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全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

岩本徹三

01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 

 


ミリタリーランキング

岩本徹三01
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 岩本徹三とは、日本海軍航空隊の搭乗員であり、日中戦争から太平洋戦争までほぼ第一線で戦い抜いた搭乗員である。1916年に樺太で生まれ、1934年17歳で呉海兵団に入団。その後航空機搭乗員として日中戦争、太平洋戦争で活躍する。大言壮語型の人間で腕は超一流、下級士官でありながら特攻反対を公言するなど勇気のある発言をしている。日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流の搭乗員であることは間違いない。

 

岩本徹三の経歴

 

 

日中戦争

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 1916年6月14日、岩本徹三は樺太に生まれる。警察官であった父の転勤で、岩本一家は北海道札幌に転居、しばらくして島根県益田と転居する。1934年6月1日、岩本は親に無断で海軍の入団試験を受験、見事合格して呉海兵団に四等航空兵として入団する。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊。空母龍驤の艦上整備員を経て、1936年4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。同年12月26日、第34期操縦練習生終了後、一等航空兵として佐伯空に配属。1937年7月大村空に配属され、1938年2月2日、中国に展開する第13航空隊(第12航空隊とも)に配属された。

 岩本の回顧録は、ここからスタートしている。同時期に同じ部隊に所属していた同年兵の田中國義少尉は後年、インタビューでその当時の搭乗員のレベルの高さを「あのころはすごいパイロットがそろってました 〜中略〜 あとから来た岩本徹三なんて食卓番ですよ。」と語っている。(神立P86)。実際、回顧録でも一番下っ端の岩本は、食卓番として奮闘して、主計科に「ギンバイ」をしに行ったこと等が書いてある。当時岩本は、一等兵であったが、他の部隊の下っ端は三等兵であったので岩本は優先的に「獲物」をもらうことが出来たようだ(岩本P36)。

 因みに「ギンバイ」とは海軍の言葉で、食糧を主計科から貰ってくることをいう。もちろん違反であるが、そこはある程度大目に見られていたようだ。岩本は食卓番も「商売繁盛の料理屋のコック」等と前向きに楽しんでいたようである。後に零戦虎徹を自称する岩本はこの日に4機撃墜、1機不確実の初戦果を申告している。

 1938年3月31日、第12航空隊に異動、そこでも戦果を重ねた後、1938年9月14日、佐伯航空隊付を命じられ内地に帰還するまでに14機の撃墜を申告した。これは日中戦争における海軍航空隊での最多撃墜で、後に岩本はこの武勲によって功五級金鵄勲章を受けている。しかし、これには異論も多いようだ(神立P88)。因みにその他、日中戦争での海軍多撃墜搭乗員としては黒岩利雄、古賀清澄の13機撃墜、田中國義の12機撃墜等がいる。

 

 

母艦戦闘機隊へ

03_南太平洋海戦
(画像は翔鶴から発進する零戦 wikipediaより転載)

 

 内地に帰還した岩本は、1940年4月母艦搭乗員になるために空母龍驤で母艦訓練に参加、そして1941年4月には第1航空艦隊(一航艦)第3航空戦隊(三航戦)空母瑞鳳戦闘機隊に配属、さらに1941年9月1日、第5航空戦隊(五航戦)が編成されると、岩本達瑞鳳戦闘機隊員は五航戦に編入、10月4日、空母瑞鶴乗組となった。11月26日、空母瑞鶴を含む南雲機動部隊は択捉島単冠湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を敢行した。岩本は真珠湾攻撃の攻撃隊には参加できず、母艦の直掩隊に回される。岩本は攻撃隊に参加できないことを残念がるものの、「艦隊上空での空戦も悪くない」と気持ちを切り替えている(岩本P59)。あくまでも前向きな性格だ。この時に直掩隊に回された搭乗員は後に活躍する原田要中尉、小町定飛曹長、岡部健二少尉等がいる。

 1942年に入ると五航艦は内南洋からラバウル攻略に参加、2月には内地に帰還した後、4月にはインド洋作戦、5月には珊瑚海海戦に艦隊直掩隊として参加している。8月には瑞鶴を降りて内地の大村空で教員配置となる。第一線に未練のあった岩本は、この教員配置を拒否したものの上官の岡嶋清熊大尉に説得され受諾。ここで3ヶ月教員配置に就いた後、11月2日、横須賀航空隊に異動、翌年2月上旬には追浜航空隊に異動している。

 

激戦のラバウルへ

04_ブイン基地
(画像はブイン基地 wikipediaより転載)

 

 1943年3月2日、新編の第281航空隊に配属、同年5月には幌筵島武蔵基地に進出、キスカ島に進出予定であったが、7月には日本軍はキスカ島から撤収。さらに冬季に入ったため10月25日には館山に移動したものの同月、281空派遣隊のラバウルに進出が決定する。11月10日、春田虎二郎中尉以下16名の281空搭乗員は、当時旧式化していた零戦21型に搭乗、一式陸攻の誘導により発進、14日には全員がラバウルに進出した。

 岩本達281空派遣隊は、11月14日付で201空に編入、12月15日には204空に異動している。この頃(回顧録では12日)から岩本はマラリアとデング熱の症状が発生、12月下旬から1944年1月13日までほぼ空戦に参加していないことから病気療養をしていたと推定されている(梅本P13,35)。1月に入ると204空がトラック島に後退したため253空へ異動、253空がトラックに後退する2月20日までラバウル航空戦に活躍した。実は、岩本がラバウル航空戦に参加したのはわずか3ヶ月強であったが、その間、連日のように出撃しており、世間の3ヶ月とは重さが違う。実際、回顧録には

 

「私たち搭乗員も一種の変人になってしまった。 〜中略〜 私たちの生活は無我無心、敵の来るたびに機械的に飛び上がり、去れば降りて来る。ただそれを繰り返すだけである。も早娯楽を求める気持ちもない。同僚の死もさして気にならない。ただ頭にあるのは自分はいつ死ぬかということだけである。腹の底から笑うことなどはない。
(岩本P160)

 

 とあるように精神的にも相当過酷な状態であった。

 1944年2月、253空はトラック島に後退する。岩本も「搭乗員の墓場」と言われたラバウルから奇跡的に生還することが出来た。1943年11月中旬から僅か3ヶ月であったが、前述の岩本の手記にもあるように「一種の変人」になってしまうほどの命がけの3ヶ月であった。岩本はこの間の自身の撃墜数を142機としている。

 

 

中部太平洋から比島へ

05_神風特別攻撃隊
(画像は出撃する特攻隊 wikipediaより転載)

 

 1944年2月にトラック島に後退した後もトラック島防空戦に活躍、6月14日には機材受領のために内地に帰還する。機材受領後にトラック島に戻る予定であったが、サイパン島の戦いが始まり、空路が遮断されてしまったためトラック島復帰は中止となった。その後、8月には呉防空を担う332空に異動、若年搭乗員、特に少尉クラスの指導を任された。ここで岩本は初めて局地戦闘機雷電に搭乗しているが、スピードは出るが重い飛行機で運動性は悪く、大型機相手なら良いが戦闘機相手では零戦以下、大したものではないと評している(岩本P251)。

 9月には252空戦闘316飛行隊に異動するが、戦闘316飛行隊の分隊長はラバウルで共に戦った春田大尉であった。ここでも岩本は若年搭乗員の錬成を担当するが、10月には台湾沖航空戦に参加するため台湾に移動する。移動先の台湾高雄基地では、突然現れた参謀に高雄基地の指揮下に入れと命令されるが「初めての爆撃で少し頭がおかしくなっているのだろう」と一刀両断したものの(岩本P259)、その後進出したフィリピンでも岩本に対して指揮権の無い現地の参謀に特攻機の空輸を命令される。岩本は断っているが、この時期は現地も相当混乱していたのであろう。

 

本土防空戦

06_零戦52型丙
(画像は零戦52型丙 wikipediaより転載)

 

 岩本は輸送機によりフィリピンから内地に帰還、11月には戦闘311飛行隊に異動する。1945年2月には米第58任務部隊によるジャンボリー作戦の迎撃戦に活躍した後、九州の国分基地に進出した。そして3月中旬に戦闘303飛行隊に異動、空母瑞鶴時代の隊長であった岡嶋清熊少佐の下で再び戦うこととなった。この戦闘303飛行隊とはかつてトップエースの一人と言われる西澤廣義も所属していた飛行隊でこの時点で海軍航空隊中、最も練度の高い搭乗員を集めた部隊であった。戦闘303飛行隊は数少ない練度の高い制空部隊として終戦まで特攻機の援護や撃激戦に活躍した。

 岩本も戦闘303飛行隊の一員として沖縄航空戦に参加、4月には沖縄特攻作戦に出撃した戦艦大和の救援に向かったが、到着した時にはすでに大和の姿はなかったという。4月下旬になると菊水四号作戦が発令、岩本も特攻機の援護に出撃したが、岩本小隊はF4Uコルセア戦闘機8機と不利な体勢から空戦に入り、岩本機は胴体、翼に数十発被弾した。幸い致命部をそれていたため墜落することはなかったが、機体の性能の違いと敵に有利な状態から空戦を仕掛けられてしまったことから岩本もついに体当たりを決意するもやぶれかぶれの戦法で危機を脱することができた。

 この時の被弾は相当なもので風防は飛び散り、計器盤はメチャメチャに壊れていた。幸いエンジンは回っていたため何とか基地に帰還することができた。帰還後、調べてみると被弾30数発、落下傘バントの金具に弾丸が一発命中しており、それがなかったら岩本自身に弾丸が命中していたかもしれない。この空戦の様子を見ていた味方機は岩本機が撃墜されて戦死したと判断、二階級特進の手続きをしていたという。この岩本の被弾は相当な衝撃だったようで、同じ部隊に所属していた土方敏夫、安倍正治も手記にこのことを書いている(土方P248、安倍P213)。

 そして6月には岩国基地で編成された天雷特別攻撃隊の教員配置、終戦を迎える。終戦から数日後は茫然としていたという。終戦から数日後、軍用自転車にウイスキーを一本を積んで故郷に帰った。終戦後は公職追放となり日本開拓公社に入社、北海道に行くが、体調を崩して島根に戻った。その後も畑仕事や養鶏、菓子問屋勤め等、職を転々とした後、1952年増田大和紡績工場に就職する。

 しかし一年後の1953年には盲腸炎を発症、誤診の結果、腹部手術を3回、さらに背中も4〜5回手術した上に、最後は脇の下を麻酔なしで手術、あばら骨を二本とるという大手術を受けた。そして病名もはっきりしないまま1955年5月20日、38歳の若さで他界した。

 

 

岩本徹三という男

 

07_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

【撃墜数】ホントに216機も落としたの?

 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で単独撃墜202機、協同撃墜、地上撃破まで含めると合計254機、さらに日中戦争で14機と凄まじい数字となっている。さすがにこれが実際の撃墜数である可能性は低く、戦史研究家の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定されている(秦P174)。そして前述のように日中戦争の14機撃墜という数字についても異論がある。

 空中戦での敵機の撃墜は非常に困難である。丙飛16期出身の今泉利光は「アメリカの戦闘機を50機も60機も墜としたかのような話が伝わっているのであれば、それは誰かがつくった「戦後の嘘」である。なぜなら、速度と機銃そして機数の関係からして物理的に不可能だからである」と断言している(久山P132)。さらに戦史研究家の梅本弘の研究でも明らかなように、空戦での撃墜判定はかなり誤認が多く、何十機も撃墜戦果を報告していたが実際には1機も撃墜出来てなかったというようなこともある。著名な搭乗員である坂井三郎もまた「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っているように(梅本P4)、ラバウル航空戦に関しても日米共に撃墜の誤認は多い。特に彼我の損害を比較すると日本側の誤認戦果が多い上に岩本の253空時代の戦闘行動調書に記載されている撃墜数が21機であるということから考えると、岩本主張するほど実際には撃墜してはいないのではないだろうか。

 無論、岩本はラバウル時代には201空、204空、253空と転々としているので、他の部隊では大量撃墜している可能性もあるが、ラバウルの熾烈な航空戦を岩本と一緒に戦った小町定も岩本については「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていた」と語っており(川崎P272)、撃墜数についても、暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を指摘しているが(川崎P244)、そこらへんが事実なのであろう。

 

 

「ズルくても落とせばいい!?」岩本の空戦法

 

 岩本は緻密な計算の上で自身の戦法を編み出し、他人が非難を気にせずに実績を作り周囲を納得させるというタイプだったようで、ドッグファイトに参加せずに高度を取って上空を遊弋し、敵機を発見するや急降下、50m程度まで接近して後方より一撃した後、下方に抜け、上昇する際にまた別の敵機に下方より一撃した後、上空に戻るというような方法を多用していた。さらに他の搭乗員の攻撃によって傷付いた敵機を撃墜したり、空戦が終わって帰る敵機を付け狙い油断しているところを撃墜する「送り狼」戦法など、「卑怯」な戦法を好んだ。

 これについては、ラバウルの253空時代に同じ部隊にいた小町定飛曹長や日本のトップエースである西澤廣義が直接、岩本本人に「ズルい」と文句を言っているが、岩本は「そんなこと言っても、生きて帰せばまた空襲に来るんだぜ」と全く意に介さなかったという(神立P199、角田P358)。しかし口だけでなく、空戦の腕は相当であったらしく、前述の土方も岩本を「田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評しており(土方P226)、当時若手搭乗員であった阿部三郎もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述しているように(阿部P224)、口だけではなく空戦技術も相当なものであり、その名は海軍航空隊では有名だったようだ(久山P65)。

 

 

「意外と几帳面!?」岩本徹三の性格

 

08_零戦コックピット
(画像は零戦コックピット wikipediaより転載)

 

 このように書くと岩本は相当な暴れん坊であったと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったようだ。元航空自衛隊のパイロットである服部省吾は岩本の著書を読んで「岩本徹三は人一倍素直に、そして真面目に訓練に取り組んでいたのではないか」と印象を語っている(服部P53)。実際、大雑把であったり、暴れん坊であったというような感じではなく、同年兵で主に母艦搭乗員として活躍した原田要によると、「岩本は性格は繊細で非常に緻密であり、そして要領がよく戦況把握が上手であった。」と言っている(原田P58,59)。さらに同じ部隊に所属していた安倍正治も岩本の印象を物静かであったと語っている(安倍P212)。

 しかし性格は強かったようで、夫人の岩本幸子による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである(岩本P316)。岩本の性格は、真面目で几帳面、繊細で緻密、そして自分の信じたことを押し通す気の強さがあったようである。実際、253空時代に航空機受領で内地に帰った際、他部隊士官になぜ早く前線に行かぬのかと罵倒された際にも今までの実績と現状を説明した後に「トラック基地司令の命令以外に他所轄の者よりとやかく言われることはないと思います。」とはっきり言っている(岩本P247)。この性格の強さは特攻を求められた時も同様で周りの搭乗員が特攻に反対できずにいる中、上官に対してハッキリと「否」と言ったという(角田P340)。

 岩本は気が強い上に「ズルい」戦法を使うため周りからは煙たがれていたと思われがちであるが、空戦ではチームワークを大切にしており、岩本と一緒に編隊を組んだ瀧澤は後年、岩本は、やさしくてよく気を使ってくれるため、若手搭乗員には人気があったと語っている(瀧澤P203)。

 これは余談であるが、岩本は飛行場に迷い込んでいた皮膚病の犬を可愛がり、この犬を膝の上に乗せたまま邀撃に上がったこともあったという(阿部P224)。戦闘303飛行隊時代にも「ウルフ」と名付けたシェパードを買っていたと言われており(安倍P213)、動物が好きであったようだ。

 

 

おわりに

 

 岩本徹三は日中戦争から太平洋戦争終戦まで多くを第一線で戦い続けた稀有な搭乗員である。1944年、253空がトラック島に後退した時点での飛行時間も8,000時間と事実だとすれば相当なレベルである。撃墜数に関しては疑わしいものの、その空戦技術は非常に合理的であり、一対一の空戦でもかなりの技量を持っていたことは確かだ。周りの空気に流されず、特攻には明確に反対意見を述べ、自分の正しいと思った戦い方は誰に批判されようともこれを貫いた岩本徹三という人間はやはり立派であったといえる。

 

参考文献

  1. 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社1972年
  2. /昔尚紀『零戦最後の証言』1999年
  3. 秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社1975年
  4. ’瀚楾亜愕し確軅鐶盞眥得鏥3』大日本絵画2013年
  5. 土方敏夫『海軍予備学生空戦記』光人社2004年
  6. 安倍正治「我が胸中にのこる零戦撃墜王の素顔」『空戦に青春を賭けた男たち』2013年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 服部省吾「「一撃離脱」に徹した零戦撃墜王の合理的な戦い方」『歴史街道 岩本徹三と零戦』2009年8月号
  9. 原田要『零戦 老兵の回想』2011年
  10. ⊃昔尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  11. 角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版1990年
  14. 瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻1996年
  15. 梅本弘『ビルマ航空戦』上2002年

 

 


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坂井三郎01
(画像はwikipediaより転載)

 

 零戦搭乗員で最も有名なのは坂井三郎ということに関しては誰もが納得するところだろう。著書は大ベストセラーで戦記ファンでなくともその名は知っているという人も多い。

 坂井氏は1916年佐賀県生まれ、第38期操縦練習生課程を首席で卒業、その後日中戦争、太平洋戦争に戦闘機搭乗員として従軍する。1942年8月7日にガダルカナル上空で右目を負傷、瀕死の状態で帰還する。以後、負傷が回復してからも視力は低下しており、内地での教員配置が多かった。戦争後半に横須賀航空隊が硫黄島に進出した際に坂井氏も戦闘に参加する。

 

真の勇者は寡黙?

 

 坂井氏の参加した攻撃は特攻であったが、坂井氏と数名の搭乗員は司令の命令を無視して反撃、硫黄島に帰還した。以後、343空や横須賀航空隊勤務を経て終戦。戦後は自身の体験を書いた『大空のサムライ』が大ヒットしたが、天下一家の会という今でいうねずみ講に参加して仲間の搭乗員を勧誘したり、大言壮語する癖があったようで搭乗員仲間からは敬遠されていたという。

 搭乗員以外の人でも日本人が嫌う自己宣伝がうまかったりするので、現在でもファンが多いが、同時に結構嫌っている人も多い。某サイトのレビューには「本物の勇者は寡黙なものだ」などとの批判的レビューも目にするが、本当にそうだろうか。零戦搭乗員で言えばトップエースといわれる岩本徹三中尉は小町定氏から大風呂敷だったと指摘されているし(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』)、小高登貫氏も戦史家ヘンリーサカイダ氏に誇大であると指摘されている(ヘンリーサカイダ『源田の剣 改訂増補版』)。

 岩本徹三中尉は大風呂敷であった反面、緻密で几帳面であったことが指摘されており、こまめに日記をつけていたことがそれを証明している。実戦の技術にしても当時の岩本徹三中尉を知る多くの搭乗員から尊敬を受けていた。同様に小高登貫上飛曹も戦中派搭乗員でありながら、当時小隊長であった本田稔氏をして「腕は良かった」と言わしめており(井上和彦『最後のゼロファイター』)、大言壮語、大風呂敷だからといって勇者ではないとはいえない。

 因みにアメリカ軍史上最多の狙撃記録を持つクリス・カイル氏もかなりの自己アピールぶりで(クリスカイル『アメリカン・スナイパー』)著書は自信に満ち溢れている。本書はアメリカで「売れる」ように書いたため敢えて自己アピールを強くしたのかもしれないが、「本物の勇者=寡黙」とは一概にはいえないであろう。

 

実力のある男

 

 坂井三郎中尉も同様で、撃墜数は不明であるが(これはどの搭乗員にもいえる)、操縦練習生時代には首席であり恩賜の銀時計も拝領している。さらに日中戦争から太平洋戦争初期にかけての航空戦に活躍したことは紛れもない事実である。1942年8月7日の空戦で負傷して後送されているが、戦史研究家ヘンリーサカイダ氏によると米軍の戦闘報告書から、この日、坂井三郎一飛曹は1機を確実に撃墜していることは確実であるという。決して口先だけの男ではない。

 坂井氏を批判する零戦搭乗員達も勇者であれば坂井氏もまた勇者だ。坂井氏の本を読むとところどころに記憶違いがあったり、事実誤認(悪く言えば嘘)があったりするが、私はこれも勝負師の性質なのだろうと思う。勇者といってもいろんなタイプの人がいていいと思う。この件に関しては神立尚紀『祖父たちの零戦』と『父、坂井三郎-「大空のサムライ」が娘に遺した生き方-』を読むと両方の主張が分っていい。

 

坂井三郎氏の関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿がある。

 

まとめ

 

 上掲2冊を読むと人というのは一面だけではないということが良く分かる。大言壮語する人もいれば戦後も沈黙を貫く人もいる。その表面的な事象だけで善悪を判断してしまうというのはいささか早計であろう。人というのは十人十色で様々な側面を持っている。決まった枠にはめて分類できるものではないことが分る。どちらも良書である。

 


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01_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 戦闘303飛行隊とは、太平洋戦争後期に編成された特設飛行隊で、開隊から終戦まで隊長は実力人望共に豊かなベテラン指揮官岡嶋清熊少佐である。1944年に厚木で開隊した戦闘303飛行隊は、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦等に活躍、最初の特攻隊である敷島隊の援護も行った。本土防空戦では最前線の九州に展開、特攻隊が数多く出撃する中、制空部隊として終戦まで活躍した。海軍のエースとして著名な岩本徹三少尉、西澤廣義飛曹長、谷水竹雄上飛曹等も所属していた。

 

海軍の「エース部隊」

 

02_零戦21型
(画像はwikipediaより転載)

 

 旧日本海軍の最強戦闘機隊といえば何だろうか?著名な零戦搭乗員である坂井三郎氏が所属した台南空、知名度は低いものの実は部隊練度では台南空を上回っていた3空、最前線のラバウルで米軍の攻撃を防ぎ続けた204空等がある。但し、戦争初期から中期にかけては海軍の戦闘機隊は高い練度を誇っていた。つまりはどの部隊も「エース部隊」であったのだ。陸軍も含めた日本空軍の練度の高さは尋常ではない。それは日本空軍の教育が、厳しい試験を勝ち抜いた少数の優秀な搭乗員に対して「職人技」とも言われる高度な技量を教え込む少数精鋭教育であったことが理由である。

 しかし、太平洋戦争は物量と物量のぶつかり合いであった。航空機搭乗員は次々と戦死していく。米軍の場合はパイロットの保護が非常に重視されていたためパイロットの生還率は非常に高いが、日本軍、特に日本海軍は決戦主義であったため搭乗員の人命を第一に考えるという発想はなかった。つまりは搭乗員は全員戦死してしまっても次の決戦までに育成すればよいからだ。

 その発想で突入した太平洋戦争は前述の通り物量のぶつかり合いであったため搭乗員は非常な勢いで失われていく。そして戦争後期になるとそれまで「消耗品」として扱われていた搭乗員は「宝石よりも貴重」とまで言われるようになった。このため離島に孤立した熟練搭乗員をわざわざ潜水艦で救出するというような戦争初期では考えられなかったようなことも行われるようになった。

 

戦争後期になると状況は一変

 

03_芙蓉部隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 このような状況になった戦争後期、構成する搭乗員によって部隊の練度は大きく異なるようになった。つまりは部隊間の実力差が大きくなってきたのだ。この戦争後期で優秀な搭乗員を多く集めたことで有名なのは、局地戦闘機紫電改で編成された「剣」部隊343空であると一般には言われている。これは司令官の源田実大佐の政治力の賜物で、海軍では唯一といっていい最新の米軍機に対抗できる戦闘機紫電改を自分の部隊に集中運用させ、優秀な搭乗員を優先してヘッドハンティングしたと言われている。

 しかし実際はそうともいえない。343空に優秀な搭乗員が多く配属されたのは事実ではあるが、それはあくまで基幹搭乗員であって、優秀な搭乗員を引き抜くという評判が立った理由は、操縦が難しく「殺人機」とまで言われた局地戦闘機雷電の操縦が出来た若年搭乗員達を大量に343空に引き抜いたためだと言われている。実際には熟練搭乗員の比率は他の部隊とそれほど変わらなかったようだ。

 343空に比べて知名度は低いが、実は戦争末期の海軍でナンバー2の練度を誇った部隊がある。それは芙蓉部隊である。これは美濃部正少佐率いる夜間攻撃専門部隊である。当時比較的熟練者の多かった水上機からの転科者が多く、さらに工夫した訓練法で練度を増した。特攻には断固反対で結果、部隊の練度を上げるのに成功したのだ。

 しかし、その芙蓉部隊も海軍最強ではない。当時、海軍には部隊の練度を評価する基準があった。搭乗員の練度を測定するものだった。搭乗員はAランクから順に区分されていた。その基準で当時、最もAランクの搭乗員を擁していたのが今日紹介する戦闘303飛行隊なのだ。

 この戦闘303飛行隊というのは、私の感覚では戦史ファンや戦闘機ファンにはあまり知られていない部隊ではないかと思う。使用機は普通の零戦で戦争末期には九州地区での制空任務に活躍した部隊で、日本海軍のトップエースといわれる岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄等、歴戦の搭乗員が在籍していた部隊だ。

 

戦闘303飛行隊の戦い

 

04_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 私がチャラく調べたところによると戦闘303飛行隊は、1944年3月1日、特設飛行隊制度発足によって203空隷下部隊として厚木に誕生した。当時の飛行隊長は海兵63期の岡嶋清熊少佐。搭乗員には当初から日本のトップエースの一人である西沢広義、操練35期のベテラン長田延義、同54期の倉田信高、丙飛4期の本多慎吾、丙飛3期の加藤好一郎等の熟練搭乗員が名を連ねていた。

 1944年3月30日(4月末とも)、千歳基地に展開する(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』)。それはそうと、4月末にさらに幌筵島武蔵基地に移動する(安倍氏前著では5月中旬)。これは武蔵基地に展開していた281空が転出したためだ。その後、1944年8月11日に美幌基地へ移動。9月2日に一時的に百里原基地に展開するが9月14日にはまた美幌基地に戻る。9月18日にT部隊編入が下令され茂原に移動、さらに鹿児島の鴨池基地へ移動待機する。その後、台湾沖航空戦に参加したのち、10月24日フィリピンに到着する。

 10月27日、レイテ沖海戦の一環として特攻作戦が開始された。この特攻機を援護するために海軍でも指折りの実戦経験を持つ西澤廣義飛曹長が任命され、特攻掩護に就く。関行男大尉率いる特攻隊、敷島隊は体当たりに成功、米護衛空母部隊に大損害を与えた。西澤飛曹長は戦果確認後、零戦を現地部隊に引き渡し輸送機によって帰還するが、その帰還途中に米軍機に襲撃され撃墜されてしまう。

 開隊以来の熟練搭乗員西澤廣義飛曹長を失った戦闘303飛行隊は、翌11月15日に本隊は鹿児島へ撤収したようだ。所属航空隊も201空やら221空やらに変わったようであるが、正直、ここら辺はよく分からない。諸説あるものの、本隊がここら辺で内地に帰還したのは間違いないようだ。

 台湾沖航空戦、フィリピンの戦闘でかなりの消耗をした戦闘303飛行隊であったが、1945年から隊員を増強し始める。まず、3月15日に零戦虎徹こと岩本徹三少尉がヘッドハンティングされる。この時点での部隊規模は機材が32機、搭乗員57名であった。3月26日にラバウル帰りのベテラン谷水上飛曹、操練27期の大ベテラン近藤政市少尉が着任している。

 これだけ見ると何か数人のベテラン搭乗員だけしかいないような印象があるが、この戦闘303飛行隊の練度は全海軍中トップクラスであった。因みに谷水上飛曹が有名な撃墜マークを描いたのも戦闘303飛行隊にいた時だ。戦闘303飛行隊は九州に展開する宇垣纒中将指揮下の第五航空艦隊第203空の一隊として以後、終戦まで唯一の制空部隊として本土防衛にまい進する。

 

まとめ

 

 今日は何かダラダラと戦闘303飛行隊について調べたことを書いてしまったのであまり面白くなかったかもしれない。特に戦史に興味の無い人にはなんじゃこりゃーな話なのだが、私は昔から妙に興味があるのでついつい書いてしまった。

 

 

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