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大分空

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(画像はwikipediaより転載)

 

酒井等飛曹長の略歴

 

 1941年10月、甲種予科練9期生として採用、1943年1月には飛練30期に進み、大分空で戦闘機の延長教育を受けた。同年11月から2ヶ月間、厚木空で零戦の搭乗訓練を受けた後、ラバウルに展開する253空に派遣された。その後204空に異動した後、内地に帰還、352空に配属された。

 

知られざる撃墜13機のエース

 

 酒井飛曹長は甲種予科練9期の出身である。甲種予科練とは搭乗員の不足が問題視されたために1937年5月に新設された制度でそれまでの予科練の応募資格が高等小学校卒または中学2年を修了した15歳から17歳までの男子であったのに対して、甲種は16歳から19歳までの中学校3年半以上修了であった。この制度の成立によってそれまでの予科練は乙種と呼ばれることとなった。

 甲種は、中学校で1年以上余計に勉強しているため予科練の訓練課程が乙種よりも短く、乙種が2年半であった教育期間は甲種では1年半であり、昇進も乙種に比べて早かった。しかし乙種の合格者の多くは中学校2年以上を修了しており、実質的な学力は同等であったことや「乙」という名称を与えられたこと、戦後の学歴認定でも不利があったこと等から甲乙間の対立の原因ともなった。

 この甲種はのちに大量の特攻要員を送り出すことになるのだが、酒井飛曹長が採用された甲種9期はのちの13期等に比べればまだまだ「少数精鋭」の時代であった。戦闘機専修の同期は81名(酒井飛曹長の記憶では60名)で半数が母艦航空隊、半数が基地航空隊に振り分けられたという。半数が母艦というのはかなり特異に感じられるが、1943年秋という時期は、い号作戦、ろ号作戦で多くの母艦搭乗員を失っており、母艦戦力の拡充が重要視されたのであろう。

 酒井飛曹長は基地組の組長として同期を統率、大分空で九六艦戦での延長教育を修了後、零戦搭乗の訓練を受けるために厚木空に配属された。この厚木空とはのちの302空とは異なる練習航空隊で1943年4月に編成、のちに203空となった部隊である。ここで2ヶ月間零戦の搭乗訓練を受けた酒井飛曹長は何とそのまま激戦地ラバウルに送られることとなった。

 酒井飛曹長が配属された部隊は253空で1942年9月以来ラバウルに展開するベテラン部隊である。酒井飛曹長が配属された1943年暮れという時期はラバウル航空戦も末期となり、海軍航空隊はほぼ防戦一方になっていた時期で、岩本徹三中尉、小町定飛曹長等が活躍していた時期でもある。

 このような激戦地に訓練を終えたばかりの酒井飛曹長以下10数名が着任するが、253空がラバウルからトラック島に後退、連日の空戦を続ける中で生き残った同期は酒井飛曹長含め、わずか4名となってしまった。しかしこの4名の内2名もその後の戦闘で戦死しており終戦を迎えることが出来たのは2名のみであった。この激戦地から生き残ることができた酒井飛曹長は253空と同じくトラック島に後退した204空に異動、さらに佐世保の352空付として内地に帰還した。

 352空とは1944年8月に編成された防空を主任務とする部隊で主に佐世保等の防空を管轄していた部隊であった。352空に配属された酒井飛曹長は本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。総撃墜数13機といわれている。

 

酒井等飛曹長の関係書籍

 

ああ”予科練”―甲種飛行予科練習生の記録

福本 和也 著
講談社 (1967/1/1)

 甲種予科練の記録で三部から成り、第一部が予科練の歴史、第二部が予科練の生活、第三部が甲種予科練出身者の手記である。この手記には甲飛2期から14期までの多彩な元搭乗員が寄稿している。ほとんど世間では知られていない撃墜王である酒井等氏が寄稿しているのも魅力。

 

まとめ

 

 甲飛9期の戦闘機専修者は81名(酒井等氏の記憶では60名)で終戦まで生き残った隊員はわずか21名であった(『海軍戦闘機隊史』より)。訓練終了時には戦局はすでに劣勢になっており、そのまま最前線に送られた隊員も多い。そのため1944年の一年間で戦死者60名中44名の隊員が戦死している。生き残った隊員の中には紫電改で編成された防空戦闘機隊343空に配属された隊員も多い。命がけで得た技術や経験が本土防空戦に必要とされたのだろう。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

山本旭中尉の略歴

 

 1913年6月13日静岡県に生まれる。1933年横須賀海兵団に入団、1934年7月操練24期を卒業。館山、大湊空を経て1935年11月空母鳳翔乗組。日中戦争の勃発により中国大陸に進出した。1937年12月、内地に帰還、霞空に配属された。1939年10月12空付。再び中国戦線に出動した。1940年7月、内地に帰還、大分空で教員配置となった後、空母加賀乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。真珠湾攻撃を始め、加賀戦闘機隊員として多くの作戦に参加、ミッドウェー海戦では母艦上空直掩で活躍した。1942年7月瑞鳳乗組。南太平洋海戦に参加した。1943年3月に瑞鶴戦闘機隊員としてラバウルに進出。5月、内地に帰還。横空に配属された。1944年6月八幡空襲部隊の一員として硫黄島に進出。11月24日のB-29迎撃戦の際、千葉県八街で被弾脱出したが、落下傘が開かず墜落戦死した。

 

海軍航空の花道を歩いた男

 

 山本旭中尉は操練24期で同期には片翼帰還で有名な樫村寛一飛曹長がいる。同期は9名で卒業までに2名が事故死している。さらに空母加賀に配属された1名が事故死と1/3が事故で亡くなっているクラスである。戦争では1名が日中戦争で戦死、2名が太平洋戦争で戦死しており、太平洋戦争終戦を迎えることが出来たのは3名である。

 操練を卒業した山本中尉は館山、大湊空を経て1935年11月、世界初の空母鳳翔乗組となった。日中戦争が勃発すると鳳翔は僚艦龍驤と共に第三艦隊に編入、上海沖に展開して陸戦部隊の支援を行った。8月19日には山本三空曹は上海上空において敵戦闘機の初撃墜を報告。その後も戦果を重ねた。この山本三空曹の殊勲に対して鳳翔艦長草鹿龍之介大佐より「鷲鳥之疾至於殷折」の褒状が授与された。同年12月には内地に帰還、霞空で教員配置に就いたが、1939年10月、12空付となり再び中国大陸に進出、1940年7月、内地に帰還して大分空の教員配置に就いた。

 1941年10月空母加賀乗組となり太平洋戦争の開戦を迎えた。開戦劈頭の真珠湾攻撃では遊覧飛行を楽しむ民間機を軍用機と誤り撃墜、これが真珠湾攻撃の撃墜第一号となってしまった。撃墜第一号を記録した山本一飛曹は帰ってから上官に怒られ、「大東亜戦争の撃墜第一号を記録したのに、帰ったらおこられたよ」とぼやいていたという。その後もダーウィン攻撃、ミッドウェー海戦等で活躍した。ミッドウェー海戦では上空直掩を担当したが、母艦が被弾していたため空母飛龍に着艦、友永雷撃隊の直掩を務めた。

 1942年7月に空母瑞鳳に異動、南太平洋海戦に参加した。11月には飛曹長に昇進、1943年3月から4月までラバウルに派遣され、激烈なソロモン航空戦に活躍した。5月には内地に異動、横空に配属された。1944年6月には横須賀から移動することのなかった横空が八幡空襲部隊としてついに硫黄島に進出、米機動部隊攻撃をかけたが山本少尉は硫黄島での艦砲射撃で負傷してしまった。この海軍の殿堂と呼ばれた横空の練度の高い隊員で結成された八幡空襲部隊には山本飛曹長を始め、坂井三郎飛曹長、武藤金義飛曹長、志賀正美上飛曹、宮崎勇上飛曹等、そうそうたるベテラン搭乗員が参加していた。

 内地にて負傷が回復した山本少尉は11月24日、B-29迎撃に出撃、千葉県八街上空で被弾脱出したが解傘せずに墜落戦死した。総撃墜数は15機といわれている。

 

山本旭中尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 山本中尉は操練24期、日中戦争勃発以前に搭乗員として十分な訓練を受け、日中戦争で実戦経験を積んだクラスであった。同期の多くが事故死しているのは当時の航空機の信頼性の問題なのかもしれない。太平洋戦争開戦後は母艦戦闘機隊員として特に練度が高いことで有名であった1航戦に配属され、陸上基地勤務では海軍航空の殿堂と言われた横空に在籍していた。海軍航空の表街道を歩いた山本中尉であったが、戦争末期に落下傘が解傘せずに墜落ししてしまう。搭乗員という職業は危険と背中合わせであった。

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52010224.html

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

松村百人少尉の略歴

 

 1915年9月21日山口県に生まれる。1934年海軍に入隊。整備兵を経て航空兵となる。1935年11月29期操練卒業。日中戦争勃発と共に12空隊員として上海に進出。12月13空付。1938年3月12空付。1939年1月赤城乗組、ついで岩国空、大分空の教員を経て1942年7月6空に配属された。8月にラバウルに進出、1943年4月飛曹長進級、内地に帰還、岩国空、鈴鹿空、神ノ池空で教員配置。1944年8月、601空戦闘161飛行隊に異動。10月24、25日にはエンガノ沖海戦に参加、母艦が撃沈されたため不時着、駆逐艦初月に救助されるも初月が撃沈されてしまったため行方不明、戦死と認定された。

 

2度の母艦戦闘機隊勤務

 

 松村百人少尉は操練29期出身で太平洋戦争時にはベテラン中のベテランであった。操練は大雑把に書くと、太平洋戦争開戦時には30期が中堅、40期以降は若手と考えると分かりやすい。10期、20期台は超ベテランクラスで30期台の搭乗員の教員クラスである。松村少尉は20期の最後のクラスで太平洋戦争開戦時には中堅クラスと考えて良い。

 操練29期は11名で1935年5月から訓練が始まり、同年11月に修了している。日中戦争勃発時には技量、経験共に完全な状態であったといえる。一般には日中戦争の空戦は日本軍の一方的勝利と思われがちであるが、中華民国空軍の搭乗員の技量も決して低い訳ではなかった。現に操練29期は日中戦争において約半数の5名が戦死している。

 松村上飛曹は日中戦争勃発時から参加、日中戦争で不確実含め10機の撃墜を報告している。日中戦争の撃墜数のトップが岩本徹三上飛曹の14機なので撃墜数でいえばかなり上位であるが、撃墜数自体、誤認が非常に多いためあまり当てにはならない。ともかく手練れの搭乗員であったことは間違いないであろう。松村上飛曹は中国大陸に展開する12空、13空と渡り歩き、1939年1月には空母赤城戦闘機隊に配属された。

 太平洋戦争開戦は内地での教員勤務で迎えるが、1942年7月には6空に配属された。6空はミッドウェー島進出予定の航空隊であったが、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため内地での再編成の後、8月にはラバウルに進出した。以降、6空は後に204空と改称されてからもラバウル航空戦の中核となって戦い続けた部隊で1944年初頭までラバウルに展開、空戦に活躍した部隊である。

 松村上飛曹は米軍がガダルカナル島に上陸した8月にラバウルに進出して以降、ガダルカナル島進攻やブイン基地での迎撃戦等に活躍する。1943年4月には飛曹長昇進、内地での教員配置を命じられた。「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで7ヶ月以上戦い生き残ったというのは奇跡的である。内地に帰還した松村上飛曹は岩国空、鈴鹿空、神ノ池空と1年以上教員配置についていたが、1944年8月再び実戦部隊に配属された。配属された部隊は601空戦闘161飛行隊で隊長は海兵67期のベテラン士官小林保平大尉であった。601空には他にも後輩にあたる岩井勉中尉や中仮屋国盛少尉等のベテランも在籍していた。

 因みに母艦航空隊は一回母艦に乗った後、陸上航空隊に勤務した後に母艦に戻るという「出戻り」は基本的にほとんどないため非常に珍しい事例である。この時点での601空はマリアナ沖海戦で部隊がほぼ壊滅、再建中であったが、10月には捷号作戦の発動により出撃、24、25日のエンガノ岬沖海戦では、松村飛曹長は母艦の上空直掩に活躍するが、母艦瑞鶴が撃沈されてしまったため海面に不時着、駆逐艦初月に救助された。

 しかしこの初月も米艦隊に包囲され撃沈、同様に救助された小林保平大尉と共に行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、その内約半数は日中戦争での戦果である。歴戦の搭乗員であった松村飛曹長は航空戦ではなく救助された駆逐艦の撃沈で戦死するというその最期は、日本海軍のトップエースといわれた西澤廣義飛曹長の最期と被らなくもない。

 

まとめ

 

 操練29期は11名、日中戦争で5名が戦死、太平洋戦争でさらに4名が戦死した。終戦を迎えられたのは2名のみで日中戦争、太平洋戦争での搭乗員の犠牲がどれだけ激しかったのかが分かる。特徴的なのは半数が日中戦争で戦死していることである。日中戦争も決して楽な戦いではなかったのである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 




山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




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03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

南義美少尉の経歴

 

 1915年12月15日香川県に生まれる。1933年海軍に入団、1935年11月30期操練を卒業、大村空を経て1937年7月13空(ついで12空)に配属された。二年間の戦地勤務後の1938年9月には内地に帰還、佐伯空、大分空、飛龍、瑞鳳乗組を経て1941年10月翔鶴に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年6月大村空で教員配置に就くが、1944年2月601空に異動、再び母艦戦闘機隊員として新造空母大鳳に配属される。マリアナ沖海戦後、653空に異動。レイテ沖海戦に参加するが、11月25日、神風特攻隊笠置隊員として米機動部隊に突入、戦死した。

 

母艦戦闘機隊のベテラン南大尉

 

 南義美大尉は、操練30期出身で同期の戦闘機専修者は14名で内、5名が終戦まで生き残った。同期には南大尉を除き、いわゆる「撃墜王」と呼ばれる搭乗員はいないが、太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けて日中戦争で多くの実戦を経験した上で25歳前後と搭乗員としては最も脂の乗り切った時期に太平洋戦争開戦を迎えたクラスである。

 南大尉は日中戦争前に操練、大村空での延長教育を修了、戦闘機搭乗員となった。1937年7月の盧溝橋事件勃発前後に13空に配属され上海戦線に出動、1938年9月に内地に帰還するまで1年以上にわたって中国戦線で戦い続けた。同年5月には漢口攻撃に出撃、空戦中にエンジンに被弾、機銃も全て撃ち尽くし帰投中であったが、中華民国空軍のE16戦闘機が近寄ってきて、漢口の方を指し「戻れ」と指示され怒った南兵曹は体当たりを敢行、片翼飛行を続けて不時着救助された。

 4ヶ月後の9月に1年以上に及ぶ戦地勤務を終え内地に帰還。教員配置の後、母艦乗組となる。以降、南大尉は1944年に特攻隊員として戦死するまで母艦戦闘機隊隊員として活躍する。最初に配置された空母は飛龍で、続いて瑞鳳、さらに翔鶴乗組として太平洋戦争開戦を迎えた。開戦後、南上飛曹は翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃、インド洋海戦、珊瑚海海戦に参加、1942年6月には内地で教員配置となる。しばらくの教員配置の後、1944年2月、601空に配属、久々の実戦部隊に戻る。

 601空とはそれまでの第一航空戦隊の空母翔鶴、瑞鶴、大鳳の3隻の航空隊で編成された部隊で空母と航空隊を分離させる制度変更によって生まれた部隊であった。南大尉はこの中の大鳳乗組となる。南飛曹長が開戦時に乗組んだ空母翔鶴ではないものの、また再び同じ部隊に配属となったこととなる。所謂「古巣に戻った」ということであろう。

 この601空隊員として6月には史上最大の空母決戦であったマリアナ沖海戦に参加、多くの熟練搭乗員が戦死する中、南飛曹長は無事生還したが、母艦の大鳳は撃沈されてしまった。本土に戻った南飛曹長は653空に異動となる。この部隊も空母と分離してはいるが、母艦航空隊である。

 この653空隊員として南飛曹長はレイテ沖海戦に参加したが、11月25日、神風特別攻撃隊笠置隊員として爆装した零戦で米機動部隊に突入戦死した。日中戦争当初から実戦経験を積み太平洋戦争全期間にわたって特別な技量を必要とする母艦搭乗員のベテランは爆弾を抱いて敵艦隊に突っ込むという非情な最期を遂げることとなった。戦死後二階級特進して海軍大尉となったが、のちの本土防空戦で「宝石よりも貴重」といわれた熟練搭乗員の惜しすぎる最期であった。

 

南義美少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。田中国義少尉のインタビューで南大尉について触れられている。

 

まとめ

 

 熟練搭乗員が特攻で戦死することはしばしばあった。しかしそれは直掩機としての任務であり爆装機ではないことがほとんどであった。無論直掩機でも何段にも防御体制を敷いている上に重厚な対空兵器を持つ米艦隊に突入するのは死ぬ可能性の非常に高いものであった。

 しかし爆装機は「必死」である。この作戦に対して岩本徹三中尉や岡部健二中尉等、性格の強い搭乗員は敢然と反対を表明、自身の特攻希望にもはっきりと「否」と表明していた。これに対して誰からも好かれる大人しい性格だったといわれる南大尉。終戦時に生き残った両中尉と特攻死した南大尉、ここに性格の違いがあったのかもしれないが、今となっては誰も分からない。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

周防元成少佐の経歴

 

 1912年12月14日鳥取県に生まれる。1934年海兵62期を卒業。艦隊勤務を経て1937年9月第28期飛行学生教程を終了。佐伯空、横空での延長教育を受けたのち、1938年2月12空に配属。15空に転じた直後、霞空、大分空教官を経て、1939年10月14空分隊長として再び支那戦線に出動。11月元山空に異動、1940年4月空技廠のテストパイロットとなった。1942年12月252空飛行隊長となりソロモン航空戦に活躍した。1943年2月内南洋に転進。1944年3月本土に帰還後は元山空、築城空の飛行長として終戦を迎えた。

 

物静かで沈着な周防少佐

 

 周防元成少佐は、海兵62期で同期には志賀淑雄少佐、納富健次郎大尉、飯田房太大尉等がいる。航空機搭乗員となった同期は37名で内、8名が戦闘機搭乗員となった。一般に士官は安全なところで指揮を執り、下士官兵は消耗品として使われるというようなイメージがあるが、実際にはこの海兵62期の8名の内、終戦まで生き残ったのはわずか2名、それも太平洋戦争開戦までに日中戦争で4名、真珠湾攻撃で1名が戦死している。1941年12月9日の時点で海兵62期戦闘機専修者は3名となっている。

 海軍兵学校を卒業した周防中尉は艦隊勤務ののち、1936年12月より28期飛行学生として採用、搭乗員としての訓練を受けた。1937年9月に訓練を修了後、佐伯空、横空で延長教育を受けたのち、1938年2月には早速12空の士官搭乗員として日中戦争に参加している。一時期内地で教官となったが1939年10月には再び14空分隊長として中国戦線に出動した。

 1940年10月には仏印ハノイに進出、11月には元山空に異動する。ここまでに周防大尉は撃墜11機を報告しており、これは士官搭乗員中の最高撃墜数であった。1941年4月には空技廠に配属、零戦や雷電等の新鋭機の実用実験に携わる。1942年12月には252空飛行隊長としてに発令されたため、「搭乗員の墓場」ソロモン航空戦に参加する。後任の空技廠飛行実験部員には同期の志賀大尉であった。この時、周防大尉の2番機を務めた宮崎勇上飛曹は、周防大尉の印象を「物静かで沈着、それでいて、あたたかい雰囲気を感じる人だった」と語っている

 2ヶ月余りソロモン航空戦の激戦を戦った後、1943年2月、252空は内南洋に転進に伴って内南洋に移動、周防大尉はタロア、のちにウェーク島に移動した。11月24日には、周防大尉は爆装零戦19機を以って、敵占領直後のマキン島銃爆撃に出撃したが、途中の洋上でF6Fヘルキャットの大群に奇襲を受け混戦となった結果、未帰還機10機の犠牲を出し、周防大尉自身も被弾している。さらに25日にも24機の爆装零戦を以って同様の攻撃を実施したが、同様にF6Fとの混戦となり、攻撃は失敗、7機の未帰還機を出してしまった。この空戦で日本側は撃墜11機を報告したが、実際には1機が撃墜されたのみである。

 零戦は戦闘機であるため爆装してしまうと本来の性能を発揮することができない。この2回の作戦は零戦の本来の使用法ではない方法で使用したため戦果は無く、損害のみが増大していた。にもかかわらず内南洋方面部隊司令部からは「26日も実施せよ」という命令が届いた。このため温和な周防大尉も堪忍袋の緒が切れ、俺たちを何と考えとるんだ!机の上だけで計画をたてておる奴には、何も分かっちゃおらん。今から殴り込みに行ってくる!」と単身司令部に乗り込んでいったという。多くの部下を失った周防大尉の怒りが爆発したのだった

 内南洋の航空戦で252空はほぼ壊滅、生存搭乗員達は1944年春に本土に帰還した。周防大尉も本土に帰還後、5月には少佐に昇進、元山空飛行長、築城空飛行長として終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、航空幕僚監部運用課長を経て、1960年8月実験航空隊司令、1964年1月空将補、3月第二航空団司令兼千歳基地司令、1965年3月航空自衛隊第五術科学校校長、1966年2月には保安管制気象団司令を歴任、1967年11月空将で退官した。1981年他界。総撃墜数は日中戦争で11機、太平洋戦争で4機の合計15機といわれている。

 

周防元成少佐の関係書籍

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。宮崎飛曹長は、菅波政治大尉戦死後、周防大尉の部下として長く一緒に戦っている。

 

まとめ

 

 海軍戦闘機搭乗員は、下士官兵に比べて士官は昇進して地上勤務や内地勤務に移動することが多く、消耗品として使い捨てられることは少なかった。しかしこれはあくまでも「下士官兵と比較して」の話であり、士官搭乗員が決して安全だった訳ではない。事実、海兵62期の戦闘機専修の士官8名の内、6名が終戦までに命を落としている。当たり前であるが、士官も兵士も命がけだったのである。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

上平啓州中尉の経歴

 

  1920年横浜市に生まれる。1937年9月甲飛1期として予科練入隊、1939年6月卒業した。その後大分空、大村空、横空を経て、1940年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。1941年10月には新編の台南空に転じ、比島、蘭印航空戦に参加したのち1942年4月新設の6空に異動、7月に大分空に移った。1943年4月飛曹長に進級、10月381空に転属、戦争後半まで戦い続けるが、負傷して本土へ帰還、特攻隊の教官で終戦を迎えた。1960年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。

 

上平啓州中尉と甲種予科練

 

 上平啓州中尉が採用された甲種予科練とは、1937年5月18日に創設された予科練の新しい課程で、受験資格は中学校4年生第1学期終了程度の15歳から17歳未満(つまりは15、16歳のみ)の男子から選抜された。これによってそれまでの予科練は乙種予科練と称されるようになった。後から創設された制度が「甲」となり当初からあった制度が「乙」となったのは受験資格にある。

 当初の予科練の受験資格は「高等小学校卒業程度」であったが、新たに創設された甲種は「上述のように「中学校卒業程度」であった。このため相対的に高学歴者を採用した新設制度が「甲種」と呼ばれたのである。しかし実際、乙種出身者のほとんどは中学校卒業していたため後々軋轢を生むこととなる。

 それはともかく上平中尉はその甲種予科練の第一期生であった。採用人数は250名で、戦闘機専修の同期にはトラック島空襲で戦死する前田英夫飛曹長、竹中義彦中尉、松田二郎中尉がいる他、戦闘機以外でも「B-29撃墜王」として有名な遠藤幸男大尉もいる。

 予科練を修了した上平中尉は、大分空、大村空で訓練を受けたのち、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊に配属された。1940年には12空に配属、初めての戦地に向かった。太平洋戦争開戦直前の1941年10月には新編の台南空に異動、開戦初期の比島・蘭印航空戦に活躍する。

 1942年4月、台南空が25航戦に編入された際、上平中尉は内地帰還組となった。内地帰還後は6空に異動、ミッドウェー海戦にはミッドウェー島占領後の「ミッドウェー航空隊」の要員として空母隼鷹に乗艦していたが、ミッドウェー海戦で日本側が敗北したことにより内地に帰還する。1943年10月には新編の381空に配属、セレベス島ケンダリー基地に進出した。以降、負傷して内地に帰還するまでバリクパパン油田防空戦等に活躍する。本土帰還後は教員としえ終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 予科練習生は15、16歳の若年者から採用したため操練等に比べて比較的年齢が若い。甲飛1期ですら太平洋戦争開戦時には年齢は21歳前後であり、終戦時でも25歳前後であった。しかし戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を経ているため太平洋戦争開戦時には中堅下士官として力を発揮した。他のクラスの例に漏れず戦死者も多く、戦闘機専修者では約70%が戦死している。

 

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01_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

斎藤三郎少尉の経歴

 

 1917年、山形県に生まれる。1934年6月横須賀海兵団に入団。75期普通科砲術練習生となったのち1936年戦艦比叡乗組、1938年6月44期操縦練習生となる。大分空、大村空で延長教育を受けたのち、1939年10月12空に配属され漢口に進出した。1939年末から1940年始めの桂林攻撃で初空戦を経験。1940年1月赤城乗組。大分空、徳島空、築城空を経て、1942年11月瑞鶴乗組。同時に上飛曹進級。1943年1月末ラバウルに進出し、4月「い」号作戦に参加。その後一時本土へ帰投するも7月にはトラック島に進出、「ろ」号作戦に参加する。一時的にルオット島に進出したのち内地に帰還。徳島空に配属された後、1944年7月252空戦闘317飛行隊付。10月24日捷号作戦の総攻撃に出撃した際、空戦となり不時着負傷して本土へ帰還、そのままに終戦を迎えた。

 

斎藤少尉の戦い

 

 斎藤三郎少尉は、操練44期出身で同期には金丸健男少尉、山中忠男少尉等がいる。戦闘機専修は17名であるが、1943年を迎える前にすでに9名が戦死しており、終戦まで生き残ったのはわずか5名であった。生存率は29%である。斎藤少尉は海兵団入団後、一時期艦隊勤務に就いたのち航空兵となっている。

 練習生修了後、漢口に展開していた12空に配属、日中戦争で実戦を経験する。1940年1月に赤城、瑞鶴乗組と母艦戦闘機隊に所属する。この母艦戦闘機隊は空母の小さい甲板に離着艦するために特別の技量が必要であり、特に練度の高い隊員が選抜された。

 赤城戦闘機隊に所属となった斎藤少尉は開戦後は内地で教員配置に就いたのち、再び瑞鶴戦闘機隊として1943年1月末にラバウルに進出、4月には「い」号作戦に参加、激戦のラバウルで活躍した。当時の斎藤少尉の乗機は零戦52型であったが、この零戦52型は21型の翼端を左右30cm程切落して成形した型で、他にもエンジンがより強力な栄21型エンジンに変更、武装も強化されて7.7mm機銃の代わりに13mm機銃が設置されており、20mm機銃も銃身の長い2号銃に変更されている。

 斎藤少尉は、この52型に対してスピードもあり、エンジンの馬力も強く、機銃も強力になった上に弾道が安定して命中率が良くなったと高評価を下しているが同じく翼端を切り詰めた32型に関しては安定性が悪いとあまり評価していない。

 い号作戦に参加後、内地に帰投した斎藤少尉は再びラバウルに進出、ろ号作戦に参加したのち内地に帰還、教員配置に就くが、1944年7月には252空戦闘317飛行隊に異動、捷一号作戦に参加する。この空戦で斎藤少尉は被弾、諦めかけた斎藤少尉は自決を考えるも気を取り直し不時着した。この時、斎藤少尉は白い服を着た長い黒髪の女性が手招きしているのを確認、そちらに向かおうとするが体が動かず断念して目が覚めたという。いわゆる「臨死体験」であろう。

 その後、現地人に救助され日本軍警備隊され戦闘317飛行隊に戻ると部隊が自分と他1名を残して全滅したことを知る。再び再編された戦闘317飛行隊に所属した斎藤少尉はそのまま終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、その後日本航空舎監となる。総飛行時間2118時間、撃墜数は単独撃墜18機、協同撃墜6機といわれている。

 

 

斎藤三郎少尉 関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三郎 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三郎少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。

 斎藤三郎少尉は、ラバウル航空戦に参加した当時のことを書いた「瑞鶴戦闘機隊」と台湾沖航空戦、戦争後期の比島航空戦について書いた「台湾・比島沖」の2本の手記を寄稿している。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 斎藤三郎少尉は、自身のラバウル時代のことを記した「南溟の空に消えた瑞鶴零戦隊」という一文を寄稿している。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。

 本書中に斎藤少尉が台湾に向かう際に、他の特准仲間である岩本徹三、西澤廣義、尾関行治、長田延義等と共に角田少尉のもとを訪れている描写がある。

 

まとめ

 

 斎藤三郎少尉は日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したベテラン搭乗員であった。特に優秀者が選抜されるという母艦戦闘機隊に長く所属、「搭乗員の墓場」と言われたラバウルでも長期間にわたって激戦をくぐり抜け終戦を迎えた数少ない搭乗員であった。単著での自伝のようなものはないが、手記を数本寄稿している。因みに名前は「さぶろう」ではなく「みつお」である。

 

 

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紫電改01
(画像はwikipediaより転載)

 

 岩本、坂井等、著名な撃墜王の先輩にあたるエースである。操練26期を修了した。1936年11月、空母加賀乗組。この当時の加賀はすでに単層甲板に改装された後だった。その後、日中戦争が勃発。太平洋戦争では各飛行隊を転戦したのち、343空に配属される。そこで終戦を迎える。

 

松場秋夫の経歴

 

 1914年三重県生まれ。、1935年3月26期操練を卒業。1936年加賀乗組時に日中戦争で初撃墜を記録する。同年末霞ヶ浦空に帰り、龍驤、岩国空、元山空、大分空と異動する。1943年11月301空戦闘601飛行隊に転属、1944年6月硫黄島に進出する。7月戦闘701飛行隊に異動、T部隊の一員として台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加する。本土帰還後は、343空所属で終戦を迎える。

 太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は手記等の発表はほとんどしていないことからあまり知られていない搭乗員であるが、日中戦争で初陣を飾ったのち、太平洋戦争では龍驤乗組となる。龍驤は小型空母のため発着艦には相当の技量が求められる。熟練搭乗員である松場が選ばれたのは当然といえるかもしれない。

 その後、岩国空、元山空、大分空と異動する。正確には分からないが、恐らく岩国空と大分空は教員配置であろう。1943年11月に301空に転属するが、この301空は飛行隊長が藤田怡与蔵大尉で、新鋭機の雷電を運用する予定の部隊であった。

 1944年3月、301空は戦闘316飛行隊、戦闘601飛行隊に分けられる。松場は戦闘601飛行隊に配属される。隊長は以前同様藤田怡与蔵大尉である。「あ」号作戦の発令により、戦闘316飛行隊は先行して硫黄島に進出。戦闘601飛行隊も硫黄島に進出を命ぜられるが、雷電には性能に不安があるため、機種を零戦に切り替え6月には硫黄島に進出する。

 7月3〜4日には、米機動部隊艦上機の来襲に対して迎撃戦闘を行う。松場はここでF6F、6機を撃墜したという。この数次の空戦と艦砲射撃で航空機を全て失った301空残存搭乗員は輸送機により本土に帰還。7月に301空は解隊、戦闘316飛行隊は252空に編入されたが、戦闘601飛行隊は解隊した。1944年7月、松場は解隊した戦闘601飛行隊より戦闘701飛行隊に異動になる。ここで台湾沖航空戦、比島航空戦に参加することになる。本土帰還後は、343空に所属、鴛渕孝大尉の下、戦闘701飛行隊隊員として紫電改を駆って本土防空戦に活躍する。

 その後、343空隊員として終戦を迎えるが、前述のように、戦後は雑誌への寄稿等はほとんど行わなかった。『海軍戦闘機隊史』に寄稿したのが恐らく唯一の寄稿である。

 因みに、松場が修了した操練26期には、福井義男(9機撃墜)、佐藤仁志(8機撃墜)等がいる。中瀬正幸(18機撃墜)、羽切松雄(13機撃墜)、東山一郎(9機撃墜)と共に敵飛行場に強行着陸した大石英男も操練26期であった。

 

松場秋夫関連書籍

 

零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』

零戦搭乗員会 編
原書房 1987年

 松場秋夫自身による唯一の寄稿。本書に記載があるが、松場氏は自身の記録を出版したり手記を書いたりするのを嫌っていたようだ。零戦搭乗員会の会員が頼み込んでやっと書いてもらったのが本書の寄稿文だという。松場氏も他界した現在、唯一無二の貴重な記録だ。

 

 

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