/hと1型よりも20km/h向上していたが、2型が成功したために1機生産されたのみで終わった。

 

1型性能向上第3案型(キ10-恐)

 1937年3月、1型第1案(2型)のエンジン、冷却器、脚、風防を改修した第3案の設計が開始され、同年11月に試作1号機が完成した。これはエンジンを850馬力ハ9恐気亡港し、風防を川崎航空機初の密閉式風防に変更されたものであった。性能は2型と大きく変わらないが、最大速度は440km/hと2型よりもさらに20km/h向上した。同時に安定性、運動性能も向上している。複葉戦闘機としては究極の機体ではあったが、当時、はるかに高性能であったキ-27(のちの九七式戦闘機)が制式採用されたため2機が試作されたのみである。

 

生産数

 総生産数は、1型試作機4機、量産機300機、2型試作機1機、量産機280機、性能向上機第2案型1機、第三案型2機の合計588機である。

 

戦歴

 制式採用された翌年の1936年になると九五式戦闘機はいよいよ実戦部隊に配備されることとなった。配備された部隊は第4、6、8、9、16飛行連隊である。1937年7月に盧溝橋事件が勃発すると満洲に展開していた関東軍所属の第16飛行連隊が中国大陸に進出、9月にはダグラスO-38観測機と空戦になり4機を撃墜、日本陸軍初の撃墜を記録した。

 続いて内地で編成された臨時航空団が中国大陸に進出、九五式戦闘機を装備している飛行第2大隊(定数24機)、第8大隊(定数24機)、独立第9中隊(定数12機)も航空団と共に奉天に進出、順次華北戦線に参加していった。戦線が華北から華中に広がるにつれ陸軍航空隊も華中戦線に参加、九五式戦闘機装備の独立飛行第10中隊が最初に上海に進出したのち、南京攻略戦に活躍する。その後も防空や地上部隊との直協任務に活躍するが1938年7月には九七式戦闘機に改変された。

 一方、第8大隊は1937年12月に南京に進出、翌年にかけて各種作戦に参加している他、第2大隊も河南省彰徳(現在の安陽市)に進出、3月の第一次帰徳空戦では第1中隊(隊長加藤建夫)が「七度重なる感状」の最初の感状を授与されている。1938年夏になると陸軍航空隊はこれまでの連隊編成から戦隊編成に改変、第2大隊と独立第9中隊が合流して飛行第64戦隊が誕生している。この中隊は後に「加藤隼戦闘隊」として有名になる部隊である。改編時には第2中隊、第3中隊が九五式戦闘機を装備していたが、1938年中に全部隊が九七式戦闘機に改変されており、他の戦隊も順次新型の九七式戦闘機に改変されていった。

 

まとめ

 

 九五式戦闘機は、1936年に制式採用、日中戦争初期に活躍したが、時代は単翼機に移り変わったため日本陸軍最後の複葉戦闘機となった。しかし、最高速度は400km/hと海軍の九六式艦戦量産型とほぼ変わらない高速を発揮した究極の複葉戦闘機であった。

 

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01_九八式直協
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式直協偵察機とは、日本陸軍が特に地上部隊との連携を重視した偵察機で直協偵察機と呼ばれる。後退翼や丈の高い風防等、独特の機体設計で、信頼性の高いエンジンと操縦性の良さで対栄養戦争終結後も各地で運用された。

 

九八式直協偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.80m
全長 8.00m
全高 3.30m
自重 1,247kg
最大速度 349km/h(高度-,000m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 450馬力
航続距離 1,100km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 12.5kg爆弾10発または
   15kg爆弾10発または
   250kg爆弾1発または
設計・開発 遠藤良吉 / 立川飛行機

 

背景から開発まで

 1935年、日本陸軍の偵察機は「特に遠距離捜索を主任務とする」、「第一線部隊に直接協同することを主任務とする」という2種類の偵察機の分類が誕生した。これが後に前者が軍偵察機、後者が直接協同偵察機(直協)となっていく。これらの性格を簡単に説明すると前者は以前からの偵察任務であり、後者は着弾観測等、地上部隊と連携して偵察任務を行う航空機である。

 1937年になると上記2種類の偵察機が「軍偵察機」「直接協同偵察機」という名称で呼ばれるようになり、さらに「航空作戦における情報の蒐集と連絡用」として司令部偵察機(司偵)が新たに加わった。この司偵は1943年には「戦略上の要点の捜索」として戦略偵察機の性格を明確にしていく。日本陸軍は偵察機を軍偵、直協、司偵の3種類に分類して活用していったのであった。

 

開発

 1937年5月末、陸軍は立川飛行機に対してキ36(のちの九八式直協偵察機)の開発を指示した。これを受けて立川飛行機は遠藤良吉技師を設計主務者として開発を開始、1938年4月には試作1号機が完成した。4月20日初飛行、その後陸軍による審査が始まったが特に問題点は指摘されなかったため10月には九八式直協偵察機として制式採用、11月から生産が開始された。

 九八式直協偵察機は立川飛行機初の全金属製航空機であり、最大の特徴は前縁に大きな後退角を付け低翼に設定された主翼である。後退角とはのちのジェット機のように主翼が矢印型になる形状のことで十八試局戦震電などでも採用された形式で、九八式直協偵察機では下方視界を得るためであった。後退角を付けた主翼は離着陸が容易になるように大きめに設計されていた。偵察機だけに視界を良好にするように操縦席は極力前方に配置され、風防の丈は高く設計、さらには胴体下面には偵察窓が設けられた。これにより後席の視界は非常に良好であった。

 発動機は非常に信頼性の高いハ13甲(450馬力)でプロペラは直径2.5m2翅プロペラを採用した。武装は機首に7.7mm機銃が1挺、偵察席には7.7mm旋回機銃1挺が搭載された。主翼下面には爆弾架が設置され、12.5kg爆弾または15kg爆弾各5発が懸架出来るようになっていた。

 

九九式高等練習機

02_九九式高等練習機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年4月6日、陸軍は立川飛行機に対して九八式直協偵察機を高等練習機に改造したキ55の試作を命じた。内々に指示が出ていたのか試作機1号機は3月1日に完成、2号機も4月には完成している。実用機であるので審査も順調に進み7月3日に九九式高等練習機として制式採用された。

 九八式直協との相違点は通信・爆撃装備を撤去し、後席に前席と連動する操縦装置を追加、脚カバーは廃止された。生産は1939年から1943年まで行われた。

 

 

その他バリエーション

 民間向けに立川式九九T複座自家用機、鉄道省で使用した立川TS-6測量機、朝日新聞社で使用した九八・C型通信機がある。

 

生産数

 1938年から1943年まで生産が行われ、その間に立川飛行機で861機、川崎航空機で472機の合計1,333機(1,334機とも)が生産された。九九式高等練習機は、立川飛行機が1,075機、川崎航空機が311機の合計1,386機が生産されている。

 

まとめ

 

 九八式直協は、信頼性の高いエンジンを備えた操縦性の良い傑作機であった。特殊船神州丸での運用もテストされた。日本陸軍の他、タイ王国空軍、満洲国軍でも使用され、戦後も中華民国空軍、中華人民共和国空軍で使用され続けた名機である。

 

 

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01_九八式単軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式軽爆撃機とは、川崎航空機によって開発された陸軍の単軽爆撃機である。三菱製九七式単軽爆と制式採用を競ったが三菱に軍配が上がり、不採用になるところであったが、日中戦争の勃発により制式採用された。液冷式エンジンを装備、九七式単軽爆を凌ぐ846機が生産された。

 

九八式軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 15.00m
全長 11.64m
全高 2.90m
自重 2,349kg
最大速度 423km/h(高度3,940m)
上昇力 5,000mまで10分55秒
上昇限度 8,920m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,220km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆弾搭載量 300kg(正規状態)
      450kg(最大)
設計・開発 井町勇 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 日本陸軍は、戦闘機、偵察機に比べて爆撃機に注目するのが遅かったと言われる。その陸軍爆撃隊には軽爆撃機という区分があった。軽爆撃機というのは陸軍を支援する小型爆撃機のことでそれ以外の爆撃機を重爆撃機、超重爆撃機といった。

 1932年頃、日本陸軍では、軽爆撃機は双発、単発のいずれが良いかという論争が行われていた。単発派は軽量であることを重視、さらには双発機は単発機の1.5倍のコストがかかることから数が維持できないという理由であった。これに対して双発派は、爆弾搭載量、視界や防御力の点から双発が適当としていた。結局、この論争は双単併用という日本的な解決方法で解決した。この結果、日本では単発の軽爆撃機と双発の軽爆撃機という2種類が存在することとなった。

 

開発

 1935年、陸軍は中島飛行機、三菱重工に新重爆の開発を内示、1936年2月に試作を指示した。同時に石川島、三菱、中島、川崎航空機の4社に当時制式採用されていた九三式単軽爆の後継機の開発が内示された。1936年5月5日、三菱キ30、川崎キ32として新軽爆の試作が指示された。

 これに対して川崎航空機は井町勇技師を設計主務者として開発を開始、1936年12月に設計完了、1937年3月試作1号機が完成した。三菱のキ30と共に5月より陸軍による審査が開始される。性能は両試作機ともに同程度であったが、キ32はエンジンの故障が多かったため採用はキ30に決まりかけていた。しかしこの審査中の7月に盧溝橋事件が勃発、新型爆撃機の必要性が高まったためキ32に対しても増加試作機5機の製作が命じられた。

 この増加試作機は各所が改良され1938年2月までに完成する。九七式単軽爆乙として審査が開始された。エンジンの不調は相変わらずであったが、改修を重ねた結果、改善されたため1938年8月15日、九八式単軽爆撃機として制式採用された。同年6月には三菱製キ30が九七式単軽爆として制式採用されていたにも関わらずキ32が制式採用された背景には、三菱が九七式重爆の生産に追われており九七式単軽爆の大量生産が困難であったという背景がある。生産は1938年7月より1940年5月まで行われた。

 キ32は胴体内に爆弾倉を持つ固定脚機でエンジンは当初は水冷式のハ9(800馬力)を搭載していたが、のちにハ9恐機850馬力)に変更した。プロペラは直径2.90mの3翅プロペラを採用していた。武装は機首に7.7mm固定銃、後席には7.7mm連装銃を搭載していたがその後単装式の7.7mm旋回機銃に変更されている。爆弾搭載量は正規状態で300kg、最大450kgであった。急降下爆撃は可能であったが専用の投弾装置を持たないため急降下爆撃時には翼下に爆弾を搭載する必要がある。

 

 

生産数

 1938年7月から1940年5月までの間に846機生産されている。

 

まとめ

 

 九八式単軽爆撃機は、エンジンの信頼性の低さにより採用が見送られかかったが、日中戦争の勃発により制式作用された。しかし実戦に投入されてからもエンジンの不調は続き稼働率は低かった。太平洋戦争開戦後の1942年には前線から姿を消したが訓練用等で使用された。

 

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