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坂井三郎

01_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

横須賀航空隊最後の空戦

 

あまり有名ではない重爆B32

02_B32
(B32 画像はwikipediaより転載)

 

 1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送があり戦争は終了した。と思いきや、実は15日以降に飛来した米軍爆撃機B32に対する邀撃戦が行われている。このB32とはコンソリデーテッド社が製造した大型爆撃機で最高速度は575km/h、航続距離6115km、武装は12.7mm連装銃5基、約9,072kgの爆弾を搭載することが可能であった。しかしB29のような与圧室がなかったため、高高度爆撃が不可能であった。B32の製造はあくまでもB29爆撃機が失敗した場合の「保険」であったため僅か115機が製造されたのみで生産は終了した。大量生産こそはされなかったものの、15機が極東空軍に実戦配備されており、6月15日以降、しばしば実戦に参加していたようである(秦P252)。

 

 

実は終戦後毎日飛んでいたんだよ

 8月18日、このB32が写真撮影のために飛来した際、横須賀航空隊の戦闘機隊が迎撃している。日時がハッキリしないのだが、今回の執筆にあたって参照した資料の内、坂井三郎著『零戦の最期』と神立尚紀『零戦の20世紀』では、17日(坂井P36、神立P107、サカイダP29、34、53)、同じく神立尚紀『ゼロファイター列伝』と秦郁彦『八月十五日の空』では18日となっている(神立P205、秦P249)。

 このように日にちが異なってしまっている理由としては、恐らくB32が終戦の日である15日の翌日以降、16、17、18日と毎日写真偵察を行っていたことが考えられる。詳しく書くと、8月16日5時30分、第312爆撃群第386爆撃中隊のB32、ライマン・Pコムズ中尉乗機のシリアルナンバー42-108543号機、フランク・R・クック大佐操縦の42-108532号機の2機が出撃、特に迎撃を受けることなく帰還している。そして翌17日、今度はフランク・W・ウェルズ中尉が操縦する42-108532号機、42-108539号機の2機が5時43分に読谷飛行場を離陸、東京上空で写真撮影を行った(Pacific)。この際には日本機の迎撃を受けているが、秦氏によるとこの迎撃を行ったのは厚木航空隊の森本宗明中尉率いる零戦隊12機であったとしている(秦P253)。

 

8月18日の空戦

03_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

 そして18日、ジェームズ・F・クライン大尉乗機のシリアルナンバー42-108532、、ジョン・R・アンダーソン中尉(秦氏によると大尉。秦P252、サカイダ氏によると少尉。サカイダP34)の乗機42-108578の2機が6時55分、読谷飛行場を離陸、写真撮影のために東京に向かった(Pacific)。横空で空戦があったのが、17日か18日か、どちらが正しいのかは分からないが、恐らくこの数回の内の17、18日の2回の出来事がごちゃ混ぜになってしまったのだろう。とりあえず秦氏の説に従って18日ということで話を進めよう。

 8月18日13時頃、「敵大型機、千葉上空を南下中」との情報が入った。因みにこの空戦に参加した坂井三郎中尉の記憶によると「敵大型爆撃機一機、千葉上空を北上中」という情報だったようである(坂井P36)。それはともかく、一応終戦の詔は出ていたのだが、横須賀航空隊では何故か戦闘機は燃料も弾薬も完全に装備された状態で駐機、さらには搭乗員までも待機しているというやる気満々の状態であった。

 坂井中尉の記憶によると、この情報に対して隊長の指宿正信少佐は飛行長に電話で連絡、隊長の指示の下で出撃したとなっているが(坂井P37)、同じく空戦に参加した小町定飛曹長によると誰からも命令されておらず、お伺いもたてている暇もなかったという(神立P107)。まあ、どちらが正解なのかは分からないが、ともかく横空戦闘機隊は出撃する。搭乗員が機体へ走っていくとすでにヤル気満々の整備員達がエンジンを起動させていたという。坂井中尉の記憶によるとその時、零戦が10機ほどと紫電改が5〜6機あったという(坂井P37)。

 

 

最後の横空戦闘機隊発進!

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 横空所属の国分道明中尉以下、坂井中尉、小町飛曹長、大原飛曹長、平林上飛曹等が出撃したようだ。この内、坂井中尉は零戦52型、小町飛曹長は紫電改に乗って出撃した。坂井中尉は離陸後、高度6,000mとの指示を受け、6,000mに上昇。僚機が攻撃を開始したことを確認、坂井中尉も後上方攻撃をかけるもミス。B32は、館山上空から大島方面に逃走していった。ここらへんになると味方機も攻撃を中止して帰り始める。しかし坂井中尉は第二撃をかけ、それがB32右翼に命中、そこに別の味方機が攻撃をかけた。B32は高度を下げ、三宅島あたりでは超低空飛行になっていたが、坂井中尉は敵空母の存在を恐れてこれ以上追撃せずに帰還している。

 一方、小町飛曹長は発進後、全力で前方へ出て背面ダイブを実施した。この戦法は直上方攻撃と呼ばれる海軍戦闘機搭乗員が実戦から編み出した戦法で、米軍爆撃機の機銃の死角である前上方から背面急降下で一撃してすり抜けるという有効ではあるが危険な戦法であった。これによりB32に20mm弾が命中したものの、紫電改初搭乗であった小町飛曹長は零戦のつもりで引き起こしをするも重量級の戦闘機である紫電改では引き起こし時のマイナスGによりブラックアウトしてしまった(川崎P293)。そしてさらに伊豆半島上空でもう一撃、合計二撃している(神立P205)。

 最後まで追撃したのは坂井中尉と小町飛曹長だったようであったが(坂井P40、秦P250)、撃墜することは出来なかった。この空戦で一番最後に帰還したのは坂井中尉で、帰還後に敵爆撃機がB29ではなかったことを指摘している(秦P251)。

 

いろいろと食い違いが。。。

05_横須賀航空隊本部庁舎
(横須賀航空隊本部庁舎 画像はwikipediaより転載)

 

 と、ここまではそれぞれの本に書いてあることを時系列に基づいて書いていったのであるが、実はちょっと問題があるのだ。坂井中尉は零戦、小町飛曹長は紫電改に搭乗しいてる。坂井中尉は二撃した後、最後まで追尾して最後に帰還。小町氏も二撃をかけ帰還しているが、この2機の性能は歴然とした差があり、小町飛曹長はインタビューで「零戦で大型爆撃機を迎撃するのはむりでした」(川崎P292)、「零戦だったらとてもあそこまでは追えなかったんじゃないかな」(神立P107)と語っている。

 ここまで読んで頂いた読者には分かると思うが、坂井氏は零戦52型で追撃している。つまりは小町飛曹長の言っていることが正しいとすれば、坂井中尉の言っていることは嘘ということになる。さらに前述のように坂井氏の主張では出撃前に指宿隊長からの出撃命令を受けて出撃したと主張しているが、小町氏によるとそれも無かったという。坂井中尉はたまに著書の中で思い違いがあることが指摘されているが(高木・境田P60)、同じく8月17日(18日の誤りか)に零戦52型でB32を迎撃している大原亮治飛曹長はB32に対して三撃したと語っている(神立P120)。

 坂井中尉は二撃、大原飛曹長は三撃ともに零戦52型で行っていると語っているが、では、小町飛曹長が嘘をついているのか、その可能性はあるものの様々なインタビューの内容を読むと、そのぶっきらぼうで飾り気が無く、自身の撃墜数すらも主張しない小町飛曹長が嘘をつくとも思えない。ということで、戦争が終わってすでに70年以上経過し、当事者も全て故人となってしまった現在、残念ながら真実は、誰にも分からないのだ。「分からない」でいいではないか。

 

その後のB32と横空への処罰

06_日本側全権代表団
(画像はwikipediaより転載)

 

 この横須賀空のベテラン搭乗員達に酷い目にあったB32であるが、前述のようにクライン大尉の#532号機、アンダーソン中尉の#578号機の2機であったが、この2機のB32は横空戦闘機隊の攻撃を25分にわたって受け続け、アンダーソン中尉機#578号機が機上戦死1名を出したものの無事帰還している。その間、2機合計で12.7mm機銃弾4,000発を消費し、日本機14機中3機を撃墜したと申告しているが、もちろん横空戦闘機隊には損害はなかったが、まぁ、航空戦での撃墜判定なんてそんなものである。因みにこれら2機のB32であるが、#532号機は1946年5月、#578号機は1945年後半から1946年のどこかでスクラップにされている。

 帝国海軍航空隊は横須賀で始まった。このため終戦まで横須賀航空隊に配属される搭乗員は特に技量に秀でた者が充てられるというのが伝統だったようだ。横須賀から始まった海軍航空の最後の戦いがまた横須賀航空隊であったというのは何か感慨深いものがある。ところで「そもそも終戦後に戦闘して大丈夫なの?」という疑問を持つ読者も少なくないと思う。意外に知られていないのだが、日本が正式に降伏を行ったのは1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏調印なのだ。8月15日は天皇の終戦の詔が放送されて日本国内では武器を置くように命令されたものの国際法上は9月2日が停戦なので問題なかったようである。

 

参考文献

  1. 秦郁彦「夏空に燃えつきた抗戦」『八月十五日の空』文藝春秋1995年
  2. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  3. 神立尚紀『零戦の20世紀』スコラ1997年
  4. ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画2000年
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  6. 川崎浹『ある零戦パイロットの航跡』トランスビュー2003年
  7. 高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣改訂増補版』
  8. Pacific Wrecks

 

 

 


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01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 

 


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坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 

 私が零戦の搭乗員に興味を持つきっかけになった本!。。。ではない。私が零戦搭乗員に興味を持ったのは中学二年生の時に岩本徹三『零戦撃墜王』を西友の古本市で見つけたのがきっかけだ。学校にある図鑑に胴体に桜の撃墜マークをたくさん描いた零戦の絵があり、「撃墜200機以上」の〇×△の機体と書いてあった。古本市でたまたま岩本徹三『零戦撃墜王』を発見して、図鑑にそんな絵が描いてあったなーなんかこの人っぽい(著者〇×△氏。もちろん1回図鑑を観ただけで名前を記憶できる能力は私にはない)と思い、購入。これが零戦搭乗員に興味を持ったきっかけだ。

 その後、徐々に興味が広がり、他の搭乗員の本も読むようになった。まあ、これは高校を卒業してからなのでだいぶ後だ。タイミングが悪かった。ちょうどその時は戦後50周年ということで多くの搭乗員が本を出版していた。搭乗員自体もまだ70〜80代で健在だった。私はどんどんはまり込んでいったのだ。

 その中に坂井氏の著作もあった。『零戦の運命』『零戦の真実』『零戦の最期』の三部作は全てリアルタイムで読んでいる。しかし何故か『大空のサムライ』は読まなかった。当時の私は正直言って零戦搭乗員の撃墜数を知りたかったのだ。坂井三郎氏の撃墜数は64機というのは有名だ(まあ創作なのだが。。。)。なので敢て記録を読み解いてみる必要もないという訳だ。

 まあ、そうはいっても著名な搭乗員、一度は読んでみなければなるまいと思い、結構後になって読んだのが『大空のサムライ』だ。恐らく2000年代に入ってからだと思う。感想としてはまあ、想像通り。当たり前だ。それ以前に私は坂井氏の著作というのは沢山読んでいる。書いてあることは知っていることばかりだ。

 ただ、私は今一つ他の著作と比べて面白くは感じなかった。理由は全体的に文章がきれいでスマートなのだ。登場する搭乗員も他の著者のものだとそれぞれ戦後、本を上梓している搭乗員が同じ部隊にいてそれぞれ名前が確認できたりとそれなりに関係があるのだが、『大空のサムライ』に至ってはほとんどそれがなかった。

 何か別の世界の話のような気がした。これも私が興味を持てなかった理由の一つだった。最近になって本書はゴーストライターが書いたものだと知った(神立尚紀『祖父たちの零戦』)。ただ、内容はフィクションを多少含むがほとんどは事実のようだ。ただ、有名な敵基地上空での編隊宙返りはどうも眉唾物だという。しかし比島で一時的に捕虜になった陸攻搭乗員達が司令部の命令で敵基地に体当たりさせられるというエピソードがあったがこれは事実であったようだ。

 これは戦史家の森史朗氏が『攻防―ラバウル航空隊 発進篇』という著書の中で詳しく調べている。ゴーストライターが書いたとはいえ、坂井氏に無断で書いている訳ではないので坂井氏の著書と考えていいと私は思っている。零戦搭乗員にあまり興味はないが、零戦に興味があったり戦史に興味があったりする人の入門書としては良いと思う。まず藤岡弘主演『大空のサムライ』から入ってそれから原作という順番がいいかな。

 

 


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坂井三郎01
(画像はwikipediaより転載)

 

 零戦搭乗員で最も有名なのは坂井三郎ということに関しては誰もが納得するところだろう。著書は大ベストセラーで戦記ファンでなくともその名は知っているという人も多い。

 坂井氏は1916年佐賀県生まれ、第38期操縦練習生課程を首席で卒業、その後日中戦争、太平洋戦争に戦闘機搭乗員として従軍する。1942年8月7日にガダルカナル上空で右目を負傷、瀕死の状態で帰還する。以後、負傷が回復してからも視力は低下しており、内地での教員配置が多かった。戦争後半に横須賀航空隊が硫黄島に進出した際に坂井氏も戦闘に参加する。

 

真の勇者は寡黙?

 

 坂井氏の参加した攻撃は特攻であったが、坂井氏と数名の搭乗員は司令の命令を無視して反撃、硫黄島に帰還した。以後、343空や横須賀航空隊勤務を経て終戦。戦後は自身の体験を書いた『大空のサムライ』が大ヒットしたが、天下一家の会という今でいうねずみ講に参加して仲間の搭乗員を勧誘したり、大言壮語する癖があったようで搭乗員仲間からは敬遠されていたという。

 搭乗員以外の人でも日本人が嫌う自己宣伝がうまかったりするので、現在でもファンが多いが、同時に結構嫌っている人も多い。某サイトのレビューには「本物の勇者は寡黙なものだ」などとの批判的レビューも目にするが、本当にそうだろうか。零戦搭乗員で言えばトップエースといわれる岩本徹三中尉は小町定氏から大風呂敷だったと指摘されているし(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』)、小高登貫氏も戦史家ヘンリーサカイダ氏に誇大であると指摘されている(ヘンリーサカイダ『源田の剣 改訂増補版』)。

 岩本徹三中尉は大風呂敷であった反面、緻密で几帳面であったことが指摘されており、こまめに日記をつけていたことがそれを証明している。実戦の技術にしても当時の岩本徹三中尉を知る多くの搭乗員から尊敬を受けていた。同様に小高登貫上飛曹も戦中派搭乗員でありながら、当時小隊長であった本田稔氏をして「腕は良かった」と言わしめており(井上和彦『最後のゼロファイター』)、大言壮語、大風呂敷だからといって勇者ではないとはいえない。

 因みにアメリカ軍史上最多の狙撃記録を持つクリス・カイル氏もかなりの自己アピールぶりで(クリスカイル『アメリカン・スナイパー』)著書は自信に満ち溢れている。本書はアメリカで「売れる」ように書いたため敢えて自己アピールを強くしたのかもしれないが、「本物の勇者=寡黙」とは一概にはいえないであろう。

 

実力のある男

 

 坂井三郎中尉も同様で、撃墜数は不明であるが(これはどの搭乗員にもいえる)、操縦練習生時代には首席であり恩賜の銀時計も拝領している。さらに日中戦争から太平洋戦争初期にかけての航空戦に活躍したことは紛れもない事実である。1942年8月7日の空戦で負傷して後送されているが、戦史研究家ヘンリーサカイダ氏によると米軍の戦闘報告書から、この日、坂井三郎一飛曹は1機を確実に撃墜していることは確実であるという。決して口先だけの男ではない。

 坂井氏を批判する零戦搭乗員達も勇者であれば坂井氏もまた勇者だ。坂井氏の本を読むとところどころに記憶違いがあったり、事実誤認(悪く言えば嘘)があったりするが、私はこれも勝負師の性質なのだろうと思う。勇者といってもいろんなタイプの人がいていいと思う。この件に関しては神立尚紀『祖父たちの零戦』と『父、坂井三郎-「大空のサムライ」が娘に遺した生き方-』を読むと両方の主張が分っていい。

 

坂井三郎氏の関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿がある。

 

まとめ

 

 上掲2冊を読むと人というのは一面だけではないということが良く分かる。大言壮語する人もいれば戦後も沈黙を貫く人もいる。その表面的な事象だけで善悪を判断してしまうというのはいささか早計であろう。人というのは十人十色で様々な側面を持っている。決まった枠にはめて分類できるものではないことが分る。どちらも良書である。

 


ミリタリーランキング

坂井スマート道子 著
産経新聞出版 (2012/8/17)

 

 今日紹介するのは多分、日本で一番有名な撃墜王、坂井三郎の著書・・・ではなく、坂井三郎の子、坂井スマート道子氏の著書『父、坂井三郎』である。64機撃墜した海軍航空隊の撃墜王、大空のサムライとして有名な坂井氏の普段の生活、ものの考え方などがよく分る本である。

 まず、冒頭で坂井三郎氏が一番批判されている撃墜数について述べる。坂井氏は撃墜数64機となっているが自称したことは一度も無く、これは出版社が創作した数字であるとのこと。そして坂井氏との思い出が描かれる。坂井氏はアメリカ人に対して

 

「お前、アメリカ人は楽しいぞ」

「話が早くて、簡単なんだ。話していて気持ちがいい」

 

というようにアメリカ人とは波長が合ったようだ。アメリカ人も坂井氏の著書を読んで今までは血も涙もない存在だと思っていた零戦パイロットが自分達と同じ人間なのだということが分ったという。さらに本書では坂井氏がティベッツ大佐(エノラゲイ機長)と対話した際のエピソードも記している。坂井氏はティベッツ大佐に対して命令であれば自分も投下していたと語り、論理的にティベッツ大佐に対する日本人の批判が間違いであると語ったという。

 このくだりは本書に詳細にしるしてあり、引用したかったがあまりにも長かったために断念した。ただし戦争当事者同士のやりとりとしては貴重な記録だと思う。さらに本書では坂井三郎氏の哲学、子供への教育などが語られる。これは坂井氏の子供であるスマート道子氏でなければ書けないものだろう。外に出たときは前後左右上下を確認するなど、坂井氏独自の考えが面白い。

 本書の中で特に注目したいのは、「おわりに」でスマート道子氏が坂井氏の批判ともとれる内容が記述されている、神立尚紀『祖父たちの零戦』に言及していることだろう。零戦搭乗員でもっとも有名になってしまった坂井氏への評価が相対的に見られるのが面白い。本書は上記『祖父たちの零戦』と併せて読むのが面白いと思う。どちらの本も事実を極力客観的に記載しているのでこの2冊を読むと坂井氏の輪郭の一部が浮き彫りになると思う。その姿をどうとるかというのは読者次第であろう。私は魅力的な人物だと思った。

 

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