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台南空

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(画像はwikipediaより転載)

 

半田亘理中尉の略歴

 

 1911年8月22日福岡県に生まれる。1928年海軍に入団。5年間の軍艦勤務後の1933年3月操練19期を卒業した。その後、空母龍驤、大村空、横空を経て、1937年8月支那事変勃発とともに空母加賀に乗り組み、中国戦線で活躍した。1938年6月15空に異動、11月本土に帰還した。1940年11月空曹長に進級して除隊したが即日召集。1942年2月台南空に配属、ニューギニア、ラバウルで活躍したが、肺結核の悪化により同年末本土へ送還された。6年に及ぶ闘病生活の甲斐もなく1948年戦病死した。

 

戦闘機の職人、半田中尉

 

 半田亘理中尉は、操練19期で同期には343空で活躍した磯崎千利大尉がいる。同期は7名で1名が日中戦争で戦死、1名は開戦劈頭の真珠湾攻撃で戦死、1名がソロモンで戦死している。半田中尉は海軍に入隊以後、5年間にわたり艦隊勤務に就いたのち、1932年10月に操練19期に採用、半年間の訓練を受けた後戦闘機搭乗員となった。

 空母龍驤乗組み、大村空、横空を経て1937年8月に空母加賀乗組みとなり日中戦争に参戦する。1938年6月には新たに編成された15空に異動する。15空とは1938年6月25日に編成された部隊で空母蒼龍の艦載機が主体となって編成された艦戦、艦爆、艦攻の混成部隊であった。戦闘機隊飛行隊長は有名な南郷茂章大尉で同年12月1日には解隊した短命な飛行隊であった。

 半田中尉は同隊に11月まで所属、その後は内地に異動した。それまでの日中戦争での総撃墜数は6機といわれている。1940年11月には空曹長に進級、除隊したが、即日召集。土浦空で教員を務めた。太平洋戦争開戦後の1942年2月、蘭印方面に展開する台南空に異動、4月には台南空の一員としてバラウルに進出した。5月4日にはP39エアコブラを単独撃墜してベテランの腕の冴えを見せている(この撃墜は連合国の戦闘行動調書によって確認されている)。

 しかし9日後の13日には、著名な搭乗員である坂井三郎一飛曹の列機である本田敏秋三飛曹を一時的に自分の列機として借り受け出撃したが、本田三飛曹は空戦で戦死してしまった。これは後年に至っても悔やんでいたようで死の床でも本田三飛曹を失ってしまったことについて語っていたという。その半田飛曹長はその後肺結核が悪化、1942年末には内地に送還され、闘病生活の後、1948年に戦病死した。総撃墜数は13機といわれている。

 

半田亘理中尉の関係書籍

 

大空のサムライ (光人社NF文庫)

坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 最も著名な海軍戦闘機搭乗員であるといっても過言ではない。操練38期卒業のベテラン搭乗員の坂井三郎氏。日中戦争から太平洋戦争で活躍した。何かと批判も多い著者であるが、操練を優秀者として卒業、初期の台南空の快進撃で活躍したことは事実である。ゴーストライターが執筆しているため若干夢想的な文体であるが、読み物としては秀逸。世界中で翻訳され多くの人に影響を与えた。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 生粋の海軍戦闘機搭乗員であった半田飛曹長は海軍戦闘機隊秘伝の秘技「ひねり込み」も会得していた。内地での勤務に就いていた際、当時、若手搭乗員であった田中國義一空兵が「ひねり込み」の方法を半田一飛曹に訊いたところ、「まだ教えても分かるまい」と教えなかった。そして後年台南空で再会した田中一飛曹が半田飛曹長に再度「ひねり込み」について訊いたところ「教えることは何もないよ」と結局教えてくれなかったという。海軍戦闘機隊では、他の搭乗員も「自分の技は教えない」という職人気質な部分があったようでこのようなエピソードは非常に興味深い。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

遠藤桝秋一飛曹の略歴

 

 1920年12月20日福島県に生まれる。1938年6月乙種予科練9期として採用、1940年11月に予科練修了、同月艦爆搭乗員として飛練10期に入隊する。1941年11月飛練10期を卒業と同時に1942年2月まで佐世保空出水派遣隊で戦闘機転換教育を受けた後、2月に台南空に配属された。4月にはラバウル、そしてラエに進出して連日の航空戦に活躍。11月には台南空は再編成のため内地に帰還、1943年5月に251空と改称した台南空隊員として再度ラバウルに進出したが、6月7日の空戦で敵機に体当たりして戦死した。

 

台南空のベテラン遠藤一飛曹

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙種予科練9期の出身で同期の戦闘機専修者は23名、さらに艦爆専修者10名と陸攻専修者9名が戦闘機に転科したため戦闘機専修者は最終的には42名であった。太平洋戦争の初期から活躍したクラスで羽藤一志二飛曹、大石芳男中尉、上原定夫飛曹長等著名な搭乗員が多いものの戦死も多かった。開戦一年目の1942年末までには同期の内ほぼ半数にあたる19名が戦死している。1943年には7名、1944年にも7名が戦死、1945年には3名が戦死している。無事に終戦を迎えたのは6名のみであった。

 1941年10月、遠藤一飛曹は艦爆専修者として宇佐空で飛練10期を修了後、翌月より佐世保空出水派遣隊にて戦闘機への機種転換訓練を受ける。1942年2月、訓練終了と同時に当時にバリ島に進出した台南空に合流した。4月1日、台南空は25航空戦隊に編入されラバウル進出を命じられた。4月16日、遠藤一飛曹も台南空隊員としてラバウルに進出、連日の航空戦に活躍した。

 1942年11月になると笹井醇一少佐、坂井三郎一飛曹等、名だたる搭乗員を失った台南空は戦力を再編成するために内地に帰還することとなり、生き残っていた遠藤一飛曹も台南空の貴重な実戦経験者として愛知県豊橋で部隊の再編制にあたった。

 1943年5月、再編成が完了した251空(1942年11月1日に改称)は、5月7日にラバウルに到着、10日には遠藤一飛曹を含む飛行隊も零戦で島伝いに飛行してラバウルに到着した。再びラバウル航空戦に活躍した遠藤一飛曹だったが、1943年6月7日の空戦で第44戦闘飛行隊のヘンリー・マトスン中尉の操縦するP-40と反航で撃ち合った後、衝突して戦死した。

 総撃墜数は14機といわれている。連合軍の損害から算出した遠藤一飛曹のニューギニア航空戦期の戦果が3.1機であり、最後に衝突した1機を含めると4.1機の撃墜ということになる。但し、この3.1機は編隊空戦の結果挙げた戦果を空戦参加者全員で分けた数値の合計なのでより多く撃墜している可能性も全く撃墜していない可能性もある。撃墜数などはただの数字であることを理解しておいてほしい。

 

遠藤桝秋一飛曹の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

まとめ

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙飛9期の出身で戦闘機専修者42名中終戦を迎えたのはわずか6名であった。他機種に行った同期を含めても全191名中167名が戦死、生き残った同期中戦傷を受けなかった者はわずか3〜4名であったという。遠藤桝秋一飛曹は開戦直後から台南空に所属、251空に再編成されてラバウルに再進出した時に生き残っていた貴重な台南空時代の隊員であったが、僅か1ヶ月後にはラバウルの空に散ってしまった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

吉田素綱飛曹長の略歴

 

 1918年1月1日岡山県に生まれる。1935年6月呉海兵団に入団。機関兵として長鯨乗組、翌年整備兵に移り、さらに1939年1月44期操練を卒業。大分空での延長教育ののち大村空、さらに9月12空に配属される。中支戦線で活躍したのち1940年7月内地に帰還、横空に配属された。1942年2月4空に配属、空戦に活躍するも3月末に負傷した。4月台南空に異動。8月7日の米艦載機との空戦で行方不明、戦死と認定された。

 

ガ島初空戦の悲劇

 

 吉田素綱飛曹長は操練44期、同期の戦闘機専修者は17名で母艦戦闘機隊で活躍した斎藤三郎少尉、金丸健男少尉、山中忠男少尉等がいる。同期17名中、太平洋戦争開戦前に事故で1名失った他、太平洋戦争開戦1年で半数の8名が戦死している。その後、ラバウルで2名、比島で1名が戦死、太平洋戦争終戦までに11名が戦死、5名のみが終戦を迎えることが出来た。生存率は29%である。

 吉田飛曹長は呉海兵団を卒業した後、潜水母艦長鯨で機関兵を務めた。さらに整備兵となったが、1938年6月操練44期に採用。8ヶ月の訓練を受けた後、大分空で延長教育を受け戦闘機搭乗員となった。その後大村空を経て1939年9月には中支に展開する12空に配属、実戦を経験する。約1年間の戦地勤務の後、1940年7月には内地に帰還、横空に配属された。

 1942年2月、1年半に及ぶ内地勤務から4空配属となりラバウルに進出した。ラバウルでは進出早々B-17の撃墜を報告している。しかし3月末にニューブリテン島上空の空戦で負傷、1ヶ月の療養生活を強いられた後、4月には吉田一飛曹を含む4空隊員22名は台南空に編入された。台南空での初出撃は17日で以降、ニューギニア方面の空戦に連日のように参加している。5月8日にはガイ・アルヴァ・ホーキンス少尉が操縦するP-39を単独撃墜、その後も戦果を重ねた。台南空異動後の連合軍の戦闘報告書から判明している戦果はこの1機を含む約1.9機(1.879機)である。

 1942年8月7日、ガダルカナル島上陸を開始した米軍を撃滅すべく4空の一式陸攻27機が出撃、その援護をするため台南空の零戦隊18機も発進した。ラバウルからガダルカナル島は1,037km、零戦でも片道3時間20分に及ぶ長距離進攻であった。ガダルカナル島上空に到達した日本海軍航空隊は空母エンタープライズ、サラトガのF4F戦闘機隊の攻撃を受け空戦が始まった。

 この空戦で台南空零戦隊は43機の撃墜を報告おり、例によって過大な報告となっているが、米軍側の戦果報告によると実際10機のF4Fが撃墜され、さらに1機のSBD艦爆が台南空の零戦隊によって撃墜されている。零戦隊の大勝利と言って良い戦いであったが、この空戦で吉田一飛曹は未帰還、戦死と認定された。それまでの吉田一飛曹の戦果は、日本側の資料では総撃墜数は単独12機、不確実1機、共同撃墜3機であり、連合軍側の資料からは台南空所属時の戦果1.9機のみが判明している。

 

吉田素綱飛曹長の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 日本、連合軍双方の戦果報告書や日記、手記等を基にガダルカナル島航空戦を再現している。過大になりがちな空戦の戦果を可能な限り特定している大変な労作。本書はガダルカナル島航空戦の最初期である米軍のガ島上陸前から1942年10月までの空戦を克明に描いている。あまり知られていない水上機隊の活躍について詳しく描かれているのも魅力。吉田一飛曹が戦死した8月7日の空戦についても克明に描いている。

 

まとめ

 

 1942年8月7日の空戦は台南空の零戦隊の一方的勝利として有名である。実際の双方の損害を比較してみても日本側の損害が戦闘機2機、陸攻4機に対して、米軍は戦闘機10機、艦爆1機を失っているため数の上でも日本側の勝利といえる。しかし戦死者数を比較すると米軍の搭乗員がほぼ救出されており、実際の戦死者が4名であるのに対して、日本側は吉田一飛曹を含め31名を失っている。戦死者を比較した場合、この空戦の勝者がどちらであるのかは明確である。

 

 

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山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




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吉野俐少尉の略歴

 

 1918年2月21日千葉県に生まれる。1934年6月乙飛5期として採用される。1937年8月卒業後、1938年3月霞空での練習機課程(飛練)終了後、佐伯空で戦闘機専修教育を受ける。同年9月16日実戦部隊である大村空に配属、12空、蒼龍乗組となる。1940年10月千歳空配属で太平洋戦争開戦を迎えた。1942年2月4空に異動、ラバウル基地に進出、3月ラエ基地に進出した。4月台南空に異動。6月9日空戦中行方不明となり戦死と認定された。

 

初期のニューギニア航空戦に参加した吉野少尉

 

 吉野少尉は乙飛5期で同期の戦闘機専修者は17名で角田和男少尉、杉尾茂雄少尉、中瀬正幸少尉等著名な搭乗員が多い。太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を積み太平洋戦争開戦を迎えた最も脂の乗り切ったクラスである。同時に戦死も多く、太平洋戦争開戦1年で17名中9名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか4名という生存率23%のクラスであった。

 予科練を修了した吉野少尉は霞空で練習機課程を修了、その後佐伯空で戦闘機搭乗員としての専門教育を受ける。さらに実戦部隊でもある大村空において当時の新鋭機九六艦戦の訓練を受けた。2ヶ月程の訓練ののち、吉野少尉は同期の中瀬少尉と共に12空に配属(資料によって異なる。)、さらには母艦戦闘機隊員として蒼龍戦闘機隊を経て、1940年10月、新設された千歳空に配属。ここで太平洋戦争開戦を迎える。

 開戦数ヶ月は平穏な内南洋防空任務についていたが、1942年2月4空付きとなり、のちに「搭乗員の墓場」といわれる南東方面(ソロモン、ラバウル)に派遣された。3月にはラエ基地に進出、4月には台南空に編入された。台南空隊員としての初出撃は4月2日で6日には同方面で初撃墜を記録する。この空戦では吉野上飛曹は小隊長として参加、撃墜2機、2番機の丹二飛曹が撃墜1機を報告しているが、この空戦で実際に撃墜された機体は2機のみである。どちらが撃墜したのかは不明であるが、海軍航空隊の空戦方法から小隊長に戦果が集中するのが通常であるため2機は吉野飛曹長の戦果である可能性は高い。

 さらに4月11日にはガス・キッチンズ少尉の操縦するA-24を単独撃墜、その後もしばしば戦果を挙げるものの6月9日、クーラン・J・ジョーンズ少尉操縦のP-39によって撃墜された。総撃墜数は15機といわれている。戦後、連合軍の戦果報告書での損害を突き合わせた結果では、吉野少尉の台南空時代の戦果は3.4機となっている。このクーラン・J・ジョーンズ少尉はのちにエースとなり、戦後、台南空時代の吉野少尉の同僚である坂井三郎氏と会っている。

 

吉野俐少尉の関係書籍

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。吉野俐少尉と同期の角田氏による著作。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。吉野俐少尉の台南空時代の空戦の模様や最後の空戦についても言及されている。

 

まとめ

 

 吉野俐少尉は日中戦争で実戦経験を積んだ後、太平洋戦争に中堅搭乗員として参加。初期のニューギニア航空戦に参加した。若い搭乗員であったが、腕は非常に良く連合軍の戦闘行動報告書から調べられた撃墜戦果でも台南空屈指の戦果を挙げている。しかし6月9日、連合軍機の待ち伏せに散っていった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

高塚寅一少尉の略歴

 

 高塚寅一 少尉 撃墜数16機  1914年静岡県生まれ。1933年11月22期操練を卒業。12空所属。1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。1941年10月飛曹長に進級して除隊後、直ちに招集され、台南空に配属される。1942年6月ラバウルに進出。9月13日ガダルカナル島上空の空戦にて未帰還となる。

 

 

空戦での撃墜の困難さ

 

 高塚飛曹長は操練22期出身で1928年6月から11月まで半年間操縦の訓練を受けた。同期には8機撃墜といわれる江島友一少尉がいる。戦闘機専修者は7名で太平洋戦争では3名が戦死しており、3名が終戦を迎えることができた。高塚一空曹は12空隊員として日中戦争に参戦、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。

 この空戦で高塚一空曹は白根中尉率いる第2中隊第2小隊長として参加したが、空戦前に増槽落下後、燃料コックの切り換えを忘れ燃料を噴きながら空戦に突入、2番機の三上一禧三空曹に合図されて気付くというトラブルもあった。

 空戦では1機に命中弾を与え空中分解するのを確認した後、機体を引き起こしたが、その際に引込脚のロックがはずれ主脚が飛び出してしまった。このため着陸の際に機体が転覆大破してしまったが、高塚一飛曹は無事であった。この空戦では日本側は27機を撃墜、高塚一空曹も3機を撃墜したことになっているが、実際の中国軍の損害は13機で個人戦果も新聞社が適当に割り振ったものである。

 様々なトラブルがありながらも12空で活躍した高塚一空曹であったが、1941年に飛曹長に昇進すると同時に除隊してしまったが、すぐに招集された。台南空に配属された高塚飛曹長は1942年6月初旬にラバウル・ラエに展開する台南空に着任、6月13日に久しぶりの実戦に参加、19日にはB-17との空戦を行った。7月26日にはB-25 2機を共同で撃墜、29日にはA-24 4機を共同で撃墜した。8月2日にはP-39と交戦、1機撃墜を報告したが、この空戦で実際に撃墜されたP-39は1機のみで撃墜を主張している隊員は6名いるため実際には誰が撃墜したのかは不明である。

 8月4日にはラビ飛行場の強行偵察では地上銃撃の後にP-40と空戦となり1機撃墜を報告しているが、この空戦で連合軍側に空戦による被撃墜はなかった。米軍がガダルカナル島に上陸した8月7日の空戦では空中火災を起こしたものの無事に帰還することができた。8月21日には高塚飛曹長含む台南空零戦隊6機がF4F4機と交戦、高塚飛曹長は1機撃墜、1機不確実撃墜を報告しているがこれも連合軍側には空戦での被撃墜はなかった。

 9月13日には陸軍の河口支隊のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還を目的とした作戦に連動して成功した場合に強行着陸するため陸軍の参謀を載せた陸偵の援護として出撃するが、高塚飛曹長を含む台南空零戦隊9機はガ島上空で26機のF4Fと空戦となり、高塚飛曹長及び高塚小隊全員が未帰還となった。

 

高塚寅一少尉関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。高塚一空曹の9月13日の空戦での活躍についても描かれている。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 高塚飛曹長が予備役から招集され台南空に着任した直後からの活躍が詳しく書かれている。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。高塚飛曹長に関してはソロモン航空戦の時の活躍が描かれている。

 

まとめ

 

 高塚飛曹長の撃墜数は16機ということになっているが、実際の数となると、分かっているのは零戦初空戦時の1機の他は、7月26日、29日の協同撃墜、8月2日のP-40の撃墜である。これらの撃墜数を協同撃墜として欧米式にカウントすると1.15機で高塚飛曹長の総撃墜数は2.15機ということになる。他にも日中戦争での撃墜やその他把握できなかった空戦もあるかもしれないので断定はできないが、「口だけの男ではない」と言われた老練な搭乗員高塚飛曹長をもってしても撃墜とはこれほど困難なものなのである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

中谷芳市飛曹長の経歴

 

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫、岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤清飛曹長、宮崎勇少尉等がいる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

上平啓州中尉の経歴

 

  1920年横浜市に生まれる。1937年9月甲飛1期として予科練入隊、1939年6月卒業した。その後大分空、大村空、横空を経て、1940年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。1941年10月には新編の台南空に転じ、比島、蘭印航空戦に参加したのち1942年4月新設の6空に異動、7月に大分空に移った。1943年4月飛曹長に進級、10月381空に転属、戦争後半まで戦い続けるが、負傷して本土へ帰還、特攻隊の教官で終戦を迎えた。1960年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。

 

上平啓州中尉と甲種予科練

 

 上平啓州中尉が採用された甲種予科練とは、1937年5月18日に創設された予科練の新しい課程で、受験資格は中学校4年生第1学期終了程度の15歳から17歳未満(つまりは15、16歳のみ)の男子から選抜された。これによってそれまでの予科練は乙種予科練と称されるようになった。後から創設された制度が「甲」となり当初からあった制度が「乙」となったのは受験資格にある。

 当初の予科練の受験資格は「高等小学校卒業程度」であったが、新たに創設された甲種は「上述のように「中学校卒業程度」であった。このため相対的に高学歴者を採用した新設制度が「甲種」と呼ばれたのである。しかし実際、乙種出身者のほとんどは中学校卒業していたため後々軋轢を生むこととなる。

 それはともかく上平中尉はその甲種予科練の第一期生であった。採用人数は250名で、戦闘機専修の同期にはトラック島空襲で戦死する前田英夫飛曹長、竹中義彦中尉、松田二郎中尉がいる他、戦闘機以外でも「B-29撃墜王」として有名な遠藤幸男大尉もいる。

 予科練を修了した上平中尉は、大分空、大村空で訓練を受けたのち、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊に配属された。1940年には12空に配属、初めての戦地に向かった。太平洋戦争開戦直前の1941年10月には新編の台南空に異動、開戦初期の比島・蘭印航空戦に活躍する。

 1942年4月、台南空が25航戦に編入された際、上平中尉は内地帰還組となった。内地帰還後は6空に異動、ミッドウェー海戦にはミッドウェー島占領後の「ミッドウェー航空隊」の要員として空母隼鷹に乗艦していたが、ミッドウェー海戦で日本側が敗北したことにより内地に帰還する。1943年10月には新編の381空に配属、セレベス島ケンダリー基地に進出した。以降、負傷して内地に帰還するまでバリクパパン油田防空戦等に活躍する。本土帰還後は教員としえ終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 予科練習生は15、16歳の若年者から採用したため操練等に比べて比較的年齢が若い。甲飛1期ですら太平洋戦争開戦時には年齢は21歳前後であり、終戦時でも25歳前後であった。しかし戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を経ているため太平洋戦争開戦時には中堅下士官として力を発揮した。他のクラスの例に漏れず戦死者も多く、戦闘機専修者では約70%が戦死している。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

田中国義少尉の経歴

 

 1917年佐賀県に生まれる。1934年佐世保海兵団入団。1936年3月31期操練を修了後、大村空にて戦闘機専修教育を受ける。1937年10月13空に配属、上海に進出した。1938年7月大村空に異動後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経た後、1941年10月台南空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加したの1942年4月大分空教員として内地に帰還する。その後は病気のため筑波空、霞ヶ浦空で教官として活躍、終戦を迎えた。

 

田中少尉と「特三」

 

 田中国義少尉は1916年、佐賀県に生まれる。飛行機に憧れた少年は、予科練を目指すが身体検査で不合格となってしまった。しかし海軍内部から搭乗員になる道があることを知ると1934年6月、四等機関兵として佐世保海兵団に入団する。訓練終了後は整備員として配属されたが、操縦練習生の募集があることを知り応募、採用された。しかしこの時、整備分隊の上官の心証を悪くしてしまったため三等兵から二等兵への昇進が半年遅れた。このためその後もすべて同期よりも半年昇進が遅れるという不利益を受けてしまう。これを海軍では「特三」と称した。

 戦闘機搭乗員としての訓練を終えた田中国義一空兵は、上海に進出した13空に配属されたが、そこには黒岩利雄、赤松貞明、虎熊正等の戦闘機の神様のような先輩達が大勢いた。そこに新人として田中一空兵を始め、武藤金義、岩本徹三等の「ひよっこ」が着任したのだ。13空に着任した田中一空兵は空戦の機会に恵まれ、日中戦争において13機を撃墜する。これは日本海軍の日中戦争での最多撃墜者である岩本徹三兵曹の14機に次ぐ記録であった。

 1941年10月、内地での教員生活を終えた田中一飛曹は新たに編成された台南空に配属、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。田中一飛曹の白眉は1942年1月24日の「B-17爆撃機2機同時撃墜」であろう。この日、田中一飛曹はB-17の編隊を発見、早速攻撃をかけたが内、1機が被弾、近くの僚機に衝突して堕ちていった。攻撃は列機を率いて2機で行ったたので協同撃墜ということになる。1942年4月、内地に帰還した田中一飛曹は教員配置に就くが、582空配属となり戦地に行く時、心臓弁膜症が発覚、そのまま教員配置として終戦を迎えた。

 終戦後は建設会社社員を経たのち、1948年より独立して自動車修理を始める。その後戦友の坂井三郎中尉の紹介で雇われ社長、さらに再び独立して自動車塗装専門店を開業、1987年に廃業した。2011年5月25日他界。総撃墜数は単独14機、協同6機の合計20機以上であるという。

 

田中国義少尉関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 NHKのドキュメンタリーを書籍化したもの。零戦とその搭乗員を中心に日中戦争の零戦初空戦から太平洋戦争終戦までを描く。本書には海軍航空機搭乗員の取材を多く手掛けている神立尚紀氏が共同執筆しているため、搭乗員の生の声を多く収録することが出来ている。田中国義飛曹長は開戦初期の比島航空戦の部分で登場する。

 

まとめ

 

 田中国義少尉は、秦郁彦著『日本海軍戦闘機隊』には「B-17攻撃に特技を示した」と書かれているが本人曰く、やっかいな敵であり、得意なはずがないとのことであった。田中少尉が活躍した主な戦場は日中戦争から太平洋戦争初期までであったが、第一線を離れた後も教員として多くの教え子にその高い技術を教え続けた。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

大木芳男飛曹長の経歴

 

 1916年茨城県に生まれる。1933年機関兵として海兵団に入団後、整備兵に転科。1937年7月操練37期修了後、戦闘機搭乗員となった。1940年7月横空から12空に異動。初陣で零戦初空戦に参加した。1942年7月台南空に転属後、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。11月に内地帰還、翌年5月、251空隊員としてラバウルに再進出したが、6月16日空戦中に戦死した。

 

大木飛曹長と台南空

 

 1916年生まれは戦前に十分な訓練を受け、日中戦争で実戦を経験後、25歳で太平洋戦争に参加したという経験に関してはもっとも恵まれた生まれといってよいだろう。同年兵には零戦虎徹岩本徹三中尉、坂井三郎中尉、原田要中尉、武藤金義少尉等、戦後有名になった搭乗員が多い。操練同期はわずか5名で当時流行していた「戦闘機無用論」の影響なのかは分からないが、少数精鋭主義であったことは確かである。この5名の内、終戦まで生き残ったのは零戦初空戦に大木飛曹長と共に参加した三上一禧氏わずか1名で生存率20%という凄惨な状態であった。

 操練課程を修了した大木飛曹長は海軍航空の殿堂といわれる横須賀航空隊を経て12空に配属される。この12空は戦闘機専門部隊として中国大陸に展開していたが、ここに大木飛曹長を含む零戦隊が参加することになった。大陸進出の2ヶ月後の1940年9月13日、大木飛曹長を含む零戦隊は陸攻隊の護衛として出撃する。この出撃は「13日の金曜日」に「13機」の零戦が出撃するという縁起の悪さもあり心配する隊員もいたが、結果として撃墜27機の大戦果を挙げることとなった。ここで大木飛曹長は4機を撃墜したことになっているが、この空戦での個人撃墜数はのちに創作されたものであるといわれている。

 太平洋戦争では米軍のガダルカナル島上陸の直前にラバウルに展開する台南空に配属、有名な搭乗員である坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西澤廣義一飛曹、太田敏夫二飛曹等と共に激烈なソロモン航空戦の洗礼を受けることとなった。この台南空は大きな戦果を挙げたものの損害も多く、8月には先任下士官である坂井三郎一飛曹が負傷して内地に送還、さらに笹井中尉が戦死した。9月には歴戦の羽藤一志三飛曹が戦死、10月には太田敏夫一飛曹も戦死するなど消耗が激しく、11月には戦力回復のため愛知県豊橋に後退した。

 1943年5月には戦力の再編成が完了したため再びラバウルに進出するが、この時点で実戦経験者は大木飛曹長、西澤廣義飛曹長、奥村武雄上飛曹等10名程度に過ぎなかった。この時に新たに部隊配属された青年士官大野竹好中尉は特に大木飛曹長と親しかったようで、大木飛曹長をして「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく」と絶賛している。

 この大木飛曹長も1942年6月16日、ルンガ沖船団攻撃において未帰還となった。総撃墜数は17機といわれているが、毎度のことながら撃墜数というのはほとんど誤認であるといってよく実際の撃墜数は不明であるが、上記大野中尉の評価のように大木飛曹長は腕の立つ熟練搭乗員であったのは間違いない。因みにこの空戦では同じく台南空の奥村武雄上飛曹も未帰還となっている。

 

大木芳男飛曹長 関係書籍

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。

 それ以外にも青年士官大野竹好中尉の絶筆となった日記も貴重である。唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。大木飛曹長は上記大野中尉の日記中に登場する。

 

まとめ

 

 大野中尉の絶筆の日記をみると大木飛曹長の人柄の良さが伝わってくる。実戦経験が皆無であった大野中尉にいろいろと操縦について教えていたのだろう。その大木飛曹長は操練を修了後、横須賀航空隊勤務、最初の零戦搭乗員として戦地に進出するなど経歴からみても操縦技術が高く評価されていたのが分かる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

丹 幸久二飛曹の経歴

 

 出身年不明、1939年4月に甲飛4期に採用、1940年8月修了、同年9月より飛練9期、1941年9月に飛練修了して戦闘機搭乗員となる。その後の経歴は不明であるが、1942年2月に4空隊員としてラバウル方面に派遣され、同年4月1日、台南空に配属された。6日に吉野俐飛曹長の列機として2機を協同撃墜している。翌7日の空戦でエドワード・チュドバ操縦のA24バンシー爆撃機(SBDドーントレスの陸軍仕様)に撃墜された。陸攻隊に在籍していた小西良吉少尉の手記には20機程度の撃墜記録に達していたとある。

 

台南空の撃墜記録

 

 丹二飛曹の4空以前の所属部隊は不明であるが、この時期に4空から台南空に異動した搭乗員の経歴と同じだとすると、開戦時は千歳空に在籍していたことになる。千歳空は南洋のルオット島にあり、4空に一部の搭乗員が異動、それがラバウル方面に派遣されている。丹二飛曹がラバウル方面に派遣されたのは1942年2月なので活動期間は2ヶ月程度であるため「20機撃墜」の可能性は低い。

 判明している撃墜は2回で、併せて協同撃墜2機、連合軍側の撃墜認定の方法によれば1機撃墜ということになるが、当時の海軍戦闘機隊は小隊長機が第一撃をかけ、列機はそれを援護するというものであった。この2回の空戦時の小隊長は吉野俐飛曹長であった。吉野飛曹長は乙飛5期で日中戦争で実戦を経験した後、太平洋戦争で活躍した搭乗員である。これに対して丹二飛曹はほとんど実戦を経験していない状態であったであろう。このため丹二飛曹が撃墜した可能性もあるが、2機の撃墜も吉野俐飛曹長のものである可能性が高い。

 

丹 幸久二飛曹関係書籍

 

海軍陸上攻撃機隊―海軍中攻隊死闘の記録

高橋勝作他 著
今日の話題社 (1985/10/1)

 海軍陸上攻撃機搭乗員の手記を集めたもの。陸攻は機体の防弾装備が貧弱であったため戦闘機隊等に比べると搭乗員の生存率が非常に低かった。その中を生き残った搭乗員達の貴重な記録である。丹二飛曹のことは小西良吉少尉の手記に登場する。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 連合軍も日本軍も撃墜戦果が過大であったことが分かり、丹二飛曹の最後の空戦の状況も克明に描いている。

 

まとめ

 

 丹二飛曹は一部資料では撃墜20機とされている。しかしラバウル方面に派遣される以前に実戦を経験していないとすると(可能性は高い)、4月2日の空戦が初空戦となる。そうすると実戦に参加した期間は恐らく6日間で空戦回数は確認できる限りで3回なので20機撃墜は難しい。どのみち日本も連合軍も撃墜数は過大になりがちであるためあまり意味はない。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

日高義巳上飛曹の経歴

 

 1919年鹿児島県屋久島に生まれる。1936年佐世保海兵団に志願。1937年には重巡足柄乗組となりジョージ6世戴冠記念観艦式の招待艦乗組員としてイギリスに派遣される。1939年6月操縦練習生48期に採用され戦闘機搭乗員となる。1940年1月操縦練習生修了。1941年10月1日台南空に配属される。その後204空に異動、1943年4月18日、山本五十六大将乗機が撃墜された際には護衛を務めた。同年6月7日、「ソ」作戦に参加。戦闘中未帰還となる。

 

死亡率77%の操練48期

 

 日高上飛曹は操練48期、同期の戦闘機専修は13名で、中にはラバウル航空戦で2週間で18機を撃墜した記録を持つ荻谷信男上飛曹もいる。操練の40、50期クラスは太平洋戦争中に中堅搭乗員として酷使されたクラスで13名中、3名が開戦前に戦死、開戦一年後にはさらに3名が戦死、1943年には日高上飛曹を含む2名が戦死、1944年には萩谷信男上飛曹を含む2名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか2名(または3名)、死亡率77%というクラスであった。戦死後、当時の204空司令杉山丑衛大佐が肉親へと宛てた手紙によると撃墜20機とある。

 

日高義巳上飛曹関係書籍

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死するという壮絶な記録。

 本書は日高上飛曹の親族に取材して書いたもののようで日高上飛曹が親へ宛てた手紙、杉山司令から親への手紙等の内容が詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 日高上飛曹は山本五十六大将戦死時の護衛戦闘機6機の内の1機として有名である。日本の搭乗員全般に言えることであるが、日高上飛曹の出身期である操練のこの前後のクラスは特に酷使されており非常に生存者が少ないクラスである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した

 

石原進の経歴

 

概要

 1921年愛知県生まれ。1938年10月甲飛3期生として予科練に入隊。1940年4月飛練1期入学。1941年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。1941年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。1942年4月帰国。徳島空教員となる。1943年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。同年12月202空に異動。1944年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。同年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。

 

1921年生まれの撃墜王

 石原は1921年生まれである。この1921年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。

 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。1921年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は1921年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。

 

ラバウル航空戦に参加

 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。1943年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。

 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。

 

332空配属、そして戦後

 その後、1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できるようだ。

 

 

笹井醇一
(画像はwikipediaより転載)

 




 第一次世界大戦のトップエースは80機を撃墜した「レッドバロン」ことリヒトホーヘン男爵である。そのリヒトホーヘン男爵を目指し、東洋のリヒトホーヘンと言われたのが、海軍士官中最多の撃墜数を記録している男、笹井醇一中尉である。著名な撃墜王坂井三郎の著書『大空のサムライ』に登場することで有名だ。

 




笹井醇一の経歴

 




 1918年、東京生まれ。1939年海兵第67期を卒業。1941年11月第35期飛行学生教程を修了。台南空に配属され開戦を迎える。台南空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、4月にはラバウルに進出多くの航空戦に参加する。1942年8月26日未帰還。戦死と認定された。記録に残っている撃墜数は27機で戦死は全軍に布告され二階級特進で少佐となった。


 笹井は兵学校時代、軍鶏と呼ばれたように気の強い性格だったようだ。これは戦闘機パイロットに全体的にみられる個性のようなものだ。ただ、旺盛な闘志を持ち、気の荒い性格の人間のみが撃墜王なる訳ではない。非常に温和な性格で撃墜王となった搭乗員も多い。


 それはともかく、笹井は海軍兵学校67期。太平洋戦争の開戦前に実戦部隊に配属された新米士官であった。一つ上の66期は一年前に卒業し、実戦部隊にすでに配属されていたからこの一年は大きい。海兵67期以降は太平洋戦争という激しい戦闘で士官としての経験、技量を積んでいくしかなかったのである。


 この海兵67期、68期、69期というのは太平洋戦争において現場指揮官として最前線に立った。重宝された反面、消耗も著しかった。67期でいえば、笹井醇一(54機撃墜)、山口定夫(12機撃墜)、小林保平(10機以上撃墜)、中川健二(8機撃墜)という多くのエースを輩出したものの、戦闘機にすすんだ23名の内、20名が戦死、死亡率87%という壮絶なものだった。


 68期、69期も同様で68期は28名中23名が戦死、死亡率82%、69期は48名中生き残ったのはわずか7名であった。死亡率85%。70期になると少し下がるがそれでも死亡率77%であり、前線指揮官として活躍した61期~72期までの海兵出身士官の死亡率は尋常ではない。それはそうと笹井が所属していた台南空は、西沢広義、坂井三郎、太田敏夫等々、キラ星の如くエースを輩出した部隊であり、技量は東洋一と自負するほどであったという。


この面からみれば笹井は部下に恵まれていたともいえるが、本人の努力があったのは考えるまでもないだろう。結果、高い技量を持つに至ったようだ。さらに人望も優れていたようで部下には随分と慕われたらしい。しかしその笹井も昭和17年8月26日帰らぬ人となった。笹井を撃墜したのは米海軍のエース、マリオンカール中尉であったと言われている。


 戦歴はわずか9ヶ月ほどであるが、その間の撃墜数は、記録上は27機、両親への手紙には54機、戦史研究家が連合軍の戦闘報告書と照合した結果ではラバウル時代のみで5.5機と数字は様々であるが、多撃墜パイロットであることは間違いない(戦史研究家の調査での5.5機は台南空最多である)。

 




















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(画像はwikipediaより転載)

 

 撃墜19機のエースで活躍したのは半年足らずであった。乙飛9期出身であり、日中戦争は経験していない。太平洋戦争開戦時には弱冠20歳であった。

 

羽藤一志の経歴

 

1922年愛媛県に生まれる。1941年10月乙9期飛練を卒業して、1942年2月に南洋ルオット島の千歳空に配属される。同月4空に配属、ラバウルに進出後、4月には台南空に配属される。そこから数ヶ月間、連日の戦闘に参加するも1942年9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明となった。非常に温和な性格であった。

 

激闘ラバウル戦線

 羽藤は当初は千歳航空隊、第四航空隊、その後台南航空隊に配属された。予科練出身、終了後、千歳空、第四航空隊、台南航空隊という道は、奇しくも日本一の撃墜王といわれる西沢広義と同じコースである。初戦果は台南空で挙げた。台南空に配属された1942年4月には未だ台南空は笹井醇一、坂井三郎が健在であり、予科練の先輩西沢、太田敏夫等、名だたる搭乗員達が在籍していた。

 羽藤三飛曹は4月11日に米川正吉三飛曹と共同でドン・ブラウン軍曹操縦のP40キティホークを共同撃墜し初戦果を記録する。以降、多くの空戦で戦果を重ね、8月7日に米軍ガダルカナル島上陸、同日の空戦で坂井一飛曹が負傷して本土に送還、同月26日には笹井醇一中尉が戦死したのちも戦い続けるが、9月13日、ガダルカナル島強行偵察の二式陸偵の護衛零戦9機の内の1機として出撃、F4F28機と空戦状態になり撃墜された。

 日本側記録では9月に戦死するまで19機を撃墜したとされている。もちろん撃墜戦果は過大に報告される傾向があるため実際の撃墜数は不明であるが、戦史研究家の調査によると判明しているだけで羽藤三飛曹の撃墜数は協同撃墜合計2.81機であるという。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。

 

岩井勉中尉の経歴

 

略歴

 大正8年京都府生まれ。昭和13年8月乙6期予科練の飛練課程修了。佐伯空、大分空に異動する。昭和14年2月大村空配属。5月鈴鹿空配属。昭和15年1月12空配属。9月13日の零戦初空戦に参加した。11月本土へ帰還。筑波空、佐伯空配属。昭和17年2月大村空で教員配置。9月結婚する。11月空母瑞鳳乗組。昭和18年1月ラバウル進出。4月には「い」号作戦に参加した。作戦終了後内地帰還。訓練に明け暮れる。7月瑞鳳戦闘機隊として再度南方進出。昭和19年1月二代目台南空に配属。8月再建中の601空配属。レイテ沖海戦に参加する。11月内地に帰還、昭和20年4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。戦後は1年間兵器処理委員会に所属。経理を学び以後は経理の道を歩む。2004年4月17日死去。享年84歳。

 

瑞鳳戦闘機隊に配属

 岩井勉中尉は戦後まで生き残った数名の零戦初空戦の搭乗員の一人である。他には進藤三郎少佐、三上一禧氏がいるのみである。日中戦争で実戦経験を踏んだ上で太平洋戦争に臨んだ熟練搭乗員である。開戦時は内地で教員配置についていたが、昭和17年11月。空母瑞鳳乗組を命ぜられる。以降、岩井中尉は終始母艦戦闘機隊員として活躍することとなる。この時、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けた。岩井氏は、この言葉によって今日まで生き残って来られたという。

 岩井中尉が配属された空母瑞鳳は改造空母であり、正規空母に比べて飛行甲板が小さかった。故に岩井中尉のような熟練搭乗員が選抜されたのだろう。空母瑞鳳は空母翔鶴、瑞鶴と共に第一航空戦隊を編成、昭和18年1月にラバウルに進出する。「い」号作戦参加の後、4月には内地に帰還。7月、再度南方に進出し激戦を戦った。

 

台南空・601空に配属

 昭和19年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。この時に、亀井勉中尉のあまりの技量の高さから訓練生達から「ゼロファイターゴッド(零戦の神様)」と呼ばれたという。因みにこの部隊の先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹である。

 その後、母艦戦闘機隊である601空配属。レイテ沖海戦に参加、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。

 

岩井勉中尉関係書籍

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 岩井氏の自著。日中戦争から太平洋戦争終戦までが描かれている。空戦の話以外にも翼に神様が乗っている等の興味深い話もある。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏による零戦搭乗員のインタビュー集。岩井勉中尉へのインタビューもある。戦後の話等、自著とはまた違った話もあり面白い。

 

まとめ

 

 岩井中尉は日中戦争以来の熟練者で太平洋戦争では母艦戦闘機隊員として活躍した。総撃墜数は22機と言われるが、特筆すべきはその間に1発も被弾しなかったことだろう。恐らく陸海軍航空隊の中でもこれだけの戦果を挙げた搭乗員で被弾ゼロは皆無であろう。熟練者中の熟練者であった。

 

奥村武雄 (画像はwikipediaより転載)

 

 奥村武雄は、日中戦争から太平洋戦争中盤にかけて戦った戦闘機搭乗員で、総撃墜数は公式記録からみると30機前後であるが、一般には54機撃墜といわれている。

 

奥村武雄の経歴

 

 奥村武雄の経歴を簡単にみてみよう。奥村は、大正9年2月27日、福井県に生まれる。昭和10年6月呉海兵団に入団。昭和13年2月第42期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。9月卒業。大分空で戦闘機専修教育を受け、大村空に配属される。昭和14年9月14空に配属され日中戦争に参加、実戦を経験する。その後、大分空で教員配置ののち、昭和17年空母龍驤戦闘機隊に配属される。

 第二次ソロモン海戦で母艦龍驤が撃沈されたため、ラバウルに展開している台南空に転属する。昭和17年12月本土に帰還。大分空で教員配置につく。昭和18年5月201空に配属、7月にはブーゲンビル島ブイン基地に進出する。9月14日には1日で10機撃墜という日本海軍の最高記録を樹立するが、8日後の9月22日、空戦中に未帰還となった。

 大正9年生まれ、つまりは1920年生まれ、海兵団に入団したのがなんと15歳、操縦練習生を卒業したのは18歳というかなりの若手。太平洋戦争開戦時21歳といえば通常なら飛練を出たての新米だが、この奥村武雄、もう一年以上の実戦経験を持つベテラン搭乗員であった。1920年生まれといえば、有名な撃墜王西沢広義、杉山輝夫、渡辺秀夫、前田英夫、小町定等がいる。甲種予科練出身者以外はほとんど実戦経験がない。

 特に操練出身者は日中戦争当時はまだ訓練生であった。経歴をみれば分ると思うが、奥村は、内地での教員配置が多い。戦地にいたのは日中戦争の1年数か月、龍驤乗組からの半年、201空時代の3ヶ月。操練卒業から5年間の部隊経験があるが、実戦部隊に配属されていたのは、トータルで2年強。残りは教員配置だった。

 その上、戦争中盤で戦死してしまっているので注目されることが少ないが、一日10機を撃墜するという前代未聞の記録を打建てた搭乗員である。空戦技術に絶対的な自信を持ち、先輩の搭乗員である樫村寛一や羽切松雄などと空戦をしても負けなかった三上一禧が唯一、後方に付かれ振り払うことが出来なかったのがこの奥村武雄だったそうだ

 空戦に天性の勘を持つという三上のバックを取った奥村は三上の3歳年下で、操練では5期下であった。奥村の空戦の腕がどれだけのものだったのか分かるだろう。但し、撃墜数の54機は誇張が含まれていると言われている。研究者によっては30機前後としているが、そもそも第二次世界大戦の撃墜数自体が誤認と希望的観測を多分に含んだ誇張された数であるのでカウントすることにあまり意味はないだろう。梅原氏の研究のような形で判明すればそれはそれで興味はあるが。

 

 

奥村武雄関連書籍

 

神立尚紀『証言零戦生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

神立尚紀『ゼロファイター列伝』の文庫化。零戦初出撃に参加した搭乗員、三上一禧氏、日高盛康氏等の貴重なインタビューが載っている。その他にも吉田勝義氏など、自身の経験を書籍化していない元搭乗員達のインタビューがあるのは貴重。

 

 三上一禧氏のインタビューでパイロットには天性の勘があるという話は面白い。天性の勘があると自任する三上氏は、圧倒的に飛行時間が多い片翼帰還で有名な樫村寛一少尉、羽切松雄氏にすら負けなかったという。しかし後輩である後の撃墜王奥村武雄上飛曹は空中戦訓練の際、どうしても振り切ることが出来なかったという話は面白い。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。本書では台南空での奥村武雄上飛曹の空戦の様子が分かる。天才と言われた奥村上飛曹でもやはり誤認戦果は多かったようだ。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

太田敏夫
(画像はwikipediaより転載)

 

 坂井三郎『大空のサムライ』に登場し一躍有名になった零戦搭乗員である。太平洋戦争開戦後に初空戦を経験し、戦死する1年弱の間に34機を撃墜したといわれている。最後の空戦では連合軍の7機撃墜のエースを撃墜したのち、連合軍の6機撃墜のエースフランク・ドル―リー中尉に撃墜され戦死した。

 

太田敏夫の経歴

 

 大正8年長崎県に生まれる。高小卒後、昭和10年佐世保海兵団に入団。昭和14年9月、46期操練を卒業後、大村空、ついで谷田部空に配属される。昭和16年6月第12空に配属。日中戦争に参加する。10月台南空に異動して開戦を迎える。初期の航空撃滅戦を戦い、昭和17年4月、台南空の一員としてラバウルに進出する。初期のガダルカナル航空戦を戦ったが、10月21日空戦中に戦死した。

 中国戦線に行ったのち、太平洋戦争では台南航空隊隊員として航空撃滅戦に参加、ラバウルに進出する。そこで撃墜を重ねるが、1942年10月に戦死してしまう。この一年足らずの間に34機を撃墜したというから相当なものだったのだろう。西沢広義ですらこの間の撃墜は30機だったと記憶している。坂井が28機、笹井が27機だったと思うので太田の34機というのは相当な数であったといえる。

太田が卒業のは操練46期であるが、この期は珍しく撃墜王は太田以外には出ていない。そしてこの46期には太平洋戦争を生き残った者は一人も居なかった。太田も1942年10月21日行方不明、戦死と認定された。すでに太田が戦死する以前に46期は9名中5人がすでに戦死していた。近年、調査によって太田敏夫の最後が明らかになった。太平洋戦争の熾烈な空中戦の中で最後が判明するというのは珍しいことだ。太田が戦死した10月21日、太田はガダルカナルへの爆撃機の援護作戦に参加し、米軍機との空中戦となった。

太田はすぐに一機を撃墜したが後方に付かれたため上昇しようとした時米軍機の弾が命中し太田は不帰の人となった。因みに太田が撃墜したのはハミルトンという7機撃墜のエースで、太田を撃墜したのはフランク・C・ドルーリー中尉という6機撃墜のエースであった。太田の戦死後の翌11月、台南航空隊は戦力の再編成のため内地に帰還した。

 

坂井三郎01 (画像はwikipediaより転載)

 

 日本でもっとも有名な撃墜王。大空のサムライこと坂井三郎である。坂井は海兵団から操縦練習生を経て最終階級は少尉、戦後に何だか分らない昇進で中尉となったという正真正銘の叩き上げ軍人で、昭和18年、大村航空隊教員時代に多撃墜搭乗員として杉田庄一と共に表彰されている熟練搭乗員である。

 

坂井三郎の経歴

 

 大正5年8月26日佐賀県に生まれる。昭和8年5月佐世保海兵団入団。9月戦艦霧島乗組となる。昭和10年海軍砲術学校入校。昭和11年5月戦艦榛名乗組。昭和12年3月、第38期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊する。同年11月30日第38期操縦練習生を首席で卒業。昭和13年4月大村空に配属される。同9月第12空配属される。昭和15年大村空で教員配置。昭和16年4月、再び第12空に配属され、同10月台南空に配属される。昭和17年4月ラバウル進出、連日の航空戦に参加。同8月、ガダルカナル上空の空戦で負傷。内地送還。横須賀海軍病院、佐世保病院での療養を経て、昭和18年4月大村空配属。昭和19年4月横空配属。7月横空戦闘701飛行隊配属。11月203空配属。12月343空配属。昭和20年再び横空配属で終戦を迎える。平成12年9月22日逝去。84歳。

 坂井三郎を有名にしたのは戦後に書かれた坂井三郎空戦記録、そしてそれを元にした『大空のサムライ』であろう。さらに90年代まで執筆を続けた。主な著書は『大空のサムライ』『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』等がある。  坂井は上記のように操縦練習生38期を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜されている。38期の同期には撃墜50機と言われる岡部健二がいる。坂井は日中戦争に参加するも実戦に参加することはほとんどなかったようであるが、1機を撃墜している。太平洋戦争が始まると台湾の台南航空隊に配属され、開戦と同時にフィリピンから始まる東南アジアの航空撃滅戦に参加している。

 航空撃滅戦を行ったのは台南航空隊と第3航空隊であるが、第3航空隊はチモール島クーパン基地へ、台南航空隊は17年4月、ニューブリテン島ラバウル基地へ展開した。当初はニューギニア東部のラエ基地に展開してポートモレスビー攻撃に参加した。1942年8月にガダルカナルに米軍が上陸すると台南空はすぐさま攻撃に向かうがここで坂井は負傷してしまう。記録によるとここまでで少なくとも33機は撃墜しているようである。因みに1942年8月7日のガダルカナル攻撃では坂井は4機撃墜を報告している。ヘンリーサカイダ氏の調査でも4機は誤認だとしても1機は確実に撃墜しているとのことだ。

 トップエースである西沢広義は6機を撃墜しており、日本軍の総撃墜数は48機、損害は12機となっている。しかし米軍の損害は実際には12機であり、ベテラン搭乗員で編成されたこの時期の零戦隊であっても4倍の誤認戦果を出してしまっている。因みに日本軍の損害は陸攻5機、艦爆5機、戦闘機2機である。撃墜した米軍機のほとんどが戦闘機であったとすれば日本軍は相当優勢であったといえるが、損害の数だけを比較するのであれば互角の戦いであり、搭乗員の死亡者で比較すれば惨敗である。

 坂井は目を負傷してしまったためその後はほとんど前線に出ることは無かったようである。内地帰還後は大村航空隊で教員勤務が続いた。1944年5月横須賀航空隊へ転勤し、6月には八幡空襲部隊として硫黄島に進出する。そこで迎撃戦に参加した。坂井氏はここで特攻出撃を命ぜられているが、特攻出撃後、空中戦を行い、同じく撃墜王である武藤少尉と共に帰還している。1944年12月、有名な343空、通称「剣」部隊に転出するがこれは極短期間であったようだ。1945年には再び横空付となり終戦を迎える。

 総撃墜数64機としているが、公文書で確認できるのは30機前後と言われている。しかし坂井の上官である笹井醇一が親に書いた手紙に坂井の撃墜数を50機としていることから一概に嘘であるとは言えない。戦後の坂井に関してはあまり良くない噂等もあるが、日中戦争以来のベテラン搭乗員であり、海軍航空隊の勇者であることは間違いない。

 

坂井三郎関連書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。

 

坂井三郎『大空に訊け!』

坂井三郎 著
光人社 (2000/11/1)

 週刊プレイボーイ紙上で連載していた坂井三郎氏の悩み相談集。読者から寄せられる様々な悩みに坂井氏が答えていく。坂井氏の答えは、死線をくぐり抜けてきた人間が持つ圧倒的な説得力と同時に非常に論理的かつ広い視野から答えている。世間一般とは違う考え方をしている部分が多いが、それも論理的であり、正論である。実は私は坂井氏の著作の中で本書が一番好きである。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿があった。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

 

西澤廣義の経歴

 

 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。

 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還。昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動。

 同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。

 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。

 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。

 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。

 当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。

 さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。

 

西澤廣義関連書籍

武田信行『最強撃墜王』

 本書は西沢氏のかなり綿密な取材のを基に執筆されている。西澤氏の親族への聞き取りや西沢氏自身が書いたノートなどを参考に書いているため信ぴょう性は高いと感じる。西澤廣義の記録としてはこれ以上はない秀作。

 

吉田一『サムライ零戦記者』

 戦場カメラマンとしてラバウルに進出した吉田一氏の著作。太平洋戦争初期の比較的日本軍が優勢だった時期のラバウルだが当初から激しい戦闘が繰り広げられていたのが分かる。吉田氏自身、かなり腹の座った男だったようで、陸攻に同乗したりもしている。興味深いのは、のちに撃墜王を綺羅星の如く排出するようになる台南空の記録だ。

 のちにエース列伝を賑わせることになる、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等の台南空のエースパイロット達の素顔がみえる。吉田氏は人懐っこい性格だったようで、彼らも本心をさらけ出している。「俺は何機落としたら表彰されるのかな」と不満げな顔の西澤廣義などの描写が面白い。西澤廣義やその他のパイロットについても描写があるので零戦パイロット好きには外せない。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 私が好きな海軍戦闘機パイロットの一人角田和男氏。エースリストでは撃墜数9機となっていたはずだ。実際に何機だったのかは分からないが、映画やアニメと違って実際には、ほとんどのパイロットは1機も撃墜しない。その中で敵機を1機でも撃墜したというのはすごいことだ。著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。本書の比島の部分に西澤廣義と岩本徹三という二大エースが議論になる部分がある。巴戦(ドッグファイト)に参加しない岩本徹三に対して西澤は、

 

「岩本さん、それはずるいよ」

「でも俺が落とさなきゃ奴ら基地まで帰っちゃうだろ」

 

 それぞれの戦い方が分かるやりとりが面白い。

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。それ以外にも唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。

 

野村了介ほか『空戦に青春を賭けた男たち』

本書は月刊『丸』に掲載された戦闘機パイロットたちの手記を集めたもの。野村了介や柴田武雄という高級士官の手記もある。特にパイロットということで戦闘303飛行隊長であった岡本晴年少佐、母艦戦闘機隊のエース斎藤三朗少尉、その他あまり記録を残していない柴山積善氏等も執筆している。安倍正治氏の手記に西澤廣義とのやりとりについて詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 以上、最強撃墜王西澤廣義についての概略と参考書籍について書いてみた。ネットで調べてもそれなりの情報は出て来るが、さらに詳しく知りたい方は本を読むことをおすすめする。

 

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