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夜間戦闘機

01_月光
(画像はwikipediaより転載)

 

夜間戦闘機月光 〜概要〜

 

 当初は、長大な航続距離を誇る陸上攻撃機の援護のために生まれた長距離戦闘機が月光の母体であったが、性能が海軍の要求を満たさず不採用となったが、二式陸偵として生まれ変わり、さらには夜間戦闘機月光として再び生まれ変わったという数奇な運命を辿った航空機である。

 

<性能>

全幅 16.98m
全長 12.18m
重量 4.852トン
最高速度 504km/h
上昇時間 5000mまで9分35秒
実用上昇限度 9320m
航続距離 2542km 過重3745km
武装 斜め銃3〜4挺
   250kg爆弾2発

 

開発

 月光は、1938年6月、仮称十三試双発三座戦闘機兼爆撃機として腹案が三菱と中島に内示されたのが始まりであった。当時、三菱は零戦や九六戦の設計等に忙しく引き受けられず、昭和13年10月、中島飛行機に対して十三試双発三座戦闘機の開発を内示した。

 1939年3月、正式に試作を指示したが、要求内容は過大なもので、速度は、当時開発中の零戦以上、航続距離は運用中の九六陸攻並、その上旋回性能が良好なこととされた。海軍の要求は常に過大であったが、この月光は特に著しかった。

 1939年12月第一次実物大模型審査、1941年3月26日1号機完成。5月2日初飛行、8月16日海軍に領収された。この十三試双発三座戦闘機にはリモコン銃座、海軍初の空戦フラップ、双発エンジンのプロペラを左右反転させることでトルクの相殺を狙った左右逆転式を採用する等革新的な機能を満載した機体であった。

 

二式陸偵として採用

 しかし完成した十三試双発三座戦闘機は、航続距離以外では軍の要求をほぼ満たすことが出来ず、さらには故障が続出したため不採用となってしまった。不採用となった十三試双発三座戦闘機であったが、海軍は太平洋戦争開戦後、陸上偵察機の必要性を痛感しており、試作2機と増加試作機7機を陸上偵察機として採用することを決め、1942年7月二式陸上偵察機として制式採用した。二式陸偵となった十三試双発三座戦闘機は、エンジンの左右逆転式は廃止、リモコン銃座、20mm固定銃も撤去した上で機首には前下方を見るための窓が装備され、燃料タンクは防弾式となった。

 

斜め銃装備で復活

 この大幅に改良された二式陸偵は南方戦線に投入されるが、ここでB-17の来襲に手を焼いていた251空司令小園少佐は胴体中央部に斜め上を向けた20mm機銃を取り付け、これで大型機と並行して飛行したまま攻撃を行うのちの「斜め銃」を考案した。

 この改造案は採用され、改修された3機の内2機が1943年5月、激戦地ラバウルに投入された。この改造は大成功であり、ラバウルで運用された斜め銃装備の二式陸偵は大きな戦果を挙げた。この結果、1943年8月23日、二式陸偵の後席と旋回銃は廃止し、さらに前上方と前下方向きに九九式2号3型20mm機銃を合計4挺装備したものを夜間戦闘機月光11型として制式採用された。

 

月光11甲型

 1943年11月、前下方向きの斜め銃を廃止し、前上方向きの九九式2号3型20mm機銃2挺の後方に九九式2号4型20mm機銃を装備したもの。月光23型ともいう。

 

生産数

 十三試双発三座戦闘機、二式陸偵を含め477機が生産された。

 

戦歴

 1942年、台南空に二式陸偵が配備された。1943年5月に251空(台南空)再進出した際、二式陸偵に斜め銃を装備した機体が戦果を挙げた。このため夜間戦闘機月光として制式採用された本機は、9月1日、夜間戦闘機専門部隊となった251空で活躍していたが1944年2月には本隊がトラック島に撤収、4月には残留部隊もトラック島に撤収した。

 251空に次いで381空も月光を装備、中部太平洋に進出している。さらに1943年10月には海軍初の夜間戦闘機航空隊である321空(鵄部隊)が開隊、1944年2月から中部太平洋に展開したが、同年7月、伝統の251空、初の夜戦部隊321空は解隊することとなった。そして251空残存隊員は153空に転入、比島航空戦に活躍している他、141空も月光装備の部隊で比島で活躍している。一方、381空戦闘902飛行隊の月光隊は蘭印方面に展開、1945年4月には内地に帰還している。

 本土防空では203空が月光を装備、1944年4月には当時の日本最北端である占守島片岡基地へ進出しており、11月には北東空戦闘851飛行隊の月光4機が択捉島に進出している。さらに台湾には133空、台湾空が月光を装備している他、首都防空の302空、呉防空の332空、大村の352空がそれぞれ月光を装備している。

 

まとめ

 

 海軍の過大な要求により不採用となった十三試双発三座戦闘機は、二式陸偵、さらには夜間戦闘機月光として復活した。月光は対大型機邀撃戦に比類ない活躍をした。特に本土防空戦ではB-29迎撃用として活躍することとなる。東京大空襲では、倉本十三上飛曹が操縦する月光が一夜にしてB-29、5機を撃墜するという驚異的な戦果を挙げたこともあった。

 航空戦では誤認戦果が付き物であるが、この対大型機相手の空戦は、敵機に並行して攻撃するため戦果の確認の確実性が高かったことや地上からの確認が取れた場合が多かったので、誤認戦果は比較的少なかったと言われている。この月光の活躍が無ければ空襲の被害はさらに悲惨なものになっていただろう。

 

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01_屠龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式複戦屠龍は攻撃機の長距離掩護、制空戦闘を目的に開発された日本初の双発複座戦闘機である。開発は難航したものの完成した屠龍は傑作機として評価が高い。太平洋戦争初期から終戦まで活躍した。特に本土防空戦ではB29相手に活躍した。

 

二式複戦 屠龍 〜概要〜

 

 

性能 キ-45改甲

全幅 15.07m
全長 11.0m
全高 - m
全備重量 5270kg
上昇力 5000mまで7分00秒
航続距離 1500km
出力 1080馬力は102エンジン2基
最大速度 540km/h(547km/hとも)
武装 20mm機関砲2門
   12.7mm機関砲2門
   7.92mm旋回銃1挺

 

背景から開発まで

 1930年代になると先進各国は双発複座戦闘機の開発に乗り出していた。理由は複座戦闘機ではれば後席の旋回機銃によって戦闘をすることができ、さらには航法にも有利ということであった。その上双発であれば速度、航続距離が飛躍的に高まり爆装することで軽爆撃機としても使用できるというメリットからであった。

 日本も同時期に複座戦闘機、1937年には双発複座戦闘機の開発が開始された。これはキ-38と呼ばれる制空、攻撃機の援護、対地攻撃を目的とした機体であった。研究は中島、川崎、三菱の3社に指示され、川崎のみが作業を進めることとなる。

 結局、この計画は中止され、キ-45開発へと発展することとなる。この計画中止の背景には陸軍が新しい双発複座戦闘機の方針を確立していなかったからだと推測されている。

 

開発(キ-45)

 川崎に対して開発が命じられたキ-45は1938年1月に設計に着手する。性能要求は主に掩護、制空戦闘機としてであった。形式は双発単葉複座で最高速度は540km/h、武装は固定機関砲1門、固定機関銃2挺、旋回機関銃1挺であった。これらの要求を踏まえた上で設計を開始、1939年1月に日本初の双発複座戦闘機であるキ-45試作1号機が完成する。

 完成したキ-45は流線形の胴体に翼の先端に行くほど幅が狭まる楕円テーパー翼を採用し、エンジンはコンパクトな790馬力空冷9気筒エンジンハ-20乙を採用した。脚は引込式ではあるが、搭乗員が手動で行うもので、武装は胴体下に20mm機関砲1門、機首に7.7mm機銃2挺、後方に7.7mm旋回銃1挺を装備していた。照準器は眼鏡式である。

 完成したキ-45試作機は不調の連続でテストは難航した。特にエンジンの不調は深刻であったため、1940年4月にハ-20乙エンジンは不採用となり、ハ-25エンジン(海軍名「栄」)が採用されることとなった。この栄エンジンは1933年に設計開始、1934年に完成したエンジンでこの時点ではすでに海軍の九七式艦攻で実用化されていたエンジンであった。

 このエンジンを装着したキ-45はハ-20乙が最高速度480km/hであったのに対して520km/hと好成績を出した。このため増加試作機8機も全てハ-25に換装されたが、実用機としては不満があるということで1940年10月不採用となった。そして第二次性能向上機としてキ-45改の開発が開始された。

 

開発(キ-45改)

 1940年10月、キ-45改の試作及び生産命令が発せられた。この時点で川崎側はキ-45には見切りをつけ、新たに採用された九九式双軽(キ-48)をベースにキ-45改の開発を開始した。これは1941年5月に設計完了、同年6月に試作1号機が完成した。

 このキ-45改はエンジンに1080馬力ハ-102(海軍名「瑞星21型」)を使用、機体はキ-45よりも若干大型化した。テストされたキ-45改は最高速度が540km/hとキ-45を20km/h上回り、上昇力、航続力等あらゆる点で申し分ない高性能を発揮、1942年2月に二式複座戦闘機として制式採用された。制式採用の前月の1942年1月から川崎航空機岐阜工場、明石工場で量産機の生産が開始された。

 

キ-45改甲

02_屠龍甲
(画像はwikipediaより転載)

 

 初期の量産機である。機首に12.7mm砲(ホ103)2門、胴体右下に試製20mm固定機関砲(ホ3)1門、後席に7.92mm(九八式)旋回機関銃1挺を装備している。ホ3はフランス製ホチキス20mm対空機関砲を改造したもの、九八式旋回機関銃はドイツ製MG15機関銃を国産化したものである。さらに操縦席と後席の間に2門の12.7mm砲(ホ103)を上向砲(いわゆる斜め銃)として装備した夜間戦闘機仕様のキ-45改甲丁装備機と呼ばれる機体もあった。

 

キ-45改乙

 

 乙は、甲の装備はそのままで胴体下の20mm機関砲を九四式37mm戦車砲1門に換装したタイプである。1943年1月から6月までおよそ20機が換装された。この九四式37mm戦車砲は九五式軽戦車の主砲として開発されたもので連射機能はなく搭乗員が手動で装填した。初速は575m/s 、発射速度2発/分、最大射程7000mで100mで25mmの鋼板を撃ち抜くことができる。 後期型は主翼付け根に増槽架兼爆弾架が設置された。

 

キ-45改丙(二式複戦改、二式襲撃機)

03_屠龍丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 機首に37mm砲(ホ203)、胴体下に20mm砲、後席には7.92mm九八式旋回機関銃を装備したもの。陸軍航空工廠において1943年3月に設計開始、同年5月に試作1号機が改修された。外観上の特徴は銃身が機首から突出している。同年10月までに65機が改修された。その後、川崎航空機でも生産された。この型は機首を延長して砲身がカバーされている。ホ203は全長1.53m、重量89kg、セミオートで装弾数16発、初速576m/s 、射程900mである。二式複戦改、二式襲撃機とも呼ばれていた。

 

キ-45改丁

04_屠龍丁
(画像はwikipediaより転載)

 

 丙に12.7mm砲(ホ5)2門を上向砲として搭載した夜間戦闘機型。砲は操縦席と後席の中間に設置された。キ-45改中、最も活躍した最強のキ-45改である。

 

その他改良型

 

ホ204装備機

 機種に37mm砲(ホ204)を搭載した機体。1943年1月に1機のみ試作。ホ204は1943年9月に完成した砲で米国ブローニング社の37mm機関砲を改造したもの。

 

ホ401装備機

 機首に57mm砲(ホ401)を搭載した機体。1機のみ試作。砲身が2.4mに達するため機首を1m延長した。ホ401は1944年に日本特殊鋼株式会社製で開発された砲で、セミオートで発射速度は50発/分(30発とも)、初速565m/s であった。

 

ホ301装備機(戊型)

 胴体下部に40mm機関砲(ホ301)を搭載し、レーダー(タキ2号)を搭載した試作機。ホ301はは陸軍航空技術研究所によって開発されたロケット弾を発射する機関砲である。全長1.5m、重量40kg、初速220m/s 、発射速度400発/分。

 

その他改修機

 1944年12月に電波暗視器装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1945年3月にはビーコン装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1944年3月には高高度飛行用装備実験機が陸軍航空工廠で1機のみ試作された。高高度飛行を可能とするため高高度用の改良を加えたハ-102特エンジンを装備したが成功しなかった。他にも1942年8月にはエンジンをハ-112に換装、翼面積を増大したキ-45改兇計画されていた。

 

生産数

 キ-45は試作機3機、増加試作機8機の11機。キ-45改(屠龍)は、試作機3機、川崎航空機岐阜工場で320機、明石工場で1367機の合計1690機が生産された(1704機説あり)。

 

配属部隊

 1942年1月上旬、当時ハノイに展開していた独立飛行第84中隊が9機の屠龍を受領、これが最初に屠龍を受領した部隊である。この中隊は同年10月に1戦隊から人員を補充、21戦隊となった。次に受領したのは5戦隊で同年3月から配備が開始されている。その後4戦隊、13戦隊も屠龍を受領、5戦隊と共に全面的に屠龍に改変した。

 1943年にはB-17の重装甲を破壊するために37mm砲を装備した改造型が完成、本機で独立中隊を編成、特別攻撃隊と名付けられた同隊がラバウルに進出しているが目立った戦果はなかった。1944年2月には屠龍を襲撃機型に改造した二式複戦改が45戦隊に配備されていた他、27戦隊も同機を装備していた。

 本土防空戦では初期の九州への空襲に4戦隊が対応、大きな戦果を挙げた。関東地区では53戦隊が屠龍を装備防空戦闘に活躍している。中部地区は南方から帰還した5戦隊が担当、斜め銃を装備してB-29迎撃に活躍したが1944年5月末に五式戦に改変された。他にも満洲では25中隊が終戦までソ連軍機甲師団相手に健闘している。

 

まとめ

 

 長距離掩護、または制空戦闘機として開発された日本初の双発複座戦闘機屠龍は戦争後期には37mm砲を装備した対爆撃機用戦闘機として活躍する。この屠龍を駆って撃墜不可能と言われたB-29爆撃機を多数撃墜した樫出勇大尉等の活躍も有名である。

 

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01_月光
(画像は夜間戦闘機月光 wikipediaより転載)

 

 夜間戦闘機 電光とは、太平洋戦争開戦後に愛知航空機によって開発されていた夜間戦闘機で日本では初めての夜間戦闘機として設計された機体であった。斜め銃としても機能する機首の可動式20mm機銃等の新機能や排気タービン過給器の装備により高高度での高性能が見込まれていたが、試作1号機の完成直前に空襲により被爆焼失、そのまま終戦となった。

 

夜間戦闘機 電光 〜概要〜

 

性能(誉24型装備機の計画値)

全幅 17.50m
全長 17.50m
全高 4.25m
自重 6,820kg
最大速度 690km/h(高度10,000m)
上昇力 6000mまで8分15秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,890馬力(誉24型)2基
航続距離 2,477km(巡航5時間、全力30分)
武装 30mm機銃1挺、20mm機銃4挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
乗員 2名
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

開発

 1943年、海軍は愛知航空機に十八試丙戦闘機試製電光の開発が指示された。これは陸海軍で夜間戦闘機として開発された最初で最後の機体であった。愛知航空機には以前から内示が出ており、尾崎紀男技師を設計主務者として研究を行っていた。1943年11月には基礎設計を開始、1944年8月には実大模型審査が行われた。1945年8月には試作1号機が完成する予定で、2号機も疎開先の岐阜工場で組み立てを開始していた。

 電光は、自重6,820kg、全備重量が9,695kgという超大型戦闘機であった。これは同じく夜間戦闘機に改修された大型戦闘機の月光の自重が4,562kg、全備重量が7,527kgであることからその大きさが分かるであろう。そのため、エンジンは排気タービン過給器装備の誉24型(1,890馬力)2基で、プロペラは直径3.45m定速式4翅プロペラを採用された。翼面荷重が206kg/屬肪する本機は、離着陸時にも高揚力が必要なため、フラップには親子フラップを採用、補助翼の一部もフラップとして機能するようになっていた。さらに敵攻撃時の抵抗板もフラップ兼用となっていた。

 武装は、機首中央に五式30mm機銃1挺(弾数100発)、その左右斜め下に九九式2号4型20mm機銃各1挺(弾数各200発)が装備された。中央の30mm機銃は固定式であるが、左右の20mm機銃は30度まで上向させることが可能で斜め銃として使用することが出来る。この操作は操縦席内の操作レバーによって行う。これらの機銃は操縦席内において20mm機銃のみの発射または30mm機銃、20mm機銃の同時発射が選択できるようになっていた。

 さらに偵察機の後方には20mm機銃(弾数各200発)2挺を装備した遠隔操管制銃塔が装備され、爆撃兵装は、250kg爆弾1発、または60kg爆弾4発が装備可能であった。夜間戦闘機に必須のレーダーは十八試空六号または十九試空電波探信儀2号11型が搭載予定であった。

 生産性の向上にも工夫が凝らしてあり、部品点数の最小化を始め、降着装置、油圧系統の部品は陸爆銀河の部品を流用することとなっていた。さらには資材節約のため可能な限り木材や鉄鋼を使用しておりフラップ、昇降舵、方向舵は何と布張りであった。

 それでも予定されていた性能は高く、最高速度は高度9,000mで668.6km/h、高度10,000mでは690km/h、巡航速度は高度4,000mで451km/h、上昇力は高度6,000mまで8分15秒、9,000mまでは13分、上昇限度は12,500m、航続力は2,477km(巡航5時間、全力30分)であった。

 このような高性能を期待されていた電光であったが、海軍の試作機の整理統合において試作中止機の候補に挙がってしまう。しかしB29の空襲が予想されることから整理の対象から外されたものの、1944年12月7日には東海大地震により愛知航空機の工場が大被害を受けると同時にB29による名古屋地区の空襲も激化していった。

 1945年6月9日、愛知航空機に対する集中的な空襲があり、これによって完成寸前であった電光試作1号機は被爆焼失してしまった。さらに岐阜工場で製作されていた2号機も終戦直前に空襲により被爆焼失してしまった。

 

生産数

 試作機2機(未完成)

 

まとめ

 

 夜間戦闘機電光は太平洋戦争開戦後に開発が始められた航空機である。残念ながら試作機製作中に空襲により焼失してしまったが、この電光の特徴はその高性能もさることながら、高性能一点張りであった海軍機が生産効率まで考えて製作されたことであろう。さらに陸海軍が協力して当初からこのような効率的な生産を行っていれば、より多くの高性能機を前線に送ることが出来たであろう。

 

 

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