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局地戦闘機

01_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機天雷とは、中島飛行機によって開発された試作局地戦闘機で合計6機が製作された。対大型機迎撃用の双発単座戦闘機で1944年に完成したものの誉エンジンの品質低下による性能低下のため想定したほどの性能が発揮できず制式採用はされなかった。

 

局地戦闘機 天雷 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.50m
全高 3.51m
自重 5,000kg
最大速度 596km/h(高度5,600m)
上昇力 6,000mまで8分
上昇限度 9,000m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)2基
航続距離 2,740km(増槽装備時)
武装 30mm機銃2挺、20mm機関砲機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
設計・開発 大野和男 中村勝治 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 1942年、海軍は戦闘爆撃機という新しい機種が新設された。この戦闘爆撃機とは攻撃機隊に随伴しての援護や制空を主任務とし、さらに強行偵察や爆撃も行える複座の陸上機であった。このため性能要求は、敵戦闘機以上の速度で敵戦闘機を撃滅できること、夜間戦闘の能力が要求されていた。この戦闘兼爆撃機は同年末、十七試戦闘兼爆撃機として中島飛行機と愛知飛行機に発注されており、1944年初頭に試作機が完成する予定であった。

 当初は戦闘兼爆撃機という機種でスタートした計画であったが、1942年頃には前線ではB17爆撃機の撃墜に苦慮するようになっており、さらにはそれを上回る重爆撃機B29の開発の情報も入ってきた。このため計画は戦闘兼爆撃機から昼間迎撃用の重武装、重装甲の双発単座戦闘機の開発に変更されることとなった。そして翌年の1943年1月、十七試戦闘機兼爆撃機は十八試局地戦闘機試製天雷(J5N1)として再スタートした。

 

開発

 開発命令を受けた中島飛行機は、中村勝治技師を設計主務者として開発を開始、2〜3ヶ月後には大野和男技師に交代しながら開発を継続、1943年9月17日には第一次模型審査、1944年5月には強度試験用の零号機、6月20日には試作1号機が完成した。

 エンジンは中島製誉21型(1,990馬力。陸海軍統合名称「ハ45/21型」)2基、全金属製モノコック構造で翼面荷重は零戦、隼の2倍以上の229.5kg/屬任△辰拭K秒徳置は操縦席前面に厚さ20mmの防弾鋼板、前方風防には厚さ70mmの防弾ガラス、燃料タンクにも防弾処理がされていた。武装は九九式2号4型20mm機銃2挺(弾数各200発)、30mm固定機銃(五式30mm固定機銃1型。弾数各100発)2挺、爆弾は60kg爆弾2発搭載可能であった。

 初飛行は1944年7月8日であったが、大方の期待に反して性能は計画値を下回った。最大速度は計算値では663km/h(高度6,500m)であったのに対して実際は596km/h(高度5,600m)、上昇時間は計算値では6,000mまで6分、8,000mまで9分27秒であったが、実際は6,000mまで8分、8,000mまで11分であった。さらには振動、油漏れとあったエンジン関係のトラブルも相次いだ。フラップとナセルの形状に問題があったこともあったが、原因の多くは、大量生産され、粗悪品が目立ち始めた誉21型エンジンによるものであった。

 想定以下の性能と戦局の悪化に伴い、一旦は整理の対象となったが、B29来襲の可能性が増したため開発を継続、1945年2月には試作6号機まで完成した。しかしここで製作が中止されてしまう。完成した6機の内、5、6号機は前方銃の弾倉を撤去して計測員席を設け複座化、斜め銃も装備して3号機と共に実用実験も行われた。

 

生産数

 試作機6機のみ製作された。1号機、5号機は試験中に脚故障で胴体着陸、2号機は11月25日試験中に着陸大破、4号機は空襲で被爆破損、終戦時にはどちらも30mm斜め銃2門を装備した単座型の3号機と複座型6号機のみが残っていた。戦後、米軍に接収され現在でも機体の一部が残っている。

 

まとめ

 

 天雷は対大型機迎撃の期待を一身に背負って開発されたのであったが、海軍お約束の欲張り性能要求があった上に、誉エンジンの能力低下により期待したほどの性能は発揮できなかった。仮に開発が成功していればB29迎撃に威力を発揮したことであろう。しかし当時の日本の基礎工業力の低さでは設計者がどんな名機を設計したところでそれを精確に製作できる能力はなかった。急速に勃興してきた国の悲しさであろう。

 

 

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

 

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01_震電
(画像はwikipediaより転載)

 

局地戦闘機震電 〜概要〜

 

 震電は太平洋戦争中に九州飛行機によって開発、生産された局地戦闘機である。当時としては珍しい主翼が機体重心より後ろにあるエンテ型と呼ばれる構造になっており、空力的に優れた構造である反面、空冷エンジンの冷却が困難なこと等のデメリットがあった。震電は終戦までに2機が試作され1機が生産ラインに乗っていた。終戦時に破壊されてしまったが、これらの部品を組み合わせて形だけはまともにした1機が現存している。以下は貴重な震電の動画。

 

 

 震電の貴重な動画。かなり画像は荒いが、2回撮影が行われておりフィルムを繋いでいるようだ。滑走した震電のプロペラが曲がっているので、最初の1分40秒位までは1945年7月下旬の撮影で、その後の飛行しているのは翌8月のものであろう。

 

性能

全幅 11.114m
全長 9.76m
正規全備重量 4950kg
最高速度 750km
武装 30mm機関砲4門
爆装 60kgまたは30塲弾4発

 

エンテ式航空機のメリット

 震電は、戦争後半に計画され終戦間際に初飛行をした局地戦闘機で、当時は世界でも珍しいエンテ型(前翼式)戦闘機である。前翼式とは機体前部に小さい前翼をつけ、機体後部に主翼を配置し、エンジンを機体後方に配置するという構造である。エンテ型のメリットは機首に大口径砲を集中装備できること、空力的に優れていること、視界が良好なことが挙げられる。デメリットとしては空冷エンジンを装備した場合、冷却が困難なこと、非常時にパイロットが脱出する際、後部のプロペラに接触してしまう可能性があることがある。

 

開発

 震電の開発は、1944年6月5日、計画要求書が決定されたことに始まる。同時に名称を十八試局地戦闘機震電と決定される。1944年7月、第一次木型審査、9月第二次木型審査、10月風洞実験開始、1945年3月零号機完成、6月10日過ぎ、雑餉隈製作所で1号機完成。7月完成審査という驚異的なスピードで開発された。

 震電の特徴である前翼式は胴体内が有効活用できる半面、外側に点検パネルが多く配置されるため、外皮だけで自重を支える応力外皮構造とするのが難しいため、内側にプレート・ガーダーのような構造を設ける方法が採用された。この構造を採用したことにより生産性、整備性が大幅に向上する結果となった。

 

エンジンと武装

 エンジンは2030馬力「ハ-43・42型」を使用。プロペラは六翅プロペラが採用されたが、4号機以降は四翅プロペラに変更される予定だった。震電はエンジンの位置の変更やプレス機による外板成型、など生産性を考慮した構造になっている。燃料タンクは胴体内に400Lのタンク1個、翼内に200Lのタンク2個が22mmのゴムで防弾されていた。

 さらに翼下面に200Lの落下タンク2個を装備。武装は1945年5月に制式採用された5式30mm固定機銃1型を装備した。5式30mm固定機銃1型は全長2.092m、重量71kg、初速770m/秒、発射速度毎分530発で零戦などに装備された99式2号銃と比較すると重量はほぼ2倍、初速は若干速めであり、発射速度は同等程度である。

 

大きくなった翼面荷重

 震電は速度に特化したため格闘戦性能を上げるための自動空戦フラップの採用は見送られた。翼面荷重も215kgと零戦21型の約2倍になっている。翼面荷重とは機体の重量を翼面積で割ったもので数値が大きくなればなるほど機体重量が重く、翼が小さいことになるので速度は出るが、小回りは効かなくなる。逆に数値が小さくなればなるほど機体重量が軽く翼が大きいことになるので小回りが利くようになるが空気抵抗が大きくなってしまうため速度は落ちる。

 1945年7月下旬、震電は初飛行の日を迎える。しかし離陸直前、プロペラが接地してしまいこの日は飛行中止になってしまう。翌月である1945年8月3日、2号機のプロペラと交換して初飛行。さらに6日、8日と飛行テストが行われた。

 

生産数

 総飛行時間45分、試験で出した最高速度は295km。総生産数1機。ほぼ完成していた2号機が存在する。終戦後、1号機は破壊されるが米国の意向により修復するが飛行可能な状態とはならなかった。現存1機。

 

まとめ

 

 震電は独特の形状から架空戦記やアニメ、漫画の題材になり易く現在もで有名な機体である。画期的な機体ではあったがいかにも時期が遅すぎた。しかし当時の日本の航空技術の到達点として評価することのできる機体である。

 

 

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01_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争の戦訓により大型機迎撃用の戦闘機である局地戦闘機が必要とされた。その要求に応えるべく開発されたのが局地戦闘機雷電である。雷電は大型の火星エンジンを装備したため前方視認性が悪く「殺人機」とまで呼ばれたパイロットには不評であったが、米軍の公式評価をして「大型爆撃機に対してすべての日本軍戦闘機の中で最強」と言わしめた戦闘機でもあった。

 

局地戦闘機雷電 〜概要〜

 

 

性能

全幅10.8m
全長9.695m
全備重量 3507kg
最高速度 596.3km/h
航続距離 1898km
武装 20mm機銃4挺 30kgまたは60kg爆弾2発

 

開発

02_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機の開発計画は太平洋戦争前から始まった。1939年9月、海軍は、十四試局地戦闘機の計画要求書を内示。内示は三菱と中島飛行に対して行われたが、中島飛行機は、のちの月光や深山開発で忙殺されていたため辞退。三菱が受けることとなった。

 海軍からの内示を受けた三菱重工は堀越二郎を設計主務者として開発を開始、海軍の要求が高速戦闘機であったことから当時、日本では最強の航空機用エンジンであった火星エンジンを使用することが決定する。しかし、大型の火星13型エンジンを採用したため胴体は紡錘形になり、抵抗を減らすため風防も胴体上面にそのままつながる形式のものが採用された。

 そして胴体を紡錘形にしたためエンジンとプロペラの距離を離した延長軸を採用する。これがのちの振動問題につながっていく。雷電では新しい試みとして、生産性の向上を考慮して分割構造を採用。溶接部品を減らし工作の簡易化と部品点数の減少を図ったりもしている。

 

延長に次ぐ延長

 1940年12月第一次実大模型審査が行われ、さらに1941年1月第二次実大模型審査が行われた。順調に行けば、試作1号機の完成は1940年末の予定であったが、その後、何度か予定が延長され、結局、試作機が完成したのは、1942年2月であった。

 1942年3月21日、十四試局戦初飛行。1942年6月〜7月にかけて官試乗。周防元成大尉が担当している。周防大尉は海兵62期出身で15機を撃墜した実戦派である。試乗の結果、安定性、操縦性には全く問題はなかったが、視界不良や上昇力の不足、さらに予定していた速度が時速594kmであったのに対し、574kmしか出なかったりと海軍側の期待に応えるものではなかった。

 

十四試局戦改計画へ移行

 その結果を受けて、十四試局戦開発計画は、十四試局戦改計画に移行された。この十四試局戦改計画とは、十四試局戦のエンジンを水メタノール噴射式の火星23甲型に換装するというもので、十四試局戦の性能向上型として昭和16年7月に開発が決定していた計画であった。

 水メタノール噴射式とは、高オクタン価のガソリン入手が難しい日本の国情に合わせたもので、エンジンに水とメタノールの混合液を噴射することによってエンジンの出力を20〜30%増大させることを狙ったものであった。

 

試製雷電完成

 十四試局戦改は、1942年10月に完成。試製雷電と呼ばれた。そして1942年10月13日初飛行したが、激しく黒煙が吹き上がることや振動が激しいなどの不調を修正するのに時間がかかってしまい、雷電11型として生産が開始されたのは1943年9月であった。

 雷電11型は、155機生産されたが生産開始後翼内タンクに自動消火装置が設置された他、中期後期型からは翼内銃の角度を3.5〜4.5度上向きに取り付けられた。生産開始後約1年の1944年10月に制式採用される。試作機は8機製作されている。

 

雷電21型

 総生産数は500機前後であるが、雷電には多くのバリエーションが存在する。まず、雷電21型であるが、1942年10月十四試局戦改一、または試製雷電改として開発が開始され、1943年10月12日1号機初飛行。胴体の7.7mm機銃を廃し翼内銃をベルト給弾式九九式1号4型(装弾数190発)2挺と九九式2号4型2挺(装弾数210発)に強化。胴体内タンクをゴム被覆防弾タンクに改良。風防前面に厚さ50mmの防弾ガラスが追加された。

 最大速度594km、上昇力は6000mまで5分50秒から6分14秒。三菱で280機、厚木の高座海軍工廠で数十機製作された。この21型の機銃を4挺ともに九九式2号4型に変更、爆弾4発搭載可能としたのが、21甲型である。

 

雷電23型

 23型は21型の発動機を火星26型に換装したもの。武装は21型と同じ。この23型の武装を21甲型と同じにしたものが23甲型で、21型の風防の高さを50cm、幅を80cm増やし風防前方の胴体上面の両側が削られた視界改善対策実施型が31型である。武装は21型と同じ。最大速度590kmで数十機が生産された。31型の武装を21甲型と同じくしたのが31甲型。

 

雷電32型

 32型は排気タービン過給機を装備したものでカウリング前面の開口部が広げられている。武装は翼内銃2挺として風防後方に20mm斜め銃2挺が追加された。1944年1月に開発が指示され三菱と空技廠で2機ずつ、第21空技廠でも製作された。

 三菱製のものは1944年8月4日に完成、9月24日初飛行。最高速度が583kmと期待したほどではなかったため製作は打ち切られ三菱と空技廠の計4機は厚木の302空に引き渡された。この他、1944年末から20年初めにかけて第21空技廠で十数機の雷電が排気タービン過給機装着型として352空に供給されたが実用には至らなかったという。

 

雷電33型

 33型はエンジンを火星26型、または26甲型に変更したもの。31型同様の視界向上策を施した。先行試作機は11型の2機をベースに製作され1944年5月20日に初飛行した。最大速度が614kmと海軍戦闘機の最高性能を記録、武装は21型と同じ。21甲型と同じ武装にした33甲型も製造された。生産数は30数機。その他試験的に2式30mm機銃を2挺搭載したものや部隊で改造された斜め銃が装備されたものなどがある。どちらも302空で使用された。

 

雷電バリエーションまとめ

 雷電はあまりにもバリエーションが多く、複雑であるが、簡単に分類すると試作機が2種類、十四試局戦、十四試局戦改があり、量産機としては、11型、21型、23型、31型、32型、33型の6種類があり、さらに量産機では、32型以外の5機種には武装強化型の甲型が存在する。

 

生産数

 最終生産数は三菱が470機で他にも高座工廠や日本建鉄でも少数が製造された。ほとんどが21型である。

 

戦歴

03_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機雷電を運用する部隊として1943年10月1日、381空が編成された。同月中には新鋭機雷電が装備されたもののその配備数は月末に至っても5〜6機という有様であった。1944年1月、381空はボルネオ島バリクパパンに進出するが、同月、雷電が空中分解事故を起こしたため零戦隊のみが進出、雷電隊の進出は見送られた。

 この381空は4月には、零戦隊を戦闘311飛行隊、雷電隊が戦闘602飛行隊、月光隊が戦闘902飛行隊の3個飛行隊編成に変更、雷電装備の戦闘602飛行隊の外地への初進出は1944年9月頃で、セレベス島ケンダリー基地に9機の雷電が配備、実戦にも参加している。

 1943年11月5日には、横須賀で301空が編成、12月中には雷電が配備されたが機数はわずか4機で内、3機が十四試局戦改であった。1944年3月4日には301空も零戦隊は戦闘306飛行隊、雷電隊が線t脳601飛行隊に変更されている。この301空は編成完了後、最前線ラバウルに進出することが予定されていたが結局間に合わず、戦闘601飛行隊も機種を零戦に変更したため301空は実戦で雷電を使用することはなかった。

 

本土空襲と雷電

 戦略爆撃機の本土空襲の可能性が現実味を帯びるようになった1944年3月1日、首都防空を主任務とした302空が木更津で開隊、8月1日には岩国で呉防空を目的とした332空が開隊した。8月10日には佐世保、大村、長崎地区の防空を担当する352空が開隊、この部隊での雷電の実戦参加は、10月25日の大村地区空襲での迎撃戦で8機の雷電が出撃している。

 一方、本拠地を厚木に移動した302空は3分隊で編成、1、2分隊が雷電装備、3分隊が零戦という構成であった。配備されていた雷電は合計40機にも達したが11月に至っても可動機はわずか10機に過ぎなかった。この時期には米空軍第21コマンドによる東京空襲も開始、302空雷電隊も12月3日には迎撃戦に参加、初戦果を記録している。

 当初はB29単独での空襲であったが、1945年2月以降は戦闘機が随伴、さらには米海軍第58任務部隊による本土空襲作戦であるジャンボリー作戦の開始と合わせて雷電による小型機の迎撃戦も行われることとなった。4月には沖縄航空戦の拠点となっている九州地区への空襲が激化、これに対応するため302空、332空、352空の雷電隊が同方面に集結、「竜巻部隊」を自称するこれら雷電隊が防空任務に当たっている。

 その他、輸送部隊である1001空、210空、上海方面では256空(後に951空に吸収)でも少数の雷電が配備されている。

 

まとめ

 

 日中戦争の戦訓により開発された局地戦闘機雷電は、振動問題の解決等に時間がかかり活躍するのは太平洋戦争後半になってしまった。実戦配備後も視界の悪さや離着陸の難しさから殺人機という不名誉なあだ名を付けられるにいたった。しかし高速、重武装の雷電は連合国軍からは恐れられた。米軍の公式評価では雷電は大型機に対した全ての日本軍機の中で最強であったとされている。

 

 

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